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お知らせ 戦前戦後の雑誌展について

8月 19日 木曜日

平成22年7月24日(土)から平成22年9月12日(日)まで、常設展示室内の文書展示室で、「戦前戦後の雑誌展―相原コレクションよりー」を開催しています。

<主な内容>
 当館で寄託されている相原コレクションから、戦前戦後の創刊雑誌を紹介します。雑誌は、出版物の中でも、新聞と同様に消費されることを目的とされていました。日本の近代化の象徴のひとつでしたが、現在では雑誌の創刊号が残ることは、たいへん珍しく貴重といえます。
 故相原隣二郎氏は、明治・大正・昭和時代初期、そして、戦後にかけて、944点の創刊雑誌を収集しました。
隣二郎氏は、教養から娯楽に至るまで、さまざまな種類の雑誌を収集しました。それぞれの時代に、人々が何を見、何を聞いて、どのような姿で生きてきたのか、感じ取っていただければ幸いです。

(1)雑誌のはじまり
日本における雑誌のさきがけは、慶応3(1867)年に柳河春三が発行した『西洋雑誌』です。わずか十数ページで、欧米の雑誌を習ったものでした。まだ、日本人にとって雑誌はなじみがなく、一から説明しなくてはなりませんでした。

(2)文明開化と雑誌
文明開化が花開くと、文化人が次々と欧米へ留学して、教育や法律、科学などさまざまな分野を学んで帰国しました。そして、雑誌を刊行して、近代国家へと文化の向上を図りました。

(3)大正デモクラシーと雑誌
 日清・日露戦争の勝利を背景に、大正時代に入ると、日本国内の諸産業(絹や茶、鉄鋼業など)が海外へ多く輸出されるようになりました。人々の生活にも近代化が浸透して、大衆文化が栄えるようになりました。この社会現象を大正デモクラシーと言います。庶民による雑誌の講読数も増え、次々と新しい文化が雑誌に紹介されました。

(4)愛媛県と絹
古来より絹の産地だった愛媛県は、明治時代以降、全国でも有数な産地となりました。中でも西予市野村町の養蚕は、明治初期に始まり、大正初期には1,138戸を数えました。20年に一度、伊勢神宮で行われる式遷宮では、伊予の絹を使う慣わしがあります。野村町で生産された絹織物は、現在でも皇室に献上されています。

(5)昭和の雑誌
昭和に入ると、日本の都市部では鉄筋コンクリートの建物が次々と建てられ、大衆文化が栄えました。雑誌にも100万部にものぼるベストセラーが登場するようになりましたが、昭和4年の昭和大恐慌を契機に日本も大きな経済打撃を受けて、太平洋戦争へと進んでいきました。

(6)戦争と雑誌
昭和12(1936)年に、日本と中国の間で戦争が始まりました。その二年後、テレビジョン実験放送が開始となり、やがて、雑誌は、戦争へと人々を誘導する媒体と変化していきました。昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入しました。戦局が悪化するにつれて紙も不足し、雑誌社の統合によって、種類が減らされました。終戦を迎える頃には、雑誌のほとんどが発行できなくなっていました。

(7)戦後の創刊雑誌
昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は、廃墟の中で復興へと歩き始めました。家族や生活基盤を失った人々の希望となったのは、雑誌の復活でした。物資が不足する中で、紙は配給制でした。部数を制限して発行された雑誌が店頭に並ぶと、飛ぶように売れていきました。

(8)GHQと雑誌
戦後日本は、マッカーサー率いるGHQによって、政治・経済・文化のすべての面において、改革がありました。アメリカ文化を紹介する内容が数多く発行され、占領軍に対する批判や、戦前の軍国主義に関わる内容などは、検閲によって発行されませんでした。

(9)戦後の創刊雑誌の特徴
戦後の創刊雑誌のタイトルは、新しい時代に期待をこめて「新」の文字が多く用いられました。また、復興の象徴として、「自由」・「平和」・「希望」、英語をカタカナで表記する「スタート」など、新しいタイトルが次々と登場しました。

(10)女性の解放と雑誌
昭和21(1946)年、日本で初めて男女平等の総選挙が行われました。主婦や働く女性に向けた雑誌も数多く発行されました。戦後の食糧難の時代に生き抜く食事の工夫や、戦争中は途絶えていた女性の教養の手本としてアメリカ人女性のスタイルが紹介されました。

(11)戦後のこども雑誌
戦争中、子供向けの雑誌は、わずか6種を数えるのみでしたが、昭和21(1946)年4月には40種類を超えて発行されました。明るく、想像力の豊かな子供が育つように、希望に胸ふくらむ物語などが編集されました。混乱と困難の時代の中、子供たちはいきいきと、のびのびと育って行きました。

(12)映画・演劇・スポーツの復興
戦後、京都の映画村は被災を免れ、いち早く復興の先陣を切りました。野球を始めとしたスポーツも次々と復活しました。大衆文化が復活し、戦後の困難を生きる人々に大きな希望と楽しみをもたらしました。

テーマ展紹介-9

7月 4日 日曜日

木村氏の足跡をたどる 発掘された遺跡

 

中駄場遺跡出土遺物展示状況

  このコーナーでは、木村氏が踏査した成果を基に発掘調査された遺跡として、中駄場遺跡(宇和島市)と大宮・宮崎遺跡(高知県四万十市)を展示・紹介しています。今回は、中駄場遺跡について紹介します。

 中駄場遺跡(宇和島市津島町御内)

■発見の経緯・発掘調査

 1977年、木村氏によって発見された遺跡で、姫島産黒曜石製石鏃や頁岩製剥片などが採集されました。姫島産黒曜石などから縄文時代のキャンプ・サイトとして評価されました。この踏査成果を受けて、1999年、県道整備事業に伴う発掘調査が、実施され、後期旧石器時代・縄文時代前期の遺物が確認されています。

 

中駄場遺跡遠景写真(多田編1999より)

 ■立地

宿毛湾に注ぐ松田川の最上流左岸に発達した河岸段丘にあり、標高約250mを測ります。

 

  中駄場遺跡位置図(木村2003より)

■周辺の遺跡 

松田川上流部では影平遺跡・中駄場遺跡・犬除遺跡・笹平遺跡と旧石器・縄文時代の遺跡が集中している地域の一つです。

■発掘調査の成果 

後期旧石器時代の遺物として、ナイフ形石器・スクレイパー・使用痕剥片・台石・石核・剥片があり、在地の石材を使用し、石器作りをしながら狩猟を行い暮らしていた様子が復元されています。木村氏が縄文時代にキャンプ・サイトであると指摘されていたが、後期旧石器時代においてもキャンプ・サイトであることが証明されました。

 

 中駄場遺跡土層断面写真(多田編1999より)

 参考文献

木村剛朗 2003『南四国の後期旧石器文化研究』幡多埋文研

多田 仁編 1999『中駄場遺跡』(財)愛媛県埋蔵文化財調査センター

 本テーマ展は9月5日まで開催予定です。お見逃しなく。

テーマ展紹介-8

7月 1日 木曜日

西四国の縄文文化

 広見遺跡採集の石鏃

 当地域の縄文時代の遺跡は、木村2001によると約140箇所で確認されています。ここでは、木村氏が多くの資料を採集されている愛南町広見遺跡について、紹介します。

 広見遺跡(南宇和郡愛南町広見)

 ■発見の経緯

1966年に考古学研究者によって発見された遺跡です。

■立地

盆地状の広見地区の名路の通称岡駄場に所在し、標高382mの北側の山から南に延びる舌状段丘の先端近くに位置し、標高約100mを測ります。

 

 広見遺跡位置図 木村1995より

■遺物

石器129点、土器70点が報告されています。

土器は、前期の彦崎ZⅠ式、中期の船元式、後期の中津式・平城式・片粕式・伊吹町式、晩期の中村Ⅱ式が確認されています。

石器は、石鏃・石錐・石匙・スクレイパー・打製石斧・庖丁形石器が確認されています。特に、石鏃は香川県金山産サヌカイトが65%と主体を占めることが特徴です。

  木村氏は、1972年に「愛媛県南宇和郡広見縄文遺跡と出土遺物」『古代文化』第24巻第5・6号を発表されています。

 また、著書『幡多のあけぼの』(1992年)「散らばる矢じり-縄文人は狩猟好き」では、石鏃を採集した際のことを次のように記されています。

「(前略)宿毛湾に注ぐ松田川の支流、篠川上流地帯の愛媛県南宇和郡一本松町広見遺跡も石鏃の多い所である。(中略)

 私はある日、ここを訪れ徹底的に表面採集をしたことがある。その時、土器のほか、石鏃を三十点余り拾った。これは、私が一日で採集した石鏃数の最多記録で、今もこの記録は破られていない。その後、ここに通い詰め、最終的には石鏃百五十点余りを集めた。その石鏃は、形の完全なものが多く、時期的には、縄文前期から晩期までのものを含んでいた。ただ石質のほとんどが香川県坂出市の金山に産出するサヌカイトであったのには驚いた。ここの縄文人は瀬戸内地方と頻繁に交易を行っていたのであろう。(後略)」

 

木村氏が撮影した広見遺跡周辺写真

(撮影年不明 1970年前後?・高知県立歴史民俗資料館蔵)

参考文献

木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11

高知大学黒潮圏研究所

木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研

  この他にも、松野町真土遺跡、広福寺遺跡、愛南町深泥遺跡、茶堂遺跡採集資料について紹介しています。

テーマ展紹介-7

6月 30日 水曜日

西四国の旧石器文化

  当地域の旧石器時代の遺跡は、木村2001によると約20箇所で確認されています。ここでは、展示の中心である愛南町和口遺跡について、紹介します。

和口遺跡採集資料の展示状況

和口遺跡 (南宇和郡愛南町御荘和口)

■発見の経緯

1987年に考古学研究者によって発見された遺跡です。木村氏は10数年間、休日を利用して表面採集を行なわれました。採集された石器は約1000点を数えます。著書(1995年)で約150点、著書(2003年)で約450点、追悼論集(2009年)で約300点が報告されています。

■立地

豊後水道に面した御荘湾の背後に形成された低丘陵上に位置し、標高は80m~90mを測ります。

 和口遺跡位置図(『考古学の源流』2009年より)

採集された場所は南に舌状に延びる丘陵部の5地点で確認され、以下の点が指摘されています。 

1)第1・3地点では製品が認められない。

2)第2地点のA区に小型ナイフ形石器が多い。

3)第2地点のB区に横長剥片素材のナイフ形石器が多い。

4)第4地点で最も多く遺物が採集されている。

5)角錐状石器は第4・5地点で採集される。

 

 和口遺跡における遺物採集地点(木村2003より)

■特徴

 本遺跡では、近畿地方から備讃瀬戸地域にかけて発達した2万年前の石器製作技術である、「瀬戸内技法」と呼ばれる技術が存在したことがわかっています。これは採集された石器の分析から判断されたことであり、四国における旧石器時代研究史の上では非常に重要な指摘となりました。「瀬戸内技法」関連遺物には、国府型ナイフ形石器、翼状剥片、翼状剥片石核があります。石材は地元で産出する頁岩ですが、形態は備讃瀬戸地域のものに酷似しており、備讃瀬戸地域からの直接的伝播が考えられ、後期旧石器時代における集団の移動・植民が示唆されます。

国府型ナイフ形石器文化ルート推定図(木村2003より)

参考文献

木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11

高知大学黒潮圏研究所

木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研

木村剛朗 2003『南四国の後期旧石器文化研究』幡多埋文研

木村剛朗さん追悼論集刊行会 2009『考古学の源流』

  この他にも、宇和島市池ノ岡遺跡、鬼北町興野々遺跡、愛南町広見遺跡採集資料について紹介しています。

テーマ展紹介-6

6月 27日 日曜日

木村コレクションとその学問 (多田仁氏)

 今回は、寄贈資料の整理でご協力いただきました多田仁氏(愛媛県埋蔵文化財センター)に展示パネル掲載のために、寄稿いただきました原稿を掲載させていただき、木村氏収集資料の整理に積極的に関わられた経緯とその思いをご紹介させていただきます。

木村コレクションとその学問 (多田仁氏)  

 木村さんと私は1993年頃からのお付き合いで、当時の私は四国に住み始めたばかりで何も解らず、まずは木村さんに多くの情報を得ることがスタートであった。そして、木村さんが亡くなる直前まで数々の教えをいただき、共に考古学的研究に勤しんだことは、生涯忘れることのない想い出として私の心の中に生き続けることになろう。   

 こうした木村さんとのお付き合いもあって、生前に頂いたお言葉を実行するべく、彼が収集していた考古資料をそれぞれの地元に里帰りさせる作業を開始したのである。その作業は2007年冬から2008年の初夏にかけて行っているが、まずは遺物の圧倒的な多さには驚かされた。これこそ木村さんの考古学人生を感じ取ることのできる遺品であり、氏の学問姿勢の表れでもある。遺物の収納にはダンボール箱や菓子類の空き箱などが使用されていたが、採集された遺跡名や採集日時などが記されたものもあった。これをみても単に古物趣味的に土器や石器を収集していたのではなく、考古学的研究の資料として丁寧に遺物を取り扱っていた木村さんの学問スタイルを垣間見ることができるだろう。

 遺物の整理期間中、まずは遺跡ごとの仕分けを行い、その内容を把握することに努めた。その結果、高知県の遺跡は約100遺跡約15,100点、収納ケース48箱、愛媛県の遺跡では約20遺跡約4,100点、収納ケース16箱という数に達した。さらには高知・愛媛県以外の資料もあるほか、木村さんが生前に製作した石斧等の実験製作品も含まれており、整理作業をしながらも、木村さんとともに貴重な石器を探した時のことや、一つの石器について夜遅くまで話したことなど、たくさんの想い出が甦ってきた。土器の一片、一かけらの石器には木村さんからいただいた数々の教えが詰まっているのである。

  しかし、ここまで整理作業を行ったとはいえ、私自身、これらすべての詳細を把握しているわけではない。さらなる評価については、近い将来、若き研究者達によって少しずつ解明されていくことであろう。その時を木村さんも待ち望んでいるに違いない。

  なお、木村資料の整理作業について、愛媛県歴史文化博物館のご理解とご協力が大きな支えとなったことは改めて述べるまでもないだろう。博物館が一体となって木村氏の業績を後世まで伝えることを目標とし、市民参加で実施された一連の整理作業は、まさに木村さんが望んだ文化財行政の姿である。博物館のご尽力があったことは勿論であるが、木村さんの熱き思いが、残された人々を動かしたのである。我々は木村さんの考古学的人生を学び、受け継ぎ、その成果を後世へ残していく努力を怠ってはならない。未来の考古学者たちのため、掘り起こした郷土の歴史を消してしまわないため、私たちは木村さんの遺志と学問を語り継ぐことになるだろう。

和口遺跡現地学習会での様子(2009年12月)

テーマ展紹介-5

6月 26日 土曜日

木村資料整理プロジェクト

 今回の寄贈資料の整理あたっては、資料の寄贈前の段階で分類作業・台帳作成作業を多田仁氏(愛媛県埋蔵文化財センター)にお願いしました。多田氏には、資料整理期間としては短い約3ヶ月の間、休日を利用して、博物館に通っていただき、整理いただきました。

 当館受贈後は、2009年度より、整理作業を開始しましたが、約4,000点もの資料があり、学芸員だけでは、手に負えないと考え、多くの方のご協力を得た整理方法の検討を行ないました。そして、友の会土器ドキクラブ会員の方・歴博ボランティアの方・博物館実習生の方・宇和高校就業体験(インターンシップ)生徒の方の多くの方に協力いただく、「木村資料整理プロジェクト」を立ち上げました。

 ここでは、資料整理にご協力いただいた方の感想を紹介し、普段触ることのない石器や土器の整理にあたられたみなさんの声を感じていただければと思います。

 ■ボランティア Iさんの感想

 「毎月1回あるボランティア活動の資料整理に参加して、はやくも3年になります。この活動は、他の博物館等が発行する刊行物の整理を中心に、館内展示物の小物作り、鎧や駕籠の清掃、古文書の整理等で最近では、木村剛朗氏採集石器の資料整理を行いました。

いずれも手間と時間の掛かる根気のいる作業でしたが、歴史好きの私には、その時代の物に触れたり、関係することに携われることが、嬉しく、その都度楽しい時間を過ごすことができました。

石器の資料整理においては、私の歴史知識に旧石器・縄文時代が加わることになり、楽しみが増してきました。

私の歴史好きは、中世・近世の現存する建造物等に興味を持ち、それらを通じて、その時代を想像し、その中にある先人の知恵を知ることに感激があり、大変嬉しい気持ちになれることです。

これからも仲間と一緒に楽しい作業を続けていきたいと思います。」

 ■ボランティアHさんの感想

「普段には使用しない難しい言葉、「読んで字の如し」と言うけれど、なかなかどうして・・・・・解せない。

先人達が旧石器時代に石を加工された現地に行き、「石器拾い」に参加。先人達はどんな気持ちで製作されたのだろう。私は何も考えずこの地に立った。

道具も無い、型もないところから、刃物を造り、試行錯誤し、たくさんの破片等を残した。先人達が後世にそれを収集され、何万年前の世界や社会を理解しようと研究している子孫達。

ただの「石ころ」からいろんな世界が広がり、ボーッと生きて来た自分のこの「石器拾い」に少しだけ「土器・ドキ」の心が湧いて来た。

超過去-と現代との空間をいろいろ夢みて、ものを考えるという心の豊かさを養い私の携わった「石ころ」を今は少しだけ見直している。

旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・etc 戦国時代を経て江戸・明治・大正・昭和・平成に至り今日の21世紀が続く。

この内の一点の何かを勉強させて貰ってありがたく思う。

本当にありがとうございました。

未来思考の時代にこの様な過去の研究をされている方達を尊敬しています。

今、ゲームなどに、歴史的人物の出現するものが流行しているようですが、若者や、子供たちにも私が「土器・ドキ」した様に、考古学に興味を持たせる事は出来ないのでしょうか。」

  しかし、この整理プロジェクトは、本展の開催で終了するものではなく、今後も多くの未整理資料の整理を進めて行く予定です。資料整理に関心のある方は、歴博ボランティアに参加してみませんか?

ボランティアの方による資料整理(2009年)

テーマ展紹介-4

6月 25日 金曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(3)実験考古学」

  木村氏の考古学研究の成果の一つとして「実験考古学」の先駆的業績があります。著書『幡多のあけぼの』(1992年)では「私は縄文人-石器を作って試す」として、次のように記されています。

  「子供のころより、あちこちの遺跡を訪れ、随分と土器や石器を拾い集めた。(中略)採集した石器は、丁寧に水洗し、全体を入念に観察するのである。(中略)打ち欠きによって作られた打製石斧は、荒々しい大きな剥離痕を全面にとどめ力強く迫力を持っている。土掘り具として作られたこの打製石斧は、さすがに土を掘りやすくするために刃部は幅広く薄身に加工されていた。と石で研いで作られた磨製石斧は、樹木の伐採や木工具として使用されたもので、特に刃先は鋭利に作られている。槌として用いられたたたき石には、ちゃんと使った跡がアバタ状となって残され、長い間使い込まれたものは石の面が擦り減って変形していた。

 拾い集めた遺物を観察しているうち、縄文人がどのように使っていたのか、そして本当にこれで役立っただろうかと疑問がわいてきた。よし、自分で石器を作って使ってみたら分かるだろうと、それを実行してみた。(中略)まず打製石斧を作ることから始めた。四万十川から黒色の質の硬い石を拾ってきて石の槌で打ち割り形を整えた。これは意外と簡単にできたし、完成品は実物とほとんど見分けがつかないほどの出来栄えだった。早速、木の柄に付けて土を掘ってみた。土はおもしろいほど、幾らでも掘れた。(中略)

 次は、磨製石斧で木を切ってみた。実験用として作った石斧の石質は、蛇紋岩と頁岩である。森に入って立木を探し、大人の太ももくらいのカシの木を見つけ、その木に力を込めて斧を振り下ろした。(中略)粘りのある蛇紋岩の石斧は、いくら力を入れて振り下ろしても折れることはなかった。(中略)

実験考古学を試みたことで、私は石器を見る目が一段と変わった。石器に残された加工痕や、全体の形、滑らかに擦り減った使用痕など見詰めていると、縄文人の気持ちと心が何となく分かるようになってきた。私は、もう平成の縄文人になったようだ。」

 木村氏が実験用に製作した石斧(打製石斧・磨製石斧)2点が現存しています。実験考古学に関する論文は、1970年から72年にかけて、5本の論文を執筆されています。

 木村氏が復元した打製石斧と磨製石斧(手前)(高知県立歴史民俗資料館蔵)

テーマ展紹介-3

6月 24日 木曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(2)姫島産黒曜石の交易研究」

  木村氏の最初の研究対象に、大分県姫島産黒曜石の交易に関する研究があります。著書『幡多のあけぼの』(1992年)では「海上の道(上)―黒曜石の故郷探る」「同(下)―松の舟で渡航実証」の2項目で姫島への探訪について記されています。

  「大分県国東半島の突端、周防灘に浮かぶ7k㎡の小さな島、東国東郡姫島に産出する黒曜石が交易によって幡多へ大量に運び込まれた。その時期は縄文早期(約8,000年前)から晩期(約2,500年前)にかけてであり、約5,500年間続いた。そして、幡多の縄文人は、手に入れた黒曜石で狩猟用の石鏃をたくさん作った。

 作業場には石くずがいっぱい散乱し、石鉄の作り損ないや未完成品、時には完成品をも置き去りにした。石くずや石鏃が集中する個所を遺跡でよく見るが、そこはこのような場所だった。作業場からは、時たま大きな原石が出土することがある。愛媛県南宇和郡の御荘湾奥部の海辺に、舌状に突き出た海岸段丘上の先端部にある深泥遺跡からは大人の頭ほどの巨大な原石が発見されている。今のところ、これが四国で最大である。(中略)

  当時運ばれてきた黒曜石が、すべてこのような大きなものであったわけではなく、そのほとんどが握りこぶし大であったと思われる。(中略)それを求めて姫島に探検を試みた。(中略)昭和43年12月31日に中村を後にした。宇和島から別府行きの船に乗り、その船上で山口君に言った。「この広い海を縄文人は黒曜石を積み丸木舟で渡ってきたがぜ。縄文人は偉かったねえ」。私は海を眺めながら、荒い波間に4、5人の縄文人が手こぎする丸木舟が見え隠れする光景を思い浮かべた。(中略)

 鉛色にうねる荒波のなかを、期待と不安を抱く私たちを乗せた船は姫島へと向かった。黒曜石を運び出した場所はどんなだったか、球状になった黒曜石は見つかるだろうか、とかいろいろ思いをはせて乗り込んだものの、姫島に着くまでは寿命が縮む思いをしたのであった。(中略)翌正月2日は、前日とうって変わり快晴であった。早速地元の役場に出向き、黒曜石のある所へ案内していただいた。(中略)黒曜石は波打ち際に地上40m、延長120mのそびえ立った巨大な岩盤となり、むき出しとなっていた。(中略)浜辺には、波にもまれて丸くなった石がゴロゴロしていた。それを手に取って見ると、表面にキラッと光る部分が目に留まり、打ち割ってみた。なんと、これがガラス状に輝く黒曜石であった。探し求めていた球状の黒曜石は確かに姫島にあった。

 九州地方の縄文人は、この浜辺に転がる黒曜石をかき集めて、幡多地方へとせっせと運んでいたのであろう。それにしても、球状の黒曜石は浜に無尽蔵にあって驚いた。(後略)」

  木村氏は、1969年から70年にかけて、姫島産黒曜石に関する論文を5本執筆されています。

愛南町深泥遺跡採集黒曜石石核(個人寄贈・当館蔵)

テーマ展紹介-2

6月 20日 日曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(1)遺跡踏査」

  木村氏の考古学研究の大きな成果の一つとして、西南四国地域を隈なく歩き(踏査)、多くの遺物を表面採集し、新たな遺跡を発見したことがあげられます。著書『幡多のあけぼの』(1992年)「遺跡探しのコツ 地図でまず下調べ」には次のように記されています。

  「縄文の遺跡を見付けるのは、一般に難しいと思われがちであるが、ポイントさえつかめば簡単である。ただ、それにはある程度の訓練と勘が必要である。まず遺跡のありそうな所を地図の中から探すことから始める。(中略)その中から河川流域と海岸に発達する舌状または扇状に開けた段丘地をマークすればよい。できるだけ南向きで日当たりのよい地形を選び、中でも大規模な段丘地であれば遺跡発見の確率がより高い。(中略)もちろん、これらのことは縄文人が生活するうえで求めたところである。(中略)遺跡探しも、地図上で想像していたことが現地に行ってみれば大きく異なることも時々あり、地図に表現されてない所で、現地で素晴らしい地形をしている所も見られる。こういう所は、大体に小規模の段丘となっている(後略)。」

  木村氏が踏査で確認した遺跡数を正確に数えることはできませんが、著書に紹介された遺跡数では、『高知県梼原の縄文遺跡と遺物』(1978年)4ヶ所、『姫島産黒曜石の交易』(1978年)15ヶ所、『四国西南旧石器・縄文期の新発見遺跡と遺物』(1979年)6ヶ所、『四万十川流域の縄文文化研究』(1987年)49ヶ所、『四国西南沿海部の先史文化』(1995年)63ヶ所、『南四国の後期旧石器文化研究』(2003年)38ヶ所を数えます。

遺跡踏査の様子(四万十市平野にて 多田仁氏撮影)

テーマ展紹介-1

6月 19日 土曜日

木村剛朗氏と考古学「考古学との出会い」

  著書『幡多のあけぼの』(1992年)「上岡正五郎先生 目を開かせた恩人」では、考古学との出会いについて、次のように記されています。

  「私の考古学の恩師の一人は上岡正五郎先生である。(中略)小学六年の時、上岡先生に中村小の講堂で「宿毛貝塚と原始の暮らし」の話を聞かせていただくことがなかったなら今日の私の考古学はないし、この道での喜びも味わえなかっただろう。(中略)ある日、先生が「これを見てみよ」と標本箱の一つを重そうに抱えて私の目の前に置いた。ふたを開けてびっくり、中には完全な形の石斧がいっぱい入っていた。一瞬、頭がカッと熱くなったことを覚えている。どれも、表面には打ち欠いた加工痕が荒々しく残り、迫力満点であった。私は「先生、これはどこから出たのですか」と尋ねた。先生は「四万十川鉄橋から少し上流の所にある入田遺跡から出土したものじゃ」と教えてくれた。(中略)これを見ていて、自分でも拾ってみようと気持ちが募った。入田遺跡通いを始めたのは、その時からである。(後略)」 

  小学校時代に上岡正五郎氏に考古学の魅力を教わったことが考古学との出会いだったようです。そして、入田遺跡(現四万十市)の調査時の写真が残されています。

(高知県立歴史民俗資料館蔵)