「瀬戸内の近世城郭」の展示資料2 今治城

11月 2日 土曜日

特別展「瀬戸内ヒストリア―芸予と備讃を中心に―」のⅣ章「瀬戸内の近世城郭」の展示資料リストを掲載します。第2回目は今治城。

幕府隠密今治城見取図(寛永4年) 伊予史談会蔵

正保今治城絵図〔出力展示〕(正保年間) 今治城蔵

今治藩領大絵図〔出力展示〕(天保3年頃) 当館蔵

今治城挿絵『愛媛面影』巻2(明治2年頃) 当館蔵

今治城古写真 半井梧菴撮影〔パネル展示〕(慶応3年) 5点 個人蔵・当館保管

今治城浜手外郭の石垣写真〔パネル展示〕(昭和10年代) 当館蔵

今治城のコーナーの見どころは、初公開の「今治藩領大絵図」。今治藩領のうち越智郡陸地部の30カ村近くが描かれた絵図で、縦235㎝、横650㎝。その巨大な絵図をほぼ原寸大で出力して展示しています。絵図の南東端には、今治城が描かれています。天保3年頃に測量して作成されており、当時の今治城の姿が正確に捉えられています。今治藩の船を繋いだ船蔵の様子がよくわかるほか、中堀と外堀の間にあった藩主別荘の松之本花園が姿図になっているのも興味深いところです。出力展示なので、展示ケース越しではなく、目と鼻の先でその細かい描写をお楽しみいただけます。展覧会終了まであと3週間余り。お見逃しなく。

今治藩領大絵図(今治城部分)

展示替えをおこないました!

10月 9日 水曜日

みなさん、こんにちは。

博物館の常設展示はいつも同じ展示内容ではなく、少しずつ変更しています。季節に合わせて変えている展示もあります。

先日9月26日に歴史展示室1「原始・古代」の「伊予の律令体制」のコーナーでは一部を展示替えしました。
元々の展示はこのような様子でした。

展示替え後はこちらです。前回と同じ展示資料もありますが、レイアウトやキャプションを大幅に変更しました。

古代の伊予国(愛媛県)で使用されていた文房具の一部をご覧いただけます。
展示のラインナップとしては銅印や硯2種類(円面硯・風字硯)、伊予砥となっています。
その中から伊予砥(久米窪田Ⅱ遺跡出土)について紹介したいと思います。

伊予砥とは伊予で産出された砥石のことで、平安時代中期成立の『延喜式』などにも記述が見られます。古代における特産物の1つであり、税物として中央に運ばれていました。このような伊予砥は刀の刃を研ぐために利用されており、現在でもこの使用方法は残っています。
古代には木簡などに文字が書き記されていました。木簡の使用用途は「文書」と荷物などに付けた「付札」に大きく分かれ、伊予の荷札木簡は藤原京・平城京・長岡京で出土しています。
木簡への書き損じや再利用のために小刀を用いて木の表面を剥ぎ、新しい面に書いていたと考えられており、小刀の刃を研ぐのにも砥石が使われていました。その砥石を持ち運びしやすくしたものが提砥(さげと)であり、砥石には穴が穿たれており、そこに紐を通し、ぶら提げて持ち運んでいたと思われます。

少しずつ変わっていく常設展示室で、以前来館された時との違いを発見しに博物館へ訪れるのもいいのではないでしょうか。

ご来館をお待ちしております。

「瀬戸内の近世城郭」の展示資料1 松山城

10月 4日 金曜日

現在開催中の特別展「瀬戸内ヒストリア―芸予と備讃を中心に―」では、Ⅳ章が「瀬戸内の近世城郭」をテーマに展示されています。ここでは展示されている近世城郭について、その展示資料リストを掲載します。第1回目は伊予松山城から。

幕府隠密松山城見取図(寛永4年) 伊予史談会蔵

蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図(寛永4~9年頃) 当館蔵

与州松山本丸図(江戸時代初期)〔写真パネル〕 甲賀市水口図書館蔵

江戸時代初期の松山城イラスト 作画:香川元太郎氏 当館蔵

松山城下図屏風(元禄年間後期) 当館蔵

松山城下図(享保年間初期) 松山城蔵

松山御城絵図(安永9年) 松山城蔵

松山城本丸二の丸石積孕測量絵図(天保14年) 個人蔵・坂の上の雲ミュージアム保管

天守より黒門迄諸櫓間数サマ幷東北門北屋敷サマ間数付 伊予史談会蔵

松山城天守閣普請要録 愛媛県立図書館蔵

江戸時代初期の松山城イラスト(作画:香川元太郎氏)

松山城では近年、江戸時代初期の様子を伝える絵図が相次いで発見され、当時の本壇(天守曲輪)の姿が現存のものと大きく異なっていたことがわかってきました。それらの絵図をもとに、イラストレーターの香川元太郎氏が描いた江戸時代初期の松山城の復元イラストも展示しています。ぜひ当館所蔵の松山城下図屏風と見比べて、松山城の本壇部分の時代による変化をご覧ください。

野村町の町歩き(友の会現地学習会)

9月 16日 月曜日

本日は博物館友の会の現地学習会でした。テーマは「四国西予ジオパーク~野村・城川編~」。午前中は、西予市野村町野村地区の町歩き。かつての庄屋屋敷、大正時代の役場跡、三嶋神社等をまわりました。近世、近代にどのように野村の町が形成されていったのか、古地図や地質図を手にしながら学芸員が説明し、昨年の豪雨で被災した町並みを歩きました。写真は三嶋神社。豪雨災害では浸水高3.7mとなり社務所も流されてしまいましたが、神社の由緒や文化財について学ぶとともに復旧の状況を宮司さんからもご説明いただきました。#愛媛県歴史文化博物館 #西予市 #野村町 #西日本豪雨 #復興

令和元年度の博物館実習始まる

8月 20日 火曜日

令和元年度の博物館実習が始まりました。当館では7名の実習生を受け入れ、8月20日(火)から8月25日(日)までの6日間行われます。
博物館学芸員の資格を取得するには、大学などで様々な単位を取得する必要があります。そのひとつに「博物館実習」があります。
初日は午前中に博物館の概要説明・施設見学を行い、博物館施設の全体像を把握しました。また、実際に最近収集した資料を見ながら、博物館の資料収集の実態について紹介しました。
午後からは、歴史資料(ハガキ、切手類)の整理実習を行いました。また、文書箱を作成しました。



初日ということで実習生はまだ緊張はとれないようですが、普段見られない博物館の裏側や、学芸員の専門業務の実際、収蔵する様々な実物資料などを見て、いろんな経験をして多くのことを学んでもらえたらと思います。暑さが続きますが、体調にも気を付けながら、皆さん頑張ってください。
  

空襲体験の聞き取り~昭和20年5月の宇和島初空襲~

8月 12日 月曜日

74年前長崎に原爆が投下された今月の9日、金田八重子さん(昭和9年生、87才、元市立宇和島病院総婦長、宇和島市在住)に昭和20年5月10日の宇和島初空襲についてお聞きする機会を得たので紹介します。

金田さんは当時住吉国民小学校の6年生。父親は出征しており、母親、3年生の弟、3才の妹の4人で朝日町三丁目(現在の二丁目)に暮らしていた。昭和20年5月10日、警戒警報に続いて空襲警報がでていたが、防空壕には入らず戸外で母親とB29を見ていた。B29はそれまでも宇和島上空を通過していたが、まだ戦災にあったことがなかったためのんびりとしていた。その日は快晴。3機のB29が青空に銀翼を輝かせながら、鬼ヶ城に向けて飛んでいった。そして、母親と家に入るや否や「ドカン!」とものすごく大きな音がした。
鬼ヶ城に向けて飛んだ3機の内、1機が引き返して爆弾を投下したのだ。爆弾は金田さんの隣、鈴木マオラン工場(繊維植物のマオランから紐を作る)を直撃した。そこには金田さんが本来避難すべき防空壕があった。何が起こったのか?恐怖を感じながら窓をのぞくと、防空壕に入っていた人たちが外に吹き飛ばされ亡くなっていた。すぐに家族の安否を気遣う人たちが、爆風で膨れあがった遺体を探していた。仰向けの遺体は顔を見て、うつ向けの遺体は起こしながら確認していたが、そのとき流れた鼻血の赤色が今も脳裏に焼き付いている。
金田さんは2階にいた弟と妹の無事を確認した。幸いにもその防空壕に入っていなかったために、家族4人が助かった。一息して口の中に砂っぽさを感じたため唾を吐くと、黒くすすけたものが混じっていた。金田さん宅は倒壊を免れたものの、大きな石が屋根を突き破って押入れに落ちていたり、壁土などは崩壊していたりしており、住むことができる状態ではなかった。金田さん宅がある一区画の左端の家々は倒壊していた。その中には、友達の家に遊びに行っていて助かった3年生の男の子もいて、「家族と一緒に死にたかった」と泣いていた。
金田さん一家は須賀川に架かる芝橋を渡り、藤江の防空壕に避難した。夕方、空襲を聞きつけたのか、大浦に住む母方の実家がリヤカーを引いて来てくれた。この日の空襲は焼夷弾ではなく、爆弾であったため、火災はおこらず大事なものは取り出すことができた。以後、金田さんは大浦から住吉小学校へ通学したが、当初は空襲で亡くなっていた事になっていた。

この空襲の死者は119人。その後の空襲と比較しても一番多い死者数です。金田さんは宇和島空襲を記録する会の一員として、現在もお元気に講演されています。重いテーマにもかかわらず、温和なお人柄が聞く者を優しく包み込みます。戦争の悲惨さと平和の大切さを考える1日となりました。


              図1 昭和20年5月10日の空襲範囲(赤)(黒枠は図2)
                 (『宇和島の空襲』第4集所収の地図に筆者が加工)


              図2 金田さん宅付近と避難経路
                 (聞き取り調査から筆者作成)


              金田八重子さん

模擬原爆パンプキンと愛媛県

8月 9日 金曜日

昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。6日の広島に続く2度目の投下でした。広島型原子爆弾はウランを原料とし、「リトルボーイ」(長さ3m、直径0.7m、重さ4t)と称されましたが、長崎型原子爆弾はプルトニウムを原料とし、「ファットマン」(長さ3.25m、直径1.52m、重さ4.5t)と称されました。
実は、アメリカは広島・長崎に原爆を投下する以前に、訓練として長崎型原爆と同形・同重量の模擬原爆(通称パンプキン)を投下していました。原爆を投下した際、投下したB29も150度急旋回をして危険空域から離脱する必要があったからです。7月20日~8月14日にかけて30都市にパンプキン49発が投下され、1,600人以上の死傷者が出ました。  
その中には愛媛の3都市が含まれています。7月24日に投下された新居浜市(2発)・西条市(1発)と8月8日に投下された宇和島市(1発)です。新居浜市の住友化学工場・同軽金属工場、西条市のクラレ西条(資料上は住友軽金属工場)、宇和島市の海軍航空隊(資料上は宇和島組立工場)に投下されました。
原子爆弾は広島・長崎だけの問題ではありません。愛媛県ともパンプキンを通じて深い関係があるのです。核兵器のことを身近な問題として考えてみましょう。

焦土と化した宇和島と海軍航空隊(昭和20年8月8日撮影) 加工データ当館蔵(黄字は加筆)/原資料アメリカ公文書館所蔵

「我今より突撃に転ず」~特攻隊員の兄を想う~

8月 3日 土曜日

戦後75年を前にして、当館では戦時資料の収集だけでなく、戦争体験者や遺族からの聞き取り調査を重視しています。今回は当館のボランティア真島和男さん(昭和16年生)からお聞きしたお話を紹介します。
和男さんの兄、真島豊さん(昭和20年没、享年20歳)は予科練を卒業して各地を転戦後、国分基地(鹿児島県霧島市)に配属されました。国分基地は陸軍の知覧基地(同県南九州市)や海軍の鹿屋基地(同県鹿屋市)などと並ぶ特攻基地でした。昭和20年4月17日午前7時、豊さんは艦上爆撃機「彗星」に乗り、他の5機とともに敵機動艦隊に向け国分基地を飛び立ちました。そして、午前9時38分、奄美大島の東、喜界島の南南東約130㎞で「我今より突撃に転ず」と発信、二度と基地に戻ることはありませんでした。豊さんが特攻隊を選んだ理由については、台湾から日本へ向かう船に乗っていたとき、敵の攻撃を受けて多くの仲間が亡くなったにもかかわらず、豊さんは生き残ったことが関係しているのではないか、と伝えられているそうです。
国分基地では427名の特攻隊員が戦死しました。現在、霧島市では国分基地特攻隊員戦没者慰霊祭が行われていますが、豊さんの面影を知らない和男さんは、これまで慰霊祭に参加せず、別の兄が参加していたそうです。しかし、その兄も高齢となったため、一昨年から和男さんも一緒に参加するようになりました。和男さんは、「地元の人々に感謝している。慰霊祭に小中学生も参加して、平和の誓いの場となっていることがうれしい」と述べられます。
豊さんはどのような思いで「我今より突撃に転ず」と発信し、操縦桿を敵艦隊に向けたのでしょうか。また、遺族はどのような思いでこれまで過ごしてきたのでしょうか。いろいろなことを考えさせられました。今回お話いただいた和男さんに感謝するとともに、戦争体験者や遺族がご健在な今のうちにこそ、いろいろなお話を聞いておかなければならないと再認識しました。

真島豊さん


江田島での豊さん(左)と同僚


慰霊祭での和男さん(右)


※ 写真は真島和男さん提供

今年も開催!「教員のための博物館の日 2019」のお知らせ

7月 4日 木曜日

教員のための博物館の日2019チラシ表
当館では、今年も8月22日(木)に「教員のための博物館の日」を開催予定です。この講座は、学校の先生方に博物館に足を運んでいただき、博物館のことをもっと知っていただくものです。
対象は教職員の方、教員を目指す学生の方、社会教育施設職員の方です。本講座に参加ご希望の方は、所定の申込書に必要事項をご記入の上、当館学芸課宛てにFAXをお送りください。
なお、今年はれきハコを活用した実践講座(講師:鬼北町立泉小学校元校長)を予定しており、随時、内容は変更しています。また、講座を選んで受講することも可能です。
教員のための博物館の日2019チラシ裏

松山市制130周年!

6月 28日 金曜日

明治21(1888)年4月25日「市制」が公布され、内務省は全国39ヵ所を指定しました。これにより次々と市制が施行されましたが、松山市の市制施行は翌22年12月15日。今年は松山市制130周年にあたります。今回紹介する資料は旧市街地100町を中心に誕生した松山市の地図です。現在の市域とくらべると、松山城を中心にごく狭い範囲であったことがわかります。よく見ると、兵営、裁判所、警察署などは見えますが、明治21年10月28日外側(現松山市駅)~三津間に開通した伊予鉄道は描かれていません。そのため、この地図は「市制」が公布された明治21年4月25日から伊予鉄道が開通する10月28日までに描かれたものと思われます。
市制当時の松山市は戸数7,519戸、人口32,916人。「市制」の標準人口である25,000人を大きく超えていました。明治23(1890)年、30人の市会議員(任期6年)が選挙され、松山藩士族で伊予鉄道社長・県会議長の小林信近(1842~1918)が議長に選ばれました。「市制」によると、市長(任期6年)は市会が推薦した3名の内から内務大臣が天皇に上奏し、天皇の裁可を経て選任されました。松山市会は市長候補に小林信近・土屋正蒙(温泉・風早・和気・久米郡長)・木村利武を選びましたが、小林と土屋が固辞したため、市会は内務大臣山県有朋に対して木村が最適との意見を添えて申請し、天皇の裁可を得ました。木村(1850~1914)は松山藩士族で、市会議員に選出されるとともに松山52国立銀行取締役をつとめていました。
4月1日、湊町4丁目の円光寺を仮庁舎として市役所が開庁しました。職員は書記6人、属22人、使丁10人。市長の年俸は500円(明治27年の国家公務員高等官初任給50円)、議員は名誉職でした。翌年出淵町~南堀端の753坪を買い入れ、明治25年に新庁舎の竣工式が行われました。市と町村は色々な面で異なりましたが、監督官庁の違いもその一例です。市は第1次に府県知事、第2次に内務大臣が監督するのに対して、町村は第1次に郡長、第2次に府県知事が監督しました。実質的に市は郡と対等に見なされたのです。以後愛媛県では大正時代まで松山市が唯一の市制都市でした。

愛媛県松山市之図


城山周辺(拡大)

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