‘南予の史跡紹介’ カテゴリーのアーカイブ

宇和島城追手門跡

12月 4日 土曜日

  特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」も会期、残りわずかになりました。今回は特別展に関連して、南予の史跡として宇和島城の追手門跡を紹介します。

 追手門は宇和島城に残る数少ない建物として、昭和9年に当時の国宝に指定されていましたが、昭和20年7月20日の宇和島空襲により焼失します。現在は、石垣に使われていたと思われる石が記念碑として加工されて立っています。それでは宇和島城の追手門はどんな姿だったのでしょうか。明治期の写真(愛媛県立図書館蔵)で見てみます。

 右側に宇和島城の正門に当たる追手門が見えます。門の上に櫓を渡した大型の櫓門で、その規模の大きさから「十万石に過ぎた門」といわれました。左手前には外堀が埋め立てられず遺っていて、堀からそびえ立つ石垣の上に多聞櫓の長櫓が築かれた堅固な構えになっています。

 宇和島城下図屏風(宇和島市立伊達博物館蔵)により上空から追手門を眺めてみます。「大手」の貼り紙の下、土橋を渡ると枡形虎口になっていて、引き付けた敵を追手門の渡櫓から射撃や石落で攻撃できたことを読み取ることができます。追手門は、『宇和島吉田両藩誌』(愛媛教育協会北宇和部会、1917年)に、「寛文六年十一月廿一日、大手御門成就葛石此時出来」とあることから、寛文6(1664)年に伊達家により再建された可能性がいわれてきました。しかし、近年の宇和島市教育委員会の発掘調査により、発見された根石の加工方法が藤堂高虎の城に共通して見られること、櫓の外観が柱を見せる古式なものであることから、慶長期までさかのぼる可能性が指摘されています。
 宇和島藩の「万治元年以来御普請記録」には、「御多門御兵具方/一門矢倉/二重之分四間梁ニ桁行拾貳間」とあり、1間を6尺5寸(約2m)で換算すると、梁間約8m、桁行24mの渡櫓がのっかった巨大な門であったことが分かります。高虎時代の建築とすると、「十万石に過ぎた門」といわれる規模も理解できそうです。

 追手門があった位置の現況を撮影してみました。写真奥右手の細く高いビルから左手の広告看板が付いたビル辺りまでが追手門の範囲になります。この位置に巨大な櫓門を想像してみると、江戸時代の宇和島城下が少し感じられそうです。

坪ケ谷新四国(西予市宇和町)を訪ねて 3終

5月 15日 土曜日

   愛媛の札所に入ります。42番(愛媛・仏木寺)は大きな岩肌に祀られていました。このあたりから、明石寺の鐘の音が山中に響いてきます。しばらく山道を下ると眼下に明石寺の屋根が見えてきました。坪ケ谷新四国の43番(愛媛・明石寺)は、実際に順路で本四国の明石寺を廻るようにつくられていました。

 では、ミニ四国専用の明石寺の札所は存在するのか? 明石寺の境内にはなかったのですが、寺を後にして、再び坪ケ谷新四国の順路を進むと、坪ケ谷新四国の43番(愛媛・明石寺)はありました。このあたりの道は、本四国の遍路道にもなっていて、白装束姿のお遍路さんの姿を見かけます。番外札所の十夜橋、生木地蔵もあります。

43番(愛媛・明石寺)

    62番(愛媛・宝寿寺)から俳句の径となります。このあたりは緑豊富な野原の道です。66番(徳島・雲辺寺)あたりから、眼下に愛媛県歴史文化博物館、遠くに歯長峠が見え、展望は抜群。

展望抜群! 眼下に歴史文化博物館を臨む

 77番(香川県・道隆寺)を過ぎると歴史文化博物館への遊歩道の入り口があります。手すりのついた階段を下っていくと雨山公園に到着。園内には大師堂があり、かたわらに88番(香川・大窪寺)の石仏が配置されています。ここがゴール地点。結願となります。

大師堂 88番(香川・大窪寺)

   坪ケ谷新四国のコースを1番から88番まで通しで歩いて回りました。ミニ四国を創設するにあたり、そのルートの設定や札所の選択、配置をめぐって、地形的条件や近隣にある本四国の札所をうまく組み込み、よく工夫されてつくられていることがわかります。なお、開明学校には、坪ケ谷新四国が創設された頃の卯之町を描いた「天保時代の卯之町全景図」が展示されています。これらの古い絵図と照合しながら、さらにその歴史を探るのも興味深いですね。

坪ケ谷新四国(西予市宇和町)を訪ねて 2

5月 14日 金曜日

    坪ケ谷新四国のコースは、開明学校近くの光教寺境内の第1番(徳島・霊山寺)をスタート。本四国の第43番札所明石寺を経由して、雨山公園内の第88番(香川・大窪寺)までの全長約6㎞。ほとんど山道です。歩くだけでも約2時間かかります。

    順路に従って光教寺墓地内の札所を廻り、坂道をのぼっていきます。10番(徳島・切幡寺)あたりから眼下に卯之町の町並みが広がります。坂道を上りきると、広い平坦地(旧開明学校運動場跡地)があらわれ、12番(徳島・焼山寺)からは22番(徳島・平等寺)までは、同じ場所に2ケ寺ずつ配列されています。19番(徳島・立江寺)の比較的大きな石仏は本尊・延命地蔵大菩薩です。その先には大神宮の祠がありました。

左18番(徳島・恩山寺)、右19番(徳島・立江寺)

 23番(徳島・薬王寺)からは木組みによる階段状の山道です。24番(高知・最御崎寺)は堅牢な石垣の上に安置されています。31番(高知・竹林寺)の本尊は、獅子に乗った文殊菩薩像です。途中、番外札所の日輪・月輪も設けられていました。修行の道場である高知県内の札所は、山中でも急峻な山肌など、比較的険しい地形に配置されています。

31番(高知・竹林寺)の本尊・文殊菩薩像

坪ケ谷新四国(西予市宇和町)を訪ねて 1

5月 13日 木曜日

    愛媛県歴史文化博物館では常設展示室(民俗3)で「四国遍路」の歴史と文化について紹介していますが、博物館の裏山の遊歩道には、四国八十八ケ所を模したミニ四国霊場の坪ケ谷新四国があることを知っていますか?

博物館への遊歩道にある坪ケ谷新四国の石仏 78番(香川・郷照寺)  

     坪ケ谷新四国は、江戸時代後期の天保2(1831)年に創設されました。四国遍路は江戸時代に盛んに行われるようになりますが、当時は四国中を遍路して歩くことは決して容易ではありませんでした。そこで四国遍路に行けない人たちのために、全国各地に誕生したのがミニ四国です。坪ケ谷新四国を100回参詣すると、本四国の代わりになるといわれています。

    ちなみに博物館の遊歩道には、香川県内の札所第78番(郷照寺)から第88番(大窪寺)までが配置され、各札所には御本尊像と弘法大師像の石仏がセットになって祀られています。これは四国遍路でお遍路さんがお参りする本堂のご本尊と、大師堂の弘法大師像にならったものです。それらの石仏は長い年月を経て、破損したり、表面が風化、苔が繁茂するなどして、文字が判読しにくいものもありますが、札所番号、仏名、寺院名、制作年、製作者(村・浦名、願主・施主名)などの文字情報が刻まれて、坪ケ谷新四国の歴史を垣間見ることができます。遊歩道の石仏の製作年代は古いもので天保3~4(1832~33)年、明治28~29(1895~96)年頃のものがありました。

81番(香川・白峯寺)天保3年建立 

    それでは、実際に、1番札所から順に坪ケ谷新四国をまわってみましょう。

松尾峠と純友城址

2月 5日 金曜日

 先日、愛媛県最南端の峠である松尾峠を訪れ、歩いて県境を越えてきました。南宇和郡愛南町小山と高知県宿毛市大深浦の間にあるこの峠道は、昭和4年に宿毛トンネルが貫通するまでは、伊予と土佐を結ぶ主要な街道として多くの人々に利用されていました。享和元(1801)年の記録には、普通の日に200人、多い日には300人が通ったと記されているそうです。

 また、ここには、貞享4(1687)年と翌年に建立された2基の石柱が存在し、それぞれ「従是西伊豫國宇和島藩支配地」、「従是東土佐國」の文字が刻まれています。

 この石柱から南西へ200メートルほど行くと「純友城址」と書かれた看板があります。それによると、天慶4(941)年、追捕使小野好古率いる朝廷軍に敗れた藤原純友は、伊予から九州へ逃れるとき、妻とその父をこの純友城に隠した。やがて純友と息子重太丸が討たれたことを聞いた妻は、悲しみのあまり気が狂い、その年の8月16日にこの地で亡くなった、とされています。

この記事の出典と思われる『前太平記』には、

「爰に栗山将監入道定阿と云ふ者あり。是は、伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去んぬる承平の比、純友隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立ち退き、土佐国松尾坂と云ふ所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ、重太丸も縲紲の辱めに逢ふて、京都に誅せられぬと聞きしより、彼母恩愛の悲嘆に堪へず、慟哭の余りにや物狂わしく成つて、巫医の功を尽くすと云へども更に験もなく、今年八月十六日に思ひ死にゝぞ失せにけり。」

と、「土佐国松尾坂」の記述が見えます。

現在、純友城址には展望台が設けられており、宿毛湾を一望できるようになっています。

 ここから、高知県側に下っていき、宿毛市大深浦に入ると松尾坂口番所跡がありました。往時は不法越境者を厳しく取り締まっていたと思われます。

 3月には、友の会会員でここを歩き、春の心地よい風とともに予土国境を行きかった人々の歴史にふれていきたいと思います。

和口遺跡を訪ねて

1月 20日 水曜日

 友の会土器ドキクラブでは、当館に寄贈された和口遺跡採集の旧石器時代の石器の整理をしています。和口遺跡は、僧都川の支流である和口川のほぼ中流右岸の低丘陵上、南宇和郡愛南町御荘和口の通称「西の駄馬」に所在しています。昭和61年に、ここでナイフ形石器等数百点の遺物が採集されたのを契機に、翌年新聞紙上で遺物発見の報道がなされ、旧石器時代の遺跡として周知されるようになります。

 昨年12月16日、その見識を深めるため、講師に㈶愛媛県埋蔵文化財調査センターの多田仁氏を招き、平城交流センターで和口遺跡とその遺物について解説していただいた後、実際に和口遺跡を訪ねました。

 多田氏によると、「和口遺跡の石器には主に頁岩(けつがん)とよばれるこの近辺で取れる石が材料として用いられているが、石器の製作技術には、瀬戸内技法(備讃瀬戸地域で発達した2万年前の石器製作技術)で製作されたナイフ形石器や翼状剥片が存在している。このことから、現在の香川県あたりにいた旧石器時代人が和口まで移動してきたと考えられる。」ということでした。参加者は、氏の話を興味深く聞き、熱心にメモを取ったり、質問したりしていました。

 その後、交流センター内に展示してある平城貝塚出土遺物を見学し、昼食をはさんで、和口遺跡にむかいました

 和口遺跡に着くと、石器を探してみることにしました。

 20分くらい探した結果、7点の石器が拾えました(ただの石は、これの10倍ほど拾いましたが…)。これらの石器は、愛南町教育委員会におわたししました。

 この後、和口川に行って頁岩を拾い、その場で多田氏に石器の製作実演をしていただきました。

 土器ドキクラブ員にとっては、愛南の旧石器にふれ、とても充実した1日でした。

西園寺氏の菩提寺 光教寺

11月 11日 水曜日

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   中町から伸びる参道

 

 去る10月、西予市宇和町卯之町の中町の町並みを中心とする一帯の地区が、国の文化審議会から重要伝統的建造物群保存地区に選定するよう文部科学大臣へ答申されたことは、まだ記憶にも新しいことでしょう。

 その一角、国の重要文化財の開明学校に隣接して、静かなたたずまいを見せる寺院があります。ここは、清泰山光教寺というお寺で、実は中世に卯之町を見下ろす松葉城・黒瀬城を本拠にして、宇和郡内に広く支配を及ぼした西園寺氏の菩提寺となっています。古くは、黒瀬城の麓の光教寺谷という場所にあったのが、火災により現在地に移ったとされています。

 西園寺氏は、京都の公家西園寺家の一族で、宇和荘などの領地が伊予にあったことから、南北朝時代頃に下向し、土着した領主です。戦国時代にいたるまで本家と交流を持ち、一方で幕府や近隣大名とも様々な関係を結んで勢力を維持していましたが、四国平定後に豊臣秀吉が送り込んだ大名戸田勝隆支配の時代、滅亡を迎えることとなりました。

 今でも毎年11月11日には、最後の当主公広を偲んで法要が営まれており、関係者や近隣の人々が集まり、本堂や廟前にて祭祀が執り行われています。

 

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   新装なった本堂

 

 光教寺では、つい先日本堂の新築改修が成ったばかり。お寺の顔がきれいに生まれ変わりました。門を入ると鐘楼、本堂脇には観音堂・大師堂、本堂裏には庭園などがあり、趣きのある境内を見せています。裏手の山に広がる墓地の中には、公広の廟・顕彰碑も建っています。

 

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   西園寺公広廟・顕彰碑

 

 ぜひ、古い町並みが残る卯之町へお越しいただき、その際には本堂が真新しく生まれ変わった光教寺にも足を運んで、戦国の南予に生きた西園寺氏に思いを馳せてみてはいかがでしょう。また、中町や光教寺と当博物館は遊歩道で結ばれ至近の距離にあります。当館にも西園寺氏関係の展示がありますので、ぜひ合わせてお立ち寄りください。

南予の郷土芸能「俵津文楽」

4月 5日 日曜日

俵津文楽 愛媛県歴史文化博物館

 本日、西予市明浜町俵津にある俵津文楽会館にて、文楽公演が行われました。この俵津文楽は、県の無形民俗文化財に指定されている郷土芸能です。今回の演目は「奥州安達原三段目 袖萩祭文の段」。約70分にわたる熱演でした。

 俵津文楽は別称「すがはら座」。嘉永5(1852)年に地元の伊井庄吾が大坂より人形を数個買い入れて人形芝居を行ったことに始まるといわれています。明治3(1870)年大阪文楽の竹本常太夫(本名近藤浅吉、旧東予市の上市村出身)が、俵津の者との縁組で永住することとなり、「すがはら座」を確立しました。明治19(1886)年には八幡浜の釜倉の「くぬぎ座」の人形頭や衣裳道具等を買い入れ、さらに大正14(1925)年中村勗が淡路島市村六之丞一座一式を譲り受けて「すがはら座」は一段と充実しました。

 保存されている人形頭は、動物を含めて100点を超えています。中でも作者の銘が確認されているものが47点あり、人形製作師天狗久、その弟子で天狗弁、由良亀(淡路由良の藤代亀太郎)など明治時代を代表する作品が大半を占めており、人形頭・衣裳道具一式は県の有形民俗文化財に指定されています。

 現在、4月上旬に行われる「さくら祭り」に合わせて定期公演を行ったり、他地域の文楽保存会との合同公演等で活躍しています。

※なお、俵津文楽については、当博物館の民俗展示室にて映像を紹介していますし、今年の夏休みには、特別展「歌舞伎と文楽の世界」(7月14日~8月31日)にて展示・紹介する予定になっています。

南予の中世城跡探訪30 ―八幡城跡―

3月 28日 土曜日

 大津城(大洲城)跡から北西を眺めると、肱川と久米川の合流点を挟んで約500mの対岸に小高い丘が見えます。ここには、八幡城という城がありました。

 永禄11(1568)年、宇都宮氏と河野氏の対立を発端に、それぞれに同盟関係にある土佐一条氏や毛利氏も巻き込んだ鳥坂合戦が起こりました。鳥坂峰での本戦で一条氏が敗退した後、宇都宮氏は徐々に河野・毛利勢に押されていきます。小早川隆景は家臣乃美宗勝へ、自らの渡海前に「両城への攻撃は我らが着陣の上で大勢で一度にすべきだ」と伝え、帰国後には「宇都宮両城を初めとして残す所なく思い通りにして帰国した」と述べています。「両城」とは、乃美宗勝が争乱のほぼ収束した頃に宇都宮勢力に宛てた文書に記す争乱の経緯の中に、「大津・八幡両城を切り崩すための支度」を様々にしたことが見え、「両城の足弱・地下人などを私財・雑具もろとも下須戒に送り出す」よう命じています。戦国末期には、大津城とともに八幡城を合わせた両城が宇都宮氏の拠点とされていたようです。
 大津城・八幡城は、ともに久米川が肱川へ注ぐ流入口の左右に並存しており、双方が河川交通をはじめとして地域支配の上で重視され、互いに補完し合う存在だったのかもしれません。


 八幡城跡(右側の丘)と大津城跡(左側)
  両城の間に久米川が流入する

 八幡城には、その名の通り旧県社の八幡神社が鎮座しています。江戸時代には、大洲城(旧大津城)を居城とした歴代藩主から、大洲領総鎮守として篤い崇敬を受けました。


 八幡神社

 また、肱川沿いに約1.5km下流へ下ると、宇都宮神社が鎮座しています。宇都宮氏が本貫地下野国(栃木県)の二荒山神社を勧請したと伝わり、そのため神社にはその由緒を描いた絵巻『日光山並当社縁起』が伝わっています。


 宇都宮神社

南予の中世城跡探訪29 ―大津城跡―

3月 25日 水曜日

 現在、大洲市の中心部には、平成16(2004)年に復元された4層天守を持つ大洲城がそびえます。大洲藩6万石加藤家13代の居城として、江戸時代には藩政の中心にありました。
 一般には江戸時代のお城として知られる大洲城ですが、実は中世から城郭が設けられていました。それが大津城で、別名地蔵嶽(じぞうがたけ)城とも称され、喜多郡一帯を支配した宇都宮氏の本拠となっていました。「大洲」は藩主加藤家入部後に改称された江戸時代以降の地名で、それ以前は「大津」の字が用いられていました。城の麓を肱川が流れ、迫り出す岩場の下に淵を作っていますが、そこには地蔵淵の名が残ります。
 肱川と久米川の合流点に位置し、周囲を河川や氾濫原に囲まれた独立丘陵で、防御性に富むとともに河川交通の統制に有利な立地で、なおかつ大洲盆地を広く見渡せるという絶好の要衝にあると言えます。


 大津城跡
  江戸時代の石垣や復元された天守がそびえます

 宇都宮氏は、下野(しもつけ、栃木県)宇都宮氏の分流で、鎌倉時代には伊予守護職や喜多郡地頭職を獲得し、室町時代に入っても幕府の要職を担うこともありました。
 戦国末期、最後の当主を豊綱といいますが、彼の時代には守護河野氏と対立し、土佐一条氏を味方に付け、大洲盆地から宇和郡境一帯にかけて大きな争乱が起こりました。永禄10~11(1567~68)年の、鳥坂合戦前後の争乱です。この時、大津城周辺は河野軍勢をはじめ、毛利氏から送られた援軍に攻め寄せられ、最終的には陥落することとなります。

 四国平定後、伊予を支配した小早川隆景は、国内の城郭の整理を始めます。その中で、とりあえず残したいと考える主要な10か所の城を示していますが、そこに大津城も含まれています。10城の内、喜多郡内の城は大津城のみなので、喜多郡支配の中心と考えていたのでしょう。大津を中心とした喜多郡の支配は、養子の秀包が担っていたようです。

 その後南予を支配する大名たちも、大津城を居城・拠点としました。戸田勝隆は居城とし、藤堂高虎も板島城(宇和島市)・河後森城(松野町)・大津城の3城を南予支配の重要拠点とし、脇坂安治も居城としました。これらの大名たちによって、大津城は近世城郭へと変貌を遂げていきました。そして、元和3(1617)年、加藤家の入部となります。

 現在も、復元天守の他に近世以来の建造物が残り、天守に連結した台所櫓や高欄櫓などは国の重要文化財に指定されています。また、周辺の旧城下町を散策すると、各所にさりげなくその名残を見つけることができます。

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