今回は四国遍路と牛馬について愛媛県南予地方の事例から探ってみます。
愛媛県の西南部に位置する南予地方は、牛の角を突き合わせする闘牛(写真①)や、祭礼に登場して悪魔払いを行う牛鬼が有名です。また、戦前の四国遍路で漫画家・宮尾しげをが宇和海の深浦港から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)まで乗合馬車を利用したように、南予では馬車が遅くまで運行されていました(本ブログ60「乗合馬車」参照)。

自然環境に恵まれ多彩な農林水産業が営まれてきた南予地方は牛馬とのつながりが深い土地柄です。明治27年(1894)の宮脇通赫『伊予温故録』によると、愛媛県内の牛馬市は春秋の2回か夏季1回行われ、実際に南予各地で多く開催されていることがわかります。南予の風物詩ともいえる牛馬市は、江戸時代後期の西丈画「中国四国名所旧跡図」(当館蔵、写真②)に描かれており、大洲の肱川河原(愛媛県大洲市)で馬喰(ばくろう)たちが牛馬の売り買いをしている賑やかな様子がうかがえます(ブログ「中国四国名所旧跡図55 与州大津町馬市所(大洲の馬市)」参照)。

近代化によって交通の発達や農業が機械化する以前、家畜としての牛馬は運搬や農作業などの重要な労働力として大きな役割を果たしました。
当館が収蔵する民俗資料の中に、農作業で牛馬に引かせて田畑を耕す時に用いる犂(すき)、水田の土をかきならすための「馬鍬」(まぐわ・まんが)、農具等を牛馬の背に装着するための牛鞍・馬鞍などがあり、それらはいかに牛馬が人々のくらしを支えてきたかを如実に物語っています(写真③)。そのため牛馬は家の宝として、家族の一員として大事に飼育・世話をされ、その安全を祈願する習俗があり、牛馬が病気になると神仏に参拝して平癒を祈りました。

さて、牛馬とゆかりの深い四国八十八箇所霊場といえば、第42番札所佛木寺(愛媛県宇和島市三間町)があげられます。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で佛木寺を確認しましょう(写真④)。

佛木寺は宇和島と卯之町の間に位置し、遍路道の距離は第41番龍光寺から「廿五丁」、次の第43番明石寺までは「三リ廿丁」と記載され、札所を示す丸印の中心には本尊の大日如来が漫画チックに描かれています
佛木寺が牛馬と関係が深いのはその縁起に基づいています。寺伝によると、空海が唐から帰朝後の大同2年(807)、大師は牛をひいた老翁に会いこの地に来たところ、楠の老木に宝珠が掛かっているのを発見します。その宝珠は大師が唐に留学した時に日本に密教有縁の地を求めるために三鈷杵とともに東方に向けて投げたものでした。そこで大師は、楠で大日如来の尊像を刻み、その眉間に宝珠を納めて本尊とし、堂宇を建立したことが記されています。
仏木寺が戦前に発行した絵葉書には「当山本尊は小児牛馬の守り佛です」(写真⑤)とあり、また、昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四国遍路』には、佛木寺の本尊御影札が掲載され、札には大日如来の仏前に牛馬と人が描かれ、「四國四十二番本尊大日如来 ホーソーよけ牛馬安全の守り佛」と記されています(写真⑥)。これらのことから、本尊の大日如来は子どもや牛馬の守り仏として信仰されていることがわかります。「ホーソー(疱瘡)よけ」にご利益があるとされるのは、天然痘(てんねんとう)の予防接種として、牛に発生する牛痘の膿疱(のうほう)を用いる「牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)」が行われてきたことに由来するものとみられます。


さらに注目したいのは、佛木寺の境内には本堂の右手に家畜の安全祈願を祈る家畜堂(小祠)の存在です。オーストリア人のアルフレート・ボーナーが昭和6年(1931)にドイツ語で著した『同行二人の遍路(邦題)』(当館蔵)には戦前の家畜堂を撮影した古写真が収録されています(写真⑦)。堂内に牛馬用の草鞋が奉納されており、家畜として牛馬を大切にしたことが偲ばれます。なお、現在の家畜堂には牛馬に限らず愛玩するペットの供養物なども奉納されています。

佛木寺近郊には九州方面からの玄関口となる八幡浜港があります。宇和島街道と八幡浜を結ぶ八幡浜街道笠置峠越(国史跡)は遍路道としても利用されてきました。道沿いに地元で「牛神さま」と親しみを込めて呼ばれている2体の石仏が岩穴の中に祀られています。左が馬頭観音像、右が大日如来像(写真⑧)です。こうした光景はまさしく人々の牛馬への感謝の気持ちと交通の安全を祈る信仰の姿を今に伝えています。
