‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

30年式銃剣

6月 15日 金曜日

30年式銃剣

 本資料は、三十年式小銃用として開発された銃剣です。三八式や九九式歩兵銃など、日本軍のほとんどの銃器に装着でき、終戦まで使用されました。いわば日本軍の基幹銃剣でした。本資料の大きさは、全長52.センチ、刀身49.2センチ、重量は610グラムです。戦場で刃を研いたでしょうから、もとの大きさや重量よりは目減りしていると思われます。

 本資料の特徴は、ツバの部分がフック状になっており、木製の柄の部分がねじ止めで、鞘の先端が丸みを帯びていることです。これらは、初期型にみられる特徴です。また、刻印から兵廠東京工廠か造兵廠小倉工廠で制作されたことがわかりました。

 三十年式銃剣は、それ以前の村田式両刃型から、ストレ-トではありますが、片刃型となり、日本刀に近いものとなりました。日露戦争では三十年式小銃に取り付けられ、白兵戦が行われました。ちなみに、有名な三八式歩兵銃は三十年式小銃を改良して、日露戦争後に制定されたものです。日露戦争における勝利によって、日本陸軍は白兵突撃主義を、海軍は大鑑巨砲主義に偏重していきますが、本資料はまさに白兵突撃主義を象徴する資料と言えるでしょう。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」11―百鬼夜行絵巻7―

6月 14日 木曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第6回目。

7月10日開幕の「異界・妖怪大博覧会」では、展示室内だけでなく、博物館館内のいたるところに「百鬼夜行絵巻」に描かれた妖怪を題材として、等身大?(1m20cm程度。ただし、妖怪の実際の大きさは不明・・・。)の妖怪人形パネル(人ではないので単に「妖怪パネル」?)を配置します。今回、紹介する妖怪たちもパネル化される予定です。博物館内で、妖怪パネルを探したり、見つけたりするだけでも楽しむことができるように工夫したいと考えています。


15 農具の妖怪
左の妖怪は、頭に農具の箕を戴く。右の妖怪は、顔が竪杵の形をしていて、木臼を搗いている。穀物を脱穀する様子であり、妖怪も農作業をするというのか?


16 分銅と天秤ばかりの妖怪 
顔の形は重さを計るための道具である「分銅」。肩には「天秤ばかり」を荷っている。何かに追われて逃げているような表情にも見える。

村上節太郎写真18 オイコで荷物を運ぶ女性 昭和31年

6月 7日 木曜日

村上節太郎写真4-447
 村上節太郎の写真から頭上運搬を撮影したものをしばらく紹介してきたが、所変われば品かわるで、地域により運搬方法は様々である。宇和海沿岸に目を転じると、オイコ(背負梯子)やカルイカゴ(背負籠)で荷物を運んでいる写真が圧倒的に増えてくる。

 この写真もそうした一枚で、「石垣の里」として知られる外泊(愛南町)で撮影されたものである。女性の右側には台風や冬の強い季節風を防ぐために積まれた石垣がそそり立ち、石垣を縫って走る道もすべて石張りでつくられている。その細い山道を女性がオイコで荷物を背負い運んでいく。オイコをよく見ると、荷物がすべり落ちないようにカギが付いたものが使われている。女性は日々の暮らしの中で重い荷物を背負い、何度この山道を上り下りしたことであろうか。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」8―百鬼夜行絵巻6―

6月 4日 月曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第5回目。

「百鬼夜行絵巻」も展示する企画展「異界・妖怪大博覧会」は7月10日からです。開幕まであと1ヶ月にせまってきました。

今回の妖怪も少々風変わり。「百鬼夜行絵巻」というよりも「百器」つまり、まさに器物の妖怪です。


12 花瓶の妖怪
器物は百年経つと魂を持つといわれており、この花瓶も例外ではない。三本足、三本の指、そして三つの目という異形。しかし生けられた花は案外、鮮やかだ。


13 楽器の妖怪 
この妖怪は鞨鼓(かっこ)という楽器を頭に戴いている。細長い撥(ばち)で打って音を鳴らすが、妖怪自ら演奏し、舞っているようにも見える。


14 洗濯をする妖怪 
頭には角のようなものが二本あるためか、表情は般若のように険しい。歯は黒いので、お歯黒をした既婚の妖怪か。盥で洗濯をしているようにも見える。

※ちなみに、今回の企画展で「百鬼夜行」関連で展示する主な資料には、次のようなものがあります。お楽しみに。
 妖怪絵巻(国立歴史民俗博物館蔵)
 今昔画図続百鬼(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 百鬼夜行拾遺(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 画図百器徒然袋(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 怪物画本(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 暁斎百鬼画談(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)

展示予告「異界・妖怪大博覧会」7―百鬼夜行絵巻5―

6月 3日 日曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第4回目。

番号9と番号10の妖怪は京都大徳寺の塔頭である真珠庵に伝えられた「百鬼夜行絵巻」(室町時代、伝土佐光信画)にも登場しますが、番号11は真珠庵本には出てこないものです。百鬼夜行図が時代とともにどのように書写され、変容、展開していったかを知る上で興味深い材料といえます。(本資料は、7月10日~9月2日の企画展「異界・妖怪大博覧会」にて展示予定です。)


9 黒布の妖怪
黒い布をかぶっているので、正体はよくわからない。ただ、足には鋭い爪があり、獣の毛のようなものも見える。少なくともおとなしい妖怪ではなさそうだ。


10 狐女の妖怪 
紫色の着物を振り乱しながら疾走する妖怪。顔は見えないが、尻尾の形や色から狐と思われる。一体、何を急いでいるのだろう。


11 盥(たらい)の妖怪
水やお湯を入れて顔や手を洗うための盥。顔を洗う道具自体が顔になっているという不思議な妖怪。表情や体は人間の女性なのに、手足はなぜか獣のようだ。

村上節太郎写真17 浅海のおたた 昭和20年代

6月 2日 土曜日

村上節太郎写真6-364
 村上節太郎は松前のおたただけでなく、浅海(松山市浅海原)のおたたについても写真に記録している。この浅海地区で頭上運搬による魚の行商が行われていたことは、民俗学者、瀬川清子の『販女(ひさぎめ) 女性と商業』にも全く言及がなく、それだけに村上の写真は貴重である。

 村上は「瀬戸内海国立公園候補地域としての忽那諸島の地理的景観」(昭和27年)に、浅海のおたたについて書き記している。それによると、当時は毎朝40~50人の婦人が頭上に桶をのせて付近に行商に行っていたという。汽車を利用する者もあったが、大半の行動範囲は10キロ余りで、昼頃には帰ってきたらしい。

 頭上運搬の桶から、手や肩に提げるブリキの「カンカン」へという運搬方法の変化は、松前と同様に浅海でも見ることができる。しかし、浅海の写真では、かなり年輩の婦人でも「カンカン」を提げているので、この変化は世代差もさることながら、魚の鮮度を保つために「カンカン」の方が適していたことによるものとも考えられる。

※下の写真は浅海のおたた。未だ頭上運搬も残るが、「カンカン」を手にする人の方が増えている。昭和27年。
村上節太郎写真3-386

展示予告「異界・妖怪大博覧会」6―百鬼夜行絵巻4―

6月 1日 金曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第3回目。お経や錫杖など仏教法具などの妖怪です。(本資料は、7月10日~9月2日の企画展「異界・妖怪大博覧会」にて展示予定です。)


6 仏具の妖怪 
左上の妖怪は、頭にお経(経巻)を載せている。右下の妖怪は、お堂の中で置いて使う鐘(「磬子(けいす)」)をかぶり、たたく棒(「倍(ばい)」)を持っている。


7 笙の妖怪
錫杖を担いだ妖怪。頭は笙(雅楽の楽器)をかぶる。もともと錫杖は、魔を除ける仏教道具だが、それを妖怪が持っているとは、これまた不思議。


8 妖怪の入った葛籠(つづら) 
縄で縛られた古葛籠。中では妖怪がうごめいている。大きな爪を持つ黒い手も出ている。上には鋏(はさみ)の妖怪がいる。鋏で縄を切ってしまえば、妖怪は大暴れ?

展示予告「異界・妖怪大博覧会」5―百鬼夜行絵巻3―

5月 31日 木曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第2回目。今回は、鬼だけでなく、道具の妖怪も登場です。(本資料は、7月10日~9月2日の企画展「異界・妖怪大博覧会」にて展示予定です。)


3 唐櫃を覗く赤鬼 
唐櫃の中に多くの妖怪が潜む。それを巨大な赤鬼が覗く。さて、この赤鬼、よく見ると角がない。虎の毛皮のパンツも履いていない。鬼にもいろんな姿があるようだ。


4 釜の妖怪 
釜をかぶって、手には笹の葉を持っている。毛皮を羽織っているようにもみえる。鳥山石燕著『百器徒然袋』の「鳴釜」は、これを基に描いたものだろう。


5 五徳の妖怪
台所道具の妖怪だ。五徳とは、火鉢の灰の中に置いて、鉄瓶や釜をのせる輪形の台。火吹き竹を前に吹いているが、炎は後方の頭上から出ているではないか。

村上節太郎写真16 松前のおたた 昭和7年

5月 30日 水曜日

村上節太郎写真3-385
 おたたとは頭上運搬する魚の行商をいうが、松前というとおたたを連想するほど、松前のおたたは広く知られていた。明治8年の調査によると、松前のおたたは320人で、その半数は松前から10キロ圏内が行商圏で、日帰りがほとんどだった。その後鉄道の延伸や乗合自動車の普及とともに、人口が多い松山道後を中心に森松線や横河原線の沿線、そして砥部や久万へと行商圏が広がり、泊まりがけの行商も行われるようになった。

 村上節太郎の写真を見ると、伊予絣の着物に前かけをつけて草鞋(わらじ)か地下足袋を履くおたたさんの服装がよく分かる。頭には手拭いの輪を置き、その上に「御用桶」の焼印が入ったゴロビツ、竹で編んだざる(したみ)をのせている。商品は生魚、いりこ、小魚を煮て味付けした儀助煮で、10貫(約37.5キロ)~15貫(約56キロ)ぐらいを頭にイタダキ歩いたという。 松前では行商を経験しないと一人前と認められなかったそうで、村上の写真には御用桶を頭に未知の土地に販路を開拓していったおたたさんのたくましさが感じられる。

 戦後になると、頭上運搬は年輩の女性だけで、若い女性は手に荷物を提げるようになり、やがて「カンカン」と呼ぶブリキの容器が使われるようになる。村上の写真からはそうした変化まで読み取ることができる。

※下の写真は、横河原駅に降りた松前のおたた。荷物は風呂敷でかつぐか、手に提げている。昭和26年。
村上節太郎写真6-451

村上節太郎写真15 頭上運搬する女性2 昭和20年代

5月 25日 金曜日

村上節太郎写真7-509
 女性の頭上運搬を真正面から取り上げた研究書としては、民俗学者、瀬川清子の『販女(ひさぎめ)』(三国書房、昭和18年)があげられる。瀬川はその本の序文に、当時販女の姿が急速に消え去ろうとしているとし、販女を通して婦人が家のため、社会の文化のために果たしてきた、大きな役割を認識したいと研究のねらいを書き記している。
 瀬川が愛媛県の中で頭上運搬の事例としてあげているのは、越智郡宮窪村、越智郡魚島村、今治の大浜、松前町のオタタサンの四つ。このうち魚島村について瀬川は次のように記している。

(引用文)
 同(越智)郡魚島村は男漁女耕で船乗りはいない。土地が狭く、山が急で、その山がことごとく畑であるからどうしてもカベル必要がある。弓削島から嫁にきた者は、はじめよわったが、いつかはみなカベルようになった。女学校を出た娘でもやはりいつかカベル。そうせぬと他の女たちから非難されるからである。以前は12,3歳になるとカベラせ、大人は四斗俵ぐらいはカベル。氏神祭には娘仲間が水をカベッて山の神社にゆき、神輿を洗う。カベルには丸いワを頭にあげてカベル。女のワカナカに草をからすと、20貫は普通であるが、30貫カヅクのを常とした。

 頭に荷物をのせた上に、肥桶を振り分けにして運んでいる女性など、村上節太郎は魚島の頭上運搬の様子を写真に記録しているが、瀬川の文章を読むと村上の写真の背景にあるものが見事に浮かび上がってくる。

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