Archive for the ‘れきはく・今日の出来事’ Category

本日開幕しました。特別展「古代文学と伊予国」

2022年2月11日

特別展「古代文学と伊予国」開幕しました。資料総点数212点、古典籍約120点を4月7日まで公開します。

最初の展示資料は『古事記』上巻。イザナギノミコトとイザナミノミコトによる国生み神話です。伊予之二名嶋(四国のこと)を生み、この島は、身(からだ)は一つであるが、面(顔)は四つあると記されています。そして伊予国を愛比売、讃岐国を飯依比古、粟(阿波)国を大宜都比売、土佐国を建依別と呼ぶと書かれています。現在の愛媛県の県名の由来となった記事です。この愛媛の「愛」を出発点に、今回の特別展では、恋愛、家族愛などの様々な愛のカタチを紹介しています。

また、 特別展「古代文学と伊予国」の関連書籍として、本日より、伊井春樹(当館名誉館長)著・愛媛県歴史文化博物館編『愛媛の文学資料』(四六版、320頁)を販売しています。愛媛県に継承された『古今和歌集』、『伊勢物語』、『源氏物語』などの古典籍を約120項目にわけて、解説しています。価格は1500円(税込)。販売は博物館ミュージアムショップにて。もしくは博物館0894-62-6222までお問合せください。1冊送料310円となっています。

博物館実習

2021年11月10日

11月9日(火)~14日(日)の6日間、博物館実習が始まりました。博物館実習は学芸員資格を得るために習得しなければならない単位です。今年度は県内から3名、県外から1名の大学生が申し込まれました。県内の方は当初予定していた8月17日(火)~22日(日)に実習を行いましたが、コロナウイルスの感染拡大のため、県外の方はこの時期の実習となりました。昨日から実習に臨んでいる方は山梨県にある都留文科大学でイギリス文学を学ばれている学生さんです。

今日から本格的に資料整理実習が始まり、午前中は歴史資料の取り扱い方や資料の撮影について実習しました。撮影した資料は、西条藩初代藩主松平頼純の死後に行状をまとめた「頼純主行状」です。撮影するたびに頁をめくるのですが、無理な姿勢が続くため疲れが出てきます。意外と大変な作業です。実習生に尋ねると、イギリス文学を専攻しているので、このような資料を手にするのは初めてとのこと。今後、民俗資料や考古資料の整理実習も行う予定です。資料の性質に応じた扱い方を学んでいただければと思います。

寒暖差の多い季節の変わり目、体調に気を付けて6日間乗り切ってください。

実習風景

歴史資料の写真撮影

「大名の船」サテライトシンポの準備できました

2021年10月30日

いよいよ明日の10月31日に、特別展「大名の船-海の参勤交代-」に関連したサテライトシンポを、新居浜市の愛媛県総合科学博物館を会場に開催します。報告者からのレジュメも揃い、コピーも完了しました。37ページの充実した内容です。あとは開会を待つばかり。ぜひご来場ください!

充実のレジュメ集

サテライトシンポジウム

タイトル:「大名の船-海の参勤交代-」

日  時:令和3年10月31日(日)

     13:00~17:00

場  所:愛媛県総合科学博物館 多目的ホール

     新居浜市大生院2133-2

概  要:

 愛媛県歴史文化博物館の特別展「大名の船―海の参勤交代―」に関連して開催するシンポジウムです。徳島藩・西条藩・小松藩の事例報告から、戦闘を目的とした大名の船が、参勤交代の際に人を運ぶ手段へと性格を変えていく過程や華麗な船行列の様相も紹介します。また、講演会では、より視野を広げて、参勤交代で江戸に滞在することになった藩士の暮らしぶりについても取り上げます。

スケジュール:

 13:00~ 開会

 13:10~14:10

   講演   勤番武士の江戸滞在生活

         岩淵 令治氏(学習院女子大学 教授)

 14:20~16:20

   報告1  阿波の水軍森家と徳島藩

         根津 寿夫氏(徳島市立徳島城博物館 館長)

   報告2  西条藩主松平頼純の生涯と国入りの船行列

         前田 正明氏(和歌山県立博物館 学芸課長)

   報告3  小松藩の参勤交代

         井上 淳(愛媛県歴史文化博物館 学芸課長)

 16:30~17:00 パネルディスカッション

令和3年度の博物館実習が始まりました。

2021年8月19日

 8月17日(火)~22日(日)までの日程で、博物館実習が始まりました。新型コロナウィルスの感染者が拡大する中、開催が危ぶまれましたが、参加者を県内の大学に通う学生のみとし、マスクの着用、毎朝の検温、換気、手指消毒等・感染対策を行い、実施しています。

 実習に参加している3名の学生は、初日のオリエンテーションや施設見学等を終え、2日目の18日は資料の写真撮影(巻子や冊子等)や整理に係る計測等の実習を行いました。

 今後は、「教員のための博物館の日」の運営補助やワークショップの対応等も行う予定です。

 例年になく、雨が続いておりますが、体調に気をつけながら、皆さん頑張ってください。

テーマ展「東予と南予の弥生文化と青銅器」開幕!

2021年7月17日
展示室入口
展示室入口

7/17よりテーマ展「東予と南予の弥生文化と青銅器」が当館考古展示室にて開幕しました。本展は、令和3年度京都国立博物館考古資料相互活用促進事業に伴い、西条市福成寺天神谷出土平形銅剣5点、(伝)西予市宇和町出土広形銅矛1点が里帰りすることを契機に、主な東予地域・南予地域出土の青銅器とともに、近年、発掘調査が進んでいる東予地域と南予地域の弥生時代の遺跡の調査成果を紹介するものです。

展示は12/5までの予定です。開催期間中には、4回のテーマ展関連講座を予定しています。この機会に是非、ご覧ください。

展示状況
展示状況

第43番札所明石寺と大寶寺道体験ウォーキング実施しました

2021年3月1日

令和3年2月27日(土)、四国八十八箇所霊場第43番札所明石寺と大寶寺道体験ウォーキングが行われました。参加者は約50名。 最初に、当館のエントランスホールに集まり、開会式のあと、当館の常設展「密●空と海-内海清美展」を見学、そして現在開催中の特別展「明石寺と四国遍路」を観覧しました。

展示室では、明石寺所蔵の県指定有形文化財「絹本著色熊野曼荼羅図」(室町時代)、本尊千手観音像の眷属とされる二十八部衆、風神・雷神像(鎌倉時代)などの迫力ある仏像彫刻など、明石寺の絵画、彫刻、工芸、古文書などの文化財、四国遍路関係資料を間近に見ていただきました。

その後、歴博から白王権現(明石寺奥之院)を経由し明石寺までウォーキング(約1㎞)しました。

明石寺では明石清澄ご住職のご協力によって、本堂内を特別に拝観させていただきました。また、ご住職からは明石寺の歴史について、愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター長の胡光教授からは、愛媛の四国霊場の特色についてお話しがありました。

境内を散策した後は、明石寺から国重要伝統的建造物保存地区の卯之町中町までをウォーキング(約1㎞)しました。この道は国史跡の「伊予遍路道 大寶寺道」に指定されています。

 天気にも恵まれて、博物館の見学、遍路道ウォーキング、明石寺特別拝観、卯之町中町散策など、盛りだくさんのメニューでしたが、参加者からはとても充実した体験ウォーキングができて良かったとの感想を多くいただきました。

明石寺の寺宝を特別公開する特別展「明石寺と四国遍路」は3月14日(日)迄。とても貴重な機会なので是非ともお見逃し無いように。

疫病退散展(12月9日~1月24日)

2020年12月8日
疫病退散展(愛媛県歴史文化博物館)

テーマ展「疫病退散―感染症の歴史と民俗―」が12月9日(水)に開幕します。

令和2年は新型コロナウィルスCOVID-19の感染拡大により、社会、経済等が多大な影響を受けた年でした。愛媛県歴史文化博物館では令和2年を締めくくる展示として本テーマ展を開催します。改めて日本における感染症(疫病)の歴史・文化を見つめ直す機会になればと思います。

会期は2020年12月9日(水)~2021年1月24日(日)。

【展示構成・資料】(1)古代の疫病 日本書紀(最古の疫病記録)、続日本紀(天然痘と藤原四兄弟)、万葉集(疫病と和歌)、日本三代実録(祟りと疫病、御霊会)、大鏡(藤原道長と疫病)、高野大師行状図画(空海と疫病)(2)近代の伝染病 明治・大正時代の流行病に関する海南新聞記事、流行病に関する愛媛県行政資料、スペインかぜに関する新聞記事(3)疫病と民俗行事 白澤(宇和島藩藩札、旅行用心集)、菊間の牛鬼、郷土玩具コレクション、疫病除けの呪い(新撰呪詛調法記大全)など約50点。

#疫病 #博物館 #歴史 #民俗 #感染症 #伝染病 #白澤 #アマビエ #スペイン風邪 #愛媛県歴史文化博物館

テーマ展「戦後75年 伝えたい10代の記憶」開幕

2020年9月12日

9月12日(土)、テーマ展「戦後75年 伝えたい10代の記憶」が開幕しました。本展は、戦時中に10代の多感な時期を生きた若者たちの学校生活・予科練生活・空襲体験を通して、戦争の悲惨さと平和の尊さを考えようと企画しました。

展示では4人の方を取り上げています。日中戦争前後、弓道の授業や勤労作業が取り入れられ、戦時色がしのびよってきた女学生、昭和19(1944)年から通年動員となり、卒業式も動員先の工場で行われた中学生、松山海軍航空隊で2度の空襲に遭い、長野県で特攻要員として訓練中に終戦を迎えた予科練生、昭和20年5月10日、宇和島の初空襲で隣家に爆弾が直撃し、悲惨な光景を目にした小学6年生です。

前半のお2人はこれまでに寄贈いただいた資料の整理を通じて、後半のお2人は聞き取り調査の成果をもとに展示を構成しました。初の試みとして聞き取り調査を展示で放映するとともに、パンフレットも作成しました。日記・日誌・アルバムなどの実物資料に加え、映像やパンフレットもあわせてご覧ください。

戦後75年。本展を通じて10代の置かれていた戦時下の状況をご覧いただくとともに、戦争体験者から直接当時のお話をお伺いする機会が少なくなる中で、今後戦争体験をどのように後世に伝えていくか、あらためて考える機会になれば幸いです。

※テーマ展「伊予市高見Ⅰ遺跡とその時代」と同時開催です。ぜひご来館ください。

展示室入口
展示室内1
展示室内2
聞き取り調査映像コーナー

令和2年度 博物館実習始まる

2020年8月19日
学芸員から展示の説明を受ける実習生
資料の梱包を体験する実習生

                           

 8月18日(火)から23日(日)までの日程で博物館実習が始まりました。博物館実習は、学芸員資格を取得するために必要な単位であり、博物館において実践的な資料整理等を行います。今回は愛媛大学の学生を中心に11名が参加されています。当初、新型コロナウイルスの影響で開催が危ぶまれましたが、マスクの着用、毎朝の検温、2班体制、そのほか三密を防ぐ様々対策を講じて開催の運びとなりました。

 今日は博物館実習の2日目。歴史資料と民俗資料についての実習です。歴史資料では、掛け軸や巻物などの扱い方、資料の梱包などを体験しました。民俗資料では、展示室をまわりながら温湿度や照度など展示環境について学びました。今後は講座やワークショップの対応なども行う予定です。

 猛暑が続いていますが、実習生のみなさん頑張ってください。

平安時代の疫病と御霊会

2020年7月8日

『日本三代実録』巻七の御霊会記事(江戸時代刊・愛媛県歴史文化博物館蔵)

日本古代の疫病に関する史料を眺めてみると、平安時代には頻繁に疫病が発生しており、特に9世紀後半の貞観年間(859~876年)頃に流行の記録を数多く確認することができます。延喜元(901)年に成立した朝廷が編纂した国史『日本三代実録』によると、貞観3(861)年8月には赤痢が流行して、多くの子どもが亡くなっており、貞観5(863)年正月には「咳逆」(がいぎゃく・インフルエンザや新型コロナウィルスのようにせきを伴う病気)という病が平安京だけではなく全国的に流行し、多くの死者が出ています。この「咳逆」のために朝廷の多くの儀式は中止となりましたが、徐々に収束し、3月4日には各地の神社に奉賽(疫病が収束した感謝)の幣帛が供えられています。

当時、疫病の原因は、非業の死を遂げた「御霊(ごりょう)」によるものと考えられていました。『日本三代実録』貞観5年5月20日条には、御霊として、崇道天皇(早良親王。桓武天皇の時代に藤原種継暗殺の首謀者とされた)、伊予親王(桓武天皇の皇子。大同2(807)年に謀反の疑いで亡くなる)、橘逸勢(承和9(842)年におこった承和の変に協力したとされ東国に配流途中で亡くなる)など6名の名前が挙げられ、「近代以来、疫病繁発、死亡甚衆、天下以為、此災、御霊之所生也」とあり、近年、疫病が頻発して死亡する人が多くなったが、この災いは怨みを残したまま亡くなった「御霊」によるものと明記されています。

この御霊を鎮めるため、5月20日に「御霊会(ごりょうえ)」が神泉苑(大内裏の東南に造営された庭園)にて行われました。『日本三代実録』(貞観5年5月20日条)にはその様子が次のように記されています。

『日本三代実録』巻七の御霊会記事の続き(江戸時代刊・愛媛県歴史文化博物館蔵)

廿日壬午、於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等、監会事、王公卿士起集共観。霊座六前設施几筵、盛陳花果、恭敬薫修。延律師慧達為講師、演説金光明経一部、般若心経六巻、命雅楽寮伶人作楽。以 帝近侍児童及良家稚子為舞人、大唐高麗更出而舞、雑伎散楽競尽其能。此日宣旨、開苑四門、聴都邑人出入縦観。所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅、寃魂成厲。近代以来、疫病繁発、死亡甚衆。天下以為、此災、御霊之所生也。(中略)今茲春初咳逆成疫、百姓多斃、朝廷為祈、至是乃修此会。

【現代語訳】
5月20日に神泉苑で御霊会が修された。朝廷は、左近衛中将で従四位下の藤原基経と右近衛中将で同じく従四位下の藤原常行らを遣わし、会の事を監修した。天皇や皇族、公卿たちも共に観覧した。6名の御霊の霊座の前には几と莚が設けられ、花果を盛って、うやうやしく供養が行われた。律師の慧達が講師となり、金光明経一部と般若心経六巻を読経し、雅楽寮の楽人が演奏した。帝の近侍の児童と良家の稚児に舞を舞わせた。唐、高麗の人が出演して、雑伎や散楽を競った。この日は、清和天皇の命により、神泉苑の四門が開放され、都邑の人々は出入りし、自由に観ることができた。いわゆる御霊とは、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文室宮田麻呂らのことである。これらの無実の罪を着せられて亡くなった者の霊が疫病となった。近年、疫病が流行し、死亡する人が多くなり、この災いは御霊によるものと人々は考えた。(中略)この年の春の初め、咳逆の病が流行し、多くの庶民が亡くなった。朝廷は祈るためにこの御霊会を修した。

さて、この御霊会の運営を担っていたのは、当時まだ20代後半で従四位下であり参議にも列していない若き藤原基経と、その従兄弟で同い年の藤原常行でした。いずれも藤原北家の出であり、このとき13歳だった清和天皇のもと、この2人は政権の中枢に上り詰めていきます。

御霊会が行われた神泉苑は、清和天皇の命により、庶民にも開放されました。諸王や公卿が列席する中で、神泉苑が庶民に開放されるというのは異例中の異例といえます。伝染病が蔓延している最中に開放されることはまず考えられないため、その5月には伝染病は落ち着いていたと考えられます。年初の大流行による庶民の不安や不満を少しでも和らげるためにとった措置だと思われます。先例もない臨時的で、しかも貴族から庶民までが参加する大規模な法会を、若い基経、常行が現場監督を任されて、無事開催できたことで、2人の存在感は朝廷の内外で大きくなったと思われます。

この年の伝染病「咳逆」は収まりましたが、貞観14(872)年には京で再び大流行し多くの死者が出る事態となります。この時は病が外国からもたらされたと考えられ、内裏の外郭門である建礼門前での大祓など様々な儀礼、修法が行われました。疫病だけではありません。貞観6~8年の富士山の大噴火や貞観11年の陸奥国で発生した1000年に一度といわれる大地震など、人々の不安を募らせる出来事が次々と起こっていきます。

そこで、貞観11(869)年6月14日には神泉苑に当時の国の数である66本の鉾を造って立て、祇園社(現在の八坂神社)から神泉苑まで神輿を送りました。これを祇園御霊会といい、現在の京都・祇園祭の起源ともいわれています。

このように、平安時代には神祇、仏教により疫病を退散し、御霊会のような法会、祭りによって悪いものを祓う、鎮めることが定着し、庶民を巻き込みながら芸能等も盛んになっていきます。これが後世の神社、寺院の祭りや芸能の形態にも大きな影響を与えていくことにもなりました。

ちなみに、貞観5年の御霊会が催されたのは5月20日でしたが、現代の新暦(太陽暦)になおすと7月10日。明後日がその日にあたります。いまから1157年前の出来事でした。