Archive for the ‘南予の史跡紹介’ Category

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情62―南予地方と牛馬ゆかりの佛木寺―

2025年3月14日

 今回は四国遍路と牛馬について愛媛県南予地方の事例から探ってみます。

 愛媛県の西南部に位置する南予地方は、牛の角を突き合わせする闘牛(写真①)や、祭礼に登場して悪魔払いを行う牛鬼が有名です。また、戦前の四国遍路で漫画家・宮尾しげをが宇和海の深浦港から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)まで乗合馬車を利用したように、南予では馬車が遅くまで運行されていました(本ブログ60「乗合馬車」参照)。

写真① 絵葉書「伊予 宇和島闘牛会」明治時代後期、個人蔵

 自然環境に恵まれ多彩な農林水産業が営まれてきた南予地方は牛馬とのつながりが深い土地柄です。明治27年(1894)の宮脇通赫『伊予温故録』によると、愛媛県内の牛馬市は春秋の2回か夏季1回行われ、実際に南予各地で多く開催されていることがわかります。南予の風物詩ともいえる牛馬市は、江戸時代後期の西丈画「中国四国名所旧跡図」(当館蔵、写真②)に描かれており、大洲の肱川河原(愛媛県大洲市)で馬喰(ばくろう)たちが牛馬の売り買いをしている賑やかな様子がうかがえます(ブログ「中国四国名所旧跡図55 与州大津町馬市所(大洲の馬市)」参照)。

写真② 「中国四国名所旧跡図」の「与州大津町馬市所」、当館蔵

 近代化によって交通の発達や農業が機械化する以前、家畜としての牛馬は運搬や農作業などの重要な労働力として大きな役割を果たしました。

 当館が収蔵する民俗資料の中に、農作業で牛馬に引かせて田畑を耕す時に用いる犂(すき)、水田の土をかきならすための「馬鍬」(まぐわ・まんが)、農具等を牛馬の背に装着するための牛鞍・馬鞍などがあり、それらはいかに牛馬が人々のくらしを支えてきたかを如実に物語っています(写真③)。そのため牛馬は家の宝として、家族の一員として大事に飼育・世話をされ、その安全を祈願する習俗があり、牛馬が病気になると神仏に参拝して平癒を祈りました。

写真③ 犂(左)と馬鍬(右) 当館蔵

 さて、牛馬とゆかりの深い四国八十八箇所霊場といえば、第42番札所佛木寺(愛媛県宇和島市三間町)があげられます。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で佛木寺を確認しましょう(写真④)。

写真④ 佛木寺周辺 昭和13年「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)

 佛木寺は宇和島と卯之町の間に位置し、遍路道の距離は第41番龍光寺から「廿五丁」、次の第43番明石寺までは「三リ廿丁」と記載され、札所を示す丸印の中心には本尊の大日如来が漫画チックに描かれています

 佛木寺が牛馬と関係が深いのはその縁起に基づいています。寺伝によると、空海が唐から帰朝後の大同2年(807)、大師は牛をひいた老翁に会いこの地に来たところ、楠の老木に宝珠が掛かっているのを発見します。その宝珠は大師が唐に留学した時に日本に密教有縁の地を求めるために三鈷杵とともに東方に向けて投げたものでした。そこで大師は、楠で大日如来の尊像を刻み、その眉間に宝珠を納めて本尊とし、堂宇を建立したことが記されています。

 仏木寺が戦前に発行した絵葉書には「当山本尊は小児牛馬の守り佛です」(写真⑤)とあり、また、昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四国遍路』には、佛木寺の本尊御影札が掲載され、札には大日如来の仏前に牛馬と人が描かれ、「四國四十二番本尊大日如来 ホーソーよけ牛馬安全の守り佛」と記されています(写真⑥)。これらのことから、本尊の大日如来は子どもや牛馬の守り仏として信仰されていることがわかります。「ホーソー(疱瘡)よけ」にご利益があるとされるのは、天然痘(てんねんとう)の予防接種として、牛に発生する牛痘の膿疱(のうほう)を用いる「牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)」が行われてきたことに由来するものとみられます。

写真⑤ 佛木寺絵葉書(昭和時代、個人蔵)
写真⑥ 佛木寺の本尊御影札(昭和5年、島浪男『札所と名所 四国遍路』所収、個人蔵)

 さらに注目したいのは、佛木寺の境内には本堂の右手に家畜の安全祈願を祈る家畜堂(小祠)の存在です。オーストリア人のアルフレート・ボーナーが昭和6年(1931)にドイツ語で著した『同行二人の遍路(邦題)』(当館蔵)には戦前の家畜堂を撮影した古写真が収録されています(写真⑦)。堂内に牛馬用の草鞋が奉納されており、家畜として牛馬を大切にしたことが偲ばれます。なお、現在の家畜堂には牛馬に限らず愛玩するペットの供養物なども奉納されています。

写真⑦ アルフレート・ボーナーが撮影した佛木寺の家畜堂(『同行二人の遍路(邦題)』、昭和6年、当館蔵)

 佛木寺近郊には九州方面からの玄関口となる八幡浜港があります。宇和島街道と八幡浜を結ぶ八幡浜街道笠置峠越(国史跡)は遍路道としても利用されてきました。道沿いに地元で「牛神さま」と親しみを込めて呼ばれている2体の石仏が岩穴の中に祀られています。左が馬頭観音像、右が大日如来像(写真⑧)です。こうした光景はまさしく人々の牛馬への感謝の気持ちと交通の安全を祈る信仰の姿を今に伝えています。

写真⑧ 八幡浜街道の笠置峠越(国史跡)の「牛神さま」、当館撮影

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情59―宇和海と四国遍路② 遍路が利用した宇和海の航路―

2025年2月28日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 今回は四国遍路と宇和海について、遍路が利用した海上交通に注目して紹介します。

 まずは昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で宇和海を確認しましょう(写真①)。

写真① 宇和海周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 地図上の左端の中央部に、九州からの上陸港となる八幡浜があります。上陸地を示す碇のマークが標示され、「八幡浜 豊後日向以南は八幡浜上陸便利ナリ」とあります。宇和海は愛媛県西部、佐田岬半島の南、愛媛県と大分県の間にある豊後水道の愛媛県側を「宇和海」と呼んでいます。佐田岬半島の先端部は地図上で省略されていますが、八幡浜から南の宇和島や高知県の宿毛湾、蹉跎(足摺)岬にかけて、狭い湾が複雑に入り組んだリアス海岸が描かれています。

 陸上交通が整備されている現在とは異なり、この入り組んだ湾に面している宇和海沿岸では、昭和30年代頃まで、港から港を伝っていく航路が地域の主要な交通手段となっていました。このため、お遍路さんも、このエリアの札所を巡る場合は航路を使うことも多かったのです。

 四国遍路の巡拝ルートで宇和海の航路が利用されたのは、第39番延光寺(高知県宿毛市)から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)の区間(観自在寺道)です。高知県宿毛市の宿毛港・片島港~愛媛県愛南町の深浦港・貝塚港を利用します。もう一つは第40番観自在寺から第41番龍光寺(宇和島市三間町)の区間(龍光寺道)です。深浦港・貝塚港~宇和島港を利用します。

 四国遍路道中図にはそれらの航路は地図上に記載されていませんが、陸路の場合、前者は、予土予土国境の急峻な松尾坂(松尾峠)、後者は柏坂を越えるルートとなります(写真①)。海路を利用すると難所の峠越えをカットできるという利点がありました。

 実際の遍路記から当時の様子を確認してみましょう。

 高群逸枝が大正7年(1918)に逆打ちで四国遍路を行った際の遍路記『娘巡礼記』によると、観自在寺の通夜堂で一泊した後、午前10時に伊予の深浦から「大和丸」という汽船に乗って土佐の宿毛に上陸しています。

 「室内のムサ苦しい事、ほとほと耐まらない。それに小さな蒸気であるから部屋は上と下との二段しかない。しかも乗客ははみ出す位、つまっている」と記され、宇和海を航行した小さな蒸気船「大和丸」のぎゅうぎゅう詰めとなるほどの盛況ぶりがうかがわれます。

 次に昭和18年(1943)の宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』を確認すると、順打ちの宮尾の場合は、土佐の片島から伊予の深浦まで航路を利用しています。

 「海路の運賃は『普通は五十銭だが、御遍路だから四十銭に割引です』と札売が云うて、桃色の札をよこす『御遍路殿二割引四十銭、上陸地深浦港、乗船地宿毛湾、月日、大和丸』と印刷してある。」船へ入ると、船員が『お遍路さん晩に乗りませんかナ、宇和島へ行きますヨ』といふ。こちらは晩までには宇和島へ入る予定である(後略)」

 高群と同じく宮尾も「大和丸」に乗船しています。船員に夕方の宇和島行きが奨められています。船賃が遍路の場合は2割引です。今日でも宿泊代の割引など遍路に対してさまざまなお接待が施されていますが、当時は船賃も対象になっています。

 戦前の四国遍路ガイドブックである、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、観自在寺の案内文に続いて宇和島に行く方法について「汽船は深浦と貝塚の二ケ所より出船がある、時間は寺に問い合わされよ。毎年二月より九月までは四国巡拝者に限り割引して呉る」と記載されています。札所(観自在寺)で宇和島行の船の運行時間を案内していたことや、遍路の乗船運賃の割引は期間限定であったことがわかります。

 ここで宇和島を中心とした戦前の宇和海を舞台にした航路の状況について見てみましょう。

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』(昭和60年)によると、明治29年(1896)に御荘町平山港を根拠地に営業を始めた南予運輸会社の御荘丸を皮切りに、同39年(1906)に大阪商船の義州丸が深浦に入港、同40年(1907)に宇和島運輸の宇和島丸が大阪~宿毛間を就航、大正時代に入ると、大型蒸気汽船が沿岸主要港に寄港する阪神方面への内海航路を開設したのに刺激され、福山磯太郎が経営した大和丸、間口七太郎・藤七の大栄丸などの小型船による沿岸貨客便の就航も始まります。昭和時代になると、青木運輸の繁久丸、盛運汽船の天長丸・天光丸なども就航し、宇和海で多くの船が運航し激烈な競争を繰り広げていました。

 その中でも遍路記に登場する「大和丸」は大正3年(1914)頃に福山磯太郎が深浦港を始発に湾内の各港を巡航し、新造船をあいついで就航させ、寄港回数を増加するなど優位に立っていましたが、昭和8年(1933)に第三大和丸による由良半島沖の遭難事故や経営者の交代などがあり、第二次大戦中に関西汽船に併合されました。

 昭和9年(1934)に刊行された四国霊場の写真集『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)には、汽船入港で賑わう深浦港の写真「土佐片島港より伊予深浦港へ渡船の実況」(写真②)が掲載されています(本ブログ2「四国の上陸港」、14「海の遍路道」参照)。車を港に降ろしている左側の大きい汽船は宇和島丸ですが、右側の小さい汽船の名前はわかりませんが、「大和丸」のようなこうした小型船が宇和海沿岸を巡航したと見られます。

写真② 入港で賑わう深浦港「土佐片島港より伊予深浦港へ渡船の実況」(昭和9年『四国霊蹟写真大観』、当館蔵)

 宇和海の航路は、遍路に接待の一種として乗船割引があったように四国遍路の巡拝はもちろんのこと、地域の人々のくらしを支え、戦後に陸上交通が発達するまで必要不可欠な海上交通でした。

 特別展「宇和海のくらしと景観」では宇和海を描いた絵図やそこに暮らす人々の生業を詳しく紹介しています。この機会に是非ご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情58―宇和海と四国遍路① 自動車遍路の人気スポット・法華津峠―

2025年2月21日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 今回は四国遍路と宇和海について、法華津峠に注目して紹介します。

 当館がある西予市宇和町と宇和島市吉田町の境に法華津(ほけつ)峠(標高436m)があります。展望台からは眼下に急傾斜地を活かした柑橘の段々畑が連なり、美しいリアス海岸の宇和海(法花津湾)が織りなす雄大な景観が広がり、絶好の展望地として知られています。

 足摺岬、竜串(たつくし)、沖の島、篠山、御五神島(おいつかみじま)、滑床渓谷、法華津峠など、四国南西部の島々を含む海岸部と内陸部の標高1,000m級の山々からなる変化に富んだ景観は、昭和47年(1972)に足摺宇和海国立公園に指定されています。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中(渡部高太郎版、当館蔵)で法華津峠周辺を確認すると、法華津峠は札所では第42番佛木寺(宇和島市三間町)と第43番明石寺(西予市宇和町)との間に位置しますが、海岸沿いのため遠く離れています。宇和島~卯之町~八幡浜の区間は鉄道が開通していない未成線として記載され、平行して自動車が通行可能な道路(宇和島~吉田~立間~法華津峠~卯ノ町)が開通していることがわかります(写真①)。法華津峠越えの道路は今日の法華津トンネルによる新道(現国道56号線、昭和45年完成)ではなく、旧道(吉田町立間~宇和町伊賀上に至る延長約11㎞の急坂)のことで、明治34年(1901)に開通しています。

写真① 法華津峠周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 佛木寺から明石寺に至る遍路道(明石寺道)の巡拝ルートは通常は最短距離となる歯長峠を進むため、歩き遍路の場合、地理的に離れている法華津峠を進むことはごく稀です。

 法華津峠が四国遍路で注目されるようになるのは、近代以降の遍路記類で紹介されたことが要因の一つといえます。いくつか事例を紹介します。

 近代交通を可能な限り活用して四国の観光を取り入れながら四国巡拝を行った人物に島浪男がいます。昭和5年(1930)に島が著した遍路記『札所と名所 四国遍路』によると、宇和島を起点に第41番龍光寺、第42番佛木寺の巡拝を終えた島は再び宇和島に戻り、乗合自動車を使用して、法華津峠経由で第43番明石寺に向かい、その途中の法華津峠から見た宇和海の絶景を称賛し、四国の旅の醍醐味は自動車で峠越えすることにあると力説しています(本ブログ21「明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路」参照)。

 また、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』(鶴書房) によると、宇和島を起点に龍光寺と佛木寺を参拝した宮尾は和霊神社の田植祭りを見学後、同様に乗合自動車を使って法華津峠を経由して卯之町へと進んでいます。

 「卯の町行きの乗合自動車は宇和島を出て小さな峠を越し、吉田の町を抜ける。(中略)天正の昔、法華津範延が土佐の長曾我部、豊後の大友と相拮抗した遺跡の法華津峠を越す。天気がよいと九州方面までよく見えるといふ『あの辺に久原の製錬の煙突が見える筈です』と運転手が空の一角をさす。卯の町で車を下り、町を横切り新道をゆきY字道を左にとる事十三丁、山の中腹に四十三番の源光山明石寺はある。」と記しています。

 ちなみに「久原の製錬」とは佐賀関製錬所(大分県大分市)のことで、大正時代の一時期、煙突の高さで世界一を誇り「東洋一の大煙突」「関の大煙突」と呼ばれ、佐賀関のシンボルとして親しまれましたが、老朽化によって平成25年(2013)に解体・撤去されました。

 宮尾の遍路記からは、歴史的に戦国時代の古戦場であった法華津峠に、乗合自動車を利用して卯之町に向かう遍路が訪れるようになっていること、法華津峠からの絶景の魅力に新たに大分の近代名所が加わっていること、卯之町から明石寺までのルートに自動車が通行できる新道が開通していること、などが読み取れます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』には、宇和島~卯之町間の運賃と所要時間は「一円四十銭(一時間二十分)」とあります。今日からすれば、険しい山道が連続する法華津峠越への旧道は自動車でもかなりの時間を要しますが、当時としては宇和島から卯之町を結ぶ画期的な道路でした。

 戦後、四国遍路において法華津峠がさらに人気スポットとして注目されるようになるきっかけに、伊予鉄による四国八十八箇所を順拝する団体バスの運行があげられます。

 伊予鉄道・伊予観光社による「四国霊場会推薦四国八十八ヶ所順拜バスご案内」と題したパンフレット(昭和32年以降発行。個人蔵)によると、四国八十八ヶ所順拝バスで四国遍路を15日間でめぐりながら四国の観光ができることを宣伝しています。コースの中で観光見学地として組み入れられているのは、琴弾公園、栗林公園、屋島、満濃池、室戸岬、龍河洞、桂浜、足摺岬、法華津峠、面河渓、道後温泉などで、法華津峠は第14日目の予定となっています。パンフレットには実際に過去に本ツアーで法華津峠を訪れた時の写真「順拝バス南国伊予路を行く―法華津峠にて―」が掲載されています(写真②)。当館には昭和31・32年に宇和島の遍路が伊予鉄道の四国八十八箇所巡拝バスで四国遍路を行った時の納経帳も収蔵されています(写真③、当館蔵)。

写真② 伊予鉄道・伊予観光社発行「四国霊場会推薦四国八十八ヶ所順拜バスご案内」、個人蔵
写真③ 伊予鉄道の四国八十八箇所順拝バスで使用した納経帳(当館蔵)

 このように近代以降の道路開発や自動車の普及などの交通環境の進展によって、伝統的な旧遍路道を基本的な巡拝ルートとする歩き遍路とは異なった自動車遍路の巡拝ルートが誕生しました。宇和海を臨む絶好の展望地であった法華津峠は自動車を利用した遍路にとって新しい人気スポットとして注目され、南予地方における四国遍路の観光化の象徴として見ることができます。

 特別展「宇和海のくらしと景観」。この機会に是非ともご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情56―十夜ヶ橋と四国遍路―

2025年2月9日

 四国八十八箇所霊場第43番明石寺から第44番大寶寺に向かう途中、愛媛県大洲市東大洲にある「十夜ヶ橋(とよがはし)」(永徳寺)は、古くから弘法大師ゆかりの四国霊場として知られています。

 大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版、当館蔵)には「番外 十夜のはし」(写真①)、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には「番外 十夜橋 四十三番ヨリ六里七丁」(写真②)とあり、遍路が巡拝する番外霊場として記載されています。

写真① 十夜ヶ橋(大正6年、四国遍路道中図・駸々堂版、当館蔵)
写真② 十夜ヶ橋(昭和13年の四国遍路道中・渡部高太郎版、当館蔵)

 昭和18年(1943)に刊行された宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』には、次のような記述があります。

 「お遍路さんが有難がる十夜の橋を見たいので通り掛りの自動車に乗る。弘法大師が、行き暮れてこの橋の下で一夜野宿したが、その一夜が十夜ほどに覚えたといふので、十夜が橋の名がある。原つぱの中に堂があり橋がある。遍路は、この橋を通る時には、弘法大師にあやかるようにと、この橋の下をわざわざ潜って行く、橋の上を渡る時には、もつたいないお姿ですと云つて、ついてる金剛杖を上にあげ、突かずに歩く『杖をつくとその響きで、橋の下の大師さまがおやすみになれない』からであるさうな。」 

 本書からは、四国霊場の中でもとりわけ有名な番外霊場として篤く信仰されていること、遍路は橋の上では金剛杖を突いてはいけないとされる十夜ヶ橋の弘法大師伝説が広く浸透されていることがわかります。

 十夜ヶ橋について江戸時代の案内記・絵図類を確認すると、貞享4年(1687)の真念『四国邊路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「とよか橋、ゆらい有」と記されていますが、詳しくは語られていません。真念が遍路の功徳話を収集してまとめた、元禄3年(1690)の『四国徧禮(へんろ)功徳記』にも紹介されていません。しかし、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図 全」には「トヨガハシ大師一夜トマリナサレシ所」(写真③)と弘法大師伝説が紹介されています。

写真③ 十夜ヶ橋(宝暦13年、細田周英「四国徧禮絵図 全」、当館蔵)

 寛政12年(1800)の『四国遍禮名所図会』には「十夜の橋 大師此辺にて宿御借り給ひし此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下ニて休足遊ばしし所、甚だ御労身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云。大師堂 橋の側にあり」と記され、小川に架かる橋のたもとにある小堂(十夜ヶ橋大師堂)に参拝する阿波(徳島)の遍路(本書の作者と見られる)の姿が挿絵に収録され、江戸時代後期の十夜ヶ橋の様子をうかがい知ることができます。

 明治末~大正初期の絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(写真④、個人蔵)には、肱川の支流である都谷川(とやがわ)に架かる小さな橋の石柱には「十夜橋」と記されています。橋には欄干はなく、両端の石柱に縄がかけられ、納札のような紙がたくさん結ばれています。橋のほとりには石垣の土台の上に瓦葺方形造の堂が築かれ、『四国遍禮名所図会』に描かれた面影が残っています。

写真④ 絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(個人蔵)

 昭和43年(1968)、四国の番外霊場20の寺院が集まり、四国別格二十霊場が創設され、十夜ヶ橋(正法山永徳寺、真言宗御室派)はその第8番霊場に指定され、益々人々の信仰を集めてきました。しかし、平成30年(2018)7月7日の台風7号による西日本豪雨災害のため、十夜ケ橋の境内が水没し、本堂が取り壊されました。その後、有志らによって再建が行われ、令和6年(2024)5月12日に新しい本堂の落慶法要が行われました。  

 十夜ヶ橋の歴史をふりかえると、江戸時代以降に四国遍路が人々に広まっていく中で、四国霊場の形成や発展がどのようになされたのか、また、弘法大師伝説と四国遍路の習俗との関係性、災害と霊場・札所の復興など、四国遍路のさまざまな点について考える上で大きな示唆を与えてくれます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊾―第40番の「奥の院」―

2024年9月14日

 前回、「四国遍路道中図」に記載された八十八箇所霊場の奥の院について紹介しましたが、今回は具体的に第40番の奥の院について見てみましょう。

 現在、第40番奥の院は愛媛県宇和島市の臨海山龍光院(宇和島市天神町1-1)となっています。大正6年(1917)と昭和6年(1931)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)には「番外龍光院四十番奥ノ院」と目立つように記載されています(写真①)。また、四国遍路案内記を見ると、大正8年(1919)と昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)に「四十番の奥の院龍光院にかけて四十一番へ行くが楽」とあり、地理的に次の札所第41番龍光寺への巡拝道(遍路道)のルート上に位置する龍光院は番外札所として定着していることがわかります。

写真① 「番外龍光院四十番奥ノ院」大正6年「四国遍路道中図」(駸々堂版、当館蔵)

 そのことを物語るかのように「四十番奥院参拝記念」印を押印した龍光院の絵葉書には、同所を参拝する遍路の姿が確認できます(写真②)。近代以降は道中図や案内記を手にした多くの遍路が龍光院を巡拝しました。

写真② 絵葉書「絵葉書 伊予宇和島龍光院」明治末~大正初期 個人蔵」個人蔵

 ところで、観自在寺の奥の院とされているところは龍光院の他にもあります。

 明治35年(1902)に宇和島在住の石崎忠八が著した『改正四国霊場遍禮順路指南増補大成』(明治38年再版)によると、「宇和島入口元結掛に四十番奥の院願成寺なる寺へ順拝人の納札所ありしに明治初年の頃廃寺となり同町北の入口龍光院といふ寺へ安置したり」とあります。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「番外 四十番奥の院 龍光院 御本尊弘法大師 御自作。当寺は大師四国八十八箇所霊場開創紀念の為、港口九島に願成寺を建立御自像を安置せられましたが、渡海の労を思わせられて此地に移されたのであります」と記されています。

 つまり、第40番の奥の院ははじめ宇和島沖の九島の願成寺(がんじょうじ)であったが離島で渡海が不便のため、宇和島城下入口の元結掛(もとゆいぎ)に移り、明治初年頃にそれは廃寺となり、龍光院に吸収されたことが記されています。現在、九島の遍照山願成寺(写真③)は「鯨大師」として、また、元結掛の地には馬目木(まめぎ)大師堂があり(写真④)、それぞれ興味深い弘法大師伝説がのこっていますが、今回は割愛します。

写真③ 九島の遍照山願成寺、当館撮影
写真④ 元結掛の馬目木大師堂、当館撮影

 さらに、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』によると、「四十番の番外といふのが宿毛の二里、平城から五里の土佐と伊予の国境にある篠山神社で、維新までの神仏混祀時代は、奥の院であつて、弘法大師の開基と伝へられているが、今は神社になつているので、知っている人のみしか参詣しない」とあり、40番の奥の院として篠山神社が紹介されています。

 篠山(篠山神社)は「四国遍路道中図」の駸々堂版には記載されていませんが、昭和13年(1938)に発行された愛媛の心臓薬本舗・渡部高太郎版(松山市の關印刷所印刷)には小さく「御篠」(おささ)と記載されています(写真⑤)。

写真⑤ 「御笹」昭和13年 四国遍路道中図(渡部高太郎版)、当館蔵

 近代の遍路案内記では、第40番観自在寺の奥の院はA九島の願成寺、B元結掛の願成寺、C龍光院、D篠山神社が確認できます。

 次に、江戸時代の主な以下の遍路案内記などで、第40番奥の院がどのように記載されているのか見てみましょう。なお、篠山神社は神仏分離以前の江戸時代では「篠山権現」「篠三所大権現」あるいはその別当の「篠山観世音寺」として記載されています。

(ア)貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』

(イ)元禄2年(1689)の寂本『四国徧禮霊場記』

(ウ)明和4年(1767)の『四国徧禮道指南増補大成』

(エ)寛政12年(1800)の『四国遍禮名所図会』

 A 九島の願成寺はア~エに言及されていません。

 B 元結掛の願成寺は、『四国辺路道指南』に「城下町の入口に願成寺、又ハもといぎともいふ、由緒有てら也。本尊大師の御影、札を打なり」、『四国遍禮名所図会』に「願成寺 町入口右手ニ有、元結掛大師堂 同寺ニ有リ」とあります。宝暦4年(1754)の細田周英「四国徧禮絵図」にも「願成寺」と寺名が大きく記されています。文政5年(1822)の納経帳には「宇和島城下 奉納 元結掛弘法大師 四十番奥院 願成寺」と木版による御朱印が押印されています(写真⑥)。

写真⑥ 文政5年の納経帳「元結掛願成寺」、当館蔵

 C 龍光院はア~エに言及されていませんが、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」に祈願所として紹介されています。

 D 篠山神社は『四国辺路道指南』に「篠山観世音寺(中略)此所に札おさむ」、『四国徧禮霊場記』に「篠山観世音寺 此所札所の数とせずといへども皆往詣する霊境なり」、『四国徧禮道指南増補大成』で篠山観世音寺と「城下の町入口願成寺」が紹介され、『四国遍禮名所図会』では「篠山は此所(観自在寺)の奥院と云」とあります。

 江戸時代の記録類からは、篠山の観世音寺と元結掛の願成寺が四国遍路の番外札所として紹介され、第40番奥の院として認識されていることがわかります。

 このように第40番の場合、時代によって奥の院の変遷が認められます。近世と近代における奥の院の特徴の違いや、四国霊場の番外霊場として認識されていく過程、そこに伝わる弘法大師伝説との関係性など、まだわからないことがとても多いですが、奥の院の歴史を調べることは、八十八箇霊場とその周縁に展開する多様な信仰のかたちを明らかにすることにつながり、四国霊場の成立と発展を探る重要な視点といえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㊼―第40番観自在寺と平城天皇―

2024年9月7日

 大正時代から昭和時代(戦前)にかけて発行された「四国遍路道中図」に記載された四国八十八箇所霊場と番外霊場の中から、特色ある札所・巡礼地をピックアップして、案内記の記述や札所を撮影した古写真などをまじえて、当時の四国霊場の姿を紹介します。また、四国霊場を構成する各札所にどのような歴史があり、由緒が伝えられ、巡礼者はどんなところに興味関心を示したのか、こういった点についても考えたいと思います。

 今回は四国八十八箇所霊場第40番札所の観自在寺に注目します。

 平城山(へいじょうざん)観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城2253-1)は四国遍路で順打ちに行った場合、予土国境(高知・愛媛県境)の松尾坂(松尾峠)を越えて、伊予(愛媛)の霊場に入った最初の八十八箇所霊場の札所となります。

 昭和11年(1936)の『四国霊場大観』(当館蔵)には、観自在寺の本堂と大師堂の古写真(写真①②)が掲載され、「四国遍路道中図」が発行された昭和時代(戦前)の札所境内の様子が見て取れます。

写真① 観自在寺の本堂 (昭和11年『四国霊場大観』、当館蔵)
写真② 観自在寺の大師堂 (昭和11年『四国霊場大観』、当館蔵)

観自在寺の縁起によると、平城(へいぜい)天皇(774~824)の勅願所として大同2年(807)に弘法大師によって開創され、山号「平城山」は、平城天皇が当寺へ行幸されたことに由来します。本尊は薬師如来、脇侍の阿弥陀如来と十一面観世音菩薩の三体は一木三体一刀三禮の尊像で弘法大師の作で、この時に残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判をつくり、庶民の病根を除く祈願を行ったと伝えられます。

 ちなみに、平城天皇は平安遷都をした桓武天皇の跡を継ぎ、大同元年(806)に即位しましたが、病弱のため弟(嵯峨天皇)に譲位、同5年(810)、藤原薬子らと復位を図りますが失脚した、平安時代初期の政変「藤原薬子の変」の登場人物として知られています。また、平城天皇の第三皇子で嵯峨天皇の皇太子であった高岳(たかおか)親王は薬子の変により廃され、出家して真如(しんにょ)親王と名乗り、弘法大師の十大弟子の一人となります。弘法大師が高野山奥之院で入定する前に、大師が示した姿(左手に数珠、右手に五鈷杵を持つ)を描いたとされるのが真如法親王です。高野山や四国霊場などで弘法大師の肖像として祀られている御影は、真如法親王が描いたとされる「真如様(しんにょよう)」の様式が多く見受けられます(本ブログ16「弘法大師の御影」参照)。

 ところで、発行年や発行者が異なり様々な種類がある「四国遍路道中図」ですが、基本的に四国八十八箇所の案内は、地図面に札所番号、山号、札所の名称、所在地、本尊仏の略式御影、裏面に札所の御詠歌を記載するスタイルとなっています。

 四国内で発行された「四国遍路道中図」には、札所の由来、本尊仏の名称などの情報は記載されていませんが、大坂の駸々堂から発行された「四国遍路道中図」には本尊仏の名称が記され、一部の札所では簡単に由来等が注記されています。諸版ある「四国遍路道中図」の中でも駸々堂版は案内情報がより詳しい四国遍路地図といえます。

 観自在寺の場合、昭和6年(1931)発行の「四国遍路道中図」(駸々堂版)の地図面に「本堂の後ろに平城天皇の御陵所あり」と注記されています(写真③)。

写真③ 観自在寺(昭和6年「四国遍路道中図」駸々堂版部分、個人蔵)

 観自在寺の平城天皇御陵所については、寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」に「平城天皇廟陵 本堂の裏に有、藪の内有」と記され、同書の図版に藪の中の石塔が描かれています。すでに江戸時代後期に観自在寺の本堂背後の石塔付近が平城天皇陵として人々に認識され、遍路が訪ねるほどの名所となっていたことがうかがえます。

 四国遍路道中図と同時期に発行された昭和9年(1934)の四国遍路案内記である安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「宝物に大師が三尊の霊木を以て刻まれた六字の名号の大判があります。寺背の五輪塔は平城天皇の御陵と伝えられ、境内に大きく枝を張った天皇の松があります」と記されています。六字名号の大判、平城天皇の御陵と伝える五輪塔、天皇松が昭和初期の観自在寺の見どころであったことがわかります。

 六字名号の大判とは、「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだ空海の宝判のことで、笈摺や晒木綿にそれを押したもの(写真④)を身につけると安産や病気平癒に霊験があるとされ、参拝記念品として授与されています。また、前述の五輪塔は「平城天皇遺髪塚」として境内に保存されています。「平城天皇御手植えの松」と伝えられた古木天皇松は昭和19年(1944)の台風で倒れました。昭和9年の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)収録の古写真に在りし日の天皇松の姿を見ることができます(写真⑤)。

写真④ 観自在寺の舟形の宝判を押印した晒木綿(個人蔵)
写真⑤ 観自在寺の天皇松(昭和9年『四国霊蹟写真大観』、当館蔵)

戦後79年 宇和島で有志が戦没者追悼式

2024年5月14日

 2024年5月10日、宇和島市の和霊公園において「宇和島空襲を記録する会」の有志など約10名によって追悼式が行われました。同会が中心になって公園内に建立された「1945年宇和島空襲死没者追悼平和祈念碑」と272名の犠牲者を刻銘した「平和の礎」を清掃した後、献花と黙祷が行われました。参加者は死没者を追悼するとともに、恒久平和をあらためて誓っていました。

 79年前の5月10日は宇和島に初めて爆弾が落とされた日です。米軍の作戦任務報告書No.165によると、グアムを基地とする第314航空団のB29 132機が山口県の大竹製油所に向けて飛び立ち、その内の1機が午前9時に宇和島の上空15,500フィート(約4,700m)から爆弾を投下したのです。この日の空襲で115名が犠牲となりました。

 戦争体験者の高齢化により、戦争の記憶をどのように受け継いでいくかが課題となっています。これから8月15日の終戦記念日にかけて、追悼式に関するニュースや新聞記事を見聞きすることが多くなります。戦争体験者と同じ時間を過ごすことができるのは限られています。限られた時間をどのように過ごすか、今一度真剣に考えたいと思います。

和霊公園の平和祈念碑
坂下津の予科練跡の碑

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉑―明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路―

2024年3月1日

 明石寺道は、第42番札所佛木寺(宇和島市三間町)から歯長峠を経由して第43番札所明石寺(西予市宇和町)に至る約10.6㎞の道のりです。急な山道が続き、古道の景観をとどめ、このうち宇和島市側の約0.58㎞が令和6年2月21日付けの官報告示によりに国史跡「伊予遍路道」に追加されました。

 今回は「四国遍路道中図」と案内記の記述をもとに、佛木寺から明石寺までの巡拝方法について紹介します。

 まずは、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で明石寺道を確認してみましょう(写真①)。

写真① 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵

 佛木寺から明石寺までは下宇和を経由して「三リ廿丁」と記されています。途中の難所「歯長峠」は本図には表記されていませんが、近隣の宇和島から吉田、立間を経由して卯之町に至る別ルート上には「法華津峠」と記されています(写真②)。

写真② 明石寺道と法華津峠(部分拡大)

 昭和9年(1934)の安達忠一による四国遍路ガイドブック『同行二人 四国遍路たより』には、徒歩による歯長峠経由の明石寺道の様子が詳しく紹介されています。

 「次(明石寺)へ二里二十四町。交通機関を利用する人は一端宇和島迄帰らねばなりません。前方長く松の頂きを揃えた峯が見えますが、それに続いて左の端の高い山が高森山で、右手の丸い岩山は昔城のあったところ、その峯に続いたところがこれから越えていく標高五一〇米歯長峠であります。寺から峠までは二十六町。仁王門を出て右へ七町行き左へ橋を渡って池の端まで一町、峠まで十八町の登りです。(中略)峠には大師御自作の見送り大師を安置する送迎庵があります。こゝから四十三番まで一里三十四町。十六町下って左へ九町にて右へ宇和川の土橋を渡ると下川で、道引く大師堂があります。四十三番まで一里九町。左手を見ますと歯長峠、高森山、法華津峠と三つの順を揃えています。皆田、稲生を経て三十町にて卯之町の入口岩瀬川を渡り、一町行って立石を右へ小径に入り、十町行くと右手に四十三番奥の院があります。白王権現が御祀りしてあり、その盤石は龍女が此処まで運んだ時夜が明けましたので、その儘置き去ったという明石寺の名の出たところであります。一町行って左へ石段を上って三町行くと四十三番であります」と記されています。

 実際に徒歩で明石寺道の歯長峠に向かう場合、佛木寺仁王門前からは北側に高森山と歯長峠を見渡すことができます(写真➂)。峠の上り口に「(手印)へんろみち」と刻まれた明治36年(1903)の遍路道標石(写真④)があり、歯長峠山頂(写真⑤)には送迎庵、下り道には地元の皆田村の和平冶らが願主となって寛政7年(1795)に建てた、「(大師像)明石寺 是ヨリ二里」と刻まれた遍路道標石(写真⑥)などがあり、江戸時代からの遍路道の面影が残っています。

写真➂ 佛木寺から歯長峠を臨む
写真④ 歯長峠上り口
写真⑤ 歯長峠の山頂
写真⑥ 寛政7年(1795)の遍路道標石

 一方、近代に入ると、宇和島鉄道(後の省線宇和島線)の開通、道路の整備と自動車の普及などによって、佛木寺参拝後に歯長峠を通らずに明石寺を巡拝するコースが利用されました。その場合、鉄道や自動車などを利用して、再び宇和島に戻り、法華津峠越えで卯之町を経由して明石寺を参拝するルートとなります。なお、宇和島鉄道(省線宇和島線)の利用については、当ブログ(昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑦―鉄道・宇和島鉄道―https://www.i-rekihaku.jp/gakublo/kanzou/8552)をご参照ください。 

 特に自動車を活用した四国霊場巡拝は急速に進みました。前述の『同行二人 四国遍路たより』には各札所にアクセスするための乗合自動車の路線と運賃が記載されています。明石寺の場合、歯長峠を下った地点に位置する下川集落から卯之町までが三十銭、宇和島~卯之町間が一円四十銭であったことがわかります。

 昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四国遍路』には、「宇和島から吉田を経、法華津峠を越して車は卯之町の入口でとまる。法華津峠は標高四三六米、眼下に見る法華津の漁村や法華津湾が美しい(中略)私は、四国の旅で面白いのは何だと聞かれたら、躊躇なくその一つとして、自動車で峠を越す時の快味を挙げよう。自動車は―それは勿論乗合のガタ自動車ではあるが―忽ちにして峠のてつぺんから下界へ向けて、殆んど舞ひ下るやうに私達の身体を運んでくれるのだ」と紹介しています。島は乗合自動車を利用して、法華津峠経由で明石寺に向かっているが、その途中の宇和海の絶景を称え、四国の旅の醍醐味は自動車で峠越えすることにあると説いています。

 また、弘法大師御入定1100年記念にあたる昭和9年(1934)に自動車による四国巡拝を行った時の写真集『四国霊蹟写真大観』には、自家用車で佛木寺を巡拝した写真が収められています(写真⑦)。

写真⑦ 自家用車で佛木寺巡拝。 (『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 戦後、道路開発や自動車の普及にともない、札所の参拝道や駐車場などが整備され、マイカー遍路や巡拝バスによる団体遍路が飛躍的に増加します。

 「四国遍路道中図」と案内記から、昭和時代(戦前)の明石寺への巡拝方法を紹介しました。伝統的な徒歩遍路に加えて、自動車遍路が増えていく様子がわかり、今日の四国遍路におけるモータリゼーションの先駆けを見ることができます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑳―通夜堂―

2024年2月16日

 長い道中を巡拝する四国遍路において、宿泊情報はとても重要です。大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版、写真①)には、愛媛の札所における通夜堂(つやどう)の情報が記載されています。

写真① 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版) 当館蔵

 ・第42番佛木寺「当寺は新に通夜堂を建築して普く巡拝者ニ通夜を得させらる」(写真②)

写真② 第42番佛木寺

 ・第45番岩屋寺「当寺ハ清潔な二階建の通夜堂有」(写真③)

写真③ 第45番岩屋寺

 ・第60番横峰寺「当地ハ山深けれバ宿なく寺内ニ通夜堂あり」(写真➃)

写真➃ 第60番横峰寺

 通夜堂とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994)によると、「札所寺院で宿泊することを通夜といい、かつては札所に「通夜堂」があった。原則として素泊まり、無料で、煮炊きができるいろりなどがあった。そのため、四国では、弘法大師などが祀られている。通夜堂に、職業遍路が住みつくようになって、一般の遍路からは敬遠される存在になった。今日では札所に設備が整った宿坊が完備され、通夜堂は姿を消している。このような札所の宿坊に宿泊することも、通夜と呼ばれる」とあります。

 岩屋寺や横峰寺などの山間部の札所寺院の近辺には宿屋がなく、札所自らが遍路をはじめとする巡拝者の無料宿泊所として通夜堂を設けていたことがわかります。

 次に、同時代の四国遍路の案内記を確認すると、大正2年(1913)の三好廣太『四国遍路 同行二人 増補第二版』(此村欽英堂)では、佛木寺は「当寺は新に通夜堂を建築して、普く巡拝者に通夜を得させらる」、岩屋寺は「当寺は清潔な、二階造りの通夜堂あり」、横峰寺は「当地は山間なれば、寺に通夜堂があります」と記載され、四国遍路道中図と同じ内容が紹介されています。そのため、四国遍路道中図は『四国遍路 同行二人』などの案内記の内容を参考にして作成されたものと考えられます。

 もう少し古い明治期の案内記を見てみましょう。明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』(黒崎精二発行)の「佛木寺」解説では、「当寺は通夜堂もあり近くに宿屋もあります(中略)次ぎ(明石寺)へ三里、五六丁行きて歯長峠にかゝる二十五丁登り、峠に見送り大師堂(送迎庵と云ふ)大師御自作の尊像を安置す霊験新なり、少数の連れなれば通夜することが出来ます」と記され、札所寺院のみならず、明石寺道の歯長峠にある見送り大師堂(送迎庵、宇和島市吉田町立間)(写真⑤)も通夜堂として遍路に利用されていたことがわかります。

写真⑤ 現在の歯長峠にある送迎庵見送大師

 ところが、昭和時代の「四国遍路道中図」では、昭和12年(1937)の駸々堂版では横峰寺の通夜堂が注記されていますが、昭和4年(1929)の浅野本店版 、昭和10年(1930)の渡部商店版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版、昭和15年(1940)の小林商店版と金山商会版、昭和16年(1941)のイナリヤ総本店版などには、通夜堂についての記載が地図上からなくなっています。

 一方、戦前の四国遍路案内記を見ると、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、佛木寺、岩屋寺、横峰寺の通夜堂について言及されていませんが、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、大正期の同書とほぼ同文が掲載されているため、通夜堂そのものは当時も存在していたと推察されます。

 昭和時代に入ると、四国遍路道中図や案内記において、通夜堂の情報は少なくなっています。こうした背景には、札所寺院周辺の旅館や木賃宿などの宿屋の利用、札所における通夜堂の維持管理が困難となっての閉鎖や有料宿泊所である宿坊の整備などによって、次第に遍路による通夜堂の利用が減ったものと考えられます。

 今日札所寺院において通夜堂はほぼ見られなくなっていますが、遍路道沿いなどには善意による無料宿泊所が存在し、歩き遍路や外国人遍路などに利用されています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑲―大寶寺道と里程―

2023年11月10日

 大寶寺道は、第43番札所明石寺(西予市宇和町)から第44番札所大寶(宝)寺(上浮穴郡久万高原町)に至る約67.2㎞の道のりです。愛媛の遍路道では札所間の距離が最も長い区間となります。
 令和5年10月、大寶寺道の西予市宇和町久保~大洲市野佐来に至る「鳥坂峠越」(写真①)の区間(大洲市側約2.3km、西予市側約1.5km)が古道としての状態を比較的良好にとどめているため、新たに国史跡「伊予遍路道」に追加される見込みとなりました。鳥坂峠(標高約466m)は宇和島藩と大洲藩とを結ぶ主要街道にあり、江戸時代の四国遍路案内記や遍路絵図に紹介され、峠には茶店や接待所があり、賑わいを見せました。

写真① 大寶寺道・鳥坂峠(当館撮影)


 国史跡「伊予遍路道」として大寶寺道が最初に指定されたのは平成31年(2019)で、大寶寺道のスタート地点となる「明石寺境内」と、明石寺から卯之町までの区間755mが指定されています(写真➁)。

写真② 大寶寺道・明石寺~卯之町(当館撮影)


 それでは昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で大寶寺道を確認してみましょう(写真③)。

写真③ 「四国遍路道中図」部分 大寶寺道(明石寺~大寶寺)、当館蔵


  明石寺から大洲までは「十二リ」、明石寺から番外十夜橋までは、卯之町、下松葉、上松葉、田苗、真土、大江、久保、(鳥坂峠)、大洲へ進み「四十三番ヨリ六里七丁」、十夜橋から大寶寺までは、内子、五百木、掛木、成弥、中田渡、上田渡、白株、下サカバ、上サカバ、二名、檜皮峠、久万へ進み、「十夜橋ヨリ内子ヲ経テ大宝寺ヘ十一里七丁」と記されています。本図で大寶寺道の距離を合計すると十八里四丁となります。
 ある場所から他の場所までの道の長さを里程(りてい)といいますが、本図では距離の単位は現在の「メートル」でなく「里丁(町)」で記載されています。昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人(第32版)』(此村欽英堂発行)は、四国遍路の正しい里程を実測して記載した案内記ですが、大寶寺道は「次ぎ(大寶寺)へ十七里十四丁餘(旧二十一里)」とあります。本図と若干里数が異なりますが、注目したいのは「旧二十一里」の方です。これは江戸時代の里程を示しています。
 貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』では、「是(明石寺)より菅生山(大寶寺)迄廿一里」と記載され、江戸期の四国遍路絵図や案内記では大寶寺道は21里と紹介されています。実際、大寶寺道のスタート地点となる明石寺境内に建つ武田徳右衛門の遍路道標石(文化年間建立)には、「(梵字)(大師像)これより菅生山迄二拾壹里/願主 越智郡朝倉上村 徳兵ヱ門施主 備中國窪庭郡倉浦村 朝屋清兵ヱ」と刻まれ、二十一里と合致しています(写真④)。

写真④ 明石寺境内の大寶寺道入口に建てられた武田徳右衛門の遍路道標石(当館撮影)


 江戸時代は尺貫法が用いられ、国や街道によって1里の定義が異なり、
阿波国は「四十八町一里」、土佐国は「五十町一里」、伊予・讃岐国は「三十六町一里」と定められていましたが、明治9年(1876)に1里=36町=3.9273㎞。1町=109.09091mに全国統一されます。
 18世紀末のフランスで世界共通の単位制度としてメートル法が提唱され、明治8年(1875)にメートル条約が締結、同18年(1885)に日本が加盟、同24年(1891)に度量衡法(どりょうこうほう)公布によりメートル導入されますが普及せず、大正10年(1921)に度量衡法の改訂によって、尺貫法からメートル法へ単位の統一が図られました。その後、昭和26年(1951)に度量衡法を全面的に見直した計量法が公布され、昭和34年(1959)1月からメートル法が完全に実施されました。このように日本におけるメートル化には度量衡をめぐる歴史的な背景がありました。そのため、本図に限らず戦前・戦後しばらくは四国遍路絵図や案内記の距離の表記は旧来の里丁が用いられています。 
 四国遍路の絵地図や案内記、道標石などの里程の単位や距離は、札所の所在地や遍路道のルート、新道の開通など、四国霊場と遍路道の時代的な推移を考える指標となります。