‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

歴史展示室1の展示替え

3月 11日 木曜日

 先日の休館日に行なわれた展示室の点検作業に合わせて、歴史展示室1では展示替えを行いました。

 上の写真がこれまでの展示風景です。

 下の写真が今回実施した展示替え後の様子です。違いがわかるでしょうか?

 昨年4月~6月に開催した企画展「えひめ発掘物語2&絵で見る考古学」にて展示した早川和子氏作成の遺跡復元画3点をパネルにして展示しています。この復元画の取材時の様子は過去の記事遺跡復元画ができるまで-3 をご参照ください。

 特に今治市相の谷1号墳を紹介するコーナーでは、これまで展示していた模型に替わって、パネルで古墳築造の様子を紹介するとともに、出土遺物の一部を新たに展示しています。

 もう2枚の新しいパネルは展示室で探してみてはいかがでしょうか。

テーマ展「木の考古学」始まりました。

12月 1日 火曜日

 11月14日(土)から開催の愛媛県総合科学博物館巡回展「森のめぐみ」に合わせ、考古展示室におきまして「木の考古学-遺跡からのメッセージ-」が始まりました。

 博物館が収蔵する愛媛県内出土の木製品のうち、今から約2300年前のものから600年前くらいのものを、農具や建築用材、うつわ、装身具等に分類し展示しています。

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 この展示は、来年1月24日(日)まで開催しています。
 常設展示室の一部ですので、常設展示観覧料が必要となりますが、ぜひ見にいらしてください。

お知らせ テーマ展「吉田藩大工棟梁ニ宮家の図面展」の開催について

11月 26日 木曜日

平成21年11月14日(土)から平成22年1月31日(日)まで、常設展示室内の文書展示室で、テーマ展「吉田藩大工棟梁二宮家の図面展」を開催します。

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 二宮家は、江戸時代に吉田藩大工町(だいくまち)の棟梁として代々吉田藩に仕え、昭和49(1979)年に最後の棟梁が没するまで約300年にわたって吉田地方の社寺建築に携わりました。安政の大地震の時にも倒れることなく、現在も二宮家建築の社寺が残っています。

 大工棟梁の家がこれほど長く続き、ともに図面が残ることは県内において、たいへん珍しいことです。二宮家文書は、平成20年に吉田町内の民家で発見されました。東雲女子短期大学特任教授犬伏武彦氏、酒井純孝氏(愛媛県建築士会)の協力を得ながら、当館で調査研究・整理を進めてまいりました。県内でも最古級の図面を約30点を紹介しています。

 <主な展示資料>

(1)二宮長六作「吉田藩陣屋蟇股」(竹に雀紋) 江戸時代後期 当館蔵s-DSC_0017

 江戸時代後期に活躍した長六(ちょうろく)は、16歳の時に住吉神社の設計をするほどの天才肌で、名工として全国にまで名前が知られました。吉田藩の陣屋は幕末に再建され、大工棟梁二宮長六の代表作でした。吉田藩主伊達家の家紋(竹に雀紋)の蟇股が、現在も残っており、匠の技を見ることができます。

 

(2)二宮善治郎作「神殿姿図」 文化6(1809)年 個人蔵

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 二宮善治郎が19歳の時に作成した図。代々二宮家は、棟梁となるために、幼い頃から教育を受けていたことが伺えます。

(3)寺院 本堂側面図 江戸時代  個人蔵

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 吉田地方のみならず、城川町龍澤寺にまで二宮大工の足跡が残っています。

 二宮家の図面の特徴は、柱が特に太いことです。これは、耐震性が高いことを示し、実際には、安政の大地震にも耐えうる設計でした。

 江戸時代中期以降、農村部をはじめとして人口が増加し、それにともなって大工の数が不足しました。江戸時代後期には、全国的に流行した華やかな意匠を得意とする長州大工が数多く南予地方に入って来ましたが、二宮家は伊予吉田地方の伝統建築を守り続けました。

  これまで、江戸時代の伊予の社寺建築において、地元大工の足跡について、不明な部分が多かったのです。このたびの図面の発見により、伊予吉田地方において、300年以上も続く伝統建築の名工として二宮家が存在したことが確認されました。こつこつと地道な働きをされた先人の技をご覧いただくとともに、伊予における建築史の奥深さを感じとっていただければ幸いです。

観覧には、常設展示観覧料が必要です。

駕籠に乗ってみませんか?

8月 28日 金曜日

 駕籠の修復についてはこれが最終回。
 それでは駕籠の全貌をご紹介しましょう。
駕籠全体

駕籠の内部はこんな感じ。(前方部分)

 

手前の板を持ち上げると・・・。

  
 
折りたたみ式の机が出現します。

 

そして、後方には背もたれと肘当てを完備。
 背もたれと肘当て
 駕籠の大きさは、高さ90cm、奥行110cm、幅68cmほど。駕籠の内寸となると、高さ81cm、奥行95cmほどとなり、現代の大人では体格が良すぎてとっても窮屈です。
 この駕籠は、側面に茣蓙(ござ)が使用されているところから、茣蓙巻駕籠(ござまきかご)と呼ばれるタイプのもので、庄屋や医者など村の中で比較的裕福な人たちが使用したものと考えられます。庶民の旅のアイテムではありませんが、江戸時代の乗り物「駕籠」の大きさを手軽に実感していただく資料として活用していきたいと思います。9月15日からはじまる特別展「広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展」にて初公開しますので、ぜひ、歴博で駕籠の大きさを体感してみてくださいね!

昭和初期の絵本とおもちゃ

7月 29日 水曜日

キンダーブック

 今回の展示替えでは、最近寄贈を受けた資料を中心に、「昭和初期の絵本とおもちゃ」のコーナーを設けました。なかでも、日本最初の月刊の保育絵本として有名な『キンダーブック』を展示しています。

 『キンダーブック』を創刊した高市次郎は、明治9年に平井谷(松山市平井町)に生まれています。愛媛で小学校に勤めた後に、上京して玩具店を開店。昭和2年に幼児向けの知識絵本、「キンダーブック」を刊行します。科学的視点を取り入れた「キンダーブック」は「観察絵本」と呼ばれ、幼稚園を通じて各家庭に配本され、1930年代には月約10万部の部数を誇りました。

 戦争が激しくなるにつれ、おもちゃの素材は金属製・セルロイド製が姿を消して、紙や木などが主流となります。絵本も戦意昂揚の手段となり、「キンダーブック」の表紙にも戦争をモチーフにしたものが増えていきます。

置き薬

7月 23日 木曜日

 家庭用の置き薬はいざという時に重宝します。使った薬を定期的に補充して、使った金額だけ払う仕組みで、特に「富山の薬売り」が有名です。

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 愛媛大学の地理学教授であった村上節太郎が昭和37(1962)年に撮影した写真の中にも、富山の薬売りは登場します。自転車の荷台には、薬売りのトレードマークの柳行李がのっかっています。柳行李を開けると、原色のケバケバしいデザインの薬袋がたくさん詰まっていました。各家には赤い薬箱が大抵置いてあり、使った薬を定期的に補充してくれました。おまけとしてくれる紙風船、コマなどを楽しみにしていた子どもも多くいました。

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写真は展示替えした「置き薬」のコーナー。

レトロパッケージ

7月 16日 木曜日

 特別展「歌舞伎と文楽の世界-愛媛の伝統芸能-」が開幕しましたが、近・現代の常設展示室もいくつかのケースの展示替えを行いました。その一部を紹介します。

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 こちらのケースでは、さまざまな商品のパッケージを展示しています。紙箱やブリキ缶は、商品のイメージを分かりやすく伝えるレトロなデザインで埋め尽くされています。中でも目につくのはキャラメルの大箱。昔のポケット物のキャラメルは、このような大きな箱に詰められて、メーカーから卸店へ運ばれていました。

 展示している大正時代の森永ミルクキャラメルの大箱にはエンゼル(天使)、昭和初期の明治ミルクキャラメルの大箱には当時の人気キャラクター正ちゃんが描かれています。商品広告にキャラクターは付き物ですが、エンゼルも正ちゃんも現在のキャラクター文化の原点ともいえそうです。

 なお、今日のNHK総合テレビの「いよかんワイド」では、「歌舞伎と文楽の世界-愛媛の伝統芸能-」の会場からの生中継があります。こちらもお見逃しなく。

蚊帳はじめました。

6月 30日 火曜日

 やっと梅雨らしいお天気になりました。
 とはいえ、梅雨とは名ばかりの暑い日が続いていました。窓を開けて網戸で涼しい風を入れてお休みになった方も多かったのではないでしょうか。
 そんな中博物館でも夏仕様に模様替えということで、民俗展示室2の「海のいえ」に蚊帳を吊りました。蚊が入ってくるのを防ぐネットのことを「蚊帳」といいます。
 夏の夜、部屋の中に蚊帳を吊るすと、蚊にわずらわされず、ぐっすり眠ることができました。
 時には捕まえた蛍を蚊帳の中に放して、その光を楽しむこともあったそうです。
 気をつけることは蚊帳を大きく開けて出入りしないこと!!そーっと入らないと、蚊も一緒に蚊帳に入ってしまうからです。

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 蚊帳の中に人がいるのがおわかりでしょうか。ぼんやりとしか見えませんね。
 「蚊帳の外」にいると、中の様子がはっきりとわからないことから、「内情がよくわからない」「仲間はずれ」という意味で「蚊帳の外」という表現を今でも使います。

中国四国名所旧跡図15 弥谷寺

6月 6日 土曜日

中国四国名所旧跡図(弥谷寺)

 標高382メートルの弥谷山の中腹にあった71番弥谷寺を描いている。古川古松軒の「四国道之記」には、弥谷寺の岩にことごとく仏像が彫刻されているが、それは弘法大師が一夜で千体の仏像をおつくりになったと伝えられていると記されている。西丈の絵にも、岩に彫られた数々の石仏の姿を見出すことができる。

 西丈と同様に江戸時代後期の弥谷寺を描いたものとしては、阿波の遍路による「四国八十八ケ所名所図絵」の挿絵がある。その挿絵では、上空から鳥瞰して弥谷寺の建物配置なども忠実に捉えているのに対して、西丈は写実性を後退させつつも、岩肌を強調して当時の旅日記に「見る所皆々仏像にあらずといふことはなし」と記した特徴的空間を力強く描き出している。

 また、西丈の絵には、「狼も念仏も同し法の声ちりのうきよといとふいやたに」の言葉が添えられている。西丈は遍路の途次に狼の声を聞いたのかもしれないが、江戸時代後期、四国の山には狼が広く棲息していたようである。文化6(1809)年、京都の商人が四国遍路した際の旅日記にも、人々が寝静まった夜、狼や猿の声が山に響き渡るのに恐怖を感じると記されている。

  弥谷寺についても、最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。

金毘羅名所(弥谷寺)

中国四国名所旧跡図14 出釈迦寺

6月 5日 金曜日

  丸亀に着いた西丈が、実際にどのように四国遍路をまわったのか分からないが、絵の順番でいくと、丸亀から少し後戻った73番の出釈迦寺が丸亀の次に綴られている。ちなみに、丸亀に着船した遍路は、78番の道場寺から札を打ち始めるのが一般的である。
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 西丈の絵では、右下に出釈迦寺の境内が描かれている。境内は石垣の上にあり、中央の大きな建物が本堂(あるいは鎮守社とも)で、その脇の小さい建物が大師堂と思われる。境内にはさらに、手形のようなものが付いた石と石碑のようなものが見える。手形の石には、「露のせとしらは命捨て見よ尺迦の手形か反古にやなるまい」の文字が添えられている。境内にはかつて手形石のようなものがあったのだろうか。
 ところで、出釈迦寺には、次のような弘法大師伝説が残っている。大師7歳の時に、寺の裏山に登り、「衆生済度(迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと)」、と言って、山の崖から谷底に飛び降りた。その時に紫雲が湧き天女が舞い降りて大師を抱き留めた。弘法大師は不思議な仏の力に喜び、霊験を後の世に伝えようと、自ら釈迦如来を刻み、その山の麓に堂宇を建立し、出釈迦寺とした。また、身を投げた断崖は、「捨身ケ嶽(しゃしんがたけ)」といわれるようになった。西丈はこの伝説を意識して、出釈迦寺と一緒に画面左に「捨身ケ嶽」が描き込んでいる。その上で伝説にちなみ、次のような言葉を書き付けている。
  難行も苦行も釈迦のおしへなりすつる命をとめるのも釈迦
  残る暑や尺迦も抛出釈迦寺
 最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。西丈に比べると、出釈迦寺の境内の様子や眺望が写実的に描かれていることが分かる。

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