‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

村上節太郎写真30 今治の常磐町商店街

3月 26日 金曜日

常盤町商店街 今治市常磐町 昭和40年

 今治港から市役所を東西に結ぶ今治の中心商店街で、売り出しなのか商店街全体が紅白の幕で飾られている。通称「今治銀座」とも呼ばれ、衣料品の店が多く立ち並ぶ。買い物客の足となる輪タクが客待ちをしている。しかし、近年は渡海船による島嶼部からの買い物客が減り、人通りも写真当時よりは減っている。

村上節太郎写真29 今治城の牡蠣の養殖

3月 21日 日曜日

今治城の牡蠣の養殖 今治市 昭和11年

 何の変哲もない城跡の石垣の写真。名所旧跡として今治城を撮影した写真に見える。しかし、村上節太郎が書き残したメモには、「城の堀を利用したカキの養殖」と記されている。確かによく見ると、堀の中に養殖のための竹ヒビが林立している様子がうかがえる。
 地元で聞くと、今治城の堀は明治時代に入り、旧今治藩士がつくった組合により管理され、牡蠣の養殖場として貸し出されていたことがわかった。今治城の堀は海水を導入しており、潮の干満による水位を調整する水門もついていたため、牡蠣の養殖に適していたのだろう。村上の地理学者としてのセンスがうかがえる一枚である。
 今治城は軟弱な地盤を補うため、今治城の本丸、二之丸の石垣の下には犬走りがまわり、松が植えられていた。昭和11年の写真には多くの松が見えるが、現在はこれらの松は失われている。

中国四国名所旧跡図15 弥谷寺

6月 6日 土曜日

中国四国名所旧跡図(弥谷寺)

 標高382メートルの弥谷山の中腹にあった71番弥谷寺を描いている。古川古松軒の「四国道之記」には、弥谷寺の岩にことごとく仏像が彫刻されているが、それは弘法大師が一夜で千体の仏像をおつくりになったと伝えられていると記されている。西丈の絵にも、岩に彫られた数々の石仏の姿を見出すことができる。

 西丈と同様に江戸時代後期の弥谷寺を描いたものとしては、阿波の遍路による「四国八十八ケ所名所図絵」の挿絵がある。その挿絵では、上空から鳥瞰して弥谷寺の建物配置なども忠実に捉えているのに対して、西丈は写実性を後退させつつも、岩肌を強調して当時の旅日記に「見る所皆々仏像にあらずといふことはなし」と記した特徴的空間を力強く描き出している。

 また、西丈の絵には、「狼も念仏も同し法の声ちりのうきよといとふいやたに」の言葉が添えられている。西丈は遍路の途次に狼の声を聞いたのかもしれないが、江戸時代後期、四国の山には狼が広く棲息していたようである。文化6(1809)年、京都の商人が四国遍路した際の旅日記にも、人々が寝静まった夜、狼や猿の声が山に響き渡るのに恐怖を感じると記されている。

  弥谷寺についても、最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。

金毘羅名所(弥谷寺)

中国四国名所旧跡図14 出釈迦寺

6月 5日 金曜日

  丸亀に着いた西丈が、実際にどのように四国遍路をまわったのか分からないが、絵の順番でいくと、丸亀から少し後戻った73番の出釈迦寺が丸亀の次に綴られている。ちなみに、丸亀に着船した遍路は、78番の道場寺から札を打ち始めるのが一般的である。
20090605_579905

 西丈の絵では、右下に出釈迦寺の境内が描かれている。境内は石垣の上にあり、中央の大きな建物が本堂(あるいは鎮守社とも)で、その脇の小さい建物が大師堂と思われる。境内にはさらに、手形のようなものが付いた石と石碑のようなものが見える。手形の石には、「露のせとしらは命捨て見よ尺迦の手形か反古にやなるまい」の文字が添えられている。境内にはかつて手形石のようなものがあったのだろうか。
 ところで、出釈迦寺には、次のような弘法大師伝説が残っている。大師7歳の時に、寺の裏山に登り、「衆生済度(迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと)」、と言って、山の崖から谷底に飛び降りた。その時に紫雲が湧き天女が舞い降りて大師を抱き留めた。弘法大師は不思議な仏の力に喜び、霊験を後の世に伝えようと、自ら釈迦如来を刻み、その山の麓に堂宇を建立し、出釈迦寺とした。また、身を投げた断崖は、「捨身ケ嶽(しゃしんがたけ)」といわれるようになった。西丈はこの伝説を意識して、出釈迦寺と一緒に画面左に「捨身ケ嶽」が描き込んでいる。その上で伝説にちなみ、次のような言葉を書き付けている。
  難行も苦行も釈迦のおしへなりすつる命をとめるのも釈迦
  残る暑や尺迦も抛出釈迦寺
 最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。西丈に比べると、出釈迦寺の境内の様子や眺望が写実的に描かれていることが分かる。

20090605_579904

中国四国名所旧跡図13 丸亀図

6月 3日 水曜日

 丸亀は丸亀藩京極家5万石の城下町で、その港は金毘羅宮(こんぴらぐう)の参詣(さんけい)客を乗せる渡海船の発着港としてにぎわった。多くの参詣客が港に着いてまずしたのは、船揚り切手(滞留切手)の手配である。それは丸亀の船宿が代行して行ったらしく、その手数料を105文と書いている旅日記を多く見かける。松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」では85文になっているが、これは船宿に代行を頼まなかったためであろうか。武四郎はこの船揚りを持っていないと、土佐甲浦の番所でいろいろと難しいことを言われ、通行が許可されないので、遍路は必ず取りに行くことと記している。西丈もおそらく最初にこの手続きを行った筈である。

20090603_579430

 西丈が描いた丸亀図を見ると、山上に丸亀城が描かれているが、それは添え物のような扱いで、全面に港と町を描き出している。それは当時の人がもつ丸亀のイメージともいえよう。海に大きく突き出た波止(はと)、燈台や燈籠(とうろう)、石垣で築かれた船入(船が出入りする人工港)も描かれており、丸亀港の特徴をよく捉えている。『金毘羅名所図絵』には、明け方から黄昏(たそがれ)まで渡海船の出入りが激しく、船宿は昼夜分かたずにぎわい、浜辺の蔵々には俵物の水産物が積まれていると記しているが、西丈の絵からもそうした丸亀の喧噪(けんそう)が十分に伝わってくる。
  丸亀については他にも同時代の絵師が描いているので、その絵を参考に見ておきたい。
まずは、弘化4(1847)年に刊行された『金毘羅名所図絵』の浦川公佐の挿絵から。
20090603_579431

 北の上空から鳥の目で、丸亀の町を描いている。大坂の出版物に多くの挿絵を描いた職業絵師らしく、緻密で手堅い描写がされている。
 もう一枚は、歌川広重の最晩年のシリーズ、「山海見立相撲(さんかいみたてすもう)」の丸亀。
20090603_579432

 『金毘羅名所図絵』とは反対に、南の上空から丸亀城と町並みを対等に捉えている。全面に大きく広がる瀬戸内海の描写が印象的。
 このように他の絵師の作品と並べてみると、細部にはこだわらず、対象の本質を大胆に切り取る西丈の絵のもつ特徴が見えてくる。
  なお、中国四国名所旧跡図は、先般刊行された資料目録第17集『絵画資料目録』に紹介されています。

駕籠の運搬

3月 24日 火曜日

 新居浜市の旧家から駕籠を寄贈したいとのお話しがありました。そこで先日、早速受け取りにうかがいました。駕籠は周囲に畳表を張り巡らしたもので、土蔵の梁に吊られていました。

駕籠をおろす

 まずは、足場を組んで綱をゆるめて、駕籠を少しずつおろしていきます。ようやくおろすと、狭い土蔵の中でうまく回転させながら、ぎりぎりで外に出すことができました。

駕籠の運搬

 トラックまでは昔みたいに駕籠をかいていきます。軽い素材でつくられているので、人が乗っていないと二人でも軽々と運べます。トラックに積み込む前に点検したところ、屋根が一部破れていたり、片方の引き戸が失われたりしていますが、全体を掃除すると中に座れるようになりそうです。駕籠は今年秋の展覧会で展示する予定。どのようによみがえるかはお楽しみに。

吉田初三郎の「宇和島自動車株式会社路線大観図」

12月 11日 木曜日

 先日、新聞社からある資料のことで、取材を受けました。2年ほど前の展覧会で、その資料を当館で借りて展示したためでした。記事は既に掲載されましたが、短いコメントなので資料の価値について伝えることができたのか不安も残りました。そこで、ブログの場を借りて、もう一度その資料のことを思う存分に紹介してみたいと思います。

 取材があった資料とは、宇和島自動車株式会社が所蔵している吉田初三郎の肉筆の鳥瞰図で、画面の右上に「宇和島自動車株式会社路線大観図」とタイトルが記されています。戦後の昭和28(1953)年の製作。大きさは縦116センチ、横343センチで、額装されています。

 同時期に宇和島市が初三郎に依頼した鳥瞰図が、宇和島市街を中心に描いているのに対して、宇和島自動車が依頼した鳥瞰図では、当時のバス路線を反映して南予を中心として、東は松山・高松から東京まで、西は別府、南は室戸・足摺岬までの広域が描かれています。霊峰石鎚山が画面中央の一番高いところにそびえ立っているのは、四国の人間としてはうれしい表現。宇和島自動車のバス路線が示されていて、路線をたどりながら絵の中で周辺の観光地めぐりが楽しめるように工夫されています。

 展覧会後に、館蔵品である地理学者村上節太郎が収集した資料を整理していたところ、この肉筆をもとにして宇和島自動車が印刷した観光パンフレット「観光の南伊豫」が見つかりました。その表紙には和霊神社と雪輪の瀧が描かれ、裏面には「山と海の景観に恵まれた情緒溢(あふ)れる南伊豫の旅」というキャッチコピーが躍っています。また、初三郎自身は「絵に添へてひとふで」において、「南伊豫全地域」にわたる景勝山河の大風光裡、本社バスの交通と、観光の一大文化記録画と記しています。

観光の南伊豫(表紙)
観光の南伊豫(表紙)

 吉田初三郎は、大正から昭和にかけて全国の観光地を宣伝する鳥瞰図を2000点以上制作していますが、宇和島自動車のものは初三郎の本格的な肉筆の鳥瞰図として最晩年の作品に当たります。既に老齢の初三郎はその作成にあたり、戦前の陸軍陸地測量部の精密地図と写真により下図を作成しました。そして、昭和28年に32年ぶりに現地入りして鳥瞰図を完成させました。大胆なデフォルメ、地形を大きくゆがまさせて描く変幻自在な作風は、本作品の特徴としても見出せます。初三郎が描いた愛媛県内の鳥瞰図は15点ほどと考えられますが、そのうち肉筆は、本資料以外に昭和14年の八幡浜市鳥瞰図、宇和島自動車と同じ昭和28年の宇和島市鳥瞰図しか確認されていません。初三郎最後の大作として貴重なものといえます。

観光の南伊豫(部分)
観光の南伊豫(部分)

村上節太郎写真28 索道とトラック

12月 10日 水曜日

 霊峰石鎚に源を発し、西条市に注ぐ加茂川流域は古くから林業が盛んで、加茂川林業の名で知られています。第二次世界大戦以前の加茂川流域は、上浮穴郡・喜多郡・北宇和郡などとともに、愛媛県の木材の供給地として重要な位置を占めていました。木材の輸送には加茂川が使われましたが、喜多郡の肱川とは異なり急流の加茂川は筏流しには向かず、木材を1本ずつ流す管流しがされていました。細くて長い垂木(たるき)や、長大な桁丸太(けたまるた)は川に流すことができず、駄馬の背にのせて西条・氷見・小松まで搬出されていました。

索道による木材の運搬
索道による木材の運搬 西条市西之川 昭和25年

 木材を集める土場への搬出には、駄馬や木馬が使われていました。しかし、馬道は比較的平坦なところにあったので、急峻な山地では人力で運ばなければなりませんでした。大正4(1915)年に木材搬出用の最初の索道が河ケ平(こがなる)に架設されると、大正末頃までに加茂川一帯に普及していきました。この索道の建設は、西ノ川や大森鉱山の銅鉱石が下津池を経て、端出場まで索道で運ばれていたことにヒントを得たといわれています。

木材を運搬するトラック

 戦後になると、加茂川の流送が昭和25年には姿を消し、写真のようにトラック輸送が主流となっていきました。

村上節太郎写真27 炭焼き

12月 9日 火曜日

 ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」は、12月7日に閉幕予定でしたが、11日まで会期を延長しています。その後、12月20日からは新居浜市の総合科学博物館で展示されます。ぜひご覧ください。なお、今回のロビー展で展示している村上節太郎撮影の写真を紹介するこのシリーズは、しばらく延長します。

炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年
炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年

 肱川流域では、クヌギを原木とした木炭の生産が行われました。特に村上節太郎が撮影している柳沢地区(大洲市)は製炭業が盛んなところで、大正6(1917)年には製炭者83名、生産量5.8万貫、昭和35(1960)年には製炭戸数205戸、生産量20万貫というデータが残っています。

 肱川流域では、暖房や炊事に使う木炭を小さく裁断した切炭を多く生産しました。大阪から技術を導入して、阪神方面に盛んに出荷されるようになり、「伊予の切炭」として知られるようになりました。この地域の炭窯は小規模であるため、窯内の温度調節が容易にでき、収益性の高い切炭の生産に適していました。

 昭和30年代の後半に入ると化石燃料が普及していき、昭和40年代には炭焼きは急速に衰退していきました。昭和42年に書かれた中山小学校5年生の作文には、かつては木炭問屋、農協、内子の駅にも木炭が山と積まれていたものが、だんだんと電気製品、ガス、レンタン、豆炭などが出まわって、炭焼きをやめる人が増えていることが記されています。その作文から5年後、中学3年になった生徒は、木炭の生産が4分の1の1万箱に減り、炭焼きに使われていたクヌギの原木は、椎茸栽培に転用されていることを書き残しています。

村上節太郎写真26 木材の集散地、長浜

10月 22日 水曜日

長浜の貯木場
長浜の貯木場 大洲市長浜町長浜 昭和11年

 肱川を筏にして下ってきた木材は長浜に集められました。大正8年には県内最大の伊予木材株式会社が設立、その後も木材会社が次々に進出して、長浜は木材集散地として和歌山の新宮、秋田の能代とともに全国に知られるようになりました。

 長浜に集められた木材は機帆船に積み込んで、瀬戸内海の香川、岡山、広島、山口県などで販売されました。長浜には瀬戸内海から関西一円の木材会社がセリに集まり、そのセリの価格が西日本全体の価格水準になるとまでいわれていました。

運搬船に積み込まれる坑木
運搬船に積み込まれる坑木 大洲市長浜町長浜 昭和11年

 昭和初期には、大手商社の三井物産が伊予木材を傘下におさめ、台湾への移出を始めました。販路はさらに満州や朝鮮などの外地にも広がり、社宅や駅舎などの外地での建築資材として使用されました。また、小さい材木屋は「伊予の小丸太」と呼ばれる建築材の柱や、炭坑の支柱になる坑木(こうぼく)などを取り扱い、北九州や宇部などの炭坑に運びました。

 戦時中の軍需物資としての木材の統制を経て、戦後は復興のための木材需要が高まり、再び木材業は好況に沸きました。しかし、外材の輸入の増加やトラック輸送への変化もあり、長浜はかつての全国的な木材集散地としての地位を次第に失っていきました。

Page 1 ⁄ 612345...最後へ »