2026年3月20日
参考資料として、ブログ「昭和時代の四国遍路道中図から見た遍路事情」(全120回)の総目録を作成しました。なお、タイトルの再掲のみ行っています(リンクは設定しておりません)。
【発心の章】(第1回~第30回)
001愛媛で発行された心臓薬本舗渡部高太郎版/002四国の上陸港 /003札所の本尊御影/004番外霊場/005郵便局/006鉄道・予讃線/007鉄道・宇和島鉄道/008鉄道・伊予鉄道/009坂・峠/010「四国遍路道中図」の種類/011実際に使用された「四国遍路道中図」/012御詠歌/013四国に渡る汽船と巡拝方法/014海の遍路道 /015旅の心得/016弘法大師の御影/017川を渡る/018弘法水/019大宝寺道と里程/020通夜堂/021明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路/022乗合自動車/023四国遍路の楽しみ・道後温泉/024高浜港と太山寺/025高浜港と瀬戸内海航路/026前札所/027横峰寺への巡拝/028心臓薬本舗渡部高太郎版と広告性/029切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図/030続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図
【修行の章】(第31回~第60回)
031巡拝用品店/032都市と観光/033撫養港と遍路支度/034四国遍路と鳴門渦潮/035讃岐案内/036四国遍路道中図の影響/037四国遍路道中図の祖型/038四国遍路道中図の系統/039四国遍路の心得書/040/道中の宝/041戦後の「四国遍路道中図」/042四国4県のイメージカラー/043「四国霊場礼讃地図」掲載の四国遍路道中図/044「四国霊場礼讃地図」掲載の四国遍路道中図その2/045「四国遍路道中図」の入手方法/046伊予の案内情報/047観自在寺と平城天皇/048奥の院/049第40番の奥の院/050『絵入四国八十八ヶ所案内記』に収録された四国遍路道中図/051改正四国八十八箇所霊場案内/052小豆島八十八箇所霊場地図と四国遍路道中図/053松山の人気スポット・石手寺/054太山寺道の距離表記/055日本八景の室戸岬/056十夜ヶ橋と四国遍路/057雪の遍路と鴇田峠/058宇和海と四国遍路①自動車遍路の人気スポット・法華津峠/059宇和海と四国遍路②遍路が利用した宇和海の航路/060宇和海と四国遍路③乗合馬車
【菩提の章】(第61回~第90回)
061宇和海と四国遍路④ミカンとお接待/062南予地方と牛馬ゆかりの佛木寺/063宇和海と四国遍路⑤遍路装束/064失われた番外霊場「龍の岩屋」①/065宇和海と四国遍路⑥南予地方の観音霊場・明石寺/066失われた番外霊場「龍の岩屋」②/067関所寺・立江寺/068災害と遍路のリスクヘッジ/069法輪寺の涅槃釈迦如来像/070善通寺の五重塔/071松山地方の七ヶ所参り/072四国霊場と神社①徳島・高知/073四国霊場と神社②愛媛・香川/074遍路の所持品/075阿波一国詣り/076仙龍寺と中務茂兵衛/077衛門三郎伝説/078西林寺道の文殊院と小村大師/079雨天と歩き遍路/080松山と九州を結ぶ航路の廃止/081四国遍路の土産・もぐさ(艾)/082金剛福寺と足摺七不思議/083観音信仰と補陀落渡海/084四国遍路絵図から見た石鎚山/085「前は神、後は仏」の前神寺/086金毘羅参詣と四国遍路/087讃岐遍路道の巡拝ルート/088お接待とお米/089社会と人生の縮図の遍路宿/090太山寺参道の茶屋
【涅槃の章】(第91回~第120回)
091戦争と四国遍路①御詠歌から軍歌へ/092戦争と四国遍路②「出征軍人武運長久祈願納経帳」/093戦争と四国遍路③戦争がもたらす悲劇/094智証大師と乃木将軍ゆかりの金倉寺/095吉祥寺の成就石/096岩屋寺と逼割禅定/097圓明寺の銅製納札/098四国霊場の松/099元三大師おみくじ/100三坂峠からの絶景/101バス利用の遍路道と後藤信教の活動/102屋島と屋島寺/103遍路の足となった、小さな汽船「大和丸」/104延命寺の梵鐘/105札所の名称「圓明寺」と「延命寺」/106厄除け祈願所としての薬王寺/107四国霊場の開創/108四国遍路と紅葉/109真念と四国遍路/110立木仏の霊場「生木地蔵」/111納経帳に見る第41番稲荷山龍光寺/112弘法大師御入定1100年記念と自動車遍路/113石鎚山登拝/114四国を巡った西行法師/115太山寺の真野長者伝説/116「厄除け大師」の遍照院と延命寺道/117四国遍路で授かった「お守り」/118「四国遍路道中図」とポケット版「四国八十八ヶ所霊拜道程図」/119四国遍路と弥勒信仰/120四国八十八箇所霊場とは
全120回の道のりを振り返り、遍路の行程になぞらえて四つの章に整理しました。私自身の学びの軌跡でもあります。皆様の何かのご参考になれば幸いです。長きにわたるご愛読に、深く感謝いたします。
令和8年3月吉日
IMAKEN(今村賢司)
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2026年3月13日
昭和時代(主に戦前)に四国内で発行された「四国遍路道中図」(浅野本店版、江口商店版、光栄堂版など)の地図面の下部には、次の文章が掲載されています(写真)。
「其れ四国八十八ヶの霊利に大悲胎蔵四重の円壇に志て、八十八使の煩悩業障を断除し、八十八尊の三昧功徳を成就す。是れ遍照金剛の大慈大悲の御誓願なり。一度順拝の輩は病苦を去り万の難を除け未来成仏疑ひなし。亦辺路に道を教へ一夜の宿をかし一粒一銭を施す者は寿命長久にして諸願成就すべし。」(句読点は筆者)
「四国遍路道中図」(江口商店版、当館蔵)
要約すると、「四国八十八箇所霊場は、密教の深い教えに基づいた聖なる場所です。ここを巡ることで、人間が持つ八十八の煩悩を断ち切り、仏尊が持つ八十八の徳を授かることができます。これは弘法大師空海の深い慈しみの願いによるものです。一度でも参拝する者は、病の苦しみや災難から逃れ、来世でも仏になれることは間違いありません。また、お遍路さんに道を教えたり、宿を貸したり、わずかなお布施をする「お接待」を行う者は、寿命が延び、願いが叶うでしょう。」といった意味になります。
この文章の中で注目したいキーワードは、①「大悲胎蔵四重の円壇」(だいひたいぞうしじゅうのえんだん)、②「八十八使の煩悩」と「八十八尊の三昧功徳(さんまいくどく)」、③「遍照金剛(へんじょうこんごう)」、④「一粒一銭を施す者」です。
①「大悲胎蔵四重の円壇」
大悲胎蔵四重の円壇とは、密教の世界観を表す「胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)」を指しています。胎蔵界曼荼羅は「大日経」に基づき、大日如来の慈悲(大悲)が万物を育み、悟りの心が世界に広がる様子を表わしています。つまり、四国八十八箇所霊場を「大悲胎蔵四重の円壇(だいひたいぞうしじゅうのえんだん)」と捉え、四国の四つの県(阿波・土佐・伊予・讃岐)を、曼荼羅の四つの階層に見立て、「四国全体が巨大な修行の道場である」いう壮大なスケールを表現しています。
②「八十八使の煩悩」と「八十八尊の三昧功徳」
八十八箇所の札所を巡ることで、人間が持つとされる八十八種類の心の汚れ(煩悩)を一つずつ消し、代わりに、それぞれの札所に宿る仏尊の智慧や功徳を得ることを意味します。
「八十八」という数については諸説ありますが、釈迦が説いたとされる「見惑(けんわく)の八十八使」という説法が根拠になっていると考えられています。「見惑」とは、理屈や考え方の間違いによる迷いのことです。空海の『十住心論』の中にも「迷理の煩悩を名づけて見惑となし、事に迷うものを名づけて修惑となす。迷理の煩悩に八十八あり」という記述があります(真鍋俊照『四国遍路を考える』NHK出版、2010年)。
③「遍照金剛(へんじょうこんごう)」
遍照金剛は密教で宇宙の根源仏である大日如来の別称で、光明があまねく照らし、金剛のように不滅であることを意味します。また、空海が唐で密教を授けられた際の灌頂(かんじょう)名であり、弘法大師の尊称です。四国遍路という巡礼のシステム自体が、弘法大師が人々を救うために立てられた誓い(誓願)であることを示しています。
④「一粒一銭を施す者」
「お接待」の精神を説いています。自身が四国遍路を行うことができなくても、巡礼者(お遍路さん)を助けることは、巡礼するのと同等の功徳があり、長寿や願いの成就につながるとされています。
このように、四国内で発行された四国遍路道中図には、四国を大悲胎蔵四重の円壇になぞらえ、八十八箇所霊場を巡る四国遍路の意義について紹介されています。
四国八十八箇所を巡礼する四国遍路はスタンプラリーのような旅ではなく、弘法大師の誓願のもとで、四国を巡るプロセスそのものが「自己浄化」と「仏との縁結び」であり、巡礼者だけでなく、それを支える地域住民などの人々も救済の対象に含まれ、今日まで四国遍路に「お接待の文化」が育まれていることがわかります。
大悲胎蔵四重の円壇の記載は、江戸時代の四国へんろ絵図にも確認されます。その意味において、近代の四国遍路道中図は伝統的な四国へんろ絵図の系譜に位置付けられます。
追伸 三月末の退職を機に、本ブログ「昭和時代の四国遍路道中図から見た遍路事情」の連載(全120回)も本日で最終回とさせていただきます。書くことを通じて私自身も研鑽を積むことができました。これまでのご愛読、心より感謝申し上げます。
令和8年3月吉日
IMAKEN(今村賢司)
imaken | Tags: 八十八箇所, 功徳, 四国遍路, 四国遍路絵図, 四国遍路道中図, 四国霊場, 大日如来, 弘法大師, 接待, 曼荼羅, 煩悩, 空海, 胎蔵界, 遍照金剛
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2026年2月20日
現在、当館では特別展「伊予の経塚名品展―堂ヶ谷経塚と松渓経塚―」を開催中です(4月5日迄)。経塚とは、仏教の経典を土中に埋納した施設やその場所を指します。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、全国的に経塚が造営された背景には、末法(まっぽう)思想(釈迦入滅から2千年後には、釈迦の教えが失われ、いくら修行しても成果が得られない荒んだ世になるという思想)と弥勒下生(みろくげしょう)信仰(新たな仏となる弥勒菩薩が、56億7千万年後に地上に現れ、衆生を救うとする信仰)が影響を与えたとされています(『伊予の経塚名品展―堂ヶ谷経塚と松渓経塚―』愛媛県歴史文化博物館、2026年)。
実は、四国霊場を開創したとされる弘法大師空海と弥勒下生信仰はとても密接な関係があります。
『続日本後紀』によると、空海は承和2年(835)3月21日に高野山で生涯を終えたことが明記されていますが、永遠の瞑想(禅定)に入ったとされ、現在も高野山奥之院や東寺において毎日、生身供(しょうじんく)が供えられています。空海に対して「弘法大師」の号が朝廷から与えられたのは延喜21年(921)のことです。
また、空海の遺言書とされる『御遺告』や「遺告二十五箇条」には、空海は入定後に弥勒菩薩の住む兜率天(とそつてん)で雲の間から人々の信仰、不信を観察すると記されています。
高野山にある万年山慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町慈尊院)は、弘法大師が母阿刀氏のために建立した弥勒堂(国宝)があり、弥勒信仰の重要な拠点として知られています。慈尊院で授与された御影札「弘法大師母公エ授戒之図」(写真①、個人蔵)には、上部に弥勒菩薩像、下部に弘法大師像と母である阿刀氏83才の像が描かれ、弥勒菩薩像には「母公阿刀氏秘密ノ加持力ニヨリ不転内身弥勒菩薩トナラセ玉イシ御姿」と記されています。大師の母は弥勒菩薩を信仰し、入滅して本尊に化身したと伝えられています。
写真① 慈尊院の御影札(個人蔵)
こうした背景から、弘法大師を「弥勒菩薩の化身」あるいは「弥勒菩薩の使者」という信仰が生まれ、弘法大師を表す象徴として弥勒の種子(梵字「ユ」)が使われるようになりました。
四国遍路においては、「同行二人(どうぎょうににん)」といって、弘法大師空海は遍路とともに四国の霊場を巡り、いつも見守ってくれているとされています。
興味深いのは四国遍路の道標石の中に、江戸時代後期の武田徳右衛門丁石の一部に弥勒の梵字「ユ」を冠した弘法大師像が刻まれていること(写真②)、遍路の必須の所持品である納経帳(写真③)や道中の風雨と日照りをしのぐ菅笠(写真④)などに弥勒の梵字が記され、弥勒信仰の影響が見て取れる点です。
写真② 梵字「ユ」を刻んだ寛政9年(1797)銘のある武田徳右衛門の遍路道標石(久万高原町、当館撮影)
写真③ 梵字「ユ」を記した昭和4年(1929)の四国遍路納経帳(個人蔵)
写真④ 四句の偈と梵字「ユ」を記した菅笠(当館蔵)
ここで、「四国遍路道中図」が発行されていた大正時代~昭和時代(戦前)の遍路の所持品について見てみましょう。
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「菅笠には 迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何所有南北 と認め生国氏名を記します。杖は杉の木を用い所持品の中でも最も神聖なものとされ、杖即ち大師であると仮定して、常に自分と行を共にして下さると云う信仰に生きるものでありまして、宿へ着けば先づ第一に洗い清めて床の間などに立掛け粗略にせぬよう致します。」とあります。
戦前、弘法大師の化身とされた金剛杖は「同行二人」の象徴として捉えられています。また、菅笠の上に書く文字は「迷故三界城(迷うが故に三界は城なり)、悟故十方空(悟るが故に十方は空なり)、本来無東西(本来東西無く)、何処有南北(何処にか南北有らん)」という四句の偈(げ)とされていますが、弥勒の梵字については言及されていません。
四句の偈は葬式儀礼で棺天蓋に記す偈とされ、菅笠は棺の蓋の象徴とされ、菅笠を被る巡礼者は死出の旅路を意味するものと考えられています。また、安政5年(1776)の西国巡礼の案内記『細見記 全』などに、菅笠に書く文字として四句の偈の他に「西国順礼 同行何人」と記すことが紹介され、西国三十三所巡礼からの影響が見て取れます。しかし、今日残された遍路の古写真等を見ると、戦前までの菅笠には四句の偈や弥勒の梵字が記されている事例は少ないと推察されます(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、2018年)。
現在も高野山奥之院で永遠の瞑想を続け、四国遍路では常に遍路の傍らで一緒に修行しているという「同行二人」という身近な守護仏としての弘法大師。そして釈迦入滅から56億7千万年後に弥勒菩薩が下生するまで、遥か先の未来まで衆生救済を続けている未来仏としての弘法大師。弘法大師信仰の中には入定信仰や弥勒信仰が融合され、人々の先祖供養や現世利益の願いと強く結びついたと考えられます。
最後に、当館のおすすめの展示スポットを紹介します。
新常設展「密●空と海-内海清美展」(令和8年2月14日より観覧料有料)では、高い芸術性で国際的評価を得ている和紙彫塑家・内海清美(うちうみ・きよはる)氏が制作した空海の活躍を紹介する名場面を展示しています。その中の第19章「兜率天へ」は、高野山奥之院で入定した空海が弥勒菩薩の住む兜率天に昇天しようとする空海伝説の中で最もクライマックスとなる名場面です。
現在開催中の特別展「伊予の経塚の名品展―堂ヶ谷経塚と松渓経塚―」は愛媛県内に造営された貴重な経塚関係資料を通じて、人々の祈りや弥勒下生信仰を考えるまたとない機会です。あわせて是非ともご覧ください。お見逃しなく!
imaken | Tags: 内海清美, 同行二人, 四句の偈, 四国遍路, 四国遍路道中図, 四国霊場, 弘法大師, 弥勒菩薩, 慈尊院, 末法思想, 梵字, 武田徳右衛門, 空海, 納経帳, 経塚, 菅笠, 西国三十三所巡礼, 道標, 金剛杖, 高野山
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2026年2月13日
昭和時代(戦前)、愛媛県松山市在住の遍路が実際に四国霊場の巡拝に携えた「四国遍路道中図」が残されています。本図は刊記によると、昭和12年(1937)に四国霊場第10番札所の切幡寺(徳島県阿南市)の近くにある光栄堂の須見栄五郎が発行したものです(当館蔵、写真①)。
地図面にはデフォルメされた四国の地図に四国八十八箇所の札所名と順路、各札所の本尊がイラスト風に描かれ、また、番外札所や当時開通していた鉄道の路線などの情報が盛り込まれています。裏面には「旅の心得」「郵便為替利用のすすめ」「八十八箇所霊場の御詠歌」などが記載されています。本図は典型的な四国遍路道中図の内容を示していますが、入手にあたっては、遍路が切幡寺巡拝時、巡拝用具や遍路土産を取り扱う光栄堂で買い求めたものか、あるいは、光栄堂の宣伝・広告物として遍路に無料で配布された接待品であった可能性もあります(本ブログ29・30「切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。全体的に傷みや汚れが目立ちますが、それは苦楽を共にした四国巡拝の長い道中において本図が利用された証拠でもあります。
写真① 「四国遍路道中図」光栄堂版、昭和12年、当館蔵
次に、昭和11年(1936)に四国巡拝を行った女性遍路の所持品の中に残されていた「四国八十八ヶ所霊拜道程図」(当館蔵、写真②)を紹介します。本図は二つ折りのミニサイズ(見開き縦12.8×横15.4㎝)でポケット版の四国遍路案内地図です。四国遍路道中図が発行された同時代に作成されたものと見られます。
写真② 「四国八十八ヶ所霊拜道程図」(小松屋) 当館蔵
表紙に「四国八十八ヶ所霊拜道程図」とあり、背景には空海が唐より帰国する際に真言密教を広めるのにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょ)を投げ、帰国した空海が高野山を訪れた時に松に掛かっていた三鈷杵を見つけたという「三鈷(さんこ)の松」、遍路が使用する金剛杖と菅笠のイラストが描かれています。下部には「第六十七番小松尾寺三丁手前 親切丁寧 御宿 小松屋」とあります。裏表紙にも同様に「第六十七番小松尾寺三丁手前 御宿(屋号)小松屋 次田貞右衛門 香川県三豊郡辻村小松尾」と記され、四国八十八箇所霊場第67番札所の小松尾寺(香川県三豊市)近くにあった旅館「小松屋」の全面広告が掲載されています。
見開きの地図面を見ると、四国の形はデフォルメされ、阿波、土佐、伊豫、讃岐の旧国名で表記されています。上部に「四国八十八ヶ所霊拜道程図」、下部に「八十八ヶ所道程三百里ナリ」、欄外に「大阪市東区北新町二丁目次田印刷所製」と記され、大阪で印刷されたものであることがわかます。小さな地図ですが編集方針を示した凡例によると、順拜指道(巡拝ルート)、番外札所、名所古跡、鉄道、都市、著名地、難所が記号で示されています(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年)。
また、同様な「四国八十八ヶ所霊拜道程図」が確認されています(個人蔵、写真③)。表紙には「第五十七番 栄福寺」と記され、背景の三鈷の松と金剛杖と菅笠のイラストは同じものです。裏表紙には「四国霊場 第五十七番 御詠歌 この世には 弓矢を守る八幡なり らいせは人を救ふみだぶつ」「府頭山 栄福寺 愛媛県越智郡鴨部村」と記載されています。凡例には河川の項目が追加されています。
写真③ 「四国八十八ヶ所霊拜道程図」(栄福寺) 個人蔵
ちなみに、地図面で現在の札所の名称と異なるのは、第17番妙照寺(現井戸寺)、第30番安楽寺(現善楽寺)、第67番小松尾寺(現大興寺)、第68番八幡宮(現神恵院)などです。本図は四国霊場の札所寺院である栄福寺が発行したものですが、発行年については予讃線が宇和島まで開通していないことから、戦前のものと推察されます(今村賢司「四国八十八ヶ所霊拜道程図について」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第57番札所 栄福寺』愛媛県教育委員会、2025年)。
「四国八十八ヶ所霊拜道程図」は「四国遍路道中図」と比較すると、ポケットサイズの簡易地図であるため、四国各地の上陸港の案内や全札所の御詠歌の記載等はありませんが、シンプル・イズ・ベストのポケット版四国遍路地図といえます。
注目したいのは、「四国八十八ヶ所霊拜道程図」は四国霊場の札所寺院や遍路宿などが広告主となって発行され、主に遍路などの巡拝者を対象に配布されていた点です。とりわけ近代以降の四国遍路の地図類は「四国遍路道中図」のように、巡拝用品店、表具屋、土産店などの広告が掲載され、巡拝者をターゲットにした広報・営業促進を目的とした接待品として作成されているものが見受けられます。こうした遍路地図類からは、近代以降の四国遍路の商業化や観光化の一端が見て取れます。
imaken | Tags: 三鈷の松, 三鈷杵, 四国八十八箇所, 四国遍路地図, 四国遍路道中図, 四国霊場, 広告, 接待, 栄福寺, 空海伝説, 遍路の所持品, 遍路土産, 遍路宿, 高野山
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2026年1月30日
「四国遍路道中図」が発行された大正時代から昭和時代にかけて、実際に四国霊場を巡拝した遍路がどのような活動を行っていたのか、残された遍路の所持品から紹介しました(本ブログ74「遍路の所持品」参照)。
今回は四国霊場の札所寺院を参拝して納経所等で授かるお守りに注目します。一般に、神社仏閣を参拝した際にお守りを授かる主な理由は、参拝の記念品やお土産としての要素もありますが、基本的には神仏のご加護にあやかり、願いを叶えたい、あるいは災いから身を守りたいという信仰心に基づいています。
実際に戦前に四国遍路を行った遍路の所持品の中には、納経帳などの他に札所寺院で授与されたお守りが確認されます。いくつか紹介します。
第1番霊山寺(徳島県鳴門市)の「諸病加持 安産御腹帯」(写真①)は、弘法大師空海による諸病平癒と安産のご利益があるとされるお守りの腹帯です。腹帯は、大きくなった腹を支え、冷えから守るために巻くもので、お腹を締め付けず、下から持ち上げるように巻くのが良いとされています。
写真① 第1番霊山寺の「諸病加持 安産御腹帯」(個人蔵)
第22番平等寺(徳島県阿南市)の「御身代守」(写真②)です。平等寺は弘法大師によって掘られた「弘法の霊水」と呼ばれる万病に効く弘法水の言い伝えや、足腰健全とがん封じの霊験あらたかな寺として知られています。
写真② 第22番平等寺の「御身代守」(個人蔵)
第45番岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)の「白山妙理大菩薩守護」と記されたお守り(写真③)は、山岳霊場岩屋寺の奥之院に祀られている白山妙理大菩薩を示しています。修験道において修験者が安全に修行を遂げで仏道成就へと導く仏として信仰されています。遍路が奥之院の迫割禅定(せりわりぜんじょう)を訪れていることが推察されます。
写真③ 第45番岩屋寺の「白山妙理大菩薩守護」(個人蔵)
第73番出釈迦寺(香川県善通寺市)の「昭和六年度祈念 寅年生守本尊」には、「弘法大師捨身の尊像」と「虚空蔵菩薩像と虎」に虚空蔵菩薩真言が記されています(写真④)。出釈迦寺は幼少期の空海が7歳の時に衆生救済を誓って我拝師山(がはいしさん)の山頂から身を投げた際、釈迦如来が現れて救ったという伝説の場所にある札所寺院です。本堂には釈迦如来、脇侍として虚空蔵菩薩が祀られています。虚空蔵菩薩は無限の知恵と福徳を持つ仏尊で、丑・寅年生まれの守り本尊とされています。若き空海も実践した虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える修行法「虚空蔵求聞持(ぐもんじ)法」は一度聞いたことを忘れない力を得るとされています。
写真④ 第73番出釈迦寺(香川県善通寺市)の「昭和六年度祈念 寅年生守本尊」(個人蔵)
その他、お守りとは性格が少し異なるものとして、「御護摩灰(おごまはい)」(写真⑤)と「御洗米(おせんまい)」(写真⑥)があります。
写真⑤ 第88番大窪寺の「御護摩灰」(個人蔵)
写真⑥ 御洗米・御加持米(個人蔵)
四国八十八箇所霊場の結願寺となる第88番大窪寺(香川県さぬき市)の「御護摩灰」は、護摩祈祷の後に残る灰を封入しています。災難消除や無病息災、結願成就の強力なご利益があるとされています。
御洗米は四国霊場において、各札所の本尊や弘法大師に供えられた後、祈祷、供養され、参拝者にお下がりとして授与される清められたお米のことです。御洗米は家の神棚や仏壇にお供えし、「厄除け」や「家内安全」のお守りとしたり、炊飯時に入れて家族の無病息災を願ったりします。
ところで、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』によると、「寺は和気浜といふ所にあり須賀山圓明寺といふ。行基菩薩の開基で御本尊の三尺五寸の阿弥陀如来も行基の作といふ。この寺で男女一代守といふのを出している、求めて中を開けて見ると、仏説大蔵正教血盆経が、活版印刷にされていた」とあり、第53番圓明寺(松山市和気町)で授与した「男女一代守」というお守りが紹介されています。
この圓明寺の「男女一代守」の実物は未確認ですが、一代守とは男性・女性の区別なく、生まれた年の干支(十二支)によって定められた守り本尊(写真⑦)のことを意味しています。宮尾はお守りの中身は印刷された血盆経(けつぼんきょう)であったと記しています。
写真⑦ 一代守(個人蔵)
血盆経は「仏説大蔵正教血盆経」のことで、女性は出産や月経の血で不浄を招き、死後に「血の池地獄」に堕ちるという思想に基づき、女性の救済を説く経典として、江戸時代以降に民間に普及しました。血盆経は女性の往生祈願や安産祈願のお守りとして多くの寺院で頒布され、版木も残されています(写真⑧)。
写真⑧ 「血盆経」の版木(個人蔵)
以上見てきたように、四国霊場で授与されるお守りは、札所寺院の歴史や信仰に深く根ざしたものです。遍路が持ち帰ったお守りの内容から、四国遍路の目的や遍路の願意なども推察することができ、お守りは貴重な巡礼資料といえます。
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2026年1月24日
毎年2月3日頃に行われる年中行事に「節分」があります。節分とは「季節を分ける」という意味があり、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指します。季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられ、特に立春の前日に「鬼は外、福は内」と唱えて、炒った豆をまき、無病息災を願う風習として定着しました。節分の起源は古代中国の「追儺(ついな)」という「鬼」に見立てた邪気を追い払う厄払いの儀式が平安時代に日本に伝わったとされています。
四国霊場の札所寺院では節分(2月3日頃)に厄除けや開運を祈願する「星まつり」や「豆まき」などの行事が行われています。第19番立江寺(徳島県小松島市)、第28番大日寺(高知県香南市)、第51番石手寺(愛媛県松山市)、番外霊場の遍照院(愛媛県今治市)、第75番善通寺(香川県善通寺市)第81番白峯寺(香川県坂出市)などは有名で、護摩供養や餅まきなどが行われ、1年間の無病息災や厄除けを願う多くの参拝者で賑わいます。
中でも番外霊場の今治市菊間町にある遍照院(写真①)は「厄除け大師」として篤く信仰されています。毎年節分の日には「節分会厄除大祭」が盛大に開催されています。遍照院の節分行事はユニークです。厄除けの「わらじ」(写真②)を焼く儀式(お焚き上げ)や、還暦の人による餅まき、42歳の厄年を迎えた男性が、地元の伝統工芸品である菊間瓦で造られた「鬼瓦みこし」を担いで巡行します。餅まき・豆まきは「福は内、鬼も内」の掛け声で賑わうのも特徴で、菊間町の地場産業を大切に思い、鬼も福の仲間として捉えられています。
写真① 番外霊場・遍照院(当館撮影)
写真➁ 厄除ぞうり(当館撮影)
遍照院は第53番圓明寺(愛媛県松山市和気町)から第54番延命寺(同県今治市阿方)に至る長丁場(約34~38㎞)となる延命寺道の中間地点に位置します。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には、番外霊場として「菊間町 番外 遍照院」と記載されています(写真③)。
写真③ 番外霊場・遍照院(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
当時の四国遍路のガイドブックを見ると、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「御本尊厄除大師 大師御自作。当院は大師四十二歳の時此地に機縁勝崛(くつ)を索(もと)めて自他の厄難を除かんと祈願を籠め、自像を刻し三七日の護摩秘法を修された霊地であります。(中略)毎年旧正月十三日の夜は古来から歴史的に厄除護摩の秘法を修します。」、同10年(1935)の武藤休山編『四国霊場禮讃』には、「本尊厄除大師、御自作。当院は元薬師如来が御本尊でしたが大師四十二の御歳、自他の厄難を除かせられんと、祈願をこめ尊像を作り、三七日護摩修行遊された霊跡で、今尚毎年節分には護摩の大法を修行せられ当厄願主の厄除を祈らる」と紹介されています。
遍照院は弘法大師が厄年にあたる42歳に自らが彫像したと伝えられる厄除大師像を本尊として祀り、護摩秘法(真言密教で21日間あるいは二十一座にわたって修される強力な加持祈祷法の一つ)を修した霊地とされています。
また、大正7年(1918)に四国遍路を逆打ちで行った高群逸枝は遍照院を参拝しています。昭和13年(1938)に刊行した『お遍路』によると、「延命寺から次の圓明寺まで八里二十町。長丁場ではあるが、修行しながら一日の行程としたい。そのつもりで道を急ぐ。菊間の町に番外遍照院を訪ね、崖角を曲る。海である。ここは伊予海道中最も美しいと印象された処で、近くに二三の島々が見える。(中略)伊予の遍路海道は、燧灘に始まつて、安芸灘から、伊予灘の一端で尽きる(後略)」と記しています。遍照院のある海岸沿いの延命寺道(伊予海道)の美しい景観を称えています。
昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四國遍路』には、「寺から伊予和気駅まで五町、そこで讃豫線上りに乗る。番外遍照院は菊間駅の附近ださうだが、そこで次の汽車を待つとなると二時間も待たなければならないから、番外はぬきにして私は今治へ直行し、今治へ宿る殊に決める。何しろ時間が遅いんだ」とあり、鉄道のダイヤが合わずに、遍照院の参拝を見送っています。
ところで、島の事例が示すように、延命寺道は長丁場となるため、圓明寺参拝後に鉄道等の交通機関を利用して直ちに次の札所となる延命寺や南光坊に向かう遍路が多くいたようです(本ブログ104「延命寺の梵鐘」参照)。また、和気港や堀江港から航路を利用して、四国遍路の途中で厳島詣を行う遍路もいました。圓明寺前や延命寺道の堀江には、安芸の宮島に渡る船場を案内した明治16年(1883)の「左宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関屋好直」と記した道標石と、同19年(1886)の「(手印)みやしま出舟所」と記した道標石(施主は中務茂兵衛)が残されており、それらは当時の四国巡拝と宮島周遊をセットにした広域の巡礼が行われたことを物語っています(写真④)。
写真④ 安芸の宮島へ渡る船場を案内する道標石(左=圓明寺前、明治16年、右=堀江、同19年。当館撮影)
こうした事情から、延命寺道の中間地点にある遍照院に参拝する遍路の数は実際の四国遍路の巡拝者の人数よりも少なかったと推察されます。
番外霊場の遍照院は厄除弘法大師信仰の広がりや、交通の発達にともなう番外霊場を参拝する遍路の実態を考える上で注目されます。
imaken | Tags: 円明寺, 厄除け, 四国遍路道中図, 四国霊場, 堀江, 宮島, 延命寺, 延命寺道, 弘法大師, 番外霊場, 節分, 菊間, 遍昭院, 高群逸枝
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2026年1月16日
四国八十八箇所霊場の札所寺院の開基は、『先達経典』(四国八十八ヶ所霊場会、平成18年)によると、弘法大師が37箇所(阿波14、土佐8、伊予7、讃岐8)、行基菩薩が30箇所(阿波7、土佐8、伊予9、讃岐6)、役行者が4箇所(阿波1、伊予3)、弘法大師・智証大師が2箇所(讃岐2)、以下、日証上人が2箇所(讃岐2)、残りの13箇所は円手院正澄(第43番明石寺)、真野長者(第52番太山寺)、鑑真和上(第84番屋島寺)など、札所ごとに開基者は異なります。全体で見ると、弘法大師と行基菩薩で占める割合は約76%、弘法大師単独だと約42%に相当します。確かに弘法大師を開基とする札所寺院が最も多いのですが、実際には弘法大師以前の行基菩薩など、様々な開基者によって四国八十八箇所霊場は形成されていることがわかります。そのことは札所ごとに歴史的な背景が異なり、弘法大師信仰を核としながらも多様な信仰を内包しているのが四国霊場の特色といえます。
今回は第52番太山寺(愛媛県松山市)の開基真野長者について紹介します。
昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(写真①、当館蔵)を見ると、太山寺は松山の海の玄関である三津浜港、高浜港の近くに位置し、「五十二・瀧雲山・太山寺」とあります。
写真① 太山寺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版)昭和13年、当館蔵)
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』の太山寺の案内文には、「御本尊十一面観世音菩薩 昔から閻浮檀金(えんぶだごん。極楽浄土の宝物)の秘仏と伝えられ、本堂は人皇三十一代用明天皇の二年豊後国真野長者の一夜建立でありまして、長者は俗に炭焼小五郎と歌われ、都の大納言の独り娘玉屋(津)姫と明神の御告げによって添い、宝の山を発見分限者となった人でありますが、其長者が津の国難波へ渡航の際高浜沖で俄かに海が荒れたので一心に観世音菩薩を祈っていると、瀧雲山の頂から御光が射し間もなく海も凪いだので、長者は不思議に思って山に登ってみると草堂に大悲十一面観世音の尊像がましましたので、驚いて此に本堂建立の大願を起し直に国に帰って工匠を集め、本堂の木取をして舟に積み、豊後臼杵から一日にして到着一夜の中に建立したのであります。十間四面貫(ぬき)と楔(くさび)の無い建築として学界にも貴重な建築で特別保護建造物であります。」と紹介しています。
用明2年(587)に豊後国(大分県)臼杵の真野長者が、高浜沖で大嵐に遭遇し、観音の霊験によって海難を逃れ、その報恩のために一夜にして太山寺の本堂を建てたという「真野長者伝説」は、太山寺所蔵の享保17年(1732)の「真野長者由来記」以降の江戸時代後期の縁起に登場します(胡光編『四国遍路と霊場研究 四国霊場第五十二番札所太山寺総合調査報告書(1)(2)』愛媛大学法文学部日本史研究室 平成27・28年)。
真野長者伝説は太山寺以外にも各地に伝わっています。
臼杵の深田の里真名原という地に住んでいた炭焼小五郎は、その地名より真名野長者や真野長者と呼ばれました。炭焼小五郎は信心深く、百済の僧・蓮城法師を開基に蓮城寺(大分県豊後大野市。通称「内山観音」)を創建します。長者夫婦には般若姫という美しい娘が生まれ、般若姫は後に用明天皇となる豊日太子と結婚して玉絵姫を出産し、豊日太子の後を追いますが周防国(山口県)辺りで嵐に遭い、命を落とします。般若姫が葬られた山頂に菩提寺として般若寺(同県熊毛郡平生町)が建立されました。姫を失った長者夫婦は、臼杵の深田の里に満月寺(大分県臼杵市)を創建し、岩壁に仏像を刻みます。これが有名な「臼杵石仏群」と言われています。般若姫亡後、商いのため船を出した真野長者は、伊予国(愛媛県)高浜沖で嵐に遭いますが、観音の霊験により救われ、長者はそのお礼として、一夜にして太山寺の御堂を建立したと伝えられています(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、平成30年)。
真野長者が一夜で建立したと伝えられる太山寺の本堂(写真②)は、桁行七間、梁間九間、入母屋造、本瓦葺で、蟇股の墨書銘から嘉元3年(1305)の建立と考えられています。内陣を二重の外陣・脇陣・後陣で囲んだ雄大な規模を持ち、和様で統一した意匠が優秀であることから、明治37年(1904)に重要文化財、昭和31年(1956)に国宝に指定されました。本堂の地盤には二度火災を受けた痕跡があり、前身の建造物の存在が指摘されています。ちなみに四国霊場の札所寺院の本堂で国宝に指定されているのは太山寺と第70番の本山寺(香川県三豊市)になります。
写真➁ 太山寺の本堂(国宝)、当館撮影
太山寺の本堂横の上段敷地にある大師堂の隣には真野長者堂(写真③)が位置します。真野長者堂の以前の場所は境内下の参道近くにありました(今村賢司「四国霊場第五十二番札所・太山寺の近代整備への軌跡―古紙写真・境内図・太山寺文書を素材として―」『研究紀要』第25号、愛媛県歴史文化博物館、令和2年)。真野長者堂には絵葉書「四国第五十二番伊予国太山寺開基真野長者像」(個人蔵、写真④)のように、中央に真野長者像、右に玉津姫像(長者夫人)、左に般若姫像(娘)の三体が安置されていました。玉津姫像と般若姫の2軀の一木造の女神像は近年の研究で平安時代中~後期の制作とされています(『四国霊場開創1200年記念 空海の足音』愛媛県美術館、平成26年)。
写真③ 真野長者堂、当館撮影
写真④ 絵葉書「四国第五十二番伊予国太山寺開基真野長者像」個人蔵
太山寺の真野長者伝説からは、太山寺を中心に大分の臼杵石仏群と蓮城寺、山口の般若寺など、瀬戸内海と豊後水道にかけての海運のつながりや観音信仰を中心とする信仰圏の広がりが想定されます。かつて太山寺では春になると臼杵市周辺から接待船が三津浜港に上陸し、太山寺参道の茶屋に宿泊しながら、うどんの接待が行われました。境内には大正14年(1925)の「饂飩(うどん)接待講寄附石」(写真⑤)などが残されています。
写真⑤ 大正14年の饂飩接待講寄附石、当館撮影
太山寺の真野長者伝説は四国霊場の札所縁起の形成過程や地域の信仰圏、弘法大師以前の開基とされる札所が弘法大師信仰の広がりの中でどのように展開して八十八箇所に選定されるのか等について考える上で興味深い事例といえます。
imaken | Tags: 四国遍路道中図, 四国霊場, 太山寺, 弘法大師, 接待, 玉津姫, 真野長者, 空海, 臼杵, 臼杵石仏, 般若姫, 行基
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2026年1月9日
新年あけましておめでとうございます!
お正月の定番の遊びといえば「百人一首」。百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ和歌集で、100人の歌人の和歌を、1人につき1首ずつ選んで紹介しています。江戸時代に現在の百人一首のかるたの形が完成し、現代に受け継がれています。
その86番の歌に「なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな」があります。作者は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人・西行法師(1118~1190年)です(写真①)。
写真① 西行法師肖像(個人蔵)
西行は俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、もとは北面の武士として鳥羽上皇に仕えていましたが、23歳の時に妻子と別れて突然出家し仏門に入ります。仏道修行をする傍ら歌を楽しみ、日本各地を旅した「漂泊の歌人」として有名です。50歳の初めには、讃岐国(香川県)の白峰で崩御した崇徳上皇の墓参りと弘法大師空海の遺跡を訪ねて、四国へ旅をします。崇徳上皇の御廟を詣でた西行は「よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん」と詠んでいます。
当館の常設展示(四国遍路)には、西行の出家から入滅までの生涯を描いた『西行物語絵巻』に描かれた西行法師の旅の姿を参考にして制作した中世の修行者の姿(人形)を紹介しています(写真②)。
写真② 中世の修行者の姿(当館蔵)
『四国遍路のあゆみ』(愛媛県生涯学習センター、平成12年)には、四国遍路が庶民に広がる江戸時代以前に四国を巡った僧侶の活動について、先学による見解を紹介しています。
新城常三氏が「鎌倉時代から引き続き南北朝期から室町期にかけても、遍路のほとんどが僧侶・山伏であった(中略)室町期の遍路資料を集積しても、僧侶に比して俗家の数ははるかに少ない」と指摘するように、江戸時代以前までは、厳しい条件の伴う四国では、強い信仰心に裏付けられた僧侶たちが主に旅する人であったといえよう。(中略)この西行について近藤喜博氏は、「四国における彼は、主として讃岐・伊予を廻ったようであるが、こうした巡行の形は、後々の遍路にあっては一国マイリといわれる型に類するであろう」と指摘している。また武田明氏は「西行は山家集(さんかしゅう)によれば、白峰寺及び善通寺周辺を歩いているにすぎないが、やはり後の四国霊場のいくつかを巡歴したということになるのである」と、西行と四国とのかかわりを述べている。(中略)『愛媛県史 学問・宗教』によると、西行は、保元の乱に破れて讃岐の配所で長寛2年(1164年)に崩御された崇徳天皇の霊を弔うため、仁安2年(1167)に讃岐に下り、曼荼羅寺の近くに草庵を結び、讃岐の寺々を巡歴したが、伊予まで足をのばしたという伝承は確かでないとしている。
四国には崇徳天皇の御廟所で天皇の御霊を祀る「頓証(とんしょう)寺殿」が境内にある第81番白峯寺(香川県坂出市、写真③)、空海の誕生所とされる第75番善通寺(同県善通寺市)、西行法師が昼寝をしたと伝える「昼寝石」と「笠掛桜」の歌碑(写真④)が境内にある第72番曼荼羅寺(同市)、西行が滞在した山里庵「西行庵」(同市、写真⑤)、西行松(愛媛県四国中央市)など、西行法師にまつわる伝説やゆかりの地があります。
写真③ 白峯寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
写真④ 曼荼羅寺の西行法師ゆかりの「昼寝石」と「笠掛桜」の歌碑(当館撮影)
写真⑤ 水茎の岡「西行庵」(当館撮影)
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に記載する曼荼羅寺の案内文には「笠掛桜は西行と行を共にした同行が笠を桜の木に掛けて忘れ行き、法師が再び見えた時にも未だに其儘掛っていたので歌を詠まれたと言うことです。附近には西行が住んだ水茎の岡の庵の跡もあります。『笠はあり その身はいいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな』『山里に浮世厭はん友もかな 悔しくすぎし昔かたらん』 西行法師」と紹介されています。
昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡辺高太郎版)に記載された四国八十八箇所霊場の札所寺院(曼荼羅寺、善通寺、白峯寺)には、西行法師について言及されていませんが、白峯寺近くに「常徳天皇陵」の記載があります(写真⑥)。歴代の天皇に「常徳天皇」は存在しないため「崇徳天皇」の誤記と推察されます。
写真⑥ 西行法師ゆかりの札所寺院(「四国遍路道中図」渡辺高太郎版、昭和13年、当館蔵)
西行法師が四国を巡った時代には、四国八十八箇所霊場はまだ成立していません。現代のような遍路道が確立されていたわけではありませんが、西行は自らの足で四国の山々や海岸線を歩き、多くの歌を詠み、自己を見つめ、悟りを開くための精神的な修行の道であったと想像されます。四国を訪れた西行法師の事例は、四国遍路の源流や巡礼の本質を考える上でとても注目されます。
imaken | Tags: 修行僧, 四国八十八箇所, 四国遍路道中図, 四国霊場, 崇徳天皇, 曼荼羅曼荼羅, 歌人, 白峯寺, 百人一首, 西行庵, 西行法師
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2026年1月2日
現在当館ではテーマ展「石鎚山 歴史と民俗」(~2月1日迄)を開催中です。本展は石鎚国定公園が昭和30年(1955)に指定されて70年の節目に、石鎚信仰が広く庶民に普及した江戸時代から、観光地としての開発が進む昭和にかけての石鎚山の歴史と民俗を紹介するものです。
西日本最高峰の石鎚山(標高1,982m)は、役小角が開山し、寂仙菩薩が「石鎚蔵王大権現」と称えて信仰し、神仏習合の修験道の霊場として栄えました。青年時代の空海も日本を代表する山岳霊場の石鎚山で修行しました。
石鎚山の中腹にある四国八十八箇所霊場第60番横峰寺(愛媛県西条市)と麓にある第64番前神寺(同)の両寺院は、神仏習合の江戸時代に石鎚蔵王権現の別当を務め、石鎚信仰とつながりが深い札所として知られています。
四国遍路においては、江戸時代の四国遍路絵図や近代の「四国遍路道中図」に石鎚山は四国のランドマークとして描かれています(本ブログ27「横峰寺への巡拝」、84「四国遍路絵図から見た石鎚山」、85「前は神、後は仏」の前神寺」参照)。
大正6年(1917)の四国遍路絵図(駸々堂版)では、石鎚山へは横峰寺から「一リ(里)」と記載されています(写真)。戦前における徒歩遍路のための詳細な案内記として定評のある、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』には、「寺(横峰寺)から暫し打戻って左へ山道を二町登りますと、大師が嵯峨天皇の勅を受けて一七日の間雨乞星供の護摩を修された星ヶ森の秘壇があり、鉄(かね)の鳥居は石鎚山の発心門として昔から有名であります。谷を越えて前方に石鎚の霊峰を望み、参拝者はここからモエ坂を下って登ります。(中略)横峰寺から頂上まで百二十町、旧石鎚本社の成就社まで八十町、星ヶ森を越えモエ坂三十町にて加茂川の谷に下り、再び登って黒川、成就社を経て頂上に達します。」と紹介されています。一般の遍路にとって、険しい霊山の石鎚山に登ることは容易ではないため、四国巡拝の途中で石鎚山を登拝(とはい)することは多くなかったと思われます。
写真 石鎚山(「四国遍路絵図」駸々堂版、大正6年、当館蔵)
江戸時代の幕末期、横峰寺を経由して石鎚登拝した際の日記が残されています。文久2年(1862)に今治藩医で国学者の半井梧菴(なからい・ごあん)の「石鎚紀行」です。梧菴は晩年の明治6年(1873)に石鎚神社の神官を務めています。
日記によると、5月27日、息子たち3人で今治を出立し、六軒屋で昼食、小松で一泊、横峰寺、石鎚山の遥拝所である星の森(鉄の鳥居)を経て、郷の坂(モエ坂)を下り、加茂川に架けられた高橋を渡り、黒川道の登山道を進み、下黒川村で昼食し、黒川宿で一泊。翌日、常住(成就)を経て篠原を下り、一の坂などを登り、夜明(よあかし)に到着。一の鎖、二の鎖、三の鎖を登り、5月29日に石鎚山頂に到着しています。梧菴は石鎚登頂の念願が叶って、その感動を「よ所にしてあふげば高しのぼり来て 見れば尊し伊予の高嶺」と詠んでいます。山頂では「文明」の年号銘のある銅製の祠の中の三体の銅製の御神像が祀られ、人々が御神像に触れるため手足がなくなり、子どもの玩具のようで尊さがなくなっていることを嘆いています。一行は銅製の狛犬などを見学後、下山して午後に下黒川村に帰着しました(今村賢司『愛媛面影紀行』愛媛新聞社、平成17年)。
半井梧菴の石鎚登拝は四国巡拝の遍路としてではなく、後に完成する伊予国地誌『愛媛面影』に「石鎚紀行」が引用されているように、本書編纂のための現地調査であったと考えられます。梧菴一行が通った今治から六軒屋を経由して横峰寺へ向かう道筋は、四国遍路の横峰寺道と重なるところが多かったと推察されます。また、横峰寺から星ヶ森を経由してモエ坂を下り、加茂川を渡り、黒川道を成就まで上り、石鎚山頂へと向かう道筋は、横峰寺からの石鎚登山の巡拝ルートを示しています。
テーマ展「石鎚山 歴史と民俗」では、石鎚山関係資料(「西條誌」「石鎚神社先達用記」、絵葉書等)、半井梧菴関係資料(肖像写真、「石鎚画賛」、『愛媛面影』等)、愛媛大学教授で地理学者の村上節太郎が昭和33年(1958)に撮影したお山開の古写真、江戸時代の四国遍路資料(「四国西国順拝記」「四国徧礼霊場記(写本)」等)など、館蔵資料を中心に紹介しています。
なかでも文化6年(1809)の「四国西国順拝記」は、京都の商人・升屋徳兵衛とその家族による四国遍路と西国巡礼の貴重な記録です。その道中日記は、徳兵衛が前神寺参詣後に急病となり、一緒に旅をしていた息子の妻が石鎚山の山中に分け入り、心願をこめて激しい坂道を5度も歩いたことで、仏神の加護により徳兵衛の病気が平癒したことが記されています。遍路と石鎚信仰の霊験を語る実体験としての事例として注目されます(井上淳「資料紹介 四国西国順拝記」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号、平成13年)。
この機会に是非ともテーマ展「石鎚山 歴史と民俗」をご覧ください。
imaken | Tags: 前神寺, 半井梧庵, 四国遍路, 四国遍路絵図, 四国遍路道中図, 四国霊場, 横峰寺, 石鎚山, 石鎚神社, 道中日記
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2025年12月26日
「四国遍路道中図」が発行されていた昭和時代(戦前)、全国の真言宗寺院、高野山、四国霊場などで大きな記念行事が行われました。昭和9(1934)年の「弘法大師御入定一千百年記念法要」です。
この法要は、弘法大師空海が承和2年(835)3月21日に高野山で入定されて1100年目にあたることを記念して行われた大法会です。
この弘法大師御入定一千百年記念に際して、四国霊場の札所や札所周辺の名所旧跡等の現況写真とともに四国霊場の札所を紹介する写真集『四国霊蹟写真大観』(当館蔵、写真①)が刊行されました。
写真① 『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵
当時、四国八十八箇所霊場第19番立江寺の琳眞住職による本書の序文には、「四国案内記とか、霊場写真集とか云った此の種のもの従来数々あるが今回刊行せらる写真帳は其の企構と内容に於て尤も優秀なるもので、四国霊場の現状を偲ぶ上に唯一無二のものであり、且つ郷土教育の参考資料としても推奨するに足る。」とあり、四国遍路の案内記類が多くある中で本書の企画と内容の充実ぶりから唯一無二の四国霊場の写真集であると称賛し、郷土教育資料としても推奨しています。
本書の編集者は中西惟浩(徳島毎日新聞社日和佐支局長)、撮影著作兼発行者は岡影明(岡写真館)、発行所は四国霊蹟写真大観刊行会(四国霊場第23番薬王寺前)です。徳島の毎日新聞社と写真館と札所寺院などの協力によって四国霊蹟写真大観刊行会が発足されています。
編集後記に「昭和八年五月より準備をすすめ七、八月の炎天焼くが如き盛夏を辞せず四国一周を敢行しかんと闘ひ且は多大の犠牲を忍びつつ予定の撮影と記事材料を蒐集する事を得て茲に其初版を出す事が出来ました」とあるように、本書の作成にあたり、自動車で四国一周に挑み、写真撮影、記事材料を収集して編纂したことがわかります。
また、本書を作成した中西惟浩、岡影明の肖像写真と共に「四国一週(ママ)の時の使用の専用自動車」の写真が掲載されています。その専用自動車には「弘法大師御入定一千百年紀念 写真帳刊行会四国一週撮影班」の垂れ幕が掛けられ、かなり目立っています(写真②)。
写真② 中西惟浩と岡影明の肖像写真及び四国霊場巡拝で使用した専用自動車(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
こうして完成した『四国霊蹟写真大観』には、写真図版はなんと合計523点が掲載されています。本文の解説は四国八十八箇所霊場の各札所の名称、宗派、所在地、最寄りの郵便局を記載し、以下、本尊、御詠歌、略縁起、写真図版、縁日、近隣の番外札所、名所旧跡、交通、順路、交通機関などについて分かり易くまとめられています。
第17番井戸寺(徳島県徳島市)、第24番最御崎寺(高知県室戸市)、第40番奥の院龍光院(愛媛県宇和島市)、第42番佛木寺(愛媛県宇和島市)、第46番浄瑠璃寺(愛媛県松山市)、松山市風景、第61番香園寺(愛媛県西条市)などの写真図版の中には、四国巡拝中で使用した専用自動車の姿も確認できます(写真③~⑤)。
写真③ 第17番井戸寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
写真④ 第42番佛木寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
写真⑤ 第61番香園寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
本書のはしがきに「四国霊場巡拝は総里程三百余里あり。徒歩すれば普通四十日を要するが交通機関を利用すると二十日内外に短縮するを得。尚自動車借切にて行けば十日以内にて一巡する事が出来る」「近時自動車巡拝の多くなつた」「大体自動車にありては一里十二銭内外と見れば間違いない。尚所々で数人が附近の貸切自動車を雇へば比較的安く行く事が出来る」とあるように、戦前の四国遍路における自動車巡拝の概況が記されています。四国遍路道中図が発行された昭和時代(戦前)は、四国霊場の参拝に便利な乗合自動車が各地で運行されるなど、四国遍路の交通手段として次第に自動車が使用されてくる時期にあたります。
本書は豊富な写真図版と分かり易い解説によって、昭和初期の四国霊場の札所の景観や周辺の名所旧跡、遍路を取り巻く交通環境などを知ることができます。また、戦前の自動車遍路の資料としても貴重です(『四国遍路ぐるり今昔』愛媛県歴史文化博物館、2014年)。
なお、自動車遍路については、本ブログ21「明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路」、同58「宇和海と四国遍路① 自動車遍路の人気スポット・法華津峠」でも紹介しています。
戦前の四国霊場の写真集の決定版といえる『四国霊蹟写真大観』は、現在当館で開催中のテーマ展「乗り物がある風景」(~4月5日迄)で展示中です。この機会に是非、ご覧ください。
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