大正7年(1918)の高群逸枝『娘巡礼記』、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四國遍路』など、近代の四国遍路日記を読むと、四国八十八箇所霊場第39番延光寺(高知県宿毛市)から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)までの区間は、陸路の場合、高知・愛媛県境の険しい松尾坂(松尾峠)があるため、海路で片島・宿毛港(宿毛市)と深浦港(愛南町)を結ぶ定期航路を利用する遍路が多くいたことがわかります。
「四国遍路道中図」にはその航路は記載されていませんが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」には点線で地図上に記載されています(写真①②)。


宿毛―深浦間の定期航路で遍路がよく利用したのが、小さな汽船「大和丸」です。
高群逸枝は『娘巡礼記』で「室内のムサ苦しい事、ほとほと耐まらない。それに小さな蒸気であるから部屋は上と下との二段しかない。しかも乗客ははみ出す位、つまっている」と苦言を呈していますが、船内が大混雑した盛況の様子が読み取れます。
大正3年(1914)頃、福山磯太郎は深浦港を始発に各港を結ぶ航路を開設し、大和丸が就航しました。その後、福山は新造船をあいついで就航させ、寄港回数を増加するなど優位に立っていましたが、昭和8年(1933)に第三大和丸による由良半島沖の遭難事故や経営者の交代などがあり、第二次大戦中に関西汽船に併合されました(本ブログ59「遍路が利用した宇和海の航路」参照)。
宇和海の深浦港を起点に運航していた大和丸ですが、その姿や船史についてはよく分からず、戦前の四国遍路の案内記類に大和丸が紹介されている記事があり、以下に紹介します。
昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)『札所と名所 四國遍路』には、「片島、深浦間巡航路大和丸(三十噸)で一時間、船賃五十銭(中略)宿毛、深浦間は大阪商船、宇和島運輸両会社共同経営の大阪四國線の航路によるもよい。船賃三等五〇銭、二等一圓。但し宇和島運輸の船は巡拜者に限り三等三割引」とあります。
本書によると、大和丸は30トン、片島―深浦を1時間で結び、船賃は50銭であったことがわかります。ちなみに30トンの船は、主に小型の漁船や沿岸の作業船で、現在の基準でいうと非常に小型の船で、漁業、沿岸での物資運搬、港湾作業などに使用されています。
宿毛―深浦間は大和丸の他に大阪商船と宇和島運輸両会社共同経営の大資本による大阪四國線も運航しており、船賃は大和丸と同額の50銭(3等)、巡拝者(遍路)は3割引(3等)とあるので、遍路に対するお接待として船賃の割引が行われていたことがわかります。
昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場禮讃』(一名『四国順拜案内記』大澤自昶著作兼発行、松山向陽社)には、大和丸の出港時刻表が掲載されています(写真③)。

「大和丸出港時間表 深浦港福山廻漕店/三十九番ヨリ宿毛ニ出テ四十番ニ至ル深浦港ニ着陸/宿毛発 午前六時 八時 十二時 午後四時 五時 六時/宇和島行 午前七時 午後十一時」。続いて「本船に御投乗の方えは本店に於て食費宿料其他種々御優待申上げます船賃二割引」とあり、深浦港の福山廻漕店の案内広告などが紹介されています。
大和丸の出港時刻表からは、宿毛発深浦行きは1日6便、深浦発宇和島行は1日2便で、大和丸は数隻で運行していたと推察されます。深浦港の福山廻漕店は、大和丸を就航した福山磯太郎の縁者が経営する集荷・輸送等を取り扱う廻船業者と推察されます。乗船客は福山廻漕店において食事や宿泊などの様々な優待サービスを受けられ、船賃は2割引となっています。
本書には大和丸のライバル的な存在であった宇和島運輸株式会社の広告(写真④)と「宇和島運輸汽船出帆時間運賃」なども掲載されています。

広告には「宇和島市新堅町/宇和島運輸株式会社/同社宿毛汽船扱店/同社深浦汽船扱店/同社平城汽船扱店/四国霊場御順拝の御方に対しては大師へ報恩の為め、精々御便利を供します」とあり、宇和島、宿毛、深浦、平城(ひらじょう)に宇和島運輸株式会社の営業所が設けられ、弘法大師への報恩のためサービスを提供することを宣言しています。
また、「海路お巡りの方は約一里宿毛港より宇和島運輸汽船にて深浦に上陸四十番に参拝後、平城(貝塚港)より宇和島同社汽船に乗船せば夜の間に四十番奥の院に着運賃の低廉と時間の短縮とて便利です(中略)海上一時間毎年三月ヨリ六月マデ巡拜者運賃半額大割引」と記され、各港の時刻が掲載されています。宇和島運輸汽船は四国遍路のシーズンとなる3月~6月までは期間限定で遍路に対して船賃が半額となる大割引キャンペーンを行っています。
宿毛―宇和島間の航路の歴史を概観すると、明治29年(1896)に南予運輸株式会社が設立されて第一御荘丸、第二御荘丸が就航、同39年(1906)に大阪商船株式会社の義州丸、同40年(1907)に宇和島運輸株式会社の宇和島丸が深浦に入港、大正3年に福山磯太郎経営による大和丸が就航するなど多くの船が運航して激烈な競争を繰り広げていましたが、大正13年(1924)頃に御荘丸が廃業、大阪商船も航路を打ち切りとなり、戦前は大和丸と宇和島丸の時代が続きました(宿毛市史編纂委員会編『宿毛市史』宿毛市教育委員会、1977年)。
明治以降、南予の沿岸航路で乗客の獲得競争が繰り広げられてきた中で、「大和丸」は大正から戦前にかけて、深浦を拠点とした個人経営の小さな汽船でしたが、遍路をはじめ宇和海沿岸地域の人々の生活の足としてとても大きな貢献をしました。











































