‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

今治市相の谷1号墳の出土遺物(5)埴輪の整理成果

7月 16日 月曜日

円筒埴輪
円筒埴輪

 今回、再整理した結果、埴輪片は約4200点を数え、これまで知られていた円筒埴輪・壺形埴輪の他に朝顔形埴輪があることがわかりました。(資料目録には、その中の88点を収録しています。)
 それぞれの埴輪の特徴としては、(1)円筒埴輪には鋸歯文(きょしもん)・竹管文(ちっかんもん)といった紋様が加えられていること。(2)壺形埴輪では「東四国系壺形埴輪」という製作技法に類似していること。(3)朝顔形埴輪では、奈良県東殿塚古墳や大阪府玉手山古墳群に類例を確認でき、その原形は大和をはじめとする畿内にあることが明らかとなりました。

壺形埴輪
壺形埴輪

 また、出土地毎にみた破片の数からは、後円部墳頂には壺形埴輪、くびれ部には朝顔形埴輪、前方部には円筒埴輪が多い傾向がわかり、埴輪の配列に規則性がある可能性が出てきました。

朝顔形埴輪の一部
朝顔形埴輪の一部

 このように、円筒埴輪、壺形埴輪、朝顔形埴輪を墳丘に配置する前期古墳は、県内には無く、四国内でも比較する古墳が少ないのが現状です。その技術系譜は円筒埴輪・朝顔形埴輪は畿内に、壺形埴輪は東四国(讃岐・阿波)に求めることができ、この古墳の築造された背景を探る上で重要な事柄です。これらの埴輪の年代観は、古墳時代前期中葉(4世紀中葉)と想定されています。
 大量に発見された埴輪の再整理から古墳の築造された背景や地域関係などが少しずつ明らかになってきました。

※この埴輪の整理成果は(財)愛媛県埋蔵文化財調査センター山内英樹氏によるものです。資料目録には「相の谷1号墳出土埴輪についての諸問題」が掲載されています。合わせてご参照ください。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

中国四国名所旧跡図6 敦盛塚

7月 14日 土曜日

 西丈は、当時の旅人と同様に兵庫から須磨にかけての名所を訪ね歩いたものと思われる。須磨寺や一の谷の古戦場などがあるこのエリアで西丈が描いたのが、平敦盛(あつもり)を供養するために建てられたという敦盛塚であった。西丈は敦盛塚を「一ノ谷敦盛石塔」と記している。
中国四国名所旧跡図6

 平敦盛は清盛の弟である経盛(つねもり)の子で、一の谷の合戦当時16歳であったが、源氏の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれ命を落とす。海の平家の軍船に馬を進めながらも、熊谷直実に呼び止められ引き返して討ち取られる「敦盛の最期」は、「平家物語」の中でも最も有名な場面である。

 敦盛塚は花崗岩製の総高395センチの巨大な五輪塔で、中世の五輪塔としては石清水八幡宮の五輪塔(京都府八幡市)に次いで、全国で第2位の規模を誇る。江戸時代の旅人にもその大きさは印象的だったらしく、一丈余りあるいは一丈二尺ともその高さを書き残している。五輪塔には西丈の絵にあるように梵字が大きく彫り込まれており、紀年銘はないが形式から室町時代後期から安土桃山時代の製作と考えられている。敦盛塚自体は現存しているので、西丈の絵に目新しいところはないが、江戸時代後期の敦盛塚の周辺環境がうかがえる点が興味深い。敦盛塚は松林の中に立地し、その前に旅人が休む茶屋のような施設があったことがうかがえる。塚を取り囲む石垣は現在も同じようにあるが、塚の周りや石垣の上に小さな石を積んだものがたくさん見える。この状況は、往来の旅人が追善として石を積み、塔を建てて弔っていると『摂津名所図絵』に記されていることに符合する。西丈が残した一首。
「たひ人のはうハ播磨のはますくひ熊谷茶屋のそハのあつもり」 

中国四国名所旧跡図5 兵庫津

7月 13日 金曜日

中国四国名所旧跡図5
 長くつづく海岸線。海岸線にはたくさんの家屋がびっしりとはりついている。そして、その沖合には帆を休める廻船の姿が見える。

 西丈はその絵に「津の国兵庫築嶋」と記しているが、これは兵庫津のことである。兵庫津は古くは「大輪田の泊(とまり)」といわれ、海中に突き出た和田岬により南西の風波がさえぎられ、また六甲山系により北西の風がさえぎられる天然の良港であった。平清盛の時代には人口島である経ケ島(きょうがしま)を築く大修築工事が行われ、その島陰に港がつくられ日宋貿易の基地として栄えた。室町時代には勘合貿易、江戸時代には瀬戸内海航路、西廻り航路などの重要な港でありつづけ、朝鮮通信使やオランダ商館長の江戸参府時の寄港地でもあった。

 そのような兵庫津の歴史を理解した上で西丈の絵を見ると、海岸にあまり人手が加わっていないのどかな港町を思わせ、当時の兵庫津の姿とは懸け離れているようにも思える。しかしラフな描き方ながらも、兵庫津のにぎわいだけは見るものにしっかりと伝わってくる。

 画面左に大きく突き出た和田岬には建物が一軒描かれているが、これは西丈が「番所」と記すとおり、兵庫津への船の往来を監視する船見番所である。兵庫津の入口に位置する重要な拠点で、ここには外国船から港を守るために、元治元年(1864)に勝海舟の設計により円形の石造りの砲台が築かれ、今もその姿をとどめている。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(4)埴輪の再発見

7月 12日 木曜日

 相の谷1号墳の墳丘部分からは大量の埴輪が出土しています。調査時に作成された報告書には「無数のハニワ片の修復や復元はなかなか緒につくことすら期しがたいほどである。」と記されており、調査当時においても大量の埴輪をどう整理するかが課題であったことがわかります。この大量の埴輪の一部については、調査参加者によって整理・報告されていましたが、2003年に大量の未整理の埴輪片を確認したのが、埴輪の再整理の発端でした。
 埴輪は調査時に取り上げられたままの状態で、ビニール袋約100袋で保管されていました。ビニール袋の中には出土した場所と取り上げた日時が記されたカードが一緒に入れられていました。約40年前に発掘現場でビニール袋に納められ、そのまま、倉庫に眠っていたこの資料群を見た時には、まるでタイムカプセルを開けたような気分でした。
 さて、この資料群を目にしたからには、整理・公開することが必要であると考え、資料を博物館に移動し、約2週間を費やして現状を記録し、埴輪の洗浄作業を行いました。この洗浄作業中には、今まで報告されていない線刻のある資料やスタンプ紋がある資料、接合できそうな大型の破片資料などがあり、新しい発見が多くありました。その後、注記作業(出土場所や取り上げ日時を記入する作業)を経て、漸く整理の第一段階が終了し、外部の研究者が閲覧できる状態になりました。
洗浄途中の埴輪
洗浄途中の埴輪

 何人かの研究者に資料を見てもらった結果、これまで報告されている資料よりこの古墳の実態を明らかにする上で重要な資料が多くあることがわかり、外部の埴輪研究者の協力を得て、これらの埴輪を整理・報告することとなりました。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

中国四国名所旧跡図4 布引の滝

7月 6日 金曜日

 文化6年2月29日に、京都の商人升屋徳兵衛一行は、四国遍路と西国巡礼を合わせた旅に出発している。3月2日、一行は西宮と住吉の名所旧跡をめぐった後、摩耶山に登っている。摩耶山には約2キロ程の山道が続き、険しい石段があるとその道中日記には書き記されている。一行は摩耶山の麓の茶屋で一泊し、翌3月3日には布引の滝、生田天満宮に行った後、兵庫、須磨の名所を見物してまわっている。このコースは当時の旅人にとって一般的なものと思われるが、西丈も升屋と同じように摩耶山に登った後に、布引の滝を訪れその姿を絵にして遺している。
中国四国名所旧跡図4
 『摂津名所図会』に「岩面を流落る事白布を曝(さらす)に似たり」と記される通り、布引の滝は、約250mほどの間に連続する滝の様子があたかも布をたらしたかのように見えたため、そのように呼ばれるようになった。上流から順番に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓ケ滝(つつみがだき)、雌滝(めんたき)からなる。このうち、西丈が描いたのは最上流部にある雄滝であろう。険しい岩肌を何段にもわたり激しく流れ落ちる水。滝の下には水垢離する人間の姿があるが、その小ささが滝のスケールの大きさを際だたせているように思える。西丈は雄大な滝の姿を前に、絵にそっと一首書き添えている。
 「瀧乃瀬に繰出すいとのほそけれと織る布引のはたの廣さよ」

中国四国名所旧跡図3 一つだけの求女塚

7月 5日 木曜日

 西丈は堺を出た後に、山陽道を西に進んだものと思われる。山陽道に入ってしばらく行った神戸付近で、角度を変えながらもほぼ同じ範囲を俯瞰して描いた絵を二枚遺している。下はそのうちの一枚。
中国四国名所旧跡図3-1
 左の西側から地名を見ていくと、小部村、大石村、求馬ツカ(求女塚:もとめづか)、八幡林、ミカゲ(御影)、ナロ(鳴尾)崎などの地名がある。そして、手前の海上には、天下の台所大坂へと物資をのせて運ぶたくさんの廻船が白帆をあげて進んでいく。

 もう一枚は、「摩屋(耶)山麓上の村六郎左衛門座敷より見図」と記されている。
中国四国名所旧跡図3-2
 摩耶山の麓、やや小高いところに位置する上野村の一軒から、俯瞰してスケッチしたものと思われる。手前に描かれている範囲は最初の絵とほぼ同じだが、はるか遠くには大和の二上山、金剛山から紀州加田浦まで見晴らすことができている。ビルなど遮るものがないからこそ見える風景である。

 二枚の絵の両方に取り上げられている名所としては「求馬ツカ(塚)」があげられるが、これは求女塚のことである。実際には神戸市東灘区から灘区にかけての約3.5キロの間に三つの大きな古墳が並び、真中が処女塚古墳、東西がそれぞれ東求女塚古墳、西求女塚古墳と呼ばれたが、西丈は限られた紙面のため略したのか、そのうちの一つしか描いていない。位置関係から真ん中の古墳を一人の女性、東西の古墳を娘に同時に求婚する二人の男性とみたてて、思い悩んだ女性が生田川に身を投げ、二人の男も後を追って死んだという処女塚伝説が生まれた。おそらくこのストーリーは、旅人西丈の頭にも入っていたものと思われる。 なお、三つの古墳のうち、西求女塚古墳は平成5年に「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」が7面出土し、脚光を浴びた。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(3)ダ龍鏡と国産の鏡

6月 29日 金曜日

ダ龍鏡 拡大
ダ龍鏡(拡大)

 相の谷1号墳の竪穴式石槨から出土したもう一面の銅鏡はダ龍鏡と呼ばれる倭鏡(国産の鏡)です。ダ龍とは、ワニをモチーフとした獣とされています。この鏡は中国で製作された画紋帯神獣鏡という鏡をモデルに製作されたと考えられていますが、どのような過程でこの紋様が鏡に表現されたかはわかりません。

 この資料(径11.6cm)は、石槨のほぼ中央で、背面(紋様のある面)を上にした状態で、完形で出土しています。しかし、調査時には二次的移動を想定しており、副葬された位置を保っていないと考えられます。

 今回の再整理では、クリーニングの結果、鏡のモチーフである四体の獣の形が明確となりました。それぞれには羽状の表現が認められ、嘴(くちばし)と思われる表現が三体で確認できることから、これら四体の獣は「鳥」を表現したものと考えました。そのため、ダ龍が表現されていないことから「獣紋鏡」という名称が適当であると考えています。
 紋様の特徴は、外側から捩紋(ねじもん)帯、半円方形帯、鳥像をそれぞれ配することです。類例としては、外区(外側の紋様のある部分)に捩紋帯を有する資料が10数例、内区主紋(中央の紋様の部分)に鳥像を有する資料が10数例確認できますが、外区・内区の紋様構成が完全に一致する資料は確認できません。類例を検討した結果、この「鳥」の原形は、大型のダ龍鏡の外区に表現された鳥の紋様帯ではないかという結論に行き着きました。また、この鏡はダ龍鏡をモデルに製作された捩紋(ねじもん)鏡という別の種類の鏡へ変化する要素が含まれていることがわかりました。

ダ龍鏡 X線写真
X線写真

 このように考え、この鏡の製作年代は、最古のダ龍鏡とされる滋賀県雪野山古墳出土鏡を上限とし、雪野山古墳の築造年代から前期前半(4世紀前葉)以降として位置づけました。しかし、鏡が製作された年代と古墳に副葬された年代には時間差を想定することが可能なため、この鏡の製作年代がそのまま、古墳の造られた年代とはいえません。この鏡の製作年代は古墳に副葬された上限の年代を推定させるものです。古墳が造られた年代を判断するには、一点の資料からではなく、他の副葬遺物や古墳に設置された埴輪など様々な要素が必要となります。

 さて、前回紹介した画象鏡も「鳥」がモチーフにされていました。この古墳の被葬者はこの紋様をどのように理解していたのでしょうか?当時の死生観を表したものなのでしょうか?

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

今治市相の谷1号墳の出土遺物(2)禽獣画象鏡と保存処理

6月 27日 水曜日

処理前の画象鏡
処理前の画象鏡

 前期古墳に顕著な副葬遺物に銅鏡があります。銅鏡は被葬者の生前の地位や身分を示す威信財として副葬されたと考えられます。相の谷1号墳では、後円部の竪穴式石槨から2面の銅鏡が出土しています。
 今回紹介する禽獣画象鏡(面径12.6cm)は、鳥像と獣像をモチーフにした中国製の銅鏡の一種です。破片で出土し、約41片に分割していました。出土した状況については、調査に参加された正岡睦夫氏は「西壁の中央部よりやや南寄りに位置し、破片となって検出された。原位置を移動し、後に破砕されたものである。」とされています。どの段階で破片になったかは不明ですが、割れ方からは石槨内の撹乱時又は、土圧による破砕の可能性が強いと考えられます。
 今回の保存処理作業では、クリーニングの結果、新たに二文字の銘文を判読することが可能になり、更に獣像の表現が明確になりました。また、割れていた破片を接合し、欠損している部分は樹脂で復元しました。

処理後の画象鏡
処理後の画象鏡

 銘文については従来「作竟真大」が判読されていましたが、クリーニングの結果、「氏」と「山」が新たに判読することができました。その結果、「(龍?)氏作竟真大(巧上有)山(人)」という銘文を復元することが可能です。鏡の銘文は七言句をつなげるものが多く、類例から「(龍?)氏作竟真大巧上有山人不知老」の一部を省略したものと考えられます。 
 獣像の表現では、鳥像の羽根、嘴、頭部、脚部と獣像の脚部の表現がより明確となりました。獣像は脚部と胴部の表現から虎の可能性が高いと考えられます。
 この鏡の類例としては、福井県風巻神山4号墳出土鏡、福岡県野方塚原遺跡出土鏡、奈良県黒石山古墳出土鏡があり、日本出土鏡の中でも類例が少ない中国鏡です。近年の中国鏡の研究成果を援用すると、本鏡は2世紀後半から3世紀初頭に製作されたもので、製作地は華北東部に求めることができる資料です。
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今治市相の谷1号墳の出土遺物(1)40年前の発掘調査

6月 26日 火曜日

 今治市湊町に所在する相の谷1号墳は、全長約80mの県内最大規模の前方後円墳です。この度、博物館では資料目録第16集として、『今治市相の谷1号墳出土遺物』を作成しました。この目録は、約40年前に発掘調査されたこの古墳の出土遺物を再調査し、報告したものです。数回に亘って、この目録に収録した資料と新しくわかった成果を紹介したいと思います。

調査当時の相の谷1号墳
調査当時の相の谷1号墳(西北方より)/正岡睦夫氏提供

古墳の発見と発掘調査
 1965年9月、東予新産業都市地域の埋蔵文化財包蔵地の調査を担当していた故松岡文一氏(当時愛媛大学工学部教授・県文化財専門委員)が宅地造成中に発見されました。その時に、県下最大の規模をもつ前方後円墳であること、破壊寸前にあることが報告されました。その結果、工事は一時中止され、緊急学術調査として発掘調査が実施されることになりました。

第1次調査(1966年3月5日~25日)
 調査前の状況としては、測量の結果、全長82m、前方部幅40m、後円部径50.28mの前方後円墳で、墳丘は二段築成で、全体にわたり葺石がめぐり、その間に多くの埴輪片が残存していることがわかりました。この時の調査では、後円部を中心に墳丘と主体部が調査されています。
 「発掘日誌」によると、墳丘に5箇所のトレンチを設定し、それぞれを掘削し、葺石、根石を検出するとともに、墳丘西側で括れ部の検出が行われています。また、後円部では主体部の確認及び内部の掘り下げが行われています。
 内部主体である竪穴式石槨は、全長7.1mの長大なものであることが確認されています。しかし、天井の蓋石はなく、側壁も6~7割は崩されて板石を失い、その高さは正確には分らない状況でした。
 副葬品はほとんどのものが副葬された位置から移動した状態で確認され、次の資料が出土しました。
 禽獣画象鏡1面・鉄剣・鉄刀・刀子・鉄斧・やりがんな・その他の鉄器片
 また、墳丘では、円筒埴輪・朝顔形埴輪の他、中世の土器が出土しました。

第2次調査(1967年3月5日~4月)
 第1次調査の補足調査として、後円部の内部主体の調査と前方部及びくびれ部で葺石・根石の検出が行われました。前方部の調査は西側の墳丘を全面発掘して、葺石や平坦部の敷石、埴輪などを中心に行われました。
 内部主体の調査では掘り下げが行われ、ダ龍鏡・鉄剣・刀子・円錐形銅製品が検出されています。
 前方部の調査では、北西側の前方部に連接するくびれ部で葺石層が存続していることが確認されました。その結果、前方後円墳の周囲には二段築成の葺石列が存在することが確認されました。
 この2度に亘る発掘調査後には調査は行われておらず、墳丘には未調査の部分があり、発見・調査後、約40年を経た現在においても、検討課題があります。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

中国四国名所旧跡図2 泉州堺濱図

6月 22日 金曜日

中国四国名所旧跡図2
 画帖を開くと最初に「泉州堺濱図」が登場する。田原本を出発した西丈は、竹内街道か長尾街道か、どちらかを辿って堺に出たものと思われる。西丈は「堺濱」と記しているが、これは堺港があった大浜地区を指すものと考えられる。

 画面右側には、二つの波止と右側の波止の付け根に燈台が見える。堺市立図書館のデジタル郷土資料展の解説によると、堺港の燈台は、元禄2年に初めて市中の商人の寄金で建築されて以降、明治10年の洋式燈台まで7期にわたり、位置を変えながら建て替え続けたとあるが、この燈台がその第何期にあたるのかは不明である。

 画面左側にはたくさんの船が着けられ、浜辺で盛んに魚の売買が行われている。赤い魚が見えるのは、当時堺名物であった桜鯛であろうか。大浜海岸では江戸時代このような魚市が立ったようで、それは住吉大社の夏越祓神事に際して、神輿がそのお旅所である堺の宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)に渡御(とぎょ)するのに合わせて、魚市が立ちようになったことに由来する。この魚市は、現在でも堺の夏の風物詩として行われる観光イベント「堺大魚夜市」になり、姿を遺している。

 そして、画面の上側には遠くはるかに須磨、明石の陸地と、その手前の瀬戸内海には白い帆を上げたたくさんの廻船が見える。西丈を須磨、明石を望んで、その地名を織り込んだ和歌を一首詠んでいる。
 「須磨明石おがめハげにも一の谷そふしやさかひ(堺)の浦乃きかせハ」

 石垣で築かれていたと思われる燈台の土台を白く描くなど、部分的な誤りはあるものの、西丈は単純な構図の中に江戸後期の堺の特徴を描き出している。