‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

特別展「忍たま乱太郎 忍者の世界」展示紹介(6)

7月 29日 火曜日

歴博で開催中の特別展「忍たま乱太郎 忍者の世界―夏休みは歴博へ急げ!の段―」の内容紹介もいよいよ6回目。今回は「伊予と忍者の段」の紹介です。

忍者といえば伊賀や甲賀がすぐに思い浮かびますが、伊予には忍びはいなかったのでしょうか?
このことに関する史料を展示しています。

一つは「清良記」という軍記物です。これは南伊予の大森城(現宇和島市三間町)を本拠とした土居清良(どいきよよし)という武将の一代記ですが、この中で丹後(たんご)・丹波(たんば)という二人の忍び頭が清良に仕えていたとの記述があります。

「清良記」によれば、丹後・丹波は普段は博労(牛馬の売買)やさまざまな商いをしながら、近隣地域や他国の情報を収集し、清良に報告していたようで、戦時には敵陣に忍び込み、戦力を偵察して報告したりしています。
清良に忍びの技を語る場面もあり、その中で、丹後は、秋に屋敷に侵入する技として、あらかじめ鳴く虫を飼い慣らしておき、いざ忍び込む際にその虫を放して、虫の鳴く声で侵入する際の気配を消す「虫合わせ」という術があると記されています。
清良記巻九
「清良記」の別の場面では、丹後・丹波の仲介で土居清良のもとに近江国甲賀の鉄砲鍛冶を呼び寄せ、鉄砲の生産を始めたとの記述もあり、尼子さんがしばしば「乱太郎」の中で言及される「忍者と火器の結びつき」を示唆しており興味を惹かれます。

丹後・丹波の名は確実な史料には登場せず、彼らが実在した人物かどうかを確かめるすべはありませんが、在地勢力同士が戦闘行為に至る以前にさまざまな偵察や諜報活動を担う存在がいたこと、それぞれの在地領主の支配領域を超えて活動する博労や商人はさまざまな情報を入手し、それを必要に応じ領主たちに伝える存在であったことは、戦国期の伊予でも十分に有り得たことではないでしょうか。

もう一つは、幕府の隠密が四国の城郭を偵察した時の記録です。寛永4年(1627)8月から10月にかけて、幕府は公儀隠密を伊予はじめ四国に派遣し、外様大名の各居城と城下町を実地に調査させました。伊予では松山城・今治城・大津城(大洲城)・宇和島城が対象となりましたが、この時に隠密が作成した調査報告書と絵図の写しが残されています(いずれも伊予史談会蔵)。企画展示室内では宇和島城・大津城(大洲城)の絵図及び探索書の写しを展示しており、同時開催している「松山城下図屏風の世界」展の中で松山城の絵図の写しを展示しています。
幕府隠密大津城見取図
幕府の隠密は、遠望及び郭内への侵入による観察、事前に侵入させた情報提供者や城に出入りする職人からの聞き取りのほか、大津城では二の丸東側(この隠密は方位を90度誤認しており、実際は南側)は「足」にして300足=1町4反2間だったと記され、約52センチメートルの歩幅で二の丸の堀に沿って歩き、ひそかに長さを計測したことが分かります。

幕府の忍者が伊予で実際に使ったこの「歩測の術」は、エントランスでも体験できますので、ぜひお試し下さい!

中国四国名所旧跡図26 阿波ナル戸(鳴門)図

3月 30日 日曜日

鳴門市土佐泊浦の大毛山付近から、奇観として知られる大鳴門の渦潮を描いている。手前の島を西丈は「ハタカ嶋」と記しているが、これは裸島のことで、現在は大鳴門橋の橋脚が立っている。裸島の右上(南東)の島は「登ヒ嶋」と記されているが、これは飛島のこと。標高25mの小さな孤島で、ウバメガシなどの暖性植物やハマナデシコなどの海浜性植物が自生している。裸島の左上(北東)には、波間から岩が顔を出している「中瀬」と呼ばれる浅瀬が描かれている。そして、画面の上部に広がるのが淡路島である。

四国と淡路島との間にあり、大鳴門ともいわれた鳴門海峡は、海峡幅が1340メートルと狭く、手を伸ばすと届かんばかりである。その海峡の主水道は中瀬と裸島の間にあり、海底の断面がV字形になっており、最深部は約91メートルに及ぶ。一方で中瀬付近は浅くなっており、深さは約10メートルにも満たない。瀬戸内海と太平洋の狭間で、海底の複雑な地形も加わり、最大30メートルともいう大きな渦が生み出される。西丈も大鳴門に二つの大きな渦を描いている。

大鳴門は江戸時代から既に全国に知られた名勝として多くの見物客を集め、渦潮は歌川広重をはじめとする多くの画家の格好の題材となっていた。陸から鳴門の渦潮を見物するには、大毛山に眺望台があったほか、亀大明神(瓶浦神社)からも眺望が開けていた。また、裕福な遍路は船に乗って鳴門まで移動したようで、京都の商人升屋徳兵衛の文化6(1809)年の旅日記には引田浦(東かがわ市)で船をチャーターしたことが記されているほか、駿河大御神村の天野文左衞門の旅日記でも明神村(鳴門市瀬戸町明神)から船に乗り、船賃として83文支払っている。旅日記には「鳴門見物」とあるので、あるいは船から遠巻きに渦潮を観ることもあったのであろうか。

鳴門の渦潮を描いたものとしては、歌川広重の3枚続きの「阿波鳴門真景図」や「六十余州名所図絵」の名作の一つといわれる「阿波 鳴門の風波」が有名であるが、掲載したのはその初代に養子に入った二代目の歌川広重が描いた「諸国名所百景」の中の「阿波鳴門真景」。キレイにまとめあげているが、初代広重の迫力ある渦潮の姿から後退して、おとなしい表現になっている。

西丈の絵は横長の画面をうまく使って、二代目広重よりももっと上空から引いた形で渦潮を捉えている。それは諸国を歩いて地理への優れた感覚を身につけていた松浦武四郎が、天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」に描いた「鳴門眺望之景」にかなり近い。松浦の絵は研究材料として写実的に描いたものといえるだろう。西丈の絵も写実を重視したものだが、手前の小さな旅人二人と、大きな二つの渦潮の対比が効いている。その工夫により渦潮という自然の雄大さが引き立てられている。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図25 阿州五(碁)ノ浦柳掛

3月 25日 火曜日

西丈は「五ノ浦」と記しているが、正確には「碁浦」である。この碁浦という名前は、海浜で天然の黒色の碁石を産出したことに由来する。讃岐山脈の天ケ円(あまがつぶ)山の西北部に位置し、西丈の絵にあるように周囲を山に取り囲まれたなか、わずかばかりの平地が開けていた。讃岐との国境にある村で、阿波と讃岐との間の国境争論の結果、徳島藩により国境警備と検問の役割を果たす碁浦番所が設けられていた。番所だけがある、まさに国境の村であった。

なお、讃岐から阿波に入る遍路には、八十八番の大窪寺を打ち終えた後、そのまま長野(東かがわ市五名)、大影(阿波市市場町)と山の中を進み、阿波側の大坂口番所で切手が改められ、十番札所の切幡寺に赴くというルートを採る者も多かった。一番霊山寺から廻るには、引田から碁浦番所を経て阿波に入り、撫養を経て霊山寺に至るルートを採らなければならなかった。その他、鳴門の渦潮見物に足を伸ばす遍路も、この碁浦番所を抜けるルートを進んだ。西丈は碁浦番所を描いているので、このルートを進んだことになる。

天保4(1833)年に四国遍路の旅をした松浦武四郎も同じルートを辿ったようで、碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。断崖続きの地形に、海岸に打ち寄せる浪。そんな寂しい風景の中にぽつんとある関所。武四郎の文章を、西丈が絵として見事に表現してくれている。

碁浦番所では、名主や所定の役人が記した旅行許可書ともいえる往来手形、海を渡って四国に入った遍路については着船した港の担当役人が発行した船揚手形が調べられた。それらを所持している遍路には、番所役人から人数・住所・名前を記した入切手が渡され、その入切手は土佐への出口に当たる宍喰口番所に提出しなければならなかった。捕物道具や袖がらみなどを備えた厳めしい番所での改めは、江戸時代の遍路にとって緊張を強いられる時間であった。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図24 讃岐より阿波を見る図 引田浦

3月 24日 月曜日

讃岐の札所を打ち終えた西丈は、讃岐と阿波の国境に近い引田浦まで進み、その景色を描いている。引田も前回の志度と同様に古くから海運業が盛んな土地柄。幕末から明治初めにかけての「讃岐国名勝図会」には、「当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」と、その繁栄の様子を記している。西丈の絵を見ると、左下に少なめであるが、密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船を描いており、沖合を進む廻船と合わせて海運と結びついた引田浦の姿を端的に表現している。

しかし、西丈の主眼は引田浦そのものにはなく、そこから広がる眺望にあったのだろう。その眺望のすばらしさは、「讃岐国名勝図会」にも「海上の絶景一眸百里を観望なす能き湊なり」と触れられている。西丈は引田浦から南方向、つまりは阿波方面を描いている。目の前には青々とした播磨灘。その真ん中にぽっかりと浮かぶ島が毛無島と通念島で、大海原のなか、近景に小さな島があることがアクセントになっている。そして、遠景には淡路島、小鳴門がかすんで見え、これから歩く讃岐と阿波の国境番所のあった五ノ浦(碁の浦)までの海岸線はくっきりと見えている。細かく描き込んでいないのに、その土地の空気感を伝える西丈の技量が光る一枚。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図23 讃州志度浦図

3月 22日 土曜日

85番札所、八栗寺を後にした西丈は、86番の志度寺へと向かい、志度村に辿り着く。志度は中世以来の伝統をひく海運業が盛んな土地で、松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」には、家が千軒余りもあり、日々船の出入りが絶えることがなく、農業・商業も盛んと記している。そんな繁華な志度に来て、西丈が描いたものがかなり変。

穴が開いたブリッジ状の岩をはじめとした奇岩。その奇岩よりもさらに奇妙な生物が3頭。茶色の毛に覆われた体だが、人間でいう髪の毛がなぜか赤いロングヘアー。四ツ足のようだが、人間のように直立している姿も描かれている。これは実在する生物? それとも妖怪? 西丈が実際見たものか、あるいは頭の中でつくりだしたものなのか。

昔話か伝説に関係するのかもしれないと調べてみると、志度というと、「海士の玉取り伝説」が有名。天智天皇の時代、藤原不比等が契りを交わした志度の海女が、その子ども房前のために海中の龍神から玉を取り返して死んでしまうというストーリーであるが、この絵との関係はわからない。絵の右には和歌も書き付けられているが、難解で一部しか読むことはできなった。

謎は深まるばかり。それにしても西丈はおもしろい絵を描き遺したものである。その感性に脱帽。みなさんならこの絵、どう読み解きます?

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図22 讃州五軒山八栗寺

3月 16日 日曜日

84番札所屋島寺から1里(約4キロメートル)と少し歩くと、85番札所五剣山千手院八栗寺(高松市牟礼町)に辿り着く。標高375メートルの五剣山の中腹にあり、眼下には志度湾から遠くは播磨灘を望む。

寺伝によると、宝亀年間、まだ幼かった空海がこの山に登り、泥土で三千仏・十王像をつくったことに始まる。その後延暦年間になり、空海が入唐に先だち仏殿を造営して自作の千手観音を安置、栗八つを埋めて入唐を祈願した。帰国後やってくると、埋めた栗が大木に生長していたため、八国寺を改め八栗寺としたという。

江戸時代の八栗寺を描いた絵画史料を見ると、いずれもいくつかの剣が天にそびえるような独特の形をした五剣山に抱かれるように寺が描かれているが、西丈もまさしくそのスタイルを踏襲している。五剣山なので元々は5本の頂きがあったが、そのうち1本は宝永地震により崩れ、西丈が目にした時には4本になっていたはずである。五剣山のごつごつとした岩の表現は、いつもながらダイナミックで見ていて楽しくなる。

西丈の絵により境内の配置を見ると、石段を上がると二王門、そこを入って左脇に大師堂、その奧に空海自作と伝える観喜天が祀られる聖天堂、正面奧に本堂、その右脇に鐘楼がある。その配置は写実的な表現で知られる寛政12(1800)年の「四国遍礼名所図会」の挿絵とほぼ一致しており、建物の精度はさておき、配置などは西丈が正確に描き出していることがわかる。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図21 讃州屋島山から見る図 高松城

3月 8日 土曜日

この図も前図と同じく、屋島から高松方面を見下ろして描いている。カメラでいうと前図が広角レンズで捉えた引きの構図であったのに対して、本図は望遠レンズで高松城へとズームした一枚といえる。

白い塀が取り巻くなか、城郭がそびえている。本丸には三重四階地下一階の天守を置き、その周囲には現存する月見櫓、艮櫓以外に、烏櫓・太鼓櫓・龍櫓といった5棟の三重櫓が設けられていた。現在ではビルも建ち並び、お城も目立たなくなってしまったが、そうしたものが一切ない江戸時代にはランドマークとして目を引いたことであろう。高松城の白漆喰総塗籠の建物は、瀬戸内海に蒼い海によく映えたものと思われる。

西丈は屋島を三枚描いているので、一枚に割ける時間はそれほどなかった。その限られた条件の中で、それぞれの見たもののイメージを的確に表現していることがわかる。

参考までに大正から昭和初期の高松城を紹介した絵葉書を掲載した。手前に艮櫓、奧に月見櫓が並ぶ。石垣の下まで波が寄せており、海城としての高松城の姿がよくわかる。

「中国四国名所旧跡図18 讃州国分寺関ノ池図」に新しく調査した現況写真を加え、若干の加筆をしました。あわせてご覧ください。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図20 讃州屋島寺獅子岩より見る図

2月 28日 金曜日

屋島には複数の展望台が設けられているが、なかでも獅子の霊巌の展望台は一番人気で、現在では夕焼けから夜景までを連続して見る「ゆうやけい」を楽しむ人も多い。歩き遍路の西丈が訪れたのは安全な日中と思われるが、その絶景をスケッチに遺している。

瀬戸内海の一大パノラマが広がるなか、西丈が描いているのは高松市街の眺望である。上部に海に面した高松城、そしてその左側には瓦屋根のたくさんの町屋が描かれている。弘化4(1847)年に刊行された『金毘羅名所図絵』には、城の近くに武家屋敷が雲霞のごとくたくさんあり、市中は商家や職人の家が軒を連ねて活発な経済活動をしていると、高松のことが記されている。その文章にぴったり対応する描写となっている。

左側から手前にかけては田圃のような表現がされているが、これは塩田である。高松藩では宝暦5(1735)年に殖産興業政策の一環として、藩営により屋島の西潟元(にしかたもと)に塩田を完成させている。この塩田は亥年にできたことから、「亥の浜(いのはま)」と名付けられ、総面積28町余りの高松藩を代表する塩田となった。西丈が獅子の霊巌から見下ろした際にも、美しい入浜式塩田の姿が広がっていたことであろう。それは西丈が住む大和国田原本では見られない風景であり、当時の旅人が瀬戸内海を見て感じる特有の美しさでもあった。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図19 讃州屋島寺獅子の霊岩図

2月 25日 火曜日

画面左から突き出す奇怪な形の岩。西丈お得意のデフォルメ表現。岩のはるか下には帆をたてた廻船が進んでいく。廻船の小ささが霊岩のスケールを一段と増す。西丈が描いたのは、84番札所屋島寺の西150m、高松港に面した断崖に突き出た岩で、その形が獅子の頭に似ていることから、獅子の霊巌といわれた。そういわれてみると、獅子が吠えている姿に見えてくる。

こちらは大正から昭和初期にかけての絵葉書。西丈の絵とほぼ同じアングルで写真が撮影されている。絵葉書と比べてみると、岩の形はそっくり。西丈の絵はデフォルメされているようで、その基礎に写実があったことがうかがえる。

獅子の霊巌が名所とされたのは、この奇怪な岩の形だけではなく、その眺望。弘化4(1847)年に刊行された『金毘羅名所図絵』にも、「此地より八ケ国を眺望して至つて絶景なり、故に八国が峯ともいへり」とその一大パノラマを絶賛している。西丈もこの美しい景色が気に入り、スケッチで遺しているが、それは次回紹介する。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図18 讃州国分寺関ノ池図

2月 21日 金曜日

80番札所、国分寺の南にある関ノ池の図。降雨の少ないこの地域は溜池灌漑による農業が盛んで、溜池が日本一密集しているといわれている。溜池は小規模なものが多かったが、関ノ池はその中では大きなもので、堤高5.4メートル、堤長365メートル、有効貯水量34万7600立法メートルとされている。灌漑面積は16.1ヘクタール、高松市国分寺町国分・新居、坂出市府中地域を灌漑した。菅原道真が讃岐国守時代に詠んだ漢詩に記された蓮池が、この池ではないかとする説があるが定かではない。堤防が築かれて、現在のような池としての体裁が整ったのは、高松城を築城した生駒親正の時代で、慶長2(1597)年とされている。

関ノ池の背後には、霧に浮かぶように娘山、ハシノ山という二つの山が見える。娘山は讃岐七富士の一つで、御厩富士(みまやふじ)ともいわれる標高317メートルの六ツ目山のこと。娘山の右には「娘山人目の関をへたつ雰」、左には「秋風かむすめの山をかくさんときりにはたへとひとゑまかして」とあり、西丈は地名を巧みに織り込んだ俳諧と和歌を書き込んでいる。もう一つのハシノ山は、標高322メートルの「鷲ノ山」のことであろう。大部分が花崗岩で、頂上部には角閃安山岩が分布しており、古くから良質な石材を産出した山である。

平野部に突き出た霧に浮かぶ山と巨大な溜池。そして、溜池の畔に遍路道。西丈はそうしたこの地域の景観に感銘を受けて描いたのであろう。

関ノ池をほぼ西丈と同じアングルで撮影した現況写真。左側中央部に関ノ池が見え、その背後にきれいな山並みが続く。西丈が描く山の形が整っているのが気になっていたが、現地に行ってみると、西丈の絵にデフォルメはあるものの、雰囲気をよく捉えていることがわかった。目で見た風景を少ない筆で素早く捉える確かな技が西丈にはあった。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。