‘南予の史跡紹介’ カテゴリーのアーカイブ

南予の中世城跡探訪19 土居清良も奮戦 ―岡本城跡―

8月 22日 金曜日

 天正7(1579)年5月、すでに土佐を統一し伊予へもその手を伸ばした長宗我部元親の軍勢が宇和郡の三間盆地まで侵攻し、そこで伊予の軍勢と衝突します。その舞台となったのが岡本城であり、奮戦して土佐勢を撃退したことでよく知られるのが三間大森城主土居清良です。


  岡本城跡

 岡本城は、大森城から東南へ2kmとない至近の城で、三間川沿いの広見盆地と三間盆地の間でちょうど山が張り出して平野が狭まった場所にあり、まさに三間盆地の玄関口にあたります。JR予土線の二名駅から東南方向の眼前に見えます。
 尾根の先端の高みに主郭を設け、そこから三間川に向けて複数の曲輪が配され、後方の尾根には横堀や縦堀が造られ、さらに後方には出曲輪のようなもう一つの遺構群が存在します。
 岡本城合戦で土居清良は、長宗我部氏の重臣久武親信(ひさたけちかのぶ)らを討ち取るなど、土佐勢に対して大きな打撃を与えました。その戦功は道後の河野通直からも讃えられるところとなり、賛辞とともに褒美として太刀と馬代、あるいは具足や兜が与えられました。
 土居清良の名を世に広めるきっかけの一つとなった、まさに清良功名の場ともいうべき城跡です。

南予の中世城跡探訪18 土居清良の本拠 ―大森城跡周辺―

8月 10日 日曜日

 三間(宇和島市三間町)の市街地のやや東方、まさに三間盆地の中央部に悠然とそびえる山の頂に大森城跡はあります。独立丘陵の頂上を利用し、細長く広い主郭からは複数の曲輪が尾根伝いに連なり、周囲に伸びた尾根の高みには出曲輪とみられる遺構も確認できます。


  大森城跡

 大森城は、三間地域を支配した土居清良が本拠としました。土居清良は、近世に子孫たちが編纂した軍記物語「清良記」の主人公として有名です。また、天正7(1579)年には伊予進出を図る土佐長宗我部氏の軍勢が三間盆地まで進軍してきますが、それに対して盆地の入口を押さえる岡本城にて重臣層を討ち取る戦功をあげ、みごと防戦したことでも知られます。


  清良神社

 土居清良は、三間地域の英雄として、清良神社に祀られています。大森城から南に対面する三間町土居中地区の山裾、県道57号線沿いにあります。石段を登りきった所に社殿があり、神社境内から一段下がった所には龍泉寺があります。この寺院の墓地には土居家の墓所があり、墓所の最も高い段には土居清良廟が建ち、今も地域の人々の崇敬を集めています。


  土居清良廟

 当館歴史展示室2には、大森城跡の1500分の1の模型が展示されています。ご興味のある方はぜひご来館のうえ、観察してみてください。


  大森城模型

南予の中世城跡探訪17 城川西部、魚成氏関連史跡 ―龍ケ森城跡周辺―

8月 1日 金曜日

 西予市城川町の西部に魚成(うおなし)という地区があります。東西に伸びる谷に魚成川が東流し、南岸にはなだらかな段丘上に田園風景が広がります。一方、北岸は急斜面の山脈が横たわり、険しい様相を見せています。その北の山脈を越えると同市野村町の阿下(あげ)地区に入りますが、その旧町境の尾根上、南に魚成、北に阿下を望む高みに中世の山城、龍ケ森城跡があります。


  龍ケ森城跡

 龍ケ森城は、中世にこの魚成地域を支配した魚成氏の城です。一見すると、魚成の谷筋の北辺に位置する龍ケ森城は、支配の面で不自然な感じを受けるかもしれません。しかし、近世の地誌「宇和旧記」の記述では、魚成氏は魚成地域のほかに阿下地域の前石・釜川を知行したと伝え、さらに野村盆地を越えて西へ進んだ四郎谷の三嶋神社には、魚成氏が文明3(1471)年に大檀那になって社殿を再建した際の棟札が残っています。龍ケ森城の周辺には、魚成と阿下を結ぶ峠道も何本か通っており、南の魚成だけでなく、北から西にかけて広がる野村盆地も見据えた城であった様子がうかがえます。
 龍ケ森城のほぼ真南の方角には深い谷が南へ切れ込んでおり、その奥には古刹龍澤寺があります。現在は周囲が龍澤寺緑地公園とされ、「森林浴の森日本百選」に選ばれるなどして親しまれていますが、実は鎌倉末期に開創と伝わる曹洞宗総持寺派の中本山の名刹です。開創時は、現在地よりさらに南へ山を登った頂上付近の御開山(おかいさん)に建立され、龍天寺と称していました。室町時代に現在地に移り、寺号も龍澤寺に変わりました。ここにはかつて、中世の魚成氏や魚成地域の様子を伝える「龍澤寺文書」が伝来していましたが、現在では残念ながら所在不明となっています。


  龍澤寺

 また、龍澤寺からから少し北へ出た段丘上の高台、谷越しで北方の尾根に龍ケ森城がよく望める場所には顕手院があります。ここは、寺伝によれば享徳元(1452)年のこと、魚成氏が龍澤寺から星文和尚を開山として招き開創した魚成氏の菩提寺です。ここには、魚成氏の活動を今に伝える貴重な資料「顕手院文書」(県指定有形文化財)が伝存しています。


  顕手院

南予の中世城跡探訪16 城川東部、北之川氏の本拠 ―甲ケ森城跡・三瀧城跡―

7月 26日 土曜日

 西予市城川町、総合支所などが所在する下相(おりあい)地区からさらに東へ尾根を一つ越えた所に、土居・窪野地区があります。三滝川に沿った細長い谷筋で、川の上流はもはや高知県との境の山脈、まさに予土国境地域といえます。やや下流の少し開けた所が土居、上流の谷が狭まった所が窪野で、土居に甲ケ森(かぶとがもり)城跡、窪野に三瀧城跡があります。
 両城ともに、中世にこの地域を支配した北之川氏の城とされています。甲ケ森城は土居の集落を西から見下ろす小高い甲ケ森山頂を利用した城、一方の三瀧城は奥まった谷に面した比高約250mもの険しい三滝山山頂を利用した城です。


  甲ケ森城跡


  三瀧城跡

 北之川氏については、当時の信頼できる資料が皆無に等しく、その詳しい確かな動向はほとんどつかめないのが実情です。伝わるところでは、北之川氏は当初は土居に本拠を据えていましたが、戦国末期に天然の要害ともいえる三瀧城に本拠を移したともいわれています。しかしながら、「土居」の地名が館跡などを示す言葉でもあり、土居の方が土地が開け、また下流域にも出やすく地域支配には適した場所であること、一方の三瀧城は谷の奥深くに位置し、険しい山の山頂という立地であることなどから考慮して、もしかすると本来は地域支配の安定・拡大を図ってより開けた土居地域を本拠としながらも、三瀧城を予土国境の峠を睨む重要拠点として、また或いは土居を攻められた時の詰めの城として、同時並行的に重視したと理解する方が自然なのではないかと思いますが、残念ながら実際のところは定かではありません。
 これも伝承ながら、北之川氏は戦国末期(年代は諸説あり)に、土佐長宗我部氏に攻められて没落したといいます。その時に、甲ケ森城も落城したといいますが、それに直接関係するかどうかは分からないものの、甲ケ森城跡からは古銭が熱で溶けて固まった状態のものが発見されています。
 この溶けた古銭ほか、旧城川町域の歴史や文化を物語る資料は、下相地区の城川総合支所の裏にある、西予市城川歴史民俗資料館に展示されていますので、足を運んでみてはいかがでしょう。

南予の中世城跡探訪15 猿ケ滝城主岩本将監と薙刀 ―猿ケ滝城跡、春日神社―

7月 20日 日曜日

 肱川中流域、西予市野村町から大洲市肱川町あたりでは、険しい四国山地の深い山間を縫うように流れる肱川の姿があります。川に沿って谷間を走る国道197号線を行き、鹿野川ダム湖上流に差しかかると、大洲市・西予市の市境を迎えます。現在そこには大地トンネルが抜けていますが、南口を出てからもう一つ南の栗ノ木トンネルにいたるまでの間、ちょうどそこは東からの尾根が張り出し、ダム湖が西へ大きく湾曲しています。その張り出した尾根上に中世城跡の猿ケ滝城跡があります。伝わるところでは、現西予市城川町東部から大洲市肱川町南部辺りまで支配したといわれる北之川氏に属した、家臣岩本将監の城だったといわれます。


  猿ケ滝城跡と将監淵

 この城は、北之川氏が長宗我部氏に攻め落とされた際に、同様に攻め落とされたといわれています。その時、岩本将監は闇夜に乗じて肱川を渡って城から脱出を試みましたが、かわいがっていた白い犬が付いて来たことで敵に存在が知られ、弓矢に射られて殺されたとも自害したともいう伝説が残ります。この将監が死んだとされるちょうど城の麓の淵を、伝説に由来して今でも将監淵(しょうげんぶち)と呼ぶそうです。
 この城から南へ、支流の黒瀬川をさかのぼると旧野村町域を抜けて旧城川町域へ入ります。黒瀬川の東岸の段丘上には嘉喜尾(かぎお)地区が広がりますが、そこには春日神社という神社が鎮座しています。実はこの神社は、岩本将監が奉納したと伝わる薙刀(なぎなた)を現在にまで伝えた神社です。(注:当ブログの昨年10/3記事参照)


  春日神社

 岩本将監のことを物語る当時の確実な資料は現在見つかっていませんが、地域にはこうしたゆかりの史跡や文化財が今に伝えられています。ちなみに、この薙刀ほか、旧城川町域の歴史や文化を物語る資料は、下相(おりあい)地区の城川総合支所の裏にある、西予市城川歴史民俗資料館に展示されていますので、足を運んでみてはいかがでしょう。


  西予市城川歴史民俗資料館

南予の中世城跡探訪14 野村盆地のかなめの城 ―白木城跡―

7月 4日 金曜日

 西予市野村町の中心部にはなだらかな盆地が広がっていますが、その北部、盆地を北から一望するかような位置の、比高200mはあろうかという山頂に白木城はあります。山頂部の主郭から、細長い尾根に沿って前後双方に曲輪が連なります。


  白木城跡

 白木城は、戦国時代に野村一帯に勢力を及ぼした野村宇都宮氏の本拠であったといわれています。しかしながら、野村宇都宮氏に関する当時の確実な資料はほとんど皆無に等しく、現在のところ後世の文献や伝承などからうかがうしかありません。また、豊後から南予に亡命して野村に土着したといわれる緒方氏が、戦国末期に白木姓で呼ばれていることを「宇和旧記」に引用の古文書に見ることができ、緒方氏の関与もうかがわせます。
 実は、白木城自体は当時の古文書の中にその名を現します。永禄11(1568)年に、宇和・喜多郡境で河野・毛利勢力と宇都宮・一条勢力が衝突した鳥坂合戦の時、少し前に近くの高島で合戦が起きますが、そこでまさに両軍が激突する直前、毛利方の小早川隆景が家臣乃美宗勝へ宛てた書状。その中で、来島村上氏からの報告を受けて、隆景は「白木城から菅田城・鴇ケ森城(ともに大洲市)へ向けて2里前後(主体が来島村上勢か、一条勢かは不明)にあるということなので、もはや対陣の思いがする、すぐ近くである。」と記しています。残念ながら、合戦の一部始終が詳細に分からないので、この時の白木城がどの勢力に属し、どういう状況下に置かれていたのか詳しく述べることはできませんが、白木城から菅田・鴇ケ森までを最短で結ぶ白髭峠を越える経路上に、最初の両軍直接衝突の地である高島が位置することから考えても、白木城がこの大合戦に無関係ではいられなかったことが容易に想像できます。

南予の中世城跡探訪13 西園寺氏の本拠 ―松葉城跡・黒瀬城跡―

6月 28日 土曜日

 中世の南予地域の領主としてよく知られている一族に西園寺氏がいます。伊予知行国主で、宇和荘荘園領主でもあった京都の公家西園寺氏の分流が、伊予へ下向し土着したと考えられています。宇和盆地を本拠に宇和郡内に広く影響を及ぼしました。その西園寺氏が本城としていたのが、松葉城・黒瀬城です。


  松葉城跡

 松葉城は、西予市宇和町の卯之町の北、松葉地区にあります。黒瀬城は、そこから卯之町の市街を挟んで南へ約2kmの所にあり、JR卯之町駅の裏手真正面に見えます。両城とも尾根を利用して、おおまかに3段の曲輪を中心に構成されていますが、松葉城が岩場の狭い尾根に造られているのに対し、黒瀬城の方が曲輪の規模も大きく、数も増え、より堅固なものになっています。西園寺氏は、当初松葉城を本拠としていたのを戦国時代に黒瀬城に移ったといわれていますが、その裏付けの一つになります。
 西園寺氏は、宇和郡内に一族がいくつか分派し、立間・来村・竹林院などと呼ばれる一族が出ましたが、この松葉城を本拠とした家はその名を取って「松葉殿」と呼ばれ、また自らも「松葉某」と称し、黒瀬城に移ったといわれる戦国末期になっても、滅亡を迎えるまでそう称していました。


  黒瀬城跡

 有名な西園寺氏ですが、実はその活動を物語る当時の確実な資料は極めて少なく、後世の記録類などを基に語られる部分も多く、いまだ謎の多い領主です。系譜関係すら明確には定まっていません。その大きな要因は、家が滅亡したことにあるでしょう。天正13(1585)年の四国平定の後、伊予は小早川隆景の支配するところとなりますが、その時の当主公広はまだある程度宇和郡での影響力を維持していたようです。しかし、天正15(1587)年に秀吉子飼いの戸田勝隆が南予を拝領して入ってきた時、旧勢力の西園寺氏はその力を否定され、滅ぼされてしまいます。「清良記」の記述では、公広が戸田に呼び出されてだまし討ちにあったとされています。


  光教寺

 卯之町の中町(なかのちょう)の開明学校(国指定重要文化財)の隣には、西園寺氏の菩提寺である光教寺があります。寺の墓地内には、公広の廟所があり、今も大切に祀られています。ちなみに、当博物館も卯之町にあり、黒瀬城の向かいの山腹に建っているため、展示室から頂上部を眺めることができます。


  当博物館の展示室からの遠望
  右端、木々の上にわずかにのぞく高みが黒瀬城の頂上部

南予の中世城跡探訪12 宇和盆地北部の領主多田宇都宮氏 ―下木城跡周辺―

6月 14日 土曜日

 中世に宇和盆地(西予市宇和町)の中枢部には西園寺氏がいて、周辺の在地領主たちがそれに従ったことはよく知られています。その宇和盆地の北端、多田地区には当時多田宇都宮氏という領主がいました。この多田宇都宮氏が本拠とした城が下木(しもき)城です。国道56号線の東多田交差点の辺りから西を見て、すぐ目の前に見える小高い丘がそうです。ほぼ独立丘陵といってもよい丘の山頂に、3段に連なった曲輪を中心として、周囲に帯曲輪を廻らせています。


  下木城跡

 多田宇都宮氏は西園寺氏と本拠が近いものの、西園寺氏と敵対するといった姿を見せる場合もあり、もしかするとある程度の独自性を持っていたのかもしれません。けれども、多田宇都宮氏に関する同時代の確実な資料はほとんど残っておらず、謎の多い領主です。
 多田地区には、西方の山際に大安楽寺という寺院があります。多田宇都宮氏の始祖とされる宇都宮永綱が創建したと伝えられ、同氏の菩提寺となっています。江戸時代には、門脇のお堂に戦国末期の当主宣綱が奉納した永綱像が安置されていたといいます。それとはおそらく別物と思われますが、現在も永綱座像が本堂内に祀られています。また、約2m50cmもの絹地を使って、紅柄(べんがら)で着色した中に月星の文様を大胆なデザインで抜いた、宣綱所用と伝わる大旗も伝来しています。
 大安楽寺の門前を少し下ると蛇骨堂(じゃこつどう)という祠があり、毎年11月下旬に「蛇骨祭」が催されます。これも永綱に関わるもので、彼が当地に移り住んだ時に、淵に住み害をなす蛇を退治したところ、蛇の霊が依然万民に害をなし、さらに風雨不順を引き起こしたため、淵を開削して池を設け、蛇を祀る祠を造ったのが大安楽寺の始まりだという伝承があり、その蛇の骨を祀る建物が蛇骨堂だといわれています。実際に蛇を退治したとは思い難いですが、蛇は古くから神の化身とされてきました。そして、古来からの土地(自然)の神である蛇と、新たな開墾者である人間との軋轢(あつれき)を題材とした伝説も昔から語られています。また、大安楽寺の裏山の沢筋はどうも土砂崩れが起こるらしく、現在ではコンクリートの防壁による治山工事がされています。このような沢筋の土石流を、中部地方の一部地域では「蛇抜け(じゃぬけ)」と呼ぶことがあります。特に水を司る蛇(竜)がもたらす災害に対し、その蛇を鎮め、ゆかりの地・物への信仰によって村の平穏などを祈る、といった伝説も各地に伝えられているようです。こうした自然開発・制御の伝承の一つとして、初代永綱に結び付けられ語られてきた蛇退治伝説を、この多田の地の「蛇骨堂」にも見ることができます。


  蛇骨祭の様子

 寺から少し東へ出ると、宣綱廟と呼ばれるお堂があり、多田宇都宮氏一族に関係する五輪塔が何基か立っています。ほとんどが近世のものと思われますが、一部古そうに見受けられるものもあります。お堂の外にも何基か石塔があり、興味深いのは宣綱の愛馬の墓と伝えられる墓石があることです。墓石自体は近世のもののようですが、まるで死後もずっと主のそばに寄り添うようで、何ともほほえましく思えてしまいます。


  宣綱廟の内部


  宣綱の愛馬の墓と伝わる墓石
  右の墓石に、「馬墓」と見えます。

南予の中世城跡探訪11 戦国伊予有数の大合戦、鳥坂合戦の舞台 ―鳥坂城周辺―

6月 7日 土曜日

 永禄10(1567)年から翌11年にかけて、喜多郡と宇和郡の境を舞台に、河野・毛利の軍勢と、宇都宮・一条の軍勢が対峙します。いわゆる鳥坂(とさか)合戦とその前後の争乱です。河野氏と宇都宮氏の対立を発端として、10年頃から河野・毛利勢力は喜多郡に、一条氏は宇和郡に、本格的に軍勢を投入し始め、翌11年の正月頃に鳥坂峠の東方の高島、2月に鳥坂(いずれも大洲市・西予市の境界域)にて直接衝突がありました。合戦後も両軍は引き揚げることなく、毛利氏からは主力の投入、一条氏は高島陣所など拠点の依然とした確保など、緊張状態が長く継続されました。
 河野・毛利勢力からは、来島村上氏や平岡氏ら河野氏家臣をはじめ、後から援軍として小早川隆景・吉川元春・宍戸隆家・福原貞俊といった毛利氏の錚々たる重臣層らも出陣することになりました。一方、宇都宮・一条勢力も、一条氏自身の出陣、そして伊予の中でも土佐に近い河原淵(かわらぶち)氏配下の勢力や三間衆たちの加勢が見られました。
 伊予を舞台に他国の大名たちまでもがその主力を集結して対峙した、伊予でも有数の大合戦だったといえます。


  鳥坂城跡
  画面右下、山麓に大洲藩鳥坂番所跡があり、そこから鳥坂峰への峠道が始まります。

 現在、鳥坂峠には国道56号線のトンネルが抜けていますが、宇和側出口のすぐ西に小高い丘が見えます。それが鳥坂城です。この城の麓から峠道が始まり、近世には藩境として麓に番所が置かれ、今でもその名残をとどめます。峠の頂上部にさしかかると近くには陣ケ森城があります。ここもやはり、峠の押さえとされた城でしょうし、まさに合戦の時には舞台となったはずです。この郡境となる峠の尾根(鳥坂峰)は東西に横たわっていますが、そこから東方に進むと、一条氏が陣取り鳥坂合戦の少し前に起こった高島合戦の舞台となった高島山があります。逆に西方に行くと、河野方として活躍した来島村上氏系の村上吉継が在番した正月森があります。このように、この一帯には鳥坂合戦にまつわる史跡がいくつも存在し、今はその多くが森に囲まれながらひっそりとたたずんでいます。


  陣ケ森城跡
  鳥坂峰の尾根上にあり、近くを峠道が通ります。

南予の中世城跡探訪10 豊後大友勢の侵攻 ―飯森城跡―

5月 30日 金曜日

 佐田岬半島の根幹部には現在瞽女(ごぜ)トンネルが抜け、伊予灘側と宇和海側を容易に結んでいます。このトンネルの上を通る旧道は瞽女峠を越える峠道で、古くから細長い半島の両側をつなぐ交通路でした。そして、峠道を南側(宇和海側)に下りた場所、現在ではトンネルの南側出口、その西の山の尾根上に飯森城跡はあります。細い半島の付け根に通る峠道に臨むこの城は、2つの海の沿岸地域をつなぐ要衝に位置するといえます。
 尾根の先端の高みに主郭を設け、尾根伝いに曲輪や横堀を配しています。一部に土塁も残っており、曲輪の数も少なくはありませんが、さほど重厚な造りでないように見えます。


  飯森城跡

 元亀3(1572)年7月、豊後大友氏配下の若林・鶴原・佐伯氏らが豊後水道を渡って伊予へ侵攻してきます。その時、この飯森城で伊予勢と交戦したことが、大友氏側の古文書に残っています。迎え撃った伊予勢が具体的に誰であったかは現在のところはっきりしていません。大友勢の出兵目的も明確な断定はなかなか難しいところです。
 従来では後世の記録類を基にして、姻戚関係にある土佐一条氏と対立する西園寺氏を背後から討つためとの、いわば局地的紛争としての理解が通説的に流布していました。しかし、同時代の古文書などから見直してみると、実は大友氏と毛利氏という西瀬戸一帯に大きな影響を及ぼす戦国大名同士の抗争の一環と捉えることもできます。同時期に芸予諸島や備前で生じていた能島村上氏や備前浦上氏などの反毛利的行動も含めつつ、大友勢力による毛利勢力への広域的な撹乱の一つとして、西南方面からの効果をねらった行動と理解することもできるのです。
 この飯森城の合戦の後、大友勢は深く進軍することなく帰国しますが、そのこともやはり南予自体に対決すべき主体がなかったことを示しているように思います。

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