‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

資料紹介「まぼろしの一銭陶貨」~テーマ展「戦時下の人々」から~

8月 3日 木曜日

今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「3 留守を守ったお母さん」のコーナーで展示している「まぼろしの一銭陶貨」を紹介します。
明治以降、日本の貨幣は金・銀・銅を主な材料として作られました。戦争の長期化と軍需優先のあおりを受けて、昭和8(1933)年に純ニッケル硬貨が作られました。この背景には軍需資材としての利用価値が高いニッケルを輸入して、貨幣として備蓄しようとした意図があり、昭和13(1938)年にニッケル硬貨は回収され、次はアルミニウム硬貨が作られました。しかし、アルミニウムは飛行機の材料となるため、2度にわたり量目が変更されました。10銭硬貨の場合、昭和16(1941)年に1.5gから1.2gへ、昭和18(1943)年には1.2gから1gになったのです。アルミニウムに続いて作られたのが南方の占領地でとれる錫や亜鉛を使った硬貨です。しかし、戦況の悪化で南方から錫や亜鉛も手にはいらなくなります。
そこで、政府が考えたのが粘土を材料とした陶貨です。有田焼や瀬戸焼で有名な佐賀県、愛知県などの陶器メーカーが作りました。表には富士山、裏には桜花の模様があしらわれています。昭和20(1945)年の敗戦によって使用されることなく、粉砕されたのですが、少量ながら市場に出回っています。なお、一銭という単位の貨幣が作られたのは、不発行ながらこの陶貨が最後となりました。お金を通じて戦争を捉えてみると、戦争を身近にイメージできるかもしれません。
8月6日(日)には自由研究応援講座「戦争を調べよう」(事前申し込み必要)を行います。ぜひ、ご参加ください。展示は9月3日(日)まで開催しています。

               表


              裏

資料紹介「伸びゆく小供」 ~テーマ展 「戦時下に生きた人々」から~

7月 22日 土曜日

 今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「2 ぼくたちも戦争のなかにいた」のコーナーでパネル展示している「伸びゆく小供」を紹介します。実際は絵葉書の裏面に描かれています。封筒には「一億一心」のスローガンが記載されています。「ゼイタクハ敵」、「勤労奉仕」、「慰問袋」などのタイトルで子どもを登場させ、子どもでも分かりやすいように漫画風に描かれているのが特徴です。子どもたちにも生活の苦しさに堪え忍び、出征している兵士を思いやって国内を守る思想が強いられたのです。
展示室ではこの他にも戦艦文鎮やヘイタイ双六などのおもちゃ、日独のマークがあしらわれた子ども服、当時の教科書、武道が科目となった通知表、学徒勤労動員の写真なども展示しています。子どもの成長にあわせて資料を順番に展示していますので、当時の小学生から中学生までの様子がよく分かると思います。戦争と子どもについては、子どもは弱い立場で守られていたイメージがありますが、小学校五年生なら十年経てば一人前の兵士となります。そのため、大人たちは子どもの頃から国への忠誠心や兵士となることの意味をいろいろな手段を使って浸透させたのです。そして、純粋な子どもほど大人の考えを素直に正しいと信じたのです。当時の子どもたちの資料を、「純粋で弱い立場」という視点と、「将来の戦士」という視点で複眼的に見ていただければ、資料の見方も変わると思います。皆さんいろいろな角度から資料をご覧ください。展示は9月3日(日)まで開催しています。

         封筒

         ゼイタクハ敵

         勤労奉仕

         慰問袋

中国四国名所旧跡図31 阿州立江寺 四国札所関所

6月 14日 水曜日

13番の一之宮の後、14番から18番までの札所を廻ったはずだが、西丈は何も描き残していない。寛政12(1800)年の「四国遍礼名所図会」の挿絵が、一つ一つの札所を、実景を目の当たりにするような墨絵で丹念に描いているのと対照的に、絵心がくすぐられた景色だけを描くスタイルを貫いているようにも思える。19番札所立江寺に来て、ようやく西丈は絵筆をとっている。しかし、西丈が描くのは札所ではなく、粗末な橋の上に白い鳥が佇む情景である。

立江寺がある立江に至るには8つの橋があったが、その橋には言い伝えがあったようで、江戸時代からいろいろな書物に記されている。貞享4(1687)年出版の『四国遍路道指南』にも、「石橋八ツ、此はしのうへに白鷺居たときハ往来の人渡る事あしゝ、をしてわたりぬれバあやまち有、標石あり」と既に記されている。西丈はこの話を聞いて、わざわざ橋の上に白鷺がいる絵を描いたのであろうが、橋のたもとには、石碑のようなものが2基あるが、道標であろうか、それともこの言い伝えを記した石碑であろうか。石橋ではなく、木橋にしているのは不可解であり、あるいは西丈は言い伝えを聞いて、そこから想像をふくらませて描いたものなのかもしれない。

中国四国名所旧跡図30 金地瀧(弘治滝) 阿州一ノ宮奧ノ院

5月 30日 火曜日

焼山寺から13番札所一之宮までの道、西丈は何度も川を歩いて渡りながら進んだものと思われる。そして、ゆるぎ石という大岩があるあたりから道を右に折れ、2キロメートルほど足を伸ばし、一之宮の奧の院、建治寺に立ち寄っている。

松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」によると、奧の院には数丈の岩壁があって、大きな岩窟に蔵王権現を祀っていたとある。またさらに500メートルほど折れ曲がりながら下ると、不動滝に至ると記されている。この不動滝が、西丈が描く「金地瀧」のことと思われる。「水勢甚しく幅広し」という描写は、西丈の絵そのもの。滝の周囲の岩角には西国三十三箇所の観音を安置しているというが、これも西丈が滝の周囲の道に石仏を描いているので、この点もぴたりと一致している。

奧之院である建治寺は、天智天皇の時代(661~671年)に役小角が開基したと伝えられている。弘仁年間(810~824年)に空海が四国巡礼をしている際にここを訪れ、修行したと伝わる。西丈が描く滝は、鮎喰川の支流で西竜王山(495m)を水源とする金治谷川の沢の最上部にかかるもので、西丈は「金地瀧」の字を宛てているが、現在は「建治滝」と記され、滝行が行われる行場となっている。

遍路というと、ひたすら札所を目指して歩くイメージがあるが、西丈の場合、番外とされる札所にもよく足を伸ばしている。そのことで、記録にとどめられた一枚といえる。

中国四国名所旧跡図29 阿州右衛門三郎菴(杖杉庵)

5月 16日 火曜日

11番札所藤井寺を出ると、焼山寺越えという難所に差し掛かる。標高700メートルの12番札所焼山寺にまで登る3里(約12キロメートル)の山道である。このルートについて、松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」には、「緑樹森々として甚物すごき處なり」とし、最後の「十八丁登るに如何ニも遍路中第一番と思われる」と記されている。また、焼山寺から13番札所一宮寺までは、5里(約20キロメートル)。この道も「山路渓間河あまた」の難所で、京都の商人升屋徳兵衛の文化6(1809)年の旅日記には、「道の側に遍路人の高山ゆへ遂ず死ゆへ墳墓数多あり」と記されている。

西丈は焼山寺から18丁(約2キロメートル)下った所にあった杖杉庵(徳島県神山町)を描いている。絵には「阿州右衛門三郎菴」と添書されているが、この庵は、遍路の元祖とされる衛門三郎が弘法大師とやっとめぐり会い、病死したとされる所に建っている。行き倒れた衛門三郎の杖を弘法大師が墓標として立てたものが育って、杉の大木になったというが、西丈の絵にも大きな杉とともにそれを拝む人物が描き込まれている。

『四国遍路道指南』(貞享4年)には、右衛門三郎の塚に加えて、しるしの杉と地蔵堂があると記されているが、時代が下った天保4年の「四国遍路道中雑誌」には、本尊が弘法大師像で、その傍らに石に腰掛けて、杖を突いた右衛門三郎像が安置されていることが記されている。江戸時代後期の『四国八十八ケ所永代笠講定宿附』(当館蔵)には、「右衛門杉 あん」とあり、燈明銭銅と記されていることから、遍路が訪れる番外札所として定着していることがうかがえる。

西丈は右衛門三郎伝説に因んで、ここでも二首書き付けている。

形見からミちを右衛門の三郎か野地のしるしに杉の一本
枝折して廻る邊路を導ん右衛門が杖の杉の一もと

中国四国名所旧跡図28 阿州切幡寺

5月 10日 水曜日

讃岐の88番札所の大窪寺から1番札所の霊山寺までは約40キロメートル。10番の切幡寺まではその半分の約20キロメートルなので、遍路の中には先に切幡寺に出て、それから1番に向けて逆に札を納めていくものも多かった。しかし、西丈は大窪寺の後に鳴門に寄っているので、1番の霊山寺に出て順に札を納めて行ったものと考えられる。松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」では、88番から10番ヘの道を「到而山道のミにして眺望もなければおもしろからず」と記すのに対して、1番への道を浜辺道として「嶮路なる處もあれども眺望よし」としている。四国を描きながら旅をする西丈にとっては、浜辺道を通って正解といったところであろうか。

麓の切幡村から「九折嶮路」を登り切った山の中腹、標高155メートルの所に、切幡寺の境内がある。坂道を登ったところに二王門があり、その奥に本尊の千手観音を安置した本堂が見える。その右手前の茅葺きの建物が大師堂であろうか。松浦武四郎は、「前ニは北方幷吉野川を眺、淡州、紀州は手ニとる如く見、其風景筆紙ニつくしがたし」と記しているが、残念ながら西丈は切幡寺からの眺望を描き残していない。

寺の縁起によると、弘法大師がここに来た際に、天から幡1流が吹き流れてきたので、山に登ってみると、南海数千里を眺望して、補陀落世界のようだったので、救世菩薩の像を彫って寺を建てて安置したと記されている。また、言い伝えでは、修行中の弘法大師が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、少女が織りかけの布の中ほどを切って差し出した。大師が少女の願いを聞くと、千手観音を刻み、得度灌頂を授けた。すると、少女は即身成仏して千手観音の姿になったので、堂宇を一夜で建立し、切幡寺と名付けたと伝えられる。

西丈はその言い伝えを耳にしたのか、それに因んだ和歌を書き付けている。

乞へはとておる真中を切機寺五障の罪をあろふ手ぬくい
御仏の国へ騎込女武者機を切たる腕の強さよ

中国四国名所旧跡図27 阿州地蔵寺并奧院

4月 26日 水曜日

大鳴門の渦潮の雄大な景色を楽しんだ西丈は、阿波の札所を1番から順に廻り始めたものと思われる。このあたりは「阿波十里十ケ所」といわれる近距離に札所が集中している地域であるが、その中で西丈は5番札所の地蔵寺を描いている。

縁起によると、地蔵寺は弘法大師が嵯峨天皇の勅願で当地において勝軍地蔵を刻み、堂宇を建立したことに始まるとされている。また、「四国徧礼霊場記」(元禄2年刊)には、後宇多天皇の時代に、住持の定宥が熊野権現の霊託により地蔵尊を造立、その中に弘法大師作の小仏を奉納し、あわせて造立した阿弥陀と薬師を脇侍としたことが記されている。地蔵寺は古くから武将たちの信仰を集め、室町期に寺運が興隆、境内に多くの塔頭をもつ大寺院に成長したが、天正10(1582)年に長宗我部元親の兵火により焼失。江戸時代に入り、徳島藩主蜂須賀氏により再建されている。

西丈は地蔵寺を描いてはいるものの、むしろその目は、地蔵寺の北側の高台に位置する奧之院に注がれている。『阿波名所図会』(文化11年刊)には、このあたりに羅漢原という土地があり、宝暦の頃から願主が浄財を集めて、羅漢堂の広大な精舎を創建したとある。この羅漢堂が西丈の描く奧之院である。

2階建ての堂の両脇から回廊が伸びて、2棟の別棟へとつながっている。羅漢堂はこの3つの堂がセットで、ここを巡ることによって500体の羅漢像を参詣する仕掛けになっていた。「四国遍礼名所図会」(寛政12年)は、奧之院について「中尊釈迦如来、左弥勒菩薩、右大師、各大仏」と記し、西丈よりもさらに精密に羅漢堂を描写している。

羅漢堂については、先に記した『阿波名所図会』に描かれた挿絵も興味深い。中央の二階建て部分に大仏が鎮座し、右の建物には弘法大師坐像と思われるものが描かれている。回廊に部分は2段に五百羅漢が並んでいるが、『阿波名所図会』の挿絵は、建物の内部がわかるように透視して描く趣向になっている。

元禄8(1695)年、江戸の本所に羅漢寺が創建、その後享保11(1726)年までに本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍が完成している。そのうち、東西羅漢堂には、松雲元慶の造立した五百羅漢像が安置されているが、この羅漢堂は参詣者が定められた順路より堂内を歩き回ることで、羅漢像を拝観する仕掛けになっていたという。その後、『江戸名所図会』(天保年間)に羅漢寺は大きく取り上げられており、評判を呼んだ様子がうかがえる。地蔵寺奧之院の羅漢堂はそうした江戸での人気を知り、参詣者のために新たに付け加えられた要素なのかもしれない。そのインパクトは西丈にとっても大きかったようで、竜宮城にも見える不思議なこの建物を、札所よりも大きく描いてしまっている。

常設展 愛媛の祭礼図

4月 23日 日曜日

常設展示室の「祭りと芸能」の展示替えで、当博物館所蔵の祭礼図を列品しました。昭和初期の宇和島八ツ鹿踊りの古写真、吉田秋祭りを描いた「吉田祭礼絵巻」(中野本、栗田本、松末本、青木本の4点)、西条市氷見の石岡神社祭礼渡御行列之図(昭和初期)などです。期間は7月中旬までとなっています。

写真は上から、
 石岡神社祭礼渡御行列之図(右部分)
 石岡神社祭礼渡御行列之図(左部分)
 吉田祭礼絵巻(栗田本)の鹿踊と牛鬼
の順となっています。

「愛媛のくらし」展示室の鯉のぼり♪

4月 18日 火曜日

4月も半ば。もうすぐ端午の節句です。「愛媛のくらし」展示室に、鯉のぼりが登場しました。
鯉のぼりは、男の子の立身出世を祈って、江戸時代中期頃から作り始めたとされます。明治末年までは紙製が多く、昭和に入ってからは布製が多くなりました。
展示しているのは、昭和25(1950)年、八幡浜市の若松旗店で作られた鯉のぼりです。
展示室には青い空もそよぐ風もありませんが、真鯉(黒い鯉)と緋鯉は悠然と泳いでおります。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」1 古代の南海地震と伊予

2月 12日 日曜日

歴代の南海地震最古の文字記録『日本書紀』(愛媛県歴史文化博物館蔵)

古代の歴史書『日本書紀』の684年10月14日条に地震の記録が残っています。この『日本書紀』は律令国家が700年代前半に編さんした正式な国の歴史書なのですが、その中に南海地震の発生や四国での被害状況が記されています。

『日本書紀』天武天皇13(684)年10月壬辰条
壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。

この『日本書紀』の記述は、南海地震に関する文字記録としては最も古いものです。この7世紀後半は白鳳時代ともいわれ、一般にこの地震を「白鳳南海地震」と呼んでいます。この史料の前半部には、壬辰(10月14日)に「大地震」があり、国々の男女が叫び、山が崩れて河があふれて、国や郡の役所の建物や一般庶民の家、そして寺院や神社が破損した。そして人々や動物たちも死傷が多く、数えることができない、と記されています。

そして後半部には具体的な地名が出てきおり、「伊予温泉」が埋もれて湯が出なくなり、土佐国(現在の高知県)では田畑50万頃(しろ)が埋もれて海となったと書かれています。

実は、日本で最古とされる南海地震の文字史料にて、最初に出てくる地名は「伊予」(現在の愛媛県)なのです。「伊予温泉」と書かれていますが、これは今の松山市の道後温泉といわれています。道後温泉は、歴代の南海地震が起きるたびに必ず湯の涌出に支障がでています。ただその後に必ず復旧はしています。1ヶ月後に復旧する場合もありますし、3ヶ月後の場合もあります。近い将来、南海トラフ巨大地震が発生したときには、やはり道後の湯は止まる可能性は大きいことが過去の史料から推察できます。

そして『日本書紀』の記述では「伊予」の次に「土佐国」の被害が記されています。土佐国の田畑50万頃(約12平方キロ)が埋もれて海となるとあります。これは高知県の広い範囲が地盤沈下して、そこに海潮が入ってきて、そのまま陸地に戻らなくなったというのです。

684年当時の古老が「このような大地震は経験したことがない」とも語っているのですから、古代においても被害は未曽有のものだったいうことです。

この『日本書紀』は歴史的事実を書き記すと同時に、古代の神話も叙述されており、ここに紹介した白鳳南海地震の内容も「歴史的事実」、「神話世界の物語」のどちらなのだろうかという疑問があります。しかし、この記述のある天武天皇13(684)年当時は律令制の確立期でもあり、すでに国郡里制が定着し、被害状況は国司から朝廷に報告されるシステムができあがっています。つまり白鳳南海地震に関する確実な「歴史的事実」を語る史料として扱うべきものだといえるのです。

Page 1 ⁄ 22123451020...最後へ »