野村町の町歩き(友の会現地学習会)

9月 16日 月曜日

本日は博物館友の会の現地学習会でした。テーマは「四国西予ジオパーク~野村・城川編~」。午前中は、西予市野村町野村地区の町歩き。かつての庄屋屋敷、大正時代の役場跡、三嶋神社等をまわりました。近世、近代にどのように野村の町が形成されていったのか、古地図や地質図を手にしながら学芸員が説明し、昨年の豪雨で被災した町並みを歩きました。写真は三嶋神社。豪雨災害では浸水高3.7mとなり社務所も流されてしまいましたが、神社の由緒や文化財について学ぶとともに復旧の状況を宮司さんからもご説明いただきました。#愛媛県歴史文化博物館 #西予市 #野村町 #西日本豪雨 #復興

令和元年度の博物館実習始まる

8月 20日 火曜日

令和元年度の博物館実習が始まりました。当館では7名の実習生を受け入れ、8月20日(火)から8月25日(日)までの6日間行われます。
博物館学芸員の資格を取得するには、大学などで様々な単位を取得する必要があります。そのひとつに「博物館実習」があります。
初日は午前中に博物館の概要説明・施設見学を行い、博物館施設の全体像を把握しました。また、実際に最近収集した資料を見ながら、博物館の資料収集の実態について紹介しました。
午後からは、歴史資料(ハガキ、切手類)の整理実習を行いました。また、文書箱を作成しました。



初日ということで実習生はまだ緊張はとれないようですが、普段見られない博物館の裏側や、学芸員の専門業務の実際、収蔵する様々な実物資料などを見て、いろんな経験をして多くのことを学んでもらえたらと思います。暑さが続きますが、体調にも気を付けながら、皆さん頑張ってください。
  

空襲体験の聞き取り~昭和20年5月の宇和島初空襲~

8月 12日 月曜日

74年前長崎に原爆が投下された今月の9日、金田八重子さん(昭和9年生、87才、元市立宇和島病院総婦長、宇和島市在住)に昭和20年5月10日の宇和島初空襲についてお聞きする機会を得たので紹介します。

金田さんは当時住吉国民小学校の6年生。父親は出征しており、母親、3年生の弟、3才の妹の4人で朝日町三丁目(現在の二丁目)に暮らしていた。昭和20年5月10日、警戒警報に続いて空襲警報がでていたが、防空壕には入らず戸外で母親とB29を見ていた。B29はそれまでも宇和島上空を通過していたが、まだ戦災にあったことがなかったためのんびりとしていた。その日は快晴。3機のB29が青空に銀翼を輝かせながら、鬼ヶ城に向けて飛んでいった。そして、母親と家に入るや否や「ドカン!」とものすごく大きな音がした。
鬼ヶ城に向けて飛んだ3機の内、1機が引き返して爆弾を投下したのだ。爆弾は金田さんの隣、鈴木マオラン工場(繊維植物のマオランから紐を作る)を直撃した。そこには金田さんが本来避難すべき防空壕があった。何が起こったのか?恐怖を感じながら窓をのぞくと、防空壕に入っていた人たちが外に吹き飛ばされ亡くなっていた。すぐに家族の安否を気遣う人たちが、爆風で膨れあがった遺体を探していた。仰向けの遺体は顔を見て、うつ向けの遺体は起こしながら確認していたが、そのとき流れた鼻血の赤色が今も脳裏に焼き付いている。
金田さんは2階にいた弟と妹の無事を確認した。幸いにもその防空壕に入っていなかったために、家族4人が助かった。一息して口の中に砂っぽさを感じたため唾を吐くと、黒くすすけたものが混じっていた。金田さん宅は倒壊を免れたものの、大きな石が屋根を突き破って押入れに落ちていたり、壁土などは崩壊していたりしており、住むことができる状態ではなかった。金田さん宅がある一区画の左端の家々は倒壊していた。その中には、友達の家に遊びに行っていて助かった3年生の男の子もいて、「家族と一緒に死にたかった」と泣いていた。
金田さん一家は須賀川に架かる芝橋を渡り、藤江の防空壕に避難した。夕方、空襲を聞きつけたのか、大浦に住む母方の実家がリヤカーを引いて来てくれた。この日の空襲は焼夷弾ではなく、爆弾であったため、火災はおこらず大事なものは取り出すことができた。以後、金田さんは大浦から住吉小学校へ通学したが、当初は空襲で亡くなっていた事になっていた。

この空襲の死者は119人。その後の空襲と比較しても一番多い死者数です。金田さんは宇和島空襲を記録する会の一員として、現在もお元気に講演されています。重いテーマにもかかわらず、温和なお人柄が聞く者を優しく包み込みます。戦争の悲惨さと平和の大切さを考える1日となりました。


              図1 昭和20年5月10日の空襲範囲(赤)(黒枠は図2)
                 (『宇和島の空襲』第4集所収の地図に筆者が加工)


              図2 金田さん宅付近と避難経路
                 (聞き取り調査から筆者作成)


              金田八重子さん

模擬原爆パンプキンと愛媛県

8月 9日 金曜日

昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。6日の広島に続く2度目の投下でした。広島型原子爆弾はウランを原料とし、「リトルボーイ」(長さ3m、直径0.7m、重さ4t)と称されましたが、長崎型原子爆弾はプルトニウムを原料とし、「ファットマン」(長さ3.25m、直径1.52m、重さ4.5t)と称されました。
実は、アメリカは広島・長崎に原爆を投下する以前に、訓練として長崎型原爆と同形・同重量の模擬原爆(通称パンプキン)を投下していました。原爆を投下した際、投下したB29も150度急旋回をして危険空域から離脱する必要があったからです。7月20日~8月14日にかけて30都市にパンプキン49発が投下され、1,600人以上の死傷者が出ました。  
その中には愛媛の3都市が含まれています。7月20日に投下された新居浜市(2発)・西条市(1発)と8月8日に投下された宇和島市(1発)です。新居浜市の住友化学工場・同軽金属工場、西条市のクラレ西条(資料上は住友軽金属工場)、宇和島市の海軍航空隊(資料上は宇和島組立工場)に投下されました。
原子爆弾は広島・長崎だけの問題ではありません。愛媛県ともパンプキンを通じて深い関係があるのです。核兵器のことを身近な問題として考えてみましょう。

焦土と化した宇和島と海軍航空隊(昭和20年8月8日撮影) 加工データ当館蔵(黄字は加筆)/原資料アメリカ公文書館所蔵

「我今より突撃に転ず」~特攻隊員の兄を想う~

8月 3日 土曜日

戦後75年を前にして、当館では戦時資料の収集だけでなく、戦争体験者や遺族からの聞き取り調査を重視しています。今回は当館のボランティア真島和男さん(昭和16年生)からお聞きしたお話を紹介します。
和男さんの兄、真島豊さん(昭和20年没、享年20歳)は予科練を卒業して各地を転戦後、国分基地(鹿児島県霧島市)に配属されました。国分基地は陸軍の知覧基地(同県南九州市)や海軍の鹿屋基地(同県鹿屋市)などと並ぶ特攻基地でした。昭和20年4月17日午前7時、豊さんは艦上爆撃機「彗星」に乗り、他の5機とともに敵機動艦隊に向け国分基地を飛び立ちました。そして、午前9時38分、奄美大島の東、喜界島の南南東約130㎞で「我今より突撃に転ず」と発信、二度と基地に戻ることはありませんでした。豊さんが特攻隊を選んだ理由については、台湾から日本へ向かう船に乗っていたとき、敵の攻撃を受けて多くの仲間が亡くなったにもかかわらず、豊さんは生き残ったことが関係しているのではないか、と伝えられているそうです。
国分基地では427名の特攻隊員が戦死しました。現在、霧島市では国分基地特攻隊員戦没者慰霊祭が行われていますが、豊さんの面影を知らない和男さんは、これまで慰霊祭に参加せず、別の兄が参加していたそうです。しかし、その兄も高齢となったため、一昨年から和男さんも一緒に参加するようになりました。和男さんは、「地元の人々に感謝している。慰霊祭に小中学生も参加して、平和の誓いの場となっていることがうれしい」と述べられます。
豊さんはどのような思いで「我今より突撃に転ず」と発信し、操縦桿を敵艦隊に向けたのでしょうか。また、遺族はどのような思いでこれまで過ごしてきたのでしょうか。いろいろなことを考えさせられました。今回お話いただいた和男さんに感謝するとともに、戦争体験者や遺族がご健在な今のうちにこそ、いろいろなお話を聞いておかなければならないと再認識しました。

真島豊さん


江田島での豊さん(左)と同僚


慰霊祭での和男さん(右)


※ 写真は真島和男さん提供

今年も開催!「教員のための博物館の日 2019」のお知らせ

7月 4日 木曜日

教員のための博物館の日2019チラシ表
当館では、今年も8月22日(木)に「教員のための博物館の日」を開催予定です。この講座は、学校の先生方に博物館に足を運んでいただき、博物館のことをもっと知っていただくものです。
対象は教職員の方、教員を目指す学生の方、社会教育施設職員の方です。本講座に参加ご希望の方は、所定の申込書に必要事項をご記入の上、当館学芸課宛てにFAXをお送りください。
なお、今年はれきハコを活用した実践講座(講師:鬼北町立泉小学校元校長)を予定しており、随時、内容は変更しています。また、講座を選んで受講することも可能です。
教員のための博物館の日2019チラシ裏

松山市制130周年!

6月 28日 金曜日

明治21(1888)年4月25日「市制」が公布され、内務省は全国39ヵ所を指定しました。これにより次々と市制が施行されましたが、松山市の市制施行は翌22年12月15日。今年は松山市制130周年にあたります。今回紹介する資料は旧市街地100町を中心に誕生した松山市の地図です。現在の市域とくらべると、松山城を中心にごく狭い範囲であったことがわかります。よく見ると、兵営、裁判所、警察署などは見えますが、明治21年10月28日外側(現松山市駅)~三津間に開通した伊予鉄道は描かれていません。そのため、この地図は「市制」が公布された明治21年4月25日から伊予鉄道が開通する10月28日までに描かれたものと思われます。
市制当時の松山市は戸数7,519戸、人口32,916人。「市制」の標準人口である25,000人を大きく超えていました。明治23(1890)年、30人の市会議員(任期6年)が選挙され、松山藩士族で伊予鉄道社長・県会議長の小林信近(1842~1918)が議長に選ばれました。「市制」によると、市長(任期6年)は市会が推薦した3名の内から内務大臣が天皇に上奏し、天皇の裁可を経て選任されました。松山市会は市長候補に小林信近・土屋正蒙(温泉・風早・和気・久米郡長)・木村利武を選びましたが、小林と土屋が固辞したため、市会は内務大臣山県有朋に対して木村が最適との意見を添えて申請し、天皇の裁可を得ました。木村(1850~1914)は松山藩士族で、市会議員に選出されるとともに松山52国立銀行取締役をつとめていました。
4月1日、湊町4丁目の円光寺を仮庁舎として市役所が開庁しました。職員は書記6人、属22人、使丁10人。市長の年俸は500円(明治27年の国家公務員高等官初任給50円)、議員は名誉職でした。翌年出淵町~南堀端の753坪を買い入れ、明治25年に新庁舎の竣工式が行われました。市と町村は色々な面で異なりましたが、監督官庁の違いもその一例です。市は第1次に府県知事、第2次に内務大臣が監督するのに対して、町村は第1次に郡長、第2次に府県知事が監督しました。実質的に市は郡と対等に見なされたのです。以後愛媛県では大正時代まで松山市が唯一の市制都市でした。

愛媛県松山市之図


城山周辺(拡大)

最後の宇和島空襲戦没者追悼平和祈念式行われる

5月 11日 土曜日

参加者


献花


追悼曲の合唱


献花された祈念碑


宇和島市が空襲を受けた5月10日にあわせ、和霊公園で第31回宇和島空襲戦没者追悼平和祈念式が行われました。式典は、「平和の鐘」の鐘打に始まり、追悼曲「平和の鐘の歌」が合唱されました。そして、宇和島空襲を記録する会代表の黒田美知子さんが挨拶され、参加者約110名が祈念碑に献花しました。祈念碑には終戦までの空襲で亡くなった272人の名前が刻まれています。
74年前の5月10日、宇和島市は1機のB29による空襲で115名が死亡しました。その後も7月13日(死者28名)と29日(同100名)に大きな空襲を受け、市街地の約7割を焼失しました。終戦までに278名が死亡しました。(死者数は『宇和島市誌』による)平成元年に建設された祈念碑には、故水野政子さん(当時記録する会代表)の尽力によるもので、97.8%の氏名が刻まれており、今では祈念碑自体が貴重な資料です。
戦後74年が経ち、戦争の悲惨さをどのように伝えるか、が大きな課題となっています。平成元年に始まった宇和島の祈念式も主催者の高齢化、参加遺族の減少(平成元年62名、今年5名)などから今年が最後となるそうです。祈念式の様子を撮影しながら、戦争体験者とともに生きる時間の短さを実感するとともに、聞き取り調査や戦時資料の調査を急ぎ、平和の大切さを学ぶ活動に活かしたいと思う一日でした。

新元号「令和」のポストカード

5月 1日 水曜日


「令和」の時代が始まりました。新元号お祝い記念。万葉集ポストカード、共通観覧券ご購入の方にプレゼントしています。

※新元号「令和」の出典『万葉集』巻五(愛媛県歴史文化博物館蔵)は5月31日まで常設展示室にて展示しています。
参考:4月1日のブログ「【速報】新元号「令和」の出典『万葉集』を展示します。」

佐田岬半島の裂織と絣木綿

4月 28日 日曜日

愛媛県佐田岬半島に伝わる裂織の上衣です。経(たて)糸は木綿糸、緯(よこ)糸に細かく裂いた古木綿布が用いられたリサイクル織物です。現地で「ツヅレ」とか「オリコ」などと呼ばれています。再生された裂織の布地は丈夫で暖かく、農・山・漁村の仕事着などに用いられました。

佐田岬半島の裂織は、袖や襟の部分に絣木綿布を用いたものや、緯糸に絣木綿の裂布が用いられ、紺絣の白地や色絣の色地が断片的に見え隠れする独特な身頃の色合いとなっているものも多く見られます。

佐田岬半島は、伊予絣や久留米絣など、西日本の木綿絣の産地近郊に位置し、裂織の材料に絣木綿が大量に使用されていることから、裂織は絣の普及以降の産物として位置付けられます。

常設展示「愛媛のくらし」に展示する佐田岬半島の裂織

緯糸の材料に絣木綿を用いた佐田岬半島の裂織

衿や袖が絣木綿で作られた佐田岬半島の裂織

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