四国霊場第21番太龍寺(徳島県阿南市)の東南山腹にかつて「龍の岩屋・窟(いわや)」という鍾乳洞がありました。龍の岩屋については古くから知られ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、元禄2年(1689)の寂本『四国霊場記』、寛政12年(1800)の河内屋武兵衛「四国遍禮名所図会」、文化6年(1809)の升屋徳兵衛「四国西国順拝記」、弘化元年(1844)の松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」など、江戸時代の案内記や遍路日記類に登場します。
なかでも絵師西丈が描いた『中国四国名所旧跡図』所収の「阿州太龍寺岩谷図」(当館蔵、写真①)は、案内人を付けて松明を灯して洞内に入る場面が描かれ、江戸時代後期の「龍の岩屋」見物の様子を伝えています(ブログ「中四国名所旧跡図36 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)」参照)。

近代に入り、明治16年(1883)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』には「大龍寺より卅六丁下りて龍の窟あり、霊窟也」と記され、番外の四国霊場として多くの遍路が巡拝したことが推察されます。
実際、明治~大正時代に四国遍路を行った北宇和郡九島村(愛媛県宇和島市)出身の遍路の所持品に、龍の岩屋を描いた絵図が2枚確認できます(当館蔵、写真②)。そのうちの1枚は表題に「竜ノ岩屋内部ノ真景」とあり、刊記によると明治15年(1882)に徳島県徳島市大字佐古村の士族佐藤熊五郎が作成したものであることがわかります。

本図には、龍の岩屋内の様々な場所に名前が付けられており、松明を持った案内人に先導されて洞内をめぐり、弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などに参拝する遍路の姿が描かれています。太龍寺参詣後に龍の岩屋を訪れて、こうした絵図を遍路土産として買い求めたことがわかります(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年参照)。
近代の案内記で龍の岩屋について詳しく紹介したのが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』です。本書では「番外二十一番奥の院 太龍窟」と紹介され、四国八十八箇所霊場第21番の奥の院として位置付け、名称を「太龍窟」としています。説明文には「御本尊弘法大師 当窟は大師御修行の道場で、当山に悪龍棲み人畜に害を与えますので大師は障碍を避けんと百日の求聞持法を修されました時、虚空蔵菩薩空中より宝剣を授け給い、十六丈の大蛇を窟に封鎖せられたところであります。県下有数の石灰洞で奥行五十五間あり、最も広い処を千畳敷、狭い処を龍の迫割(せりわり)と申します」とあります。洞窟の案内の有無については言及していませんが、本書折り込みの略図「四国八十八箇所霊場行程図」にも太龍窟が記載され、四国巡拝コース上に位置付けられています(写真③)。

一方、四国遍路道中図の場合、大正6年(1917)駸々堂版、昭和13年(1938)渡部高太郎版などを確認すると、龍の岩屋は記載されておらず、番外霊場や名所古跡として選定されていません。この点については別稿でふれたいと思います。
戦前、龍の岩屋めぐりの記録として注目されるのが、昭和18年(1943)の漫画家・宮尾しげをが著した遍路記『画と文 四國遍路』です。宮尾は太龍寺参拝後に龍の岩屋に訪れ、その体験談を本文と挿絵で紹介しています。
「ここは大師が悪龍を封じたところと云ふ。正体は鍾乳洞『龍の窟案内十銭』と札が出ている家が前にある。頼むと蝋燭に火をとぼし私の身体に白い着物を着せて『サァ案内いたしませう』窟の中には、ごうごうと音をたてて一間幅ぐらいの川が流れている。づるづると苔で滑る道をふみふみゆく。様々な名前が岩につけられてある『ここは、継子(ままこ)いぢめと云ひます、継子をいぢめた女が、この石の間を通るとき、両方から石がよつてきて挟みまして身体が抜けません、どうした事と尋ねましたら、継子いぢめをした罪だつたのです、懺悔(ざんげ)したら、石は元の通りになりました』『ヘェそれを見ましたか』『いいえ、さういふことが伝へられてます』先の方の見物が『南無大師遍照金剛ありがたやありがたや』と云ひながら歩いている。あとで聞いたが、この窟は遍路が有難がる所ださうだ。鍾乳洞も場所によつて生きるものである。」
これによると、龍の岩屋は悪龍退治の弘法大師伝説があり、洞窟前の人家で10銭払うと洞窟の案内を行っていたこと、その際に白着物を着用したこと、洞内は「継子いじめ」など様々な名前が付けられた奇石があり、遍路は大師御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えて感謝しながら洞内を巡っていたことなど、龍の岩屋見物の様子がうかがわれます。
「継子いじめ」の事例は、四国遍路の勤行次第で唱える「懺悔文」(さんげもん)」が教示する「過去に犯した罪を改めて仏に懺悔する」という意味に通じます。また、白着物は死に装束を意味し、洞内めぐりは暗闇の中の狭い場所を歩いて修行する「胎内くぐり」のように、霊窟を巡って肉体と魂を浄化して生まれ変わるという考え方に導かれて行われたものと解されます。弘法大師が修行したと伝えられる龍の岩屋は、こうした神秘性や修行性を体感できる洞窟霊場として遍路に人気があったものと推察されます。
江戸時代から知られていた龍の岩屋ですが、戦後まもなくセメント工場が所有となり、石灰岩の採掘のため現在は残っていません。四国遍路は長い歴史の中で、特に近代以降、明治維新による神仏分離、開発、戦争、自然災害などいろんな影響を受けて今日に至りますが、龍の岩屋は近代の開発によって失われた番外霊場の事例として注目されます。











































