‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

収蔵資料紹介 窯道具パズル

4月 30日 月曜日

パーツ

 これはやきものを焼成するための窯道具です。ツクやトチンといわれる棒のような土台にタコ足のようなタコハマという道具を組み立てます。その上に碗と皿を積み上げます。碗と皿の間には、ハマという道具が挟まれています。これは、製品同士がくっつかないようにするためのものです。よくみると、皿や碗の中央に5つの点の傷がありますが、これがハマの痕跡です。
 この焼き方は、登り窯の狭い空間で、たくさんの製品を効率よく焼くために江戸時代後期に肥前で考案された方法で、近代にかけて砥部焼(砥部町)や三島焼(伊予市)、則之内(すのうち)焼(東温市)、御荘(みしょう)焼(愛南町)、三間(みま)焼(宇和島市)など、たくさんの窯で使われていました。
 この模型は、三間焼の窯道具をもとに復元した、当館のオリジナルです。三間焼は、明治24~34年頃に現在の宇和島市三間町土居中に所在した窯のやきもので、砥部焼の窯業技術の影響をうけて磁器の日常雑器を中心に焼成していました。
 近日、新体験学習室に登場いたします。それぞれ磁石でくっつくようになっていますので、ぜひ手にとって組み立ててみてください。この機会に、やきものを焼くために重要な役割を果たしていた、縁の下の力持ちの窯道具ついても興味をもっていただければ幸いです。

村上節太郎写真12 韓国済州島の海女 昭和21年

4月 29日 日曜日

村上節太郎写真1-36
 三崎(伊方町)の海士(あま)の歴史は古く、天保4(1833)年の記録には、三崎浦全体で30人程の海士がおり、年間6000程のアワビが献上されていたことが記されている。明治時代に入ると、海士は毎年80隻、200名前後が韓国に出漁するようになる。韓国への出漁は昭和15年で終わり、戦後再び三崎近海に戻り、あわびやさざえを獲っている。

 写真は松(伊方町)の海岸で撮影されたものであるが、実は三崎の海士を撮影したものではない。三崎地域の海士は普通「海士」と書くように、男性がほどんどである。この写真が貴重なのは、韓国済州島の海女、チャムスを撮っていることである。チャムスは昭和10年から20年代半ばまで三崎の沿岸まで出稼ぎに来て、てんぐさやあわびなどを獲っていた。写真を見ると、女性は中央に肩紐が付いたワンピース型の木綿の水着を着ている。これはチャムス独特の仕事着で、「ソジュンギ」といわれるもの。足元にはタンポと呼ばれる木製の浮樽も見える。村上節太郎はほとんど写真が残っていない三崎におけるチャムスの姿を見事にカメラで記録している。

村上節太郎写真11 瀬戸内海のシバリ網 昭和12年

4月 28日 土曜日

村上節太郎写真7-389
 「ウオジマ」という言葉がある。4月から5月にかけて、瀬戸内海の中央部に産卵のために群れをなして集まるタイが、まるで島のように見えたことから名付けられた言葉である。この時期のタイは身が肥えて脂がのり赤味が増していくことから桜鯛と呼ばれ、燧灘には桜鯛を目指して瀬戸内一円の漁師が集まった。

 写真はタイの群れを一網打尽(いちもうだじん)にするシバリ網漁を撮影したもの。二千枚の木の板をつけた網でタイをおどして一カ所に集めて、約1600mもある別の網で取り囲み、掛け声とともに網を絞っていく。10隻で60~70人の漁師が集団で行う勇壮な漁で、一網数千匹のタイが捕れることもあったという。戦後の乱獲や生育する藻場の減少により、タイの漁獲は次第に減っていった。大量の人数と資金が必要なタイ網も減少の一途をたどり、昭和40年代には完全に姿を消した。村上節太郎が撮影したのは、今治市桜井の漁師のタイ網であるが、その本拠地であった比岐(ひき)島では現在は民家3軒だけになっている。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月20日掲載分:一部加筆修正)

もうひとつの忽那文書を収蔵

4月 26日 木曜日

 現在、秋に開催予定(10/6~12/2)の企画展「戦国南予風雲録」に向けて様々な資料調査や写真撮影を進めているところです。
 そんな中、先日、松山市の佛性寺へ古文書の調査・撮影のためにうかがいました。当寺は、最澄に師事し晩年に延暦寺別当となった地元出身の光定上人が、天長6(829)年に勅により開創したと伝わる天台宗の古刹です。

佛性寺

 といっても、調査資料は実は当寺とは内容的に全く関係のない、天正7(1579)年4月20日付、河野通直(牛福)が忽那亀寿に宛てた感状です。

河野通直(牛福)感状

 宛先の忽那氏は元々本来忽那諸島(松山市中島)を本拠とした在地領主で、当時はすでに河野氏の配下となっていました。この頃、河野氏は毛利氏の助力を得ながら喜多郡北部肱川下流域で対抗勢力と軍事衝突や調略戦を繰り返していました。その相手は「大洲旧記」や「河野家譜」など後世の編纂物類によると土佐長宗我部氏の支援を得た大野直之の勢力といわれますが定かではありません。4月15日、花瀬城(大洲市北只)において合戦があり、河野方は敗北、そこで忽那式部少輔(通著)が奮戦するも討死したことが内容から分かります。この感状は、その功績を賞する旨を、息子の亀寿に対し伝えた文書です。忽那氏当主の子息に宛てていることから、当然最初は忽那家に所在したはずで、その意味でいえば現在知られている「忽那家文書」や「忽那とら文書」などと元は一連のものであったと考えられます。つまり、もうひとつの忽那文書ともいえるでしょう。
 約1年半前に1度簡単な調査にうかがったことがあったのですが、今回あらためて展示に向けた調査にうかがったところ、御住職から思いもかけず寄贈の申出をいただきました。当館には、戦国末期の河野氏と喜多郡の関係を示す資料としてすでに「柁谷家文書」を収蔵していますが、喜多郡の中世を物語る貴重な資料をもうひとつ収蔵できることとなりました。詳しい資料解説についてはまた別の機会に譲りたいと思います。
 秋の企画展ではもちろん展示を予定しておりますので乞うご期待!

村上節太郎写真10 瀬戸内海の布団だんじり 昭和27年

4月 17日 火曜日


 瀬戸内海沿岸の秋祭には、屋根に布団を重ねた「だんじり」が数多く登場する。この「布団だんじり」は特に香川県西部から愛媛県東予地方に色濃く分布する。山間地には少なく、かつて海上交通の盛んだった地域の祭によく見られる。

 新居浜市や四国中央市の太鼓台は豪華に刺繍(ししゅう)を加えた布団だんじりとして有名であるが、それに比べて素朴なものが、しまなみ街道沿いの各地に伝えられている。

 写真のだんじりは、大三島の大山祇神社の産須奈(うぶすな)大祭(秋祭)に登場する宮浦のものである。車輪をつけるのが特徴で、同型のものに西条祭りに登場する「御輿(みこし)」がある。地元の言い伝えで、大正時代初期に西条から譲り受けたともいわれ、海を越えて、だんじり文化が広がったことを物語る。

 愛媛の秋祭は大三島から始まるといっても過言ではない。旧暦8月15日前後に島内各地区の祭が行われ、その翌週、大山祇神社の産須奈大祭に島内の獅子舞や奴行列等がお供として参加し、賑やかに祭が行われる。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月22日掲載分)

村上節太郎写真9 今治本町の商店街(昭和11年)

4月 13日 金曜日

村上節太郎写真7-147
 空には美しいアーケードが架かり、店先には様々な形の凝った看板、夜の通りを照らすモダンなスズラン灯が連続する。そして、横断幕には、「東洋のハーゲンベツク、木下大サーカス団」の文字が見える。

 この写真は戦前の今治本町の町並みを撮影したものである。本町は古くからの商店街で、今治港から近いため、近郊だけでなく島からも渡海船で買い物に来る人々でにぎわった。呉服町といわれるほど呉服屋が多く、そのほかに洋傘やショールを扱う小間物屋などもあった。一回買い物に来ると、女性の身のまわりのものは大概がそろったという。

 このモダンな商店街も、昭和20年8月6日、B29六十六機の二時間にわたる激しい空襲により焼き払われた。無数の照明弾で照らされたなか、次々に焼夷(しょうい)弾が落とされ、今治旧市街の75%は焼失、本町も瓦礫(がれき)と化した。村上節太郎の写真は、戦災で失われた町並みのありし日のかがやきを今に伝えている。
    
※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月21日掲載分)

 今治本町の現況写真。戦後の区画整理で道幅が広くなり、店の並びも変わった。
現況写真7-147g

村上節太郎写真8 幸港の渡海船(昭和27年)

4月 12日 木曜日

村上節太郎写真7-541
 自動車やトラックが現在のように普及していない昭和30年前後まで、船は交通や運輸の重要な手段でありつづけた。そのため、村上節太郎が撮影した写真には漁船だけでなく、様々な物資を載せた船の姿が多く見られる。

 この写真も、芸予諸島大島の幸港(今治市吉海町)に停泊する船を撮影した一枚。左の船は今治港と幸港を結ぶ渡海船第五高島丸。踏み板が渡された船内にはたくさんの荷物が置かれている。右の船は沖合に停泊する定期連絡船まで人や荷物を運んだ渡船。たくさんの人が乗っており、自転車も積み込まれるなど、船が島の人々の日常的な足となっていた様子が分かる。

 渡海船は、「島の便利屋さん」ともいえる存在で、海に囲まれた愛媛では、瀬戸内海や宇和海を舞台に網の目のように航路が広がっていた。しかし、自動車を載せるフェリーの就航やしまなみ海道の開通により、島は一つの通過点となり、渡海船を目にする機会も少なくなった。
    
※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月19日掲載分:一部加筆修正)

幸港の現況写真。埋め立てが進み、沖合に広がっていた干潟も姿を消している。
現況写真7-541g

村上節太郎写真7 北条だんじりと子ども達(昭和10年代)

4月 11日 水曜日


 旧北条市(現松山市)の秋祭りは国津比古命(くにつひこのみこと)神社・鹿島神社を中心に行われ、「風早火事祭り」と称される。祭りの最初には「みそぎ」として神輿を海に浸したり、鹿島への櫂(かい)練りの船行列があったり、明星川の河口に神輿を投げ入れたりと、海に関係する行事が多いのも特徴である。

 「風早火事祭り」の名前は、数十台も出る「だんじり」と呼ばれる山車(だし)に、半鐘が吊るされており、それをカンカン鳴らす音に由来する。写真の「だんじり」も中央には太鼓を据え、その下に半鐘を吊す。屋根には数多くの「日の丸」の紙を垂らした笹を飾っている。これが北条だんじりの特徴である。現在、使用されているものに比べて小ぶりであり、年とともに北条だんじりが大型化したことを物語っている。

 東予地方や南予地方では、だんじりや太鼓台、牛鬼(うしおに)といった神輿(みこし)行列を引き立てる山車が見られるが、中予地方にはそういったものが少ない。ところが、中予でも旧北条市にはダンジリがあり、民俗的に今治地域との繋がりも見られ、旧北条市も中予文化と東予文化の中間地域と見ることができる。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月18日掲載分)

村上節太郎写真6 秋祭りの奴振り(現松山市宇和間)昭和26年

4月 10日 火曜日

宇和間の奴

 村上節太郎は県内各地の祭りについても記録しているが、この写真は松山市宇和間(旧中島町)の奴振りの様子である。地元の青年・少年達が奴(やっこ)道具を持って天満神社の秋祭りに練り歩く行事で、江戸時代の大名行列を模したものといわれる。このような奴行列は、県内では旧周桑郡からしまなみ海道沿岸の南北のルートに加え、海を伝って旧中島町にまで分布している。

 宇和間の奴振りには、鳥毛や槍、弓、挟み箱などの奴道具を持つ者に加え、ダイバ(鬼)・鼻高(天狗)・猿・狐が行列の先頭を歩く。猿・狐は中予地方では獅子舞の中に登場するが、宇和間では獅子は出ない。中予の獅子舞の一部要素を取り入れていることや、奴振りが東予地方に多く分布していることは、この宇和間を含む旧中島町域が民俗文化的には東予と中予の中間領域にあることを示している。
 
 なお、宇和間の奴行列には、地元の3歳もしくは5歳の男子が仮装して行列に加わるのが習わしであり、地域の中での一種の通過儀礼ともなっている。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月17日掲載分)

村上節太郎写真5 涼み台とイワシ干し(昭和9年)

村上節太郎写真6-57
 村上節太郎の写真と似たまなざしを感じる写真がある。それは民俗学者宮本常一が撮影した写真である。10万枚を数える宮本の写真は現在、生まれ故郷である山口県の周防大島町に寄贈され、「宮本常一データベース」として公開されている。

 この写真も宮本との共通性を感じさせる一枚。怒和島(松山市元怒和)の砂浜に敷かれた筵にイワシが干され、丸太を組んで筵の屋根を葺いた涼み台が連続して立ち並んでいる。夏の暑い日には、風が通る涼み台で寝ることもあったというが、クーラーのある現在、涼み台を目にすることはなくなった。それどころかイワシを干す砂浜も護岸工事で失われていった。日常のありふれた風景を撮り続けた二人の写真には、高度経済成長のなかで失われた様々な日本の姿が写し出されている。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月14日掲載分)

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