‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

中国四国名所旧跡図27 阿州地蔵寺并奧院

4月 26日 水曜日

大鳴門の渦潮の雄大な景色を楽しんだ西丈は、阿波の札所を1番から順に廻り始めたものと思われる。このあたりは「阿波十里十ケ所」といわれる近距離に札所が集中している地域であるが、その中で西丈は5番札所の地蔵寺を描いている。

縁起によると、地蔵寺は弘法大師が嵯峨天皇の勅願で当地において勝軍地蔵を刻み、堂宇を建立したことに始まるとされている。また、「四国徧礼霊場記」(元禄2年刊)には、後宇多天皇の時代に、住持の定宥が熊野権現の霊託により地蔵尊を造立、その中に弘法大師作の小仏を奉納し、あわせて造立した阿弥陀と薬師を脇侍としたことが記されている。地蔵寺は古くから武将たちの信仰を集め、室町期に寺運が興隆、境内に多くの塔頭をもつ大寺院に成長したが、天正10(1582)年に長宗我部元親の兵火により焼失。江戸時代に入り、徳島藩主蜂須賀氏により再建されている。

西丈は地蔵寺を描いてはいるものの、むしろその目は、地蔵寺の北側の高台に位置する奧之院に注がれている。『阿波名所図会』(文化11年刊)には、このあたりに羅漢原という土地があり、宝暦の頃から願主が浄財を集めて、羅漢堂の広大な精舎を創建したとある。この羅漢堂が西丈の描く奧之院である。

2階建ての堂の両脇から回廊が伸びて、2棟の別棟へとつながっている。羅漢堂はこの3つの堂がセットで、ここを巡ることによって500体の羅漢像を参詣する仕掛けになっていた。「四国遍礼名所図会」(寛政12年)は、奧之院について「中尊釈迦如来、左弥勒菩薩、右大師、各大仏」と記し、西丈よりもさらに精密に羅漢堂を描写している。

羅漢堂については、先に記した『阿波名所図会』に描かれた挿絵も興味深い。中央の二階建て部分に大仏が鎮座し、右の建物には弘法大師坐像と思われるものが描かれている。回廊に部分は2段に五百羅漢が並んでいるが、『阿波名所図会』の挿絵は、建物の内部がわかるように透視して描く趣向になっている。

元禄8(1695)年、江戸の本所に羅漢寺が創建、その後享保11(1726)年までに本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍が完成している。そのうち、東西羅漢堂には、松雲元慶の造立した五百羅漢像が安置されているが、この羅漢堂は参詣者が定められた順路より堂内を歩き回ることで、羅漢像を拝観する仕掛けになっていたという。その後、『江戸名所図会』(天保年間)に羅漢寺は大きく取り上げられており、評判を呼んだ様子がうかがえる。地蔵寺奧之院の羅漢堂はそうした江戸での人気を知り、参詣者のために新たに付け加えられた要素なのかもしれない。そのインパクトは西丈にとっても大きかったようで、竜宮城にも見える不思議なこの建物を、札所よりも大きく描いてしまっている。

常設展 愛媛の祭礼図

4月 23日 日曜日

常設展示室の「祭りと芸能」の展示替えで、当博物館所蔵の祭礼図を列品しました。昭和初期の宇和島八ツ鹿踊りの古写真、吉田秋祭りを描いた「吉田祭礼絵巻」(中野本、栗田本、松末本、青木本の4点)、西条市氷見の石岡神社祭礼渡御行列之図(昭和初期)などです。期間は7月中旬までとなっています。

写真は上から、
 石岡神社祭礼渡御行列之図(右部分)
 石岡神社祭礼渡御行列之図(左部分)
 吉田祭礼絵巻(栗田本)の鹿踊と牛鬼
の順となっています。

「愛媛のくらし」展示室の鯉のぼり♪

4月 18日 火曜日

4月も半ば。もうすぐ端午の節句です。「愛媛のくらし」展示室に、鯉のぼりが登場しました。
鯉のぼりは、男の子の立身出世を祈って、江戸時代中期頃から作り始めたとされます。明治末年までは紙製が多く、昭和に入ってからは布製が多くなりました。
展示しているのは、昭和25(1950)年、八幡浜市の若松旗店で作られた鯉のぼりです。
展示室には青い空もそよぐ風もありませんが、真鯉(黒い鯉)と緋鯉は悠然と泳いでおります。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」1 古代の南海地震と伊予

2月 12日 日曜日

歴代の南海地震最古の文字記録『日本書紀』(愛媛県歴史文化博物館蔵)

古代の歴史書『日本書紀』の684年10月14日条に地震の記録が残っています。この『日本書紀』は律令国家が700年代前半に編さんした正式な国の歴史書なのですが、その中に南海地震の発生や四国での被害状況が記されています。

『日本書紀』天武天皇13(684)年10月壬辰条
壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。

この『日本書紀』の記述は、南海地震に関する文字記録としては最も古いものです。この7世紀後半は白鳳時代ともいわれ、一般にこの地震を「白鳳南海地震」と呼んでいます。この史料の前半部には、壬辰(10月14日)に「大地震」があり、国々の男女が叫び、山が崩れて河があふれて、国や郡の役所の建物や一般庶民の家、そして寺院や神社が破損した。そして人々や動物たちも死傷が多く、数えることができない、と記されています。

そして後半部には具体的な地名が出てきおり、「伊予温泉」が埋もれて湯が出なくなり、土佐国(現在の高知県)では田畑50万頃(しろ)が埋もれて海となったと書かれています。

実は、日本で最古とされる南海地震の文字史料にて、最初に出てくる地名は「伊予」(現在の愛媛県)なのです。「伊予温泉」と書かれていますが、これは今の松山市の道後温泉といわれています。道後温泉は、歴代の南海地震が起きるたびに必ず湯の涌出に支障がでています。ただその後に必ず復旧はしています。1ヶ月後に復旧する場合もありますし、3ヶ月後の場合もあります。近い将来、南海トラフ巨大地震が発生したときには、やはり道後の湯は止まる可能性は大きいことが過去の史料から推察できます。

そして『日本書紀』の記述では「伊予」の次に「土佐国」の被害が記されています。土佐国の田畑50万頃(約12平方キロ)が埋もれて海となるとあります。これは高知県の広い範囲が地盤沈下して、そこに海潮が入ってきて、そのまま陸地に戻らなくなったというのです。

684年当時の古老が「このような大地震は経験したことがない」とも語っているのですから、古代においても被害は未曽有のものだったいうことです。

この『日本書紀』は歴史的事実を書き記すと同時に、古代の神話も叙述されており、ここに紹介した白鳳南海地震の内容も「歴史的事実」、「神話世界の物語」のどちらなのだろうかという疑問があります。しかし、この記述のある天武天皇13(684)年当時は律令制の確立期でもあり、すでに国郡里制が定着し、被害状況は国司から朝廷に報告されるシステムができあがっています。つまり白鳳南海地震に関する確実な「歴史的事実」を語る史料として扱うべきものだといえるのです。

特別展「自転車ヒストリー」展示紹介(2)~ロシア兵捕虜との自転車競争会in道後公園~

10月 9日 日曜日

特別展「自転車ヒストリー」展示紹介の2回目。
今回は、明治38年(1905)8月に道後公園で開催された、ロシア兵捕虜と松山市民との自転車競争について紹介しましょう。

自転車競争会
道後公園におけるロシア兵捕虜の自転車競争会(松山市坂の上の雲ミュージアム写真提供)

愛媛県松山市に最初のロシア兵捕虜収容所が開設されたのは明治37年のことです。
当時の政府の方針と松山市民による歓待により、最大時には4千名を超えたロシア兵捕虜と松山市民との間では様々な交流が行われました。
収容されていた彼らの楽しみの一つが自転車で、「海南新聞」によれば、38年4月頃から捕虜の将校、特に海軍士官の間で自転車が流行し、道後公園で練習する姿を見ない日はなく、時には周囲の大馬場で日露両国人のレースをしていたといいます。

道後公園は、すでに日露戦争の少し前から、地元の人々が自転車レースを行う場所になっていました。
現在の道後公園グラウンドにあたる場所には、もともと八丁馬場という馬場があり、これを整備して、明治20年代から30年代前半には競馬や人力車競争が行われていましたが、明治34年(1901)頃からは、自転車レースが盛んになり、地元の愛好家らで組織した松山愛輪会などの団体が自転車を楽しんでいたということです。

こうした中、ロシア兵捕虜たちの自転車競争会の企画が持ち上がったのは7月のことです。
「海南新聞」によれば、将校は各方面よりの慰問や物品の寄贈も多く、また一定の制約下での自由散歩も許可されていましたが、下士・兵卒らはそのようなこともなかったので、道後湯之町の御手洗商店が「下士卒に同情を寄せ」、自転車競争会を開催し捕虜たちの慰めとしたいと出願し、許可されました(以下、本ブログの内容は全て同新聞マイクロフィルム収録の記事によります)。

日時は翌8月4日正午から、場所は道後公園東トラックで、将校のみならず下士・兵卒も含めた捕虜全体を招いて有志で自由に競走させ、優勝者には賞品を与えるというものでした。
この内容を耳にした捕虜たちは「勇み返って其日の来るを待遠しく思ひ」、毎週月水金の午後に道後公園で行われた捕虜の練習風景には見物人も多かったそうです。

この自転車競争会には、道後公園で自転車競争を楽しんでいた松山愛輪会が開催に協力し、大街道の黒田、西堀端の山田、同高橋の各自転車商会は競争に使用する自転車5台づつを無償で提供しました。
また、伊予鉄道は銀メダル及び賞金を提供したほか、午前8時から午後8時まで臨時列車を運行することを決定。このほか、ロシア兵捕虜を相手に商売していた各商店からも金品の提供があるなど、地元のさまざまな団体や商店・企業が開催に協力しました。

雨天のため当初の予定から1日順延されて、8月5日にいよいよ自転車競走会が開催されました。
道後公園の山の崖には小屋も掛けられ、来賓席には県会議長をはじめとする数々の政財界の要人やロシア兵将校らが居並びました。来賓席に面して一段高くつくられた審判席では、元衆議院議員で当時「海南新聞」社長をつとめた藤野政高以下の審判員やロシア語通訳が詰めて、号令などをかけます。
後ろには音楽場があり、北側には賞品授与所が設けられ、その左右には下士以下ロシア兵捕虜の観覧所が設けられていました。これら小屋掛けの軒下や並木桜の枝には、無数の万国旗が吊され、竹の柵で仕切られたトラック外周囲には一般見物人が詰めかけました。正確な参加者数の記録は見当たりませんが、海南新聞の記者は「此日の見物人は露人千名以上、日本人二千内外であらうと見たは余り間違のない見当だらう」と推定しています。

競技は午後1時より開始。まずはロシア兵捕虜同士のレースです。
3人づつ3周の競争を19回行い、この3周競争の1着の者を選手にして5周競走を5回、その第1着同士で7周競争を2回、この7周競争に勝った2人で最終決勝競争をさせて、ロシア兵捕虜の優勝者を決定しました。
間に行われた自転車の曲乗りのイベントでは「其技の軽妙なるには舌を捲かざるものなく」、その後に日露連合5周競争が行われました。
日本人の選手の内訳は不明ですが、本大会の開催に協力していた松山愛輪会の人たちが出場したことは想像に難くありません。
全ての競技が終わったのは午後6時頃で、天候にも恵まれて盛会だった、と「海南新聞」は伝えています。

同新聞によれば、彼らの技術は概して未熟で、競争中土手に乗り上げるものや落車するものが多く、とくに車から下りるときは10人中9人まで転倒したといい、見物人や競争者同士が衝突して乗り手の腕や足に擦り傷を負うものが多かったといいますが、このことは別の資料でもみてとることができます。
道後公園自転車競争会絵葉書
これはロシア人捕虜自転車競走会の絵葉書(個人蔵・当館寄託)です。右上は日本人として出場した富永選手、左下は競技の様子です。後に絵葉書にするほどのイベントであったことが分かり興味深いのですが、さらに面白いのは競技の様子。
自転車競争会の様子
もっと拡大してみましょう。
転んでいる様子
確かに転んでますね・・・

それはともかく、展示している2枚の写真からは、トラックの内外に、立錐の余地がないほどびっしりと観客が詰めかけている様子がみてとれ、日本人とロシア人の観客達の大声援が聞こえてくるようで、この時の熱狂ぶりが浮かび上がってきます。

本展では、明治38年の道後公園でのロシア兵捕虜との自転車競走会の様子を伝える貴重な2枚の写真のほか、明治時代末期に道後公園でも使われた競技用自転車「ラージ号」(自転車文化センター蔵)を、当時松山で販売された時の広告写真とともに展示しています。

特別展「自転車ヒストリー」及び「弱虫ペダル原画展」は11月27日(日)まで開催!
ふるってお越しください。

民俗展示室2「愛媛のくらし」秋の展示替え② 脱穀(だっこく)の道具「カラサオ」

10月 8日 土曜日

今回は、豆類などの脱穀に広く使われた、カラサオをご紹介します。

収穫した穀物は、莚(むしろ)などに広げておきます。
長い竿(さお)の頭に、回転する棒が数本取り付けられています。竿を持ち、莚に向けて打つと、棒が回転して穀物を強く打ちます。
打ち方にはコツがあって、上手に打たないと自分の足を打ち怪我をすることもありました。

カラサオは「唐棹」「唐竿」という字を書きます。「唐」は、唐箕の「唐」と同じく、昔の中国の国の名を意味しています。昔の中国から伝わった道具です。
東アジアやヨーロッパでも、同じような道具が使われていました。

展示中のカラサオ。比較的、竿が短く出来ています。回転部分は鉄製です。
奥の写真(村上節太郎撮影)は、カラサオで豆を脱穀しているところです。

カラサオの使い方(イラスト:愛媛県歴史文化博物館編『これ、なぁに? ―なぞの形は工夫の形―』パンフレット 平成11年)

民俗展示室2「愛媛のくらし」秋の展示替え① 脱穀(だっこく)の道具「千歯扱き」

10月 7日 金曜日

秋は、稲や豆など様々な穀物が実る、収穫の季節。
しかし、収穫の後も様々な農作業は続きます。

民俗展示室「愛媛のくらし」、収穫後の脱穀と選別に関わる資料に展示替えしました。何回かに分けて、主な展示資料をご紹介します。

脱穀とは、稲の場合、稲刈り後に干して乾かした稲穂(いなほ)から籾(もみ)を取り外す作業をいいます。
稲や麦の脱穀には、18世紀初頭前後に大坂で発明された「千歯扱(せんばこ)き」という農具が、約200年間も広く使われていました。

千歯扱き。穂(鉄製の歯)の部分を拡大すると…

先が尖った穂が、台木という角材に留められています。

江戸時代の農書『農具便利論』に紹介された千歯扱き。
現存する千歯扱きと、基本的な形は変わっていません。

脚部分を外した、2点の千歯扱き。
写真では分かりにくくて申し訳ないのですが、右と左では穂の形が違います。右は平たい形、左は丸い形です。穂の幅や数も微妙に違っています。穀物の種類に応じて使われました。

歴史展示室3(近世)を一部展示替え!

7月 14日 木曜日

 当館の常設展示室では、随時展示替えを行っていますが、今回歴史展示室3(近世)の資料を一部展示替えしました。いくつかご紹介します。

「加藤嘉明自筆書状」
 江戸時代初期 当館蔵
 加藤嘉明が小出吉親へ宛てた8月13日付けの書状です。明後日15日の晩に来訪することに満足し、来る22日の晩にも松平忠国・松平忠晴・戸田氏信を招待したので是非おいでいただきたいという旨を伝えています。また、両日ともは難しいという場合は、22日には必ずきてほしいとも伝えています。寛永3年8月の徳川秀忠・家光の京都上洛に諸大名が供奉しており、書状中の5名はすべて供奉しているので、その際のものと考えられます。大名同士の交流の一端がうかがえます。

「武人図」(松本山雪筆)
 江戸時代前期 当館蔵
 松山藩の御用をつとめた絵師松本山雪が描いた中国風の武人図です。描かれた三人の武人はいずれも視線を右に向けており、もとは右側に続きがある双幅だった可能性があります。そのことから、三人の武人を劉備、関羽、張飛として、右側には諸葛孔明の草庵が描かれていたと想定し、「草廬三顧」(そうろさんこ)を画題としたものという解釈も提示されています。

「伊達家筆跡貼交幅」【※初公開資料!】
 安土桃山時代~江戸時代末期 個人蔵・当館寄託
 宇和島・吉田両伊達家の関係人物の書状や書画5点がおさめられた掛軸です。上部には仙台藩初代伊達政宗書状、宇和島藩初代伊達秀宗書状、下部には同7代伊達宗紀書、吉田藩6代伊達村芳画、同夫人満喜子和歌が貼付されています。政宗書状には見廻りへの感謝、秀宗書状には竹の調達に関する指示が記されています。宗紀は能書家として知られ、村芳は学問を好んで書画をよくし、夫人満喜子は和歌にすぐれたことで知られています。

 常設展示室は、実はこのように少しずつ変化しています。
ご来館の際にはぜひ常設展示室へも足を運んでいただき、新たな資料との出会いや発見をしてみませんか。

民俗展示室2「愛媛のくらし」 展示替え

7月 12日 火曜日

先日、民俗展示室「愛媛のくらし」の展示資料を一部展示替えしました。

蚊帳…夏の夜、涼しく安眠するために大事なことは蚊を防ぐこと。海の家では布団を敷いて蚊帳を吊っています。

回転式除草機…夏は、稲がよく育ちます。しかし雑草もすぐ伸びます。農家では、草刈り・草取りが大事な仕事でした。かつての除草作業は、這うように田んぼの中を進まなければならず、とても大変でした。
里の家の前にあるのは回転式除草機。田植えが正(せい)条(じょう)植え(同じ間隔で苗を受ける方法)で行われるようになると、除草機を使って、立ったままで除草ができるようになりました。

桑摘み爪…夏は、田んぼの仕事の他に、養蚕も行う地域が多くありました。山のくらしのモデルとなった西予市城川町野井川竜泉地区も、その一つです。
蚕がよく育つためには、食料となる新鮮な桑の葉が欠かせません。桑の葉を摘むための、専用の道具もありました。

海、山、里…それぞれの地域では、その地形や気候に応じたくらしが営まれていました。しかし、共通する仕事が全くなかった訳ではありません。その一つが養蚕です。
愛媛での養蚕は明治期以降に急速に広まり、海辺、山あい、里…県内の広い地域で、人々は「お蚕さん」を育てていました。今回は、養蚕で使われた道具も展示しています。

考古展示室に土器パズル大集合!!

5月 1日 日曜日

昨年度のブログで、当館では“土器”や“埴輪”などの立体パズルを数多く持っていることを紹介いたしましたが、今回のテーマ展「発掘 南予の遺跡 Part3-考古収蔵庫に眠る南予の宝-」の会場には、そのうち6つの立体パズルを置いています。
その内訳は、縄文土器2つ、弥生土器1つ、鶏形埴輪1つ、近世陶磁器2つで、縄文時代~江戸時代における多様な立体パズルが一堂に揃っています。このなかには担当者も唸るほどの大変難しいパズルもありますので、ぜひ一度チャレンジしてみて下さい。

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