
『日本三代実録』巻七の御霊会記事(江戸時代刊・愛媛県歴史文化博物館蔵)
日本古代の疫病に関する史料を眺めてみると、平安時代には頻繁に疫病が発生しており、特に9世紀後半の貞観年間(859~876年)頃に流行の記録を数多く確認することができます。延喜元(901)年に成立した朝廷が編纂した国史『日本三代実録』によると、貞観3(861)年8月には赤痢が流行して、多くの子どもが亡くなっており、貞観5(863)年正月には「咳逆」(がいぎゃく・インフルエンザや新型コロナウィルスのようにせきを伴う病気)という病が平安京だけではなく全国的に流行し、多くの死者が出ています。この「咳逆」のために朝廷の多くの儀式は中止となりましたが、徐々に収束し、3月4日には各地の神社に奉賽(疫病が収束した感謝)の幣帛が供えられています。
当時、疫病の原因は、非業の死を遂げた「御霊(ごりょう)」によるものと考えられていました。『日本三代実録』貞観5年5月20日条には、御霊として、崇道天皇(早良親王。桓武天皇の時代に藤原種継暗殺の首謀者とされた)、伊予親王(桓武天皇の皇子。大同2(807)年に謀反の疑いで亡くなる)、橘逸勢(承和9(842)年におこった承和の変に協力したとされ東国に配流途中で亡くなる)など6名の名前が挙げられ、「近代以来、疫病繁発、死亡甚衆、天下以為、此災、御霊之所生也」とあり、近年、疫病が頻発して死亡する人が多くなったが、この災いは怨みを残したまま亡くなった「御霊」によるものと明記されています。
この御霊を鎮めるため、5月20日に「御霊会(ごりょうえ)」が神泉苑(大内裏の東南に造営された庭園)にて行われました。『日本三代実録』(貞観5年5月20日条)にはその様子が次のように記されています。

『日本三代実録』巻七の御霊会記事の続き(江戸時代刊・愛媛県歴史文化博物館蔵)
廿日壬午、於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等、監会事、王公卿士起集共観。霊座六前設施几筵、盛陳花果、恭敬薫修。延律師慧達為講師、演説金光明経一部、般若心経六巻、命雅楽寮伶人作楽。以 帝近侍児童及良家稚子為舞人、大唐高麗更出而舞、雑伎散楽競尽其能。此日宣旨、開苑四門、聴都邑人出入縦観。所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅、寃魂成厲。近代以来、疫病繁発、死亡甚衆。天下以為、此災、御霊之所生也。(中略)今茲春初咳逆成疫、百姓多斃、朝廷為祈、至是乃修此会。
【現代語訳】
5月20日に神泉苑で御霊会が修された。朝廷は、左近衛中将で従四位下の藤原基経と右近衛中将で同じく従四位下の藤原常行らを遣わし、会の事を監修した。天皇や皇族、公卿たちも共に観覧した。6名の御霊の霊座の前には几と莚が設けられ、花果を盛って、うやうやしく供養が行われた。律師の慧達が講師となり、金光明経一部と般若心経六巻を読経し、雅楽寮の楽人が演奏した。帝の近侍の児童と良家の稚児に舞を舞わせた。唐、高麗の人が出演して、雑伎や散楽を競った。この日は、清和天皇の命により、神泉苑の四門が開放され、都邑の人々は出入りし、自由に観ることができた。いわゆる御霊とは、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文室宮田麻呂らのことである。これらの無実の罪を着せられて亡くなった者の霊が疫病となった。近年、疫病が流行し、死亡する人が多くなり、この災いは御霊によるものと人々は考えた。(中略)この年の春の初め、咳逆の病が流行し、多くの庶民が亡くなった。朝廷は祈るためにこの御霊会を修した。
さて、この御霊会の運営を担っていたのは、当時まだ20代後半で従四位下であり参議にも列していない若き藤原基経と、その従兄弟で同い年の藤原常行でした。いずれも藤原北家の出であり、このとき13歳だった清和天皇のもと、この2人は政権の中枢に上り詰めていきます。
御霊会が行われた神泉苑は、清和天皇の命により、庶民にも開放されました。諸王や公卿が列席する中で、神泉苑が庶民に開放されるというのは異例中の異例といえます。伝染病が蔓延している最中に開放されることはまず考えられないため、その5月には伝染病は落ち着いていたと考えられます。年初の大流行による庶民の不安や不満を少しでも和らげるためにとった措置だと思われます。先例もない臨時的で、しかも貴族から庶民までが参加する大規模な法会を、若い基経、常行が現場監督を任されて、無事開催できたことで、2人の存在感は朝廷の内外で大きくなったと思われます。
この年の伝染病「咳逆」は収まりましたが、貞観14(872)年には京で再び大流行し多くの死者が出る事態となります。この時は病が外国からもたらされたと考えられ、内裏の外郭門である建礼門前での大祓など様々な儀礼、修法が行われました。疫病だけではありません。貞観6~8年の富士山の大噴火や貞観11年の陸奥国で発生した1000年に一度といわれる大地震など、人々の不安を募らせる出来事が次々と起こっていきます。
そこで、貞観11(869)年6月14日には神泉苑に当時の国の数である66本の鉾を造って立て、祇園社(現在の八坂神社)から神泉苑まで神輿を送りました。これを祇園御霊会といい、現在の京都・祇園祭の起源ともいわれています。
このように、平安時代には神祇、仏教により疫病を退散し、御霊会のような法会、祭りによって悪いものを祓う、鎮めることが定着し、庶民を巻き込みながら芸能等も盛んになっていきます。これが後世の神社、寺院の祭りや芸能の形態にも大きな影響を与えていくことにもなりました。
ちなみに、貞観5年の御霊会が催されたのは5月20日でしたが、現代の新暦(太陽暦)になおすと7月10日。明後日がその日にあたります。いまから1157年前の出来事でした。