‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

お知らせ 戦前戦後の雑誌展について

8月 19日 木曜日

平成22年7月24日(土)から平成22年9月12日(日)まで、常設展示室内の文書展示室で、「戦前戦後の雑誌展―相原コレクションよりー」を開催しています。

<主な内容>
 当館で寄託されている相原コレクションから、戦前戦後の創刊雑誌を紹介します。雑誌は、出版物の中でも、新聞と同様に消費されることを目的とされていました。日本の近代化の象徴のひとつでしたが、現在では雑誌の創刊号が残ることは、たいへん珍しく貴重といえます。
 故相原隣二郎氏は、明治・大正・昭和時代初期、そして、戦後にかけて、944点の創刊雑誌を収集しました。
隣二郎氏は、教養から娯楽に至るまで、さまざまな種類の雑誌を収集しました。それぞれの時代に、人々が何を見、何を聞いて、どのような姿で生きてきたのか、感じ取っていただければ幸いです。

(1)雑誌のはじまり
日本における雑誌のさきがけは、慶応3(1867)年に柳河春三が発行した『西洋雑誌』です。わずか十数ページで、欧米の雑誌を習ったものでした。まだ、日本人にとって雑誌はなじみがなく、一から説明しなくてはなりませんでした。

(2)文明開化と雑誌
文明開化が花開くと、文化人が次々と欧米へ留学して、教育や法律、科学などさまざまな分野を学んで帰国しました。そして、雑誌を刊行して、近代国家へと文化の向上を図りました。

(3)大正デモクラシーと雑誌
 日清・日露戦争の勝利を背景に、大正時代に入ると、日本国内の諸産業(絹や茶、鉄鋼業など)が海外へ多く輸出されるようになりました。人々の生活にも近代化が浸透して、大衆文化が栄えるようになりました。この社会現象を大正デモクラシーと言います。庶民による雑誌の講読数も増え、次々と新しい文化が雑誌に紹介されました。

(4)愛媛県と絹
古来より絹の産地だった愛媛県は、明治時代以降、全国でも有数な産地となりました。中でも西予市野村町の養蚕は、明治初期に始まり、大正初期には1,138戸を数えました。20年に一度、伊勢神宮で行われる式遷宮では、伊予の絹を使う慣わしがあります。野村町で生産された絹織物は、現在でも皇室に献上されています。

(5)昭和の雑誌
昭和に入ると、日本の都市部では鉄筋コンクリートの建物が次々と建てられ、大衆文化が栄えました。雑誌にも100万部にものぼるベストセラーが登場するようになりましたが、昭和4年の昭和大恐慌を契機に日本も大きな経済打撃を受けて、太平洋戦争へと進んでいきました。

(6)戦争と雑誌
昭和12(1936)年に、日本と中国の間で戦争が始まりました。その二年後、テレビジョン実験放送が開始となり、やがて、雑誌は、戦争へと人々を誘導する媒体と変化していきました。昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入しました。戦局が悪化するにつれて紙も不足し、雑誌社の統合によって、種類が減らされました。終戦を迎える頃には、雑誌のほとんどが発行できなくなっていました。

(7)戦後の創刊雑誌
昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は、廃墟の中で復興へと歩き始めました。家族や生活基盤を失った人々の希望となったのは、雑誌の復活でした。物資が不足する中で、紙は配給制でした。部数を制限して発行された雑誌が店頭に並ぶと、飛ぶように売れていきました。

(8)GHQと雑誌
戦後日本は、マッカーサー率いるGHQによって、政治・経済・文化のすべての面において、改革がありました。アメリカ文化を紹介する内容が数多く発行され、占領軍に対する批判や、戦前の軍国主義に関わる内容などは、検閲によって発行されませんでした。

(9)戦後の創刊雑誌の特徴
戦後の創刊雑誌のタイトルは、新しい時代に期待をこめて「新」の文字が多く用いられました。また、復興の象徴として、「自由」・「平和」・「希望」、英語をカタカナで表記する「スタート」など、新しいタイトルが次々と登場しました。

(10)女性の解放と雑誌
昭和21(1946)年、日本で初めて男女平等の総選挙が行われました。主婦や働く女性に向けた雑誌も数多く発行されました。戦後の食糧難の時代に生き抜く食事の工夫や、戦争中は途絶えていた女性の教養の手本としてアメリカ人女性のスタイルが紹介されました。

(11)戦後のこども雑誌
戦争中、子供向けの雑誌は、わずか6種を数えるのみでしたが、昭和21(1946)年4月には40種類を超えて発行されました。明るく、想像力の豊かな子供が育つように、希望に胸ふくらむ物語などが編集されました。混乱と困難の時代の中、子供たちはいきいきと、のびのびと育って行きました。

(12)映画・演劇・スポーツの復興
戦後、京都の映画村は被災を免れ、いち早く復興の先陣を切りました。野球を始めとしたスポーツも次々と復活しました。大衆文化が復活し、戦後の困難を生きる人々に大きな希望と楽しみをもたらしました。

テーマ展紹介-8

7月 1日 木曜日

西四国の縄文文化

 広見遺跡採集の石鏃

 当地域の縄文時代の遺跡は、木村2001によると約140箇所で確認されています。ここでは、木村氏が多くの資料を採集されている愛南町広見遺跡について、紹介します。

 広見遺跡(南宇和郡愛南町広見)

 ■発見の経緯

1966年に考古学研究者によって発見された遺跡です。

■立地

盆地状の広見地区の名路の通称岡駄場に所在し、標高382mの北側の山から南に延びる舌状段丘の先端近くに位置し、標高約100mを測ります。

 

 広見遺跡位置図 木村1995より

■遺物

石器129点、土器70点が報告されています。

土器は、前期の彦崎ZⅠ式、中期の船元式、後期の中津式・平城式・片粕式・伊吹町式、晩期の中村Ⅱ式が確認されています。

石器は、石鏃・石錐・石匙・スクレイパー・打製石斧・庖丁形石器が確認されています。特に、石鏃は香川県金山産サヌカイトが65%と主体を占めることが特徴です。

  木村氏は、1972年に「愛媛県南宇和郡広見縄文遺跡と出土遺物」『古代文化』第24巻第5・6号を発表されています。

 また、著書『幡多のあけぼの』(1992年)「散らばる矢じり-縄文人は狩猟好き」では、石鏃を採集した際のことを次のように記されています。

「(前略)宿毛湾に注ぐ松田川の支流、篠川上流地帯の愛媛県南宇和郡一本松町広見遺跡も石鏃の多い所である。(中略)

 私はある日、ここを訪れ徹底的に表面採集をしたことがある。その時、土器のほか、石鏃を三十点余り拾った。これは、私が一日で採集した石鏃数の最多記録で、今もこの記録は破られていない。その後、ここに通い詰め、最終的には石鏃百五十点余りを集めた。その石鏃は、形の完全なものが多く、時期的には、縄文前期から晩期までのものを含んでいた。ただ石質のほとんどが香川県坂出市の金山に産出するサヌカイトであったのには驚いた。ここの縄文人は瀬戸内地方と頻繁に交易を行っていたのであろう。(後略)」

 

木村氏が撮影した広見遺跡周辺写真

(撮影年不明 1970年前後?・高知県立歴史民俗資料館蔵)

参考文献

木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11

高知大学黒潮圏研究所

木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研

  この他にも、松野町真土遺跡、広福寺遺跡、愛南町深泥遺跡、茶堂遺跡採集資料について紹介しています。

テーマ展紹介-3

6月 24日 木曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(2)姫島産黒曜石の交易研究」

  木村氏の最初の研究対象に、大分県姫島産黒曜石の交易に関する研究があります。著書『幡多のあけぼの』(1992年)では「海上の道(上)―黒曜石の故郷探る」「同(下)―松の舟で渡航実証」の2項目で姫島への探訪について記されています。

  「大分県国東半島の突端、周防灘に浮かぶ7k㎡の小さな島、東国東郡姫島に産出する黒曜石が交易によって幡多へ大量に運び込まれた。その時期は縄文早期(約8,000年前)から晩期(約2,500年前)にかけてであり、約5,500年間続いた。そして、幡多の縄文人は、手に入れた黒曜石で狩猟用の石鏃をたくさん作った。

 作業場には石くずがいっぱい散乱し、石鉄の作り損ないや未完成品、時には完成品をも置き去りにした。石くずや石鏃が集中する個所を遺跡でよく見るが、そこはこのような場所だった。作業場からは、時たま大きな原石が出土することがある。愛媛県南宇和郡の御荘湾奥部の海辺に、舌状に突き出た海岸段丘上の先端部にある深泥遺跡からは大人の頭ほどの巨大な原石が発見されている。今のところ、これが四国で最大である。(中略)

  当時運ばれてきた黒曜石が、すべてこのような大きなものであったわけではなく、そのほとんどが握りこぶし大であったと思われる。(中略)それを求めて姫島に探検を試みた。(中略)昭和43年12月31日に中村を後にした。宇和島から別府行きの船に乗り、その船上で山口君に言った。「この広い海を縄文人は黒曜石を積み丸木舟で渡ってきたがぜ。縄文人は偉かったねえ」。私は海を眺めながら、荒い波間に4、5人の縄文人が手こぎする丸木舟が見え隠れする光景を思い浮かべた。(中略)

 鉛色にうねる荒波のなかを、期待と不安を抱く私たちを乗せた船は姫島へと向かった。黒曜石を運び出した場所はどんなだったか、球状になった黒曜石は見つかるだろうか、とかいろいろ思いをはせて乗り込んだものの、姫島に着くまでは寿命が縮む思いをしたのであった。(中略)翌正月2日は、前日とうって変わり快晴であった。早速地元の役場に出向き、黒曜石のある所へ案内していただいた。(中略)黒曜石は波打ち際に地上40m、延長120mのそびえ立った巨大な岩盤となり、むき出しとなっていた。(中略)浜辺には、波にもまれて丸くなった石がゴロゴロしていた。それを手に取って見ると、表面にキラッと光る部分が目に留まり、打ち割ってみた。なんと、これがガラス状に輝く黒曜石であった。探し求めていた球状の黒曜石は確かに姫島にあった。

 九州地方の縄文人は、この浜辺に転がる黒曜石をかき集めて、幡多地方へとせっせと運んでいたのであろう。それにしても、球状の黒曜石は浜に無尽蔵にあって驚いた。(後略)」

  木村氏は、1969年から70年にかけて、姫島産黒曜石に関する論文を5本執筆されています。

愛南町深泥遺跡採集黒曜石石核(個人寄贈・当館蔵)

テーマ展開催中!!

6月 18日 金曜日

 

    4月24日(土)より考古展示室にて「木村剛朗氏と西四国の先史文化」を開催しております。この展示は、平成19年度に木村紀子様から寄贈を受けました故木村剛朗(たけお)氏〔1938年~2007年〕(日本考古学協会会員/中村市文化財保護審議委員など歴任)収集考古資料を中心に公開するものです。

   これらの資料は、木村氏が長年にわたる考古学研究の過程で、遺跡を地道に踏査し収集された県内南部の旧石器・縄文時代の貴重な考古資料です。

   本展では、これらの資料に加え、木村氏使用のカメラや原稿など(高知県立歴史民俗資料館に寄贈)を展示・公開しています。博物館施設でこれらの資料を一同に公開するのは初めてです。

   本展を通して、西四国(愛媛・高知両県)の先史文化の解明に尽力した氏の功績を顕彰するとともに、当地域の先史文化の理解の一助となれば幸いです。

展示構成は次の通りです。

①プロローグ:木村剛朗氏と考古学

②資料の整理 :木村資料整理プロジェクト

③西四国の旧石器文化

④西四国の縄文文化

⑤エピローグ:木村氏の足跡をたどる 発掘された遺跡

   この展示の目玉資料は、愛南町和口遺跡にて木村氏が採集された後期旧石器時代のナイフ形石器・翼状剥片・石核など数百点を一同に展示していることです。これらの資料は木村氏が休日を利用して10数年間遺跡に通われて採集された資料です。

愛南町和口遺跡採集翼状剥片(後期旧石器時代/約2万年前)

  展示は9月5日(日)までです。この機会に是非ご覧ください。展示資料については、数回に亘り紹介したいと考えています。

村上節太郎写真30 今治の常磐町商店街

3月 26日 金曜日

常盤町商店街 今治市常磐町 昭和40年

 今治港から市役所を東西に結ぶ今治の中心商店街で、売り出しなのか商店街全体が紅白の幕で飾られている。通称「今治銀座」とも呼ばれ、衣料品の店が多く立ち並ぶ。買い物客の足となる輪タクが客待ちをしている。しかし、近年は渡海船による島嶼部からの買い物客が減り、人通りも写真当時よりは減っている。

村上節太郎写真29 今治城の牡蠣の養殖

3月 21日 日曜日

今治城の牡蠣の養殖 今治市 昭和11年

 何の変哲もない城跡の石垣の写真。名所旧跡として今治城を撮影した写真に見える。しかし、村上節太郎が書き残したメモには、「城の堀を利用したカキの養殖」と記されている。確かによく見ると、堀の中に養殖のための竹ヒビが林立している様子がうかがえる。
 地元で聞くと、今治城の堀は明治時代に入り、旧今治藩士がつくった組合により管理され、牡蠣の養殖場として貸し出されていたことがわかった。今治城の堀は海水を導入しており、潮の干満による水位を調整する水門もついていたため、牡蠣の養殖に適していたのだろう。村上の地理学者としてのセンスがうかがえる一枚である。
 今治城は軟弱な地盤を補うため、今治城の本丸、二之丸の石垣の下には犬走りがまわり、松が植えられていた。昭和11年の写真には多くの松が見えるが、現在はこれらの松は失われている。

歴史展示室1の展示替え

3月 11日 木曜日

 先日の休館日に行なわれた展示室の点検作業に合わせて、歴史展示室1では展示替えを行いました。

 上の写真がこれまでの展示風景です。

 下の写真が今回実施した展示替え後の様子です。違いがわかるでしょうか?

 昨年4月~6月に開催した企画展「えひめ発掘物語2&絵で見る考古学」にて展示した早川和子氏作成の遺跡復元画3点をパネルにして展示しています。この復元画の取材時の様子は過去の記事遺跡復元画ができるまで-3 をご参照ください。

 特に今治市相の谷1号墳を紹介するコーナーでは、これまで展示していた模型に替わって、パネルで古墳築造の様子を紹介するとともに、出土遺物の一部を新たに展示しています。

 もう2枚の新しいパネルは展示室で探してみてはいかがでしょうか。

テーマ展「木の考古学」始まりました。

12月 1日 火曜日

 11月14日(土)から開催の愛媛県総合科学博物館巡回展「森のめぐみ」に合わせ、考古展示室におきまして「木の考古学-遺跡からのメッセージ-」が始まりました。

 博物館が収蔵する愛媛県内出土の木製品のうち、今から約2300年前のものから600年前くらいのものを、農具や建築用材、うつわ、装身具等に分類し展示しています。

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 この展示は、来年1月24日(日)まで開催しています。
 常設展示室の一部ですので、常設展示観覧料が必要となりますが、ぜひ見にいらしてください。

お知らせ テーマ展「吉田藩大工棟梁ニ宮家の図面展」の開催について

11月 26日 木曜日

平成21年11月14日(土)から平成22年1月31日(日)まで、常設展示室内の文書展示室で、テーマ展「吉田藩大工棟梁二宮家の図面展」を開催します。

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 二宮家は、江戸時代に吉田藩大工町(だいくまち)の棟梁として代々吉田藩に仕え、昭和49(1979)年に最後の棟梁が没するまで約300年にわたって吉田地方の社寺建築に携わりました。安政の大地震の時にも倒れることなく、現在も二宮家建築の社寺が残っています。

 大工棟梁の家がこれほど長く続き、ともに図面が残ることは県内において、たいへん珍しいことです。二宮家文書は、平成20年に吉田町内の民家で発見されました。東雲女子短期大学特任教授犬伏武彦氏、酒井純孝氏(愛媛県建築士会)の協力を得ながら、当館で調査研究・整理を進めてまいりました。県内でも最古級の図面を約30点を紹介しています。

 <主な展示資料>

(1)二宮長六作「吉田藩陣屋蟇股」(竹に雀紋) 江戸時代後期 当館蔵s-DSC_0017

 江戸時代後期に活躍した長六(ちょうろく)は、16歳の時に住吉神社の設計をするほどの天才肌で、名工として全国にまで名前が知られました。吉田藩の陣屋は幕末に再建され、大工棟梁二宮長六の代表作でした。吉田藩主伊達家の家紋(竹に雀紋)の蟇股が、現在も残っており、匠の技を見ることができます。

 

(2)二宮善治郎作「神殿姿図」 文化6(1809)年 個人蔵

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 二宮善治郎が19歳の時に作成した図。代々二宮家は、棟梁となるために、幼い頃から教育を受けていたことが伺えます。

(3)寺院 本堂側面図 江戸時代  個人蔵

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 吉田地方のみならず、城川町龍澤寺にまで二宮大工の足跡が残っています。

 二宮家の図面の特徴は、柱が特に太いことです。これは、耐震性が高いことを示し、実際には、安政の大地震にも耐えうる設計でした。

 江戸時代中期以降、農村部をはじめとして人口が増加し、それにともなって大工の数が不足しました。江戸時代後期には、全国的に流行した華やかな意匠を得意とする長州大工が数多く南予地方に入って来ましたが、二宮家は伊予吉田地方の伝統建築を守り続けました。

  これまで、江戸時代の伊予の社寺建築において、地元大工の足跡について、不明な部分が多かったのです。このたびの図面の発見により、伊予吉田地方において、300年以上も続く伝統建築の名工として二宮家が存在したことが確認されました。こつこつと地道な働きをされた先人の技をご覧いただくとともに、伊予における建築史の奥深さを感じとっていただければ幸いです。

観覧には、常設展示観覧料が必要です。

駕籠に乗ってみませんか?

8月 28日 金曜日

 駕籠の修復についてはこれが最終回。
 それでは駕籠の全貌をご紹介しましょう。
駕籠全体

駕籠の内部はこんな感じ。(前方部分)

 

手前の板を持ち上げると・・・。

  
 
折りたたみ式の机が出現します。

 

そして、後方には背もたれと肘当てを完備。
 背もたれと肘当て
 駕籠の大きさは、高さ90cm、奥行110cm、幅68cmほど。駕籠の内寸となると、高さ81cm、奥行95cmほどとなり、現代の大人では体格が良すぎてとっても窮屈です。
 この駕籠は、側面に茣蓙(ござ)が使用されているところから、茣蓙巻駕籠(ござまきかご)と呼ばれるタイプのもので、庄屋や医者など村の中で比較的裕福な人たちが使用したものと考えられます。庶民の旅のアイテムではありませんが、江戸時代の乗り物「駕籠」の大きさを手軽に実感していただく資料として活用していきたいと思います。9月15日からはじまる特別展「広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展」にて初公開しますので、ぜひ、歴博で駕籠の大きさを体感してみてくださいね!

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