‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

松山市制130周年!

6月 28日 金曜日

明治21(1888)年4月25日「市制」が公布され、内務省は全国39ヵ所を指定しました。これにより次々と市制が施行されましたが、松山市の市制施行は翌22年12月15日。今年は松山市制130周年にあたります。今回紹介する資料は旧市街地100町を中心に誕生した松山市の地図です。現在の市域とくらべると、松山城を中心にごく狭い範囲であったことがわかります。よく見ると、兵営、裁判所、警察署などは見えますが、明治21年10月28日外側(現松山市駅)~三津間に開通した伊予鉄道は描かれていません。そのため、この地図は「市制」が公布された明治21年4月25日から伊予鉄道が開通する10月28日までに描かれたものと思われます。
市制当時の松山市は戸数7,519戸、人口32,916人。「市制」の標準人口である25,000人を大きく超えていました。明治23(1890)年、30人の市会議員(任期6年)が選挙され、松山藩士族で伊予鉄道社長・県会議長の小林信近(1842~1918)が議長に選ばれました。「市制」によると、市長(任期6年)は市会が推薦した3名の内から内務大臣が天皇に上奏し、天皇の裁可を経て選任されました。松山市会は市長候補に小林信近・土屋正蒙(温泉・風早・和気・久米郡長)・木村利武を選びましたが、小林と土屋が固辞したため、市会は内務大臣山県有朋に対して木村が最適との意見を添えて申請し、天皇の裁可を得ました。木村(1850~1914)は松山藩士族で、市会議員に選出されるとともに松山52国立銀行取締役をつとめていました。
4月1日、湊町4丁目の円光寺を仮庁舎として市役所が開庁しました。職員は書記6人、属22人、使丁10人。市長の年俸は500円(明治27年の国家公務員高等官初任給50円)、議員は名誉職でした。翌年出淵町~南堀端の753坪を買い入れ、明治25年に新庁舎の竣工式が行われました。市と町村は色々な面で異なりましたが、監督官庁の違いもその一例です。市は第1次に府県知事、第2次に内務大臣が監督するのに対して、町村は第1次に郡長、第2次に府県知事が監督しました。実質的に市は郡と対等に見なされたのです。以後愛媛県では大正時代まで松山市が唯一の市制都市でした。

愛媛県松山市之図


城山周辺(拡大)

佐田岬半島の裂織と絣木綿

4月 28日 日曜日

愛媛県佐田岬半島に伝わる裂織の上衣です。経(たて)糸は木綿糸、緯(よこ)糸に細かく裂いた古木綿布が用いられたリサイクル織物です。現地で「ツヅレ」とか「オリコ」などと呼ばれています。再生された裂織の布地は丈夫で暖かく、農・山・漁村の仕事着などに用いられました。

佐田岬半島の裂織は、袖や襟の部分に絣木綿布を用いたものや、緯糸に絣木綿の裂布が用いられ、紺絣の白地や色絣の色地が断片的に見え隠れする独特な身頃の色合いとなっているものも多く見られます。

佐田岬半島は、伊予絣や久留米絣など、西日本の木綿絣の産地近郊に位置し、裂織の材料に絣木綿が大量に使用されていることから、裂織は絣の普及以降の産物として位置付けられます。

常設展示「愛媛のくらし」に展示する佐田岬半島の裂織

緯糸の材料に絣木綿を用いた佐田岬半島の裂織

衿や袖が絣木綿で作られた佐田岬半島の裂織

江戸時代の西国巡礼のガイドマップ「西国順礼道中絵図」

4月 26日 金曜日

常設展示室「四国遍路」に紹介する「西国順礼道中絵図」は、江戸時代の西国三十三所観音巡礼の案内絵図(木版彩色。縦60.0×横69.2㎝)です。

西国三十三所観音巡礼は、日本に於ける広域にわたる複数の聖地をめぐる最初の巡礼として考えられ、伝説では、大和長谷寺の開山徳道上人が養老年間(717~723)に閻魔大王の勧めによって発願され、後に花山法皇自らが巡礼して中興したとされています。

絵図中には、番号を付した札所、札所と札所を結ぶ巡礼道、巡礼道から分岐する迷道や外道、道中の宿場町、宿場間の距離、神社、国名、城下、名所などの情報が記載され、推奨する道順は朱色で示されています。

「西国順礼道中絵図」

四国遍路にも大きな影響を与えたと考えられる西国巡礼。絵図に示された西国巡礼のコースをたどると、伊勢神宮、熊野三山、高野山などの聖地、奈良、京都、大坂などの観光地がルート上にあり、社寺参詣は信仰と物見遊山が表裏一体の関係にあったことがわかります。

西国巡礼のコース(「西国順礼道中絵図」部分拡大)

ムササビが歴博にやってきた!

4月 25日 木曜日

ムササビが博物館にやってきた。山から降りてきたのでしょうか。

「万葉集」巻六にもムササビが山を降りてきた和歌があるので、館蔵の「万葉集」(文化2年板)、その部分を開いてみました。「ますらをの高円山(たかまどやま)に迫(せ)めたれば里に下り来るむささびぞこれ」。天平11年(739)、大伴坂上郎女の歌。聖武天皇が狩りをしたとき、小さい獣が迷い込み、武人がつかまえて天皇に献上する。その際に詠った歌です。ムササビは万葉仮名では「牟射佐妣」と表記されています。

新元号と万葉集

4月 2日 火曜日

昨日、新元号「令和」が発表されました。愛媛県歴史文化博物館では「令和」の出典である「万葉集」(江戸時代後期の版本)を所蔵しており、典拠部分の巻第五を、本日午前中に展示、列品しました。5月31日まで常設展示室(歴史展示室1)にて展示しています。

【速報】新元号「令和」の出典『万葉集』を展示します。

4月 1日 月曜日

万葉集巻第五

「平成」の次の元号が4月1日に発表され、新元号は「令和(れいわ)」に決まりました。

その出典は『万葉集』巻第五の「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」の「令」・「和」とのことです。

愛媛県歴史文化博物館は江戸時代後期に刊行された『万葉集』(奈良時代成立・文化2(1805)年板)を収蔵しており、この度、典拠部分である『万葉集』巻第五を、常設展示室(歴史展示室1)にて公開することとなりました。

展示期間は、平成31年4月2日午後から、令和元年5月31日までの予定です。

元祖UFOキャッチャーが寄託されました!

3月 21日 木曜日

昭和初期のクレーンゲーム機

先日、宇和島市のあるお宅からUFOキャッチャーの元祖とも言えるクレーンゲーム機の寄託を受けました。戦前から玩具、お菓子、日用品などを販売していたとのこと。現在でも使用可能な状態なので、コインとマッチ箱で実験してみました。
コイン(実際は1銭)を入れてハンドルを回すと、クレーンがシャベルをつり上げて左に回転。ここぞと思う位置でハンドルを止め、ボタンを押して再びハンドルを回すと …今度はシャベルが下がり、運が良ければマッチ箱(実際はお菓子)を挟み込んでつり上げます。さらにハンドルを回すと、クレーンは右に回転して元の位置に戻り、シャベルが開いてお菓子が手元に落ちてゲットする仕組みです。
ゲットできるかどうか、ドキドキ感はUFOキャッチャーそのものです。多くの人々がこの玩具に一喜一憂したことでしょう。それにしても一連の流れが手動ハンドルによる回転運動で完結している点には驚かされます。近世以来のからくり技術がこのクレーンゲーム機にも活かされているのです。

テーマ展「愛媛の近代都市」開幕!

9月 20日 木曜日

15日からテーマ展「愛媛の近代都市~松山・今治・宇和島を中心に~」(~平成31年1月27日)が開幕しました。特別展「古地図で楽しむ伊予」(~11月25日)との同時開幕です。特別展が近世の絵図を中心に村の姿を紹介するのに対して、テーマ展は近代の地図を中心に都市の姿を紹介します。
明治21(1888)年、市制が公布され、人口25,000人以上を「市」としました。市長は市会が内務大臣に推薦した者から天皇が裁可しました。市は「郡」に属さず、郡と対等に位置付けられました。明治23(1890)年、郡制が公布され、郡に官選の郡長と郡会議員がおかれました。選任市長と官選郡長は、内務大臣の意向を反映した人事という意味で内務省の末端組織でした。ここに町村-郡市-知事-内務大臣という構造ができました。現在でも地方自治法で町村は郡に属すことになっており、一郡一町になっても郡は消滅しません。郡は行政単位としていきているのです。
本展では、郡制が廃止される大正12(1923)年までに市制を施行した松山市(明治22年施行)・今治市(大正9年施行)・宇和島市(翌年施行)を取り上げました。例えば「松山市全図」(大正2年)からは交通の発達、武家地の再編、連隊の駐屯、道後温泉や松山城の観光化を知ることができます。また、「今治港図絵」(昭和9年)からは繊維工業の発達に加え、四国初の開港場として物流の盛んな都市となった様子が伝わります。「宇和島市街地図」(昭和8年)からは内港や須賀川の浚渫・埋立・付替によって市街地を確保しつつ、商業や行政機能を発揮していった姿を垣間見ることができます。都市地図から松山・今治・宇和島が、近代化を模索した軌跡をたどることができます。吉田初三郎が描いた松山や宇和島の資料も拡大して展示しています。ぜひ、特別展に続きテーマもご覧ください。

展示室入口 


展示室風景


「松山市全図」  


「宇和島市街地図」

民俗展示室にこいのぼり

4月 14日 土曜日

ゴールデンウィークが少しずつ近づいている某日、民俗展示室に恒例のこいのぼりが登場しました。

この真鯉(黒い鯉)と緋鯉のこいのぼりは、若松旗店(八幡浜市)が製作したもの。昭和25年頃に、今では珍しくなった手描きでつくられています。

民家をバックにおもしろそうに泳いでいる博物館のこいのぼりをぜひ見にきてください。

中国四国名所旧跡図38 八坂八浜

4月 2日 月曜日

遍路道の難所を「遍路ころがし」というが、牟岐浦(牟岐町)を過ぎたあたりから始まる八坂八浜も「遍路ころがし」の一つであった。浅川(海陽町)にかけての約8キロメートルに及ぶ海岸は、岩礁と砂浜が交互に続く風光明媚な景観で、一つ坂を越えるたびに、その景観は表情を変えていった。

西丈の絵には「サハセ村」の文字があるので、八坂八浜の中間の辺りに位置する鯖瀬からの風景を描いたものであろう。複雑な海岸線とともに、馬を連れて歩く馬子の姿を描き込んでいるが、弘法大師伝説の一つ、鯖大師の話しを意識してのことであろう。

四国を巡っていた弘法大師空海がここを歩いていると、鯖を積んだ馬をひく馬子が通りかかった。大師がその鯖の一尾を所望したところ口汚く断られてしまう。その直後、馬が腹痛をおこして立ち往生すると、これに驚いて、僧は大師に違いないと詫びて鯖を献上する。大師は加持水を馬に与えると、馬はたちまち元気になったという。西丈はこの伝説を下敷きにして、八坂八浜の絵に馬子とともに、弘法大師をイメージした赤い着物を着た僧侶を描き込んだのではなかろうか。

文化元(1804)年5月22日の晩、牟岐浦の手前、辺川に宿泊した英仙は、翌23日に八坂八浜を歩いている。「海南四州紀行」は、その模様を次のように記している。

牟岐浦から八坂八浜に入る。牟岐浦の出口には、餅屋宗七という店があり、花餅饅頭を売っていたので、ここで休んだ。牟岐浦辺りから海の浪が荒く打ち付けている。土佐から鰹の腸を売りに来ており、耐えがたいほどのにおいがした。
一つ目の坂を登ると、峠の右側にここから東寺まで21里という道標があった。四つ目の坂の左側に草庵があり、「行基葊」という表札が懸かっていた。そこの歌に「大坂ヤ八坂々中鯖一ツクレデナンヂカ馬ノハラ病(息)メ」とあった。鯖瀬村という所である。七つ目の坂の手前、阿波の浦の松屋與八で昼食をとった。香の物と上等のお茶でもてなされた。また、脚気の薬も施された。

八坂八浜に入る最初の牟岐浦には、饅頭屋さんがあったようである。ここで小休憩して、腹ごしらえをして歩いたのだろう。4つめの坂の左側にあったとされる草庵は、本尊行基菩薩を祀った鯖瀬庵(鯖大師)である。馬子とやりとりしたのは、弘法大師ではなくて、行基とする話も伝わっている。

西丈は絵の余白に、「八坂かさかなかさハ一つきよき(行基)にくれてむまの原やむ」と書き付けているが、『海南四州紀行』の鯖瀬庵で紹介されている歌と瓜二つになっている。鯖大師にまつわる歌は他にも残っているが、旅人がそれぞれのアレンジを加えながら、似たような歌が今に伝わっているのだろう。

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