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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情66―失われた番外霊場「龍の岩屋」②―

2025年4月1日

 ブログ64で四国霊場第21番太龍寺(徳島県阿南市)の近くにあった「龍の岩屋・窟(いわや)」について紹介しましたが、今回はその続編です。

 江戸時代以来、遍路をはじめ多くの旅人が訪れてきた龍の岩屋。歴史的に見て、阿波(徳島)の名所旧跡や番外霊場として位置づけられますが、大正時代から昭和時代(戦前)にかけて発行された四国遍路道中図には記載されていません(写真①)。もちろん四国には数多の名所旧跡や弘法大師ゆかりの霊場があるため、それらすべてを一枚の絵地図に網羅することは到底できません。しかし、四国遍路道中図は浅野本店版、光栄堂版、江口商店版など、徳島県内の仏具・巡拝用品店等が広告主兼発行者となっているものが多いにもかかわらず、郷土の霊場・龍の岩屋がまったく紹介されていないのは疑問が残ります。

写真① 太龍寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 なぜ四国遍路道中図の諸版に龍の岩屋が記載されていないのか。この点について詳細はわかりませんが、想像をたくましくすると、四国遍路道中図作成・発行にあたり、①編集紙面のレイアウト上の制約で割愛した、②先行する道中図の内容を踏襲した、③四国巡拝のルートから逸脱し往来に時間を要するため、④四国巡拝のルートに「灌頂の滝」を組み入れているため、⑤山道や洞内の崩落などで参拝が困難、⑥龍の岩屋の管理所有者との利権問題、等々の事情を思い浮かべます。

 反対に、龍の岩屋が記載されている四国遍路絵図類はどのようなものがあるのでしょうか。

 ブログ64で戦前の四国遍路ガイドブックである昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「番外二十一番奥の院 太龍窟」と紹介され、本書挿入の小さな略図「四国八十八箇所霊場行程図」にも記載されていることを指摘しましたが、筆者は新たに大正3年(1914)頃に発行されたと見られる一枚刷りの四国遍路絵図(縦55.0㎝×横39.4㎝)に龍の岩屋の記載を確認しました(写真②)。

写真② 四国遍路絵図(大正3年、個人蔵)

 本図は中央部に弘法大師御影を配して四国八十八箇所の由来を記し、四国の形は大きくデフォルメされ、上部(西・伊予)、下部(東・阿波)、左部(南・土佐)、右部(北・讃岐)となる構図で、四国八十八箇所霊場の札所間の距離(里丁)などが示されています。一見すると、江戸時代の一枚刷りの四国徧禮(へんろ)絵図と類似する内容となっていますが、近代の名所、市街地、鉄道、航路など新しい情報も簡略ながら記載されています。絵図周縁部には「四国かけくじ商 合同販売」「大正三年四月改正」「松山大街道谷口支店□印」「定価金七銭」と記されています。本図の発行と四国かけくじ商による合同販売との関係は不明です。

 注目したいのは、龍の岩屋への参詣が推奨され、四国遍路の巡拝コースに組み込まれている点です。絵図を詳しく見ると、「廿一太竜寺」(第21番太龍寺)と「廿二びょふ等寺」(第22番平等寺)との間に丸印で「龍ノ岩や」と大きく表示し、「必ズ岩やへ行ベシ」と注記があります(写真③)。そして、太龍寺と龍の岩屋を結ぶ「く」の字状の線は「いわや道」、「カモ谷」は加茂谷、「一宿あん」(一宿寺)と太龍寺道を結ぶ線は「かも道」と推察されます。 

写真③ 龍の岩屋周辺(四国遍路絵図、大正3年、個人蔵)

 ちなみに太龍寺周辺の遍路道(鶴林寺道・かも道・太龍寺道・いわや道・平等寺道)及び境内(鶴林寺・太龍寺・平等寺)は国史跡「阿波遍路道」に指定されています。

 龍の岩屋へ巡拝することを推奨する大正期の四国遍路絵図の存在は、龍の岩屋が必見の価値ある名所旧跡・霊場であったことを証明しています。このように近代の四国遍路絵図類において、龍の岩屋の記載の有無が確認できます。作成者の主眼や編集方針にもとづくものと解されます。

 龍の岩屋は江戸時代以来、四国遍路で知る人ぞ知る隠れた霊窟でしたが、近代の案内記に「番外二十一番奥の院 太龍窟」として紹介されて一般に広まっていく矢先、戦後に石灰岩の採掘のため消滅したという数奇な運命をたどります。近代における四国八十八箇所の番外霊場や奥の院の形成過程と四国巡拝のルートを考える上で、龍の岩屋の事例は注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情65―宇和海と四国遍路⑥ 南予地方の観音霊場・明石寺―

2025年3月28日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 愛媛県西予市宇和町にある四国八十八箇所霊場第43番札所の明石寺は縁起によると乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされ、古来より南予地方の観音霊場として人々の信仰を集めています。また、江戸時代には本山派修験寺院の拠点となり、宇和島藩主・伊達家の祈願所としても栄えました。

 南予地方の宇和海沿岸では古代、中世から鰯(いわし)漁などの漁業が盛んに行われてきましたが、宇和海の名産である鰯と明石寺の本尊観音菩薩との関係を示す興味深い記述があります。

 承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」によると、「此宇和島ハ昔ヨリ万事豊ニテ自由成所ナリ。殊ニ魚類多シ、鰯ト云魚ハ当所ノ名物也。是ハ当郡明石観音衆生済度ノ為ニ分身反作シテ鰯ト也玉フト也(中略)今ノ世迄、此郡十里ノ海ニ住魚ノ形質味マデ世に勝タルト也」とあり、宇和島の名物の鰯は明石観音(明石寺本尊)による衆生救済のための化身であること、宇和海の魚は見た目も味も優れていることなどが記されています。観音信仰の広がりと宇和海の幸(魚類)との結びつきを示す伝承として注目されます。

 明石寺の観音信仰の中心となるのが本尊千手観音坐像(秘仏)です。貞享4年(1687)の真念『四国辺路(徧禮)道指南』には本尊御影が掲載され、「本尊千手 坐三尺 唐仏」と記され、渡来仏「唐仏」と伝えられています。愛媛県教育委員会『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第43番札所 明石寺』(2019年)によると、本尊千手観音坐像の制作年代は寄木構造などから平安時代末期の作と考えられています。

 遍路が納経の際に授かる本尊御影札(当館蔵、写真①)には中央に千手観音坐像、本尊の脇侍として左に毘沙門天像、右に不動明王立像が描かれています。千手観音三尊像は現在の本堂の配置と同じです(『明石寺と四国遍路』愛媛県歴史文化博物館、2021年参照)。

写真① 明石寺の本尊御影札(明治時代、当館蔵)

 明石寺は内陸部の宇和盆地に立地していますが、宇和海沿岸の地域ともつながりが深く、明治期に入り、地元を中心とした篤信者によって明石寺の本堂、大師堂、仁王門、地蔵堂など大規模な再興が行われました。境内にある明治42年(1909)の「大師堂等諸堂寄附芳名碑」(当館撮影、写真②)によると、明石寺再興に際して寄付を行った人の住所地、氏名、金額が記録されており、宇和海沿岸の地名では北宇和郡立間(宇和島市吉田町立間)、玉津村(同市吉田町玉津)、喜佐方(同市吉田町)、深浦(同市吉田町深浦)、白浦(同市吉田町白浦)、西宇和郡朝立(西予市三瓶町朝立)、蔵貫(同市三瓶町蔵貫)、皆江(同市三瓶町皆江)、三瓶町(同市三瓶町)、長早(同市三瓶町長早)、津布理(同市三瓶町津布理)、周木(同市三瓶町周木)、西宇和郡高山村(同市明浜町高山)、狩浜(同市明浜町狩浜)、宮ノ浦(同市明浜町宮野浦)、狩江村(同市明浜町)、俵津(西予市明浜町俵津)、八幡浜(八幡浜市)、西宇和郡伊方村字亀浦(西宇和郡伊方町亀浦)などが確認できます。宇和海沿岸の村と浦から多くの浄財の喜捨が行われたことがわかり、明石寺の信仰圏の広がりが見て取れます。

写真② 明治42年の「大師堂等諸堂寄附芳名碑」(当館撮影)

 また、明治以降、明石寺の本堂、仁王門、地蔵堂などの屋根には耐寒性のある赤褐色の石州瓦(島根県石見地方で生産する粘土瓦)が使用され、こんにちの明石寺境内の特徴的な景観となっていますが、買い付けた石州瓦は俵津港(西予市明浜町)に陸揚げされ、俵津の人々が3枚、5枚ずつ背負って明石寺に運んだといわれています。

 昭和6年(1931)のアルフレート・ボーナーの『同行二人の遍路』(邦訳)に収録する古写真(当館蔵、写真③)の中に、明治期に再興された明石寺本堂の姿が写されています。本堂の正面には本尊に祈願して様々な奉納物が供えられており、霊験あらたかな観音霊場として人々に篤く信仰されていることを物語っています。

写真③ 明石寺本堂(アルフレート・ボーナー『同行二人の遍路』(邦訳)、昭和6年)

 ※特別展「宇和海のくらしと景観」では、近世の宇和海の網代(漁場)を描いた絵図、明治の漁法を記録した水産絵図、地理学者村上節太郎が昭和20~30年代に撮影した宇和海のイワシ船などを撮影した貴重な古写真を紹介しています。会期は残りわずかです(4月6日迄)。お見逃しなく。 また、宇和海の貴重な古絵図、古写真などを紹介した特別展図録も絶賛販売中です。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情64―失われた番外霊場「龍の岩屋」①―

2025年3月21日

 四国霊場第21番太龍寺(徳島県阿南市)の東南山腹にかつて「龍の岩屋・窟(いわや)」という鍾乳洞がありました。龍の岩屋については古くから知られ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、元禄2年(1689)の寂本『四国霊場記』、寛政12年(1800)の河内屋武兵衛「四国遍禮名所図会」、文化6年(1809)の升屋徳兵衛「四国西国順拝記」、弘化元年(1844)の松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」など、江戸時代の案内記や遍路日記類に登場します。

 なかでも絵師西丈が描いた『中国四国名所旧跡図』所収の「阿州太龍寺岩谷図」(当館蔵、写真①)は、案内人を付けて松明を灯して洞内に入る場面が描かれ、江戸時代後期の「龍の岩屋」見物の様子を伝えています(ブログ「中四国名所旧跡図36 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)」参照)。

写真① 絵師西丈が描いた『中国四国名所旧跡図』所収の「阿州太龍寺岩谷図」(当館蔵)

 近代に入り、明治16年(1883)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』には「大龍寺より卅六丁下りて龍の窟あり、霊窟也」と記され、番外の四国霊場として多くの遍路が巡拝したことが推察されます。

 実際、明治~大正時代に四国遍路を行った北宇和郡九島村(愛媛県宇和島市)出身の遍路の所持品に、龍の岩屋を描いた絵図が2枚確認できます(当館蔵、写真②)。そのうちの1枚は表題に「竜ノ岩屋内部ノ真景」とあり、刊記によると明治15年(1882)に徳島県徳島市大字佐古村の士族佐藤熊五郎が作成したものであることがわかります。

写真② 龍の岩屋を描いた絵図。北宇和郡九島村(宇和島市)の遍路の所持品(当館蔵)

 本図には、龍の岩屋内の様々な場所に名前が付けられており、松明を持った案内人に先導されて洞内をめぐり、弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などに参拝する遍路の姿が描かれています。太龍寺参詣後に龍の岩屋を訪れて、こうした絵図を遍路土産として買い求めたことがわかります(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年参照)。

 近代の案内記で龍の岩屋について詳しく紹介したのが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』です。本書では「番外二十一番奥の院 太龍窟」と紹介され、四国八十八箇所霊場第21番の奥の院として位置付け、名称を「太龍窟」としています。説明文には「御本尊弘法大師 当窟は大師御修行の道場で、当山に悪龍棲み人畜に害を与えますので大師は障碍を避けんと百日の求聞持法を修されました時、虚空蔵菩薩空中より宝剣を授け給い、十六丈の大蛇を窟に封鎖せられたところであります。県下有数の石灰洞で奥行五十五間あり、最も広い処を千畳敷、狭い処を龍の迫割(せりわり)と申します」とあります。洞窟の案内の有無については言及していませんが、本書折り込みの略図「四国八十八箇所霊場行程図」にも太龍窟が記載され、四国巡拝コース上に位置付けられています(写真③)。

写真③「四国八十八箇所霊場行程図」(安達忠一『同行二人 四国遍路たより』、昭和9年、個人蔵)

 一方、四国遍路道中図の場合、大正6年(1917)駸々堂版、昭和13年(1938)渡部高太郎版などを確認すると、龍の岩屋は記載されておらず、番外霊場や名所古跡として選定されていません。この点については別稿でふれたいと思います。

 戦前、龍の岩屋めぐりの記録として注目されるのが、昭和18年(1943)の漫画家・宮尾しげをが著した遍路記『画と文 四國遍路』です。宮尾は太龍寺参拝後に龍の岩屋に訪れ、その体験談を本文と挿絵で紹介しています。

 「ここは大師が悪龍を封じたところと云ふ。正体は鍾乳洞『龍の窟案内十銭』と札が出ている家が前にある。頼むと蝋燭に火をとぼし私の身体に白い着物を着せて『サァ案内いたしませう』窟の中には、ごうごうと音をたてて一間幅ぐらいの川が流れている。づるづると苔で滑る道をふみふみゆく。様々な名前が岩につけられてある『ここは、継子(ままこ)いぢめと云ひます、継子をいぢめた女が、この石の間を通るとき、両方から石がよつてきて挟みまして身体が抜けません、どうした事と尋ねましたら、継子いぢめをした罪だつたのです、懺悔(ざんげ)したら、石は元の通りになりました』『ヘェそれを見ましたか』『いいえ、さういふことが伝へられてます』先の方の見物が『南無大師遍照金剛ありがたやありがたや』と云ひながら歩いている。あとで聞いたが、この窟は遍路が有難がる所ださうだ。鍾乳洞も場所によつて生きるものである。」

 これによると、龍の岩屋は悪龍退治の弘法大師伝説があり、洞窟前の人家で10銭払うと洞窟の案内を行っていたこと、その際に白着物を着用したこと、洞内は「継子いじめ」など様々な名前が付けられた奇石があり、遍路は大師御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えて感謝しながら洞内を巡っていたことなど、龍の岩屋見物の様子がうかがわれます。

 「継子いじめ」の事例は、四国遍路の勤行次第で唱える「懺悔文」(さんげもん)」が教示する「過去に犯した罪を改めて仏に懺悔する」という意味に通じます。また、白着物は死に装束を意味し、洞内めぐりは暗闇の中の狭い場所を歩いて修行する「胎内くぐり」のように、霊窟を巡って肉体と魂を浄化して生まれ変わるという考え方に導かれて行われたものと解されます。弘法大師が修行したと伝えられる龍の岩屋は、こうした神秘性や修行性を体感できる洞窟霊場として遍路に人気があったものと推察されます。

 江戸時代から知られていた龍の岩屋ですが、戦後まもなくセメント工場が所有となり、石灰岩の採掘のため現在は残っていません。四国遍路は長い歴史の中で、特に近代以降、明治維新による神仏分離、開発、戦争、自然災害などいろんな影響を受けて今日に至りますが、龍の岩屋は近代の開発によって失われた番外霊場の事例として注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情63―宇和海と四国遍路⑤ 遍路装束―

2025年3月15日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 本展の第3章「村上節太郎の見た宇和海」では、愛媛の地理学者・村上節太郎が戦前から戦後にかけて撮影した宇和海沿岸部の景観や人々のくらしの様子を写真パネルと関連資料で紹介しています。

 注目したいのは、昭和20年代~30年代の古写真の中に柑橘栽培などの農作業や収穫物などを背負って運ぶ人々の姿が写されており、縞(しま)や絣(かすり)模様が入った着物や、それらの古布を裂いてリサイクルした裂織(さきおり)の着物が用いられている点です(写真①②)。絣糸を組み合わせて様々な模様を生み出す絣は、従来の縞織物に代わる新しい織物として、明治時代~昭和時代(戦前)にかけて盛んに生産され、伊予絣(愛媛県松山市)、久留米絣(福岡県久留米市)、備後絣(広島県福山市)は日本三大絣として知られています。

写真① 絣や縞の着物を着てムシロを運ぶ女性(昭和31年5月、伊方町三崎、村上節太郎撮影、当館蔵)
写真② 裂織を着てカルイカゴ(背負籠)を背負った女性(昭和20年代、伊方町名取、村上節太郎撮影、当館蔵)

 なかでも伊予絣は日常着、学生服、労働着などあらゆるシーンで人々の衣生活を支えてきました。四国遍路道中図が発行された大正時代から昭和時代(戦前)は、ちょうど日本で絣が庶民の衣料として普及した「絣の時代」にあたり、四国遍路の巡礼着にも伊予絣などの絣が用いられました(『伊予かすり 絣文様の世界』愛媛県歴史文化博物館、2019年参照)。

 今回は四国遍路における遍路装束について紹介します。

 こんにちの遍路の姿は正装とされる白装束のイメージが定着しています。実際に団体バスツアーで四国霊場を巡拝する遍路は巡拝用品店などで入手した白衣や巡拝用品を身につけた白装束の姿をよく見かけます。四国八十八ヶ所霊場会のホームページによると、「遍路姿 白装束が基本です。(少し略される方は洋服の上に白衣と輪袈裟を着け、白の靴でも良いでしょう。)袈裟は必ず着用し、杖、念珠そして納経帳も必ず持ちましょう。衣装を整える事でお参りに対する気持ちや、心構えが、随分と変わるものです。」とあります。

 遍路の白装束の中心となるのが「白衣(はくえ)」です。白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)には、白衣について「巡礼する時に着用する、袖がある白い行衣。「びゃくえ」と読むこともある。本来は、背負っている笈(おい)のため、白衣の肩のあたりが擦り切れないように、この上から袖のない笈摺(おいずり)を着た。今日では、白衣か笈摺か、どちらか一方を着用するが、白衣のほうが正式のように思われている。白衣は、いわゆる死装束で、巡礼が他界(聖なる世界)を行く者であることを象徴する」とあり、白衣は四国遍路に限らず巡礼の衣装であり、死に装束の象徴とされています。

 戦前の四国遍路案内記である、昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によると、「白衣は、晒し木綿或いは白金巾にて着物を仕立て上げて持参するのです。仕立ては一反にても半反でもよい、心任せです。此の着物に御納経帳同様に御宝印を受くるのです」と記され、白衣は各自で仕立てて用意し、札所で納経帳と同じようにそこに御朱印を押印することを奨めています。

 白衣の普及については、昭和37年(1962)の荒木戒空『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店発行、四国霊場会後援)の「遍路の今様」によると、「服装 昔のよう一定のフォームは少なくなりました。しかし本四国は今に白装束が一番多く、次いでハイキング姿です」とあることから、四国遍路で白装束姿が普及するのは戦後しばらくたってからと見られ、その背景には四国霊場会による推奨が要因の一つとして考えられます。

 ちなみに『巡拝案内 遍路の杖』を発行した浅野総本店(スモトリ屋)は第10番切幡寺参道にある老舗の仏具・巡拝用品店で、本ブログで紹介する四国遍路道中図なども発行し、現在も四国遍路文化の普及に貢献されています。

 次に、戦後に白装束が普及する以前の遍路の服装について資料から見てみましょう。

 明治後期に旧山田大師堂(愛媛県西予市宇和町)に奉納された11人(男性8名、女性3名)の団体遍路の記念写真(当館蔵、写真③)を見ると、いずれも白装束でなく縞や絣の着物姿です。それぞれが頬被り、手甲、足袋、草鞋、金剛杖、札挟み、数珠などを身に着けています。

写真③ 明治時代後期に旧山田大師堂に奉納された団体遍路の記念写真(当館蔵)

 昭和11~12年(1936~37)に日本交通公社の前身にあたるジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協會)が発行した戦前のガイドブック『四國地方』(英語版『HOW TO SEE SHIKOKU』)では、絣の着物姿の娘遍路が表紙を飾っています(写真④)。手には菅笠、金剛杖を持ち、首から札箱を掛けています。戦前は絣姿の娘遍路が四国のイメージに採用されています。

写真④ ジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協會)発行『四國地方』(英語版『HOW TO SEE SHIKOKU』)、昭和11~12年、個人蔵

 このように明治時代から昭和時代(戦前)にかけては、遍路装束は紺無地、縞、絣などの着物姿が多く見られ、戦後しばらくたってから今日の白装束が普及していったことが推察されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情62―牛馬ゆかりの佛木寺―

2025年3月14日

 今回は四国遍路と牛馬について愛媛県南予地方の事例から探ってみます。

 愛媛県の西南部に位置する南予地方は、牛の角を突き合わせする闘牛(写真①)や、祭礼に登場して悪魔払いを行う牛鬼が有名です。また、戦前の四国遍路で漫画家・宮尾しげをが宇和海の深浦港から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)まで乗合馬車を利用したように、南予では馬車が遅くまで運行されていました(本ブログ60「乗合馬車」参照)。

写真① 絵葉書「伊予 宇和島闘牛会」明治時代後期、個人蔵

 自然環境に恵まれ多彩な農林水産業が営まれてきた南予地方は牛馬とのつながりが深い土地柄です。明治27年(1894)の宮脇通赫『伊予温故録』によると、愛媛県内の牛馬市は春秋の2回か夏季1回行われ、実際に南予各地で多く開催されていることがわかります。南予の風物詩ともいえる牛馬市は、江戸時代後期の西丈画「中国四国名所旧跡図」(当館蔵、写真②)に描かれており、大洲の肱川河原(愛媛県大洲市)で馬喰(ばくろう)たちが牛馬の売り買いをしている賑やかな様子がうかがえます(ブログ「中国四国名所旧跡図55 与州大津町馬市所(大洲の馬市)」参照)。

写真② 「中国四国名所旧跡図」の「与州大津町馬市所」、当館蔵

 近代化によって交通の発達や農業が機械化する以前、家畜としての牛馬は運搬や農作業などの重要な労働力として大きな役割を果たしました。

 当館が収蔵する民俗資料の中に、農作業で牛馬に引かせて田畑を耕す時に用いる犂(すき)、水田の土をかきならすための「馬鍬」(まぐわ・まんが)、農具等を牛馬の背に装着するための牛鞍・馬鞍などがあり、それらはいかに牛馬が人々のくらしを支えてきたかを如実に物語っています(写真③)。そのため牛馬は家の宝として、家族の一員として大事に飼育・世話をされ、その安全を祈願する習俗があり、牛馬が病気になると神仏に参拝して平癒を祈りました。

写真③ 犂(左)と馬鍬(右) 当館蔵

 さて、牛馬とゆかりの深い四国八十八箇所霊場といえば、第42番札所佛木寺(愛媛県宇和島市三間町)があげられます。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で佛木寺を確認しましょう(写真④)。

写真④ 佛木寺周辺 昭和13年「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)

 佛木寺は宇和島と卯之町の間に位置し、遍路道の距離は第41番龍光寺から「廿五丁」、次の第43番明石寺までは「三リ廿丁」と記載され、札所を示す丸印の中心には本尊の大日如来が漫画チックに描かれています

 佛木寺が牛馬と関係が深いのはその縁起に基づいています。寺伝によると、空海が唐から帰朝後の大同2年(807)、大師は牛をひいた老翁に会いこの地に来たところ、楠の老木に宝珠が掛かっているのを発見します。その宝珠は大師が唐に留学した時に日本に密教有縁の地を求めるために三鈷杵とともに東方に向けて投げたものでした。そこで大師は、楠で大日如来の尊像を刻み、その眉間に宝珠を納めて本尊とし、堂宇を建立したことが記されています。

 仏木寺が戦前に発行した絵葉書には「当山本尊は小児牛馬の守り佛です」(写真⑤)とあり、また、昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四国遍路』には、佛木寺の本尊御影札が掲載され、札には大日如来の仏前に牛馬と人が描かれ、「四國四十二番本尊大日如来 ホーソーよけ牛馬安全の守り佛」と記されています(写真⑥)。これらのことから、本尊の大日如来は子どもや牛馬の守り仏として信仰されていることがわかります。「ホーソー(疱瘡)よけ」にご利益があるとされるのは、天然痘(てんねんとう)の予防接種として、牛に発生する牛痘の膿疱(のうほう)を用いる「牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)」が行われてきたことに由来するものとみられます。

写真⑤ 佛木寺絵葉書(昭和時代、個人蔵)
写真⑥ 佛木寺の本尊御影札(昭和5年、島浪男『札所と名所 四国遍路』所収、個人蔵)

 さらに注目したいのは、佛木寺の境内には本堂の右手に家畜の安全祈願を祈る家畜堂(小祠)の存在です。オーストリア人のアルフレート・ボーナーが昭和6年(1931)にドイツ語で著した『同行二人の遍路(邦題)』(当館蔵)には戦前の家畜堂を撮影した古写真が収録されています(写真⑦)。堂内に牛馬用の草鞋が奉納されており、家畜として牛馬を大切にしたことが偲ばれます。なお、現在の家畜堂には牛馬に限らず愛玩するペットの供養物なども奉納されています。

写真⑦ アルフレート・ボーナーが撮影した佛木寺の家畜堂(『同行二人の遍路(邦題)』、昭和6年、当館蔵)

 佛木寺近郊には九州方面からの玄関口となる八幡浜港があります。宇和島街道と八幡浜を結ぶ八幡浜街道笠置峠越(国史跡)は遍路道としても利用されてきました。道沿いに地元で「牛神さま」と親しみを込めて呼ばれている2体の石仏が岩穴の中に祀られています。左が馬頭観音像、右が大日如来像(写真⑧)です。こうした光景はまさしく人々の牛馬への感謝の気持ちと交通の安全を祈る信仰の姿を今に伝えています。

写真⑧ 八幡浜街道の笠置峠越(国史跡)の「牛神さま」、当館撮影

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情61―宇和海と四国遍路④ ミカンとお接待―

2025年3月7日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 愛媛県は「ミカンの国」「柑橘(かんきつ)王国」とも呼ばれ、温州ミカンをはじめ多くの柑橘類を生産する日本有数のミカンの産地です。なかでも宇和海のリアス海岸の急斜面に広がる段々畑や山地ではミカンの栽培が盛んで、「八幡浜ミカン」「西宇和ミカン」「宇和島ミカン」は、豊富な日光を浴びて潮風に育てられた美味しいミカンとして人気です。

 そもそも愛媛のミカン栽培は宇和海に面した北宇和郡立間(たちま)村(宇和島市吉田町立間)で始まったとされています。

 最初に昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で「立間」の位置を確認しましょう(写真①)。宇和島から卯ノ(之)町、八幡浜方面へ鉄道(未成線)と道路が通じています。「立間」は宇和島から2つ目の宿駅(宿場)です。付近には絶景の宇和海が一望できる法華津峠があります(本ブログ58「自動車遍路の人気スポット・法華津峠」参照)。

写真① 愛媛ミカンの発祥地と伝えられる立間周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 立間に温州ミカンが導入された由来については、1730年代に立間の加賀山平次郎、毛山平之進らが西国巡礼、伊勢参宮の帰途、紀州(和歌山県)より持ち帰ったとする説、寛政年間(1789~1801年)に加賀山平次郎が土佐(高知県)より苗を持ち帰ったとする説、文化年間(1804~1818年)に平次郎が四国遍路に出て土佐から持ち帰ったとする説、文久元年(1861)に平次郎が紀州から苗木を購入したとする説、慶応元年(1865)に立間の加賀山千代吉が苗木商から苗木を購入したとする説、最初に植えたものは出雲(島根県)の遍路が送ってきたものとする説など、さまざまな説が伝わっています(『遍路のこころ』愛媛県生涯学習センター、平成15年参照)。それらは根拠となる同時代史料に乏しく、後世の伝承に基づいていますが、江戸時代に紀州や土佐から伊予にミカンが導入され、その先進地が立間であったことを示唆しています。

 注目したいのは、西国巡礼や伊勢詣、四国遍路などの旅の中で巡礼者などによって有形無形のさまざまな情報や文化が各地に伝播されたと考えられる点です。遍路によって愛媛にもたらされたと伝えられるものに、温州ミカンの他には、土佐の良質な稲を持ち帰り広まったとされる松山地方の「英吾米」や今治地方の「三宝米」、その作り方を伝授したとされる宇和島地方の「丸ずし」、西条市小松町の「よしの餅」などがあげられます。

 ところで、四国遍路において「ミカン」と言えば、遍路が道中でいただく接待品のイメージが強く、第1番霊山寺(徳島県鳴門市)の「有田(ありだ)接待講」を思い浮かべます。

 有田接待講は江戸時代から続く歴史があります。紀州有田地方(和歌山県有田市周辺)の人々が講を結成し、家々から接待品を集めて、毎年春に紀伊水道を渡り、霊山寺境内の接待所で特産の有田ミカンなど心づくしの品々をお遍路さんに無償で与えています。四国内の一般の人々による個人接待ではなく、四国外から接待のために海を渡り、四国霊場の札所において団体で行う接待として注目されます。

 また、昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』に「遍路の長く寂しい道にも慰めはある。もの陰に、ラムネ、みかん、豆などを売っている露店が、それである。」とあるように、現在も遍路道の風景として、ミカンが置かれている無人販売所をよく見かけます。

 さらに興味深いことは、空海は別当を務めていた乙訓(おとくに)寺(京都府長岡京市)の境内に実っている柑子(かんす。みかんの原種)を称賛して、漢詩を添えて嵯峨天皇に献上したことが『性霊集(しょうりょうしゅう)』巻第四「柑子を献ずる表」に記載されています。漢詩の引用は割愛しますが、その大意は、桃やスモモは珍しいけれども寒さに耐えることができない。柑橘は霜の中でも美しく育ち、黄金であり永遠である。香りも味も芳しく、例えようもない珍味である、と称えています(『弘法大師空海展』愛媛県歴史文化博物館、2014年参照)。 

 今回は宇和海特産のミカンに着目して四国遍路について考えてみました。ミカンは日本人にとって古くから親しまれてきた果物であるため、四国遍路といろんな関りがあることがわかります。

 なお、特別展「宇和海のくらしと景観」では、地理学者村上節太郎が昭和20~30年代に撮影した宇和海における温州ミカンや夏柑などの収穫や出荷風景を撮影した貴重な古写真(写真②③)などが数多く紹介されています。この機会に是非ともご覧ください。また、宇和海に関連する貴重な古絵図、古写真、民俗資料などを詳しく紹介する特別展図録も絶賛販売中です。部数に限りがありますのでお早めにお買い求めください。

写真② 温州ミカンの収穫(昭和31年11月、八幡浜市川上町、村上節太郎撮影、当館蔵)
写真③ ミカンの収穫(昭和40年10月、八幡浜市穴井付近、村上節太郎撮影、当館蔵)

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情60―宇和海と四国遍路③ 乗合馬車―

2025年3月1日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 前回、遍路が利用した宇和海の航路を紹介しましたが、今回は乗合馬車に注目します。

 乗合馬車には不特定多数の客を乗せ、一定の路線を時刻表にしたがって運行される形式と、あらかじめ決められた場所で客を待ち、客の目的地まで運んで運賃を貰う今日のタクシーのような形式があります。

 昭和18年(1943)、漫画家・宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』によると、土佐の片島港(高知県宿毛市)から大和丸で伊予の深浦港に上陸した宮尾は、第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)へ向かう交通手段に乗合馬車を利用しています。

 「(前略)一時十分に深浦の港に着くと馬車が横付けになっていて『四十番へ行きますヨー、乗りなされ』と呼ぶ。船員に尋ねると『乗合自動車もありますが、あてにはなりませんから馬車の方がいいです』そこで馬車にする。港からすぐ山へと掛り、村のある道をグイグイ上がってゆく。雨が降つているので、馬が辿り辷(すべ)りかけたりする。村をはづれて下り道になると、走るは走る畠も丘も山も田も、後へ飛んでゆく。東京人には馬車は珍しいので、少々うれしくなつた時『四十番さんですよ』と降ろされた。時計を見ると二十分乗つていた。」

 東京生まれの宮尾にとってこの時の体験がよほど印象に残ったのか、雨天時の深浦港から乗った馬車の姿を本文の挿絵として掲載しています。絵から判断すると、馬車の形状は馬1頭立ての2輪(車軸が一つ)で屋根付きの軽装馬車で、座席は運転手が前、乗客は後部に座る(収容2~3人程度か)タイプと見られます。汽船から乗合自動車への乗り換えの接続が悪く、乗合自動車があてにならないこと、その代わりに観自在寺に向かう乗合馬車が港に待機していたこと、などが読み取れます。

 深浦の乗合馬車が実際にどのような運行実態であったのかは不明ですが、当時は乗合自動車の数や運行管理も十分でなかったと推察され、そうした乗合自動車の不確実性を補うかのように、四国遍路の道中で乗合馬車が活用されているのは注目されます。

 宮尾がたどったルートを遍路地図で確認します。残念ながら昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には宇和海の沿岸航路は記載されていませんが(写真①)、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に収録する「四国八十八箇所霊場行程図」(写真②、個人蔵)は小さな略図ですが、宇和海の沿岸航路が点線で示され、宿毛~深浦間の航路(青色部分)、深浦と第40番観自在寺の位置関係がわかります。

写真① 宿毛~観自在寺周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)
写真② 宿毛~観自在寺周辺(安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」、昭和9年、個人蔵)

 また、本書は札所の解説の後に次の札所への交通案内が詳しく紹介され、「宿毛片島から乗船、海路三里深浦に上陸し小山を越えて四十番まで一里です」とあります。汽船を利用して宿毛から深浦までの海路の距離は3里で運賃は50銭(約1時間)、陸路で深浦から観自在寺までの距離は1里で、乗合自動車の深浦~平城(観自在寺)間の運賃は25銭であったことがわかりますが、乗合馬車の運賃までは記載されていません。本書の編集方針で車利用の場合は【車馬】と表記されていることからも、乗合自動車の他に乗合馬車も利用されていたことを示しています。

 昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、観自在寺から宇和島に行く方法として、「ここより柏村(愛南町)まで三里余新道も開けて馬車の便もある」とあり、徒歩以外では宇和島まで汽船で行く方法と、車利用の場合は途中の柏村(愛南町柏)まで新道を通る乗合自動車か乗合馬車で行く方法が案内されています。新道の開通によって自動車のみならず、地域によっては馬車による新路線が運行開始され、遍路の移動方法の選択肢が広がっています。

 乗合馬車は都市部では交通環境の進展による鉄道や乗合自動車等の普及によって次第に姿は見られなくなってきましたが、南予地方の宇和海沿岸の深浦や観自在寺周辺では遅くまで人々の移動の足として重宝しました。四国霊場と牛馬の関係性については改めて紹介したいと思います。

 特別展「宇和海のくらしと景観」。この機会に是非ともご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情58―宇和海と四国遍路① 自動車遍路の人気スポット・法華津峠―

2025年2月21日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 今回は四国遍路と宇和海について、法華津峠に注目して紹介します。

 当館がある西予市宇和町と宇和島市吉田町の境に法華津(ほけつ)峠(標高436m)があります。展望台からは眼下に急傾斜地を活かした柑橘の段々畑が連なり、美しいリアス海岸の宇和海(法花津湾)が織りなす雄大な景観が広がり、絶好の展望地として知られています。

 足摺岬、竜串(たつくし)、沖の島、篠山、御五神島(おいつかみじま)、滑床渓谷、法華津峠など、四国南西部の島々を含む海岸部と内陸部の標高1,000m級の山々からなる変化に富んだ景観は、昭和47年(1972)に足摺宇和海国立公園に指定されています。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中(渡部高太郎版、当館蔵)で法華津峠周辺を確認すると、法華津峠は札所では第42番佛木寺(宇和島市三間町)と第43番明石寺(西予市宇和町)との間に位置しますが、海岸沿いのため遠く離れています。宇和島~卯之町~八幡浜の区間は鉄道が開通していない未成線として記載され、平行して自動車が通行可能な道路(宇和島~吉田~立間~法華津峠~卯ノ町)が開通していることがわかります(写真①)。法華津峠越えの道路は今日の法華津トンネルによる新道(現国道56号線、昭和45年完成)ではなく、旧道(吉田町立間~宇和町伊賀上に至る延長約11㎞の急坂)のことで、明治34年(1901)に開通しています。

写真① 法華津峠周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 佛木寺から明石寺に至る遍路道(明石寺道)の巡拝ルートは通常は最短距離となる歯長峠を進むため、歩き遍路の場合、地理的に離れている法華津峠を進むことはごく稀です。

 法華津峠が四国遍路で注目されるようになるのは、近代以降の遍路記類で紹介されたことが要因の一つといえます。いくつか事例を紹介します。

 近代交通を可能な限り活用して四国の観光を取り入れながら四国巡拝を行った人物に島浪男がいます。昭和5年(1930)に島が著した遍路記『札所と名所 四国遍路』によると、宇和島を起点に第41番龍光寺、第42番佛木寺の巡拝を終えた島は再び宇和島に戻り、乗合自動車を使用して、法華津峠経由で第43番明石寺に向かい、その途中の法華津峠から見た宇和海の絶景を称賛し、四国の旅の醍醐味は自動車で峠越えすることにあると力説しています(本ブログ21「明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路」参照)。

 また、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』(鶴書房) によると、宇和島を起点に龍光寺と佛木寺を参拝した宮尾は和霊神社の田植祭りを見学後、同様に乗合自動車を使って法華津峠を経由して卯之町へと進んでいます。

 「卯の町行きの乗合自動車は宇和島を出て小さな峠を越し、吉田の町を抜ける。(中略)天正の昔、法華津範延が土佐の長曾我部、豊後の大友と相拮抗した遺跡の法華津峠を越す。天気がよいと九州方面までよく見えるといふ『あの辺に久原の製錬の煙突が見える筈です』と運転手が空の一角をさす。卯の町で車を下り、町を横切り新道をゆきY字道を左にとる事十三丁、山の中腹に四十三番の源光山明石寺はある。」と記しています。

 ちなみに「久原の製錬」とは佐賀関製錬所(大分県大分市)のことで、大正時代の一時期、煙突の高さで世界一を誇り「東洋一の大煙突」「関の大煙突」と呼ばれ、佐賀関のシンボルとして親しまれましたが、老朽化によって平成25年(2013)に解体・撤去されました。

 宮尾の遍路記からは、歴史的に戦国時代の古戦場であった法華津峠に、乗合自動車を利用して卯之町に向かう遍路が訪れるようになっていること、法華津峠からの絶景の魅力に新たに大分の近代名所が加わっていること、卯之町から明石寺までのルートに自動車が通行できる新道が開通していること、などが読み取れます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』には、宇和島~卯之町間の運賃と所要時間は「一円四十銭(一時間二十分)」とあります。今日からすれば、険しい山道が連続する法華津峠越への旧道は自動車でもかなりの時間を要しますが、当時としては宇和島から卯之町を結ぶ画期的な道路でした。

 戦後、四国遍路において法華津峠がさらに人気スポットとして注目されるようになるきっかけに、伊予鉄による四国八十八箇所を順拝する団体バスの運行があげられます。

 伊予鉄道・伊予観光社による「四国霊場会推薦四国八十八ヶ所順拜バスご案内」と題したパンフレット(昭和32年以降発行。個人蔵)によると、四国八十八ヶ所順拝バスで四国遍路を15日間でめぐりながら四国の観光ができることを宣伝しています。コースの中で観光見学地として組み入れられているのは、琴弾公園、栗林公園、屋島、満濃池、室戸岬、龍河洞、桂浜、足摺岬、法華津峠、面河渓、道後温泉などで、法華津峠は第14日目の予定となっています。パンフレットには実際に過去に本ツアーで法華津峠を訪れた時の写真「順拝バス南国伊予路を行く―法華津峠にて―」が掲載されています(写真②)。当館には昭和31・32年に宇和島の遍路が伊予鉄道の四国八十八箇所巡拝バスで四国遍路を行った時の納経帳も収蔵されています(写真③、当館蔵)。

写真② 伊予鉄道・伊予観光社発行「四国霊場会推薦四国八十八ヶ所順拜バスご案内」、個人蔵
写真③ 伊予鉄道の四国八十八箇所順拝バスで使用した納経帳(当館蔵)

 このように近代以降の道路開発や自動車の普及などの交通環境の進展によって、伝統的な旧遍路道を基本的な巡拝ルートとする歩き遍路とは異なった自動車遍路の巡拝ルートが誕生しました。宇和海を臨む絶好の展望地であった法華津峠は自動車を利用した遍路にとって新しい人気スポットとして注目され、南予地方における四国遍路の観光化の象徴として見ることができます。

 特別展「宇和海のくらしと景観」。この機会に是非ともご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情57―雪の遍路と鴇田(ひわだ)峠―

2025年2月14日

 先日の2月4日~6日頃をピークにこの冬一番の強烈寒波の到来で、四国地方でも山地を中心に大雪となりました。愛媛県歴史文化博物館のある西予市宇和町卯之町も雪景色に包まれ、古い町並みが残る中町(なかんちょう)から博物館に徒歩で最短のルートとなる遊歩道も約10~20㎝の積雪となりました(写真①)。

写真① 卯之町中町から歴史文化博物館への遊歩道の雪景色

 ちなみに、歴博への遊歩道は、四国八十八箇所霊場の写し霊場として天保2年(1831)に創設された坪ヶ谷新四国のルートの一部となっており、道沿いには讃岐(香川)の霊場の石仏(本尊と弘法大師)が配置され、雨山公園内には第88番となる大師堂があります。遊歩道については、過去ブログ「知ってますか? 歴博への近道・遊歩道~歩いてレキハクに行こう1~3」、坪ヶ谷新四国については「坪ヶ谷新四国を訪ねて1~3」を参照ください。

 一般に四国遍路に適した季節は、春(3月中旬~5月)と秋(10月~11月)とされ、この時期は暑すぎず寒すぎず、桜や紅葉などの美しい景色を楽しみながら行うことができます。俳句の季語で「遍路」は春の季語ですが「秋遍路」も使われています。

 交通・通信の整備・発達や歩き遍路ブームなどで、現代はオールシーズンで四国遍路が行われていますが、冬季は最も少なく、特に歩き遍路にとって、天候の悪い日は風雪に打たれて苦行となり、日の暮れが早いため峠道はなるべく明るい午前中に歩くことや、休業する遍路宿があるので宿の状況を確認するなどの注意が必要となります。

 愛媛の遍路道の中でも標高が高く、積雪が多い難所として知られる場所に鴇田(ひわだ)峠(上浮穴郡久万高原町)があります。鴇田峠は前回のブログ56で紹介した番外霊場十夜ヶ橋から第44番大寶寺に至る遍路道(大寶寺道)に位置します。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中(渡部高太郎版、当館蔵、写真②)には「檜皮峠」と表記され、「十夜橋ヨリ内子ヲ経て大宝寺へ十一里七丁」とあり、巡拝ルート上の地名(内子、掛木、成弥、中田渡、上田渡、白株(臼杵の誤植)、下サカバ(下坂場峠)、上サカバ、二名、檜皮峠、久万)が記されています。

写真② 大寶寺道の鴇田峠(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 この区間はいくつもの峠を越える難路で、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』に「人家乏しく又標高七八九米の鴇田峠を越さねばなりません」とあり、また、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂発行)には、ルート上に宿屋組合指定の6軒の宿が紹介されていますが、「ここから(十夜の橋)四十四番へは十一里七丁で(中略)二名から一里十四丁の間は人家乏しく山路のみで宿屋なし」と紹介されています。

 筆者がかつてこの区間を一人で歩いたのは天候の良い3月上旬でしたが、途中で歩き遍路に出会うことはなく、宿泊所もありませんでした。昭和時代(戦前)の遍路の状況と大きく変わらないように思いましたが、今も強く印象に残っていることは、鴇田峠付近の積雪です。

 鴇田峠の山道に入った地点に寛政9年(1797)の武田徳右衛門の遍路道標石(写真③)があり、そのあたりまでは積雪は確認されませんでした。弘法大師が空腹と疲労で自分の修行の足りなさに腹を立てこの岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢したと伝えられる「だんじり岩」付近(写真④)から雪が残り、嘉永4年(1851)の遍路道標石がある鴇田峠頂上(写真⑤)に着くと一気に雪景色に変貌しました。このまま安全に進めるのか不安になりましたが、久万の大寶寺を目指して慎重に雪の遍路道を下山。やっと久万本町大通りが交差する三叉路にある嘉永5年(1852)の遍路道標石(写真⑥)に到着して安堵しました。久万の中心街は全く雪が残っておらず、改めて冬場の山越えの歩き遍路の怖さを思い知りました。

写真③ 鴇田峠の山道入口にある寛政9年の武田徳右衛門の遍路道標石(左端)
写真④ だんじり岩周辺
写真⑤ 鴇田峠頂上付近の嘉永4年の遍路道標石
写真⑥ 鴇田峠を下りた久万本町大通りにある嘉永5年の遍路道標石

 鴇田峠をはじめとする内子町から久万高原町にかけての遍路道沿いには江戸時代の遍路道標石や大師堂なども多く残っています。山間部の遍路道はルートも大きく変わらず、旧遍路道の景観を今に伝えています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情56―十夜ヶ橋と四国遍路―

2025年2月9日

 四国八十八箇所霊場第43番明石寺から第44番大寶寺に向かう途中、愛媛県大洲市東大洲にある「十夜ヶ橋(とよがはし)」(永徳寺)は、古くから弘法大師ゆかりの四国霊場として知られています。

 大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版、当館蔵)には「番外 十夜のはし」(写真①)、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には「番外 十夜橋 四十三番ヨリ六里七丁」(写真②)とあり、遍路が巡拝する番外霊場として記載されています。

写真① 十夜ヶ橋(大正6年、四国遍路道中図・駸々堂版、当館蔵)
写真② 十夜ヶ橋(昭和13年の四国遍路道中・渡部高太郎版、当館蔵)

 昭和18年(1943)に刊行された宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』には、次のような記述があります。

 「お遍路さんが有難がる十夜の橋を見たいので通り掛りの自動車に乗る。弘法大師が、行き暮れてこの橋の下で一夜野宿したが、その一夜が十夜ほどに覚えたといふので、十夜が橋の名がある。原つぱの中に堂があり橋がある。遍路は、この橋を通る時には、弘法大師にあやかるようにと、この橋の下をわざわざ潜って行く、橋の上を渡る時には、もつたいないお姿ですと云つて、ついてる金剛杖を上にあげ、突かずに歩く『杖をつくとその響きで、橋の下の大師さまがおやすみになれない』からであるさうな。」 

 本書からは、四国霊場の中でもとりわけ有名な番外霊場として篤く信仰されていること、遍路は橋の上では金剛杖を突いてはいけないとされる十夜ヶ橋の弘法大師伝説が広く浸透されていることがわかります。

 十夜ヶ橋について江戸時代の案内記・絵図類を確認すると、貞享4年(1687)の真念『四国邊路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「とよか橋、ゆらい有」と記されていますが、詳しくは語られていません。真念が遍路の功徳話を収集してまとめた、元禄3年(1690)の『四国徧禮(へんろ)功徳記』にも紹介されていません。しかし、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図 全」には「トヨガハシ大師一夜トマリナサレシ所」(写真③)と弘法大師伝説が紹介されています。

写真③ 十夜ヶ橋(宝暦13年、細田周英「四国徧禮絵図 全」、当館蔵)

 寛政12年(1800)の『四国遍禮名所図会』には「十夜の橋 大師此辺にて宿御借り給ひし此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下ニて休足遊ばしし所、甚だ御労身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云。大師堂 橋の側にあり」と記され、小川に架かる橋のたもとにある小堂(十夜ヶ橋大師堂)に参拝する阿波(徳島)の遍路(本書の作者と見られる)の姿が挿絵に収録され、江戸時代後期の十夜ヶ橋の様子をうかがい知ることができます。

 明治末~大正初期の絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(写真④、個人蔵)には、肱川の支流である都谷川(とやがわ)に架かる小さな橋の石柱には「十夜橋」と記されています。橋には欄干はなく、両端の石柱に縄がかけられ、納札のような紙がたくさん結ばれています。橋のほとりには石垣の土台の上に瓦葺方形造の堂が築かれ、『四国遍禮名所図会』に描かれた面影が残っています。

写真④ 絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(個人蔵)

 昭和43年(1968)、四国の番外霊場20の寺院が集まり、四国別格二十霊場が創設され、十夜ヶ橋(正法山永徳寺、真言宗御室派)はその第8番霊場に指定され、益々人々の信仰を集めてきました。しかし、平成30年(2018)7月7日の台風7号による西日本豪雨災害のため、十夜ケ橋の境内が水没し、本堂が取り壊されました。その後、有志らによって再建が行われ、令和6年(2024)5月12日に新しい本堂の落慶法要が行われました。  

 十夜ヶ橋の歴史をふりかえると、江戸時代以降に四国遍路が人々に広まっていく中で、四国霊場の形成や発展がどのようになされたのか、また、弘法大師伝説と四国遍路の習俗との関係性、災害と霊場・札所の復興など、四国遍路のさまざまな点について考える上で大きな示唆を与えてくれます。