‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

中国四国名所旧跡図35 阿州灌頂寺(慈眼寺)穴禅定

11月 30日 木曜日

20番札所鶴林寺の奧の院、慈眼寺の本堂からさらに600メートルほど奥山に入って行くと、観音堂と3間四方ばかりの浅い池中に弁天社の小さな祠があった。その背後には、所々に穴が開いた石灰岩質の岩山。西丈は『四国遍路道指南』が「ふしぎの峰」と記すこの奇怪な景観をダイナミックに表現している。

岩山を少し登った所には、細長い亀裂型の鍾乳洞が口を開けている。その開口部に行くには、そのままでは滑って登れないので、梯子がかけてあり、21段あがると辿り着くことができた。そして、そこからさらにもう一つの梯子を16段上が上がった所に小さな岩穴があり、蔵王権現を祀っていた。このあたりの岩は「皆石鍾乳に而白し」と記す旅日記もあるが、西丈の絵はそうした岩の質感もとらえている。

この鍾乳洞に入るのも修行の一つであった。貞享4(1687)年刊行の『四国遍路道指南』では「俗胎内くゞりといふ」とあるが、江戸時代中期の旅日記からは、修験道で高い山に登って行う修行である「禅定」の文字が使われるようになる。西丈も絵の脇に、現在も使われている「穴禅定」の文字を記している。

穴禅定に入る時には、慈眼寺から案内人が付き、寺で借りた白い帷子を着て入った。中は暗闇なので松明を灯したが、天保頃の松明代は1人前55文であった。地理学者として知られる古川古松軒の宝暦14(1764)年の「四国道之記」には、「岩穴の中へ数百歩入る事有り、必ず入るべからず」と記されている。実際に中に入った古松軒は、「中途より穴数も多く殊の外狭き難所ありて、大ひにこまることなり」と後悔したようで、その恐怖からかこの穴の中で亡くなった者もいたと記している。しかし、好奇心旺盛の西丈はもちろん岩穴に入ったようで、内部の様子をもう一枚のスケッチに遺している。

洞窟は、龍がのたうつように奥へ奥ヘと続いていく。その長さは、記録により21間、30間余り、34,5間と様々に記されているが、40~60メートルほどであろうか。松明を灯した案内の先達に随い、狭い所では身を左に右にしながらくぐり抜けていく。

西丈は洞窟内に様々な形状のものを描いているが、記録と一致しそうなのは、法螺貝、大師袈裟掛の石(仏旙に似たるもの数條垂下するもの)、両界曼荼羅、錫杖、三尊の阿弥陀如来、普賢菩薩、不動明王あたりであろうか。一番奧に「灌頂座」とあるが、これは弘法大師が護摩の秘法を修行したと伝えられる護摩檀のことであろう。行き詰まった所の8畳ぐらいの広さの空間に、自然石でできた護摩檀があり、戸帳石、花立、花皿、三重塔などがあったという。その手前に蛇が見えるのは、弘法大師が護摩により得度させたという大蛇と思われる。松明のわずかな明かりの中で見出した自然の奇蹟を、西丈はそのイメージのまま一気呵成に描き出している。

松浦武四郎は、鶴林寺奧の院を「海内無双の霊場」と記しているが、西丈も同じような感慨を持ったのか、この一帯だけで4枚のスケッチを描き残している。

中国四国名所旧跡図34 阿州鶴ノ奧之院灌頂寺(慈眼寺)

10月 5日 木曜日

灌頂ヶ滝を谷越しに見ることができる場所には、不動堂があった。西丈が描く絵にも、前の道沿いに小さな建物が描かれているので、これが不動堂であろう。46番浄瑠璃寺から遍路に出た英仙本明の「海南四州紀行」には、灌頂ケ滝の箇所に「此方ニ堂アリ、茅屋疏ナリ、一間半ニ二間不動木像坐ス」と記している。そこから少し登って橋を渡り、くねくね曲がる道を一丁ごとに設けられた丁石を辿るように800メートルほど登って行くと、20番鶴林寺の奧の院、慈眼寺に到着する。西丈は慈眼寺のことを、灌頂ケ滝に因んで灌頂寺と記している。

石灰岩質の奇怪な岩を背景に、曲り家の草屋が2棟。文化元(1804)年の「海南四州紀行」は、「寺鍵作、茅屋麗ナリ」と記すが、鍵作とは曲り家のことをいうので、西丈の絵と一致する。そのうちの左側の1棟に向かい、袈裟を着た僧侶と随者が歩いている。草屋には、山から樋を伝って水を引いていた様子も描かれている。おそらく左側が本堂と思われるが、そこには本尊の大師作とされる十一面観音、不動尊が安置されていた。人里離れた山中のためか、松浦武四郎の「四国遍路道中雑誌」には、「行暮候節は止宿をゆるす」と記されている。

中国四国名所旧跡図33 阿州灌頂瀧

9月 14日 木曜日

西丈は正規の札所よりも、そこから少し外れた奧之院や番外霊場を好んだのか、そうした所にも積極的に足を伸ばしている。19番札所立江寺を参拝した後も、20番札所の鶴林寺には直接行かず、奧之院の慈眼寺に向かっている。谷川に沿って歩き、山に入っていくと、谷を隔てた向こうに雄大な滝が西丈を迎えた。灌頂ヶ滝である。

勝浦川の支流、藤谷川の上流部にあり、落差約80メートル。付近は古生界の泥岩のほか、塩基性海底火山噴出物と石灰岩が分布しているが、西丈は墨をにじませながら、滝周辺の岩肌を巧みに表現している。このモノトーンの色調の中に、赤く燃え上がる火の玉。滝の半ばに浮かんで見える火の玉の正体は?

灌頂ヶ滝は、四国山地東部の旭ヶ丸(1020m)を中心とする山なみ南面の水を集めて落下しているが、滝の半ばで岩に当たり霧散するため、晴天で風が吹くと虹となって輝いた。この虹を人々は「不動尊のご来迎」と称して拝んでいた。西丈は左下に「不動御朱光」と記しており、不動尊を虹ではなく、赤い光の中に見出している。元禄2(1689)年刊の『四国遍礼霊場記』には、「天晴日移る時火焔たち、此時不動明王降臨あり、故に不動の滝ともいふ」と記す。西丈はまさしくこのイメージで灌頂ヶ滝を描いている。

西丈は滝に感動したのか、和歌を書き留めている。

くわん頂の瀧に旭かさせはとそ不動表われもおなし灌頂
朝にさす影に不動も行水のあまりに我も垢をそゝかん

また、あわせて「栗林子猷」という人物の句も書き留めている。

焔なる汗を灌ん瀧の水

中国四国名所旧跡図32 阿州長尾城村チル瀧

9月 7日 木曜日

大きな崖を勢いよく落下する滝。落ちた先でも急流となり、画面右から左へ流れ下っていく。その川縁に藁屋が2棟。対岸に渡すように真ん中が高くなった木の橋が架けられている。対岸には道が続いているようだ。

左上には「阿州長尾城村チル瀧」という文字が記されている。これを手がかりに、19番の立江寺から灌頂ヶ滝の間で探してみたが、長尾城村に該当する地名が見つからない。音でいうと「ナガオジョウ」。もしかすると那賀川下流北岸の中之庄村(阿南市)ではないかと考えてみたが、ほとんどが低地の穀倉地帯ので、西丈が描く景観と大きく異なる。

ルート上の滝といえば、立江寺の奧の院星谷寺に、岩窟のようになってところで、滝を裏側から見ることができる裏見の滝がある。文字情報と一致しないが、あるいは裏見の滝を描いたものであろうか。西丈の場合、旅日記が残されておらず、絵だけで読み解かないといけないので、特定できない絵が何枚かある。

資料紹介「聖戦必勝態勢昂揚」~テーマ展「戦時下に生きた人々」から~

8月 28日 月曜日

テーマ展「戦時下に生きた人々」ものこり一週間となりました。今日は最後に、「5 まだまだがんばれ、がまんしろ!」のコーナーで展示している「聖戦必勝漫画昂揚」を紹介します。
戦前の漫画界は、いくつものグループに分かれていました。例えば、「日本漫画会」(北沢楽天、岡本一平)、「漫画連盟」(麻生豊、宍戸左行)、「新漫画派集団」(杉浦幸雄、横山隆一)、日本漫画界系の若手集団「三光漫画スタジオ」(松下井知夫、根本進)、漫画連盟系の若手集団「新鋭漫画グループ」(秋好馨、南義郞)などがありました。しかし、昭和15(1940)年に第2次近衛内閣が新体制運動を表明して大政翼賛会がつくられると、政党だけではなく新聞や漫画なども統合されました。若手の三光派と新鋭派が「新漫画派集団」に合同を持ちかけたことで「新日本漫画家協会」が設立されました。そして、翌年にはベテランを含めた「日本漫画奉公会」となります。
本展では「日本漫画奉公会」(会長北沢楽天、副会長田中比左良、顧問岡本一平、幹事細木原青起)が描いた「聖戦必勝態勢昂揚」を展示しています。多くの子どもが入った風呂を沸かすお母さん(池田永一治)、防毒マスクをかぶっている女性(北沢楽天)、油の取れる蓖麻(ヒマ)という植物を植える少女(細木原青起)などが描かれています。本来、笑いや笑顔を引き出すはずの漫画家たちも、大政翼賛会の傘下にあっては、戦意を昂揚させ国民に苦しい生活を我慢させるものしか描くことができなかったのです。漫画家をとおしても本テーマ展が目的とした戦争の悲惨さと平和の大切さを感じ取ることができます。 
テーマ展は9月3日(日)まで開催しています。ぜひ、ご来館下さい。


防毒マスクをかぶっている女性(北沢楽天)


多くの子どもが入った風呂を沸かすお母さん(池田永一治)

資料紹介「千人力と血染めの鉢巻き」~テーマ展「戦時下に生きた人々」から~

8月 24日 木曜日

今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「4 飛べなかった特攻隊員」のコーナーで展示している「千人力」と「血染めの鉢巻き」を紹介します。
特攻隊とは、戦死を覚悟しての体当たり攻撃です。飛行機では「桜花」、潜水艦では「回天」、船艇では「震洋」などがありました。展示室では、学徒出陣で海軍に入った特攻隊員を紹介しています。この方は昭和20(1945)年8年10日に相模湾に来ることが予想されたアメリカ艦隊への特攻を命じられました。13~15日、千人力のジャケットと腹巻きを身につけ、血書の鉢巻きを巻いて、いつでも離陸できる態勢をとっていました。千人力とは千人針の赤い糸さえ無くなったため、「力」という文字を千個押したものです。そして、鉢巻きは、女性たちが小指を切って皿にためた赤い血で「桜花」と書いて贈ってくれたものでした。結局、アメリカ艦隊は相模湾に現れず、15日の終戦を迎えたのでした。
当時、特攻隊は英雄とみなされていました。この方は生きて終戦を迎えましたが、簡単に喜べるものではありませんでした。仲間たちは特攻で戦死したのに自分は生き残った、故郷に帰っても生きて帰った特攻隊員として世間の目は冷たかったそうです。兵士と言えば、海外で戦ったイメージがありますが、国内にこのような兵士がいたことを知ることも大切です。
テーマ展は9月3日(日)まで開催しています。ぜひ、ご来館下さい。


               千人力


               血書の鉢巻

資料紹介「まぼろしの一銭陶貨」~テーマ展「戦時下の人々」から~

8月 3日 木曜日

今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「3 留守を守ったお母さん」のコーナーで展示している「まぼろしの一銭陶貨」を紹介します。
明治以降、日本の貨幣は金・銀・銅を主な材料として作られました。戦争の長期化と軍需優先のあおりを受けて、昭和8(1933)年に純ニッケル硬貨が作られました。この背景には軍需資材としての利用価値が高いニッケルを輸入して、貨幣として備蓄しようとした意図があり、昭和13(1938)年にニッケル硬貨は回収され、次はアルミニウム硬貨が作られました。しかし、アルミニウムは飛行機の材料となるため、2度にわたり量目が変更されました。10銭硬貨の場合、昭和16(1941)年に1.5gから1.2gへ、昭和18(1943)年には1.2gから1gになったのです。アルミニウムに続いて作られたのが南方の占領地でとれる錫や亜鉛を使った硬貨です。しかし、戦況の悪化で南方から錫や亜鉛も手にはいらなくなります。
そこで、政府が考えたのが粘土を材料とした陶貨です。有田焼や瀬戸焼で有名な佐賀県、愛知県などの陶器メーカーが作りました。表には富士山、裏には桜花の模様があしらわれています。昭和20(1945)年の敗戦によって使用されることなく、粉砕されたのですが、少量ながら市場に出回っています。なお、一銭という単位の貨幣が作られたのは、不発行ながらこの陶貨が最後となりました。お金を通じて戦争を捉えてみると、戦争を身近にイメージできるかもしれません。
8月6日(日)には自由研究応援講座「戦争を調べよう」(事前申し込み必要)を行います。ぜひ、ご参加ください。展示は9月3日(日)まで開催しています。

               表


              裏

資料紹介「伸びゆく小供」 ~テーマ展 「戦時下に生きた人々」から~

7月 22日 土曜日

 今日はテーマ展「戦時下に生きた人々」の中から、「2 ぼくたちも戦争のなかにいた」のコーナーでパネル展示している「伸びゆく小供」を紹介します。実際は絵葉書の裏面に描かれています。封筒には「一億一心」のスローガンが記載されています。「ゼイタクハ敵」、「勤労奉仕」、「慰問袋」などのタイトルで子どもを登場させ、子どもでも分かりやすいように漫画風に描かれているのが特徴です。子どもたちにも生活の苦しさに堪え忍び、出征している兵士を思いやって国内を守る思想が強いられたのです。
展示室ではこの他にも戦艦文鎮やヘイタイ双六などのおもちゃ、日独のマークがあしらわれた子ども服、当時の教科書、武道が科目となった通知表、学徒勤労動員の写真なども展示しています。子どもの成長にあわせて資料を順番に展示していますので、当時の小学生から中学生までの様子がよく分かると思います。戦争と子どもについては、子どもは弱い立場で守られていたイメージがありますが、小学校五年生なら十年経てば一人前の兵士となります。そのため、大人たちは子どもの頃から国への忠誠心や兵士となることの意味をいろいろな手段を使って浸透させたのです。そして、純粋な子どもほど大人の考えを素直に正しいと信じたのです。当時の子どもたちの資料を、「純粋で弱い立場」という視点と、「将来の戦士」という視点で複眼的に見ていただければ、資料の見方も変わると思います。皆さんいろいろな角度から資料をご覧ください。展示は9月3日(日)まで開催しています。

         封筒

         ゼイタクハ敵

         勤労奉仕

         慰問袋

中国四国名所旧跡図31 阿州立江寺 四国札所関所

6月 14日 水曜日

13番の一之宮の後、14番から18番までの札所を廻ったはずだが、西丈は何も描き残していない。寛政12(1800)年の「四国遍礼名所図会」の挿絵が、一つ一つの札所を、実景を目の当たりにするような墨絵で丹念に描いているのと対照的に、絵心がくすぐられた景色だけを描くスタイルを貫いているようにも思える。19番札所立江寺に来て、ようやく西丈は絵筆をとっている。しかし、西丈が描くのは札所ではなく、粗末な橋の上に白い鳥が佇む情景である。

立江寺がある立江に至るには8つの橋があったが、その橋には言い伝えがあったようで、江戸時代からいろいろな書物に記されている。貞享4(1687)年出版の『四国遍路道指南』にも、「石橋八ツ、此はしのうへに白鷺居たときハ往来の人渡る事あしゝ、をしてわたりぬれバあやまち有、標石あり」と既に記されている。西丈はこの話を聞いて、わざわざ橋の上に白鷺がいる絵を描いたのであろうが、橋のたもとには、石碑のようなものが2基あるが、道標であろうか、それともこの言い伝えを記した石碑であろうか。石橋ではなく、木橋にしているのは不可解であり、あるいは西丈は言い伝えを聞いて、そこから想像をふくらませて描いたものなのかもしれない。

中国四国名所旧跡図30 金地瀧(弘治滝) 阿州一ノ宮奧ノ院

5月 30日 火曜日

焼山寺から13番札所一之宮までの道、西丈は何度も川を歩いて渡りながら進んだものと思われる。そして、ゆるぎ石という大岩があるあたりから道を右に折れ、2キロメートルほど足を伸ばし、一之宮の奧の院、建治寺に立ち寄っている。

松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」によると、奧の院には数丈の岩壁があって、大きな岩窟に蔵王権現を祀っていたとある。またさらに500メートルほど折れ曲がりながら下ると、不動滝に至ると記されている。この不動滝が、西丈が描く「金地瀧」のことと思われる。「水勢甚しく幅広し」という描写は、西丈の絵そのもの。滝の周囲の岩角には西国三十三箇所の観音を安置しているというが、これも西丈が滝の周囲の道に石仏を描いているので、この点もぴたりと一致している。

奧之院である建治寺は、天智天皇の時代(661~671年)に役小角が開基したと伝えられている。弘仁年間(810~824年)に空海が四国巡礼をしている際にここを訪れ、修行したと伝わる。西丈が描く滝は、鮎喰川の支流で西竜王山(495m)を水源とする金治谷川の沢の最上部にかかるもので、西丈は「金地瀧」の字を宛てているが、現在は「建治滝」と記され、滝行が行われる行場となっている。

遍路というと、ひたすら札所を目指して歩くイメージがあるが、西丈の場合、番外とされる札所にもよく足を伸ばしている。そのことで、記録にとどめられた一枚といえる。

Page 1 ⁄ 23123451020...最後へ »