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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情60―宇和海と四国遍路③ 乗合馬車―

2025年3月1日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 前回、遍路が利用した宇和海の航路を紹介しましたが、今回は乗合馬車に注目します。

 乗合馬車には不特定多数の客を乗せ、一定の路線を時刻表にしたがって運行される形式と、あらかじめ決められた場所で客を待ち、客の目的地まで運んで運賃を貰う今日のタクシーのような形式があります。

 昭和18年(1943)、漫画家・宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』によると、土佐の片島港(高知県宿毛市)から大和丸で伊予の深浦港に上陸した宮尾は、第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)へ向かう交通手段に乗合馬車を利用しています。

 「(前略)一時十分に深浦の港に着くと馬車が横付けになっていて『四十番へ行きますヨー、乗りなされ』と呼ぶ。船員に尋ねると『乗合自動車もありますが、あてにはなりませんから馬車の方がいいです』そこで馬車にする。港からすぐ山へと掛り、村のある道をグイグイ上がってゆく。雨が降つているので、馬が辿り辷(すべ)りかけたりする。村をはづれて下り道になると、走るは走る畠も丘も山も田も、後へ飛んでゆく。東京人には馬車は珍しいので、少々うれしくなつた時『四十番さんですよ』と降ろされた。時計を見ると二十分乗つていた。」

 東京生まれの宮尾にとってこの時の体験がよほど印象に残ったのか、雨天時の深浦港から乗った馬車の姿を本文の挿絵として掲載しています。絵から判断すると、馬車の形状は馬1頭立ての2輪(車軸が一つ)で屋根付きの軽装馬車で、座席は運転手が前、乗客は後部に座る(収容2~3人程度か)タイプと見られます。汽船から乗合自動車への乗り換えの接続が悪く、乗合自動車があてにならないこと、その代わりに観自在寺に向かう乗合馬車が港に待機していたこと、などが読み取れます。

 深浦の乗合馬車が実際にどのような運行実態であったのかは不明ですが、当時は乗合自動車の数や運行管理も十分でなかったと推察され、そうした乗合自動車の不確実性を補うかのように、四国遍路の道中で乗合馬車が活用されているのは注目されます。

 宮尾がたどったルートを遍路地図で確認します。残念ながら昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には宇和海の沿岸航路は記載されていませんが(写真①)、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に収録する「四国八十八箇所霊場行程図」(写真②、個人蔵)は小さな略図ですが、宇和海の沿岸航路が点線で示され、宿毛~深浦間の航路(青色部分)、深浦と第40番観自在寺の位置関係がわかります。

写真① 宿毛~観自在寺周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)
写真② 宿毛~観自在寺周辺(安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」、昭和9年、個人蔵)

 また、本書は札所の解説の後に次の札所への交通案内が詳しく紹介され、「宿毛片島から乗船、海路三里深浦に上陸し小山を越えて四十番まで一里です」とあります。汽船を利用して宿毛から深浦までの海路の距離は3里で運賃は50銭(約1時間)、陸路で深浦から観自在寺までの距離は1里で、乗合自動車の深浦~平城(観自在寺)間の運賃は25銭であったことがわかりますが、乗合馬車の運賃までは記載されていません。本書の編集方針で車利用の場合は【車馬】と表記されていることからも、乗合自動車の他に乗合馬車も利用されていたことを示しています。

 昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、観自在寺から宇和島に行く方法として、「ここより柏村(愛南町)まで三里余新道も開けて馬車の便もある」とあり、徒歩以外では宇和島まで汽船で行く方法と、車利用の場合は途中の柏村(愛南町柏)まで新道を通る乗合自動車か乗合馬車で行く方法が案内されています。新道の開通によって自動車のみならず、地域によっては馬車による新路線が運行開始され、遍路の移動方法の選択肢が広がっています。

 乗合馬車は都市部では交通環境の進展による鉄道や乗合自動車等の普及によって次第に姿は見られなくなってきましたが、南予地方の宇和海沿岸の深浦や観自在寺周辺では遅くまで人々の移動の足として重宝しました。四国霊場と牛馬の関係性については改めて紹介したいと思います。

 特別展「宇和海のくらしと景観」。この機会に是非ともご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情58―宇和海と四国遍路① 自動車遍路の人気スポット・法華津峠―

2025年2月21日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 今回は四国遍路と宇和海について、法華津峠に注目して紹介します。

 当館がある西予市宇和町と宇和島市吉田町の境に法華津(ほけつ)峠(標高436m)があります。展望台からは眼下に急傾斜地を活かした柑橘の段々畑が連なり、美しいリアス海岸の宇和海(法花津湾)が織りなす雄大な景観が広がり、絶好の展望地として知られています。

 足摺岬、竜串(たつくし)、沖の島、篠山、御五神島(おいつかみじま)、滑床渓谷、法華津峠など、四国南西部の島々を含む海岸部と内陸部の標高1,000m級の山々からなる変化に富んだ景観は、昭和47年(1972)に足摺宇和海国立公園に指定されています。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中(渡部高太郎版、当館蔵)で法華津峠周辺を確認すると、法華津峠は札所では第42番佛木寺(宇和島市三間町)と第43番明石寺(西予市宇和町)との間に位置しますが、海岸沿いのため遠く離れています。宇和島~卯之町~八幡浜の区間は鉄道が開通していない未成線として記載され、平行して自動車が通行可能な道路(宇和島~吉田~立間~法華津峠~卯ノ町)が開通していることがわかります(写真①)。法華津峠越えの道路は今日の法華津トンネルによる新道(現国道56号線、昭和45年完成)ではなく、旧道(吉田町立間~宇和町伊賀上に至る延長約11㎞の急坂)のことで、明治34年(1901)に開通しています。

写真① 法華津峠周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 佛木寺から明石寺に至る遍路道(明石寺道)の巡拝ルートは通常は最短距離となる歯長峠を進むため、歩き遍路の場合、地理的に離れている法華津峠を進むことはごく稀です。

 法華津峠が四国遍路で注目されるようになるのは、近代以降の遍路記類で紹介されたことが要因の一つといえます。いくつか事例を紹介します。

 近代交通を可能な限り活用して四国の観光を取り入れながら四国巡拝を行った人物に島浪男がいます。昭和5年(1930)に島が著した遍路記『札所と名所 四国遍路』によると、宇和島を起点に第41番龍光寺、第42番佛木寺の巡拝を終えた島は再び宇和島に戻り、乗合自動車を使用して、法華津峠経由で第43番明石寺に向かい、その途中の法華津峠から見た宇和海の絶景を称賛し、四国の旅の醍醐味は自動車で峠越えすることにあると力説しています(本ブログ21「明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路」参照)。

 また、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』(鶴書房) によると、宇和島を起点に龍光寺と佛木寺を参拝した宮尾は和霊神社の田植祭りを見学後、同様に乗合自動車を使って法華津峠を経由して卯之町へと進んでいます。

 「卯の町行きの乗合自動車は宇和島を出て小さな峠を越し、吉田の町を抜ける。(中略)天正の昔、法華津範延が土佐の長曾我部、豊後の大友と相拮抗した遺跡の法華津峠を越す。天気がよいと九州方面までよく見えるといふ『あの辺に久原の製錬の煙突が見える筈です』と運転手が空の一角をさす。卯の町で車を下り、町を横切り新道をゆきY字道を左にとる事十三丁、山の中腹に四十三番の源光山明石寺はある。」と記しています。

 ちなみに「久原の製錬」とは佐賀関製錬所(大分県大分市)のことで、大正時代の一時期、煙突の高さで世界一を誇り「東洋一の大煙突」「関の大煙突」と呼ばれ、佐賀関のシンボルとして親しまれましたが、老朽化によって平成25年(2013)に解体・撤去されました。

 宮尾の遍路記からは、歴史的に戦国時代の古戦場であった法華津峠に、乗合自動車を利用して卯之町に向かう遍路が訪れるようになっていること、法華津峠からの絶景の魅力に新たに大分の近代名所が加わっていること、卯之町から明石寺までのルートに自動車が通行できる新道が開通していること、などが読み取れます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』には、宇和島~卯之町間の運賃と所要時間は「一円四十銭(一時間二十分)」とあります。今日からすれば、険しい山道が連続する法華津峠越への旧道は自動車でもかなりの時間を要しますが、当時としては宇和島から卯之町を結ぶ画期的な道路でした。

 戦後、四国遍路において法華津峠がさらに人気スポットとして注目されるようになるきっかけに、伊予鉄による四国八十八箇所を順拝する団体バスの運行があげられます。

 伊予鉄道・伊予観光社による「四国霊場会推薦四国八十八ヶ所順拜バスご案内」と題したパンフレット(昭和32年以降発行。個人蔵)によると、四国八十八ヶ所順拝バスで四国遍路を15日間でめぐりながら四国の観光ができることを宣伝しています。コースの中で観光見学地として組み入れられているのは、琴弾公園、栗林公園、屋島、満濃池、室戸岬、龍河洞、桂浜、足摺岬、法華津峠、面河渓、道後温泉などで、法華津峠は第14日目の予定となっています。パンフレットには実際に過去に本ツアーで法華津峠を訪れた時の写真「順拝バス南国伊予路を行く―法華津峠にて―」が掲載されています(写真②)。当館には昭和31・32年に宇和島の遍路が伊予鉄道の四国八十八箇所巡拝バスで四国遍路を行った時の納経帳も収蔵されています(写真③、当館蔵)。

写真② 伊予鉄道・伊予観光社発行「四国霊場会推薦四国八十八ヶ所順拜バスご案内」、個人蔵
写真③ 伊予鉄道の四国八十八箇所順拝バスで使用した納経帳(当館蔵)

 このように近代以降の道路開発や自動車の普及などの交通環境の進展によって、伝統的な旧遍路道を基本的な巡拝ルートとする歩き遍路とは異なった自動車遍路の巡拝ルートが誕生しました。宇和海を臨む絶好の展望地であった法華津峠は自動車を利用した遍路にとって新しい人気スポットとして注目され、南予地方における四国遍路の観光化の象徴として見ることができます。

 特別展「宇和海のくらしと景観」。この機会に是非ともご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情57―雪の遍路と鴇田(ひわだ)峠―

2025年2月14日

 先日の2月4日~6日頃をピークにこの冬一番の強烈寒波の到来で、四国地方でも山地を中心に大雪となりました。愛媛県歴史文化博物館のある西予市宇和町卯之町も雪景色に包まれ、古い町並みが残る中町(なかんちょう)から博物館に徒歩で最短のルートとなる遊歩道も約10~20㎝の積雪となりました(写真①)。

写真① 卯之町中町から歴史文化博物館への遊歩道の雪景色

 ちなみに、歴博への遊歩道は、四国八十八箇所霊場の写し霊場として天保2年(1831)に創設された坪ヶ谷新四国のルートの一部となっており、道沿いには讃岐(香川)の霊場の石仏(本尊と弘法大師)が配置され、雨山公園内には第88番となる大師堂があります。遊歩道については、過去ブログ「知ってますか? 歴博への近道・遊歩道~歩いてレキハクに行こう1~3」、坪ヶ谷新四国については「坪ヶ谷新四国を訪ねて1~3」を参照ください。

 一般に四国遍路に適した季節は、春(3月中旬~5月)と秋(10月~11月)とされ、この時期は暑すぎず寒すぎず、桜や紅葉などの美しい景色を楽しみながら行うことができます。俳句の季語で「遍路」は春の季語ですが「秋遍路」も使われています。

 交通・通信の整備・発達や歩き遍路ブームなどで、現代はオールシーズンで四国遍路が行われていますが、冬季は最も少なく、特に歩き遍路にとって、天候の悪い日は風雪に打たれて苦行となり、日の暮れが早いため峠道はなるべく明るい午前中に歩くことや、休業する遍路宿があるので宿の状況を確認するなどの注意が必要となります。

 愛媛の遍路道の中でも標高が高く、積雪が多い難所として知られる場所に鴇田(ひわだ)峠(上浮穴郡久万高原町)があります。鴇田峠は前回のブログ56で紹介した番外霊場十夜ヶ橋から第44番大寶寺に至る遍路道(大寶寺道)に位置します。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中(渡部高太郎版、当館蔵、写真②)には「檜皮峠」と表記され、「十夜橋ヨリ内子ヲ経て大宝寺へ十一里七丁」とあり、巡拝ルート上の地名(内子、掛木、成弥、中田渡、上田渡、白株(臼杵の誤植)、下サカバ(下坂場峠)、上サカバ、二名、檜皮峠、久万)が記されています。

写真② 大寶寺道の鴇田峠(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 この区間はいくつもの峠を越える難路で、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』に「人家乏しく又標高七八九米の鴇田峠を越さねばなりません」とあり、また、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂発行)には、ルート上に宿屋組合指定の6軒の宿が紹介されていますが、「ここから(十夜の橋)四十四番へは十一里七丁で(中略)二名から一里十四丁の間は人家乏しく山路のみで宿屋なし」と紹介されています。

 筆者がかつてこの区間を一人で歩いたのは天候の良い3月上旬でしたが、途中で歩き遍路に出会うことはなく、宿泊所もありませんでした。昭和時代(戦前)の遍路の状況と大きく変わらないように思いましたが、今も強く印象に残っていることは、鴇田峠付近の積雪です。

 鴇田峠の山道に入った地点に寛政9年(1797)の武田徳右衛門の遍路道標石(写真③)があり、そのあたりまでは積雪は確認されませんでした。弘法大師が空腹と疲労で自分の修行の足りなさに腹を立てこの岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢したと伝えられる「だんじり岩」付近(写真④)から雪が残り、嘉永4年(1851)の遍路道標石がある鴇田峠頂上(写真⑤)に着くと一気に雪景色に変貌しました。このまま安全に進めるのか不安になりましたが、久万の大寶寺を目指して慎重に雪の遍路道を下山。やっと久万本町大通りが交差する三叉路にある嘉永5年(1852)の遍路道標石(写真⑥)に到着して安堵しました。久万の中心街は全く雪が残っておらず、改めて冬場の山越えの歩き遍路の怖さを思い知りました。

写真③ 鴇田峠の山道入口にある寛政9年の武田徳右衛門の遍路道標石(左端)
写真④ だんじり岩周辺
写真⑤ 鴇田峠頂上付近の嘉永4年の遍路道標石
写真⑥ 鴇田峠を下りた久万本町大通りにある嘉永5年の遍路道標石

 鴇田峠をはじめとする内子町から久万高原町にかけての遍路道沿いには江戸時代の遍路道標石や大師堂なども多く残っています。山間部の遍路道はルートも大きく変わらず、旧遍路道の景観を今に伝えています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情56―十夜ヶ橋と四国遍路―

2025年2月9日

 四国八十八箇所霊場第43番明石寺から第44番大寶寺に向かう途中、愛媛県大洲市東大洲にある「十夜ヶ橋(とよがはし)」(永徳寺)は、古くから弘法大師ゆかりの四国霊場として知られています。

 大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版、当館蔵)には「番外 十夜のはし」(写真①)、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には「番外 十夜橋 四十三番ヨリ六里七丁」(写真②)とあり、遍路が巡拝する番外霊場として記載されています。

写真① 十夜ヶ橋(大正6年、四国遍路道中図・駸々堂版、当館蔵)
写真② 十夜ヶ橋(昭和13年の四国遍路道中・渡部高太郎版、当館蔵)

 昭和18年(1943)に刊行された宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』には、次のような記述があります。

 「お遍路さんが有難がる十夜の橋を見たいので通り掛りの自動車に乗る。弘法大師が、行き暮れてこの橋の下で一夜野宿したが、その一夜が十夜ほどに覚えたといふので、十夜が橋の名がある。原つぱの中に堂があり橋がある。遍路は、この橋を通る時には、弘法大師にあやかるようにと、この橋の下をわざわざ潜って行く、橋の上を渡る時には、もつたいないお姿ですと云つて、ついてる金剛杖を上にあげ、突かずに歩く『杖をつくとその響きで、橋の下の大師さまがおやすみになれない』からであるさうな。」 

 本書からは、四国霊場の中でもとりわけ有名な番外霊場として篤く信仰されていること、遍路は橋の上では金剛杖を突いてはいけないとされる十夜ヶ橋の弘法大師伝説が広く浸透されていることがわかります。

 十夜ヶ橋について江戸時代の案内記・絵図類を確認すると、貞享4年(1687)の真念『四国邊路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「とよか橋、ゆらい有」と記されていますが、詳しくは語られていません。真念が遍路の功徳話を収集してまとめた、元禄3年(1690)の『四国徧禮(へんろ)功徳記』にも紹介されていません。しかし、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図 全」には「トヨガハシ大師一夜トマリナサレシ所」(写真③)と弘法大師伝説が紹介されています。

写真③ 十夜ヶ橋(宝暦13年、細田周英「四国徧禮絵図 全」、当館蔵)

 寛政12年(1800)の『四国遍禮名所図会』には「十夜の橋 大師此辺にて宿御借り給ひし此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下ニて休足遊ばしし所、甚だ御労身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云。大師堂 橋の側にあり」と記され、小川に架かる橋のたもとにある小堂(十夜ヶ橋大師堂)に参拝する阿波(徳島)の遍路(本書の作者と見られる)の姿が挿絵に収録され、江戸時代後期の十夜ヶ橋の様子をうかがい知ることができます。

 明治末~大正初期の絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(写真④、個人蔵)には、肱川の支流である都谷川(とやがわ)に架かる小さな橋の石柱には「十夜橋」と記されています。橋には欄干はなく、両端の石柱に縄がかけられ、納札のような紙がたくさん結ばれています。橋のほとりには石垣の土台の上に瓦葺方形造の堂が築かれ、『四国遍禮名所図会』に描かれた面影が残っています。

写真④ 絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(個人蔵)

 昭和43年(1968)、四国の番外霊場20の寺院が集まり、四国別格二十霊場が創設され、十夜ヶ橋(正法山永徳寺、真言宗御室派)はその第8番霊場に指定され、益々人々の信仰を集めてきました。しかし、平成30年(2018)7月7日の台風7号による西日本豪雨災害のため、十夜ケ橋の境内が水没し、本堂が取り壊されました。その後、有志らによって再建が行われ、令和6年(2024)5月12日に新しい本堂の落慶法要が行われました。  

 十夜ヶ橋の歴史をふりかえると、江戸時代以降に四国遍路が人々に広まっていく中で、四国霊場の形成や発展がどのようになされたのか、また、弘法大師伝説と四国遍路の習俗との関係性、災害と霊場・札所の復興など、四国遍路のさまざまな点について考える上で大きな示唆を与えてくれます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情55―日本八景の室戸岬―

2025年1月31日

 四国には徳島の鳴門渦潮、高知の室戸岬、愛媛の石鎚山、香川の屋島など、風光明媚な景勝地が数多くあります。それらの中でも室戸岬(むろとざき、むろとみさき)は昭和2年(1927)に昭和の新時代を代表する勝景として、日本八景(日本新八景)に選定されています。

 日本八景は東京日日新聞・大阪毎日新聞主催と鉄道省の後援によって、山岳、渓谷、瀑布、温泉、湖沼、河川、海岸、平原の8つの部門で一般からの投票などを基に選出されました。同時に日本二十五勝、日本百景も推薦されました。 

 ちなみに日本八景には室戸岬(高知県、海岸)の他に、十和田湖(青森・秋田県、湖沼)、温泉岳(長崎県、山岳)、木曽川(愛知県・河川)、上高地渓谷(長野県、渓谷)、華厳滝(栃木県、瀑布)、別府温泉(大分県、温泉)、狩勝峠(北海道、平原)が選定されました。

 また、四国内の名勝地として屋島が日本二十五勝、鳴門、祖谷渓、玉余魚(かれい)の瀧、石鎚山、面河渓が日本百景に選出されています。

 室戸岬は高知県室戸市に属し、太平洋に突き出る室戸半島の先端の岬です。付近には青年時代の空海が虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法を修行して悟りを開いたと伝えられる御蔵洞(みくらどう)、四国八十八箇所霊場の第24番最御崎寺(ほつみさきじ。別称「東寺」)があります。明治32年(1899)には室戸岬灯台が開設、そして昭和2年に日本八景に選ばれ、翌3年には国の名勝に指定されています。

 室戸岬が日本八景に選定されたことを記念して、地元の戎善商店は案内地図「日本八景室戸岬案内」(写真①)、絵葉書「海岸美を謳ふ 室戸岬に遊ぶ」(16枚組)などを作成しています。その絵葉書には「室戸岬の風光」(写真②)、「室戸岬の霊蹟、参詣の絶えざる西の岩屋」(御蔵洞、写真③)、「奇巌碧海に屹立せる鹿岡の夫婦岩」(写真④)、「最御崎寺」(写真⑤)など、昭和初期の日本八景の室戸岬や歩き遍路の姿が写され、室戸岬遊覧記念スタンプが押印されています。

写真① 日本八景室戸岬案内(個人蔵)
写真② 絵葉書「海岸美を謳ふ 室戸岬に遊ぶ」(個人蔵)収録の室戸岬の風光
写真③ 絵葉書「室戸岬の霊蹟、参詣の絶えざる西の岩屋」
写真④ 絵葉書「奇巌碧海に屹立せる鹿岡の夫婦岩」
写真⑤ 絵葉書「四国霊場第二十四番札所、最御岬(崎)寺」

 日本八景などが選定された昭和初期は、一般の国民が観光に目を向けるようになった時期にあたります。ちょうど四国遍路道中図が各地の巡拝用品店などで発行されたのも同じ頃になります。

 昭和5年(1930)の四国遍路道中図の光栄堂版(写真⑥)、同13年(1938)の渡部高太郎版(写真⑦)を確認すると、地図上には第24番の最御崎寺を「東寺」、第26番の金剛頂寺を「西寺」と別称が記載され、室戸岬燈台を示す記号が表示されていますが、「室戸岬」の地名や「日本八景」の観光情報は記載されていません。それは四国遍路道中図裏面の「はしがき」や「旅の心得」に記されているように(渡部高太郎版は「はしがき」等不記載)、道中図は基本的に徒歩で霊場巡拝するためのシンプルでわかりやすい巡案内地図として作成されているため、観光情報の記載には主眼が置かれていないためと推察されます。

写真⑥ 室戸岬周辺(昭和5年、四国遍路道中図の光栄堂版、個人蔵)
写真⑦ 室戸岬周辺(昭和13年、四国遍路道中図の渡部高太郎版、当館蔵)

 実際には信仰と物見遊山は表裏一体の関係にあって、四国遍路道中図を携帯して四国霊場の巡拝をしながら各地の景勝地を訪れた遍路も多くいたと想像されます。伝統的な名所旧跡に加えて、昭和時代に新たに選定された話題性のある見どころが増えていく中で、四国遍路の観光化も次第に進んだものと推察されます。

 日本を代表する景勝地で知られた室戸岬。岬を含んだ室戸半島は大地が盛り上がり続け、地球の動きを実感できる大変珍しい場所であることから、平成23年(2011)に室戸ユネスコ世界ジオパークに認定されました。四国遍路の舞台にまた一つ大きな見どころが誕生したことになります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情54―太山寺道の距離表記―

2025年1月17日

 今回は四国遍路道中図に記載する札所間の距離の表記についてとりあげます。

 具体的な事例として、松山市にある第51番札所石手寺から次の第52番札所太山寺までの遍路道(太山寺道)の距離に着目します。

 四国遍路道中図で太山寺道の距離を見ると、大正6年(1917)の駸々堂版では「二里十八丁」(写真①)、昭和13年(1938)の渡部高太郎版では「ニリ半」(写真②)とあります。札所間の距離は尺貫法に基づく里町(丁)で記載されています。

写真① 大正6年の四国遍路道中図(駸々堂版、当館蔵)における太山寺道「二里十八丁」
写真② 昭和13年の四国遍路道中(渡部高太郎版、当館蔵)における太山寺道「ニリ半」

 明治24年(1891)に制定された度量衡法によると、1里=36町=12960尺=約3.927km と定められています。四国遍路道中図に示す太山寺道の「2里18丁」と「2里半」は同一で、現在の距離に計算すると 9. 8175km となり、石手寺から太山寺までの道程は約10㎞になります。

 ちなみに、現代の歩き遍路のバイブルとして愛用されている宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』(へんろみち保存協力会発行、第9版2010年)には、太山寺道は10.7㎞と記載されています。

 ところで、石手寺参道口には江戸時代後期に武田徳右衛門が願主となって設置された貴重な遍路道標石が残っています(写真③)。その正面には「是より太山寺迄 弐里」と刻まれ、江戸時代の太山寺道の距離は「2里」と認識されていたことがわかります。ちなみに、武田徳右衛門は伊予国越智郡朝倉上村(愛媛県今治市)の出身で寛政~文化年間にかけて四国中に遍路道標石を建て、近世後期の遍路道の整備に貢献しました。徳右衛門の道標は正面に弘法大師像を据えて「是より〇〇迄〇里」と刻み、次の札所等までの里数(距離)を示している点が特徴で、「徳右衛門丁石」と呼ばれています。

写真③ 石手寺参道口にある武田徳右衛門が願主となって設置した遍路道標石

 ここで注意が必要なのは、江戸時代の1里は半刻(約1時間)に歩ける距離を示しているため、地域や場所によって異なっています。例えば、伊予国・讃岐国は36町1里、阿波国は48町1里、土佐国は50町1里とされ、国ごとに異なり統一されていないため、正確な距離はわかりません。

 次に、四国遍路道中図の札所間の距離は何を参考に記載されたのか考えてみます。

 太山寺道の距離について、江戸時代の四国遍路案内記を確認します。札所番号を記載した現存最古の四国遍路のガイドブックとして知られる、貞享4年(1687)に刊行された真念『四国邊路(徧禮)道指南』には「是(石手寺)より太山寺まて二里」とあります。前述した武田徳右衛門の遍路道標石の里数と一致します。遍路経験のある真念が作成したガイドブックは大人気となり、後続の案内記に参考にされ、四国遍路の在り方に大きな影響を及ぼしたと考えられます。江戸時代において、太山寺道が2里(徒歩で約2時間程度の距離)として定着したのは、真念のガイドブックの影響によるものと推察されます。

 明治以降の近代の四国遍路案内記を見ると、明治16年(1883)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』、明治43年(1910)の此村庄助『四国霊場八十八ヶ所遍路独案内』(此村欽英堂)などには、太山寺道の距離を旧来の2里と記したものも確認されますが、より正確な距離を伝えようとする案内記が作成されます。

 大正2年(1913)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(増補第二版、此村欽英堂)は、凡例に「書中の里程は実測より得たる実数」を記したとあるように、実測による遍路道の距離を記すことを編集方針にあげています。本書では太山寺道が「二里十八丁余(旧二里)」と修正されています。(旧二里)と記され、江戸時代の里程を意識して新旧の距離を対比していることがわかります。ただし、太山寺道には複数のルート(城北経由、安城寺経由、城下から古三津経由)がありますが、ルート別の距離は明記されていません。

 四国遍路道中図の札所間の距離表記は、『四国遍路 同行二人』などの近代の先行する案内記・地図類の記載を参考にしたものと推察されます。

 大正時代から昭和時代(戦前)を中心に発行された四国遍路道中図ですが、距離記載に里町(丁)が採用されているのは、江戸時代からの尺貫法が日本に浸透していたことを意味します。日本は明治18年(1885)に国際的な単位の統一を目的としたメートル条約に加盟し、同24年(1891)には度量衡法が公布されましたが、メートル法は一般には浸透せず、昭和26年(1951)に度量衡法は廃止されて計量法が制定され、ようやく昭和34年(1959)にメートル法が実施されたという歴史的な背景があります。とはいえ、昭和57年(1982)に四国霊場会が発行した「四国八十八ヶ所霊場順拝案内図」には太山寺道は「二里十八丁 一〇キロ」と、里丁と㎞の両方併記が確認できます。四国遍路における里程表記は歴史的な伝統ともいえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情53―松山の人気スポット・石手寺―

2025年1月12日

 令和7年(2025)がスタートしました。明けましておめでとうございます。

 毎年、愛媛県内の初詣先の人気ランキングで上位にあがるのが松山市石手にある四国八十八ヶ所箇所霊場第51番札所の石手寺です。大晦日の夜から平和万灯会があり、正月三が日は厄除けの護摩祈祷が行われています。

 今回は石手寺の人気の理由と四国霊場としての特色について考えてみます。 

 最初に石手寺の由来について、四国八十八ヶ所霊場会編『先達経典』(2006年)の記載を以下に紹介します。

 「縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉澄が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野十二社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、寛平4年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる」とあります。

 また、同書は石手寺の特色として次の点をあげています。

 「日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である」。

 ちなみに、石手寺の境内には、鎌倉時代に建立された二王門(国宝)、本堂、三重塔、鐘楼、訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)(以上、重要文化財)などが現存し、石手寺は中世の伽藍の姿を今に伝える、四国霊場の中でも屈指の名刹であることがわかります。

 さらに新しい石手寺のスポットとして、異空間の体験ができる金剛界・胎蔵界を表現したマントル洞窟、東寺講堂の立体曼荼羅を模した石像群なども人気があり、近年はインバウンドの影響もあって、外国人向け観光ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で石手寺は一つ星(興味深い場所)を獲得するなど、外国人の遍路や観光客も数多く訪れています。

 次に、昭和13年(1938)に発行された四国遍路道中図(渡部高太郎版。発行兼印刷者関印刷所)から、石手寺を見てみましよう。

 地図上には四国有数の観光地である道後温泉に一番近い四国八十八箇所霊場として第51番熊野山石手寺があります。札所を示す丸印の中心に本尊 (薬師如来)のイラストが描かれ、「五十一・熊野山・石手寺」「道後湯之町石手」と記載されています(写真①)。また、松山の海の玄関口である三津浜港、高浜港から道後温泉へは、国鉄や伊予鉄道などの鉄道路線が開通していることが確認できます(写真②)。道後温泉から石手寺へは近距離のため徒歩もしくは路線バスで移動します。松山の中心部に位置する石手寺は交通環境に恵まれた四国霊場の札所であることがわかります。

写真① 石手寺の表記(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年発行、当館蔵) 

写真② 石手寺へのアクセス(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年発行、当館蔵) 

 近代以降、松山土産の定番商品として数多くの種類の絵葉書セットが作られましたが、それらを見ると、多くの場合、松山の名所として道後温泉、道後公園、松山城などともに石手寺が収録されており、松山を代表する観光名所として認識されていることがわかります。

 観光客や遍路が買い求めたと推察される石手寺の絵葉書には、温泉事務所の「道後温泉入浴紀念」のスタンプが押印され、四国遍路や松山観光において、道後温泉と石手寺のつながりが見て取れます(写真③)。

写真③ 絵葉書「四国八十八ヶ所の内五十一番石手寺」個人蔵

 さらに興味深いのは、主に戦前までの四国遍路において、松山地方の遍路や、三津浜・高浜港から上陸した北九州・中国地方からの遍路にとって、石手寺は特別な札所であった点です。つまり、四国遍路道中図(渡部高太郎版)に「高浜三津浜上陸 山口県九州北地方ハ五十二番太山寺ヨリ始ムルガヨシ」と記すように、上陸港に近い第52番太山寺から四国巡拝を開始して、順打ち(札所番号順・時計回り)にまわる場合、石手寺が最後に参拝する八十八箇所の結願の札所となります。

 とりわけ松山地方の遍路の場合、かつては巡拝の旅に出た者の帰りを親族や村人たちが石手寺で出迎えて飲食をともにして祝う風習(坂迎え)がありました。そして遍路は旅の終わりに道後温泉に入浴して、巡礼着物(遍路装束)から家族が用意する新調した着物(待ち着物)に着替えてから帰路につきました(今村賢司「村上霽月の四国遍路」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第22号、2017)。

 石手寺と道後温泉との関係性は地理的に近いだけでなく、四国遍路の習俗、温泉と社寺参詣、四国霊場と都市観光などのあり方について考える事例として注目されます。

 以上、道後温泉の近郊に位置する石手寺は、古来より伊予における熊野信仰、薬師信仰、弘法大師信仰などの多様な信仰の聖地であり、中世の寺院の風格を色濃く残した希有な四国霊場であり、こうした特色が松山の観光名所として人気を誇っているものと推察されます。

コーナー展示「三輪田元綱家文書足利三代木像梟首事件と贈位を中心として-」のお知らせ

2024年10月4日

令和6年9月27日(金)~同年12月26日(木)、常設展示室4においてコーナー展「三
輪田元綱家文書-足利三代木像梟首事件と贈位を中心として-」を紹介します。資料の内容は、足利三代木像梟首事件に関する文書3点と贈位に関する文書2点、合計5点です。
元綱(綱一郎)は、文政11(1828)年に松山藩南久米村(現松山市)の日尾八幡神社宮司三輪田清敏の三男として生まれ、田内董史(ただふみ)と国学者の大国隆正、平田銕(かね)胤(たね)等に学びました。そして、幕末に京都において攘夷と公武合体を目的として活動し、天皇の意に沿わない政治を行う幕府を戒めようと平田派国学の門人達とともに、文久3(1863)年2月22日、等持院(とうじいん)にある足利将軍三代の木像の首を奪って三条河原にさらすという事件を引き起こします。6月23日、山城国及び江戸10里四方を追放され、その身柄が豊岡藩に預けられました。約3か月後に預け押込のうち押込を許されましたが(写真①)、引き続き豊岡藩に預けられています。
その後、王政復古により元綱は京都参与役所から赦免を言い渡されました。慶応4(1868)年正月、豊岡藩士高階(たかしな)八右衛門他1名から各地の番所に対して、元綱が故郷の松山に帰るまで滞りなく通すように通行手形が出されています(写真②)。豊岡藩は元綱を好意的に扱い、学事教授を委嘱していました。兄の米山が記した日記によると、帰郷の際、元綱は駕籠に乗せられ、数百人の豊岡藩士が警護をしていたことや、松山の生家に着いた時には、町から多くの人々が出て来たことが記されています。
明治2(1869)年、元綱は外務権大丞となり、維新後は維新殉難者の遺族に恩賞が与えられるようになったため、明治5年、元綱は事件で亡くなった仙石貞雄の父への恩賞を願い出る依頼書の草稿を書いています(写真③)。以降も、京都の八坂神社(現京都府京都市)や大山祗神社(現今治市)等の神職を務め、明治12年に54歳で没しました。
なお、足利三代木像梟首事件は尊王攘夷運動の高まりの中で倒幕運動に転換する画期となったので、維新功労者として元綱の没後に郷里松山で顕彰活動が行われ、大正5(1916)年に従五位が追贈されました(写真④・⑤) 。
本コーナーにおいて三輪田元綱を知っていただくとともに、激動の時代を感じ取っていただければ幸いです。

写真①「押込御免申付書」(文久3年)当館蔵

写真②「三輪田綱一郎通行手形」(慶応4年)当館蔵
写真③「仙石芝水へ御称詞依頼書草稿」(明治5年)当館蔵
写真④「三輪田元綱贈位書」(大正5年)当館蔵
写真⑤「御沙汰書」(大正5年)当館蔵

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情52―小豆島八十八箇所霊場地図と四国遍路道中図― 

2024年9月28日

 「四国遍路道中図」を参考にして昭和3年(1928)に大森國松は「改正四国八十八箇所霊場案内」を作成しました。その刊記には「著作者兼印刷発行者 香川県小豆郡大鐸村大字肥土山ニ百〇七番戸 大森國松」とあります。小豆郡大鐸村(おおぬでそん)大字肥土山(ひとやま)は現在の香川県土庄町にあたり、大森國松は瀬戸内海に浮かぶ小豆島の人であることがわかります。

 小豆島(香川県小豆郡小豆島町・土庄町)には八十八ヶ所霊場があり、地元では「本四国」に対して「元四国」と呼ばれています。八十八ヶ所霊場は、空海が故郷の讃岐国と京の都を往復する際に小豆島に立ち寄り修行を行ったという伝説があり、貞享3年(1686)に小豆島の僧が結集し、島一円を霊域とする八十八箇所霊場が開創したと伝えられます。現代では愛知県の知多四国八十八ヶ所、福岡県の篠栗四国八十八ヶ所とあわせて日本三大新四国霊場に数えられています。

 大森國松は「改正四国八十八箇所霊場案内」発行の前年にあたる昭和2年(1927)に小豆島八十八箇所を紹介した案内地図「改正小豆島八十八ヶ所霊場案内」(写真①)を手掛けています。

写真① 昭和2年発行 大森國松「改正小豆島八十八ヶ所霊場案内」(個人蔵)

 本図は小豆島霊場の札所となる寺院、仏堂、番外を色分けし、各寺院では管轄している堂庵を含めた納経数が示され、順拜道には札所間の距離、登り坂、宿屋、汽船港、和船港、郵便局なども詳しく記されています。注目したいのは、標題にいう「改正」の意味です。「本図は大正四年九月本郡備附測量ヲ以テ実測セシモノナレバ正確ナルコト明ナリ」とあり、改正とは、実測に基づく小豆島霊場の正確な距離を記載したことを意味します。

 この観点からすると、「改正四国八十八箇所霊場案内」の標題にも同じく「改正」とあり、その意味については言及されていませんが、実測に基づく四国霊場の正確な距離を示したことを意味しているかと推察されます。実際のところ、札所間の距離の表記は先行する大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版)とほぼ等しく、また、大正3年(1914)の四国霊場御開基1100年までに四国遍路の実測を終え、正確な距離を記載することを目標とした三好好太が大正2年(1913)に再版発行した四国遍路案内記『四国遍路 同行二人』の距離記載と一部異なる所もあり、四国八十八箇所霊場案内に改正と冠した理由について、その詳細は不明です。

 ところで、大森國松については、稲田道彦氏によると、「この大森国松氏は初代と2代と2名いて、手刷りの版木印刷から始めて各地の地図を多く作られたのは初代の大森国松氏(1878-1941)だそうである」と指摘されています(「瀬戸内の島々の最近の光明-志々島と小豆島」香川大学、2012年)。この点を踏まえると、「改正四国八十八箇所霊場案内」は初代の作と考えられ、前述した海岸を示す太線のズレは手刷りが原因かと思われます。 

 小豆島八十八ヶ所霊場を紹介する絵地図は近代以降、いろんな種類が発行されています(『浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場』当館、2022年)。以下は筆者が確認したものです。

 ・明治26年(1893)「小豆島八十八箇所仏閣一覧図」、編集兼出

版人山本栄治

 ・明治34年(1901)「小豆島八十八箇所順拜略図道行三十四里五丁」、著作兼発行岡田タケ。

 ・明治35年(1902)「小豆島八」、著者兼発行者大安信元。

 ・大正5年(1916)「小豆島御案内当館蔵」、吉田初三郎作、小豆島神縣山保勝会発行。

 ・昭和2年(1927)「改正小豆島八十八ヶ所霊場案内」、著作者兼印刷発行者大森國松(写真①)

 ・昭和15年(1940)「小豆島八十八箇所霊場案内絵図」、印刷発行者浅野伊勢吉。

 この中で注目したいのは「小豆島八十八箇所霊場案内絵図」」(写真②、当館蔵)です。寺院、仏堂、番外奥之院、納経 出所数、順拜道路、郵便電信局、宿屋、名所古跡、巡航船路、渡船場、汽船航路、不定期汽船、車馬道、坂道まで記載され、 小豆島八十八ヶ所霊場絵図の中でも詳細な案内地図です。その発行者の浅野伊勢吉は第10番切幡寺などで巡拝用品店を経営し「四国遍路道中図」を発行した人物です(本ブログ29「切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。

写真② 昭和15年発行 浅野伊勢吉「小豆島八十八箇所霊場案内絵図」(当館蔵)

 小豆島は八十八箇所霊場のほかに、神懸山(寒霞渓)が大正12年(1923)に国の名勝、昭和9年(1934)には瀬戸内海国立公園の代表的な景勝地として指定されました。こうした背景から、近代以降、観光地としての小豆島は数多くの絵地図、案内パンフレット、絵葉書などが発行されています。

 近代以降に小豆島八十八箇所霊場を紹介する絵地図は他の霊場と比較して数多く作成され、今日流布しています。その意味において、小豆島は霊場案内地図誕生の先進地のような特色を有しています。

 大森國松が発行した「改正四国八十八箇所霊場案内」と「改正小豆島八十八ヶ所霊場案内」という巡礼案内地図の存在、そして浅野伊勢吉の出版活動は、篤志家による弘法大師信仰の教化普及活動の一環として捉えられますが、四国遍路道中図と小豆島霊場図は密接な関係にあることを示しています。今後、日本のさまざまな巡礼案内絵地図を見ることで、四国遍路絵地図の特色を検討し、四国霊場と四国遍路の歴史を明らかにする視点も必要だといえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情51―改正四国八十八箇所霊場案内―

2024年9月27日

 前回、四国遍路道中図(駸々堂版)が普及した影響として、その略図版といえるような地図が大正期の遍路案内記に収録されている事例を紹介しましたが(同ブログ50「絵入四国八十八ヶ所案内記に収録された四国遍路道中図」参照)、今回は四国遍路道中図が昭和初期の四国遍路地図に影響を与えている事例について紹介します。

 その地図とは昭和3年(1928)に香川県の小豆島在住の大森國松が作成した「改正四国八十八箇所霊場案内」です(写真①②、個人蔵)。地図表面の標題の左右に「附弘法大師絵伝」「附弘法大師数エ歌」とあるように、表面の周囲に弘法大師数え歌、裏面全体に弘法大師絵伝が掲載されています。

写真① 昭和3年発行の「改正四国八十八箇所霊場案内」(表面)
写真② 同(裏面)

 本図は四国遍路地図とあわせて弘法大師の事績が歌詞と絵入で分かりやすく紹介されている点が最大の特徴といえます。掲載する情報量が多いため、本図の大きさは縦47.3×横63.8㎝を測り、大正6年(1917)発行の四国遍路道中図(駸々堂版、縦39.4×横54.5㎝、当館蔵)よりもひと回り大きな地図となっています(写真③)。

写真③ 遍路地図の大きさ比較
上:大正6年発行の「四国遍路道中図」(駸々堂版)
下: 昭和3年発行の「改正四国八十八箇所霊場案内」

 それでは、「改正四国八十八箇所霊場案内」の内容について見ていきましょう。

 【表面】

 デフォルメされた四国の形や阿波・土佐・伊予・讃岐の旧国名表記、双六風の八十八箇所霊場の表示と巡拝ルートなどは、まさしく四国遍路道中図が参考に作成されていることがわかります。

 凡例には、札所、順拝指道、番外札所、名勝古跡、鉄道、本街道、間路、都市、重要地、部落、河川、港及海岸の項目を挙げています。本街道、間路、重要地、部落などの独自の項目もありますが、基本的には四国遍路道中図(駸々堂版)の凡例と類似しています(写真④)。しかし道中図に記載された燈台の情報がなくなっています。海岸を示す薄茶色の太線にズレが生じていて、立体的に影付けをする意図的な表現なのか印刷ミスなのかは不明です。

写真④ 「改正四国八十八箇所霊場案内」と「四国遍路道中図」(駸々堂版)の凡例

 八十八箇所の札所は大きな丸で表し、その真ん中に赤地に白抜きの漢数字で札所番号が明示され、本尊仏、山号と寺号、所在地が記載されています。札所の名称を確認すると、漢字の表記の違いは除いて、現在と異なる札所名は、次のとおりです。( )内は現在の札所の名称。

 第24番東寺(最御崎寺)、第25番津寺(津照寺)、第26番西寺(金剛頂寺)、第30番安楽寺(善楽寺)、第33番高福寺(雪蹊寺)、第55番光明寺(南光坊)、第68番八幡宮(神恵院)、第78番道場寺(郷照寺)、第79番妙成就寺(天皇寺)。神仏分離などの理由で一時期、別の寺院が札所となり、通称・別称などで呼ばれている札所があるなど、地図上から札所の変遷をうかがい知ることができます。

 順拝指道(巡拝ルート)は赤い矢印で示され、次の札所までの距離(里丁)が注記されています。また、順拝指道とは別に本街道と間路(里道)も記されています。

 番外札所には、阿波(種蒔大師、灌頂ヶ滝奥の院、七不思議)、土佐(高野寺、須崎の高野寺、佐賀谷)、伊予(佛眼院、竜光院、十夜ヶ橋、遍照院、高野山出張所、正善寺、清楽寺、仙龍寺)、讃岐(高野山出張所)。

 名勝古跡には、阿波(五百らかん、柳水庵、杖杉庵、八坂八浜、剣山)、土佐(室戸岬、八坂八浜、龍串奇景、松尾峠)、伊予(柏坂、出石寺、三坂峠、文殊院、道後温泉、石鎚山)、讃岐(琴平神社、栗林公園、津田松原)が記載されています。

 番外札所は納経を行っている霊場と考えられますが、例えば、出石寺や文殊院が名勝古跡として記載されているように両者の違いが曖昧なところもあります。

 地名は都市と重要地と部落に分類され、都市には阿波(撫養、徳島)、土佐(高知)、伊予(松山)、讃岐(丸亀、高松)、重要地には阿波(小松島、日和佐、阿波池田)、土佐(伊野、佐川、越智、須崎、下田、宿毛)、伊予(宇和島、八幡浜、長浜、久万、郡中、三津、今治、大頭、川之江)、讃岐(多度津、琴平、坂出)が掲げられています。

 地図の下部には長文からなる「順拝者心得」を掲載しています。「如何に疲れたりとも朝夕礼拝を怠らさるは勿論札所に近つくいえども急ぎ邪念を払ひて札所祈念するをよしとす」「仮に順拝の回数を重ね又は日数を短くするも信心にして缺けたらには詣するとも益なし」「遍歴中は勤身沐浴肉食等を謹み毎日道すがら南無大師遍照金剛と光明真言を唱いつつ霊場に詣すれば罪悪消滅未来浄土の花の実を蒔くと思はば誠に有難きことぞなん」などと記され、四国遍路は信心と修行の旅であることが説かれ、本図の作者・大森國松の考え方が示されています。

 地図の周囲に掲載する弘法大師数え歌は「一ツトセ 人をたつとむ大師様 そもそも四国は讃州で屏風が浦に御たんじょう」に始まり、最後は「二十トセ 二十一日午のこく 入定したまふ高野山 今にふしぎはころもがへ」で終わります。弘法大師空海の事績が数え歌にされ、弘法大師信仰の庶民への広がりが見て取れます。

 【裏面】

 地図裏面は前述したとおり弘法大師絵伝が掲載されています。内容は「衛門三郎」「切幡寺の機織り娘」「綜芸種智院といろは歌」「大師御宝号」に関する空海伝説の4場面が絵入で大きく紹介されています。表面の弘法大師数え歌の掲載とあわせて、弘法大師信仰をさらに広めようとする作者の意図が垣間見えます。

 四国遍路道中図では裏面に八十八箇所の御詠歌一覧が記載されていますが、本図は四国遍路地図でありながら、各札所の御詠歌が記載されていないのも特徴の一つといえます。

 以上、「改正四国八十八箇所霊場案内」の内容を見てきました。基本的に四国遍路道中図を参考にしながらも、弘法大師数え歌や空海伝説を採り入れるなど独自の内容を記載した四国遍路地図が昭和初期に作成されていることがわかります。四国遍路道中図のスタイルは昭和時代の他の四国遍路地図にも影響を与えているように、大正から昭和時代の代表的な四国遍路地図として四国遍路道中図は広く活用されました。作者の大森國松の事績については別の機会に紹介したいと思います。