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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊺―「四国遍路道中図」の入手方法―

2024年8月23日

 大正~昭和時代(戦前)を中心に発行された「四国遍路道中図」の入手方法について考えてみます。

 戦前の四国遍路の詳細な案内記に昭和6年(1931)に発行された安田寛明『四國遍路のすすめ』があります。そこには「地図は御四国巡拝中、遍路にとりては道中の宝なり、僅か一枚六七銭である、持参して時折開き見て我が心に慰安を求めなさるよう。」とあります。

 ここでいう地図とは、具体的な地図名までは言及していませんが、当時発行された四国遍路地図を年代的に見ると、大阪の和楽路屋発行の「四国遍路八十八所巡禮地図」、大阪の駸々堂や四国内の巡拝用品店などで発行された四国遍路道中図の可能性が高いと考えられます。

 遍路地図は金額的に安価ですが、買い求めて活用することで心の慰安を得ることができる「道中の宝」として紹介されています(本ブログ40「道中の宝」参照)。四国遍路に限らず、見知らぬ土地を旅する時、目的地の案内地図があれば道に迷うことなく、その土地の様々な情報や魅力を知ることができます。地図を所持することは旅の不安から解放され、安堵感や期待感を得ることにつながります。

 大正7年(1918)に24歳の若さで四国遍路を行った高群逸枝(たかむれいつえ、1894-1964)は、郷里の熊本から四国へ旅立つにあたり、上陸した愛媛県八幡浜で遍路地図を購入したことを、その遍路体験を綴った『お遍路』(昭和13年刊)に記しています。高群の事例にように、遍路地図の入手方法は巡拝を開始する前、四国の上陸地の巡拝用品店などで購入することが一般的であったと考えられます。

 しかしながら、徳島を中心に四国内で発行された「四国遍路道中図」の場合は、発行・販売店の商売競争として「四国遍路道中図」が接待品・広告物として無料で配布されていました(本ブログ29・30「切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。

 遍路が四国遍路を行うにあたり、四国への出発港となる大阪などの都市、撫養港などの四国の上陸地や巡拝を開始する札所周辺で遍路地図や案内記を買求めるのが一般的な事例といえます。その観点からいえば、徳島県の内陸部に位置する第10番札所・切幡寺は最初の巡拝札所となる可能性は低く、そこで道案内用の「四国遍路道中図」を購入することは考えにくく、切幡寺周辺で発行された巡拝用品店や宿屋の店名入りの「四国遍路道中図」は、広告入りの接待品として、切幡寺に向かう遍路道沿いなどで無料で配布されたものが多かったと推察されます。

 興味深いのは『四國遍路のすすめ』に「御四國地の土産物は切幡寺の登り口に、商家が沢山ある。好む品物安く買いなさるがよい。」と記されているように、切幡寺周辺の巡拝用品店は商売競争によって四国中のどこよりも安く土産品が購入できたようです。そのため「四国遍路道中図」も格安で買い求めることができ、四国遍路の土産品として購入されたケースが多かったと考えられます。土産品を多く買った遍路に店名が入った「四国遍路道中図」をお礼品として配布していたことも想像されます。

 一方、愛媛県西条の女性遍路の所持品に、切幡寺参道の金山商会が昭和9年(1934)に発行した四国遍路道中図(写真①、当館蔵)と遍路日記などが残されています(本ブログ11「実際に使用された四国遍路道中図」参照)。日記には女性が遍路のために出発前に地元の仏具店で準備した遍路用品の買い物記録や巡拝の日程、道中の費用などが記録されています。ただし切幡寺では「サイセン三銭」と記すのみで、四国遍路道中図などを購入した記録は確認できません。接待品として無料で入手したものなのか不明です。

写真① 昭和9年に金山商会が発行した四国遍路道中図(当館蔵)

 接待品・広告物として無料で配布された「四国国遍路道中図」について考える際に参考となる事例に、昭和13年(1938)に松山市萱町の関印刷所が発行・印刷した「四国遍路道中図」(心臓薬本舗渡部高太郎版、写真②、当館蔵)があります。本図には発行者の渡部高太郎が経営する周桑郡徳田村(愛媛県西条市丹原町)の心臓薬本舗の心臓薬の宣伝広告が大きく掲載されています(本ブログ28「心臓薬本舗渡部高太郎版と広告性」参照)。裏面の大部分に四国遍路とは直接関係のない商店の宣伝広告を占めるような「四国遍路道中図」を遍路が実用として土産品としても買い求めるとは想像しがたく、渡部高太郎版は自社の広報を目的とした無料配布用の四国遍路地図として作成されたものと考えられます。心臓薬本舗の立地が愛媛の番外霊場の生木地蔵や西山興隆寺にも近く、病気平癒などで巡拝する遍路が多かったことが本図発行の背景にあったと推察されます。

写真② 昭和13年に関印刷所が発行した四国遍路道中図(心臓薬本舗渡部高太郎版、当館蔵)

 四国遍路道中図の入手方法は、概して、通常の有料出版物として購入するケースと、広告入りの無料の接待品とがあり、大阪などの都市部で発行された駸々堂版は前者、四国内で発行された四国遍路道中図の一部は後者であったと考えられます。四国内で発行された四国遍路道中図の性格を考える上で注目したいのは、広告記載の無料接待品であり、四国特有の接待習俗と結びついていること、地図としての実用品以上に四国遍路の土産品として購入された点にあるといえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊹―「四国霊場礼讃地図」掲載の四国遍路道中図 その2―

2024年8月17日

 前回、昭和2年(1927)にイナリヤ本店(徳島県阿波郡八幡町切幡)が発行した「四国霊場礼讃地図」を掲載した珍しいスタイルの四国遍路道中図について紹介しました。今回はそれが四国遍路道中図の中でどのような意味をもつのか、その位置付けについて考えたいと思います。

 筆者が現時点で確認できた発行年が比較的古い四国遍路道中図(大正期から昭和5年迄)は以下のとおりです。

発行者別の種類 印刷年月日 発行年月日 印刷・発行人等 備考
駸々堂版 大正5年(1916)7月5日 大正5年7月10日再版 大阪市心斎橋北詰 駸々堂書店/著作印刷兼発行者 大阪市南区末吉橋通4丁目4番地 炭谷傳次郎   ・旅の心得順拜栞未記載  
駸々堂版 大正6年(1917)6月10日 大正6年6月15日 大阪市心斎橋北詰 駸々堂旅行案内部/編集兼印刷発行者 大阪市南区末吉橋通4丁目4番地 炭谷傳次郎   ・旅の心得順拜栞未記載
イナリヤ本店版(写真①) 昭和2年(1927)10月1日 昭和2年10月15日 徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 ・「四国霊場礼讃地図」掲載 ・発行者等氏名未記載 ・旅の心得順拜栞記載
浅野本店版 (写真②) 昭和4年(1929)4月下旬 昭和4年5月上旬 徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 浅野伊勢吉 ・旅の心得順拜栞記載
光栄堂版 昭和5年(1930)7月下旬 昭和5年8月下旬 徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 須見榮五郎 ・旅の心得順拜栞記載

 いうまでもなく実物資料で確認できた事例はわずかで、今後もさまざまな四国遍路道中図が発見されることが予想されますが、昭和2年10月15日に発行されたイナリヤ本店版(写真①)は、時期的に見ると、昭和初期に四国内で作成された四国遍路道中図の中でも古い地図といえます。

写真① 昭和2年発行の四国遍路道中図(イナリヤ本店版、個人蔵)

 それは、大正年間に大阪で発行された四国遍路道中図の祖型と考えられる駸々堂版から、昭和4年の浅野本店版(写真②)などの四国内で作成された四国遍路道中図へと展開する過渡期の地図として位置付けられます。

写真② 昭和4年発行の四国遍路道中図(浅野本店版、個人蔵)

 また、本図の刊記に印刷兼発行人の氏名が記載されていない点について、試作的な作品であったのか、何らかの編集・発行過程を示しているものではないかと注目されます。四国内で最初に発行された四国遍路道中図はいつ、どのような経緯で作成され、いかなる内容であったのか、その詳細についてはまだ明らかにできていませんが、大手出版社である大阪の駸々堂版四国遍路道中図からの影響を受けながらも独自色の濃い内容をもつ本図(イナリヤ本店版)の存在は、四国内作成の四国遍路道中図の誕生やその後の展開過程を考える上で注目すべき事例といえます。

 イナリヤ本店と同じ商店と考えられるイナリヤ総本店が昭和16年(1941)に発行した四国遍路道中図があります。地図面は「四国霊場礼讃地図」ではなく、四国内で発行されている通例の四国遍路道中図が掲載されています(写真③)。同店発行の四国遍路道中図は地図面が異なる2種類を並行して販売していたものか、あるいは「四国霊場礼讃地図」掲載の四国遍路道中図の発行期間は短く、昭和10年代には通例の四国遍路道中図に取って代わったものか、定かではありません。現存数が少ないことから、おそらくは「四国霊場礼讃地図」は情報量とビジュアル性に弱く、シンプルな内容であったため、四国遍路道中図としては発行・販売時期は長くはなかったのではないかと推察されます。

写真③ 昭和16年発行の四国遍路道中図(イナリヤ総本店版、個人蔵)

 一方、駸々堂が発行したビジュアルで情報量の豊富な四国遍路道中図は定番の案内図として人気を博し、昭和時代の代表的な四国遍路絵図となり、さらにそれをもとに改訂された四国内で発行された四国遍路道中図へと発展したものと考えられます。  

 ところで「四国霊場礼讃地図」については、オリジナルの四国遍路地図なのか、あるいは既存の四国遍路絵図を参考にして作成されたものか判明していませんが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四國遍路たより』 所収の「四國八十八箇所霊場行程図」、同10年の日本旅行協会「ツーリスト案内叢書 第二輯 四國案内」所収の「四國遊覧略図」(写真④)などに、札所番号を簡単に表記するきわめてシンプルな四国遍路地図が案内記や案内パンフレットなどに掲載されており、そうした遍路地図との共通性を見出すことができます。

写真④ 昭和10年発行の日本旅行協会「ツーリスト案内叢書 第二輯 四國案内」所収の「四國遊覧略図」(当館蔵)

 今回は「四国霊場礼讃地図」を掲載するイナリヤ本店版四国遍路道中図をもとに、四国遍路道中図における位置づけと発展過程について推察してみました。今後の新資料の発掘に大いに期待したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊷―四国4県のイメージカラー―

2024年8月9日

 四国遍路の舞台となる四国は、阿波国(徳島県)、土佐国(高知県)、伊予国(愛媛県)、讃岐国(香川県)からなります。

 昭和時代を中心に作成された四国遍路道中図は、縮尺や方位が正確な厳密な地図ではありませんが、四国八十八箇所霊場とその巡拝ルートなどが一目瞭然となるように、四国の形をデフォルメして、八十八箇所と巡拝ルートがまるで双六のように記載され、四国4県は色分けされ、全体的にカラフルな案内地図となっています(写真①)。

写真① 四国遍路道中図(江口商店版、発行年不明)

 今回注目したいのは、様々な種類がある四国遍路道中図における四国4県の配色です。

 みなさんの四国各県のイメージカラーは何色でしょうか?

 例えば、2021年10~12月に四国4県及びJRグループで開催した四国観光イベント「デスティネーションキャンペーン」のロゴマークの色は、ブルー(徳島県:藍)、グリーン(香川県:オリーブ)、 オレンジ(愛媛県:みかん)、レッド(高知県:南国の情熱)と、各県の観光資源などをもとにしたイメージカラーが採用されています。

 実際に主な四国遍路道中図を発行順に確認しながら、四国4県の配色を見てみましょう。なお、本ブログの写真図版は撮影上、実際の資料の色と少し異なり、色名の表記は主観に基づいていますので、ご了承ください。

 【大正時代】

 ・大正6年(1917)の駸々堂版(大阪心斎橋北詰)では、県別の配色の違いはなく、四国全土が同一色(薄いレッド)となっています(当館蔵、写真②)。

写真② 大正6年発行の四国国遍路道中図(駸々堂版)

 【昭和時代・戦前】

 ・昭和4年(1929)の浅野本店版(徳島県阿波郡八幡町切幡)の各県の配色は、阿波(オレンジ)、土佐(レッド)、伊予(イエロー)、讃岐(レッド)で、土佐と讃岐が同色となっています(個人蔵、写真③)。昭和5年(1930)の光栄堂版(四国第十番切幡寺麓辻二丁登ル)、昭和10年(1935)の渡部商店版(徳島市佐古町九丁目)も同じです。

写真③ 昭和4年発行の四国国遍路道中図(浅野本店版)

 ・昭和12年(1937)の駸々堂版では、四国全土が同一色(黄緑)に変更されています。

 ・昭和9年(1934)の金山商会版(四国第十番切幡寺麓辻角)では、阿波(オレンジ)、土佐(レッド)、伊予(イエロー)、讃岐(パープル)という四国4県の配色が採用されています(当館蔵、写真④)。昭和13年(1938)の渡部高太郎版(愛媛県周桑郡徳田村)も同じです。

写真④ 昭和9年発行の四国国遍路道中図(金山商会版)

 ・昭和15年(1940)の小林商店版(徳島県坂東町)では、阿波(オレンジ)、土佐(レッド)、伊予(イエロー)、讃岐(グリーン)となり、讃岐の色がパープルからグリーンに変わっています(個人蔵、写真⑤)。同年発行の金山商会版(四国第十番切幡寺麓四辻)も同じです。

写真⑤ 昭和15年発行の四国国遍路道中図(小林商店版)

 ・昭和16年(1941)のイナリヤ総本店版(四国第十番切幡寺石門内)では、阿波(オレンジ)、土佐(レッド)、伊予(イエロー)、讃岐(パープル)で、四国遍路道中図の種類によって、讃岐の配色がパープルとグリーンの2パターン確認できます。

 【昭和時代・戦後】

 ・発行年は不明ですが戦後の藤井商店版(徳島県坂東駅前)では、阿波(オレンジ)、土佐(レッド)、伊予(イエロー)、讃岐(グリーン)が四国4県の色になっています(個人蔵、写真⑥)。

写真⑥ 戦後発行の四国国遍路道中図(藤井商店版)

 こうして見てくると、大正時代に発行された四国遍路道中図の祖型と考えられる大阪の駸々堂版の段階では各県別に色分けされてなく、四国全体が同色(薄赤。戦前は黄緑)であったのに対して、四国内で発行された四国遍路道中図は県別に色分けされています。四国系四国遍路道中図の特徴の一つといえます。

 その背景には、単に地図上の県別に色付けして視覚的にわかりやすくするための編集上の工夫というだけでなく、四国は一つの島であり各県固有の歴史や文化を有するという考えにもとづき、四国遍路道中図の四国4県の配色が定められたものと推察されます。

 個人的には、伊予は愛媛県の特産品のみかんからオレンジ色をイメージしますが、四国遍路道中図では戦前・戦後を通じて黄色に定着しています。オレンジもイエローも柑橘系のイメージ色ですが、オレンジは阿波のカラーとなっています。また、土佐のレッドは前述したデスティネーションキャンペーンのロゴマークと同色系で、高知のイメージカラーが現代と共通しているも興味深い点です。

 現代の四国4県のイメージカラーとは異なる昭和時代の配色を四国遍路道中図から確認しました。四国4県の配色は発行者の種類の違いによる差異や、おおよそ年代順に色が変わっていく流れが見て取れます。

 四国内で発行されたカラフルな色彩をもつ四国遍路道中図は、道中案内図としての実用性のみならず、見て楽しめる魅力があり、四国遍路の土産品としても人気があったものと推察されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊵―道中の宝―

2024年7月26日

 本ブログ11で愛媛県西条の女性遍路が実際に用いた四国遍路道中図(昭和9年発行、金山商会版)を紹介しましたが、今回は遍路の所持品として、四国遍路地図と案内記の両方が残っている貴重な事例を紹介します。

 それらは昭和(戦前)に愛媛県松山市の夫婦遍路が6歳の小児を連れて、家族で四国霊場巡拝を行った際に用いたもので、昭和12年(1937)に発行された「四国遍路道中図」(光栄堂版、当館蔵、写真①)と、昭和10年(1935)に大阪の此村欽英堂が発行した四国遍路案内記の三好廣太著『四国遍路同行二人』(当館蔵、写真②)です。

写真① 昭和12年(1937) 「四国遍路道中図」(光栄堂版、当館蔵)
写真② 昭和10年(1935) 三好廣太著『四国遍路同行二人』(此村欽英堂発行、当館蔵)

 四国遍路道中図は広げた状態が縦39㎝×横53.8㎝、折り畳んだ状態が縦19.6㎝×横10.7㎝になります。地図面には、四国八十八箇所の札所名と順路、各札所の本尊御影、番外札所や当時開通していた鉄道の路線、駅名などの情報が盛り込まれています。予讃線は高松~松山、長浜~大洲の区間が開通しています。右下部の刊記に「昭和十二年九月上旬印刷 昭和十二年九月下旬発行 徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 光栄堂 須見栄五郎」とあります。

 裏面には、旅の心得、郵便為替利用のすすめ、八十八箇所の御詠歌などが記載されています。折り畳んだ際に表紙となる部分には「四国第十番切幡寺麓辻一丁登ル 製本店㊉光栄堂」「㊉シルシマチガワヌヨウ 土産物一切他店ノ半額ニ売リマス」と発行者名と宣伝広告が記載されています。

 本図は四国霊場第10番札所の切幡寺の参道にある光栄堂が昭和12年(1937)に発行した四国遍路道中図で、その宣伝広告から他店との商売競争の激化が見て取れます。

 一方、三好廣太著『四国遍路同行二人』は戦前の四国遍路のガイドブックとして版を重ねました。本書は縦11㎝×横15㎝の横型冊子で、持ち歩き易く、実用を前提に作成されています。内容は最初に四国巡拝のすすめ、旅立のしたく、札はさみ・納ふだ、笠と杖、旅行中の心得、札所での心得、祈念文、霊場札始めの事などについて解説し、次に八十八箇所霊場の札所が第一番霊山寺から順に紹介されています。本書の特色は里程が実測に基づいた距離が記され、宿屋は安心な組合加盟店が紹介されている点にあります。

 裏表紙には「この書は四国各霊場幷組合宿屋及び遍路装束、神仏軸物等を販売して居る内や全国の書籍店に販売して居りますから、何れにても、御求めを願ひます」と記されています。著者の三好廣太は徳島県麻植郡森山村(吉野川市鴨島町)出身で、他に『四国霊場案内記』(明治40年刊)なども手掛け、出版物の刊行などを通じて近代の四国遍路の普及に貢献しました。

 四国霊場の巡拝で使用された「四国遍路道中図」と『四国遍路同行二人』は、いずれも随所に破れやシミなどあり、全体的に傷んでいますが、こうした使用痕が四国遍路の旅のリアリティや、道中の案内役として遍路を支え続けてきたことを物語っています。

 昭和6年(1931)刊行の安田寛明『四國遍路のすすめ』には、四国遍路の必要品として55品目が列記されていますが、その中に「御四国地図」と「御四国案内記」と題して、以下のように紹介されています。

 「地図は御四国巡拝中、遍路にとりては道中の宝なり、僅か一枚六七銭である、持参して時折開き見て我が心に慰安を求めなさるよう。案内記、これ又地図と同様なり(後略)」

 それによると、四国地図は値段も安いことから、買い求めやすく、それを時々開いて見ることで、長い道中の心の慰めになるという効能が説かれています。四国巡礼を行う遍路にとって、現在地の確認とこれから進むルートや目的地などを視覚的に把握し、道中の過去をふりかえり、現在そして未来への道しるべとして頼もしいロードマップであったことが推察されます。

 四国遍路地図と案内記を携え、双方を活用することでより正確で詳細な情報を得ることができ、それらはまさしく四国遍路の旅の大切なツール「道中の宝」であったことがわかります。

 ちなみに、安田寛明は愛媛県松山市にある第50番札所繁多寺において、昭和5(1929)年に一万人に接待を行ったことを記念して「一万人接待施行記念碑」を設置しました。当館の常設展示室(四国遍路)にはその記念碑(レプリカ)を展示(写真③)していますので、ご覧ください。

写真③ 繁多寺の「一万人接待施行記念碑」(複製、当館蔵) 

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊴―四国遍路の心得書―

2024年7月19日

 前回、四国遍路道中図には、大阪の大手出版社の駸々堂が発行した「大阪系四国遍路道中図」と、四国内の巡拝用品店などで発行された「四国系四国遍路道中図」の系統が存在することを紹介しました。その中で徳島県内で発行された四国系四国遍路道中図は、地図裏面に「旅の心得順拜栞」(写真①)が掲載されているのが大きな特徴です。その理由とは、主に歩き遍路を対象に作成されているため、四国遍路の基本的な心構えをとして「旅の心得順拜栞」を記載したものと推察されます。

写真① 四国系四国遍路道中図と「旅の心得順拜栞」(江口商店版、当館蔵)

 今回は四国遍路道中図に「旅の心得順拜栞」が掲載された背景について考えてみたいと思います。

 その際に大いに注目される同時代の史料として、一枚物の四国遍路の心得書があります。

 漫画家の宮尾しげを(1902~1982年)が昭和18年(1943)に刊行した遍路記『画と文 四国遍路』に以下の記述があります。

 「宿を出るとき、一枚の印刷した紙を呉れた。歩きながら読んでみると御遍路心得書といふので、服装、宿、調度、納経等の注意を記したものである」

 関西・東日本方面から徳島の撫養港に上陸し、岡崎(撫養)に宿泊した遍路に対して、四国遍路の心得書を配っていたことがわかります。

 宮尾が入手したこの一枚刷りの四国遍路の心得書とはどのようなものであったか? 

 撫養港からほど近い四国八十八箇所霊場第一番札所・霊山寺の住職・芳村智全(1897~1968年)は、これから四国遍路を開始する遍路のために一枚刷りの「四国霊場巡拜についての心得」(写真②、個人蔵)を作成し、遍路に配布していたことが、実際に残っている遍路の所持品から確認できます。

写真② 芳村智全「四国霊場巡拜についての心得」(個人蔵)

 その冒頭は「◎お宿に着いてからゆっくりお読みなさい」から始まり、遍路の心構え、荷物・装備、道中、札所、宿などに関する注意書きが紙面にびっしりと記されています。作成時期は明記されていませんが、同じ遍路の所持品から、昭和時代(戦前)に作成されたものと考えられます。

 一枚物の「四国霊場巡拜についての心得」は札始めとなる第一番霊山寺が発行した四国遍路の心得書であり、札所寺院から見た近代の四国遍路の状況がわかる貴重な史料として注目されます。宮尾が撫養の宿で入手した「御遍路心得書」も芳村智全が作成したものである可能性があります。詳細については、今村賢司「『四国霊場巡拜についての心得』から見た近代の四国遍路の様相」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』第27号、2022)を参照ください。

 四国遍路道中図の「旅の心得順拜栞」に記す「◎旅の心得、◎郵便為替音信」の内容は、基本的に芳村智全の「四国霊場巡拜についての心得」の内容と共通しています。こうしたことから、徳島県内で発行された四国遍路道中図に「旅の心得順拜栞」が掲載されている背景には、第一番札所霊山寺の芳村智全による四国遍路の心得書との関係性や影響性があったのではないかと推察されます。

 現段階では「旅の心得順拜栞」の掲載過程、作者などを特定できる具体的な史料は発見できていませんが、徳島系四国遍路道中図(浅野本店版、江口商店版、藤井商店版、小林商店版、光栄堂版、イナリヤ総本店版、金山商会版、渡部商店版など)の発行に関係する人物、特に昭和初期の四国遍路道中図の刊記に印刷兼発行人として名前をあげている浅野伊勢吉(昭和4年、浅野本店版)、須見榮五郎(昭和5年、光栄堂版)らの活動と、霊山寺の芳村智全との関係が注目されます。今後の新史料の発掘が期待されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊳―「四国遍路道中図」の系統―

2024年7月12日

 昭和時代の四国遍路道中図の祖型と考えられる大阪の駸々堂が大正時代に発行した四国遍路道中図(大阪系四国遍路道中図)と、四国内で発行された四国遍路道中図(四国系四国遍路道中図)との内容の細かい違いはいろいろありますが、大きな相違点は地図裏面に四国遍路の「旅の心得順拜栞」の記載の有無といえます(写真①)。旅の心得順拜栞とは、「◎はしがき、◎旅の心得、◎郵便為替音信」の三項目からなります(写真②)。以下、原文を記します。

写真① 大阪系四国遍路道中図と四国系四国遍路道中図
写真② 四国系四国遍路道中図に掲載する「旅の心得順拜栞」

  ◎はしがき

 旅して其道案内に暗き程心づかいなるはなし一片精密地図を所持せば路の順序険易難所おも胸に□(※字不明。耳へんに尭?)るいものゆへ日暮れて猶宿るべき所を得で迷ひ歩く事もなくよろずにつけて心たしかにして便の多かるべしとて彼くは地図を発行して尚も旅の心得順拜栞なぞ書加へて順拜者の便利となしぬ

  ◎旅の心得

 〇初めて旅立順拜の道は昔日は俊坂や多くありましたが汽車馬車人力車などの乗りものもありますが霊場順拜は徒歩で廻るの習せゆえ旅立の日は別て静に踏立二三日は所々に休み同行ある時は其中の弱き人の足に合ふ様にすぼし

 〇旅舎に到着すれば第一に其地の方位宿の家造便所所表の出入口等見覚へをくこと近火盗難喧嘩等ある時の心得なり

 〇早く立ち早く泊るは災難無きなり又時間を急げばとて川越山ざる船の乗り降りは謹んで

  ◎郵便為替音信

 〇旅行中成べく音信を多くし又故郷の安否郵便為替の通達を知るは心の力となり故に予め郵便局の所在地日数を謀り目的の郵便局留置きに送達せば便利なり

 冒頭のはしがきには、四国遍路道中図の発行について、道案内で正確な地図を所持すれば、道順や難所を把握できるので迷い歩くこともなく、さらに巡拝者が便利となるように旅の心得などを書き加えたことが記されています。旅の心得には「霊場順拜は徒歩で廻るの習せゆえ」とあるように、歩き遍路を主対象に作成されていることから、四国遍路の舞台となる現地四国で発行する四国系四国遍路道中図には、基本中の基本となるような四国遍路の心得として「旅の心得順拜栞」が掲載されたものと考えられます。なお、旅の心得、郵便為替音信の詳細については、本ブログの5「郵便局」、15「旅の心得」を参照ください。

 一方、四国系四国遍路道中図の中でも愛媛県内で昭和13年(1938)に発行された渡部高太郎版の裏面情報は、発行者の心臓薬本舗の宣伝広告が中心のため、「旅の心得順拜栞」がカットされている事例も確認できます(本ブログ28「心臓薬本舗渡部高太郎版の広告性」参照)。

 現在、筆者が確認できている四国系四国遍路道中図の中で「旅の心得順拜栞」が掲載されているのは、徳島県内各地で発行された「四国遍路道中図」(徳島系四国遍路道中図)になります。それらは、撫養港上陸後に第1番札所霊山寺から順打ちで四国遍路を行った場合、発行エリアごとにまとめると、以下のような関係となります。

 ・撫養港(徳島県鳴門市) 江口商店版

 ・第1番霊山寺と坂東駅周辺(同県鳴門市) 浅野商店、浅野支店、藤井商店版、小林商店版  

 ・第10番切幡寺周辺(同県阿波市) 浅野本店版、光栄堂版、イナリヤ総本店、金山商会 

 ・徳島市内と第17番妙照寺(井戸寺)周辺 渡部商店版

 関西方面・東日本からの四国の主要な上陸港であった撫養港、四国遍路の札初めとなる第1番霊山寺と最寄りの坂東駅周辺、巡拝用品店が参道に多く、結願の札所第88番大窪寺からの遍路道と合流する第10番切幡寺周辺、徳島市内から四国霊場にアクセスし易い第17番妙照寺(井戸寺)周辺などが、「旅の心得順拜栞」を掲載する四国遍路道中図の発行エリアとなっていることがわかります。

 これらのことから、駸々堂版の大阪系四国遍路道中図とは異なる四国系四国遍路道中図は、おそらく上記の徳島の発行者などが中心となって作成されたものと推察されます。それでは心得書き掲載の必要性を説き、「旅の心得順拜栞」を作成したのは誰なのか? これらの点については改めて別の機会に考えてみたいと思います。

出前授業(平和学習)で西予市立三瓶小学校訪問!

2024年7月10日

 7月4日(木)、西予市立三瓶小学校の6年生30名に平和学習の出前授業を行いました。三瓶小学校はどんな児童かな…と思いながら教室に入ると、代表の児童から学習の目標に触れた挨拶を受けました。しっかりしているクラスだなと感心して、いよいよ授業のスタートです。

 出前授業の特徴は博物館の実物資料を持参し、実物資料を通して歴史を感じてもらうことです。今回は事前の先生との打ち合わせを踏まえ、①日中戦争や太平洋戦争の始まりから終戦に至る過程を概観し、➁「ヘイタイ双六」、「戦艦文鎮」、「兵隊人形」などから、子どもの世界にも戦時色が表れるようになったこと、③食糧不足や衣料不足に対応して、配給制度や切符制度が始まったことを説明しました。一日分の米を給食と比較したり、ズボンやスカートの購入に必要な点数を示したり、イメージしやすい説明を心掛けました。

 次に、④千人針の一針一針に込められた思いや戦争が男性だけの問題ではないこと、➄松山、今治、宇和島は空襲をうけ大きな被害があったこと、⑥模擬原爆の「パンプキン」が県内にも落とされており、愛媛県と原爆は無関係でないことを伝えました。「赤紙」について知っていたり、焼夷弾の殻から80年前の焦げ臭さを感じ取る児童もいたり、事前学習と感性の豊かさに驚きました。

 続いて、鉄兜や防空頭巾、もんぺ、ゲートルの体験を行いました。児童は非常に積極的で、「重い」、「暑い」、「きつい」など、様々な感想を述べてくれました。最後に、児童の代表がこれまた立派なまとめの挨拶とお礼を述べてくれました。修学旅行では広島に行くとのこと。今回の授業が平和の尊さを考える機会となれば幸いです。博物館では様々な出前授業や来館プログラムを用意しています。ぜひお気軽にお問い合わせください。

千人針に注目する児童
県内の空襲に関心をもつ児童
県内の空襲に関心をもつ児童
鉄兜と防空頭巾をかぶった児童

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊲―四国遍路道中図の祖型―

2024年7月5日

 大正時代から昭和時代にかけて発行された「四国遍路道中図」とほぼ同時代に作成されたもう一つの四国遍路地図があります。それは、大阪の和楽路屋(わらじや)が発行した「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」です。

 和楽路屋は明治5年(1872)年、日下伊兵衛によって創業され、地図を専門に出版してきた老舗で、社名の由来は実地調査を行った際に用いられた草鞋(わらじ)に由来し、歩測に基づいた同社の綿密な地図は人気を博しました。

 今回は和楽路屋発行「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」をもとに、「四国遍路道中図」との違いや共通点などについて考えてみたいと思います。

 実際に、大正15年(1926)発行「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図(以下、巡礼地図)」(写真①、個人蔵)と、昭和時代の「四国遍路道中図」の祖型と考えられる、大正6年(1917)発行の駸々堂版「四国遍路道中図(以下、道中図)」(写真②、当館蔵)の内容を比較し、気になった点を箇条書きにまとめました。

写真① 大正15年発行「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」(個人蔵)
写真② 大正6年発行「四国遍路道中図(駸々堂版)」(当館蔵)

 【体裁】

 ・折り畳まれた巡礼地図の表紙部分のサイズは縦16.5 9×横8.0㎝、地図を広げると、全体の大きさは縦32.4×横46.8㎝を測ります。道中図の駸々堂版(表紙縦19.7×横11.0㎝、全体39.4×54.5㎝)と比較して巡礼地図は小さく、コンパクトサイズのため持ち運びに便利です。ただし、高齢者には文字が小さくて少し見づらいように感じます。

 ・巡礼地図の表紙部分には「四國遍路 巡禮地図 八十八所 大阪わらぢ屋発行」と記されています。興味深いのは、表紙のデザインに、江戸時代に西国三十三所巡礼などで着用された笈摺(おいづる)、「同行」と記された笠、木製納札などのイラストが描かれています。大正時代に発行された四国遍路地図ですが、西国巡礼のイメージが投影された表紙デザインとなっています。

 【地図面】

 ・巡礼地図の左欄外には刊記があり、著作印刷兼発行者として、「大阪市西区新町通三丁目百五十九番屋敷 日下伊兵衛 発売所 大阪市西区新町通三丁目 和楽路屋」と記されています。道中図には凡例、方位の記載がありますが、巡礼地図にはどちらもありません。一見するとユーザーにとって不親切な内容ともいえますが、地図上の記載は基本的に文字表記のため、凡例に示す記号表記の必要性がなく、また、北を上に作成されていますが、正確な地図でなくデフォルメされた絵図的性格のため、方位の記載も不要としたものと推察されます。

 ・四国の形は両図ともデフォルメされていますが、巡礼地図では、例えば愛媛県の佐田岬半島や由良半島など全体が描かれてなく、室戸岬や足摺岬なども突き出た岬のイメージが強調されていません。道中図に比べて巡禮地図の方がデフォルメを徹底し、四国の形が丸みのある姿に捉えられています。

 ・四国四県は阿波、土佐、伊予、讃岐の旧国名記載、一番霊山寺を「打始め」、八十八番大窪寺を「打納め」とし、札所と巡拝ルートの基本的な表記は両図ともに共通していますが、巡礼地図は山間部が彩色され、都市や主要な村などもイラスト付きで絵画的な色彩が加味されています。

 ・巡礼地図では当時就航していた四国各地の航路、主要な河川名、島名、街道、村間の距離が道中図よりも詳しく記載されています。

 【裏面】

 ・四国八十八箇所霊場の御詠歌と札所間の距離を記載しているのは両図に共通しています。

 ・巡礼地図には「夫四國遍路一度順拜の輩は病苦またはよろづの難を除き未来成佛うたがひなし遍路に道をおしへ一夜の宿をかし一粒一銭を施すものは寿命長久にして所願成就すべきものなり」と記され、四国遍路の功徳と遍路への接待が奨励されています。

 ・巡礼地図の「和楽路屋発行地図目録」によると、本図の価格は十銭で、同社が発行した各地の市街全図と同価格であり、標準的な内容の地図であったことがわかります。

 以上、大正15年に和楽路屋が発行した「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」と大正6年に駸々堂が発行し、昭和時代の「四国遍路道中図」の祖型と考えられる「四国遍路道中図」を比べてみました。

 両図の発行部数、初版と改訂版などの発行年、販売期間などの詳細はわかりませんが、巡礼地図は昭和5年(1930)(当館蔵、写真③)、駸々堂版道中図は昭和12年にも発行されています。それらは鉄道路線などが最新の情報に更新されています。

写真③ 昭和5年発行「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」(当館蔵)

 和楽路屋の「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」と駸々堂の「四国遍路道中図」の両図は大正時代から昭和時代にかけて、大阪の大手出版社が手掛けた四国遍路の案内地図として流布し、実際に多くの遍路の道中の手引きとなり、近代の四国遍路の普及に貢献したことは注目されます。

 昭和時代に四国各地の巡拝用品店などで発行された「四国遍路道中図」は、こうした和楽路屋や駸々堂などが手掛けた大正時代の四国遍路地図の影響を受けているものと考えられます。そうした意味において、「四国遍路道中図」とほぼ同時期に発行されている「四国遍路八十八ヶ所巡禮地図」は、「四国遍路道中図」のライバル的な存在であり、昭和時代の四国遍路道中図の祖型の一つとしても位置付けられます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉟―讃岐案内―

2024年6月21日

 讃岐国(香川県)は四国八十八箇所霊場を開創したとされる弘法大師空海の生誕の地で、八十八箇所霊場のうち23箇所の札所(徳島県三好市の第68番雲辺寺を含む)があり、その中には第75番善通寺(善通寺市)などの空海ゆかりの重要な寺院や結願の札所となる第88番大窪寺(さぬき市)があります。また、「讃岐のこんぴらさん」として海上交通の守り神として信仰されている金刀比羅宮、屋島・檀ノ浦の源平古戦場跡、栗林公園など、全国的に有名な神社仏閣や名所旧跡が多くあります。

 そうした歴史的な特色をもつ讃岐は四国遍路道中図でどのように紹介されているのか見てみましょう。

 昭和5年(1930)の光栄堂版、昭和6年(1931)の駸々堂版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版など、様々な種類がある四国遍路道中図ですが(本ブログ10「四国遍路道中図の種類」参照)、これらに共通して言えることは、四国の形は全体的にデフォルメされ、讃岐は四国四県の中でも面積が最も小さいことから、阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)と比べても小さく描かれています。そのため、視覚的には讃岐の23箇所の札所がところ狭ましと記載されているように感じます。上陸港は山陽・山陰からは丸亀港と多度津港、岡山地方からは高松港の3つの港が紹介されています。

 四国遍路道中図に見る讃岐の案内で意外な点は、讃岐には弘法大師空海ゆかりの番外霊場・伝説地や名所旧跡などが数多くありますが、それらはあまり紹介されていないことです(本ブログ4「番外霊場」参照)。こうした理由は編集方針や発行・広告主の意向によるものと推察されます。現時点では伊予を主体に作成された渡部高太郎版のように、讃岐を主体とした四国遍路道中図を確認できていません。  

 ちなみに四国遍路道中図と同時代資料となる昭和11年(1936)に大阪商船が発行したパンフレット「讃岐あんない」には、讃岐の遊覧地として高松市、栗林公園、鬼ケ島、屋島、五剣山、坂出町、白峯陵、多度津、善通寺、琴平町、金刀比羅宮、観音寺町が紹介されています。四国遍路道中図に記載する讃岐案内とあまり変わらない内容となっています。パンフレットの表紙には、四国霊場を巡拝する遍路の後ろ姿のイラストが掲載されています(写真①、個人蔵)、手に金剛杖を持ち、菅笠をかぶり、荷台を背負い、腰部に尻敷(シリスケ)、足に脚絆を付けています。当時の遍路装束のイメージが見て取れます。パンフレットからは、大阪・神戸から讃岐(高松・坂出・多度津)上陸による四国遍路に大阪商船を利用することを推奨していることがうかがえます。

写真① 大阪商船のパンフレット「讃岐あんない」(昭和11年、個人蔵)

 四国遍路道中図の讃岐の案内情報で特に注目したいのは、結願の札所大窪寺の案内と琴平(金刀比羅宮)への鉄道路線の変遷です。

 昭和5年の光栄堂版(個人蔵、写真②)では、大窪寺には「結願」「打ち止め」などの記載はありませんが、阿波の第3番金泉寺から大窪寺へと逆打ちするコースとなる「大阪越」の文字が記載されています。多度津港から鉄道で善通寺や金刀比羅宮を参拝するための讃岐線(後の土讃線)が紹介されています。

写真② 四国遍路道中図(光栄堂版、昭和5年)の讃岐部分

 翌6年の駸々堂版(個人蔵、写真③)では、大窪寺は大きな文字で「打留(うちどめ)」と記され、「みほとけのおたすけで達者で巡礼を終りましためでたしめでたし」と和歌が添えられています。さらに、大阪越により金泉寺と大窪寺間が点線で結ばれ、「逆打 逆打ハ第三番ヨリ大阪越ヲナシ讃岐ニ入リ八十八ノ大窪寺ヘ行ク、里程九里四丁アリ」と説明が追加されています。また、琴平駅へのアクセスは予讃線の他に、丸亀を起点とした琴平参宮電鉄(昭和38年廃止)、坂出を起点とした琴平急行電鉄(戦時中休止、昭和23年に琴平参宮電鉄に吸収合併)、高松を起点とした琴平電鉄(後の高松琴平電気鉄道)の路線が地図上に記載され、善通寺や金毘羅参詣を背景とした鉄道網の発展や4社による路線競争の激化が見て取れます。

写真③ 四国遍路道中図(駸々堂版、昭和6年)の讃岐部分

 昭和13年の渡部高太郎版(当館蔵、写真④)では、大窪寺で「打留」と大阪越の「逆打」の案内に加えて、「八十八番ヨリ十番を経テ一番ヘ十リ半」という記載が加わっています。第88番大窪寺から第1番霊山寺に巡拝して円環のように四国遍路を行う遍路の存在が読み取れます。なお、善通寺や琴平への鉄道アクセスは省線土讃線のみ記載されています。

写真④ 四国遍路道中図(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)の讃岐部分

 こうしてみてみると、四国遍路道中図における讃岐案内は、八十八箇所霊場の札所と結願の大窪寺から阿波の霊場を結ぶ遍路道、上陸港・港町を起点とした航路や鉄道の路線情報の紹介が中心となっていることがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉞―四国遍路と鳴門の渦潮―

2024年6月14日

 前回のブログ33「撫養(むや)港と遍路支度」で紹介したように、大正~昭和(戦前)までの四国遍路道中図では、徳島県鳴門市の撫養港(岡崎)上陸後、遍路に対して鳴門の渦潮見物が推奨されています。

 鳴門の渦潮は、鳴門と淡路島の間にある鳴門海峡に位置し、そこは瀬戸内海と紀伊水道という2つの海域の間にあるため、それぞれ潮の干満のタイミングが異なり、激しい潮流が起きて渦潮が発生する自然現象のことをいいます。徳島県観光協会のホームページ「渦の道」によると、渦潮が見られる確率が高いのは1日4回、干潮時と満潮時の前後1~2時間。春と秋の満月あるいは新月の大潮時には干満差がさらに激しくなり、直径20mもの世界最大級の渦潮が現れることもあるそうです。

 今回は世にも珍しい鳴門の渦潮と四国遍路について紹介します。

 庶民の旅が盛んに行われるようになった江戸時代、鳴門の渦潮は阿波国や四国を代表する一大名所となり、文化11年(1814)の『阿波名所図会』(当館蔵、写真①)、広重の浮世絵「阿波鳴門之風景」などにも紹介され、全国各地からその奇観を一目見ようと、文人墨客や旅人が集まりました。

写真① 「鳴門真景」(『阿波名所図会』文化11年、当館蔵)

 大和国田原本(奈良県磯城郡田原本町)の仏絵師西丈もその一人です。彼は金毘羅参詣や四国遍路などをしながら「中国四国名所旧跡図」(江戸時代後期、当館蔵)という道中で見聞した景観を描いた画集を作成します。その中の「阿波の鳴門図」(写真②)には大きな2つの渦潮を見物する旅人が描かれ、鳴門海峡の雄大な自然の姿が大胆な筆致で表現されています。実際に遍路が見て描いた鳴門の渦潮の景観を示す絵画史料としてとても貴重です。

写真②「阿波の鳴門図」(「中国四国名所旧跡図」、江戸時代後期、当館蔵)

 次に、鳴門の渦潮について近代の四国遍路ガイドブックの記載を確認します。

 明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』によると、「阿波の撫養岡崎に上陸すれば、有名なる鳴戸を見物して、一番より札を始むるが順です、先づ撫養に上陸するとせば鳴戸の潮時を聞合せこれを見物し、ここより一番までは平かな県道筋を三里(馬車あり拾六銭です)です(後略)」と記されています。また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「撫養から一路県道三里で一番霊山寺へ達しますが、天下の奇観鳴門の観潮はほど近く、潮時を聞合せて物凄い狂奔の渦巻を御覧になることを御勧めいたします」とあります。

 このように四国遍路道中図と同様に近代のガイドブックにおいても、撫養上陸と鳴門の渦潮見物はセットで紹介され、関西方面や東日本から撫養港に上陸した遍路の定番コースとなっていることがわかります。その意味において、撫養上陸による四国遍路は、一番札所の霊山寺巡拝前、最初に鳴門の渦潮を見学する遍路も多かったと推察され、四国遍路の観光化を考える上で注目されます。

 ところで、江戸時代の四国遍路絵図を見ると、大坂で刊行された細田周英の「四国徧禮(へんろ)絵図」(当館蔵、写真③)は、宝暦4年(1754)の刊記があり、現存最古で最も詳細な四国遍路絵図として知られています。四国を本州から見た構図でとらえた絵図中に鳴門の渦潮が描かれています。その後各地で作成された1枚刷りで内容が簡略化された四国遍路絵図においても、鳴門の渦潮は四国のランドマークとして描かれ、四国遍路絵図の特徴的な表現であったことがわかります。

写真③ 現存最古の四国遍路絵図(細田周英「四国徧禮絵図」宝暦4年、当館蔵)に描かれた鳴門の渦潮

 一方、近代に発行された四国遍路道中図(写真④、当館蔵)には、鳴門の渦潮の案内表記はありますが絵画的表現はありません。四国遍路道中図は四国の形がデフォルメされ、江戸時代の四国遍路絵図の伝統を受け継ぎながらも、方位記号が採用されているなど、絵図から地図へと転換する過渡期に位置するものと考えられます。

写真④ 四国遍路道中図(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)に記載された鳴門の渦潮