「大型器台のその後」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から⑥

12月 12日 火曜日

瀬戸内東西の器台の中心地域(松村さを里氏作成協力)

最終回は「大型器台のその後」についての解説です。

■伊予型特殊器台の創出
 伊予型特殊器台は、今治市大西町に所在する初期(約1800年前)の前方後円墳、妙見山(みょうけんさん)1号墳の墳丘から発見されたもので、2008年、下條信行氏によって命名・提唱されました。現在のところ他に類例はなく、同古墳で創出されたとものと考えてられます。
 伊予型特殊器台は、西部瀬戸内(せいぶせとうち)で盛行(せいこう)した弥生大型器台の型式を継承(けいしょう)したものではあるが、新しい古墳時代の特徴もあわせ持っています。
 全体的なプロポーションがやや寸胴(ずんどう)ではあるが、口縁部(こうえんぶ)と裾部(すそぶ)が大きく開く筒形の形態は、大型器台から受け継いだ最大の特徴です。
新時代の要素としては、畿内系二重口縁壺(きないけいにじゅうこうえんつぼ)とセットで使用されることの外、口縁部・胴部・裾部を区別する突帯(とったい)による段の表現、胴部の長方形(ちょうほうけい)・巴形(ともえがた)・三角形(さんかっけい)の透(す)かし孔(あな)や、胴部全体への施文(せもん)の充実などが挙げられますが、胴部文様の綾杉文(あやすぎもん)や孤帯文(こたいもん)などの分析から、この文様もまた在来の大型器台から発展したものと考えられています。
伊予型特殊器台の新旧の時代要素が複合する様は、西部瀬戸内地域の個性豊かな初期古墳の成立事情を深めるため注目されます。

今治市大西町妙見山1号墳出土伊予型特殊器台・二重口縁壺(今治市教育委員会提供)

■埴輪の時代へ
 弥生時代後期から終末期(約2000年前~約1800年前)の中部瀬戸内(ちゅうぶせとうち)(特に吉備(きび))とそれ以東の地域では、器高1m前後、径30~40㎝の太い筒部の上下に口縁部と脚部が付いた「特殊器台(とくしゅきだい)」が墳墓祭祀(ふんぼさいし)に用いられ、それが、特殊器台形埴輪、円筒(えんとう)埴輪に発展したと考えられています。
 伊予において円筒埴輪が最初に用いられるのは、今治市相の谷(あいのたに)1号墳です。全長約81mの前方後円墳の墳丘の西側のみしか調査されていませんが、円筒埴輪の他に、朝顔形(あさがおがた)埴輪、壺形(つぼがた)埴輪が確認されています。
 古墳時代前期後半以降、埴輪が古墳の外表施設(がいひょうしせつ)として配置されるようになり、大型器台とその系譜にある伊予型特殊器台はその役割を終えることとなります。

今治市相の谷1号墳出土円筒埴輪・壺形埴輪

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型器台の分布圏」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から⑤

12月 9日 土曜日

西部瀬戸内に広がる大型器台(松村さを里氏作成協力)


今回は「大型器台の分布圏」についての解説です。

■大型器台の分布
 松山平野で成立した大型器台は弥生時代後期後半から古墳時代初頭にかけて(約1800年前)、周防(すおう)、豊後(ぶんご)、豊前(ぶせん)といった西部瀬戸内地域を中心に、日向(ひゅうが)、肥前(ひぜん)、土佐(とさ)、讃岐(さぬき)にも分布しています。   
県内では、南予地域の宇和盆地で松山平野の大型器台の影響を受けた資料が西予市宇和町坪栗(つぼくり)遺跡、同永長上塚田(ながおさかみつかた)遺跡において確認されています。
 伊予灘(いよなだ)、周防灘(すおうなだ)を挟んだ周防では、伊予からの影響を受けた器台が出現しています。周南市天王(てんおう)遺跡17号住居跡出土資料と同岡山(おかやま)遺跡1号台状墓周溝内出土資料は、小型でエンタシス状の胴部も細く、円形透(す)かしも小さいものです。
 豊後(ぶんご)水道を挟んだ豊後では、別府(べっぷ)湾沿岸で多く分布しています。器形は伊予と類似していますが、突帯を加え、赤色顔料を塗布するなど独特の加飾性を付加しています。
 
四国山地によって隔てられる土佐では、弥生時代終末~古墳時代初頭にかけて(約1800年前)の資料が土佐市居徳(いとく)遺跡で確認されています。口縁部の伸びは伊予出土資料ほど大きくないが、法量は松山市土壇原北遺跡の資料に類似しています。
 西部瀬戸内の外側の肥前では、みやき町原古賀(はらこが)遺跡の溝(SD107)で弥生時代終末~古墳時代初頭にかけて(約1800年前)の資料が確認されています。綾杉(あやすぎ)文などの施文は松山市福音(ふくおん)小学校構内遺跡出土資料と類似しています。
 このように大型器台の分布圏は西部瀬戸内の文化圏を示していると考えられます。

西予市宇和町坪栗遺跡出土大型器台・器台(西予市教育委員会蔵)

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型器台とマツリ」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から④

12月 8日 金曜日

北井門遺跡のマツリの情景(イラスト:藤川由依氏 監修:柴田昌児氏)


今回は「大型器台とマツリ」についての解説です。

■集落における儀礼(マツリ)
近年の発掘調査にて、集落遺跡での大型器台の出土事例が増加しています。松山市北井門(きたいど)遺跡2次・3次調査での出土資料は、集落(ムラ)での儀礼(マツリ)を復元できる良好な資料です。
 流路(りゅうろ)(SR-1)では、大型器台を中心に大量の後期弥生土器が廃棄された状態で見つかっています。その出土状況からいくつかの廃棄単位が想定されています。この廃棄単位は居住領域の縁辺に当たる流路付近で、大型器台を使ったマツリが行われ、祭式に使われた土器群がまとめて廃棄された時の状況である可能性が考えられます。
 流路のほとりで行われたマツリは、大型器台が祭壇に置かれ、その周囲にはお供え物を入れる容器や儀礼に使った土器が置かれ,呪術者(シャーマン)が儀礼を行った後に、これらの大型器台や容器、祭祀具はまとめて流路に廃棄されたのでしょう。

北井門遺跡2次調査出土遺物

■墓地における儀礼(マツリ)
 伊予では、約30遺跡で大型器台が確認されていますが、墳墓(墓地)で確認されている事例は松山市土壇原北(どんだばらきた)遺跡と隣接する土壇原Ⅵ遺跡のみです。周辺の地域では、周防(すおう)、豊後(ぶんご)、安芸(あき)などで数例、墳墓で大型器台が出土しています。
 松山市土壇原北遺跡では、昭和50年代初めに大型器台とともに器台(きだい)、高坏(たかつき)、壺(つぼ)、甕(かめ)が土壙(どこう)状の遺構(?)から発見され、その後、隣接する土壇原Ⅵ遺跡の発掘調査では、約50基の土壙墓群が検出されました。なお、同Ⅵ遺跡では、4個体の大型器台が確認されており、墓地での埋葬の儀礼(マツリ)において、大型器台が用いられたことがうかがえます。
 豊後の大分市丹生川坂ノ市条里跡(さかのいちじょうりあと)第13次調査では、土器棺墓(どきかんぼ)3基、土壙墓(どこうぼ)8基、石棺墓(せっかんぼ)6基から成る墓地にて大型器台が確認されています。
 伊予(いよ)と豊後(ぶんご)で確認されている墓は特定の個人墓ではなく、集団墓であることが特徴です。

松山市土壇原Ⅵ遺跡土壙墓群の配置復元図(愛媛県埋蔵文化財センター提供)


松山市土壇原Ⅵ遺跡出土土器

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型器台のデザイン」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から③

12月 7日 木曜日

松山市土壇原北遺跡出土大型器台(県指定文化財/当館保管)

今回は「大型器台のデザイン」についての解説です。

■造形・装飾に秘められたメッセージ

造 形 大型器台(おおがたきだい)は、大地を踏みしめる裾部(すそぶ)、長く伸びた胴部(どうぶ)、大きく開いた口縁部(こうえんぶ)からなり、“より高く”しようとする意識が発揮されています。胴部が円柱(えんちゅう)のもの、胴部のなかほどがやや膨らむもの、胴部の上がすぼまるものなどがあります。

装 飾 大型器台は他の土器と比べて装飾性(そうしょくせい)に富んでいます。最大の特徴は、胴部の円形透(す)かし孔(あな)です。複数方向から多段にわたって施(ほどこ)されており、多いものでは14段もあります。とくに大型のものには、円孔に平行する直線文(ちょくせんもん)が加わえられ、なかには列点文(れってんもん)と綾杉文(あやすぎもん)(山形)が施された例もあります。
口縁部には、直線文・波状文(はじょうもん)や列点文を施したのち、同心円(どうしんえん)や双頭渦巻(そうとううずま)きや短い棒状(ぼうじょう)の浮文(ふもん)で飾るものもあります。

こうした大型器台の造形や装飾は、弥生人からのメッセージであり、それをいかに読み解くのかが、現代の私たちに託(たく)された課題です。

土壇原北遺跡出土大型器台の口縁部拡大

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センター松村さを里氏の三者による鼎談会・講演会(愛媛・大分交流講座)を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型化する器台」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から②

12月 6日 水曜日

伊予の器台の変遷(松村さを里氏作成)

今回は「大型化する器台」についての解説です。
■型式分類
松村さを里氏の研究によりA~E型式の型式分類が行われています。
A型式-口径が30㎝以上で、胴部が鼓形をなすもの。吉備に由来する器台。
B型式-口径が15~20㎝の小型で、胴部が鼓形をなすもの。普通器台。
C型式-口径・器高が20㎝程度で、胴部が筒状をなすもの。縦長の普通器台。
D型式-口径・器高が30㎝以上の大型で、胴部が
筒状に長くのびる大型器台。法量によって次のD1型式とD2型式に区分される。
D1型式-口径30㎝程度、器高30㎝以上、胴部径11-14㎝程度のもの。
D2型式-口径35-50㎝、器高50-60㎝以上、胴部
径15-20㎝程度のもの。
E型式-口径・器高が30㎝以上の大型で、胴部が
エンタシス状に長くのびる大型器台。

大型器台は、胴部や口縁部に文様をもつA型式を基に生み出され、D型式→E型式と展開したものと想定できます。

大型化した器台(松山市福音小学校校内遺跡出土)

■どのように大型化したか
先の分類のD型式とE型式が伊予独自の「大型器台」として位置付けられます。

成立期 弥生時代後期前葉から中葉(約1900年前)にかけて大型器台D1型式が出現します。その後、より大型化し華やかな装飾を加えたD2型式、E型式へと発展しました。
発祥地 伊予では、約90例の大型器台が出土しており、松山平野がその分布の中心であり、発祥地であるといえる。また、その発祥地は松山平野の中でも道後城北(どうごじょうほく)遺跡群及び久米(くめ)遺跡群に求めることができます。
広がり 弥生時代後期後半から終末(約1800年前)にかけて大型器台は伊予から西部瀬戸内地域へと広がり、現在西部瀬戸内では約140例の大型器台の出土が確認されています。

大型化した器台が出土した松山市束本遺跡9次調査出土遺物

大型器台が出土した松山平野の弥生時代後期遺跡(松村さを里氏作成)

また、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「器台とは?」 テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から①

12月 3日 日曜日

福岡県栗田遺跡祭祀遺構出土土器(九州歴史資料館提供)

現在、考古展示室では、テーマ展「大型器台とその時代-西部瀬戸内の弥生文化圏を探る-」を開催中です。数回に分けて、展示項目と展示資料をご紹介します。

■器台の起源
器台形土器(以下、器台と呼称する)は、弥生時代中期初頭(約2200年前)の九州に小型のものが現われます。出現期の器台は、壺(つぼ)・甕(かめ)・鉢(はち)などの土器を安定して置くための台としての役割を果たしました。
九州では、弥生時代中期中頃(約2100年前)になると、高さが80㎝を超える「筒形器台(つつがたきだい)」が墓地に出現します。
福岡県朝倉郡筑前町の栗田(くりた)遺跡では、54基の甕棺墓(かめかんぼ)の近くに、よく磨きあげられた真っ赤な土器(壺・甕・器台・椀・高杯(たかつき))がまとまって納められた地点が複数見つかっており、これらは、死者を甕棺に埋葬した際の儀礼(マツリ)専用の土器群です。より高く捧げようとした背高の器台は、この儀礼で特に重要な役割を果たしたに違いないと思われます。

福岡県栗田遺跡の筒形器台等の出土状況(下條信行氏撮影・提供)

■地域における普通器台の出現と展開
九州以外の西日本では、中期後半(約2000年前)に各種の土器に脚台をつけることが多くなり、大型ではない普通の器台が出現します。瀬戸内地域では、後期初頭(約1900年前)に吉備(きび)、播磨(はりま)、河内(かわち)など吉備以東で器台が出現・展開し、特に吉備では後期後半(約1800年前)にかけて、大型化・特殊化した独自の器台の文化が展開します。
伊予・松山平野においては、後期になって中部(ちゅうぶ)瀬戸内(讃岐(さぬき)・吉備)からの影響で普通器台が出現します。そして後期中頃には普通器台から伊予独自の大型器台を生み出し、その後華々しい器台の展開をみせます。松山平野内で大型器台の出土が集中する地域は久米(くめ)遺跡群とその周辺であり、このエリアは大型器台の出現地として注目されます。

松山大学構内遺跡出土の器台

松山市福音小学校構内遺跡出土の器台と絵画土器(一緒に出土したものではありません。想定復元です。)

伊予の大型器台発展の時代背景(松村さを里氏作成)

また、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

中国四国名所旧跡図35 阿州灌頂寺(慈眼寺)穴禅定

11月 30日 木曜日

20番札所鶴林寺の奧の院、慈眼寺の本堂からさらに600メートルほど奥山に入って行くと、観音堂と3間四方ばかりの浅い池中に弁天社の小さな祠があった。その背後には、所々に穴が開いた石灰岩質の岩山。西丈は『四国遍路道指南』が「ふしぎの峰」と記すこの奇怪な景観をダイナミックに表現している。

岩山を少し登った所には、細長い亀裂型の鍾乳洞が口を開けている。その開口部に行くには、そのままでは滑って登れないので、梯子がかけてあり、21段あがると辿り着くことができた。そして、そこからさらにもう一つの梯子を16段上が上がった所に小さな岩穴があり、蔵王権現を祀っていた。このあたりの岩は「皆石鍾乳に而白し」と記す旅日記もあるが、西丈の絵はそうした岩の質感もとらえている。

この鍾乳洞に入るのも修行の一つであった。貞享4(1687)年刊行の『四国遍路道指南』では「俗胎内くゞりといふ」とあるが、江戸時代中期の旅日記からは、修験道で高い山に登って行う修行である「禅定」の文字が使われるようになる。西丈も絵の脇に、現在も使われている「穴禅定」の文字を記している。

穴禅定に入る時には、慈眼寺から案内人が付き、寺で借りた白い帷子を着て入った。中は暗闇なので松明を灯したが、天保頃の松明代は1人前55文であった。地理学者として知られる古川古松軒の宝暦14(1764)年の「四国道之記」には、「岩穴の中へ数百歩入る事有り、必ず入るべからず」と記されている。実際に中に入った古松軒は、「中途より穴数も多く殊の外狭き難所ありて、大ひにこまることなり」と後悔したようで、その恐怖からかこの穴の中で亡くなった者もいたと記している。しかし、好奇心旺盛の西丈はもちろん岩穴に入ったようで、内部の様子をもう一枚のスケッチに遺している。

洞窟は、龍がのたうつように奥へ奥ヘと続いていく。その長さは、記録により21間、30間余り、34,5間と様々に記されているが、40~60メートルほどであろうか。松明を灯した案内の先達に随い、狭い所では身を左に右にしながらくぐり抜けていく。

西丈は洞窟内に様々な形状のものを描いているが、記録と一致しそうなのは、法螺貝、大師袈裟掛の石(仏旙に似たるもの数條垂下するもの)、両界曼荼羅、錫杖、三尊の阿弥陀如来、普賢菩薩、不動明王あたりであろうか。一番奧に「灌頂座」とあるが、これは弘法大師が護摩の秘法を修行したと伝えられる護摩檀のことであろう。行き詰まった所の8畳ぐらいの広さの空間に、自然石でできた護摩檀があり、戸帳石、花立、花皿、三重塔などがあったという。その手前に蛇が見えるのは、弘法大師が護摩により得度させたという大蛇と思われる。松明のわずかな明かりの中で見出した自然の奇蹟を、西丈はそのイメージのまま一気呵成に描き出している。

松浦武四郎は、鶴林寺奧の院を「海内無双の霊場」と記しているが、西丈も同じような感慨を持ったのか、この一帯だけで4枚のスケッチを描き残している。

「高虎と嘉明」紀行20 -水口城・藤栄神社-

11月 22日 水曜日

嘉明が寛永8(1631)年に没すると、子の明成が会津40万石を引き継ぎますが、寛永16(1639)年、家臣堀主水の出奔を発端として、寛永20(1643)年に領地を失うことになります。嘉明が一代で築いた40万石を有する全国有数の大名加藤家は危機に陥ります。

しかし、明成の子・明友(嘉明孫)に石見国(島根県)吉永1万石が与えられ、かろうじて大名加藤家の命脈を保ちます。天和2(1682)年、明友は1万石の加増を受け近江国(滋賀県)水口2万石を拝領し、水口城に入ることとなりました。明友の子・明英(嘉明曾孫)が元禄8(1695)年に下野国(栃木県)壬生2万5千石へと国替になりますが、正徳2(1712)年には明英の養子・嘉矩(嘉明玄孫)が再び水口2万5千石の藩主として水口城に戻ってきます。そして、そのまま明治維新まで水口藩主加藤家として存続します。
一度は存亡の危機を迎えつつ、加増も重ねながら、大名の地位を守り通したのです。

水口は、東海道の50番目の宿場でもあり、街道が城の北を通ります。
水口城の築城は、実は大名の本城としてではなく、水口の持つ宿場としての性格に由来します。寛永11(1634)年、将軍徳川家光が上洛した際、宿所として築かれた水口御茶屋が水口城の始まりです。しかし、将軍宿所としての使用はこの1回のみでした。
その後、加藤明友の入部によって水口藩が成立し藩庁となりますが、将軍の宿所という考え方が守り続けられ、水口藩では本丸御殿を使うことはなく、御殿解体後になっても本丸が使われることはなく、藩行政は二之丸で行われました。

現在でも、部分的に石垣や堀などの遺構が残っており、往時の姿を偲ぶことができます。

水口城


城から北東へ少し行くと、藤栄神社があります。文政12(1829)年、嘉明を祀るため水口城内に創建され、藩政期には嘉明(かめい)大明神と呼ばれていました。嘉明もまた年月を経て崇敬の対象となって、神として祀られたのです。

藤栄神社


現在では、城は本丸を除いて宅地化されているため、住宅地に囲まれるように鎮座しています。
特別展では、藤栄神社に伝わる資料から、「加藤嘉明肖像画」(レプリカ)、加藤家ゆかりの武具(「白鳥毛鎧蓑」「黒羅紗槍鞘」「ビロード地薙刀覆」)、嘉明が秀吉から拝領したと伝わる「十字形洋剣」(写真パネル)を展示しています。

秀吉との出会いから徳川への貢献まで、転換期の時流を捉え、明治維新まで続く大名としての加藤家の地位を確立するとともに、伊予や会津の太平の礎を築いた嘉明、その業績は今も各地で生き続けています。

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「高虎と嘉明」紀行19 -津 寒松院・上行寺・高山神社-

11月 21日 火曜日

 高虎は、激動の時代を生き抜いた末、寛永7(1630)年にその生涯を終えます。
 墓所は上野寛永寺の子院の寒松院。後に寒松院が移転したため、墓所は旧敷地にできた上野動物園内の一角に今も静かに残されています。

 しかし、津藩藩祖の高虎クラスになると、墓碑は複数存在します。
 領地とした伊勢と伊賀にも存在し、まず本拠とした伊勢の津では、江戸上野の菩提寺と同じ名前を持ち、やはり藤堂家菩提寺であった寒松院です。
 津城の東、岩田川河口近くにある同院は、2代藩主藤堂高次(高虎嫡子)の創建で、当初は昌泉院と称しましたが、後に藩祖高虎を祀り藤堂家菩提寺となってからは寒松院と称するようになりました。
 歴代藩主や家族、また久居藩藤堂家歴代の墓碑が建ち並ぶ中に、高虎の墓碑もあります。五輪塔の墓碑はかなりの大きさで、基壇自体の高さもあり見上げる程です。両脇には、継室松寿院、嫡子高次の墓碑も並んでいます。

津 寒松院 高虎墓碑

 伊賀では、伊賀上野城の南に広がる城下町の東寄り、現在では風情ある小路に整備されている寺町の北端に位置する、伊賀での藤堂家菩提寺上行寺です。高虎が羽柴秀長の家臣として拝領した領地紀伊国(和歌山県)粉河で創建し、伊予から伊賀へと国替の都度これに従い移転してきたという、高虎とゆかりの深い寺院です。
 やはり、歴代藩主の墓碑が建ち並びます。

上行寺 高虎墓碑

 高虎は、没後年月を経て藩祖として崇敬の対象となり、神として祀られることになります。津城跡の公園の南隣に鎮座する高山神社、ここは高虎を祀るために明治9(1876)年に創建された神社です。当初は別の場所にあり、一時本丸跡にあった時期もありますが、戦災に遭った後に内堀跡である現在地に移転しました。
 高山神社の社名は、高虎の法名「寒松院殿道賢高山権大僧都」に由来します。

高山神社

 
 時代の転換期を智恵と能力で生き抜き、藤堂家を全国有数の大名に伸し上げるとともに、伊予や伊勢・伊賀の太平の礎を築いた高虎、今も多くの人々の崇敬を集めています。

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「高虎と嘉明」紀行18 -会津若松城-

11月 20日 月曜日

 会津若松城といえば、幕末戊辰戦争で新政府軍の集中砲火に遭い、傷ついた天守の古写真をイメージする人も多いでしょう。何より、城周辺の火災を落城と取り違えた白虎隊の悲劇はあまりにも有名です。

 戊辰戦争で猛攻を受けた会津若松城ですが、実は嘉明と深い縁があります。
 寛永4(1627)年、嘉明は32年に及ぶ伊予の大名時代を終え、会津若松へ石高倍増の40万石で国替になります。ここは、かつて伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝ら名立たる武将も居城とした奥羽の要衝です。秀吉に送り込まれた蒲生氏郷の時代に、城は近世城郭として改築され、城下町も整備されました。

 嘉明は、入部翌年の寛永5(1628)年から早速城の修築を開始します。また、城下町や街道など、領内の整備にも取り組みます。
 しかし、その矢先の寛永8(1631)年、嘉明は波乱の生涯を閉じました。

 跡を継いだ子の明成は領内整備を引き継ぐとともに、寛永16(1639)年には城に北出丸・西出丸を設けるなどの改修を施すほか、慶長16(1611)年の地震で被害を蒙ったままの天守を再築して白亜五層の天守とするなど、現在の姿を整えました。

会津若松城

 そう、会津戦争を戦った会津若松城は、嘉明・明成父子が完成させた城だったのです。
 会津戦争では、約1か月にわたり籠城戦が展開されますが、最後まで落城することはありませんでした。もしかすると、嘉明・明成時代の改修が功を奏した部分があったかもしれません。

 徳川家光の異母弟保科正之を祖とする会津松平家の治世で知られる会津藩ですが、その礎として嘉明・明成父子の業績が貢献していることは間違いないでしょう。

 特別展の詳細はこちら 

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