‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

中国四国名所旧跡図1

6月 16日 土曜日

中国四国名所旧跡図1
 「中国四国名所旧跡図」は、その名のとおり大和国田原本(奈良県田原本町)の仏絵師西丈が中国・四国地方の名所旧跡を描いたものである。縦29.5センチ、横44.5センチの画帖で、題の記された表紙と76枚の彩色された絵が綴じられている。絵は和泉国の堺に始まり、山陽道沿いに摂津・播磨・備前に進み、それから海を渡って讃岐・阿波・土佐・伊予を廻り、最後は66番札所雲辺寺で終わっている。そこから考えるに、この画帖は西丈が自ら行った四国遍路と金毘羅参詣の旅を、記録として描き遺したものと考えられる。

 教行寺を中心とする寺内町として発展した田原本において、西丈は仏画を描く仕事をしていたと考えられるが、絵を生業としているだけあって、描き慣れている感がある。描く対象は港町、寺院、名勝、旧跡、そして時には得体の知れない生物にまで及ぶが、意外にもその絵はあまり写実的ではない。描くものの本質をとらえるためか、極端にデフォルメされており、そのことでかえって、西丈が旅で眼にしたものが生き生きと伝わってくるような、何とも不思議な味わいの絵である。

 このシリーズでは、西丈と一緒に四国遍路をした気分になって、「中国四国名所旧跡図」に描かれた世界を紹介する。

30年式銃剣

6月 15日 金曜日

30年式銃剣

 本資料は、三十年式小銃用として開発された銃剣です。三八式や九九式歩兵銃など、日本軍のほとんどの銃器に装着でき、終戦まで使用されました。いわば日本軍の基幹銃剣でした。本資料の大きさは、全長52.センチ、刀身49.2センチ、重量は610グラムです。戦場で刃を研いたでしょうから、もとの大きさや重量よりは目減りしていると思われます。

 本資料の特徴は、ツバの部分がフック状になっており、木製の柄の部分がねじ止めで、鞘の先端が丸みを帯びていることです。これらは、初期型にみられる特徴です。また、刻印から兵廠東京工廠か造兵廠小倉工廠で制作されたことがわかりました。

 三十年式銃剣は、それ以前の村田式両刃型から、ストレ-トではありますが、片刃型となり、日本刀に近いものとなりました。日露戦争では三十年式小銃に取り付けられ、白兵戦が行われました。ちなみに、有名な三八式歩兵銃は三十年式小銃を改良して、日露戦争後に制定されたものです。日露戦争における勝利によって、日本陸軍は白兵突撃主義を、海軍は大鑑巨砲主義に偏重していきますが、本資料はまさに白兵突撃主義を象徴する資料と言えるでしょう。

村上節太郎写真18 オイコで荷物を運ぶ女性 昭和31年

6月 7日 木曜日

村上節太郎写真4-447
 村上節太郎の写真から頭上運搬を撮影したものをしばらく紹介してきたが、所変われば品かわるで、地域により運搬方法は様々である。宇和海沿岸に目を転じると、オイコ(背負梯子)やカルイカゴ(背負籠)で荷物を運んでいる写真が圧倒的に増えてくる。

 この写真もそうした一枚で、「石垣の里」として知られる外泊(愛南町)で撮影されたものである。女性の右側には台風や冬の強い季節風を防ぐために積まれた石垣がそそり立ち、石垣を縫って走る道もすべて石張りでつくられている。その細い山道を女性がオイコで荷物を背負い運んでいく。オイコをよく見ると、荷物がすべり落ちないようにカギが付いたものが使われている。女性は日々の暮らしの中で重い荷物を背負い、何度この山道を上り下りしたことであろうか。

村上節太郎写真17 浅海のおたた 昭和20年代

6月 2日 土曜日

村上節太郎写真6-364
 村上節太郎は松前のおたただけでなく、浅海(松山市浅海原)のおたたについても写真に記録している。この浅海地区で頭上運搬による魚の行商が行われていたことは、民俗学者、瀬川清子の『販女(ひさぎめ) 女性と商業』にも全く言及がなく、それだけに村上の写真は貴重である。

 村上は「瀬戸内海国立公園候補地域としての忽那諸島の地理的景観」(昭和27年)に、浅海のおたたについて書き記している。それによると、当時は毎朝40~50人の婦人が頭上に桶をのせて付近に行商に行っていたという。汽車を利用する者もあったが、大半の行動範囲は10キロ余りで、昼頃には帰ってきたらしい。

 頭上運搬の桶から、手や肩に提げるブリキの「カンカン」へという運搬方法の変化は、松前と同様に浅海でも見ることができる。しかし、浅海の写真では、かなり年輩の婦人でも「カンカン」を提げているので、この変化は世代差もさることながら、魚の鮮度を保つために「カンカン」の方が適していたことによるものとも考えられる。

※下の写真は浅海のおたた。未だ頭上運搬も残るが、「カンカン」を手にする人の方が増えている。昭和27年。
村上節太郎写真3-386

村上節太郎写真16 松前のおたた 昭和7年

5月 30日 水曜日

村上節太郎写真3-385
 おたたとは頭上運搬する魚の行商をいうが、松前というとおたたを連想するほど、松前のおたたは広く知られていた。明治8年の調査によると、松前のおたたは320人で、その半数は松前から10キロ圏内が行商圏で、日帰りがほとんどだった。その後鉄道の延伸や乗合自動車の普及とともに、人口が多い松山道後を中心に森松線や横河原線の沿線、そして砥部や久万へと行商圏が広がり、泊まりがけの行商も行われるようになった。

 村上節太郎の写真を見ると、伊予絣の着物に前かけをつけて草鞋(わらじ)か地下足袋を履くおたたさんの服装がよく分かる。頭には手拭いの輪を置き、その上に「御用桶」の焼印が入ったゴロビツ、竹で編んだざる(したみ)をのせている。商品は生魚、いりこ、小魚を煮て味付けした儀助煮で、10貫(約37.5キロ)~15貫(約56キロ)ぐらいを頭にイタダキ歩いたという。 松前では行商を経験しないと一人前と認められなかったそうで、村上の写真には御用桶を頭に未知の土地に販路を開拓していったおたたさんのたくましさが感じられる。

 戦後になると、頭上運搬は年輩の女性だけで、若い女性は手に荷物を提げるようになり、やがて「カンカン」と呼ぶブリキの容器が使われるようになる。村上の写真からはそうした変化まで読み取ることができる。

※下の写真は、横河原駅に降りた松前のおたた。荷物は風呂敷でかつぐか、手に提げている。昭和26年。
村上節太郎写真6-451

村上節太郎写真15 頭上運搬する女性2 昭和20年代

5月 25日 金曜日

村上節太郎写真7-509
 女性の頭上運搬を真正面から取り上げた研究書としては、民俗学者、瀬川清子の『販女(ひさぎめ) 女性と商業』があげられる。瀬川はその本の序文(昭和19年8月)に、当時販女の姿が急速に消え去ろうとしているとし、販女を通して婦人が家のため、社会の文化のために果たしてきた、大きな役割を認識したいと研究のねらいを書き記している。
 瀬川が愛媛県の中で頭上運搬の事例としてあげているのは、越智郡宮窪村、越智郡魚島村、今治の大浜、松前町のオタタサンの四つ。このうち魚島村について瀬川は次のように記している。

(引用文)
 同(越智)郡魚島村は男漁女耕で船乗りはいない。土地が狭く、山が急で、その山がことごとく畑であるからどうしてもカベル必要がある。弓削島から嫁にきた者は、はじめよわったが、いつかはみなカベルようになった。女学校を出た娘でもやはりいつかカベル。そうせぬと他の女たちから非難されるからである。以前は12,3歳になるとカベラせ、大人は四斗俵ぐらいはカベル。氏神祭には娘仲間が水をカベッて山の神社にゆき、神輿を洗う。カベルには丸いワを頭にあげてカベル。女のワカナカに草をからすと、20貫は普通であるが、30貫カヅクのを常とした。

 頭に荷物をのせた上に、肥桶を振り分けにして運んでいる女性など、村上節太郎は魚島の頭上運搬の様子を写真に記録しているが、瀬川の文章を読むと村上の写真の背景にあるものが見事に浮かび上がってくる。

村上節太郎写真14 頭上運搬する女性1 昭和20年代

5月 22日 火曜日

村上節太郎写真7-507
 村上節太郎が撮影した写真のなかには、たくさんの働く女性の姿がある。なかでも興味深いのは、かつて行われていた女性の頭上運搬を撮影していることである。頭上運搬が有名なのは、魚の行商を行う松前のおたたであるが、芸予諸島でも広く行われていた。

 写真は魚島の女性をとらえた一枚。魚島では頭上運搬することをカベルと言ったが、急な山に畑が開かれていたため、下肥を入れた肥桶も、収穫した作物もすべてカベッテ運んでいた。驚くことに、魚島の女性は、20貫(約75キロ)ぐらいはカベルことができたという。この頭上運搬の習俗は昭和40年頃を境に行われなくなるが、何げない女性の労働を記録した村上の写真はそれだけに貴重である。
 
※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月27日掲載分)

村上節太郎写真13 小網のヒヤマ 昭和12年

5月 19日 土曜日

村上節太郎写真3-226
 村上節太郎は、古くから小網(伊予市双海町上灘)の共同経営によるイワシの巾着網に興味をもっていた。その証拠に村上は昭和12年、14年、26年と少なくとも三回にわたり小網を訪れ、何枚もの写真にその姿を記録していった。強い西風と波から船を守る茅葺きの船小屋。イワシの群れが湾内に入ると遠見が合図を送る明神山の魚見櫓。これらはいずれも、現在は目にすることができない漁業施設の姿を私たちに教えてくれる貴重な写真といえる。

 このヒヤマの写真もそうした一枚。山の傾斜面に階段状にたつ小網の各家では、屋根などを利用してヒヤマと呼ばれる棚をつくり、イワシやエビを天日乾燥した。瀬戸内式の気候に加え、谷風が一層の乾燥を促すことから、ヒヤマは民家の屋根と屋根との隙間を埋めつくし、特徴的な漁村景観にもなった。それは、かつては国鉄予讃線の車窓から見える日常風景でもあった。しかし、漁獲物の荷揚げから乾燥まで行う共同加工場ができた現在、その独特なヒヤマの風景も姿を消してしまった。

帰ってきた遺留品

5月 13日 日曜日

 これは、西予市出身で昭和14年12月31日に戦死した梶原保軍曹の遺留品です。木箱2つに納められています。木箱の1つは、縦113センチ、横11.5センチ、高さ14.5センチで、「第四十師団歩兵二百三十四連隊梶原保遺留品 留守第十一師団歩兵二十二連隊行 内容責任者 陸軍歩兵中尉 三木衛」と墨書され、軍刀が納められていました。もう1つは、縦60.0センチ、横30.0センチ、高さ34.5センチで、上記に加え、「愛媛県 松山駅 西島部隊行」と墨書され、中には軍帽やアルバムなどが納められていました。

 第40師団は、昭和14年に第11師団管区(四国)で編成され、その内歩兵第234連隊は松山で編成されました。師団の編成目的は、昭和12年に始まった日中戦争において、中支方面の占領地警備にありました。同年10月揚子江をさかのぼり、武昌及びその付近に上陸しました。そして、咸寧南方通山付近に駐留しました。その頃、蒋介石は中国軍を再編し、冬季反攻を計画していました。同年12月10日、約7万の大軍が襲来、11師団は夜襲や敵前渡河を行い撃退しました。続いて、隣接する第6師団が中国軍に包囲され、苦戦していたため、234連隊を含む石本支隊を通城付近に派遣し危急を救いました。

 残念ながら、梶原軍曹がどのような状況で戦死したのか、木箱の遺留品からはわかりません。しかし、中支派遣後早期の戦死だったようです。子息の武保氏によると、遺骨も帰っているとのことでした。日本が優位な中国戦線で、しかも比較的戦争早期であったため、遺骨や遺留品を送る余裕があったのでしょう。

 この遺留品と木箱は、先日武保氏より、当館に寄贈いただきました。この資料は、戦死者の遺留品がどのように取り扱われたのかを知る貴重な資料です。しかし、それだけではありません。父親の顔を知らない武保氏にとっては、父親の形見であり、言葉に言い表せない想いがあります。また、戦死された保氏の想いも私たちはくみ取り、平和を願いたいと思います。

収蔵資料紹介 窯道具パズル

4月 30日 月曜日

パーツ

 これはやきものを焼成するための窯道具です。ツクやトチンといわれる棒のような土台にタコ足のようなタコハマという道具を組み立てます。その上に碗と皿を積み上げます。碗と皿の間には、ハマという道具が挟まれています。これは、製品同士がくっつかないようにするためのものです。よくみると、皿や碗の中央に5つの点の傷がありますが、これがハマの痕跡です。
 この焼き方は、登り窯の狭い空間で、たくさんの製品を効率よく焼くために江戸時代後期に肥前で考案された方法で、近代にかけて砥部焼(砥部町)や三島焼(伊予市)、則之内(すのうち)焼(東温市)、御荘(みしょう)焼(愛南町)、三間(みま)焼(宇和島市)など、たくさんの窯で使われていました。
 この模型は、三間焼の窯道具をもとに復元した、当館のオリジナルです。三間焼は、明治24~34年頃に現在の宇和島市三間町土居中に所在した窯のやきもので、砥部焼の窯業技術の影響をうけて磁器の日常雑器を中心に焼成していました。
 近日、新体験学習室に登場いたします。それぞれ磁石でくっつくようになっていますので、ぜひ手にとって組み立ててみてください。この機会に、やきものを焼くために重要な役割を果たしていた、縁の下の力持ちの窯道具ついても興味をもっていただければ幸いです。

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