9月 1日 水曜日
9月1日より、常設展示室「四国遍路」(民俗展示室3)の展示替えを実施しましたのでお知らせします。
今回、展示替えしたコーナーは「四国遍路の発生」、「四国遍路の盛行」、「近現代の四国遍路」、「巡礼の歴史」。各コーナーでは、下記の館蔵資料を新たに展示しました。なかでも、弘法大師空海の生涯を描いた「高野大師行状図画」や、江戸時代のお遍路さんの所持品(納経帳や札挟み他)、四国徧礼(へんろ)絵図など貴重な資料を展示します。多くの方にご覧いただければ幸いです。
■展示替え資料
<四国遍路の発生>
・「梁塵秘抄」(複製)
・『弘法大師行状記』巻1 童雅奇異 天保5(1834)年刊
・弘法大師と衛門三郎の刷り物
・札始大師堂(写真)
・「高野大師行状図画」第4巻 清涼宗論

<四国遍路の盛行>
・県内最古の記年銘遍路道標(写真)
・四国徧礼絵図
・四国寺社名勝八十八番
・『四国遍路道指南増補大成』 天保7(1836)年刊
・『旅行用心集』 文化7(1810)年刊
・江戸時代のお遍路さんの所持品(納経帳、札挟み、四国中御宿入用控、四国順拝日付帳) 文政11(1828)年

<近現代の四国遍路>
・改正新刻新四国八十八ケ所案内図 明治36(1903)年刊
<巡礼の歴史>
・『伊勢参宮名所図会』 寛政9(1797)年刊
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8月 27日 金曜日
8月17日(火)~22日(日)の6日間、平成22年度の博物館実習を実施しました。博物館実習とは、博物館の専門的職員である「学芸員」(博物館法第4条第3項及び第4項)の資格取得について、博物館法施行規則第1条に基づく「博物館実習」を行い、学芸員としての知識、技能等を修得させるための研修です。今年度、当館では2名の実習生を受け入れました。
実習内容は、歴史、民俗、考古各分野の資料整理と、体験講座やワークショップの運営補助、総合案内や企画展の受付や展示監視など。実習生は担当の学芸員や施設管理スタッフの指導のもと、博物館のさまざまな業務を連日体験しました。
歴史資料の整理では、掛軸や巻子の取扱いを学びました。また、古文書の分類は、くずし字を読みながらの作業。大学でくずし字を読む機会があまりなかった実習生にとって有意義な研修となったようです。

民俗資料では、常設展示替え、資料写真の撮影、四国遍路で使用する納札のデータ入力を行いました。また、フィールド調査として、実際に博物館の近くにある43番札所明石寺に行き、遍路道標にふれるなど現地学習を行いました。

考古資料では、ボランティア・スタッフのみなさんとともに、石器や土器の分類整理を実施。たくさんの土器の破片の中から、接合できるピースを探したり、資料カードを作成したりしました。

体験講座「ガラス玉をつくってみよう」(8月21日実施)では、事前に実習生が実際にガラス玉づくりに挑戦。ガラス棒をガスバーナーで溶かしながら、棒を回転させながらガラスを巻きつけ、ガラス玉製作を体験しました。その経験を活かして、講座当日の運営補助を行ってもらいました。他にワークショップ「うちわ絵付け体験」の補助をするなど、来館者との交流を深めました。

6日間にわたる博物館実習は無事に予定通り終了。今回の実習では、ふだんあまり接することがない博物館の裏側での地道な資料整理活動や、博物館と人を結びつける大切な普及活動の最前線を体験しました。実習生は終始、意欲的に取り組んでいました。
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8月 19日 木曜日
平成22年7月24日(土)から平成22年9月12日(日)まで、常設展示室内の文書展示室で、「戦前戦後の雑誌展―相原コレクションよりー」を開催しています。
<主な内容>
当館で寄託されている相原コレクションから、戦前戦後の創刊雑誌を紹介します。雑誌は、出版物の中でも、新聞と同様に消費されることを目的とされていました。日本の近代化の象徴のひとつでしたが、現在では雑誌の創刊号が残ることは、たいへん珍しく貴重といえます。
故相原隣二郎氏は、明治・大正・昭和時代初期、そして、戦後にかけて、944点の創刊雑誌を収集しました。
隣二郎氏は、教養から娯楽に至るまで、さまざまな種類の雑誌を収集しました。それぞれの時代に、人々が何を見、何を聞いて、どのような姿で生きてきたのか、感じ取っていただければ幸いです。
(1)雑誌のはじまり
日本における雑誌のさきがけは、慶応3(1867)年に柳河春三が発行した『西洋雑誌』です。わずか十数ページで、欧米の雑誌を習ったものでした。まだ、日本人にとって雑誌はなじみがなく、一から説明しなくてはなりませんでした。
(2)文明開化と雑誌
文明開化が花開くと、文化人が次々と欧米へ留学して、教育や法律、科学などさまざまな分野を学んで帰国しました。そして、雑誌を刊行して、近代国家へと文化の向上を図りました。
(3)大正デモクラシーと雑誌
日清・日露戦争の勝利を背景に、大正時代に入ると、日本国内の諸産業(絹や茶、鉄鋼業など)が海外へ多く輸出されるようになりました。人々の生活にも近代化が浸透して、大衆文化が栄えるようになりました。この社会現象を大正デモクラシーと言います。庶民による雑誌の講読数も増え、次々と新しい文化が雑誌に紹介されました。

(4)愛媛県と絹
古来より絹の産地だった愛媛県は、明治時代以降、全国でも有数な産地となりました。中でも西予市野村町の養蚕は、明治初期に始まり、大正初期には1,138戸を数えました。20年に一度、伊勢神宮で行われる式遷宮では、伊予の絹を使う慣わしがあります。野村町で生産された絹織物は、現在でも皇室に献上されています。

(5)昭和の雑誌
昭和に入ると、日本の都市部では鉄筋コンクリートの建物が次々と建てられ、大衆文化が栄えました。雑誌にも100万部にものぼるベストセラーが登場するようになりましたが、昭和4年の昭和大恐慌を契機に日本も大きな経済打撃を受けて、太平洋戦争へと進んでいきました。

(6)戦争と雑誌
昭和12(1936)年に、日本と中国の間で戦争が始まりました。その二年後、テレビジョン実験放送が開始となり、やがて、雑誌は、戦争へと人々を誘導する媒体と変化していきました。昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入しました。戦局が悪化するにつれて紙も不足し、雑誌社の統合によって、種類が減らされました。終戦を迎える頃には、雑誌のほとんどが発行できなくなっていました。

(7)戦後の創刊雑誌
昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は、廃墟の中で復興へと歩き始めました。家族や生活基盤を失った人々の希望となったのは、雑誌の復活でした。物資が不足する中で、紙は配給制でした。部数を制限して発行された雑誌が店頭に並ぶと、飛ぶように売れていきました。

(8)GHQと雑誌
戦後日本は、マッカーサー率いるGHQによって、政治・経済・文化のすべての面において、改革がありました。アメリカ文化を紹介する内容が数多く発行され、占領軍に対する批判や、戦前の軍国主義に関わる内容などは、検閲によって発行されませんでした。

(9)戦後の創刊雑誌の特徴
戦後の創刊雑誌のタイトルは、新しい時代に期待をこめて「新」の文字が多く用いられました。また、復興の象徴として、「自由」・「平和」・「希望」、英語をカタカナで表記する「スタート」など、新しいタイトルが次々と登場しました。

(10)女性の解放と雑誌
昭和21(1946)年、日本で初めて男女平等の総選挙が行われました。主婦や働く女性に向けた雑誌も数多く発行されました。戦後の食糧難の時代に生き抜く食事の工夫や、戦争中は途絶えていた女性の教養の手本としてアメリカ人女性のスタイルが紹介されました。

(11)戦後のこども雑誌
戦争中、子供向けの雑誌は、わずか6種を数えるのみでしたが、昭和21(1946)年4月には40種類を超えて発行されました。明るく、想像力の豊かな子供が育つように、希望に胸ふくらむ物語などが編集されました。混乱と困難の時代の中、子供たちはいきいきと、のびのびと育って行きました。

(12)映画・演劇・スポーツの復興
戦後、京都の映画村は被災を免れ、いち早く復興の先陣を切りました。野球を始めとしたスポーツも次々と復活しました。大衆文化が復活し、戦後の困難を生きる人々に大きな希望と楽しみをもたらしました。

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8月 17日 火曜日
8月7日(土)・8日(日)、開館時間を延長した夜の博物館「ナイトミュージアム」を実施。その関連イベントとして、「昔のくらし探検―夜の明かりを体験しよう!―」を行いました。
会場は常設展示室の「愛媛のくらし」(民俗展示室2)。参加者は、昭和初期の愛媛のくらしを紹介する原寸復元の住居に集まり、その台所や茶の間、寝室などを見学しながら、「火から人間が学んだこと」、「愛媛で最初に電気がついた頃の生活」について、学芸員の説明を受けました。また、江戸時代の浮世絵や時代劇に登場する行灯<あんどん>、提灯<ちょうちん>などの古い照明道具の実物を見て、これらの特徴や使い方を、クイズをまじえながら楽しく学びました。

その後、実際に行灯と提灯に火をつけるため、参加者全員でトラックヤードに移動。行灯による「あぶらの灯り」と提灯による「ろうそくの灯り」を体験します。
今回は行灯の燃料には菜種油、提灯には和ロウソク(内子町の大森和蝋燭店のもの)を使用。火をつける前に、パラフィンで作られた白い洋ロウソクと、ハゼの実からできた鶯色の和ロウソクの違いについても学びました。
そして、いよいよ行灯と提灯に火を灯し、会場の電気をすべて消燈。真っ暗闇の中に浮かぶ昔の灯りを目の当たりにして、参加者からは歓声があがる。かなり暗いながらもしっかりとした明るさや、独特な炎のゆらぎに、現代の電気の灯りとずいぶん違うことを実感された様子でした。
2日間で全4回(1回は約30分)のナイトミュージアム体験イベント。総参加者数は70名。お子さん連れのご家族での参加がほとんどでしたが、実際に昔の明かりを体験できるとあって、とても好評でした。ご参加いただいた皆さまありがとうございました。
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7月 9日 金曜日
みなさまお待たせしました。待ちに待った特別展「水木しげるとゲゲゲの鬼太郎―妖怪道五十三次―」がついに始まりました!!
「ゲゲゲの鬼太郎」は子供から大人まで、誰でも知っている漫画で大活躍のキャラクターです。そんな鬼太郎とその仲間の妖怪たちを皆さんは、どのくらいご存知ですか?作者の水木しげる先生は、江戸時代の有名な浮世絵師である歌川広重の「東海道五十三次」の旅情風景を、妖怪たちが旅したらどうなるか、との思いから「妖怪道五十三次」という作品を作りました。今回の展示会では、水木しげる先生の人生を紹介するとともに、江戸から京都までの各宿場に鬼太郎をはじめ、目玉おやじ、ねずみ男など300体以上にも及ぶ、さまざまな日本の妖怪が登場する「妖怪道五十三次」などを展示紹介します。また、当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」など妖怪の歴史にまつわる資料も同時に展示するとともに、妖怪に関するさまざまなイベントを開催します。
職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。


■開催期間:平成22年7月10日[土]~9月5日[日]
■開館時間:午前9時~午後5時30分
(展示室への入室は午後5時まで)
■休館日:7月12日(夏休み期間中は無休)
■会場:企画展示室
■観覧料
<特別展>
大人 500円(400円)
65歳以上 250円 (200円)
小・中学生 250円(200円)
<特別展・常設展共通券>
大人 800円(640円)
65歳以上 400円(320円)
小・中学生 250円(200円)
※( )内は20名以上の団体料金になります。
※小・中学生の方は、常設展は無料です。
協力/(株)水木プロダクション・(株)やのまん
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7月 7日 水曜日
7月10日(土)にオープンする特別展「水木しげるとゲゲゲの鬼太郎―妖怪道五十三次―」の開催に向けて、ただいま展示準備中です。
今回はその作業風景の一部を紹介しましょう。

1 妖怪画「妖怪道五十三次」の展示風景
ゲゲゲの鬼太郎をはじめ、目玉おやじ、ねずみ男、ぬりかべなど300体以上にも及ぶ、さまざまな日本の妖怪が登場する、水木しげるさんの妖怪画「妖怪道五十三次」を壁面に展示しているところです。55枚もの作品を壁面にしっかりと固定させ、バランス良くきれいに壁面に展示します。展示企画者の学芸員の指揮のもと、日本通運の美術品スタッフが作業しています。

2 水木しげる人生絵巻の展示風景
ゲゲゲ鬼太郎の作者・水木しげるさんの人生を紹介した7メートルもの絵巻をケース内に展示しています。巻物が長いため、紙がやや反っていますが、作品に負担をかけないように展示します。

3 ぬりかべの展示
大きなぬりかべの模型を仮置きし、会場内でのレイアウトの調整や、露出展示となるため、パーテーション等の設置について検討しています。
この他にも、鬼太郎人形、妖怪ブロンズ、当館所蔵の百鬼夜行絵巻など、妖怪にまつわる貴重な資料を数多く展示します。
特別展「水木しげるとゲゲゲの鬼太郎―妖怪道五十三次―」(7月10日~9月5日)、乞うご期待!
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7月 4日 日曜日
木村氏の足跡をたどる 発掘された遺跡

中駄場遺跡出土遺物展示状況
このコーナーでは、木村氏が踏査した成果を基に発掘調査された遺跡として、中駄場遺跡(宇和島市)と大宮・宮崎遺跡(高知県四万十市)を展示・紹介しています。今回は、中駄場遺跡について紹介します。
中駄場遺跡(宇和島市津島町御内)
■発見の経緯・発掘調査
1977年、木村氏によって発見された遺跡で、姫島産黒曜石製石鏃や頁岩製剥片などが採集されました。姫島産黒曜石などから縄文時代のキャンプ・サイトとして評価されました。この踏査成果を受けて、1999年、県道整備事業に伴う発掘調査が、実施され、後期旧石器時代・縄文時代前期の遺物が確認されています。

中駄場遺跡遠景写真(多田編1999より)
■立地
宿毛湾に注ぐ松田川の最上流左岸に発達した河岸段丘にあり、標高約250mを測ります。

中駄場遺跡位置図(木村2003より)
■周辺の遺跡
松田川上流部では影平遺跡・中駄場遺跡・犬除遺跡・笹平遺跡と旧石器・縄文時代の遺跡が集中している地域の一つです。
■発掘調査の成果
後期旧石器時代の遺物として、ナイフ形石器・スクレイパー・使用痕剥片・台石・石核・剥片があり、在地の石材を使用し、石器作りをしながら狩猟を行い暮らしていた様子が復元されています。木村氏が縄文時代にキャンプ・サイトであると指摘されていたが、後期旧石器時代においてもキャンプ・サイトであることが証明されました。

中駄場遺跡土層断面写真(多田編1999より)
参考文献
木村剛朗 2003『南四国の後期旧石器文化研究』幡多埋文研
多田 仁編 1999『中駄場遺跡』(財)愛媛県埋蔵文化財調査センター
本テーマ展は9月5日まで開催予定です。お見逃しなく。
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7月 1日 木曜日
西四国の縄文文化

広見遺跡採集の石鏃
当地域の縄文時代の遺跡は、木村2001によると約140箇所で確認されています。ここでは、木村氏が多くの資料を採集されている愛南町広見遺跡について、紹介します。
広見遺跡(南宇和郡愛南町広見)
■発見の経緯
1966年に考古学研究者によって発見された遺跡です。
■立地
盆地状の広見地区の名路の通称岡駄場に所在し、標高382mの北側の山から南に延びる舌状段丘の先端近くに位置し、標高約100mを測ります。

広見遺跡位置図 木村1995より
■遺物
石器129点、土器70点が報告されています。
土器は、前期の彦崎ZⅠ式、中期の船元式、後期の中津式・平城式・片粕式・伊吹町式、晩期の中村Ⅱ式が確認されています。
石器は、石鏃・石錐・石匙・スクレイパー・打製石斧・庖丁形石器が確認されています。特に、石鏃は香川県金山産サヌカイトが65%と主体を占めることが特徴です。
木村氏は、1972年に「愛媛県南宇和郡広見縄文遺跡と出土遺物」『古代文化』第24巻第5・6号を発表されています。
また、著書『幡多のあけぼの』(1992年)「散らばる矢じり-縄文人は狩猟好き」では、石鏃を採集した際のことを次のように記されています。
「(前略)宿毛湾に注ぐ松田川の支流、篠川上流地帯の愛媛県南宇和郡一本松町広見遺跡も石鏃の多い所である。(中略)
私はある日、ここを訪れ徹底的に表面採集をしたことがある。その時、土器のほか、石鏃を三十点余り拾った。これは、私が一日で採集した石鏃数の最多記録で、今もこの記録は破られていない。その後、ここに通い詰め、最終的には石鏃百五十点余りを集めた。その石鏃は、形の完全なものが多く、時期的には、縄文前期から晩期までのものを含んでいた。ただ石質のほとんどが香川県坂出市の金山に産出するサヌカイトであったのには驚いた。ここの縄文人は瀬戸内地方と頻繁に交易を行っていたのであろう。(後略)」

木村氏が撮影した広見遺跡周辺写真
(撮影年不明 1970年前後?・高知県立歴史民俗資料館蔵)
参考文献
木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11
高知大学黒潮圏研究所
木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研
この他にも、松野町真土遺跡、広福寺遺跡、愛南町深泥遺跡、茶堂遺跡採集資料について紹介しています。
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6月 30日 水曜日
西四国の旧石器文化
当地域の旧石器時代の遺跡は、木村2001によると約20箇所で確認されています。ここでは、展示の中心である愛南町和口遺跡について、紹介します。

和口遺跡採集資料の展示状況
和口遺跡 (南宇和郡愛南町御荘和口)
■発見の経緯
1987年に考古学研究者によって発見された遺跡です。木村氏は10数年間、休日を利用して表面採集を行なわれました。採集された石器は約1000点を数えます。著書(1995年)で約150点、著書(2003年)で約450点、追悼論集(2009年)で約300点が報告されています。
■立地
豊後水道に面した御荘湾の背後に形成された低丘陵上に位置し、標高は80m~90mを測ります。
和口遺跡位置図(『考古学の源流』2009年より)
採集された場所は南に舌状に延びる丘陵部の5地点で確認され、以下の点が指摘されています。
1)第1・3地点では製品が認められない。
2)第2地点のA区に小型ナイフ形石器が多い。
3)第2地点のB区に横長剥片素材のナイフ形石器が多い。
4)第4地点で最も多く遺物が採集されている。
5)角錐状石器は第4・5地点で採集される。

和口遺跡における遺物採集地点(木村2003より)
■特徴
本遺跡では、近畿地方から備讃瀬戸地域にかけて発達した2万年前の石器製作技術である、「瀬戸内技法」と呼ばれる技術が存在したことがわかっています。これは採集された石器の分析から判断されたことであり、四国における旧石器時代研究史の上では非常に重要な指摘となりました。「瀬戸内技法」関連遺物には、国府型ナイフ形石器、翼状剥片、翼状剥片石核があります。石材は地元で産出する頁岩ですが、形態は備讃瀬戸地域のものに酷似しており、備讃瀬戸地域からの直接的伝播が考えられ、後期旧石器時代における集団の移動・植民が示唆されます。

国府型ナイフ形石器文化ルート推定図(木村2003より)
参考文献
木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11
高知大学黒潮圏研究所
木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研
木村剛朗 2003『南四国の後期旧石器文化研究』幡多埋文研
木村剛朗さん追悼論集刊行会 2009『考古学の源流』
この他にも、宇和島市池ノ岡遺跡、鬼北町興野々遺跡、愛南町広見遺跡採集資料について紹介しています。
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6月 27日 日曜日
木村コレクションとその学問 (多田仁氏)
今回は、寄贈資料の整理でご協力いただきました多田仁氏(愛媛県埋蔵文化財センター)に展示パネル掲載のために、寄稿いただきました原稿を掲載させていただき、木村氏収集資料の整理に積極的に関わられた経緯とその思いをご紹介させていただきます。
木村コレクションとその学問 (多田仁氏)
木村さんと私は1993年頃からのお付き合いで、当時の私は四国に住み始めたばかりで何も解らず、まずは木村さんに多くの情報を得ることがスタートであった。そして、木村さんが亡くなる直前まで数々の教えをいただき、共に考古学的研究に勤しんだことは、生涯忘れることのない想い出として私の心の中に生き続けることになろう。
こうした木村さんとのお付き合いもあって、生前に頂いたお言葉を実行するべく、彼が収集していた考古資料をそれぞれの地元に里帰りさせる作業を開始したのである。その作業は2007年冬から2008年の初夏にかけて行っているが、まずは遺物の圧倒的な多さには驚かされた。これこそ木村さんの考古学人生を感じ取ることのできる遺品であり、氏の学問姿勢の表れでもある。遺物の収納にはダンボール箱や菓子類の空き箱などが使用されていたが、採集された遺跡名や採集日時などが記されたものもあった。これをみても単に古物趣味的に土器や石器を収集していたのではなく、考古学的研究の資料として丁寧に遺物を取り扱っていた木村さんの学問スタイルを垣間見ることができるだろう。
遺物の整理期間中、まずは遺跡ごとの仕分けを行い、その内容を把握することに努めた。その結果、高知県の遺跡は約100遺跡約15,100点、収納ケース48箱、愛媛県の遺跡では約20遺跡約4,100点、収納ケース16箱という数に達した。さらには高知・愛媛県以外の資料もあるほか、木村さんが生前に製作した石斧等の実験製作品も含まれており、整理作業をしながらも、木村さんとともに貴重な石器を探した時のことや、一つの石器について夜遅くまで話したことなど、たくさんの想い出が甦ってきた。土器の一片、一かけらの石器には木村さんからいただいた数々の教えが詰まっているのである。
しかし、ここまで整理作業を行ったとはいえ、私自身、これらすべての詳細を把握しているわけではない。さらなる評価については、近い将来、若き研究者達によって少しずつ解明されていくことであろう。その時を木村さんも待ち望んでいるに違いない。
なお、木村資料の整理作業について、愛媛県歴史文化博物館のご理解とご協力が大きな支えとなったことは改めて述べるまでもないだろう。博物館が一体となって木村氏の業績を後世まで伝えることを目標とし、市民参加で実施された一連の整理作業は、まさに木村さんが望んだ文化財行政の姿である。博物館のご尽力があったことは勿論であるが、木村さんの熱き思いが、残された人々を動かしたのである。我々は木村さんの考古学的人生を学び、受け継ぎ、その成果を後世へ残していく努力を怠ってはならない。未来の考古学者たちのため、掘り起こした郷土の歴史を消してしまわないため、私たちは木村さんの遺志と学問を語り継ぐことになるだろう。

和口遺跡現地学習会での様子(2009年12月)
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