現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。
前回、遍路が利用した宇和海の航路を紹介しましたが、今回は乗合馬車に注目します。
乗合馬車には不特定多数の客を乗せ、一定の路線を時刻表にしたがって運行される形式と、あらかじめ決められた場所で客を待ち、客の目的地まで運んで運賃を貰う今日のタクシーのような形式があります。
昭和18年(1943)、漫画家・宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』によると、土佐の片島港(高知県宿毛市)から大和丸で伊予の深浦港に上陸した宮尾は、第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)へ向かう交通手段に乗合馬車を利用しています。
「(前略)一時十分に深浦の港に着くと馬車が横付けになっていて『四十番へ行きますヨー、乗りなされ』と呼ぶ。船員に尋ねると『乗合自動車もありますが、あてにはなりませんから馬車の方がいいです』そこで馬車にする。港からすぐ山へと掛り、村のある道をグイグイ上がってゆく。雨が降つているので、馬が辿り辷(すべ)りかけたりする。村をはづれて下り道になると、走るは走る畠も丘も山も田も、後へ飛んでゆく。東京人には馬車は珍しいので、少々うれしくなつた時『四十番さんですよ』と降ろされた。時計を見ると二十分乗つていた。」
東京生まれの宮尾にとってこの時の体験がよほど印象に残ったのか、雨天時の深浦港から乗った馬車の姿を本文の挿絵として掲載しています。絵から判断すると、馬車の形状は馬1頭立ての2輪(車軸が一つ)で屋根付きの軽装馬車で、座席は運転手が前、乗客は後部に座る(収容2~3人程度か)タイプと見られます。汽船から乗合自動車への乗り換えの接続が悪く、乗合自動車があてにならないこと、その代わりに観自在寺に向かう乗合馬車が港に待機していたこと、などが読み取れます。
深浦の乗合馬車が実際にどのような運行実態であったのかは不明ですが、当時は乗合自動車の数や運行管理も十分でなかったと推察され、そうした乗合自動車の不確実性を補うかのように、四国遍路の道中で乗合馬車が活用されているのは注目されます。
宮尾がたどったルートを遍路地図で確認します。残念ながら昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には宇和海の沿岸航路は記載されていませんが(写真①)、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に収録する「四国八十八箇所霊場行程図」(写真②、個人蔵)は小さな略図ですが、宇和海の沿岸航路が点線で示され、宿毛~深浦間の航路(青色部分)、深浦と第40番観自在寺の位置関係がわかります。


また、本書は札所の解説の後に次の札所への交通案内が詳しく紹介され、「宿毛片島から乗船、海路三里深浦に上陸し小山を越えて四十番まで一里です」とあります。汽船を利用して宿毛から深浦までの海路の距離は3里で運賃は50銭(約1時間)、陸路で深浦から観自在寺までの距離は1里で、乗合自動車の深浦~平城(観自在寺)間の運賃は25銭であったことがわかりますが、乗合馬車の運賃までは記載されていません。本書の編集方針で車利用の場合は【車馬】と表記されていることからも、乗合自動車の他に乗合馬車も利用されていたことを示しています。
昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、観自在寺から宇和島に行く方法として、「ここより柏村(愛南町)まで三里余新道も開けて馬車の便もある」とあり、徒歩以外では宇和島まで汽船で行く方法と、車利用の場合は途中の柏村(愛南町柏)まで新道を通る乗合自動車か乗合馬車で行く方法が案内されています。新道の開通によって自動車のみならず、地域によっては馬車による新路線が運行開始され、遍路の移動方法の選択肢が広がっています。
乗合馬車は都市部では交通環境の進展による鉄道や乗合自動車等の普及によって次第に姿は見られなくなってきましたが、南予地方の宇和海沿岸の深浦や観自在寺周辺では遅くまで人々の移動の足として重宝しました。四国霊場と牛馬の関係性については改めて紹介したいと思います。
特別展「宇和海のくらしと景観」。この機会に是非ともご覧ください。