‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

夏支度~昔の道具クイズ2~

5月 14日 土曜日

 

 暑くなると人間と同じで、動物や虫も活動的になります。

 活動的になった虫が入ってこないようにする「蚊帳」のクイズを前回出しましたが、答えはお分かりになったでしょうか?

 

この蚊帳は、小さな子どもが眠る時に使われた蚊帳です。

というわけで答えは(2)子どもです。

この蚊帳は、昭和50年代に西予市宇和町で使用されたもので、上にある部品を引っぱると簡単に折り畳みができます。

持ち運びもできますので、主にお昼寝用として、小さな赤ちゃんから幼稚園に上がるくらいまで大切に使われたそうです。

赤ちゃんへの愛情あふれる、たいへんほほえましい道具です。

愛媛県歴史文化博物館の民俗展示室2、里のいえに展示してありますので、ぜひご来館下さい。

では今日のクイズ、「夏支度~昔の道具クイズ2~」です。

 茶色い箱のようなこの道具。夏に出てきて困らせる「ある生き物」を捕まえるものなのですが、その生き物とは何でしょうか?

(1)ハエ

(2)ネズミ

(3)ゴキブリ

ヒントは、この道具の名前です。

「ハイトリック」といいます。

答えは「夏支度~昔の道具クイズ3~」で!

夏支度~昔の道具クイズ1~

5月 11日 水曜日

ここ2、3日で急に暑くなりました。

お洋服やお家のしつらえで夏支度をされている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

愛媛県歴史文化博物館でも、民俗展示室2を夏仕様に模様替えしました。

その中から、夏に活躍する道具をいくつかクイズ形式で紹介したいと思います。

座敷に置かれた、水色の大きなネットです。

子犬がボールを追う可愛い絵が描かれています。

この道具は「蚊帳(かや)」といいます。

網戸やクーラーなどがない時代、蚊が入ってくるのを防ぐネットのことを「蚊帳」と呼びました。

蚊帳にも色々種類がありまして、ここで問題です。

この蚊帳の中にはどんなものを入れて虫から守ったのでしょうか?

次の三つから選んでください。

(1)    食事

(2)   子ども

(3)     大人

答えは「夏支度~昔の道具クイズ2~」で!

歴史展示室1の新しいパネル

2月 17日 木曜日

    先日、歴史展示室1では展示替えを行いました。2年前の2009年春の企画展「えひめ発掘物語2&絵で見る考古学」にて展示しましたイラストレーターの早川和子氏作成の遺跡復元画2枚を新しくパネルにて紹介しています。

  1枚目は、「丘の上の弥生ムラ」(西条市半田山遺跡)です。

  現寸復元している竪穴住居のモデルとなった遺跡です。模型も展示していますが、少し異なるところがあります。

 

  1点は海が描かれていることです。模型製作時には瀬戸内海を見下ろすムラ(集落)であることが表現されていませんでした。

  もう1点は、人物が表現されていることです。よく観察すると、中央の広場で脱穀作業をしている人々の様子がわかります。

   なお、原画作成時の様子については「遺跡復元画ができるまで-2」をご参照ください。

  2枚目は「経塚に祈りを込めて」(今治市奈良原山経塚)です。

 展示解説ボランティアをされている方によると、よく尋ねられる質問で、「どうしてあのような山頂に経塚があるのか?」「誰があのような経塚を造ったのか」というものがあるそうです。この復元画をご覧いただくと、その疑問は少し解決するかもしれません。

   これらのパネルの詳細はぜひ、展示室にてご覧ください。展示資料について、より興味を持っていただけると思います。

考古展示室展示替え                        「えひめ考古学の名品 PART2」

12月 26日 日曜日

 

 特別展「伊予の城めぐり」の閉幕に伴い、12月25日から考古展示室では展示更新を行いました。

 今回のテーマは、「学芸員が選ぶ えひめ考古学の名品 PART2」です。(前回は『愛媛歴史民俗100モノ語り』の刊行に合わせ、2008年3月に開催しました。)今回の展示替えでは、これまでに考古学担当学芸員が調査研究テーマとした資料を中心に19件の資料・テーマを設定しました。19のテーマは次のとおりです。

四国最古の石器群/愛南町で採集された旧石器(◎)/約二万年使われた赤い石/愛媛県最古の土器/縄文時代の漆技術/国内でも数少ない木製のよろい/弥生木製農工具の世界(◎)/弥生時代の家を描いた絵画土器(◎) (※1/13まで展示予定、その後 国内最古の舶載鉄器を展示予定)/弥生人はどんな顔?/破片になった卑弥呼の鏡/県内最大の前方後円墳/鶏形埴輪見いつけた!(◎)/古墳時代の飾り馬/1300年前の役所の文房具/古代の銅印(◎)/古代の高級なやきもの/大量に埋められた中世の銭貨/江戸時代のミニチュア製品/型紙で絵付けされたやきもの(◎は今回新たに展示する資料です。) 

 

 また、展示室中央には県内最古の土器をモデルにした「土器パズル」と、展示している鶏形埴輪をモデルにした「ハニワパズル」があり、子どもから大人までが見て、楽しめる展示となっています。この機会に是非ご覧ください。展示は4月下旬までの予定です。

 

 なお、主要な資料が掲載されている当館監修の『愛媛歴史民俗100モノ語り』もミュージアムショップで好評発売中です。

村上節太郎写真31 念斎堀

10月 21日 木曜日

 10月17日(日)に実施された特別展関連講座「松山城を歩く-砂土手探訪-」の際に、村上節太郎が撮影した念斎堀の写真について、柚山俊夫先生から撮影地点の紹介がありました。これらは現在、特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」で写真パネルになって展示されていますが、このブログでは、村上の写真に講座の際に撮影した現況写真を添えながら、念斎堀について概説します。

 加藤嘉明は、堀や土塁により松山城の外郭に防御ラインを築く惣構の工事を進めたが、元和元(1615)年におきた大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したことで中断したと伝えられる。東雲神社東側の堀はその一部で、町人の府中屋念斎が工事に当たったことから念斎堀、掘った土を積み上げてできた土塁は砂土手と呼ばれている。
 村上は早い段階で念斎堀と砂土手に興味をもち、4枚の写真を撮影している。そのうちの2枚については、当館発行の図録『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』(2004年)で紹介したが、写真に年代の注記がなかったため、図録には推定年代として昭和20年代の撮影と記した。しかし、その後写真の整理が進み、新しく発見された念斎堀の写真に戦災前と注記されていることから、4枚の写真は一連のもので、いずれも戦災前、すなわち昭和10年代に撮影されたものであることが分かった。戦後しばらくして、村上は『伊予史談』に、古地図から松山城下町の変容を読み解く論文を書き、念斎堀と砂土手について解説を加えている。

 1枚目の写真は堀の形状が食い違いになっていること、右端の家屋の後景にわずかに城山が見えていることから、現在の東雲公園に当たる堀を北東側から撮影したものと考えられる。

 2枚目の写真は1枚目とほぼ同じ撮影地点から、奥の木立に囲まれた六角堂(常楽寺)の建物を写している。つまり、現在の東雲公園に当たる堀を北側から撮影していることになる。六角堂が堀に比べるとかなり高い位置に感じられるが、そのことは六角堂が砂土手上にあることを物語っている。

 参考に、六角堂から東雲公園を見下ろした写真も掲載するが、その高低差がはっきりと分かる。

 3枚目は東雲公園から勝山通りを越えて、北持田付近の堀を北側から撮影している。 堀は正面で突き当たり、左に折れ曲がっているように見えるが、堀・砂土手ともに南方向へ曲がっている地点を撮影したものと思われる。写真奥の住宅部分に当たると思われるポイントを現況写真として撮影してみたが、村上の写真はもっと手前の引いた位置から写しているようである。

 4枚目も堀の形状と城山との距離から、3枚目と同じく北持田町にあった堀を撮影したものと考えられる。写真左側に、3枚目の正面に写っていた住宅が見える。折れ曲がりを見せている堀と土塁はこの地点から南下を始め、松山東高校の西側を通り、松山商業高校東側付近まで続く。周囲は既に宅地化が進み、現況写真を写すことはできなかった。

 松山城の天守はこれまでにも多くの写真が遺されているが、念斎堀のような失われゆく松山城の痕跡を自覚して記録していることに、いつもながら地理学者としての村上の鋭いまなざしが感じられる。戦災は松山の街を焼き、都市化がさらにその変貌に拍車をかけた。念斎堀も昭和30年に埋め立てられ東雲公園になるなど、戦後間もなくして姿を消していった。念斎堀を松山城の重要な遺構と気づき、村上が戦前という早い段階で撮影してくれたおかげで、その姿は辛うじて記録として遺った。

歴史展示室1 展示替えしました!

10月 10日 日曜日

10月上旬に、常設展示室「愛媛のあけぼの」(歴史展示室1)の展示替えを行いましたのでお知らせします。

 今回、展示替えしたコーナーは「瀬戸内海の形成と愛媛県最古の人々(旧石器時代)」と「大和朝廷と伊予(古墳時代)」です。各コーナーでは、下記の当館保管資料を新たに展示しました。特に、伊予市上三谷出土三角縁神獣鏡は資料整理・報告のため、ながらく展示していなかった資料です。

また、先月までテーマ展「木村剛朗氏と西四国の先史文化」にて初公開しました愛南町和口遺跡採集旧石器についても、常設展示にてご覧いただけるようにしました。多くの方にご覧いただければ幸いです。

 ■展示替え資料

 <瀬戸内海の形成と愛媛県最古の人々(旧石器時代)>

  ・愛南町和口遺跡採集旧石器

<大和朝廷と伊予(古墳時代)>

  ・今治市高橋仏師4号墳出土遺物 

    ・伊予市上三谷出土三角縁獣文帯四神四獣鏡 

なお、常設展示していました下記の資料は、徳島市立考古資料館にて開催中の特別企画展「副葬品が語る古墳文化」(10/9~12/5)にて見学することができます。

 ・今治市相の谷1号墳出土鏡

・同別名一本松古墳出土鏡

・同高橋仏師1号墳出土遺物の一部

・伊予市猿ヶ谷2号墳出土遺物の一部

・四国中央市四ッ手山古墳出土遺物の一部

船手具足が栃木県へ

10月 1日 金曜日

秋は展覧会シーズン。
当館も特別展「伊予の城めぐり」の準備が着々と進んでいる中、
先日行った資料の貸出作業の一コマ。

貸出にあたり、資料のキズなどを栃木県立博物館のF学芸員さんと確認します。

美術梱包作業中。

この資料は、大洲藩加藤家伝来の「船手具足」で、兜を含めて素材のすべてが革でできているちょっと変わった鎧です。風変わりなこの鎧は制作した人物も変わっていて、下野国(栃木県)黒羽藩主大関増業、つまりお殿様のハンドメイド鎧なのです。大関増業は、大洲藩加藤家から黒羽藩大関家へ養子に入った人物で、生家である加藤家にこの鎧を贈ったことが分かっています。

栃木県立博物館では、大関増業を取り上げた企画展「改革と学問に生きた殿様―黒羽藩主 大関増業―」が10月9日(土)から開催されます。
お近くの方はぜひこの機会に栃木県立博物館で、当館所蔵の「船手具足」をご覧いただければ幸いです。

四国遍路展示室 展示替えしました!

9月 1日 水曜日

 9月1日より、常設展示室「四国遍路」(民俗展示室3)の展示替えを実施しましたのでお知らせします。

 今回、展示替えしたコーナーは「四国遍路の発生」、「四国遍路の盛行」、「近現代の四国遍路」、「巡礼の歴史」。各コーナーでは、下記の館蔵資料を新たに展示しました。なかでも、弘法大師空海の生涯を描いた「高野大師行状図画」や、江戸時代のお遍路さんの所持品(納経帳や札挟み他)、四国徧礼(へんろ)絵図など貴重な資料を展示します。多くの方にご覧いただければ幸いです。

 ■展示替え資料

  <四国遍路の発生>

  ・「梁塵秘抄」(複製) 

  ・『弘法大師行状記』巻1 童雅奇異 天保5(1834)年刊

  ・弘法大師と衛門三郎の刷り物

  ・札始大師堂(写真)

  ・「高野大師行状図画」第4巻 清涼宗論

  <四国遍路の盛行>

  ・県内最古の記年銘遍路道標(写真)

  ・四国徧礼絵図 

  ・四国寺社名勝八十八番

  ・『四国遍路道指南増補大成』 天保7(1836)年刊

  ・『旅行用心集』 文化7(1810)年刊

  ・江戸時代のお遍路さんの所持品(納経帳、札挟み、四国中御宿入用控、四国順拝日付帳) 文政11(1828)年

  <近現代の四国遍路>

  ・改正新刻新四国八十八ケ所案内図 明治36(1903)年刊 

  <巡礼の歴史>

  ・『伊勢参宮名所図会』 寛政9(1797)年刊

お知らせ 戦前戦後の雑誌展について

8月 19日 木曜日

平成22年7月24日(土)から平成22年9月12日(日)まで、常設展示室内の文書展示室で、「戦前戦後の雑誌展―相原コレクションよりー」を開催しています。

<主な内容>
 当館で寄託されている相原コレクションから、戦前戦後の創刊雑誌を紹介します。雑誌は、出版物の中でも、新聞と同様に消費されることを目的とされていました。日本の近代化の象徴のひとつでしたが、現在では雑誌の創刊号が残ることは、たいへん珍しく貴重といえます。
 故相原隣二郎氏は、明治・大正・昭和時代初期、そして、戦後にかけて、944点の創刊雑誌を収集しました。
隣二郎氏は、教養から娯楽に至るまで、さまざまな種類の雑誌を収集しました。それぞれの時代に、人々が何を見、何を聞いて、どのような姿で生きてきたのか、感じ取っていただければ幸いです。

(1)雑誌のはじまり
日本における雑誌のさきがけは、慶応3(1867)年に柳河春三が発行した『西洋雑誌』です。わずか十数ページで、欧米の雑誌を習ったものでした。まだ、日本人にとって雑誌はなじみがなく、一から説明しなくてはなりませんでした。

(2)文明開化と雑誌
文明開化が花開くと、文化人が次々と欧米へ留学して、教育や法律、科学などさまざまな分野を学んで帰国しました。そして、雑誌を刊行して、近代国家へと文化の向上を図りました。

(3)大正デモクラシーと雑誌
 日清・日露戦争の勝利を背景に、大正時代に入ると、日本国内の諸産業(絹や茶、鉄鋼業など)が海外へ多く輸出されるようになりました。人々の生活にも近代化が浸透して、大衆文化が栄えるようになりました。この社会現象を大正デモクラシーと言います。庶民による雑誌の講読数も増え、次々と新しい文化が雑誌に紹介されました。

(4)愛媛県と絹
古来より絹の産地だった愛媛県は、明治時代以降、全国でも有数な産地となりました。中でも西予市野村町の養蚕は、明治初期に始まり、大正初期には1,138戸を数えました。20年に一度、伊勢神宮で行われる式遷宮では、伊予の絹を使う慣わしがあります。野村町で生産された絹織物は、現在でも皇室に献上されています。

(5)昭和の雑誌
昭和に入ると、日本の都市部では鉄筋コンクリートの建物が次々と建てられ、大衆文化が栄えました。雑誌にも100万部にものぼるベストセラーが登場するようになりましたが、昭和4年の昭和大恐慌を契機に日本も大きな経済打撃を受けて、太平洋戦争へと進んでいきました。

(6)戦争と雑誌
昭和12(1936)年に、日本と中国の間で戦争が始まりました。その二年後、テレビジョン実験放送が開始となり、やがて、雑誌は、戦争へと人々を誘導する媒体と変化していきました。昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入しました。戦局が悪化するにつれて紙も不足し、雑誌社の統合によって、種類が減らされました。終戦を迎える頃には、雑誌のほとんどが発行できなくなっていました。

(7)戦後の創刊雑誌
昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は、廃墟の中で復興へと歩き始めました。家族や生活基盤を失った人々の希望となったのは、雑誌の復活でした。物資が不足する中で、紙は配給制でした。部数を制限して発行された雑誌が店頭に並ぶと、飛ぶように売れていきました。

(8)GHQと雑誌
戦後日本は、マッカーサー率いるGHQによって、政治・経済・文化のすべての面において、改革がありました。アメリカ文化を紹介する内容が数多く発行され、占領軍に対する批判や、戦前の軍国主義に関わる内容などは、検閲によって発行されませんでした。

(9)戦後の創刊雑誌の特徴
戦後の創刊雑誌のタイトルは、新しい時代に期待をこめて「新」の文字が多く用いられました。また、復興の象徴として、「自由」・「平和」・「希望」、英語をカタカナで表記する「スタート」など、新しいタイトルが次々と登場しました。

(10)女性の解放と雑誌
昭和21(1946)年、日本で初めて男女平等の総選挙が行われました。主婦や働く女性に向けた雑誌も数多く発行されました。戦後の食糧難の時代に生き抜く食事の工夫や、戦争中は途絶えていた女性の教養の手本としてアメリカ人女性のスタイルが紹介されました。

(11)戦後のこども雑誌
戦争中、子供向けの雑誌は、わずか6種を数えるのみでしたが、昭和21(1946)年4月には40種類を超えて発行されました。明るく、想像力の豊かな子供が育つように、希望に胸ふくらむ物語などが編集されました。混乱と困難の時代の中、子供たちはいきいきと、のびのびと育って行きました。

(12)映画・演劇・スポーツの復興
戦後、京都の映画村は被災を免れ、いち早く復興の先陣を切りました。野球を始めとしたスポーツも次々と復活しました。大衆文化が復活し、戦後の困難を生きる人々に大きな希望と楽しみをもたらしました。

テーマ展紹介-8

7月 1日 木曜日

西四国の縄文文化

 広見遺跡採集の石鏃

 当地域の縄文時代の遺跡は、木村2001によると約140箇所で確認されています。ここでは、木村氏が多くの資料を採集されている愛南町広見遺跡について、紹介します。

 広見遺跡(南宇和郡愛南町広見)

 ■発見の経緯

1966年に考古学研究者によって発見された遺跡です。

■立地

盆地状の広見地区の名路の通称岡駄場に所在し、標高382mの北側の山から南に延びる舌状段丘の先端近くに位置し、標高約100mを測ります。

 

 広見遺跡位置図 木村1995より

■遺物

石器129点、土器70点が報告されています。

土器は、前期の彦崎ZⅠ式、中期の船元式、後期の中津式・平城式・片粕式・伊吹町式、晩期の中村Ⅱ式が確認されています。

石器は、石鏃・石錐・石匙・スクレイパー・打製石斧・庖丁形石器が確認されています。特に、石鏃は香川県金山産サヌカイトが65%と主体を占めることが特徴です。

  木村氏は、1972年に「愛媛県南宇和郡広見縄文遺跡と出土遺物」『古代文化』第24巻第5・6号を発表されています。

 また、著書『幡多のあけぼの』(1992年)「散らばる矢じり-縄文人は狩猟好き」では、石鏃を採集した際のことを次のように記されています。

「(前略)宿毛湾に注ぐ松田川の支流、篠川上流地帯の愛媛県南宇和郡一本松町広見遺跡も石鏃の多い所である。(中略)

 私はある日、ここを訪れ徹底的に表面採集をしたことがある。その時、土器のほか、石鏃を三十点余り拾った。これは、私が一日で採集した石鏃数の最多記録で、今もこの記録は破られていない。その後、ここに通い詰め、最終的には石鏃百五十点余りを集めた。その石鏃は、形の完全なものが多く、時期的には、縄文前期から晩期までのものを含んでいた。ただ石質のほとんどが香川県坂出市の金山に産出するサヌカイトであったのには驚いた。ここの縄文人は瀬戸内地方と頻繁に交易を行っていたのであろう。(後略)」

 

木村氏が撮影した広見遺跡周辺写真

(撮影年不明 1970年前後?・高知県立歴史民俗資料館蔵)

参考文献

木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11

高知大学黒潮圏研究所

木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研

  この他にも、松野町真土遺跡、広福寺遺跡、愛南町深泥遺跡、茶堂遺跡採集資料について紹介しています。