Archive for the ‘館蔵資料紹介’ Category

民俗展示室3「四国遍路」展示替えのお知らせ

2025年5月3日

 民俗展示室3「四国遍路」の展示替えを行いました。今回新たに展示した館蔵資料について紹介します。

①『御府内八十八ヶ所道知るべ』3冊 慶応2年(1866) 

 御府内とは江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域を指します。御府内八十八ヶ所は、政治・文化の中心である江戸において開創された四国遍路の写し霊場(地四国)のことで、開創は江戸時代中期の宝暦5年(1755)と伝えられています。創始者は定かではありませんが、信州浅間山真楽寺の憲浄僧正と下総国松戸宿の諦信が協力して開基した説、31番多聞院の正等和尚開基説などがあります。開創以来、幾多の戦災や天災に見舞われ、札所の場所が移転しているところが多く確認されます。

 本書は江戸の御府内の八十八ヶ所の案内書であり、札所ごとに道案内や縁起、該当する本四国の札所の御詠歌、境内の景観などが絵入れで紹介されています。絵師は歌川広重の門人で『名所江戸百景』などを手掛けた二代広重画。発願主は江戸の大和屋孝助、三河屋利兵衛。

②小豆島八十八箇所霊場案内絵図 昭和15年(1940)

 風光明媚な瀬戸内海国立公園の真ん中に位置する小豆島(香川県小豆郡小豆島町・土庄町)には、空海が故郷の讃岐国と京の都を往復する際に小豆島に立ち寄り修行を行ったという弘法大師伝説があります。そうした伝説を背景に、貞享3年(1686)、小豆島の僧が結集し、島一円を霊域とする小豆島八十八箇所霊場が開創したと伝えられます。

 小豆島霊場は地元で「本四国」に対して「新四国」ではなく、「元四国」と呼ばれ、島の山谷や自然の地形を利用した山岳寺院の札所が多く、古くからの「行場」と伝えられる修行場が存在します。

 遍路道は全長約145㎞、日程的に徒歩は7~8泊、自転車4~5泊、車3~4泊を要します。春の巡拝シーズンには遍路にお接待が行われています。小豆島霊場は知多四国(愛知県)、篠栗四国(福岡県)と共に「日本三大新四国霊場」に数えられています。

 本図は凡例にあるように、寺院、仏堂、番外奥之院、納経出所数、順拜道路、郵便電信局、宿屋、名所古跡、巡航船路、渡船場、汽船航路、不定期汽船、車馬道、坂道まで記載され、小豆島八十八ヶ所霊場絵図の中でも詳細な案内図となっています。特に小豆島への航路便が分かり易く記載され、本図に示す距離は正確な実測に基づいた数値で記されています。

 この他、江戸時代からの旧遍路道の景観が残されて、国史跡「伊予遍路道」に追加指定された岩屋寺道と浄瑠璃寺道の写真パネルなども新たに展示しました。ぜひ博物館の常設展示室「四国遍路」をご覧ください。

 なお、四国霊場の写し霊場については、令和4年度特別展図録『浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場』(2022年)で紹介しています。当館のミュージアムショップで販売中です。詳しくは当館ホームページ「調査・研究」の「展示図録」でご確認ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情71―松山地方の七ヶ所参り―

2025年5月2日

 かつて愛媛県松山地方では「七ヶ所参り」「七ヶ寺詣り」と呼ばれた巡礼が行われていました。

 松山市に本社を置く伊予鉄道が大正10年(1921)~昭和2年(1927)頃に発行したと見られる案内パンフレット「七ヶ寺詣り御案内」があります(個人蔵、写真①)。その冒頭には「(前略)うららかな春光を浴びて札所々々が敬虔な心持で巡礼することは清い春の行事であります、この点からして松山近郊の七の四国霊場を巡拜することはその道程や風景の変化から言って又一日の行楽としても格好なものであります」と記されています。

写真① 案内パンフレット「七ヶ寺詣り御案内」(大正10年~昭和2年、個人蔵)

 パンフレットによると、松山近郊の7つの四国霊場とは、四国八十八箇所霊場第46番浄瑠璃寺から第52番太山寺までの7つの札所を指し、それらを巡る七ヶ寺詣りは春の行事としています。そして、7ヶ寺の由緒を簡潔に記し、「七ヶ寺巡拝路図」にお奨めの巡拝ルートを示しています。それは基本的に徒歩を移動手段としながらも、一部の区間で伊予鉄道を利用することで、7ヶ寺を効率よく1日で巡拝できる魅力的な内容となっています。

 伊予鉄道が推奨する七ヶ寺詣りのルートについて、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で確認しましょう(写真②)。

写真② 松山七ヶ所参りのルート(四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 まず、鉄道を利用して松山の海の玄関口である三津に行き、打ち始めとして①第52番瀧雲山太山寺(本尊十一面観音、松山市太山寺町)を参詣。その後、高浜から森松へ鉄道で移動し、そこから南行して荏原村(松山市恵原町)の衛門三郎の遺跡を訪ね、②第46番醫王山浄瑠璃寺(本尊薬師如来、松山市浄瑠璃町)を参詣。そこから北上して、③第47番熊野山八坂寺(本尊阿弥陀如来、同町)を参詣。荏原村まで後戻りして札始大師堂(松山市小村町)を訪ね、重信川を渡り、杖ヶ淵(松山市高井町)の霊水に立ち寄り、④第48番 清瀧山西林寺(本尊十一面観音、同町)、⑤第49番西林山浄土寺(本尊釈迦如来、松山市鷹子町)、⑥第50番東山繁多寺(本尊薬師如来、松山市畑寺町)を参詣して、石手川の遍路橋を渡り、最後に⑦第51番熊野山石手寺(本尊薬師如来、松山市石手)を参詣して打ち止め(結願)としています。

 道中図には西林寺道(八坂寺から西林寺への遍路道)に衛門三郎古蹟として八塚と文珠院徳盛寺、小村大師、杖ヶ淵などの弘法大師空海ゆかりの霊場が記載されていますが、重信川や石手川は描かれていません(本ブログ17「川を渡る」参照)。

 参考のため、昭和11年(1936)の『四国霊場大観』収録の昭和初期の7ヶ寺の本堂を撮影した古写真を紹介します(写真③)。

写真③ 松山七ヶ所参りの札所の本堂(『四国霊場大観』、昭和11年、当館蔵)

 そして、パンフレットの結びには「石手寺を打止めとすると時間があれば岩堰遊園地に遊ぶもよく又番外札所義安寺に詣でて公園の桜を見てそれから道後温泉に一日の疲を休める事が出来て最も都合のいい道順であります」とあります。

 このように、伊予鉄道を利用した七ヶ寺詣りは春の行楽シーズンにあわせて、伊予鉄道沿線の松山の四国霊場と一大観光地の道後温泉の入浴、道後公園の花見、岩堰散策など道後周辺の観光(写真④)を採り入れた1日遍路といえます。伊予鉄道は四国霊場の巡拝団体バスツアーによる先駆けとして戦後の四国遍路の普及に大きく貢献してきましたが、自社の鉄道を活用した松山地方の七ヶ所参りの普及にも一役買っていたことがわかります。

写真④ 絵葉書に見る道後周辺の観光(個人蔵)

 ところで、松山地方の七ヶ所参りはいつ頃から行われたのでしょうか?

 太山寺には四国霊場に現存する最古の札挟み(2枚の小板を紐で綴じて、その中に紙製納め札を挟んで収納する巡礼用具)が伝来しています。それは承応年間(1652~1654年)のもので、表側に「梵字(不動明王) 奉納七ヶ所辺路同行五人 承応□年二月吉日」、裏側に「梵字(弥勒菩薩) 南無大師遍照金剛」の墨書があります。その内容から、弘法大師信仰のもと、同行者5人で7ヶ所を辺路(巡拝)した際に用いた札挟みと考えられます。江戸時代前期に地域の特定の札所を選定して参詣する小規模巡礼が行われたことがわかります。また、天保7年(1836)に伊予国宇和郡双岩村布喜川(愛媛県八幡浜市布喜川)の遍路が四国巡礼を行った際に使用した札挟みがあります(当館蔵、写真⑤)。表裏に墨書で「奉納四国八拾八ヶ所辺路同行弐人」「奉納七ヶ所辺路同行弐人」と記され、江戸時代後期に南予地方の遍路による七ヶ所参りが行われていたことを示す資料として注目されます(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年)。

写真⑤ 伊予国宇和郡双岩村布喜川の遍路が使用した札挟み(天保7年、当館蔵)

 松山地方の七ヶ所参りについては、第53番圓明寺を加える事例や第44番大寶寺と第45番岩屋寺を加えて「十ヶ所参り」とするなど、参詣する札所の数や組み合わせは地域によって様々であり、四国遍路のお礼参りや本四国の代参とする目的で行われることもありました(今村賢司「近世前期における伊予国松山地方の四国遍路の様相―真念『四国邊路道指南』以前の遍路道標と札挟みを素材として」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第20号』2015年参照)。

 松山地方の七ヶ所参りの他にも、江戸時代以降、四国遍路における小規模巡礼は阿波の十里十ヶ所参り、讃岐の七里十ヶ所参りなど各地で行われており、こうした小規模巡礼は多様な四国遍路の実態を示し、巡礼の構造や四国遍路の普及の過程を考える上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情70―善通寺の五重塔―

2025年4月25日

 まもなくゴールデンウィークが到来します。香川県善通寺市にある四国八十八箇所霊場第75番札所の五岳山(ごがくざん)誕生院善通寺では、毎年、大型連休にあわせて、重要文化財「五重塔」の内部が特別公開されています。

 今回は善通寺と境内に聳える五重塔について紹介します。

 最初に昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)で善通寺を確認します。札所を示す丸印の中心に善通寺の本尊薬師如来の半身像が描かれ、「七十五・屏風浦・善通寺」と記されています。善通寺は国鉄土讃線の沿線に位置し、最寄り駅は寺名がそのまま駅名となった善通寺駅、次の駅は「こんぴらさん」の玄関口の琴平駅です(写真①)。地理的に善通寺と金刀比羅宮は近く、遍路は四国巡拝の途中にこんぴら参詣を行ったのが通例でした。

写真① 善通寺周辺(昭和13年の「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 善通寺について、昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場禮讃(四国順拜案内記)』(松山向陽社)には、「本尊薬師如来、大師の御作。大師御誕生所屏風ケ浦とて御父公佐伯善通卿の邸宅を伽藍と遊されし霊地なり。当山は四国唯一の大山にして、金堂、釈迦堂、五重大堂、仁王門、御影堂、奥の院、礼堂、宝物館、大旭殿、本坊、大玄関、客殿、寝殿、等の大建築あり」と紹介しています。当地は空海の父佐伯善通の邸宅であったことから「善通寺」と名付けられ、境内には数多くの堂舎が建立され、四国有数の大寺院であることがわかります。

 明治26年(1893)の「弘法大師御誕生所屏風浦善通寺之絵図」(当館蔵、 写真②)には、善通寺の広大な境内が鳥観図の手法で細密に描かれています。東院エリアに大門、五重大塔、金堂、大楠樹等、西院エリアに二王門、大師堂、護摩堂、本坊等が立ち並び、参詣で賑わう境内の様子が見て取れます。また、屏風ヶ浦の地名の由来となった善通寺の西側に連なる5つの山々・五岳山(香色山・筆ノ山・我拝師山・中山・火上山)、近隣の札所(甲山寺、出釈迦寺、弥谷寺等)、象頭山などの景観も描かれています。

写真② 「弘法大師御誕生所屏風浦善通寺之絵図」(明治26年、当館蔵)

 善通寺の伽藍の中でひときわ大きな建造物として異彩を放っているのが五重塔です(写真③)。 近代以降の善通寺参詣の土産として作成された多くの写真絵葉書の中には必ずといっていいほど五重塔のカットが入っています(写真④)。

写真③ 善通寺南大門と五重塔(当館撮影)
写真④ 善通寺五重塔の絵葉書(個人蔵)

 五重塔とは仏教寺院で五重の屋根をもつ塔のことで、古代インドで仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するために造られたストゥーパが起源とされています。総本山善通寺の公式ホームページによると、現在の五重塔は明治35年(1902)に完成した4代目で、基壇から相輪までの高さが約43メートルで国内の木造塔として3番目の高さとなります。塔の内部は密教思想の中心的存在である五智如来が安置され、5階の厨子内に大日如来(非公開)、1階の壇上に心柱を囲むように東・阿閦(あしゅく)如来、南・宝生(ほうしょう)如来、西・阿弥陀如来、北・不空成就(ふくうじょうじゅ)如来が安置されています。構造上の特徴は5層すべての階の天井が高く、人が立って歩けることや、塔全体を支える心柱が5層目の屋根裏で鎖を使って吊り下げられて地面(礎石)から浮いていることなどが紹介されています。また、文化庁のポータルサイト「文化遺産オンライン」によれば、五重塔は和様を基調として、初重から伸びる心柱など古式を示し、江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示しており価値が高いとあります。

 ちなみに、世界最古の木造による五重塔は法隆寺の五重塔(飛鳥時代建立、高さ約32.6m、国宝。奈良県生駒郡斑鳩町)、日本一の高さの五重塔は東寺・教王護国寺(近世前期再建、約54.8m、国宝。京都市)、最も低いのは室生寺(平安時代初期建立、約16.1m、国宝。奈良県宇陀市)の五重塔です。一方、四国霊場の五重塔を建立年代順で見ると、善通寺五重塔が一番古く、次いで第70番本山寺(明治43年再建、約31.7m。香川県三豊市)、第86番志度寺(昭和25年建立、約33m。香川県さぬき市)、第31番竹林寺(昭和55年再建、約31m。高知県高知市)、番外霊場・法然寺(平成23年建立、約24m。香川県高松市)で5つの五重塔があります。

 最後に、江戸時代の善通寺の五重塔の姿を絵図類から見てみましょう。

 現存最古の四国遍路絵図である宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧礼絵図」(当館蔵)には善通寺の箇所に金堂と五重塔が挿絵入りで紹介され、「弘法大師御誕生之地ナリ」とあります(写真⑤)。寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」には江戸時代後期の善通寺の境内が写実的に描かれ、金堂の前方に五重塔が確認できます。幕末期の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図(原田屋版)」(当館蔵)には「勅願所 屏風浦五岳山善通寺誕生院 弘法大師誕生之地」とあり、ひときわ目立つ五重塔が描かれ「五重大塔」と記載されています(写真⑥)。

写真⑥ 善通寺周辺(「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図(原田屋版)」幕末期、当館蔵)

 こうした江戸時代の四国遍路の絵図類からは、善通寺が弘法大師空海の誕生地と伝え、四国遍路の聖地として、四国八十八箇所霊場の中心的な札所として捉えられ、善通寺五重塔は四国霊場のランドマーク的存在であったといえます。 ※令和7年度のゴールデンウィークに実施される善通寺五重塔の特別公開の日時等の詳細については、善通寺のホームページなどでご確認ください。

 また当館では現在、特別展「誕生50周年 ねずみくんのチョッキ展 なかえよしを・上野紀子 想像力のおくりもの」を開催中です(6/29日迄)。この機会にぜひご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情69―法輪寺の涅槃釈迦如来像―

2025年4月19日

 4月19日(土)に特別展「誕生50周年 ねずみくんのチョッキ展 なかえよしを・上野紀子 想像力のおくりもの」が開幕しました。

  創作絵本のロングセラー『ねずみくんのチョッキ』(1974年)は、赤いチョッキを着た小さくて可愛いねずみくんが、いろんな動物の仲間たちとくり広げるユーモラスで心温まる物語です。絵本作家・なかえよしを氏と画家上野紀子氏夫妻が手掛けたねずみくんの絵本シリーズは50周年を迎え、世代を超えて世界中で愛されています。それらの絵本を通じて、物を大事にすることや、悲しく弱っている人の気持ちに寄り添うこと、想像力を養うことなど、私たちにたくさんの大切なことを気づかせてくれます。本展では最新作を含む全作品の原画やスケッチなど約200点を展示します。この機会にぜひ多くの方にご覧いただきたいと思います。

 そこで今回は『ねずみくんのチョッキ』の世界観に共感して思い浮かべた四国霊場の本尊仏を紹介します。

 それは徳島県阿波市土成町に位置する四国八十八箇所霊場第9番札所の法輪寺の本尊・涅槃(ねはん)釈迦如来(秘仏)です。

 涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナに由来し、すべての煩悩の火が吹き消された状態の悟りの境地や入滅・死去を意味します。「涅槃経」にもとづいて作られた涅槃像には絵画と彫像があり、いずれもインドのクシナガラにおいて沙羅双樹の下の宝座で、頭を北にして顔は西に向け、右脇を下にして、最後の教えを説かれて涅槃に入られた釈迦の姿と、別れを嘆き悲しむ諸菩薩と仏弟子、たくさんの動物たちの情景があらわされています。

 八十八箇所霊場の中で本尊に彫像による涅槃釈迦像を祀るのは法輪寺が唯一です。法輪寺は昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「御本尊涅槃の釈迦如来 御丈二尺五寸大師の御作。当寺は大師の御開基で、昔は白蛇山法林寺と称へ山つき方にありましたが、天正の兵火に罹り正保年間(1644~1648)今の地に再興、再び安政六年(1859)火災に罹り、今の堂宇は明治になっての建立です。」とあります。同年の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵、写真①)収録の古写真からは、のどかな田園風景の中にたたずむ法輪寺の境内の様子がわかります。  

写真① 第九番法輪寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)

 ところで、四国遍路道中図には八十八箇所霊場の札所本尊の姿(御影)が微笑ましく漫画チックに描かれています(本ブログ3「札所の本尊御影」参照)。大正6年(1917)の駸々堂版、昭和9年の浅野本店版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版で法輪寺の御影(涅槃釈迦如来)を確認すると(写真②③)、地図上の小さな丸印の中に本尊の特徴をつかんで簡略に描くにあたり、涅槃釈迦如来は容易ではなかったと想像され、渡部高太郎版にいたっては略し過ぎて姿がよくわかりません。    

写真② 法輪寺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
写真③ 法輪寺の本尊御影(「四国遍路道中図」駸々堂版、浅野本店版、渡部高太郎版)

 実際に明治40年(1907)に法輪寺を参拝した遍路が納経を行った際に札所から授与された本尊御影(当館蔵、写真④)が納経帳に貼付されています。小さな紙片に描かれた簡易なコンパクト涅槃図といえます。そこには、上部に釈迦入滅の日(旧暦2月15日)といわれる十五夜の美しい満月、天女たちに付き添われた雲上の一団は息子のもとへ向かっている釈迦の生母・摩耶(マヤ)夫人、釈迦を囲んでいる沙羅双樹の木、釈迦を慕い嘆き悲しむ仏弟子たちと動物たちが下部に描かれています。

写真④ 明治40年に法輪寺を参拝した遍路が納経を行った際に札所から授与された本尊御影(当館蔵)

 釈迦の涅槃に際しては様々な動物が集まっていますが、その中には白象や駱駝などの当時日本では見ることができなかった動物や、龍や獅子などの想像上の生き物、蜻蛉や蝶などの小さな昆虫の姿もあります。興味深いのは、ふだんは互いに争いあう動物たちも、この時ばかりは皆そろって釈迦の入滅を悲しんでいます。また、猫が描かれているものは少なく、その理由として、釈迦のために沙羅双樹の木に掛かった薬袋をねずみが取りに行こうとしたら、猫に邪魔されてできなかったとする説、死者の肉体を持ち去り食べてしまう猫を悪性と見る説などがありますが、詳しくはわかっていません。

 涅槃像からは、釈迦の入滅というかけがえのない尊いものを失った生きとし生けるものが、そこで何を感じて、その後どのようになったのか? そうしたことを想像して、多くの大切な気づきを学ぶことができるように思います。

 最後に当館の近郊にある隠れた人気スポットを紹介します。愛媛県八幡浜市大釜地区の沖合約100mに、ねずみが海上に座っているような形をしているところから「ねずみ島」と呼ばれ、地元の人に親しまれている小さな島(無人島)があります。干潮になると海の中から道が現れて島に行くこともできます。詳しくは八幡浜市観光物産情報サイトをご確認ください。特別展「誕生50周年 ねずみくんのチョッキ展 なかえよしを・上野紀子 想像力のおくりもの」の観覧とあわせて、南予地方の自然と歴史文化の魅力も楽しんでくださいね。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情68―災害と遍路のリスクヘッジ―

2025年4月18日

 最近の全国ニュースで周知のとおり、岩手県、岡山県、愛媛県、宮崎県などで山林火災が相次いで発生しました。総務省消防庁によると、いずれも現時点で原因は詳しく分かっていませんが、例年、焚火や野焼きの多い2月~4月にかけて全国で山林火災の発生が多く、火の取り扱いに注意するよう呼びかけています。

 愛媛県の場合、報道によると、今治市と西条市にまたがる大規模な山林火災が発生し、延焼による焼失面積は約442ヘクタール(甲子園球場の約114個分)で、100ヘクタール以上の山林火災について統計をまとめ始めた1989年以降最大となりました。また、強風によって火の粉が飛び散る「飛び火」によって山林から離れた場所で建物が炎上するなど、甚大な被害が出ました。今後も山火事による山の貯水力低下のおそれがあるため土砂災害への警戒が必要といわれています。

 今回の今治・西条山林火災を通じて、四国遍路への影響や災害時の危険回避のための遍路の心得について紹介したいと思います。

 愛媛新聞社のデジタルマップ(今治山林火災2025)によると、焼失したエリアは今治市長沢、孫兵衛作周辺であったことがわかります。その近郊には北方に四国八十八箇所霊場第59番札所の国分寺(今治市国分)や漆器の産地である桜井地区、南方には厄除けや「きうり封じ」で有名な番外霊場の世田薬師(栴檀寺)が位置し、エリア東側の麓には、国分寺から第60番横峰寺(西条市小松町石鎚)に至る歩き遍路道「横峰寺道」が通っています。

 位置関係を確認しましょう。正確な地図ではありませんが、大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版)(写真①、当館蔵)では、横峰寺道のルートは国分寺⇒桜井⇒長沢⇒六軒屋(西条市河原津)へと進みます(本ブログ27「横峰寺への巡拝」参照)。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(写真②、当館蔵)では、国分寺⇒桜井⇒三芳(西条市三芳)⇒丹原(西条市丹原町)へ向かうルートが記載されています。両図で宿駅(集落)の地名が異なり、世田薬師は記載されていませんが、横峰寺道は基本的に国分寺をスタートして今治市域の桜井から長沢・孫兵衛作を経て、西条市楠の世田薬師へと進むルートで、改めて、焼失エリアのすぐ近くに遍路道が位置していたことがわかります。

写真① 国分寺から横峰寺道(大正6年の「四国遍路道中図」駸々堂版、当館蔵)
写真② 国分寺から横峰寺道(昭和13年の「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 遍路道には大師堂や道標石などの四国遍路の歴史遺産が今に伝わっています(写真③)。現時点では遍路道などの被災状況の詳細はわかりませんが、テレビ報道によると、世田山にある世田薬師の奥之院にも火が迫り、消防の命がけの消火活動によって奇跡的に焼失を免れたことが紹介されていました。また、国分寺の最寄り駅となるJR伊予桜井駅付近で火災が発生したため、乗り降りの一時中止、高速道路・国道196号が一時通行止めとなるなど、交通機関にも大きな影響を与えました。実際に山林火災発生中に今治地方で四国巡拝中の遍路が発信したSNS情報によると、札所巡拝の順番やルートの変更を行うなど、交通障害や火災への危険を回避しながら四国遍路を行ったことが紹介されています。

写真③ 横峰寺道の風景(今治市湯ノ浦サービスエリア近くに建つ、江戸時代の武田徳右衛門の遍路道標石、当館撮影)

 地球的規模で異常気象が発生する昨今、八十八箇所の霊場をめぐる長丁場の四国遍路において、火災、土砂崩れ、地震などの災害に遭遇することも想定されます。そのため非常時の対処法や事前の備えが必要となります。

 あらゆる危険を回避して安全に四国遍路を行うためのいうならば「遍路のリスクヘッジ」について、戦前の四国遍路の入門書で、遍路の心得を綿密に記した、昭和6年(1931)の安田寛明著『四国遍路のすすめ』の記述が参考になります。以下、災害への危険回避に対する注意書きの箇所を引用します。

 〇宿屋へ泊ったら、すぐ便所は家の中にあるか外にあるか、亦万一の場合の非常口を、尚進んでは裏に川や池はありませぬか、深いか浅いかをも、亦二階に泊まるときは、総てに安全の方法を前以て考え置くべきです。人が笑っても、御大師様はお褒め下さるのですから共に気を附けるべきです。

 〇寺では最も火の用心に注意なさること。

 〇山路を歩く時は好きな煙草でも差し控えなさい。若しも吸いたくて途中で吸うときは、最も気御附(きをつ)けること。燐寸(マツチ)一本の不注意から大山火事が起こるようなことがある。最も注意して下さいませ。

 それによると、不測の事態を想定して宿泊時の入念な安全確認を徹底すること、札所となる霊場寺院での火の用心の徹底、山中の遍路道で山火事を起こさないよう細心の注意を払うことなどが指摘されています。これらの心得は、遍路に限らず今日の私たちが災害などの未来の危険に対する基本的な心構えを示すもので、事前の備えや対策を考えることにつながり、傾聴に値します。  

 最後となりますが、この度の今治市・西条市の山林火災により被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情67―関所寺・立江寺―

2025年4月11日

 徳島県小松島市立江町にある四国八十八箇所霊場第19番札所の立江寺(たつえじ)は「四国の総関所」、また「阿波の関所」と呼ばれ、四国霊場の関所寺として知られています。

 関所寺とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)によると、「四国遍路において、それまでの素行が悪ければ、第十九番立江寺を打つことができず、遍路を中止して帰らなければならないとされる。これを関所寺といい、弘法大師によって定められたといわれている。また、立江寺の手前には九ツ橋という橋があるが、この橋の上に白鷺がいた時も、それ以上進むことは許されないという。」とあります。

 次に、大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版)で立江寺を確認します。札所を示す赤色の丸印に「十九番・摩尼山・立江寺・立江町」と記され、中心に延命地蔵菩薩立像をイラスト風に描いた本尊御影が掲載されています(写真①、当館蔵)。また、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)では、札所を示す水色の丸印に「十九・摩足山・立江寺」と記され、大正6年版とは異なる本尊延命地蔵菩薩立像の御影が掲載されています(写真②、当館蔵)。両図とも関所寺の記載はありません。現在の立江寺の正式名称は「橋池山(きょうちさん)摩尼院(まにいん)立江寺」ですが、四国遍路道中図では札所寺院の院号表記はありませんが、山号が異なっています。渡部高太郎版の「摩足山」はおそらく誤植ではないかと思われます。 

写真① 立江寺周辺(大正6年の「四国遍路道中図」駸々堂版、当館蔵)
写真② 立江寺周辺(昭和13年の「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 立江寺の本尊の延命地蔵菩薩立像については、寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (約5.5 cm) の子安地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊とした。後に空海(弘法大師)が訪れた際に小さな本尊は失うおそれがあるため、一刀三礼(いっとうさんらい)して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収め、この時に寺名が立江寺と改められたと伝えられています。

 立江寺が関所寺であったことを物語る史料として、明治33~34年(1900~01)に発行された「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記」と題した2種類の刷り物が、北宇和郡九島村字百之浦(愛媛県宇和島市九島)の遍路の所持品の中に残されています。それらは遍路が立江寺参詣の際に買い求めたものと見られます。その内の1枚は万治3年(1660)の出来事で、立江寺の手前にある九ツ橋の上に白鷺がいたにもかかわらず、村人の制止を聞かず橋を渡り落馬して死に至った阿波藩の郡代奉行黒部某の物語が紹介されています(写真③、当館蔵)。

写真③ 郡代奉行黒部某の物語「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記 其二」当館蔵

 橋の上に白鷺がいると進めないとする伝承は、貞享4年(1687)の真念の『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「〇たてえ村、石橋八ツ、此はしのうへに白鷺居ときハ往来の人渡る事あしゝ、をしてわたりぬれバあやまち有。」、寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』にも「立江村。石橋、橋上に白鷺居る時ハ通らなずと云也。」と記され、江戸時代には立江寺前の橋にまつわる白鷺伝説が広く知られていたことがわかります。さらに明治16年(1883)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』によると、「十九番 立江寺(中略)当寺は遍路御関所といふ。」とあり、立江寺は「遍路の御関所」と明記されています。

 もう1枚の刷り物には、不義密通して夫を殺したお京の物語が紹介されています(写真④、当館蔵)。お京の物語は「肉髪付鉦(つきかね)の緒の由来」として有名で、近代の四国遍路の案内記類に詳しく紹介されています。ここでは戦前の詳しい四国遍路案内記として定評のある昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』からあらましを紹介します。

写真④ お京の物語「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記 其三」当館蔵

 「肉髪付鉦の緒の由来は尤も名高く、概略を申しますと、享和三年(1803)石州浜田(島根県浜田)の城下に桜屋銀兵衛という者に三人の娘があり、中のお京は大坂新町で芸者稼業中要助なる者と深く契って脱走、親里に帰り夫婦となりましたが、いつしか密夫を拵(こしら)え遂に発覚したので、密夫を手引して夫を殺し、共に讃州丸亀に上陸して四国巡拝を思い立ち当寺(立江寺)まで来たのであります。ところが不義の天罰恐しくお京の黒髪は逆立って鉦(かね)の緒に巻きついたので、ここに懺悔して真人間に還り、一心に地蔵尊(立江寺本尊)を念じて辺(ほと)りに余世を終わったと言うことであります。その鉦の緒は今なお本堂に秘め収められています。」

 改めてこの刷り物を見ると、立江寺本堂の前において、お京の黒髪が逆立って鉦(かね)の緒に巻きついて身体が吊り上げられ、狼狽した密夫は跪き、二人は住職に救いを求め、罪を告白して懺悔する場面が描かれています。お京の首には納め札を入れる札挟みが掛けられ、密夫は笈摺を着ています。本堂前には降り落ちたお京の簪(かんざし)、二人が四国巡礼で被っていた笠、金剛杖なども描かれ、二人が遍路であることを示しています(写真④)。「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記」などのこうした刷り物は案内記類とともに、四国霊場の札所の由来や本尊等の霊験を世に広めました。

 お京の物語は、前科のある者や凶悪な罪を犯して追われている凶状持ち(きょうじょうもち)が、追手から逃れるためか、それとも罪ほろぼしのためか、遍路を装って四国霊場を巡拝していたことを示しています。また、過去のあやまちを懺悔して命が助かった二人は仏道に精進したという結末は、四国遍路が罪人も救済する霊場であることを示唆しています。このように関所寺・立江寺に伝わるお京の物語は、四国遍路という巡礼の特質を考える上でとても注目されます。

 現在、立江寺境内にはお京の肉髪付鉦の緒を納めた「黒髪堂」、寺の近くには白鷺の関所伝説のある「白鷺橋」、お京の位牌が納められている番外霊場「お京塚」などがあり、遍路が訪れる立江寺ゆかりのスポットとして知られています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情66―失われた番外霊場「龍の岩屋」②―

2025年4月1日

 ブログ64で四国霊場第21番太龍寺(徳島県阿南市)の近くにあった「龍の岩屋・窟(いわや)」について紹介しましたが、今回はその続編です。

 江戸時代以来、遍路をはじめ多くの旅人が訪れてきた龍の岩屋。歴史的に見て、阿波(徳島)の名所旧跡や番外霊場として位置づけられますが、大正時代から昭和時代(戦前)にかけて発行された四国遍路道中図には記載されていません(写真①)。もちろん四国には数多の名所旧跡や弘法大師ゆかりの霊場があるため、それらすべてを一枚の絵地図に網羅することは到底できません。しかし、四国遍路道中図は浅野本店版、光栄堂版、江口商店版など、徳島県内の仏具・巡拝用品店等が広告主兼発行者となっているものが多いにもかかわらず、郷土の霊場・龍の岩屋がまったく紹介されていないのは疑問が残ります。

写真① 太龍寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 なぜ四国遍路道中図の諸版に龍の岩屋が記載されていないのか。この点について詳細はわかりませんが、想像をたくましくすると、四国遍路道中図作成・発行にあたり、①編集紙面のレイアウト上の制約で割愛した、②先行する道中図の内容を踏襲した、③四国巡拝のルートから逸脱し往来に時間を要するため、④四国巡拝のルートに「灌頂の滝」を組み入れているため、⑤山道や洞内の崩落などで参拝が困難、⑥龍の岩屋の管理所有者との利権問題、等々の事情を思い浮かべます。

 反対に、龍の岩屋が記載されている四国遍路絵図類はどのようなものがあるのでしょうか。

 ブログ64で戦前の四国遍路ガイドブックである昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「番外二十一番奥の院 太龍窟」と紹介され、本書挿入の小さな略図「四国八十八箇所霊場行程図」にも記載されていることを指摘しましたが、筆者は新たに大正3年(1914)頃に発行されたと見られる一枚刷りの四国遍路絵図(縦55.0㎝×横39.4㎝)に龍の岩屋の記載を確認しました(写真②)。

写真② 四国遍路絵図(大正3年、個人蔵)

 本図は中央部に弘法大師御影を配して四国八十八箇所の由来を記し、四国の形は大きくデフォルメされ、上部(西・伊予)、下部(東・阿波)、左部(南・土佐)、右部(北・讃岐)となる構図で、四国八十八箇所霊場の札所間の距離(里丁)などが示されています。一見すると、江戸時代の一枚刷りの四国徧禮(へんろ)絵図と類似する内容となっていますが、近代の名所、市街地、鉄道、航路など新しい情報も簡略ながら記載されています。絵図周縁部には「四国かけくじ商 合同販売」「大正三年四月改正」「松山大街道谷口支店□印」「定価金七銭」と記されています。本図の発行と四国かけくじ商による合同販売との関係は不明です。

 注目したいのは、龍の岩屋への参詣が推奨され、四国遍路の巡拝コースに組み込まれている点です。絵図を詳しく見ると、「廿一太竜寺」(第21番太龍寺)と「廿二びょふ等寺」(第22番平等寺)との間に丸印で「龍ノ岩や」と大きく表示し、「必ズ岩やへ行ベシ」と注記があります(写真③)。そして、太龍寺と龍の岩屋を結ぶ「く」の字状の線は「いわや道」、「カモ谷」は加茂谷、「一宿あん」(一宿寺)と太龍寺道を結ぶ線は「かも道」と推察されます。 

写真③ 龍の岩屋周辺(四国遍路絵図、大正3年、個人蔵)

 ちなみに太龍寺周辺の遍路道(鶴林寺道・かも道・太龍寺道・いわや道・平等寺道)及び境内(鶴林寺・太龍寺・平等寺)は国史跡「阿波遍路道」に指定されています。

 龍の岩屋へ巡拝することを推奨する大正期の四国遍路絵図の存在は、龍の岩屋が必見の価値ある名所旧跡・霊場であったことを証明しています。このように近代の四国遍路絵図類において、龍の岩屋の記載の有無が確認できます。作成者の主眼や編集方針にもとづくものと解されます。

 龍の岩屋は江戸時代以来、四国遍路で知る人ぞ知る隠れた霊窟でしたが、近代の案内記に「番外二十一番奥の院 太龍窟」として紹介されて一般に広まっていく矢先、戦後に石灰岩の採掘のため消滅したという数奇な運命をたどります。近代における四国八十八箇所の番外霊場や奥の院の形成過程と四国巡拝のルートを考える上で、龍の岩屋の事例は注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情65―宇和海と四国遍路⑥ 南予地方の観音霊場・明石寺―

2025年3月28日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 愛媛県西予市宇和町にある四国八十八箇所霊場第43番札所の明石寺は縁起によると乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされ、古来より南予地方の観音霊場として人々の信仰を集めています。また、江戸時代には本山派修験寺院の拠点となり、宇和島藩主・伊達家の祈願所としても栄えました。

 南予地方の宇和海沿岸では古代、中世から鰯(いわし)漁などの漁業が盛んに行われてきましたが、宇和海の名産である鰯と明石寺の本尊観音菩薩との関係を示す興味深い記述があります。

 承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」によると、「此宇和島ハ昔ヨリ万事豊ニテ自由成所ナリ。殊ニ魚類多シ、鰯ト云魚ハ当所ノ名物也。是ハ当郡明石観音衆生済度ノ為ニ分身反作シテ鰯ト也玉フト也(中略)今ノ世迄、此郡十里ノ海ニ住魚ノ形質味マデ世に勝タルト也」とあり、宇和島の名物の鰯は明石観音(明石寺本尊)による衆生救済のための化身であること、宇和海の魚は見た目も味も優れていることなどが記されています。観音信仰の広がりと宇和海の幸(魚類)との結びつきを示す伝承として注目されます。

 明石寺の観音信仰の中心となるのが本尊千手観音坐像(秘仏)です。貞享4年(1687)の真念『四国辺路(徧禮)道指南』には本尊御影が掲載され、「本尊千手 坐三尺 唐仏」と記され、渡来仏「唐仏」と伝えられています。愛媛県教育委員会『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第43番札所 明石寺』(2019年)によると、本尊千手観音坐像の制作年代は寄木構造などから平安時代末期の作と考えられています。

 遍路が納経の際に授かる本尊御影札(当館蔵、写真①)には中央に千手観音坐像、本尊の脇侍として左に毘沙門天像、右に不動明王立像が描かれています。千手観音三尊像は現在の本堂の配置と同じです(『明石寺と四国遍路』愛媛県歴史文化博物館、2021年参照)。

写真① 明石寺の本尊御影札(明治時代、当館蔵)

 明石寺は内陸部の宇和盆地に立地していますが、宇和海沿岸の地域ともつながりが深く、明治期に入り、地元を中心とした篤信者によって明石寺の本堂、大師堂、仁王門、地蔵堂など大規模な再興が行われました。境内にある明治42年(1909)の「大師堂等諸堂寄附芳名碑」(当館撮影、写真②)によると、明石寺再興に際して寄付を行った人の住所地、氏名、金額が記録されており、宇和海沿岸の地名では北宇和郡立間(宇和島市吉田町立間)、玉津村(同市吉田町玉津)、喜佐方(同市吉田町)、深浦(同市吉田町深浦)、白浦(同市吉田町白浦)、西宇和郡朝立(西予市三瓶町朝立)、蔵貫(同市三瓶町蔵貫)、皆江(同市三瓶町皆江)、三瓶町(同市三瓶町)、長早(同市三瓶町長早)、津布理(同市三瓶町津布理)、周木(同市三瓶町周木)、西宇和郡高山村(同市明浜町高山)、狩浜(同市明浜町狩浜)、宮ノ浦(同市明浜町宮野浦)、狩江村(同市明浜町)、俵津(西予市明浜町俵津)、八幡浜(八幡浜市)、西宇和郡伊方村字亀浦(西宇和郡伊方町亀浦)などが確認できます。宇和海沿岸の村と浦から多くの浄財の喜捨が行われたことがわかり、明石寺の信仰圏の広がりが見て取れます。

写真② 明治42年の「大師堂等諸堂寄附芳名碑」(当館撮影)

 また、明治以降、明石寺の本堂、仁王門、地蔵堂などの屋根には耐寒性のある赤褐色の石州瓦(島根県石見地方で生産する粘土瓦)が使用され、こんにちの明石寺境内の特徴的な景観となっていますが、買い付けた石州瓦は俵津港(西予市明浜町)に陸揚げされ、俵津の人々が3枚、5枚ずつ背負って明石寺に運んだといわれています。

 昭和6年(1931)のアルフレート・ボーナーの『同行二人の遍路』(邦訳)に収録する古写真(当館蔵、写真③)の中に、明治期に再興された明石寺本堂の姿が写されています。本堂の正面には本尊に祈願して様々な奉納物が供えられており、霊験あらたかな観音霊場として人々に篤く信仰されていることを物語っています。

写真③ 明石寺本堂(アルフレート・ボーナー『同行二人の遍路』(邦訳)、昭和6年)

 ※特別展「宇和海のくらしと景観」では、近世の宇和海の網代(漁場)を描いた絵図、明治の漁法を記録した水産絵図、地理学者村上節太郎が昭和20~30年代に撮影した宇和海のイワシ船などを撮影した貴重な古写真を紹介しています。会期は残りわずかです(4月6日迄)。お見逃しなく。 また、宇和海の貴重な古絵図、古写真などを紹介した特別展図録も絶賛販売中です。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情64―失われた番外霊場「龍の岩屋」①―

2025年3月21日

 四国霊場第21番太龍寺(徳島県阿南市)の東南山腹にかつて「龍の岩屋・窟(いわや)」という鍾乳洞がありました。龍の岩屋については古くから知られ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、元禄2年(1689)の寂本『四国霊場記』、寛政12年(1800)の河内屋武兵衛「四国遍禮名所図会」、文化6年(1809)の升屋徳兵衛「四国西国順拝記」、弘化元年(1844)の松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」など、江戸時代の案内記や遍路日記類に登場します。

 なかでも絵師西丈が描いた『中国四国名所旧跡図』所収の「阿州太龍寺岩谷図」(当館蔵、写真①)は、案内人を付けて松明を灯して洞内に入る場面が描かれ、江戸時代後期の「龍の岩屋」見物の様子を伝えています(ブログ「中四国名所旧跡図36 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)」参照)。

写真① 絵師西丈が描いた『中国四国名所旧跡図』所収の「阿州太龍寺岩谷図」(当館蔵)

 近代に入り、明治16年(1883)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』には「大龍寺より卅六丁下りて龍の窟あり、霊窟也」と記され、番外の四国霊場として多くの遍路が巡拝したことが推察されます。

 実際、明治~大正時代に四国遍路を行った北宇和郡九島村(愛媛県宇和島市)出身の遍路の所持品に、龍の岩屋を描いた絵図が2枚確認できます(当館蔵、写真②)。そのうちの1枚は表題に「竜ノ岩屋内部ノ真景」とあり、刊記によると明治15年(1882)に徳島県徳島市大字佐古村の士族佐藤熊五郎が作成したものであることがわかります。

写真② 龍の岩屋を描いた絵図。北宇和郡九島村(宇和島市)の遍路の所持品(当館蔵)

 本図には、龍の岩屋内の様々な場所に名前が付けられており、松明を持った案内人に先導されて洞内をめぐり、弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などに参拝する遍路の姿が描かれています。太龍寺参詣後に龍の岩屋を訪れて、こうした絵図を遍路土産として買い求めたことがわかります(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年参照)。

 近代の案内記で龍の岩屋について詳しく紹介したのが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』です。本書では「番外二十一番奥の院 太龍窟」と紹介され、四国八十八箇所霊場第21番の奥の院として位置付け、名称を「太龍窟」としています。説明文には「御本尊弘法大師 当窟は大師御修行の道場で、当山に悪龍棲み人畜に害を与えますので大師は障碍を避けんと百日の求聞持法を修されました時、虚空蔵菩薩空中より宝剣を授け給い、十六丈の大蛇を窟に封鎖せられたところであります。県下有数の石灰洞で奥行五十五間あり、最も広い処を千畳敷、狭い処を龍の迫割(せりわり)と申します」とあります。洞窟の案内の有無については言及していませんが、本書折り込みの略図「四国八十八箇所霊場行程図」にも太龍窟が記載され、四国巡拝コース上に位置付けられています(写真③)。

写真③「四国八十八箇所霊場行程図」(安達忠一『同行二人 四国遍路たより』、昭和9年、個人蔵)

 一方、四国遍路道中図の場合、大正6年(1917)駸々堂版、昭和13年(1938)渡部高太郎版などを確認すると、龍の岩屋は記載されておらず、番外霊場や名所古跡として選定されていません。この点については別稿でふれたいと思います。

 戦前、龍の岩屋めぐりの記録として注目されるのが、昭和18年(1943)の漫画家・宮尾しげをが著した遍路記『画と文 四國遍路』です。宮尾は太龍寺参拝後に龍の岩屋に訪れ、その体験談を本文と挿絵で紹介しています。

 「ここは大師が悪龍を封じたところと云ふ。正体は鍾乳洞『龍の窟案内十銭』と札が出ている家が前にある。頼むと蝋燭に火をとぼし私の身体に白い着物を着せて『サァ案内いたしませう』窟の中には、ごうごうと音をたてて一間幅ぐらいの川が流れている。づるづると苔で滑る道をふみふみゆく。様々な名前が岩につけられてある『ここは、継子(ままこ)いぢめと云ひます、継子をいぢめた女が、この石の間を通るとき、両方から石がよつてきて挟みまして身体が抜けません、どうした事と尋ねましたら、継子いぢめをした罪だつたのです、懺悔(ざんげ)したら、石は元の通りになりました』『ヘェそれを見ましたか』『いいえ、さういふことが伝へられてます』先の方の見物が『南無大師遍照金剛ありがたやありがたや』と云ひながら歩いている。あとで聞いたが、この窟は遍路が有難がる所ださうだ。鍾乳洞も場所によつて生きるものである。」

 これによると、龍の岩屋は悪龍退治の弘法大師伝説があり、洞窟前の人家で10銭払うと洞窟の案内を行っていたこと、その際に白着物を着用したこと、洞内は「継子いじめ」など様々な名前が付けられた奇石があり、遍路は大師御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えて感謝しながら洞内を巡っていたことなど、龍の岩屋見物の様子がうかがわれます。

 「継子いじめ」の事例は、四国遍路の勤行次第で唱える「懺悔文」(さんげもん)」が教示する「過去に犯した罪を改めて仏に懺悔する」という意味に通じます。また、白着物は死に装束を意味し、洞内めぐりは暗闇の中の狭い場所を歩いて修行する「胎内くぐり」のように、霊窟を巡って肉体と魂を浄化して生まれ変わるという考え方に導かれて行われたものと解されます。弘法大師が修行したと伝えられる龍の岩屋は、こうした神秘性や修行性を体感できる洞窟霊場として遍路に人気があったものと推察されます。

 江戸時代から知られていた龍の岩屋ですが、戦後まもなくセメント工場が所有となり、石灰岩の採掘のため現在は残っていません。四国遍路は長い歴史の中で、特に近代以降、明治維新による神仏分離、開発、戦争、自然災害などいろんな影響を受けて今日に至りますが、龍の岩屋は近代の開発によって失われた番外霊場の事例として注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情63―宇和海と四国遍路⑤ 遍路装束―

2025年3月15日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 本展の第3章「村上節太郎の見た宇和海」では、愛媛の地理学者・村上節太郎が戦前から戦後にかけて撮影した宇和海沿岸部の景観や人々のくらしの様子を写真パネルと関連資料で紹介しています。

 注目したいのは、昭和20年代~30年代の古写真の中に柑橘栽培などの農作業や収穫物などを背負って運ぶ人々の姿が写されており、縞(しま)や絣(かすり)模様が入った着物や、それらの古布を裂いてリサイクルした裂織(さきおり)の着物が用いられている点です(写真①②)。絣糸を組み合わせて様々な模様を生み出す絣は、従来の縞織物に代わる新しい織物として、明治時代~昭和時代(戦前)にかけて盛んに生産され、伊予絣(愛媛県松山市)、久留米絣(福岡県久留米市)、備後絣(広島県福山市)は日本三大絣として知られています。

写真① 絣や縞の着物を着てムシロを運ぶ女性(昭和31年5月、伊方町三崎、村上節太郎撮影、当館蔵)
写真② 裂織を着てカルイカゴ(背負籠)を背負った女性(昭和20年代、伊方町名取、村上節太郎撮影、当館蔵)

 なかでも伊予絣は日常着、学生服、労働着などあらゆるシーンで人々の衣生活を支えてきました。四国遍路道中図が発行された大正時代から昭和時代(戦前)は、ちょうど日本で絣が庶民の衣料として普及した「絣の時代」にあたり、四国遍路の巡礼着にも伊予絣などの絣が用いられました(『伊予かすり 絣文様の世界』愛媛県歴史文化博物館、2019年参照)。

 今回は四国遍路における遍路装束について紹介します。

 こんにちの遍路の姿は正装とされる白装束のイメージが定着しています。実際に団体バスツアーで四国霊場を巡拝する遍路は巡拝用品店などで入手した白衣や巡拝用品を身につけた白装束の姿をよく見かけます。四国八十八ヶ所霊場会のホームページによると、「遍路姿 白装束が基本です。(少し略される方は洋服の上に白衣と輪袈裟を着け、白の靴でも良いでしょう。)袈裟は必ず着用し、杖、念珠そして納経帳も必ず持ちましょう。衣装を整える事でお参りに対する気持ちや、心構えが、随分と変わるものです。」とあります。

 遍路の白装束の中心となるのが「白衣(はくえ)」です。白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)には、白衣について「巡礼する時に着用する、袖がある白い行衣。「びゃくえ」と読むこともある。本来は、背負っている笈(おい)のため、白衣の肩のあたりが擦り切れないように、この上から袖のない笈摺(おいずり)を着た。今日では、白衣か笈摺か、どちらか一方を着用するが、白衣のほうが正式のように思われている。白衣は、いわゆる死装束で、巡礼が他界(聖なる世界)を行く者であることを象徴する」とあり、白衣は四国遍路に限らず巡礼の衣装であり、死に装束の象徴とされています。

 戦前の四国遍路案内記である、昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によると、「白衣は、晒し木綿或いは白金巾にて着物を仕立て上げて持参するのです。仕立ては一反にても半反でもよい、心任せです。此の着物に御納経帳同様に御宝印を受くるのです」と記され、白衣は各自で仕立てて用意し、札所で納経帳と同じようにそこに御朱印を押印することを奨めています。

 白衣の普及については、昭和37年(1962)の荒木戒空『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店発行、四国霊場会後援)の「遍路の今様」によると、「服装 昔のよう一定のフォームは少なくなりました。しかし本四国は今に白装束が一番多く、次いでハイキング姿です」とあることから、四国遍路で白装束姿が普及するのは戦後しばらくたってからと見られ、その背景には四国霊場会による推奨が要因の一つとして考えられます。

 ちなみに『巡拝案内 遍路の杖』を発行した浅野総本店(スモトリ屋)は第10番切幡寺参道にある老舗の仏具・巡拝用品店で、本ブログで紹介する四国遍路道中図なども発行し、現在も四国遍路文化の普及に貢献されています。

 次に、戦後に白装束が普及する以前の遍路の服装について資料から見てみましょう。

 明治後期に旧山田大師堂(愛媛県西予市宇和町)に奉納された11人(男性8名、女性3名)の団体遍路の記念写真(当館蔵、写真③)を見ると、いずれも白装束でなく縞や絣の着物姿です。それぞれが頬被り、手甲、足袋、草鞋、金剛杖、札挟み、数珠などを身に着けています。

写真③ 明治時代後期に旧山田大師堂に奉納された団体遍路の記念写真(当館蔵)

 昭和11~12年(1936~37)に日本交通公社の前身にあたるジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協會)が発行した戦前のガイドブック『四國地方』(英語版『HOW TO SEE SHIKOKU』)では、絣の着物姿の娘遍路が表紙を飾っています(写真④)。手には菅笠、金剛杖を持ち、首から札箱を掛けています。戦前は絣姿の娘遍路が四国のイメージに採用されています。

写真④ ジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協會)発行『四國地方』(英語版『HOW TO SEE SHIKOKU』)、昭和11~12年、個人蔵

 このように明治時代から昭和時代(戦前)にかけては、遍路装束は紺無地、縞、絣などの着物姿が多く見られ、戦後しばらくたってから今日の白装束が普及していったことが推察されます。