‘館蔵資料紹介’ カテゴリーのアーカイブ

テーマ展「すえのうつわもの-館蔵品の須恵器紹介-」開催中

11月 7日 金曜日

10月11日(土)より、考古展示室にて「すえのうつわもの-館蔵品の須恵器紹介-」と題したテーマ展を開催しています。

これは、当館保管の須恵器のうち、5世紀後半から8世紀ごろのもの、およそ300点を展示し、時期ごとの変遷や器種の多様性を紹介するものです。

展示している須恵器の出土した遺跡名を列挙しますと、展示室入って右側から順番に、上難波南10号墳、松環古照遺跡、久米窪田Ⅴ遺跡、上難波南0号墳(いずれも松山市)、経ヶ岡古墳(四国中央市)、上三谷原古墳(伊予市)、大小谷谷窯跡(四国中央市)、尾土居窯跡(西条市)、片山1号墳、同4号墳、同7号墳(いずれも今治市)、池の内遺跡(西条市)です。

また、展示室中央部では、上三谷4号墳(伊予市)から出土した大型の壺や、池の内遺跡から出土した大型の甕、大下田2号東墳(砥部町)から出土した器台、上三谷2号墳(伊予市)から出土した装飾須恵器などを展示しています。

本テーマ展は、来年4月5日(日)まで開催しております。常設展示室の一部ですので、常設展示観覧料が必要(小中学生は無料)となりますが、須恵器の優美な形や古代人の技を感じに、ぜひ見にいらしてください。

また、平成27年2月7日(土)には、三吉秀充氏(愛媛大学埋蔵文化財調査室講師)による講座「須恵器の生産と流通」も開催されます。そちらもあわせてご参加ください。

「村上海賊の世界」展示資料紹介(4) 名所絵のなかの瀬戸内海

10月 7日 火曜日

10月19日まで愛媛県美術館(松山市)を会場に開催中の4館合同特別展「村上海賊の世界」。
歴史文化博物館出展資料の紹介シリーズ、第4回です。

浮世絵のジャンルの一つに、各地の名所を画題とした風景画があります。江戸時代後期になると、これまで「名所」として認識されてこなかった、廻船や港の風景を画面の主題としたり、名勝の遠景に廻船を描いたりした名所絵が登場します。
歌川広重の「六十余州名所図会 伊豫西條」もその一つです。
伊豫西條
画面中央に石鎚山を置き、その麓には西条藩松平氏3万石の陣屋町西条、右手前に白帆を巻き上げた廻船を配しています。
広重は実際に西条に出向いたわけではなく、別の絵師が作った図柄をもとに作成したものですが、もともとの図柄には廻船は描かれておらず、手前に白帆を配したのは広重の工夫です。
海賊衆が歴史の表舞台から姿を消したあとも、伊予は瀬戸内海の海上交通を通じて江戸や大坂と緊密に結ばれていましたが、こうした事実が浮世絵の中にあらわれる伊予のイメージを形づくるのに一役かっていたのかもしれません。
 
 「伊豫西條」が展示されている展示室会場の後半エリアでは、瀬戸内海の廻船や港の風景を主題とした歴博出展の浮世絵とともに、県美術館から出展した、瀬戸内海を題材とした近代から現代のさまざまな美術作品が展示されています。
広重とMAYAMAXXさん
左は歴博出展の広重らの浮世絵、右奥にみえるのは県美術館出展のMAYA MAXXさん(今治市出身)の作品「これが私の世界一美しいと思う故郷の景色です」の一部です。
かたや江戸時代の浮世絵、かたや現代アートと、時代もジャンルも違う作品ですが、かつて海賊衆の活躍した瀬戸内海を主題としている点で一貫しており、自然に調和して展示室に並んでいます。
近代以降、さまざまな作家が瀬戸内海を題材とした美術作品を生み出しますが、近世の浮世絵や航路図は、あるいは、そうした活動の源流の一つかもしれません。

4館合同特別展「村上海賊の世界」は、10月19日(日)まで愛媛県美術館(松山市堀之内)で開催中(歴史文化博物館ではございません。ご注意ください。くわしくはこちら
入場無料です。ぜひごらんください!

「村上海賊の世界」展示資料紹介(3) 航路図に描かれた瀬戸内海

10月 6日 月曜日

10月19日まで愛媛県美術館(松山市)を会場に開催中の4館合同特別展「村上海賊の世界」。
歴史文化博物館出展資料の紹介シリーズ、第3回です。

豊臣秀吉が全国を統一し、独自の海上活動を厳しく禁じると、村上氏ら海賊衆は新しい生き方を迫られ、ある者は近世大名になり、ある者は活躍の舞台を求めて主家を離れ、大名の家臣として編成されていきました。海賊衆は歴史の表舞台から姿を消しますが、その末裔は、江戸時代には船手方として藩の船舶と航行を管理し、参勤交代の海上輸送等の業務を担いました。

一方、瀬戸内海で物資の輸送や旅行がそれまで以上に活発になると、絵巻形式の航路図や港を「名所」として描いた浮世絵が作られるようになりました。
今回展示している「西海海路図絵巻」は、大阪より長崎にいたるまでの海路を中心に描いた絵巻です。
西国海路図絵巻
上下に山陽側・四国側の沿岸をくわしく描き、瀬戸内海を中心として、多くの島々を実際の大きさにこだわらず描いています。海路は朱線で示し、海路の線上には各地間の距離を記します。また、青・緑・銀色を使い、それぞれ「見え瀬」「隠れ瀬」など航海上危険な部分を色分けして、航海者の便を図っています。来島や務志島・中途島(いずれも現今治市)など、かつて海賊衆村上氏の拠点が置かれていた島々も、引き続き海上交通の要衝として実際の縮尺以上に大きく描かれています。

このような資料は当時の海上交通の様相をビジュアルに示すもので、絵巻を手元に広げて観賞した人々は、見ているだけで瀬戸内を旅している気分になったに違いありません。

4館合同特別展「村上海賊の世界」は、10月19日(日)まで愛媛県美術館(松山市堀之内)で開催中(歴史文化博物館ではございません。ご注意ください。くわしくはこちら
入場無料です。ぜひごらんください!

「村上海賊の世界」展示資料紹介(2) 水軍を率いた加藤嘉明

10月 3日 金曜日

10月19日まで愛媛県美術館(松山市)を会場に開催中の4館合同特別展「村上海賊の世界」。
歴史文化博物館出展資料の紹介シリーズ、第2回です。

戦国の世を終わらせ天下統一を果たした豊臣秀吉は、天正20年(文禄元年、1592)からと慶長2年(1597)からの2度にわたって朝鮮半島へ軍勢を送り込みます。
当然、日本から海を渡っての進軍には、海上輸送が不可欠となります。また、沿岸部の拠点や制海権の確保も重要になってきます。

そこで大きな役割を担った存在が水軍でした。
この時の船手衆として、戦国時代から水軍として名高い来島村上氏、九鬼氏をはじめ、脇坂氏、藤堂氏、菅氏などの活動が知られますが、加藤嘉明も水軍を率いて参戦しました。
嘉明は、文禄の役の際には淡路国志智城主でしたが、文禄4年(1595)に伊予国松前6万石を与えられ伊予の大名となりました。
その後、慶長の役での戦功により慶長3年(1598)に10万石に加増されることになりますが、その時に豊臣秀吉から与えられた朱印状を今回展示しています。

 

冒頭に柴田合戦(賤ケ岳の合戦)の一番槍の功績に触れ、次いで朝鮮での水軍としての数度の戦功を賞しています。また、激しい籠城戦が展開されたことで有名な順天城・蔚山城について、諸将が連判で上申した城の放棄案に賛同しなかったことも賞され、10万石への加増となりました。

嘉明は、慶長の役では六番隊に編成されますが、そこには同じ伊予の大名で水軍を率いた来島村上通総や藤堂高虎らも配属されていました。伊予には水軍を率いる大名たちが何人も配置されていたことになります。

来島村上氏は、文禄の役で通幸、慶長の役では当主通総が討死しており、激しい海戦を展開していた様子がうかがい知れます。
一方、能島村上氏や因島村上氏も、中国地方の雄毛利氏の配下として出陣し、毛利氏の拠点の確保や合戦に加わっています。

秀吉は、天正16年(1588)にいわゆる海賊停止令によって海賊行為を禁止しますが、村上氏ら海賊衆は依然海上機動力を有していたはずで、加藤嘉明など伊予の大名らとともに豊臣政権下においてもその機動力を期待され、発揮していたといえるでしょう。

4館合同特別展「村上海賊の世界」は、10月19日(日)まで愛媛県美術館(松山市堀之内)で開催中(歴史文化博物館ではございません。ご注意ください。くわしくはこちら
入場無料です。ぜひごらんください!

「村上海賊の世界」展示資料紹介(1) 木津川口合戦の一場面

9月 28日 日曜日

9月27日から愛媛県美術館を会場に開幕した4館合同特別展「村上海賊の世界」。
当館も主催者の一員として、多数の歴史資料を出展しています。
どんな資料がご覧いただけるのか、少しだけご紹介しましょう。

最初に紹介するのは、「絵本拾遺信長記」に描かれた木津川口合戦の一場面です。
木津川口合戦「絵本拾遺信長記」
木津川口合戦とは、天正4年(1576)7月、海賊衆村上氏らと織田信長勢が大阪湾で激突した海戦です。
和田竜氏の小説『村上海賊の娘』の主題としても取り上げられています。

この年、織田信長は、反信長の立場を鮮明にしていた大坂本願寺に対し、大軍を動員して周囲を包囲しました。
この動きに対し、毛利輝元は、反信長行動に立ち上がることを決意し、本願寺救援のため水軍を向かわせましたが、この水軍の中核をなしたのが海賊衆村上氏で、来島村上氏の当主村上通総(みちふさ)の重臣村上吉継、能島村上氏の当主村上武吉の嫡男・元吉や従弟の景広、因島村上氏の村上吉充(よしみつ)らが船団を組織しました。
彼らは木津川(現淀川)河口付近で織田方の水軍と激突し、これに勝利して大坂本願寺へ救援物資を搬入することに成功しましたが、信長側の史料によれば、この時村上氏らは、織田方の大船に対して「ほうろく火矢などという物をこしらえ」「船を取籠め、投げ入れ、焼き崩し」たとあります(「信長公記」)。

「絵本拾遺信長記」は、織田信長対大坂本願寺等の一連の戦をまとめた絵入りの読物で、江戸時代後期に刊行されました。
同書によれば、木津川口合戦の際、織田方の兵100人余りが乗船している大船に対し、村上景広は小船を寄せて、熊手をかけて飛び乗ろうとしますが、織田方に熊手の柄を切り取られ、景広は自分の船にどうと落ちます。
しかし、景広の船に侵入してきた織田方の将を切り倒した景広らは、再び織田方の大船に乗り移り、船内を飛び回って兵を倒していきます。織田方は狼狽して、村上方の小舟に飛び乗ってそこで討たれる者や、海中に飛び込んで浮き沈みする者が続出し、ついに景広らは織田方の大船一艘を乗っ取った、と記されています。

木津川口合戦において、実際にこのような戦闘があったのかどうかは定かではありませんが、今回展示している場面で、右手に描かれた織田方の大船に対し、左手に描かれた村上氏の船はまことに小さく、熊手をかけて敵船に乗り移ろうとする様子は、いかにも戦国期の村上氏の姿を彷彿とさせます。
あわせて展示している安宅船模型や関船模型、古文書等とともに、海賊衆の活動の一端に思いを馳せていただければ幸いです。
安宅船模型その他
4館合同特別展「村上海賊の世界」は、10月19日(日)まで愛媛県美術館(松山市堀之内)で開催中(歴史文化博物館ではございません。ご注意下さい。くわしくはこちら
入場無料です。ぜひごらんください!

特別展「忍たま乱太郎 忍者の世界」展示紹介(6)

7月 29日 火曜日

歴博で開催中の特別展「忍たま乱太郎 忍者の世界―夏休みは歴博へ急げ!の段―」の内容紹介もいよいよ6回目。今回は「伊予と忍者の段」の紹介です。

忍者といえば伊賀や甲賀がすぐに思い浮かびますが、伊予には忍びはいなかったのでしょうか?
このことに関する史料を展示しています。

一つは「清良記」という軍記物です。これは南伊予の大森城(現宇和島市三間町)を本拠とした土居清良(どいきよよし)という武将の一代記ですが、この中で丹後(たんご)・丹波(たんば)という二人の忍び頭が清良に仕えていたとの記述があります。

「清良記」によれば、丹後・丹波は普段は博労(牛馬の売買)やさまざまな商いをしながら、近隣地域や他国の情報を収集し、清良に報告していたようで、戦時には敵陣に忍び込み、戦力を偵察して報告したりしています。
清良に忍びの技を語る場面もあり、その中で、丹後は、秋に屋敷に侵入する技として、あらかじめ鳴く虫を飼い慣らしておき、いざ忍び込む際にその虫を放して、虫の鳴く声で侵入する際の気配を消す「虫合わせ」という術があると記されています。
清良記巻九
「清良記」の別の場面では、丹後・丹波の仲介で土居清良のもとに近江国甲賀の鉄砲鍛冶を呼び寄せ、鉄砲の生産を始めたとの記述もあり、尼子さんがしばしば「乱太郎」の中で言及される「忍者と火器の結びつき」を示唆しており興味を惹かれます。

丹後・丹波の名は確実な史料には登場せず、彼らが実在した人物かどうかを確かめるすべはありませんが、在地勢力同士が戦闘行為に至る以前にさまざまな偵察や諜報活動を担う存在がいたこと、それぞれの在地領主の支配領域を超えて活動する博労や商人はさまざまな情報を入手し、それを必要に応じ領主たちに伝える存在であったことは、戦国期の伊予でも十分に有り得たことではないでしょうか。

もう一つは、幕府の隠密が四国の城郭を偵察した時の記録です。寛永4年(1627)8月から10月にかけて、幕府は公儀隠密を伊予はじめ四国に派遣し、外様大名の各居城と城下町を実地に調査させました。伊予では松山城・今治城・大津城(大洲城)・宇和島城が対象となりましたが、この時に隠密が作成した調査報告書と絵図の写しが残されています(いずれも伊予史談会蔵)。企画展示室内では宇和島城・大津城(大洲城)の絵図及び探索書の写しを展示しており、同時開催している「松山城下図屏風の世界」展の中で松山城の絵図の写しを展示しています。
幕府隠密大津城見取図
幕府の隠密は、遠望及び郭内への侵入による観察、事前に侵入させた情報提供者や城に出入りする職人からの聞き取りのほか、大津城では二の丸東側(この隠密は方位を90度誤認しており、実際は南側)は「足」にして300足=1町4反2間だったと記され、約52センチメートルの歩幅で二の丸の堀に沿って歩き、ひそかに長さを計測したことが分かります。

幕府の忍者が伊予で実際に使ったこの「歩測の術」は、エントランスでも体験できますので、ぜひお試し下さい!

中国四国名所旧跡図26 阿波ナル戸(鳴門)図

3月 30日 日曜日

鳴門市土佐泊浦の大毛山付近から、奇観として知られる大鳴門の渦潮を描いている。手前の島を西丈は「ハタカ嶋」と記しているが、これは裸島のことで、現在は大鳴門橋の橋脚が立っている。裸島の右上(南東)の島は「登ヒ嶋」と記されているが、これは飛島のこと。標高25mの小さな孤島で、ウバメガシなどの暖性植物やハマナデシコなどの海浜性植物が自生している。裸島の左上(北東)には、波間から岩が顔を出している「中瀬」と呼ばれる浅瀬が描かれている。そして、画面の上部に広がるのが淡路島である。

四国と淡路島との間にあり、大鳴門ともいわれた鳴門海峡は、海峡幅が1340メートルと狭く、手を伸ばすと届かんばかりである。その海峡の主水道は中瀬と裸島の間にあり、海底の断面がV字形になっており、最深部は約91メートルに及ぶ。一方で中瀬付近は浅くなっており、深さは約10メートルにも満たない。瀬戸内海と太平洋の狭間で、海底の複雑な地形も加わり、最大30メートルともいう大きな渦が生み出される。西丈も大鳴門に二つの大きな渦を描いている。

大鳴門は江戸時代から既に全国に知られた名勝として多くの見物客を集め、渦潮は歌川広重をはじめとする多くの画家の格好の題材となっていた。陸から鳴門の渦潮を見物するには、大毛山に眺望台があったほか、亀大明神(瓶浦神社)からも眺望が開けていた。また、裕福な遍路は船に乗って鳴門まで移動したようで、京都の商人升屋徳兵衛の文化6(1809)年の旅日記には引田浦(東かがわ市)で船をチャーターしたことが記されているほか、駿河大御神村の天野文左衞門の旅日記でも明神村(鳴門市瀬戸町明神)から船に乗り、船賃として83文支払っている。旅日記には「鳴門見物」とあるので、あるいは船から遠巻きに渦潮を観ることもあったのであろうか。

鳴門の渦潮を描いたものとしては、歌川広重の3枚続きの「阿波鳴門真景図」や「六十余州名所図絵」の名作の一つといわれる「阿波 鳴門の風波」が有名であるが、掲載したのはその初代に養子に入った二代目の歌川広重が描いた「諸国名所百景」の中の「阿波鳴門真景」。キレイにまとめあげているが、初代広重の迫力ある渦潮の姿から後退して、おとなしい表現になっている。

西丈の絵は横長の画面をうまく使って、二代目広重よりももっと上空から引いた形で渦潮を捉えている。それは諸国を歩いて地理への優れた感覚を身につけていた松浦武四郎が、天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」に描いた「鳴門眺望之景」にかなり近い。松浦の絵は研究材料として写実的に描いたものといえるだろう。西丈の絵も写実を重視したものだが、手前の小さな旅人二人と、大きな二つの渦潮の対比が効いている。その工夫により渦潮という自然の雄大さが引き立てられている。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図25 阿州五(碁)ノ浦柳掛

3月 25日 火曜日

西丈は「五ノ浦」と記しているが、正確には「碁浦」である。この碁浦という名前は、海浜で天然の黒色の碁石を産出したことに由来する。讃岐山脈の天ケ円(あまがつぶ)山の西北部に位置し、西丈の絵にあるように周囲を山に取り囲まれたなか、わずかばかりの平地が開けていた。讃岐との国境にある村で、阿波と讃岐との間の国境争論の結果、徳島藩により国境警備と検問の役割を果たす碁浦番所が設けられていた。番所だけがある、まさに国境の村であった。

なお、讃岐から阿波に入る遍路には、八十八番の大窪寺を打ち終えた後、そのまま長野(東かがわ市五名)、大影(阿波市市場町)と山の中を進み、阿波側の大坂口番所で切手が改められ、十番札所の切幡寺に赴くというルートを採る者も多かった。一番霊山寺から廻るには、引田から碁浦番所を経て阿波に入り、撫養を経て霊山寺に至るルートを採らなければならなかった。その他、鳴門の渦潮見物に足を伸ばす遍路も、この碁浦番所を抜けるルートを進んだ。西丈は碁浦番所を描いているので、このルートを進んだことになる。

天保4(1833)年に四国遍路の旅をした松浦武四郎も同じルートを辿ったようで、碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。断崖続きの地形に、海岸に打ち寄せる浪。そんな寂しい風景の中にぽつんとある関所。武四郎の文章を、西丈が絵として見事に表現してくれている。

碁浦番所では、名主や所定の役人が記した旅行許可書ともいえる往来手形、海を渡って四国に入った遍路については着船した港の担当役人が発行した船揚手形が調べられた。それらを所持している遍路には、番所役人から人数・住所・名前を記した入切手が渡され、その入切手は土佐への出口に当たる宍喰口番所に提出しなければならなかった。捕物道具や袖がらみなどを備えた厳めしい番所での改めは、江戸時代の遍路にとって緊張を強いられる時間であった。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図24 讃岐より阿波を見る図 引田浦

3月 24日 月曜日

讃岐の札所を打ち終えた西丈は、讃岐と阿波の国境に近い引田浦まで進み、その景色を描いている。引田も前回の志度と同様に古くから海運業が盛んな土地柄。幕末から明治初めにかけての「讃岐国名勝図会」には、「当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」と、その繁栄の様子を記している。西丈の絵を見ると、左下に少なめであるが、密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船を描いており、沖合を進む廻船と合わせて海運と結びついた引田浦の姿を端的に表現している。

しかし、西丈の主眼は引田浦そのものにはなく、そこから広がる眺望にあったのだろう。その眺望のすばらしさは、「讃岐国名勝図会」にも「海上の絶景一眸百里を観望なす能き湊なり」と触れられている。西丈は引田浦から南方向、つまりは阿波方面を描いている。目の前には青々とした播磨灘。その真ん中にぽっかりと浮かぶ島が毛無島と通念島で、大海原のなか、近景に小さな島があることがアクセントになっている。そして、遠景には淡路島、小鳴門がかすんで見え、これから歩く讃岐と阿波の国境番所のあった五ノ浦(碁の浦)までの海岸線はくっきりと見えている。細かく描き込んでいないのに、その土地の空気感を伝える西丈の技量が光る一枚。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図23 讃州志度浦図

3月 22日 土曜日

85番札所、八栗寺を後にした西丈は、86番の志度寺へと向かい、志度村に辿り着く。志度は中世以来の伝統をひく海運業が盛んな土地で、松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」には、家が千軒余りもあり、日々船の出入りが絶えることがなく、農業・商業も盛んと記している。そんな繁華な志度に来て、西丈が描いたものがかなり変。

穴が開いたブリッジ状の岩をはじめとした奇岩。その奇岩よりもさらに奇妙な生物が3頭。茶色の毛に覆われた体だが、人間でいう髪の毛がなぜか赤いロングヘアー。四ツ足のようだが、人間のように直立している姿も描かれている。これは実在する生物? それとも妖怪? 西丈が実際見たものか、あるいは頭の中でつくりだしたものなのか。

昔話か伝説に関係するのかもしれないと調べてみると、志度というと、「海士の玉取り伝説」が有名。天智天皇の時代、藤原不比等が契りを交わした志度の海女が、その子ども房前のために海中の龍神から玉を取り返して死んでしまうというストーリーであるが、この絵との関係はわからない。絵の右には和歌も書き付けられているが、難解で一部しか読むことはできなった。

謎は深まるばかり。それにしても西丈はおもしろい絵を描き遺したものである。その感性に脱帽。みなさんならこの絵、どう読み解きます?

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。