‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

村上節太郎写真28 索道とトラック

12月 10日 水曜日

 霊峰石鎚に源を発し、西条市に注ぐ加茂川流域は古くから林業が盛んで、加茂川林業の名で知られています。第二次世界大戦以前の加茂川流域は、上浮穴郡・喜多郡・北宇和郡などとともに、愛媛県の木材の供給地として重要な位置を占めていました。木材の輸送には加茂川が使われましたが、喜多郡の肱川とは異なり急流の加茂川は筏流しには向かず、木材を1本ずつ流す管流しがされていました。細くて長い垂木(たるき)や、長大な桁丸太(けたまるた)は川に流すことができず、駄馬の背にのせて西条・氷見・小松まで搬出されていました。

索道による木材の運搬
索道による木材の運搬 西条市西之川 昭和25年

 木材を集める土場への搬出には、駄馬や木馬が使われていました。しかし、馬道は比較的平坦なところにあったので、急峻な山地では人力で運ばなければなりませんでした。大正4(1915)年に木材搬出用の最初の索道が河ケ平(こがなる)に架設されると、大正末頃までに加茂川一帯に普及していきました。この索道の建設は、西ノ川や大森鉱山の銅鉱石が下津池を経て、端出場まで索道で運ばれていたことにヒントを得たといわれています。

木材を運搬するトラック

 戦後になると、加茂川の流送が昭和25年には姿を消し、写真のようにトラック輸送が主流となっていきました。

村上節太郎写真27 炭焼き

12月 9日 火曜日

 ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」は、12月7日に閉幕予定でしたが、11日まで会期を延長しています。その後、12月20日からは新居浜市の総合科学博物館で展示されます。ぜひご覧ください。なお、今回のロビー展で展示している村上節太郎撮影の写真を紹介するこのシリーズは、しばらく延長します。

炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年
炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年

 肱川流域では、クヌギを原木とした木炭の生産が行われました。特に村上節太郎が撮影している柳沢地区(大洲市)は製炭業が盛んなところで、大正6(1917)年には製炭者83名、生産量5.8万貫、昭和35(1960)年には製炭戸数205戸、生産量20万貫というデータが残っています。

 肱川流域では、暖房や炊事に使う木炭を小さく裁断した切炭を多く生産しました。大阪から技術を導入して、阪神方面に盛んに出荷されるようになり、「伊予の切炭」として知られるようになりました。この地域の炭窯は小規模であるため、窯内の温度調節が容易にでき、収益性の高い切炭の生産に適していました。

 昭和30年代の後半に入ると化石燃料が普及していき、昭和40年代には炭焼きは急速に衰退していきました。昭和42年に書かれた中山小学校5年生の作文には、かつては木炭問屋、農協、内子の駅にも木炭が山と積まれていたものが、だんだんと電気製品、ガス、レンタン、豆炭などが出まわって、炭焼きをやめる人が増えていることが記されています。その作文から5年後、中学3年になった生徒は、木炭の生産が4分の1の1万箱に減り、炭焼きに使われていたクヌギの原木は、椎茸栽培に転用されていることを書き残しています。

村上節太郎写真26 木材の集散地、長浜

10月 22日 水曜日

長浜の貯木場
長浜の貯木場 大洲市長浜町長浜 昭和11年

 肱川を筏にして下ってきた木材は長浜に集められました。大正8年には県内最大の伊予木材株式会社が設立、その後も木材会社が次々に進出して、長浜は木材集散地として和歌山の新宮、秋田の能代とともに全国に知られるようになりました。

 長浜に集められた木材は機帆船に積み込んで、瀬戸内海の香川、岡山、広島、山口県などで販売されました。長浜には瀬戸内海から関西一円の木材会社がセリに集まり、そのセリの価格が西日本全体の価格水準になるとまでいわれていました。

運搬船に積み込まれる坑木
運搬船に積み込まれる坑木 大洲市長浜町長浜 昭和11年

 昭和初期には、大手商社の三井物産が伊予木材を傘下におさめ、台湾への移出を始めました。販路はさらに満州や朝鮮などの外地にも広がり、社宅や駅舎などの外地での建築資材として使用されました。また、小さい材木屋は「伊予の小丸太」と呼ばれる建築材の柱や、炭坑の支柱になる坑木(こうぼく)などを取り扱い、北九州や宇部などの炭坑に運びました。

 戦時中の軍需物資としての木材の統制を経て、戦後は復興のための木材需要が高まり、再び木材業は好況に沸きました。しかし、外材の輸入の増加やトラック輸送への変化もあり、長浜はかつての全国的な木材集散地としての地位を次第に失っていきました。

村上節太郎写真25 肱川の筏流し

10月 16日 木曜日

 肱川やその支流小田川で、木材や竹の筏(いかだ)による流送が盛んになったのは、大正から昭和初期とされています。昭和10年に長浜に集まる木材の80パーセント以上が筏流しによる運搬でした。

 木材は半年ほど山で乾燥させてから、筏を組む作業をする組み場まで運びました。組み場までは、牛馬の背、人や牛での地ずりのほか、川沿いであれば川へ木を落として管流し(一本流し)で運搬されました。

坂石の筏組み
坂石の筏組み 西予市野村町坂石 昭和8年

 組み場は、水深があって流れの緩やかな場所に設けられました。写真は肱川上流部で、舟戸川と黒瀬川の合流地点に当たる坂石河成(こうなる)の組み場を撮影したもの。右の傾斜面を利用して木材を落として川で筏を組みました。また、手前には竹も見えるが、竹も筏に組んで流しました。

 筏の組み立ては、組合員が共同で行いました。筏の先頭には長さ14尺(約4m)か、坑木(こうぼく)なら7尺に切ったものを組みました。筏は幅4尺から7尺に組んだものを1棚(ひとたな)と数え、それを10から16棚連結させて1流(ひとながれ)としました。細い方の末口を前にして組むことで筏の先の方を細くして、後方の棚ほど大きく組んでいきました。棚を組むには桟木として樫の横木を当てて、材木の両端に特別の手斧であけた穴にフジカズラを通してそれぞれを繋ぎ合わせました。後にはフジカズラの代わりに、馬蹄型のイカダバリという金具を打ち込むようになり、作業能率も上がりました。

肱川の筏流し
肱川の筏流し 大洲市白滝甲 昭和20年代

 筏は不慮の事故の際に助け合えるように、5~10流れがまとまって川を下りました。1流れには2人が乗りましたが、途中の森山や菅田辺りからは1人になることもありました。坂石から長浜まで筏を流して3日、帰りは歩いて1日で合計4日を要しました。大水で水流が速い時は危険ながらも1日で長浜に着くこともありましたが、逆に夏場の水が少ない時期には5~6日かかることもありました。初日は夜自宅に戻り、2日目は大洲、3日目には長浜の木賃宿に泊まり、帰路は長浜から1日がかりで帰りました。昭和に入り自転車が普及していくと、筏に自転車を積んで宿泊せずに自宅に帰る筏師も増えました。

 危険な筏師の収入は他の仕事よりもよく、最盛期には肱川本流だけでも170人、支流の小田川筋の87人を加えると、概算で257人がこの仕事に就いていたといわれています。しかし、道路整備にともなうトラック輸送の増加などもあり、昭和28年に最後の筏師が陸に上がり、肱川の風物詩である筏流しは姿を消しました。

村上節太郎写真24 荷物を運ぶ

10月 13日 月曜日

オイコを担ぐ人
オイコを担ぐ人 久万高原町笠方 昭和24年

 自動車やトラックが普及していない時代、人体が山で荷物を運ぶ最も優れた運搬具でした。長方形の木枠に負縄と、荷物を固定する張縄を付けたオイコ(背負梯子)を使うと、人力でも重い荷物を運ぶことができました。写真ではオイコの上部に藁製の籠が結びつけられ、足下には藁靴を履いています。

馬で荷物を運ぶ
馬で荷物を運ぶ 久万高原町(旧面河村) 昭和33年

 また、荷物を遠いところまで運んだり、重いものを一度に運ばなければならない時には馬や牛が使われました。写真では車も通れない細い山道を、馬の背に荷物をつけて運んでいます。面河では明治初め頃に、川之内から川上、横河原(いずれも東温市)、そして松山へと抜ける黒森街道が開通すると、馬の背を利用した物資の輸送が盛んになりました。戦後になってもしばらくの間、農家では自分の家の荷物を馬の背で運び、山仕事に使ったりもしていました。

村上節太郎写真23 三椏

10月 10日 金曜日

花盛りの三椏
花ざかりの三椏 久万高原町明神 昭和33年

 和紙の原料には楮(こうぞ)と三椏(みつまた)がありますが、楮が集落付近の常畑の畦などで栽培されたのに対して、三椏は集落から遠く離れた日照に恵まれた土地で栽培されました。三椏には独特の臭気があるため獣害から強く、地形急峻な山岳地が最適地だったので、焼畑に導入されていきました。

 昭和に入っての焼畑の主力は現金収入となる三椏で、それまで人が入ったこともないような奥深い山まで切り開かれ、「宝の山」として三椏が栽培されました。村上節太郎が写真を撮影した昭和33年には愛媛県は全国の栽培面積の27パーセントを占めていました。

三椏の皮をはぐ女性
三椏の皮をはぐ女性 久万高原町笠方 昭和33年

 三椏の収穫期は、11月下旬から翌年の4月までの長期にわたりました。1メートル20センチから50センチくらいに伸びた三椏の枝を刈り取り、人間の背丈以上の大きな蒸し桶に入れて蒸すと、皮はぎの作業に移りました。一本一本はぎとられた皮が黒皮、これをさらに水にさらして柔らかくして荒皮をけずりとったものが白皮といいます。この黒皮をけずって白皮にするのは女性の仕事で、三椏の収穫が続く冬の間はほとんどそれにかかりきりになりました。また、子どもたちも小学3年生ぐらいになると、細い枝が割り当てられるなど、皮はぎは一家総出の作業でもありました。

 三椏の皮はぎは水が冷たくつらい作業でしたが、平坦地の米作農家よりも現金収入になりました。しかし、価格が停滞したことや、木材ブームもあって労力が植林にシフトしたこともあって、三椏は昭和38年頃から急速に衰退していきました。

村上節太郎写真22 トーキビとハッタイ粉

10月 9日 木曜日

 焼畑では古くは痩せた土地でも育つヒエが作られていましたが、大正から昭和にかけてトーキビ(トウモロコシ)が一番多く作られるようになりました。水田の面積が少ない上浮穴地方では米は貴重品であり、日常的にはトーキビを米に混ぜて食べるトーキビ飯を食べました。トーキビ飯は、米粒大に粗く割ったトーキビの中に、米を1~2割程度を入れて炊いたもので、冷めると固くなり喉を通りにくかったといいます。

トーキビイナキ
トーキビイナキ 久万高原町明神 昭和10年

 秋になると農家では、トーキビを乾燥するためにイナキをつくり、そこに収穫を誇るかのように架けました。久万高原町や旧小田町(現内子町)では、写真のような光景がよく見られました。

 また、トーキビは粉に挽いてトーキビ団子をこしらえたり、煎ったものを粉に挽いてハッタイ粉にしたりもしました。ハッタイ粉は一種の保存食であり、子どものおやつ代わりにも食べられました。

ハッタイ粉を売る商店
ハッタイ粉を売る商店 久万高原町久万 昭和10年代

 写真は久万の町並みでハッタイ粉を売っていた商店を撮影したもので、久万名産の緑茶と椎茸を押しのけて、ハッタイ粉が堂々と看板の中央に記されています。トウモロコシが上浮穴地方では米のように日用品だったということが伝わってきます。

村上節太郎写真21 焼畑

10月 8日 水曜日

 ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」では、愛媛大学地理学教授であった故村上節太郎が撮影した写真を展示しています。これまで村上節太郎写真をブログで紹介してきた連載の続きとして、展示している写真の一部を紹介していきます。

 焼畑とは樹木を切り倒して一面に広げ、その乾いたところに火を入れて全面に焼きつくし、その跡に残る草木灰(そうもくばい)を肥料として作物を作る農法をいいます。数年間で地力が衰え、新たな山に移動しなければならないので、移動農業ともいわれています。

 昭和10年代には、全国の焼畑面積のうち約46パーセントを四国山間部が占めていましたが、とりわけ愛媛県から高知県の山岳部は全国有数の焼畑耕作地帯でした。焼畑の呼称は地域により様々でしたが、四国山地では「切畑」あるいは「切替畑」と呼ばれました。

焼畑
焼畑 久万高原町(旧面河村) 昭和9年

 焼畑は火入れの時期により、春焼き・夏焼き・秋焼きがあったが、いずれも火入れの前には樹木を伐採する作業がありました。火入れに先立って、防火のために幅2m程度の火道(防火線)を切り、当日は山の神に安全と豊作を祈ってから、慎重に火入れ作業を行いました。焼畑で作られる作物の代表的なものは、主食であったトーキビ(トウモロコシ)でした。また、良質な和紙の原料になる三椏(みつまた)も栽培され、この地域の大きな収入源となっていました。

山小屋と焼畑
山小屋と焼畑 久万高原町(旧面河村) 昭和20年

 焼畑は谷底や低い土地の緩斜面にある水田や常畑の周辺にあり、遠く離れた焼畑へ通うのに、耕作の便を考えて焼畑の小屋がつくられました。村上節太郎は小屋も撮影しており、農繁期には高知県側からも小屋に泊まりに来て、焼畑をする人が見られたと記しています。

 昭和30年代から杉の植林が盛んになり、山村の食生活にも米飯が取り入れられると、焼畑は次第に面積を狭められていきました。昭和37,8年頃を最後に、焼畑はほとんど行われなくなりました。

銭壺パズル 新登場!

10月 10日 水曜日

 銭壺パズル

企画展「戦国南予風雲録」に合わせて、歴博の新たに体験学習資料として、やきものパズルが登場いたしました。今までにない、中世のやきもののパズルです。
 モデルは、愛媛県内から出土した室町時代の備前焼の壺で、中には銅銭がいっぱい入っていました。パズルが完成すると、なんと壺の中が光り、なかに永楽通宝がバラと緡銭で入っている様子を見ることができます。
銭壺パズル

 パズルのピースは表面に文様がないので、かなり難易度が高いものになっています。まず下の部分を組み立てていくのがコツです。備前焼の表面の調整もきちんと復元されているので、その特徴をじっくりみながら、上下左右の関係を考えましょう。本物のやきものの破片とは質感は違いますが、ピースはやきものの破片そっくりです。手にとって観察できますので、考古学者の気分になれるのではないでしょうか?このパズルを通して、壺の形や大きさを知っていただければ幸いです。
 戦国南予風雲録展の企画展示室の出口のところに設置していますので、ぜひチャレンジしてみてください。

村上節太郎写真20 関前岡村港と除虫菊(昭和11年)

10月 7日 日曜日

 村上節太郎は今治高等女学校の教諭だった昭和11(1936)年6月15日、関前岡村島(今治市)に渡っている。

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1岡村の集落を見下ろす 昭和11年

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2岡村の集落を見下ろすの現況 平成19年

 写真1は、その時に背後の甲ノ峯から岡村の集落を撮影したもの。港を中心として谷沿いの狭い部分に人家が集中していることが分かる。港には、昭和3年に修築を終えた195mの西防波堤と115mの東防波堤が突き出ており、たくさんのウタセ船や機帆船が停泊している。岡村には大正4(1915)年に小廻船145隻、帆船38隻もあり、昭和20年代には機帆船の全盛期を迎えたというが、その後減少していき現在は港に荷物を運ぶ船の姿はほとんど見かけなくなった(写真2)。
 次に甲ノ峯から下りて、海際で岡村の集落を撮影した写真3を紹介する。町並みには大きな蔵や二階建ての商家のような建物が見え、海運業による岡村のにぎわいがうかがえる。また、漁船がたくさんつながれた船着場には、荷物を積み込むことができるように、階段状になった雁木(がんぎ)がある。手前には帽子をかぶった男性が筵の上に何か干しているが、これは除虫菊(じょちゅうぎく)を天日乾燥しているところ。

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3岡村の港と家並み 昭和11年

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4岡村の港と家並み現況 平成18年 現況写真は節太郎が撮影して約80年後になるが、左隅のモダンな建物がそっくりそのまま残っている。海に向かい埋め立てが進んでいるのも一目瞭然。

 ちょうど写真が撮影された頃、瀬戸内海の島々では、温暖な気候を活かして蚊取り線香の原料である除虫菊が栽培され、貴重な現金収入になっていた(写真5)。節太郎は地理学者らしく撮るべきポイントをおさえながら、昭和11年の岡村の姿を的確に記録している。
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5岡村の除虫菊 昭和11年

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