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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情80―松山と九州を結ぶ航路の廃止―

2025年6月14日

 愛媛県松山市の松山観光港と福岡県北九州市の小倉港を結ぶ「松山―小倉航路」(写真①)が本年6月末で廃止されます。運営する松山・小倉フェリー(株)(松山市)の報道発表によると、令和2年(2020)以降、新型コロナウイルスの影響により、乗客やトラックなど車両の利用が大幅に落ち込み、加えて燃料価格の高騰や船の老朽化により、これ以上の運航継続は困難と判断し、航路廃止の決断に至ったとのことです。

写真① 石崎汽船の「松山・小倉フェリー」(松山観光港、当館撮影)

 松山―小倉航路は旧関西汽船(株)(大阪市)が昭和48年(1973)に開設し、平成25年(2013)3月末に「フェリーさんふらわあ」が松山-小倉航路から撤退したことを受けて、石崎汽船(松山市)が松山・小倉フェリーを設立して運航を引き継いできました。筆者も松山・小倉フェリーに乗船したことがありますが、夜間の時間を有効活用できるうえ、設備も行き届いており、快適に移動することができました。今回、松山と九州を結ぶ唯一の航路が廃止されることにより、愛媛にとっては人流と物流の両面でマイナスの影響が心配されます。

 四方を海で囲まれた四国にとって定期航路の廃止は、人々の生活、観光、経済などへの影響が懸念されます。四国遍路においては、四国外から巡拝に訪れる遍路の交通手段の選択肢が少なくなるだけでなく、遍路の行程、宿泊地、経費など四国遍路全般の計画にも少なからず影響を与えるものと思われます(本ブログ13「四国に渡る汽船と巡拝方法」参照)。

 四国遍路にとって九州と松山を結ぶ航路がいかに重要であったか、近代の四国遍路の資料から考えてみましょう。

 四国遍路道中図では大正6年(1917)の駸々堂版に「三津ヶ浜上陸 九州北地方ハ五十二番の太山寺より始むるがよし」、昭和13年(1938)の渡部高太郎版に「高浜三津浜上陸 山口県九州北地方ハ五十二番太山寺ヨリ始ムルガヨシ」と記され、松山の港は山口・九州北方面からの上陸港として長年、数多くの遍路にも利用されてきました(当館蔵、写真②)。

写真② 山口・北九州方面からの上陸港であった松山の港

 昭和10年(1935)の四国遍路案内記である武藤休山編『四国霊場礼讃』(大澤自昶著作権発行人)によると、「山口県の西部、福岡、佐賀、長崎県、及び台湾、朝鮮、満州、方面の方は門司、下の関より乗船して高浜に上陸するのが最大便利である」(個人蔵、写真③)と記されています。戦前には福岡県・門司港及び山口県・下関港と愛媛県・高浜港を結ぶ定期航路が就航され、このルートは山口・九州方面のみならず、遠く海外の台湾、朝鮮、満州から福岡を起点にして四国に上陸する重要な瀬戸内海航路であったことがわかります。

写真③ 武藤休山編『四国霊場礼讃』(昭和10年、個人蔵)

 同書にはさらに、「門司発の汽船は毎朝六七時頃に着船するから、高浜に上陸したら順に廻る人は会社の裏より霊仙洞を経て五十二番太山寺へ行くが極近道で僅に十丁余である(中略)順拝し終りには五十一番石手寺を打納め道後にてゆるゆる入湯でもして天候を見合せ午後より支度して太山寺並に霊仙洞へ礼参りして四時の夜汽船に乗れば夜明に門司、下関に着船す」とあり、高浜港上陸後のお奨めの四国巡拝の方法が記されています。なお、霊仙洞は高浜港から太山寺に至る経ヶ峰越への山道沿いにある霊窟ですが、現在廃墟と化しています。

 戦後、松山と九州を結ぶ定期航路は、昭和25年(1950)の瀬戸内海航路の時刻表によると、旧関西汽船によって「今治―門司線」が就航されています。上り便は門司(17:00)⇒高浜(4:00)⇒今治(8:00)、下り便は今治(17:00)⇒高浜(20:30)⇒下関(7:30)⇒門司(8:30)のダイヤで隔日に運航され、愛媛県の高浜港に加えて今治港まで寄港地が延伸されています(個人蔵、写真④)。

写真④ 関西汽船「今治―門司線」時刻表(昭和25年、個人蔵)

 次に、九州北部(福岡県)から海を渡って四国霊場を巡拝した遍路の資料を見てみましょう。

 明治時代の筑前国宗像郡(福岡県宗像市・福津市)の講中札があります(当館蔵、写真⑤)。講中札とは四国八十八箇所霊場の巡拝を目的として結成された講(団体組織)で作成した納札のことで、諸事情のために四国遍路を行うことが難しい人たちが村や町などを単位にグループを作り、定額の積立を行い、目標額が貯まると代参者を選び、代参者は四国遍路へと出立し、札所で参拝した証として講中札を納めました。本資料には中央に「修行大師像 奉納四国八拾八ヶ所霊場 明治 年 先達 」と記され、講員と世話人の名前が記されています。また、墨書で代参者のものと見られる「日月清明 筑前国宗像郡田嶋村 奉納四国八十八ヶ所霊場 むま 同行二人」と記された納札が貼付されています。宗像郡の遍路がどのようなルートで福岡から四国に上陸したのかは不明ですが、最短の航路を考えると松山上陸ルートが想定されます。

写真⑤ 筑前国宗像郡の講中札(当館蔵)

 同じく宗像郡野阪村出身の女性遍路が明治35年(1902)頃に伊予(愛媛県)・阿波(徳島県)・讃岐(香川県)の三国参りを行った納経帳(個人蔵、写真⑥)があります。最初の頁には第58番仙遊寺、第59番国分寺(愛媛県今治市)の札所の番号印のみで、実際の納経は番外霊場の「御来迎臼井泉」(道安寺、愛媛県西条市)から始まっています。この女性遍路は、おそらく福岡から愛媛の今治もしくは松山に上陸して四国遍路を始めたものと推察されます。

写真⑥ 宗像郡野阪村出身の遍路の納経帳(明治35年、個人蔵)

 今回の「松山―小倉航路」の廃止を受けて、四国遍路の歴史を振り返ると、遍路の出身地と四国入りの航路との関係によって、上陸後の四国巡拝の巡り方が変わり、航路の数ほど四国遍路の多様な姿があったと考えられます。航路の変遷と地域ごとの四国霊場巡拝の特色を捉えることは、四国遍路の移り変わりを探る上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情78―西林寺道の文殊院と小村大師― 

2025年6月7日

 前回、昭和13年(1938)に松山の関印刷所が発行した四国遍路道中図(渡部高太郎版)から、「遍路の元祖」と伝えられる(右)衛門三郎(えもんさぶろう)ゆかりの伝説地について紹介しました。

 今回は四国八十八箇所霊場第47番八坂寺から第48番西林寺道に至る遍路道(西林寺道)の巡拝ルート(順拝指道)について、四国遍路道中図と案内記の記載内容から考えてみます。

 四国遍路道中図の諸版を比較すると西林寺道のルートが異なることに気づきます。渡部高太郎版では、八坂寺⇒文殊院徳盛寺(衛門三郎古蹟、八塚)⇒小村(こむら)大師⇒西林寺と進みます(写真①)。小村大師は現在「札始大師堂」と呼ばれています。

写真① 四国遍路道中図に見る西林寺道(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 それに対して、大正6年(1917)に大阪で発行された駸々堂版では、八坂寺⇒文殊院(衛門三郎旧跡)⇒森松⇒石井⇒西林寺へと進むルートを示しています(写真②)。大正期の駸々堂版では八塚と小村大師は記載されていません。

写真② 四国遍路道中図に見る西林寺道(駸々堂版、大正6年、当館蔵)

 一方、昭和5年(1930)に徳島で発行された光栄堂版、同9年(1934)の浅野本店版、同15年(1940)の金山商会版などでは、八坂寺⇒文殊庵(衛門三郎旧跡、八塚)⇒西林寺のルートを示しています(写真③)。要するに、昭和13年の渡部高太郎版以外の四国遍路道中図では、西林寺道に小村大師は記載されておらず、そのため巡拝ルートが若干異なっていることがわかります。

写真③ 四国遍路道中図に見る西林寺道(光栄堂版、昭和5年、個人蔵)

 次に江戸時代の案内記で西林寺道を確認してみましょう。

 現存最古の四国遍路ガイドブックである、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』では「これより西林寺まで一里。〇えわら村、大師堂有。此村の南に右衛門三郎の子八人のつか有、石手寺の縁起にくハし。〇小村、大師堂、此間川三瀬有。〇たかい村」とあります。この記載から、江戸時代前期に「八塚」は衛門三郎の子どもたちの墓であると伝えられ、「えわら村の大師堂」と「小村の大師堂」の2つの大師堂が存在し、江戸時代前期の西林寺道はえわら(恵原)村の大師堂、小村の大師堂を経由して西林寺に至るルートであったことがわかります。ところが、江戸時代後期に流布した『四国徧礼道指南増補大成』では「えわら村の大師堂」「八塚」「小村の大師堂」の記載は一切ありません。ちなみに同書で衛門三郎伝説にふれるのは第51番石手寺と第12番焼山寺近くの杖杉庵のみです。寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」では、八塚と小村の大師堂に比定される庵が記載されており、江戸時代後期の西林寺道は八坂寺から八塚、小村の大師堂を経由して西林寺に至るルートと考えられます。江戸時代の小村の大師堂の後身と考えられる現在の札始大師堂の境内には、文政10年(1827)銘の手洗鉢が残されており(写真④)、小村の大師堂の痕跡を示すものとして注目されます。

写真④ 小村大師堂(札始大師堂)の手洗鉢(文政10年銘)

 さらに近代の案内記を確認すると、明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』、大正15年(1926)の三好廣太『四国遍路 同行二人』には、衛門三郎の旧跡文殊院、八塚は紹介されていますが小村大師は言及されていません。

 江戸時代以来、小村大師が再び紹介されるようになるのは昭和時代に入ってからと考えられます。弘法大師御入定一千百記念にあたる昭和9年(1934)に刊行された『四国霊蹟写真大観』の八坂寺解説文に「札始大師(四国八十八ヶ所巡拝のおこり)中略 文殊院より先に草庵を結ばれた所、後世小村の大師堂と名づく(文殊院より八町)」とあり、御詠歌「ありがたや伊予の小村の札始大師の光あらたなりけり」も記載されています。

 近代の案内記の中で特に注目したいのは、昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場礼讃(四国順拝案内記)』です。本書によると文殊院徳盛寺は番外札所として紹介され、「当山は衛門三郎の旧跡地であり遍路根本道場である山主大澤自昶晋住以来内容外観の整備に専念し居り遍路の由来を宣説し教化の意義を徹底なさんがため庫裏を提供して通夜の便を与へ毎夜法話をなし懇切丁寧に旅情を慰めつつあり」とあります。文殊院徳盛寺は「遍路の根本道場」と称して、通夜する遍路に対して遍路の由来と教化の意義について住職が説法を行っていたことが読み取れます。同書には文殊院が発行する『遍路開祖衛門三郎四行記』『同四行記絵伝』『四国順拝和讃』『四国巡拝道中記』などの広告が掲載されています。

 また、小村大師については「大蓮寺境外仏堂大師堂 当堂には小村屋の宿泊。賄所あり春間毎夜堂主の、礼讃主義の講和あり」と紹介され、四国遍路で賑わう春季には宿泊する遍路に対して堂主による法話が行われていたようです。小村大師堂においても弘法大師と衛門三郎の刷り物(当館蔵、写真⑤)や「遍路開祖衛門三郎四行記絵伝」などが発行されており、積極的に情報発信を行っていることがわかります。ところで『四国霊場礼讃』の刊記によると、著作兼発行者は大澤自昶と記され、本書は文殊院で発行されたものと見られます。

写真⑤ 小村大師堂(札始大師堂)で発行された「弘法大師と衛門三郎」の刷り物(当館蔵)

 このように、文殊院と小村大師堂の両寺院は、住持による法話、案内記、刷り物などで積極的に四国遍路の開創に関わる衛門三郎ゆかりの重要な番外霊場であることを発信しています。その背景には、昭和9年の弘法大師御入定一千百記念という四国遍路の歴史の節目を迎えたことも影響していると推察されます。

 戦後、昭和29年(1954)の後藤信教『四国順禮 南無大師』では「衛門三郎(杖杉庵で述べた遍路の元祖)の菩提所文殊院あり。次小松(小村の誤植)に札始め大師へ参拝」と記されているように、衛門三郎の菩提寺とされる文殊院と、「札始大師堂」と称されるようになった小村大師は、今日の西林寺道で遍路が参詣する有名な番外霊場として定着していることがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情77―衛門三郎伝説―

2025年6月6日

 昭和13年(1938)に松山の関印刷所が発行した四国遍路道中図(渡部高太郎版)には、「遍路の元祖」と伝えられる(右)衛門三郎(えもんさぶろう)ゆかりの番外霊場や古跡などが紹介されています。

 衛門三郎伝説には諸説ありますが、元禄3年(1690)の真念『四国遍礼(へんろ)功徳記』には、以下のような物語が紹介されています。

 予州浮穴郡の衛門三郎は貪欲な人で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに打ち割わると、8人の子が8日で次々に亡くなりました。そのことに驚き、悔やみ、発心して三郎は四国遍路に出ます。21回目に逆打ちで遍路を行ない、阿波国の焼山寺の麓で生き倒れ、臨終の際に大師に出会い、領主河野氏に生まれ変わることを願います。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせます。その後、河野氏にその石を握った子が生まれ、その子は成長して河野家を継ぎ、松山に安養寺を再興して、その石を納めて石手寺と寺名を改め、河野家は数百年繁栄しました。この話は長い物語で、石手寺の縁起等に記されています。

 次に、四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)に記載する衛門三郎ゆかりの伝説地を見てみましょう(写真①)。

写真① 四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)に紹介する衛門三郎の伝説地

 〇文殊院徳盛寺(もんじゅいん・とくじょうじ。愛媛県松山市恵原町)

 道中図に示す巡拝指道(巡拝ルート)では、四国八十八箇所霊場第47番熊野山八坂寺から4丁とあります。番外霊場を示す薄赤色印に「四国遍路巡拝根本道場 文殊院 徳盛寺」と記され、「衛門三郎古蹟 同 八塚」と併記されています。徳盛寺発行の『四国霊場遍路元祖 衛門三郎八塚の由来』(個人蔵、写真②)によると、弘法大師が衛門三郎を弔うために衛門三郎の屋敷に徳盛寺を移させ、文殊菩薩の御恵みから寺号を文殊院と称したと記されています。文殊院には「衛門三郎四行記」「遍路開祖衛門三郎四行記絵伝」などが残されています。

写真② 文殊院徳盛寺発行『四国霊場遍路元祖 衛門三郎八塚の由来』個人蔵

 〇八塚(やつづか。同上)

 衛門三郎の8人の子どもたちの墓と伝えられています(写真③)。前述の『衛門三郎八塚の由来』によると、「この八つの塚墓は今猶附近田甫に散在の哀れをとどめけるがその位牌所文殊院はかくも大師の御心を籠め置かれし霊妙不思議の御跡なれば大師の御迹を慕ふものの忘るべからず所なり」と記されています。八塚は古墳時代末期の群集墳(松山市指定史跡「八ツ塚群集古墳」)であることがわかり、後世に衛門三郎と弘法大師伝説に結び付けられたことが推察されます。

写真③ 松山市指定史跡「八ツ塚群集古墳」当館撮影

 〇小村大師(愛媛県松山市小村町)

 道中図の巡拝ルートによると、文殊院徳盛寺の次は「番外 小村大師」とあります。小村大師は別名「札始大師堂」(写真④)と呼ばれ、伝承によると、弘法大師のあとを追った衛門三郎はこの堂を訪ねて、大師が刻んだ尊像に懺悔し、その帰りを待ちますが大師は現れなかったため、木を削り、札に自分の名前を記して、堂の柱に打ち付けました。遍路の「納札」という行為の始まりとされています。

写真④ 札始大師堂(小村大師)、当館撮影

 〇杖杉庵(じょうしんあん。徳島県名西郡神山町)

 道中図には、第12番札所焼山寺と第13番大日寺の間に「衛門三郎墓地 杖杉庵」と記されています。杉杖庵縁起によると、この場所は衛門三郎が21回目の遍路でついに弘法大師に巡りあった終焉の地と伝えられています(写真⑤)。杖杉庵の名前の由来は、三郎の死後、大師は持っていた杉の杖を墓標として立て、やがてその杖が大杉となり、この地に庵が設けられたことに基づきます。杖杉庵で発行された弘法大師と衛門三郎の刷り物(当館蔵、写真⑥)には、衛門三郎が大師に許しを乞う場面が描かれています。

写真⑤ 杖杉庵、当館撮影
写真⑥ 杖杉庵発行「弘法大師と衛門三郎の刷り物」(当館蔵)

 〇石手寺(四国八十八箇所霊場第51番札所。愛媛県松山市石手)

 道中図には衛門三郎の記載はありませんが、石手寺には寺号の由来となった衛門三郎伝説が記された初見史料とされる永禄10年(1567)の紀年銘がある「石手寺刻板」、寺名の由来となった「玉の石」、江戸時代の衛門三郎略縁起(巻子本)など、衛門三郎伝説の貴重な史料が残されています。石手寺では薬師信仰、弘法大師信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰などの多様な信仰が展開し、衛門三郎伝説は石手寺の歴史のみならず四国霊場の特色や四国遍路の歴史を考える上でとても注目されます(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、2018年参照)。

 四国遍路道中図(渡部高太郎版)にとりあげる衛門三郎ゆかりの番外霊場や古跡は、現代の歩き遍路が訪れる巡礼地としても定着しています。江戸時代以来、四国遍路の歴史を語る上で欠くことができないのが衛門三郎伝説といえます。

 衛門三郎伝説には、修行中の僧侶や巡拝中の遍路は弘法大師の化身と見なし、親切に接してお接待を施すなどの功徳を積むことの必要性、札挟みや納札などを用いる四国遍路の作法、尋ね人・弘法大師に出会うことができる逆打ちの神秘性、遍路を成就すると死出の旅路から再生できる、四国遍路は繰り返し行う連続性のある円環的な巡礼、熊野修験や念仏聖と衛門三郎伝説の関係性など、四国遍路という独特な巡礼の構造を理解するための重要な要素が数多く含まれています。今後の研究が期待されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情76―仙龍寺と中務茂兵衛―

2025年5月31日

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)の中で、八十八箇所霊場の本札所ではありませんが、大きく目立つように記載されている番外霊場の一つに仙龍寺があります。地図上では第65番三角寺(愛媛県四国中央市)と第66番雲辺寺(徳島県三好市)の間、伊予(愛媛県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)の県境付近に位置し、「六十五番 奥ノ院 金光山 仙竜寺」と記されています(写真①、当館蔵)。

写真① 四国遍路道中図(渡部高太郎版、昭和13年)に紹介された仙龍寺(当館蔵)

 金光山仙龍寺(愛媛県四国中央市新宮町馬立)は三角寺の奥之院とされ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』、元禄2年(1689)の寂本「四国徧礼霊場記」などの江戸時代前期の四国遍路案内記にも紹介され、四国霊場の古刹として知られています。また「四国辺路日記」には、三角寺から仙龍寺までの山道が筆舌に尽くしがたい険しい道であったと記され、現在も江戸時代の旧遍路道の状態をとどめていることから、平成29年(2017)に国史跡「伊予遍路道・三角寺奥之院道」(写真②)に指定されました。

写真② 国史跡「伊予遍路道・三角寺奥之院道」(当館撮影)

 仙龍寺に遍路が多く参拝する理由は、本尊の弘法大師像の由来に基づきます。本尊は大師42歳の時に厄除けと虫除け五穀豊穣の秘法を修して自作の肖像を安置したものと伝えられ、「厄除け大師」「虫除け大師」として人々に篤く信仰されています。また、明治41年(1908)の知久泰盛『四国八拾八ヶ所霊場案内記』によると、「昔、高野山は女人禁制なりしが当山は女人高野と申して女人の参詣自由なりし故、今は女人成仏の霊場と伝へて日々参詣者群集す」とあるように、明治後期には女人参詣で賑わい「女人高野」と称されていたことがわかります。

 霊験あらたかな四国霊場として知られた仙龍寺は、江戸時代以降、寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」、西丈の「中国四国名所旧跡図」(当館蔵、学芸員ブログ「中国四国名所旧跡図63 三角寺奥院金光山仙龍寺」参照)、幕末期の伊予国地誌である半井梧菴の『愛媛面影』、明治時代後期頃の「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」などに境内の独特な景観が描かれています(今村賢司「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書第65番三角寺 三角寺奥之院 三角寺奥之院道』令和4年、愛媛県教育委員会参照)。

 『愛媛面影』(写真③、当館蔵)では切り立つ崖沿いに懸造りの建物(本堂・通夜堂等)と渓谷が描かれ、深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観が見てとれます。また「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」(個人蔵、写真④)は一枚刷りの銅版絵図で、従来の仙龍寺境内図と比較して境内の細部や周辺の景観も細密に描かれています。

写真③ 仙龍寺(半井梧菴『愛媛面影』、当館蔵)
写真④ 伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図(個人蔵)

 昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(第32版、此村欽英堂)に「当寺は参詣者に通夜を許し、毎夜護摩修行本尊の御開帳住職の説法等、ありがたき御座を開かる」とあるように、仙龍寺では毎晩、護摩修行や本尊弘法大師像の御開帳などが行われ、多くの参拝者は通夜堂に宿泊して拝観しました。

 ところで、番外霊場仙龍寺の参拝を積極的に推奨したのが、四国霊場を280回巡拝した中務(司)茂兵衛(1845~1922年)です。

 明治33年(1900)に茂兵衛が四国巡礼176度目を記念して三角寺に建てた遍路道標石(写真⑤)には「(手印)奥の院 是より五十八丁 毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び現当ニ世の利益を受く遍し」、同34年(1901)に184度目の記念に番外霊場の椿堂(愛媛県四国中央市)近くに建てた遍路道標石(写真⑥)には「(手印)奥の院 是より一里余 毎夜御自作厄除大師尊像の御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ参詣し天御縁を結び現当ニ世の利益を受くべし 中務義教謹誌」、同36年(1903)に198度目を記念して三角寺道に建てた遍路道標石には「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿り四國巡拝の砌に盤参詣して御縁を結び現当ニ世乃利益を受く遍□し 中務義教謹誌」、同37年(1904)に202度目を記念して第64番前神寺(西条市洲之内甲)の参道に建てた遍路道標石(写真⑦)には「金光山仙龍寺ハ厄除弘法大師御自作の尊像□て毎夜開帳阿り四國巡拝の輩には参詣して御縁を結び現当二世之利益を受くべし」、仙龍寺道に建てた遍路道標石(年不明、写真⑧)には「奥之院へ八丁 毎夜本尊御直作厄除大師尊像ノ御開帳アリ霊場巡拝ノ信者ハ一夜ノ通夜ヲシテ御縁ヲ結ビ現當ニ世ノ利益ヲ受ケラルベシ 中務義教誌 荷物ハ持参スルモヨシ又ハ店ニ預ケ置キ参詣通夜スルモヨシ」と記されています。

 このように中務茂兵衛は施主や世話人等の協力を得て、三角寺境内、前神寺参道、遍路道沿いなどに道標石を設置して、そこに仙龍寺の案内広告を記して、多くの遍路を仙龍寺に誘いました。また、同45年(1912)には仙龍寺住職・服部覺禅と中務茂兵衛らによって仙龍寺の裏山に新四国霊場が開創され、大正3年(1914)に記念法会が行われています。 仙龍寺は中務茂兵衛と関係がとても深い札所寺院の一つであったことがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情75―阿波一国詣り―

2025年5月23日

 四国遍路の巡拝の方法で、阿波国(徳島)、土佐国(高知)、伊予国(愛媛)、讃岐国(香川)の各国内の札所を巡拝することを「一国詣(参)り」といいます。

 四国八十八箇所霊場の阿波の札所第1番~第23番までを巡る「阿波一国詣り」の案内パンフレットがあります(写真①、個人蔵)。阿波国共同汽船株式会社が昭和14年(1939)以前に発行したものと見られ、菅笠、金剛杖、札箱、さんや袋などを身に着けた絣着物姿の女性遍路が表紙を飾っています。裏表紙には「信仰のハイキング 阿波霊場巡り」と題して、 徒歩を中心に汽車やバスを利用して6日間で徳島の霊場を巡る行程が参拝略図とともに紹介されています。

写真① 「阿波一国詣り」の案内パンフレット(個人蔵) 

 阿波一国詣りの道程について確認してみましょう。

 ・第1日(第1番霊山寺から第10番切幡寺まで) 

 平たんな道が約6里続き、10箇寺を巡拝します。第6番安楽寺までは汽車(徳島線)とバスの便があります。第6番~第10番まではバスの便があります。切幡町で宿泊。 

 ・第2日(第10番切幡寺から番外霊場の柳水庵まで)

 切幡寺から徒歩で吉野川を渡り、第11番藤井寺を参拝します。焼山寺への登山道に入り、途中の柳水庵で宿泊。

 ・第3日(柳水庵から第12番焼山寺を参拝し、徳島市内まで)

 柳水庵を早朝に出立し一本杉を経て焼山寺、杖杉庵を参拝し寄井の町まで徒歩、寄井から徳島市までバスの便があります。徳島市内の旅館泊、市内観光。

 ・第4日(徳島市を立ち、第13番大日寺から第19番立江寺まで)

 徳島市内からバスで第13番大日寺へ、そこから徒歩で第17番井戸寺(妙照寺)までを巡拝、バスもしくは府中駅から汽車で中田へ行き、第18番恩山寺、立江寺を巡拝します。立江寺泊。

 ・第5日(第19番立江寺から第21番太龍寺まで)

 立江寺からバスで中角まで行き、徒歩で第20番鶴林寺を参拝、那賀川大井渡を渡り、再び登山して太龍寺を参拝します。太龍寺泊。

 ・第6日(第21番太龍寺から番外霊場の龍の窟を拝観し、第23番薬王寺まで)

 太龍寺から南へ下り、龍の窟を見学、新野町へ。第22番平等寺を参拝してバスで日和佐町へ、薬王寺を参拝。阿波一国詣り終了後は、小松島に戻り帰途に就くか、次の高知の霊場第24番最御崎寺へ進む場合はバスを使用します。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)を用いて、阿波一国詣りの行程を日程ごとに記載しました(写真②)。阿波の遍路道は、1日目は平坦な道で多くの札所を巡拝できますが、2日目から3日目にかけての焼山寺の登山道、5日目から6日目にかけての鶴林寺から太龍寺までの道程が険しい山道の難所で、吉野川と那賀川の川渡りなどが見られるのが特徴といえます。

写真② 「阿波一国詣り」の道程(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 パンフレットでは、四国遍路の全巡拝路を4区分し、1年で1区(5~6日)ずつ巡れば4年で四国遍路を達成できると説かれています。発行元の阿波国共同汽船株式会社は、明治20年(1887)に徳島の藍商人等による共同出資で設立されました。関西方面などからの遍路の誘致に地元の海運会社の果たした役割が注目されます。

 昭和初期における徳島県内の海上・陸上交通の状況を示した案内広告があります。昭和9年(1934)の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)の巻末に収録する「阿波案内」(写真③)には、摂陽商船株式会社と阿波国共同汽船株式会社の共同経営による徳島の海上交通の広告が掲載されています。そこには「小松島港」「二十八共同丸」の写真とともに、大坂、神戸、明石、和歌山、淡路島、鳴門海峡、高松、引田、撫養、徳島、小松島、橘(阿南市)などの各港を結ぶ同社の航路が蒸気船のイラスト入りで紹介されています。共同汽船の営業所がおかれた小松島を拠点にした徳島の海上交通網の広がりがわかります。

写真③ 摂陽商船株式会社・阿波国共同汽船の広告(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 また同書には「阿南自動車協会」の写真入りの広告(写真④)も掲載されています。同協会の本社前には行先表示のある乗合自動車が整列し、「阿南自動車徳島支店」と記された大きな看板には同社の支店や出張所等が記載され、徳島県内はもとより高知、香川方面への乗合バスの路線が開通している状況が見て取れます。

写真④ 「阿南自動車協会」の広告(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 今日、四国遍路の巡拝方法は伝統的な通し打ち(一度の巡礼ですべてを巡拝)、区切り打ち(都合の良い札所だけを巡拝)、みだれ打ち(札所番号には関係なく巡拝)などが行われていますが、「阿波一国詣り」のように四国遍路を分割して巡拝する方法は、最終的に全札所を打ち終える分割巡礼の代表といえます。

 昭和初期に推奨された阿波一国詣りは、四国遍路を取り巻く海上・陸上交通の発展によって、伝統的な修行を基本とした徒歩中心の巡拝から、文明の利器である近代交通を積極的に活用して、名所旧跡や市内観光などの行楽的要素も採り入れ、計画的且つ効率よく札所を巡拝するという現代の四国遍路の巡拝の先駆けとして注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情74―遍路の所持品―

2025年5月16日

 四国遍路道中図は大正時代から昭和時代にかけて、ビジュアルで分かりやすい四国遍路の案内地図として多くの遍路に用いられました。また、宿屋や巡拝用品店の宣伝広告のための接待品として遍路に無料配布されることもありました(本ブログ30「続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。

 四国遍路道中図が発行された大正時代から昭和時代にかけて、実際に四国霊場を巡拝したある遍路はどのような活動を行っていたのか、残された遍路の所持品から探ってみましょう。

 当館には伊予国東宇和郡多田村(愛媛県西予市宇和町)出身の夫婦が明治時代後期から昭和時代初期にかけて四国遍路を行った際の所持品が寄贈されています。それらは納経帳、巡拝用具類、御影・護符類、参拝記念品などで、四国霊場の札所や道中で使用されたものや土産物店などで買い求めたものと見られます。遍路の所持品は時の流れとともに散逸することが多く、まとまって残されていることは稀です。満願になった納経帳を死者の棺の中に入れると浄土に行くことができるといわれているように、納経帳が残っていない事例も見受けられます。そのため、今日まで残されてきた遍路の所持品は、巡礼者から見た当時の四国遍路の実態を示す資料として貴重です。

 次に、遍路の所持品の中から主なものを紹介します。

 【納経帳】 

 納経帳は明治38年(1905)、大正10年頃(1921)、作成年不明の3冊あります。そのうち大正10年の納経帳(写真①)は、第1番霊山寺から順打ちでまわり、第88番大窪寺で結願。ほとんどの札所では、納経印が5つ押印されています。納経印を一度受けた納経帳に、2回目以降の巡礼で重ねて朱印を受けることを「重ね印」といい、何度も朱印を受けて紙面が真っ赤になった納経帳は霊的な効果があるとされ珍重されました。

写真① 大正10年の納経帳(当館蔵)

 【巡拝用具類】 

 巡拝用具には札箱、輪袈裟(わげさ)、念珠、行李(こうり)が残されています。札箱は遍路が札所で奉納する納札を収納する道具で、首から掛けて用います。木製の小箱の側面にスライド式の蓋があり、開閉して必要な納札を出し入れします。表側に「伊予国東宇和郡多田村 奉納四国八十八ケ所順拝(氏名)」の墨書があります。紐には小さなわらじが付いています(写真②)。

写真② 札箱(当館蔵)

 輪袈裟は細幅を輪にした袈裟です。昭和5年(1930)に第19番立江寺(徳島県小松島市)から遍路宛に郵便で送られたもので、「梵字 卍 阿波国立江寺授与 四国第十九番霊場」とあります(写真③)。札所で納経する際に笈摺(おいずる)の上に着用し、平服で参拝する時にも輪袈裟を着用しました。

写真③ 輪袈裟(当館蔵)

 念珠(写真④)は珠をひとつ繰るごとに仏を念ずることから「念珠」と呼ばれています。行李(写真⑤)は竹や柳などを編んで作られたかぶせ蓋のある容器で、巡礼に必要な所持品を行李に入れて、背中の負い台にのせて運びました。

写真④ 念珠(当館蔵)
写真⑤ 行李(当館蔵)

 【御影・護符・記念品類】 

 子安大師のミニチュア銅像、弘法大師の御影と参拝記念メダルなどがあります。子安大師銅像(木製厨子入り)は安産・子育てに霊験があるとされる第61番香園寺(愛媛県西条市)に参詣した折に求めたものと見られます(写真⑥)。行李の中に2つの小石(写真⑦)が保管されており、その詳細は不明ですが、本像との関係から、第51番石手寺(愛媛県松山市)などで見られる、持ち帰ると子宝に恵まれ安産などの御利益があるとされる「子授け石」の類と推測されます。

写真⑥ 子安大師銅像(当館蔵)
写真⑦ 行李の中に保管されていた小石(当館蔵)

 弘法大師の御影(軸装、写真⑧)は一般に四国遍路の参拝記念、土産としてよく買い求められています。大師像が刻まれた参拝記念メダル(写真⑨)は第20番鶴林寺(徳島県勝浦町)、第34番種間寺(高知県高知市)、第71番弥谷寺(香川県三豊市)のものがあります。その他に、番外霊場の金山出石寺(愛媛県大洲市)の本尊千手観世音菩薩のカラー御影(写真➉)などが残されていました。

写真⑧ 弘法大師の御影(当館蔵)
写真⑨ 参拝記念メダル(当館蔵)
写真➉ 金山出石寺の本尊千手観世音菩薩のカラー御影(当館蔵)

 所持品の中には四国遍路道中図のような案内地図や案内記や、具体的な活動を記録した遍路日記などは確認できませんが、こうした所持品から一遍路の活動が垣間見られ、より具体的な四国遍路の実態をうかがい知ることができます。

 伊予国東宇和郡多田村の夫婦遍路の所持品をもとに、入手先と見られる四国霊場の札所を、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)に丸印で示しました(写真⑪)。四国遍路の長い道中や各札所では様々な思い出があったにちがいありません。残された所持品には遍路の祈りや願いが込められているように思われます。また、遍路の土産として大切なのは、形あるモノに限らず、四国遍路の体験談を土産話として家族や知り合いに語って共有されたことです。それが新たな次の四国遍路へと誘なう要因の一つになりました。

写真⑪ 伊予国東宇和郡多田村の遍路が土産等で入手した四国霊場の札所(四国遍路道中図・渡部高太郎版、昭和13年)

西予市立中川小学校で平和学習!

2025年5月14日

 5月9日(金)に西予市立中川小学校で6年生(22名)に平和学習の出前授業を行いました。今回は修学旅行で長崎を訪れるため、戦争の歴史について事前学習をすることがねらいでした。

 最初に日中戦争や太平洋戦争の流れを解説しました。そして、「ヘイタイ双六」、「兵隊人形」、「軍艦文鎮」、「国民学校の通知表」など、子どもたちに身近な資料から戦時色を感じてもらいました。また、配給制度と切符制度について1日の米の配給量を見てもらい、衣料切符でズボンやスカートなどを購入する体験を行いました。あっという間に切符の点数が半減して、児童のみなさんもビックリしていました。

 県下の空襲については写真パネルで説明するとともに、松山に落とされた焼夷弾の殻に触れて形や重さを感じてもらいました。また、修学旅行で長崎を訪れるため、長崎型の模擬爆弾である「パンプキン」が県下にも4発投下されたこと、宇和島への投下は長崎に原爆が投下される前日だったことなど、愛媛と原爆の関係についても紹介しました。最後に鉄兜、防空頭巾、もんぺの着付けを行い、当時の暮らしを直接体験してもらいました。

 出前授業では学校の依頼に応じて資料を選択し、実際に見て、触れて、感じて、戦争の悲惨さと平和の大切さを考えることに努めています。修学旅行の事前学習、社会科の歴史学習に限らず、最近では国語科や家庭科での依頼もお受けしています。また、夏休には歴史講座として「親子で体験!学ぼう戦時下のくらし」を実施します。夏休みの自由研究にも活用できます。詳しくは当館のホームページをご覧いただき、お気軽にお問合せ下さい。

千人針の紹介
衣料切符の体験
焼夷弾の殻に触れる
着付け体験

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情73―四国霊場と神社 ②愛媛・香川―

2025年5月10日

 前回からの続きで、愛媛県と香川県の神社系の札所を確認します。

 【愛媛県・伊予国】

 〇番外

 ・篠山神社〔観世音寺、観喜光寺〕

 〇第41番

 ・稲荷宮〔龍光寺〕

 納経帳に「奉納経/稲荷大明神/龍光寺/丑五月四日/行者丈」と記載(写真⑤)。

写真⑤ 第41番稲荷宮・龍光寺(当館蔵)

 〇第55番

 ・大山祇神社〔光明寺、南光坊〕

 納経帳に「奉納経/日本惣鎮守三嶋/別宮大明神/大積山/南光坊/五月十四日」と記載(写真⑥)。

写真⑥ 第55番大山祇神社・南光坊(当館蔵)

 〇第57番

 ・石清水八幡宮〔長福寺、乗泉寺、栄福寺〕

 納経帳に「奉納経/伊与一国/石清水八幡宮/別当/栄福寺/五月十五日」と記載(写真⑦)。

写真⑦ 第57番石清水八幡宮・栄福寺(当館蔵)

 〇第60番

 ・石鈇山蔵王権現〔横峰寺〕

 〇第62番

 ・一宮〔宝寿寺〕

 納経帳に「奉詣拝/伊豫国/一宮大明神/別当/宝壽寺」と記載。

 〇第64番

 ・石鈇蔵王権現〔里前神寺、前神寺〕

  納経帳に「四国霊場六十四番/石鈇山大悲蔵王権現 廣前/別当前神密寺/里寺納経所」と記載(写真⑧)。

写真⑧ 第64番石鈇山大悲蔵王権現・前神寺(当館蔵)

 【香川県・讃岐国】

 〇第68番

 ・琴弾八幡宮〔神恵院〕

 納経帳に「奉納御経/琴引八幡宮神尊/讃州七宝山□田/神恵院/午五月廿二日」と記載(写真⑨)。

写真⑨ 第68番琴弾八幡宮・神恵院(当館蔵)

 〇第69番

 ・琴弾八幡宮〔観音寺〕

  納経帳に「奉納御経/中金堂聖観音/寺社兼務別当/観音寺/午五月廿二日」と記載(写真➉)。

写真➉ 第69番琴弾八幡宮・観音寺(当館蔵)

 〇番外

 ・金毘羅大権現〔松尾寺〕

 〇第79番

 ・崇徳天皇〔妙成就寺、天皇寺、高照院〕

 〇第83番

 ・一宮田村神社〔大寳院、一宮寺〕

 〇番外

 ・白鳥神社〔別当寺なし〕

 愛媛県の神社系札所では、第41番が江戸時代に稲荷宮(稲荷大明神)として知られ、明治期の神仏分離でその別当であった龍光寺(宇和島市)が札所となりました。現在の龍光寺の参道には元禄年間に建立された稲荷宮の鳥居があり、境内地の最上部には元札所の稲荷神社が鎮座するなど、神仏習合時代の四国霊場の姿がよく残っています(今村賢司「案内記、納経帳、境内絵図、古写真から見た四国霊場第41番札所龍光寺の変遷について」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第41番札所龍光寺』愛媛県教育委員会、2017年)。また、第57番札所は江戸時代を通じて石清水八幡宮(今治市)でしたが、納経帳からは別当寺の変遷が確認され、納経印が引き継がれていることなどがわかりました(同「納経帳に見る四国八十八箇所霊場第五十七番札所と栄福寺」愛媛県教育委員会、2025年)。

 香川県の神社系札所で注目したいのは琴弾八幡宮(観音寺市)です。現在の第68番神恵院と第69番観音寺は琴弾山の中腹にあり、2つの札所が同じ境内に存在する全国的に珍しい霊場です。明治期の神仏分離によって、琴弾八幡宮の本地仏の阿弥陀如来は神恵院へ、聖観世菩薩が観音寺の西金堂に移されました。寛政10年(1798)の四国遍路の納経帳(当館蔵)からは、神恵院も観音寺も筆跡や納経印が同じと見られ、同一の場所で同じ人が行っていたものと推察されます(写真⑨➉)。

 以上、2回にわたり四国霊場の神社系札所と別当寺院について見てきました。四国八十八箇所霊場の中には江戸時代に神社の札所であったところも多かったことがわかります。それらの霊場は明治期の神仏分離によって神社系の札所が廃止され、江戸時代を通じて別当として神社札所の管理を行っていた寺院が新たに四国霊場の札所として成立しました。その中には経済的困窮等の理由から一時廃寺となった事例や、第37番岩本寺のように札所の権利が売買され、県境を越えて札所が移転した事例などもあり、近代の四国遍路に大きな混乱をもたらしました。

 日本の巡礼は神仏習合が長く続いた歴史の中で、四国遍路をはじめさまざまな霊場が発展しましたが、四国霊場における神社と別当寺院の関係は、八十八箇所成立の過程や四国遍路の多様な信仰の広がりを考える上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情72―四国霊場と神社 ①徳島・高知―

2025年5月9日

 仏教と神道が融合された神仏習合の江戸時代までは、神社の中に神宮寺や仏堂が建立され、一方、寺院の中には祭神を勧請した鎮守社が祀られました。今日の四国八十八箇所霊場の札所はすべて寺院で構成されていますが、江戸時代では第41番稲荷宮(稲荷大明神)のように、神社の札所も多く存在しました。そうした神社系の札所を管理した寺院や人のことを「別当」(べっとう)と称します。別当寺院は納経所として巡礼者の受け入れ事務等を司りました。

 明治新政府による明治元年(1868)の神仏分離令によって、四国八十八箇所霊場の神社系の札所(元札所)は廃止され、これまで別当を務めた寺院が神社から独立して新たに札所となりました。前述の第41番札所は江戸時代の稲荷宮から明治以降は龍光寺に変更となりました。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で神社の別当寺院であった札所に紫色の丸印を付けました(写真①)。神社系札所の寺院数は徳島県(阿波)2、高知県(土佐)3、愛媛県(伊予)6、香川県 (讃岐)2を数えます。四国4県の中では愛媛に神社系札所が比較的多く存在することがわかります。その明確な理由は定かではありませんが、愛媛には山岳霊場の篠山と石鎚山、日本惣鎮守の三島大明神を祀る大山祇神社が存在することと関係があるように推測されます。

写真① 四国遍路道中図に見る神社系の札所寺院(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 小松勝記「霊場とされる【札所・番外】神社絵模様」(『四国辺路研究叢書 第四号』四国辺路研究会、2004年)などを参考にして、現在の四国八十八箇所霊場と主な番外霊場の中で、かつて神社の別当寺であった札所を県別に確認してみましょう。なお、〔  〕内は別当寺や納経を行った寺院です。別当寺が複数ある事例や寺号を変更した別当寺の事例なども確認されます。また、神仏習合時代の四国霊場の実態を捉えるために、寛政10年(1798)の四国遍路の納経帳(当館蔵)から、主な神社系札所の納経印を紹介します。 

 【徳島県・阿波国】

 〇第1番

 ・阿波一之宮(大麻比古神社)〔霊山寺〕

 〇第13番

 ・阿波国一宮神社〔大日寺〕

 納経帳に「奉納/本尊大日如来/一宮大明神/大栗山/大日寺/四月三日」と記載(写真②)。

写真② 第13番一宮神社・大日寺(当館蔵)

 【高知県・土佐国】

 〇第27番

 ・神峯神社〔常行寺、神峯寺〕

 〇第30番

 ・土佐神社(土佐一宮)〔神宮寺、長福寺、国分寺、安楽寺、善楽寺〕

 納経帳に「奉納経/正一位高鴨大明神/土佐国一之宮別当/善楽密寺/四月十九日」と記載(写真③)。

写真③ 第30番土佐神社・善楽寺(当館蔵)

 〇第37番

 ・仁井田五社(高岡神社)〔福円満寺、岩本寺〕

 納経帳に「奉納土佐国/仁井田五社宮/別当岩本寺/今月今日/行者丈」と記載(写真④)。

写真④ 第37番仁井田五社・岩本寺(当館蔵)

 〇番外

 ・月山神社(南照寺)

 神仏習合の江戸時代の神社系札所の納経帳には、第13番の一宮神社のように、本地仏「本尊大日如来」と祭神「一宮大明神」の両方が記されているものが見受けられます。また、第37番仁井田五社宮の「別当岩本寺」のように明確に「別当」と記載されています。

 徳島県の神社系札所で興味深い点は、大麻比古神社(鳴門市)が札所に選定されていないことです。阿波国一宮とされている神社は、第1番霊山寺近くの大麻比古神社、第13番大日寺の山門前に鎮座する一宮神社(徳島市)など諸説あります。元禄2年(1689)の『四国霊場記』に霊山寺は大麻比古神社の奥院と記載されていますが、天明7年(1787)の納経帳には「阿陽一之宮 正一位太麻彦神社 別当霊山密寺」とあります。

 高知県では第30番土佐神社(高知市)の別当寺の変遷が複雑です。明治期に善楽寺が廃寺後、安楽寺(同市)を30番札所としてきましたが、昭和4年(1929)に善楽寺(同市)が再興されますが、長らく2箇寺を30番札所としてきた特異な事情があります。同様な事例として、第37番の仁井田五社(高岡郡四万十町)の別当岩本寺(同町)は神仏分離で廃寺、愛媛県八幡浜の大黒屋吉蔵が札所の権利を岩本寺から買い取り、「第37番札所大黒山吉蔵寺」を創建しました。明治22年(1889)に岩本寺は再興されましたが、一時期、第37番札所は高知の岩本寺と愛媛の吉蔵寺の2箇寺が並立しました。

 愛媛県と香川県の神社系の札所については、次回に紹介します。

民俗展示室3「四国遍路」展示替えのお知らせ

2025年5月3日

 民俗展示室3「四国遍路」の展示替えを行いました。今回新たに展示した館蔵資料について紹介します。

①『御府内八十八ヶ所道知るべ』3冊 慶応2年(1866) 

 御府内とは江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域を指します。御府内八十八ヶ所は、政治・文化の中心である江戸において開創された四国遍路の写し霊場(地四国)のことで、開創は江戸時代中期の宝暦5年(1755)と伝えられています。創始者は定かではありませんが、信州浅間山真楽寺の憲浄僧正と下総国松戸宿の諦信が協力して開基した説、31番多聞院の正等和尚開基説などがあります。開創以来、幾多の戦災や天災に見舞われ、札所の場所が移転しているところが多く確認されます。

 本書は江戸の御府内の八十八ヶ所の案内書であり、札所ごとに道案内や縁起、該当する本四国の札所の御詠歌、境内の景観などが絵入れで紹介されています。絵師は歌川広重の門人で『名所江戸百景』などを手掛けた二代広重画。発願主は江戸の大和屋孝助、三河屋利兵衛。

②小豆島八十八箇所霊場案内絵図 昭和15年(1940)

 風光明媚な瀬戸内海国立公園の真ん中に位置する小豆島(香川県小豆郡小豆島町・土庄町)には、空海が故郷の讃岐国と京の都を往復する際に小豆島に立ち寄り修行を行ったという弘法大師伝説があります。そうした伝説を背景に、貞享3年(1686)、小豆島の僧が結集し、島一円を霊域とする小豆島八十八箇所霊場が開創したと伝えられます。

 小豆島霊場は地元で「本四国」に対して「新四国」ではなく、「元四国」と呼ばれ、島の山谷や自然の地形を利用した山岳寺院の札所が多く、古くからの「行場」と伝えられる修行場が存在します。

 遍路道は全長約145㎞、日程的に徒歩は7~8泊、自転車4~5泊、車3~4泊を要します。春の巡拝シーズンには遍路にお接待が行われています。小豆島霊場は知多四国(愛知県)、篠栗四国(福岡県)と共に「日本三大新四国霊場」に数えられています。

 本図は凡例にあるように、寺院、仏堂、番外奥之院、納経出所数、順拜道路、郵便電信局、宿屋、名所古跡、巡航船路、渡船場、汽船航路、不定期汽船、車馬道、坂道まで記載され、小豆島八十八ヶ所霊場絵図の中でも詳細な案内図となっています。特に小豆島への航路便が分かり易く記載され、本図に示す距離は正確な実測に基づいた数値で記されています。

 この他、江戸時代からの旧遍路道の景観が残されて、国史跡「伊予遍路道」に追加指定された岩屋寺道と浄瑠璃寺道の写真パネルなども新たに展示しました。ぜひ博物館の常設展示室「四国遍路」をご覧ください。

 なお、四国霊場の写し霊場については、令和4年度特別展図録『浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場』(2022年)で紹介しています。当館のミュージアムショップで販売中です。詳しくは当館ホームページ「調査・研究」の「展示図録」でご確認ください。