‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

村上節太郎写真19 今治港の移り変わり

10月 5日 金曜日

 先月のこと、フェリーで今治市関前の岡村島に渡った。フェリーに乗るまでに、今治港で1時間以上の待ち時間があったので、村上節太郎がかつて撮影した今治港付近の現況を見てまわった。節太郎は今治高等女学校教諭をしていたため、昭和10年頃より今治を多く撮影している。

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1今治内港 昭和11年

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2今治内港の現況 平成16年

 写真1は昭和11年に撮影されたもの。内港にはたくさんの人が行き交い、物資が積み上げられ、荷物を運ぶ大八車の姿も見える。当時の今治のにぎわいが伝わってくる一枚である。現況写真の方は、実は今回撮影したものではなく、3年前に撮影したもの。その時には3階建てぐらいの駐車場があって、上の階から写真を撮るとちょうど同じアングルで撮影することができた(写真2)が、久しぶりに今治港に行ってみると、その駐車場も跡形もなくなっていた。 

 そして、今回は節太郎が昭和37年に撮影した今治港の現況を撮影してみた。写真3の今治港の建物の天辺に付いた「ナショナル洗濯機」の広告塔が、家電時代の到来という昭和30年代の世相を感じさせる。また、港前の広場に停まるボンネットバスが懐かしいという人も多いのではなかろうか。写真4の現在では、内港には島々に渡る渡海船よりもヨットやクルーザーが増えている様子がうかがえる。

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3今治港 昭和37年

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4今治港の現況 平成19年

 写真5は同じく昭和37年に内港の真ん前にあった馬越魚市場を撮影したもの。今治では現在でも魚を扱う店を商店街にたくさん見かけるが、当時はこのように個人経営の魚市場があったのだろう。現在は小売りではなく卸しのようだが、商店として変わらずにある(写真6)。

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5馬越魚市場 昭和37年

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6馬越魚市場の現況 平成19年

中国四国名所旧跡図12 下村より見る図

9月 15日 土曜日

 金毘羅往来を進む西丈は、当然瑜迦山(ゆがさん)を参詣したものと思われる。なぜなら瑜迦山と金毘羅山を参ることは両参りといわれ、御利益が沢山あると信じられていたからである。しかし、西丈はどういう訳か、瑜迦山の絵を描き遺していない。

 瑜迦山を参詣した後に、金毘羅山に向かうためには金毘羅船に乗らなければならないが、備前からは三つの港から船が出ていた。下津井、下村、田の口である。このうち、西丈は下村から金毘羅船に乗ったようで、下村からみた瀬戸内海を描いている。

 下村については、弘化4(1847)年に、浪花の代表的な人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が著した『金毘羅名所図絵』に詳しい記述がある。それによると、下村は通船に便利な港で、瑜迦山のふもとなので着岸すると参詣する旅客が多い。丸亀までは海上およそ6里(約24キロ)で、船は毎晩のように金毘羅詣、四国遍路の旅人、商人、農民などで乗せて出帆していた。夕方に乗船する者あり、朝に到着する者ありで、大変なにぎわいだったという。

中国四国名所旧跡図12

 西丈の絵では手前の下村は砂浜だけのそっけなく描かれているが、そこからみた眺望は丹念に描き込まれている。瀬戸内海には手前から立場嶋(竪場島)、釜嶋などが浮かび、右奥にはシハク七島(塩飽諸島)をのぞむ。左手前には小嶋(児島)シヲハマとして塩田が描かれいるが、先の『金毘羅名所図絵』にも下村の磯辺はすべて塩浜で数丁(数百メートル)にわたって、塩屋の煙が立ちのぼっていると記されている。右手前からは、児島半島の先端にあたるクスミノハナ(久須美鼻)が突き出ている。画面の一番奥に一際高く聳えるのは讃岐富士こと飯野山で、これから金毘羅船が目指す方向である。このエリアは現在瀬戸大橋でつながれているが、当時から交通の大動脈だったらしく、西丈の絵にはたくさんの船の白帆が描き込まれている。

 下村の浜には人が乗った船が二艘描かれているが、これが西丈も乗った金毘羅船であろう。岡山藩が領内の船数調査を行った天保12(1841)年の記録によると、下村には10反帆2艘、9反帆1艘、8反帆1艘、7反帆1艘、5反帆7艘、4反帆26艘、3反帆10艘、2反帆2艘の合計50艘の船があったと記されている。もちろんこのすべてが金毘羅船というわけでもなかろうが、十分な船数を備えていたことは確かである。

 この翌年の天保13年に、西丈と同じように下村から丸亀へと渡った人物がいる。遠く駿河国大御神(おおみか)村から西国と四国の社寺参詣に出た天野文左衛門である。この天野の道中記録には、下村のあぶらや藤右衛門方より船に乗り、船賃1人前80文、御旅籠80文、ふとん下32文と記されている。3月18日に瑜迦山を参詣した天野一行は、そのまま油屋藤右衛門方で休んだものと思われる。そして、夕方の船に乗り込み出発したものと見えて、朝五ツ時(午前8時)には丸亀に上陸している。

金毘羅船
※『金毘羅名所図絵』に描かれた金毘羅船。風を白帆に受けて、瀬戸内海の島々を縫って進む。

中国四国名所旧跡図11 藤戸図

9月 14日 金曜日

 牛窓を後にした西丈は岡山に出て、茶屋町・天城・藤戸・林を経て下津井に通じる金毘羅往来を進んだものと思われる。文化文政期には、全国から集まる金毘羅参詣の人々がこの道を通ったといわれ、街道沿いには金毘羅道と記された道標も多く残っている。西丈は金毘羅往来の途中、藤戸(倉敷市藤戸)で絵を描いている。

 藤戸は源平合戦のうち、元暦元(1184)年12月に藤戸合戦が行われた地として有名である。現在の藤戸の周辺は干拓により陸地となっているが、合戦当時は小さな島が点在する海であった。源氏方の武将佐々木盛綱は、藤戸の浅瀬の300m余りを馬で対岸に渡り先陣の功をあげたが、この合戦により平家は屋島へと退き、最後は壇ノ浦で滅ぼされることになる。

中国四国名所旧跡図11
 西丈は手前に藤戸寺を描いているが、この寺は佐々木盛綱が合戦で亡くなった人を弔うために修復したもの。本堂の北側には、源平藤戸合戦の戦没者の供養に建てられたと伝えられる寛元元(1243)年の銘がある五輪塔婆(ごりんとうば)があり、岡山県指定の重要文化財になっている。

 藤戸の対岸天城村へは渡しが往来したが、正保4(1647)年に大橋と小橋が架けられた。西丈が描いているのは藤戸大橋であろう。西丈が旅した江戸時代後期、大橋周辺は倉敷川の川湊として、繰綿(くりわた)や干鰯(ほしか)の集散地として、対岸の天城とともににぎわったという。

 画面右に突き出ている岩は、藤戸の浮洲岩(うきすのいわ)を描いたものと思われる。浮洲岩は潮の満ち引きにかかわらず、かつて藤戸海峡の中央にぽっかりと出ていた大きな岩のことである。後に京都・醍醐寺三宝院の庭園に移されており、当時藤戸にはなかったが、西丈はその話しを知っていて書き加えたものであろうか。

中国四国名所旧跡図10 牛窓港

8月 23日 木曜日

 山陽道を進んだと思われる西丈は、備前へと入ると山陽道から少し逸れ、牛窓港(瀬戸内市)を訪れている。西丈は「備前丑暦(摩)戸」と当て字で記しているが、正確には牛窓である。

 江戸時代の牛窓は、瀬戸内海を往き来する船が風待ち・潮待ちする港町として栄えた。また、幕府役人や参勤交代の大名をはじめ、朝鮮通信使、琉球使節、オランダ商館長などの外交使節を接待するために、岡山藩により御茶屋が設置されており、牛窓が海の玄関口でもあったことが分かる。

中国四国名所旧跡図10
 西丈の絵を見ると、海岸沿いにたくさんの家屋が描かれており、問屋商人と船大工が集まり牛窓千軒といわれた港町のにぎわいが伝わってくる。海に面して石垣が築かれているが、いくつか突き出ているのは、船から荷物の積みおろしをする船着き場であろう。絵の左に描かれているが、長さ678メートルに及ぶ長大な「一文字波止」で、元禄8(1695)年に築造されている。この波止の完成により、東南の波風を防ぐことができるようになり、牛窓港のにぎわいは増したという。西丈はこの波止を砂浜から突き出ているように描いているが、これはやや不正確で、実際には陸から離れた沖合に築かれている。
 町並みの背後の高台には、三重塔などの大きな建物がいくつか見えるが、これは法華宗寺院の本蓮寺である。御茶屋がまだ整備されていない時代には、朝鮮通信使はこの本蓮寺に宿泊していた。
 ところで、波止の先に、たくさんの人をのせた船が描かれているのが気になる。調べてみると、金毘羅への参詣客をのせる金毘羅船は、大阪から室津・牛窓を経て、田ノ口か下津井に寄港し、瑜迦山(ゆがさん)に参拝してから丸亀に渡ったというので、西丈は参詣客をたくさんのせた金毘羅船を描いていると理解したらどうだろうか。

金毘羅名所
※『金毘羅参詣名所図絵』に描かれた牛窓港。西丈より広い範囲を描いており、西丈の絵には見ることができない御茶屋、船番所、燈籠堂が確認できる。一文字波戸の描き方も正確である。

中国四国名所旧跡図9 石宝殿

8月 21日 火曜日

 西丈の旅はさらに西へと進む。そして、兵庫県高砂市にある生石(おおしこ)神社を訪れ、御神体として祀られている石宝殿(いしのほうでん)を描いている。石宝殿は古くから、宮崎県高千穂峰の天逆鉾(あまのさかほこ)、宮城県塩釜神社の塩釜とともに日本三奇の一つとして有名で、播磨国の名所を記す際には必ず紹介されている。

中国四国名所旧跡図9

 西丈は東の正面をはじめ四方向からスケッチを描いているが、大きさを記していないため、一見すると石の植木鉢に植えられた盆栽のようである。しかし、実際には横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mで、推定重量500tの巨大な石造物で、西丈のスケッチのとおり水面に浮かんでいるように見えることから、「浮石」とも呼ばれた。周囲の岩山を彫って人工的に造り出していることは明らかであるが、これが何のために造られたのかは謎とされている。

 石宝殿の巨大で不思議な景観は多くの旅人を惹きつけたが、身近なところでは、文政9(1826)年にオランダ商館長に随行し、江戸参府の旅行中であったシーボルトも生石神社を訪れ、石宝殿の姿をスケッチに遺している。

終戦翌日の新聞

8月 17日 金曜日

終戦翌日の新聞

 本資料は、終戦の翌日、昭和20年8月16日付の愛媛新聞です。まず、「大東亜戦争終結の聖断下る」の見出しに始まり、14日付の終戦詔書が掲載されています。15日正午にラジオから流された「玉音放送」(約4分)の文章です。「玉音放送」と言えば、「(朕ハ時運ノ趨ク所)堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の一文が有名です。しかし、その主語は誰で、その目的は何のためだったのでしょうか?

 この季節、メディアは終戦の象徴として、この一文をよく流します。そのため、「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」とは、兵士が戦陣に赴き生死の狭間で堪え忍び、銃後が物資が不足する中で空襲に堪え忍んだ、ことを意味していると思われている方も多いのではないでしょうか。実はこの前後の文脈が肝心です。「今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラズ、爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル、然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所」、「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」、「以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」とあります。つまり、昭和天皇は、ポツダム宣言受諾後、日本が受ける苦難を堪え忍び、新たな時代を開く決意をした、と読みとることができます。但し、「太平」とは、あくまでも「国体」の「護持」(天皇制の存続)が前提となっています。「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の背景に、それまでの日本人が堪え忍んだ苦しさがあることは、言うまでもありません。しかし、この一文に限って、本来の意味を読み解くならば、上述したように、今後日本が受ける苦難に対してのものだと思われるのです。

 この他、本紙には、阿南惟幾陸軍大臣の自決が取り上げられています。阿南大将は、ポツダム宣言の受諾をめぐって、断固抗戦を主張する強硬派に突き上げられ苦悩しました。御前会議では、本土決戦を主張しましたが、最終的に終戦の聖断が下ると、承詔必謹を唱えました。8月14日終戦詔書に署名すると、その夜割腹自決をとげ、無血終戦を実現しました。「一死以て大罪を謝し奉る」と遺書を残しています。また、本紙には、鈴木貫太郎内閣が総辞職したことも取り上げています。鈴木大将は4月に組閣し、終戦内閣として東郷外務大臣や米内海軍大臣らと尽力しました。一説には阿南陸軍大臣の御前会議における本土決戦の主張も、強硬派を押さえる腹芸だったと言われています。
 
 本紙からは、終戦直後の緊迫感が伝わってきます。これを機会に、戦中の多大な犠牲と戦後復興の努力を忘れず、戦争と平和について考えたいものです。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(7)破鏡(9号墓)

7月 31日 火曜日

破鏡
破鏡(相の谷9号墓出土)

 相の谷9号墓は、相の谷1号墳と同一丘陵上に立地し、1号墳の南側約30mに位置します。1号墳の1次調査後の1966年7月に発見され、墳丘測量の結果、長さ13m、幅6.7mの方形台状墓と判断されました。発掘調査は1966年12月~翌年1月と3月に実施されています。発掘調査の結果、3基の埋葬主体が確認され、1号主体の箱式石棺から今回紹介する破鏡2点が出土しています。
 破鏡とは、銅鏡を意図的に分割した破片で、割れた面を磨いたり、穴を開けたりするものもあります。弥生時代後期末から古墳時代前期にかけて、北部九州を中心に分布し、愛媛県内では約10例が確認されています。多くが中国鏡を分割しており、北部九州を介して入手されたものと考えられています。
 この資料は、鏡の外側を中心としたもので、復元径17.0㎝の約1/6の破片2点です。それぞれの資料には径0.3㎝の穴が開けられていますが、その位置は異なります。紋様構成が一致することから同一の鏡の破片であると考えられます。中央部分の紋様がほとんど残存していないため、分割される前の鏡の種類を決めるのは困難ですが、外側の紋様構成の類例から細線式獣帯鏡(さいせんしきじゅうたいきょう)という中国鏡である可能性が高いと考えられます。
 さて、この9号墓がいつ作られたが問題となりますが、破鏡の他に勾玉・管玉・ガラス小玉が出土しており、これらには前代の弥生時代的な要素は見られません。近年、発掘調査された今治市高橋仏師Ⅰ遺跡(前方後円形墳墓)でも破鏡と土師器壺・高坏、鉄鏃、ガラス小玉、管玉が出土しています。この墳墓は出土した土器から古墳時代前期初頭に位置付けられており、9号墓の年代も古墳時代前期初頭に位置付けられると考えています。
 このように考えると、9号墓は相の谷1号墳を造営する集団が前方後円墳築造の数世代前に、北部九州勢力を界して入手した破鏡を副葬した墳墓であると位置付けることができます。10数mの墳墓を造営した集団が、数10年後には80m規模の前方後円墳を築くことになった背景にはどのような事情があったのでしょうか。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(6)中世土器

7月 22日 日曜日

羽釜
羽釜

 今回の再整理の成果として、中世土器を新たに確認し資料化したことがあります。中世の土器は数十点が墳丘や竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)内から出土していることがわかりました。発掘調査時に作成された報告書にも出土状況の写真が掲載されていますが、どのような土器であるかはわかりませんでした。

土師質土器の出土状況
土師質土器の出土状況

 1985年に作成された報告文には、「(墳丘)第2段目の両側のくびれ部には幅25cmの溝があり、土師器の杯、鉢、三脚付鍋などを出土した。時期は平安時代後期~鎌倉時代のものである。この時期に祭祀が行われたものであろう」と記され、土師(はじ)質土器皿や杯(つき)、羽釜(はがま)が部分的に並んだ状態の図が掲載されています。また、出土状況の写真の中にも、羽釜の側に土師質土器杯が出土しているものがあり、墳丘上で土師質土器羽釜と土師質土器皿杯を用いた、何らかの祭祀を行っていたことが推測されます。
 今回の整理の結果、これらの土師質土器は今治平野で製作されたものではなく、松山平野でも特に、松山市湯築城跡出土資料と類似していることがわかりました。更に、湯築城跡出土土器に関する研究成果からこれらの土器は16世紀中頃の資料であることがわかり、中世伊予の守護河野氏と関連が想定できます。
 また、竪穴式石槨内から出土した陶磁器は16世紀代の青花碗の破片であることがわかり、主体部が撹乱(かくらん)された時期が16世紀以降であることもわかりました。
 相の谷1号墳は来島海峡を望む位置に立地しています。今回整理した中世土器から、この地が古墳築造後千数百年を経た戦国時代にも、何らかの形で利用されていた可能性が高くなりました。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

中国四国名所旧跡図8 手枕の松

7月 21日 土曜日

中国四国名所旧跡図8-1
 舞子の浜を描いた西丈はさらに山陽道を進み、次に別府(加古川市)の海辺の景色を描いている。瀬戸内海には左に淡路島、右に「江島」と記された家島が浮かぶ。手前の砂浜には人影が見えるが、潮干狩りの情景であろう。西丈が描いた海辺も、現在は臨海部が埋め立てられ神戸製鋼が進出して大きく変化しており、潮干狩りも失われた情景になってしまった。別府の海辺を名所とする記述をあまり見ないだけに、西丈が舞子の浜とそれほど違わない別府をなぜ描いたのか疑問が残るが、やはり瀬戸内海の海辺の情景は、旅を始めたばかりの西丈にとって、どこを見ても魅力的だったのかもしれない。

 海辺以上に広く知られる別府の名所というと、次に西丈が描いている住吉神社の手枕の松があげられる。手枕の松は、人が手枕をして寝ているような姿をしていることから、その名が付けられたといわれる。一抱えばかりの太さで、地面から1間ばかり上に出て、横には長さ10間ばかり広がり、枝葉は繁茂して年々青く緑が栄えていると、この松について『播磨鑑』は書き記している。また、横に伸びる幹にはそれを支えるつか柱をして、松の廻りは石の垣根を築いて隔てているともある。
中国四国名所旧跡図8-2
 西丈の絵を見ると、『播磨鑑』の情報そのままに手枕の松が描かれていることが分かる。舞子の浜では小さく描かれていた松もここでは堂々と主役となり、見事な枝ぶりを見せている。西丈もこの松の旺盛な生命力を描き切って十分に満足したらしく、絵の脇に「門二つ、地取六各、かき(垣)九百六十三本、西国一の松也」と記している。

 初代の手枕の松は、残念ながら大正時代に枯れて、現在は三代目にあたるそうである。それでも高さ約5m、枝ぶり約18mと堂々とした姿をしている。時がたつにしたがい、初代の松の勇姿に近づきつつある。

中国四国名所旧跡図7 舞子の浜

7月 19日 木曜日

 舞子の浜は、播磨の明石海峡の海浜にある美しい松並木で知られる名勝で、風により傾いて生える磯馴松(いそなれまつ)の姿が、舞子(舞妓)の華麗に舞う姿に似ていたことからその名が付けられた。
中国四国名所旧跡図7
 舞子の浜を描いた絵としては、画面から飛び出るぐらいに松を全面に描いた初代歌川広重の『六十余州名所図絵』の一枚が有名であるが、西丈の絵は手前の海岸線に、広重よりも小さくであるが、踊るような松の姿が描かれている。画面中央には淡路島が据えられ、それをとりまきたくさんの廻船が航海している。舞子の浜から淡路島や明石海峡への眺めは、多くの江戸時代の人々を楽しませていたが、西丈はそのことを十分に意識して舞子の浜を描いているように思える。

 舞子の浜の松は、戦前には樹齢を重ねた見事な枝ぶりのものもあったが、残念ながら松くい虫により全滅し、現在はほとんど戦後に植林されたものとなっている。さらに、西丈が描いたアングルには明石海峡大橋が架かり、その景観も大きく様変わりしている。この大きな変化を見て、西丈はどのような感想を洩らすのか、少し聞いてみたい気もしてくる。最期にいつもように、西丈が絵に添えた一首を紹介する。
「浪うてハしほの引てに風謡ふいつもの舞子の濱の松はら」

※下は二代歌川広重が『諸国名所百景』で描いた「播州舞子の浜」。初代広重のように松を大きく描いているが、西丈のように淡路や明石の眺めも描いていることから、両者を折衷した絵ともいえそうである。画面手前の人物が、背中の籠に入れているのは松葉であろうか。
諸国名所百景 舞子の浜

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