‘常設展おすすめ情報’ カテゴリーのアーカイブ

久松家ゆかりの懐中時計について記者発表!

12月 15日 金曜日

当館は、今年3月に寄贈いただいた懐中時計について、これまでの行ってきた調査研究の成果を記者発表しました。この懐中時計は、1871(明治4)年に長崎のポルトガル領事ロウレイロが松山藩知事久松隠岐守勝成(かつしげ)に贈ったものです。

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なお、この懐中時計は19日(火)からのテーマ展「学芸員のまなざし―収蔵資料逸品展―」(平成30年1月28日(日)まで)で公開します。ぜひ、博物館にお越し下さい。

「大型器台のその後」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から⑥

12月 12日 火曜日

瀬戸内東西の器台の中心地域(松村さを里氏作成協力)

最終回は「大型器台のその後」についての解説です。

■伊予型特殊器台の創出
 伊予型特殊器台は、今治市大西町に所在する初期(約1800年前)の前方後円墳、妙見山(みょうけんさん)1号墳の墳丘から発見されたもので、2008年、下條信行氏によって命名・提唱されました。現在のところ他に類例はなく、同古墳で創出されたとものと考えてられます。
 伊予型特殊器台は、西部瀬戸内(せいぶせとうち)で盛行(せいこう)した弥生大型器台の型式を継承(けいしょう)したものではあるが、新しい古墳時代の特徴もあわせ持っています。
 全体的なプロポーションがやや寸胴(ずんどう)ではあるが、口縁部(こうえんぶ)と裾部(すそぶ)が大きく開く筒形の形態は、大型器台から受け継いだ最大の特徴です。
新時代の要素としては、畿内系二重口縁壺(きないけいにじゅうこうえんつぼ)とセットで使用されることの外、口縁部・胴部・裾部を区別する突帯(とったい)による段の表現、胴部の長方形(ちょうほうけい)・巴形(ともえがた)・三角形(さんかっけい)の透(す)かし孔(あな)や、胴部全体への施文(せもん)の充実などが挙げられますが、胴部文様の綾杉文(あやすぎもん)や孤帯文(こたいもん)などの分析から、この文様もまた在来の大型器台から発展したものと考えられています。
伊予型特殊器台の新旧の時代要素が複合する様は、西部瀬戸内地域の個性豊かな初期古墳の成立事情を深めるため注目されます。

今治市大西町妙見山1号墳出土伊予型特殊器台・二重口縁壺(今治市教育委員会提供)

■埴輪の時代へ
 弥生時代後期から終末期(約2000年前~約1800年前)の中部瀬戸内(ちゅうぶせとうち)(特に吉備(きび))とそれ以東の地域では、器高1m前後、径30~40㎝の太い筒部の上下に口縁部と脚部が付いた「特殊器台(とくしゅきだい)」が墳墓祭祀(ふんぼさいし)に用いられ、それが、特殊器台形埴輪、円筒(えんとう)埴輪に発展したと考えられています。
 伊予において円筒埴輪が最初に用いられるのは、今治市相の谷(あいのたに)1号墳です。全長約81mの前方後円墳の墳丘の西側のみしか調査されていませんが、円筒埴輪の他に、朝顔形(あさがおがた)埴輪、壺形(つぼがた)埴輪が確認されています。
 古墳時代前期後半以降、埴輪が古墳の外表施設(がいひょうしせつ)として配置されるようになり、大型器台とその系譜にある伊予型特殊器台はその役割を終えることとなります。

今治市相の谷1号墳出土円筒埴輪・壺形埴輪

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型器台の分布圏」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から⑤

12月 9日 土曜日

西部瀬戸内に広がる大型器台(松村さを里氏作成協力)


今回は「大型器台の分布圏」についての解説です。

■大型器台の分布
 松山平野で成立した大型器台は弥生時代後期後半から古墳時代初頭にかけて(約1800年前)、周防(すおう)、豊後(ぶんご)、豊前(ぶせん)といった西部瀬戸内地域を中心に、日向(ひゅうが)、肥前(ひぜん)、土佐(とさ)、讃岐(さぬき)にも分布しています。   
県内では、南予地域の宇和盆地で松山平野の大型器台の影響を受けた資料が西予市宇和町坪栗(つぼくり)遺跡、同永長上塚田(ながおさかみつかた)遺跡において確認されています。
 伊予灘(いよなだ)、周防灘(すおうなだ)を挟んだ周防では、伊予からの影響を受けた器台が出現しています。周南市天王(てんおう)遺跡17号住居跡出土資料と同岡山(おかやま)遺跡1号台状墓周溝内出土資料は、小型でエンタシス状の胴部も細く、円形透(す)かしも小さいものです。
 豊後(ぶんご)水道を挟んだ豊後では、別府(べっぷ)湾沿岸で多く分布しています。器形は伊予と類似していますが、突帯を加え、赤色顔料を塗布するなど独特の加飾性を付加しています。
 
四国山地によって隔てられる土佐では、弥生時代終末~古墳時代初頭にかけて(約1800年前)の資料が土佐市居徳(いとく)遺跡で確認されています。口縁部の伸びは伊予出土資料ほど大きくないが、法量は松山市土壇原北遺跡の資料に類似しています。
 西部瀬戸内の外側の肥前では、みやき町原古賀(はらこが)遺跡の溝(SD107)で弥生時代終末~古墳時代初頭にかけて(約1800年前)の資料が確認されています。綾杉(あやすぎ)文などの施文は松山市福音(ふくおん)小学校構内遺跡出土資料と類似しています。
 このように大型器台の分布圏は西部瀬戸内の文化圏を示していると考えられます。

西予市宇和町坪栗遺跡出土大型器台・器台(西予市教育委員会蔵)

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型器台とマツリ」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から④

12月 8日 金曜日

北井門遺跡のマツリの情景(イラスト:藤川由依氏 監修:柴田昌児氏)


今回は「大型器台とマツリ」についての解説です。

■集落における儀礼(マツリ)
近年の発掘調査にて、集落遺跡での大型器台の出土事例が増加しています。松山市北井門(きたいど)遺跡2次・3次調査での出土資料は、集落(ムラ)での儀礼(マツリ)を復元できる良好な資料です。
 流路(りゅうろ)(SR-1)では、大型器台を中心に大量の後期弥生土器が廃棄された状態で見つかっています。その出土状況からいくつかの廃棄単位が想定されています。この廃棄単位は居住領域の縁辺に当たる流路付近で、大型器台を使ったマツリが行われ、祭式に使われた土器群がまとめて廃棄された時の状況である可能性が考えられます。
 流路のほとりで行われたマツリは、大型器台が祭壇に置かれ、その周囲にはお供え物を入れる容器や儀礼に使った土器が置かれ,呪術者(シャーマン)が儀礼を行った後に、これらの大型器台や容器、祭祀具はまとめて流路に廃棄されたのでしょう。

北井門遺跡2次調査出土遺物

■墓地における儀礼(マツリ)
 伊予では、約30遺跡で大型器台が確認されていますが、墳墓(墓地)で確認されている事例は松山市土壇原北(どんだばらきた)遺跡と隣接する土壇原Ⅵ遺跡のみです。周辺の地域では、周防(すおう)、豊後(ぶんご)、安芸(あき)などで数例、墳墓で大型器台が出土しています。
 松山市土壇原北遺跡では、昭和50年代初めに大型器台とともに器台(きだい)、高坏(たかつき)、壺(つぼ)、甕(かめ)が土壙(どこう)状の遺構(?)から発見され、その後、隣接する土壇原Ⅵ遺跡の発掘調査では、約50基の土壙墓群が検出されました。なお、同Ⅵ遺跡では、4個体の大型器台が確認されており、墓地での埋葬の儀礼(マツリ)において、大型器台が用いられたことがうかがえます。
 豊後の大分市丹生川坂ノ市条里跡(さかのいちじょうりあと)第13次調査では、土器棺墓(どきかんぼ)3基、土壙墓(どこうぼ)8基、石棺墓(せっかんぼ)6基から成る墓地にて大型器台が確認されています。
 伊予(いよ)と豊後(ぶんご)で確認されている墓は特定の個人墓ではなく、集団墓であることが特徴です。

松山市土壇原Ⅵ遺跡土壙墓群の配置復元図(愛媛県埋蔵文化財センター提供)


松山市土壇原Ⅵ遺跡出土土器

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型器台のデザイン」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から③

12月 7日 木曜日

松山市土壇原北遺跡出土大型器台(県指定文化財/当館保管)

今回は「大型器台のデザイン」についての解説です。

■造形・装飾に秘められたメッセージ

造 形 大型器台(おおがたきだい)は、大地を踏みしめる裾部(すそぶ)、長く伸びた胴部(どうぶ)、大きく開いた口縁部(こうえんぶ)からなり、“より高く”しようとする意識が発揮されています。胴部が円柱(えんちゅう)のもの、胴部のなかほどがやや膨らむもの、胴部の上がすぼまるものなどがあります。

装 飾 大型器台は他の土器と比べて装飾性(そうしょくせい)に富んでいます。最大の特徴は、胴部の円形透(す)かし孔(あな)です。複数方向から多段にわたって施(ほどこ)されており、多いものでは14段もあります。とくに大型のものには、円孔に平行する直線文(ちょくせんもん)が加わえられ、なかには列点文(れってんもん)と綾杉文(あやすぎもん)(山形)が施された例もあります。
口縁部には、直線文・波状文(はじょうもん)や列点文を施したのち、同心円(どうしんえん)や双頭渦巻(そうとううずま)きや短い棒状(ぼうじょう)の浮文(ふもん)で飾るものもあります。

こうした大型器台の造形や装飾は、弥生人からのメッセージであり、それをいかに読み解くのかが、現代の私たちに託(たく)された課題です。

土壇原北遺跡出土大型器台の口縁部拡大

なお、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センター松村さを里氏の三者による鼎談会・講演会(愛媛・大分交流講座)を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「大型化する器台」テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から②

12月 6日 水曜日

伊予の器台の変遷(松村さを里氏作成)

今回は「大型化する器台」についての解説です。
■型式分類
松村さを里氏の研究によりA~E型式の型式分類が行われています。
A型式-口径が30㎝以上で、胴部が鼓形をなすもの。吉備に由来する器台。
B型式-口径が15~20㎝の小型で、胴部が鼓形をなすもの。普通器台。
C型式-口径・器高が20㎝程度で、胴部が筒状をなすもの。縦長の普通器台。
D型式-口径・器高が30㎝以上の大型で、胴部が
筒状に長くのびる大型器台。法量によって次のD1型式とD2型式に区分される。
D1型式-口径30㎝程度、器高30㎝以上、胴部径11-14㎝程度のもの。
D2型式-口径35-50㎝、器高50-60㎝以上、胴部
径15-20㎝程度のもの。
E型式-口径・器高が30㎝以上の大型で、胴部が
エンタシス状に長くのびる大型器台。

大型器台は、胴部や口縁部に文様をもつA型式を基に生み出され、D型式→E型式と展開したものと想定できます。

大型化した器台(松山市福音小学校校内遺跡出土)

■どのように大型化したか
先の分類のD型式とE型式が伊予独自の「大型器台」として位置付けられます。

成立期 弥生時代後期前葉から中葉(約1900年前)にかけて大型器台D1型式が出現します。その後、より大型化し華やかな装飾を加えたD2型式、E型式へと発展しました。
発祥地 伊予では、約90例の大型器台が出土しており、松山平野がその分布の中心であり、発祥地であるといえる。また、その発祥地は松山平野の中でも道後城北(どうごじょうほく)遺跡群及び久米(くめ)遺跡群に求めることができます。
広がり 弥生時代後期後半から終末(約1800年前)にかけて大型器台は伊予から西部瀬戸内地域へと広がり、現在西部瀬戸内では約140例の大型器台の出土が確認されています。

大型化した器台が出土した松山市束本遺跡9次調査出土遺物

大型器台が出土した松山平野の弥生時代後期遺跡(松村さを里氏作成)

また、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

「器台とは?」 テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から①

12月 3日 日曜日

福岡県栗田遺跡祭祀遺構出土土器(九州歴史資料館提供)

現在、考古展示室では、テーマ展「大型器台とその時代-西部瀬戸内の弥生文化圏を探る-」を開催中です。数回に分けて、展示項目と展示資料をご紹介します。

■器台の起源
器台形土器(以下、器台と呼称する)は、弥生時代中期初頭(約2200年前)の九州に小型のものが現われます。出現期の器台は、壺(つぼ)・甕(かめ)・鉢(はち)などの土器を安定して置くための台としての役割を果たしました。
九州では、弥生時代中期中頃(約2100年前)になると、高さが80㎝を超える「筒形器台(つつがたきだい)」が墓地に出現します。
福岡県朝倉郡筑前町の栗田(くりた)遺跡では、54基の甕棺墓(かめかんぼ)の近くに、よく磨きあげられた真っ赤な土器(壺・甕・器台・椀・高杯(たかつき))がまとまって納められた地点が複数見つかっており、これらは、死者を甕棺に埋葬した際の儀礼(マツリ)専用の土器群です。より高く捧げようとした背高の器台は、この儀礼で特に重要な役割を果たしたに違いないと思われます。

福岡県栗田遺跡の筒形器台等の出土状況(下條信行氏撮影・提供)

■地域における普通器台の出現と展開
九州以外の西日本では、中期後半(約2000年前)に各種の土器に脚台をつけることが多くなり、大型ではない普通の器台が出現します。瀬戸内地域では、後期初頭(約1900年前)に吉備(きび)、播磨(はりま)、河内(かわち)など吉備以東で器台が出現・展開し、特に吉備では後期後半(約1800年前)にかけて、大型化・特殊化した独自の器台の文化が展開します。
伊予・松山平野においては、後期になって中部(ちゅうぶ)瀬戸内(讃岐(さぬき)・吉備)からの影響で普通器台が出現します。そして後期中頃には普通器台から伊予独自の大型器台を生み出し、その後華々しい器台の展開をみせます。松山平野内で大型器台の出土が集中する地域は久米(くめ)遺跡群とその周辺であり、このエリアは大型器台の出現地として注目されます。

松山大学構内遺跡出土の器台

松山市福音小学校構内遺跡出土の器台と絵画土器(一緒に出土したものではありません。想定復元です。)

伊予の大型器台発展の時代背景(松村さを里氏作成)

また、今回の展示の記念イベントとして、12月16日(土)に大分市教育委員会の坪根伸也氏をお招きして、愛媛大学名誉教授下條信行氏、愛媛県埋蔵文化財センターの松村さを里氏の三者による鼎談会(講演会(愛媛・大分交流講座))を開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

資料紹介「聖戦必勝態勢昂揚」~テーマ展「戦時下に生きた人々」から~

8月 28日 月曜日

テーマ展「戦時下に生きた人々」ものこり一週間となりました。今日は最後に、「5 まだまだがんばれ、がまんしろ!」のコーナーで展示している「聖戦必勝漫画昂揚」を紹介します。
戦前の漫画界は、いくつものグループに分かれていました。例えば、「日本漫画会」(北沢楽天、岡本一平)、「漫画連盟」(麻生豊、宍戸左行)、「新漫画派集団」(杉浦幸雄、横山隆一)、日本漫画界系の若手集団「三光漫画スタジオ」(松下井知夫、根本進)、漫画連盟系の若手集団「新鋭漫画グループ」(秋好馨、南義郞)などがありました。しかし、昭和15(1940)年に第2次近衛内閣が新体制運動を表明して大政翼賛会がつくられると、政党だけではなく新聞や漫画なども統合されました。若手の三光派と新鋭派が「新漫画派集団」に合同を持ちかけたことで「新日本漫画家協会」が設立されました。そして、翌年にはベテランを含めた「日本漫画奉公会」となります。
本展では「日本漫画奉公会」(会長北沢楽天、副会長田中比左良、顧問岡本一平、幹事細木原青起)が描いた「聖戦必勝態勢昂揚」を展示しています。多くの子どもが入った風呂を沸かすお母さん(池田永一治)、防毒マスクをかぶっている女性(北沢楽天)、油の取れる蓖麻(ヒマ)という植物を植える少女(細木原青起)などが描かれています。本来、笑いや笑顔を引き出すはずの漫画家たちも、大政翼賛会の傘下にあっては、戦意を昂揚させ国民に苦しい生活を我慢させるものしか描くことができなかったのです。漫画家をとおしても本テーマ展が目的とした戦争の悲惨さと平和の大切さを感じ取ることができます。 
テーマ展は9月3日(日)まで開催しています。ぜひ、ご来館下さい。


防毒マスクをかぶっている女性(北沢楽天)


多くの子どもが入った風呂を沸かすお母さん(池田永一治)

資料紹介「千人力と血染めの鉢巻き」~テーマ展「戦時下に生きた人々」から~

8月 24日 木曜日

今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「4 飛べなかった特攻隊員」のコーナーで展示している「千人力」と「血染めの鉢巻き」を紹介します。
特攻隊とは、戦死を覚悟しての体当たり攻撃です。飛行機では「桜花」、潜水艦では「回天」、船艇では「震洋」などがありました。展示室では、学徒出陣で海軍に入った特攻隊員を紹介しています。この方は昭和20(1945)年8年10日に相模湾に来ることが予想されたアメリカ艦隊への特攻を命じられました。13~15日、千人力のジャケットと腹巻きを身につけ、血書の鉢巻きを巻いて、いつでも離陸できる態勢をとっていました。千人力とは千人針の赤い糸さえ無くなったため、「力」という文字を千個押したものです。そして、鉢巻きは、女性たちが小指を切って皿にためた赤い血で「桜花」と書いて贈ってくれたものでした。結局、アメリカ艦隊は相模湾に現れず、15日の終戦を迎えたのでした。
当時、特攻隊は英雄とみなされていました。この方は生きて終戦を迎えましたが、簡単に喜べるものではありませんでした。仲間たちは特攻で戦死したのに自分は生き残った、故郷に帰っても生きて帰った特攻隊員として世間の目は冷たかったそうです。兵士と言えば、海外で戦ったイメージがありますが、国内にこのような兵士がいたことを知ることも大切です。
テーマ展は9月3日(日)まで開催しています。ぜひ、ご来館下さい。


               千人力


               血書の鉢巻

資料紹介「まぼろしの一銭陶貨」~テーマ展「戦時下の人々」から~

8月 3日 木曜日

今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「3 留守を守ったお母さん」のコーナーで展示している「まぼろしの一銭陶貨」を紹介します。
明治以降、日本の貨幣は金・銀・銅を主な材料として作られました。戦争の長期化と軍需優先のあおりを受けて、昭和8(1933)年に純ニッケル硬貨が作られました。この背景には軍需資材としての利用価値が高いニッケルを輸入して、貨幣として備蓄しようとした意図があり、昭和13(1938)年にニッケル硬貨は回収され、次はアルミニウム硬貨が作られました。しかし、アルミニウムは飛行機の材料となるため、2度にわたり量目が変更されました。10銭硬貨の場合、昭和16(1941)年に1.5gから1.2gへ、昭和18(1943)年には1.2gから1gになったのです。アルミニウムに続いて作られたのが南方の占領地でとれる錫や亜鉛を使った硬貨です。しかし、戦況の悪化で南方から錫や亜鉛も手にはいらなくなります。
そこで、政府が考えたのが粘土を材料とした陶貨です。有田焼や瀬戸焼で有名な佐賀県、愛知県などの陶器メーカーが作りました。表には富士山、裏には桜花の模様があしらわれています。昭和20(1945)年の敗戦によって使用されることなく、粉砕されたのですが、少量ながら市場に出回っています。なお、一銭という単位の貨幣が作られたのは、不発行ながらこの陶貨が最後となりました。お金を通じて戦争を捉えてみると、戦争を身近にイメージできるかもしれません。
8月6日(日)には自由研究応援講座「戦争を調べよう」(事前申し込み必要)を行います。ぜひ、ご参加ください。展示は9月3日(日)まで開催しています。

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              裏

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