‘南予の史跡紹介’ カテゴリーのアーカイブ

南予の中世城跡探訪9 名族摂津氏一族の城 ―元城跡(八幡浜)―

5月 23日 金曜日

 八幡浜の平野の南端、五反田の神山小学校の正面には、かつて小高い尾根が伸びていて、そこには元城という中世の城がありました。


  かつて元城跡があった辺り

 現八幡浜市の南部に基盤を築いた国人領主摂津氏の本拠です。鎌倉・室町両幕府で要職を担った摂津氏という名族の所領が矢野保(八幡浜市)にあったことに由来して、その一族がこの地で領主化しました。しかし、伊予で領主化した摂津氏に関する当時の確実な資料はごくわずかなため、その動向はほとんどつかめないのが残念です。伝承では、戦国期には千丈川を挟んで北に勢力を接する萩森氏とは抗争が絶えなかったともいわれます。
 両側が切り立った斜面になった状態で細長く伸びる尾根の先端に、約200mにわたって築かれた城で、細い尾根上に複数の曲輪が連なっていました。名族摂津氏の一族が地域の支配の拠点とした城ですが、今は造成されてその名をとった元城団地という団地ができ、地名にその名残をとどめるのみとなりました。

南予の中世城跡探訪8 宇和海を望む城跡 ―萩森城跡―

5月 15日 木曜日

 八幡浜市街に張り出す愛宕山、その尾根をたどって奥へ向かうと、みかん畑が広がる山の頂に送電用の鉄塔が立っています。そこが萩森城です。戦国末期に八幡浜北部を支配した萩森宇都宮氏の本拠です。広い主郭の周囲にいくつかの曲輪が配され、一部分ですが堀切や土塁も見えます。


  萩森城跡

 「大洲旧記」などに記す伝承によれば、大津(大洲市)の宇都宮清綱が、本拠を長男の豊綱に譲り、自分は次男・三男らを連れて隠居したといい、その隠居先が萩森城であったとされています。後に、ともに移り住んだ次男房綱が城主になったとも伝えます。しかし、これらには確実な資料がなく、後世の編纂物類の記載や伝承の域を出ません。清綱や房綱の名を記した当時の確実な資料は、現在確認されていないのが実情です。
 その一方で、信頼できる古文書の中に、萩森元教という領主の名が登場します。これも、戦国末期の萩森宇都宮氏とされていますが、そうなると同時期に萩森宇都宮氏には、房綱と元教が存在したことになります。従来はこの両者を別人とみてきました。しかし、最近では両者は同一人物で房綱から元教に改名した可能性が高いという見解が出てきています。
 山頂からの眺望は、南にはあまり開けていない反面、北の大平側に開け、東は大洲との境をなす山々、そして西には宇和海が開けます。大洲中心部から西進し、大洲市平地の高森城を経て峠を越えるとちょうど大平に続く谷に入ります。そしてその先には宇和海。宇都宮氏が萩森城に入った伝承の真偽は不明ですが、こうした地理的性格を見た時、大洲盆地の西方の宇和海への進出をねらい、勢力の伸張という積極的な理由で萩森城という拠点を確保したとの可能性も類推されてくるのではないでしょうか。
 戦国末期にいたると、萩森氏は河野・毛利勢力に属する様子を見せ、さらに四国平定後も、伊予を支配した小早川隆景の下で活動していた形跡を残しています。


  萩森神社

 城跡から北へ少し下ると、萩森氏を祀った萩森神社が鎮座します。現在は小さな社殿が1宇あるのみですが、文化11(1814)年に萩森神社を描いた絵図には、複数の建物や常夜灯などをはじめ、多くの参詣人や物売りの姿も描かれていて、往時の賑わいが偲ばれます。また、萩森氏が用いた銅鑼が、後に鰐口の代用品として奉納されたとの伝承もあり、実際に天正14(1586)年に萩森神社へ寄進した旨の銘が刻まれた銅鑼も伝存しています。

南予の中世城跡探訪7 大洲盆地西端の要衝 ―高森城跡―

4月 11日 金曜日

 大洲市街地から西へ久米川に沿って進むと、JR伊予平野駅の辺りから支流沼田川に沿ってさらに西へと谷が入っていきます。そこは大洲市の西端、平野町平地地区で、谷を見下ろす山頂に高森城があります。ここは、ほんの数キロ西へ進んで峠を越えると宇和海に面した八幡浜に出られる場所で、大洲盆地と八幡浜(宇和海)を結ぶ交通の要衝にあたります。
 広い主郭の周囲にいくつかの小さな曲輪を配し、縦堀も何本か確認できます。背後の尾根にも広めの曲輪や横堀の遺構を見ることができます。


  高森城跡

 高森城は、戦国時代の在地領主梶谷氏の居城でした。梶谷氏は「大洲旧記」などに記す伝承によれば、大津(大洲市)の宇都宮清綱が萩森城(八幡浜市)に隠居する際にこれに随ったとされています。伝承の真偽は不明ですが、高森城の地理的性格を顧みた時、大津と八幡浜を結ぶ中間の恰好の場所に梶谷氏が位置していたことは確かです。
 実際の築城年代や経緯などははっきりしませんが、戦国末期の元亀~天正年間には、確かに梶谷氏が高森城を廻って攻防を繰り広げている様子が古文書に見えます。元亀4(1573)年には、高森城を築いた(修築した?)恩賞として城周辺の土地を河野氏から与えられ、その後年代は不明ですが高森城を敵から忍び取ったり、敵の攻撃から守ったりしたことをやはり河野氏から賞されるといった古文書が残っています。この時期には、喜多郡に勢力を伸ばしてきた河野氏の勢力下に梶谷氏が入っていたことがよく分かります。


  梶谷氏が高森城を築いた恩賞として、平地の土地などを河野氏からもらった文書。
  1行目に「今度高森取拵」と書かれています。
       「柁谷文書」(当館蔵)

 梶谷氏は、近世になるとそのまま平地村に居住する家や、宇和島藩伊達家に出仕する家に分かれながら、代々続いていきます。

南予の中世城跡探訪6 忽那通著討ち死にの地 ―花瀬城跡―

4月 4日 金曜日

 大洲盆地の南、国道56号大洲道路の大洲北只ICを下りた西側、ちょうど国立大洲青少年交流の家の東北に花瀬城は所在します。
 国立大洲青少年交流の家の裏山の山頂にも鴇ケ森(ときがもり)城という城跡があり、ここは戦国時代の領主大野直之の拠点の城だったとも伝えられ、遺構の規模も大きく堅固な構造を見ることができます。一方のこの花瀬城も、広い主郭の回りに帯曲輪がいくつか配され、縦・横の空堀も確認できますが、鴇ケ森城よりはやや地味な造りになっています。


  花瀬城跡

 戦国時代に肱川下流域では、毛利氏の支援を受けた河野氏の勢力伸張や、喜多郡内での領主間抗争などにより、争乱が続きました。天正7(1579)年には、河野氏が軍勢を派遣しこの地域で戦闘が生じたようです。そこには、忽那水軍の末裔忽那通著の姿もありました。しかし、この花瀬城での合戦において通著は討ち死にしてしまいます。そのことは、当時の確実な文書に見ることができます。同年4月20日付けで河野通直(牛福)は、通著の息子亀寿に宛て、親父式部少輔(通著)の討ち死にの忠義を讃え、ねぎらう旨の感状を出しています。(注:当ブログの昨年4/26記事参照)
 実は、この天正7(1579)年という年には、喜多・宇和郡域に対して、河野氏以外にも、長宗我部氏や大友氏ら周辺の勢力からの干渉が頻発しました。土居清良ら西園寺配下の軍勢が長宗我部勢の侵攻を阻止した岡本城(宇和島市三間町)の合戦、日振島(宇和島市)への大友配下の水軍の侵攻などが相次ぎました。南予各地で生じた戦乱の、ひとつの舞台となった城跡です。

南予の中世城跡探訪5 大野直之の本拠 ―菅田城跡―

3月 28日 金曜日

 大洲盆地の東部、神南山の西麓の尾根に菅田城は位置しています。尾根を横堀で切ったところへ、尾根の傾斜を利用して曲輪を幾重にも重ね、一部に土塁も築くなど、規模の大きな城跡です。


  菅田城跡

 大野直之は、浮穴郡久万(久万高原町)を本拠とする国人領主大野氏の一族で、戦国末期の当主大野直昌(なおしげ)の弟といわれています。伝承では、大津(大洲市)を拠点に喜多郡に広く影響を及ぼした国人領主宇都宮豊綱から支配権を奪い、天正年間には土佐の長宗我部氏と結んで河野・毛利勢力に対抗したといわれています。
 しかしながら、実際の彼の活動を物語る確実な資料はほとんど残っていないというのが実情で、現在語られている彼の活動の多くは「大洲旧記」をはじめ後世に編纂された記録類に基づくものになってしまっています。伊予では著名な戦国の国人領主ですが、実際はとても謎の多い領主です。
 菅田城の南麓には菅田地域が開け、東を見ると肱川上流域、西を見ると大洲盆地、そして北を見ると伊予灘へ抜ける肱川下流域と、大洲盆地を支配する上で恰好の場所に位置する菅田城は、その構造の規模から見ても、戦国末期に喜多郡に名を馳せた国人領主の本城にふさわしいといえるでしょう。

南予の中世城跡探訪4 肱川下流の岩山 ―瀧ノ城跡―

3月 22日 土曜日

 肱川は、大洲盆地を抜けると、左右を山に挟まれた谷間をまっすぐ長浜へ向けて北流します。そこは大洲と伊予灘を結ぶ動脈で、現在でもJR予讃本線や県道が狭い谷間に通っています。そのちょうど中ほどに、かつて旧大洲市と旧長浜町の境がありましたが、そこには米津地区があり、右岸の山を見上げると険しい岩肌をあらわにする岩山が見えます。それが瀧ノ城跡です。「タキ」「タケ」などの語が、岩がちな山・岩の露出した崖の意味として使われる場合もあるため、「瀧ノ城」の名前はその容貌にちなむのかもしれません。


  瀧ノ城跡

 山頂に広い主郭を設け、周辺に大小の曲輪が配され、尾根を切る横堀の他に縦堀も確認されます。そして、西側の肱川に面する斜面は険しい断崖となっており、堅牢な城郭であった様子がうかがえます。
 瀧ノ城は、大津(大洲市)の宇都宮氏に従って下野(栃木県)から移ってきたといわれる津々喜谷氏が本拠としました。同氏については、南北朝時代にはすでに当地で活動したことが古文書から確認できます。戦国時代に入ると、当地を含む肱川下流域では、毛利氏の支援を受けた河野氏の勢力伸張や、喜多郡内での領主間抗争などにより、騒乱が続きました。当地は、その地理的性格から喜多郡進出・防御の要衝だったはずです。その渦中で、津々喜谷氏や瀧ノ城が史料上に顔を出します。この頃には、どうやら毛利・河野勢力に属していた模様です。
 この城は、四国平定後に豊臣政権下で行われた城郭整理の状況もうかがえるという興味深い城の一つです。伊予を拝領した小早川隆景は、家臣乃美宗勝に宛てて伊予の支配に関すること、城郭整理に関することなど事細かに指示を出していますが、その中で「祖母谷(うばがい)、瀧之城、下須戒、これも一所にまとめたい」と言っています。この3城はすべて大洲盆地から長浜に抜ける肱川沿いに所在する城で、それぞれに河川交通を押さえる拠点となっていたと推察でき、統一政権下ではその役割を1つの城に担わせようとしたようです。
 少し山手に入った手成地区には、津々喜谷氏の菩提寺である西禅寺が所在し、津々喜谷氏や宇都宮氏にゆかりのある古文書「西禅寺文書」(県指定有形文化財)が伝来しています。この資料は、現在当館で保管しています。


  西禅寺文書(西禅寺蔵・当館保管)

南予の中世城跡探訪3 出石山東麓、上須戒の中世城跡 ―向居城跡・桜ケ森城跡―

3月 7日 金曜日

 肱川下流の八多喜(はたき)地区から西へ谷を上ると、のどかな山間の集落が現れます。上須戒(かみすがい)地区です。こじんまりした盆地に南面する山並みから迫り出した尾根先に、向居(むかい)城はあります。
 戦国時代、この地域を支配した土豪に向居氏がいました。向居氏は、周辺の土豪たちと対立や連携をしながら、一方で大津(大洲市)を中心に喜多郡域に広く影響を及ぼした宇都宮氏とよしみを通じ、宇都宮氏が衰退して後は道後方面から喜多郡へ勢力を伸ばしてきた河野・毛利勢力に属し、天正13(1585)年の四国平定以降も、伊予(南予)を支配した小早川氏や戸田氏に従い、そして近世には上須戒村の庄屋として家名を保ちます。この向居氏の本城といわれているのが向居城です。


  向居城跡

 この向居城とほぼ向い合うような北面の山並みの尾根先に、桜ケ森城があります。こちらは、遺構の大きさや石積みの存在などから、向居城より新しいもののようです。城主については、向居氏のもう一つの城だとも、向居氏と対立した城戸(きど)氏とも伝えられ、はっきりと確定はできません。


  桜ケ森城跡

 両城とも尾根の先端を利用した連郭式の城で、最も高い主郭から先端に向けて曲輪(くるわ)が連なっていき、逆に主郭の背後(山側)には空堀が設けられています。大まかな構造に共通する性格が見られる一方で、桜ケ森城には各曲輪の周辺に石積み、主郭に土塁が見られ、規模も大きいという違いが確認できます。
 上須戒の集落には、向居氏の菩提寺である宝蔵寺も所在しています。

南予の中世城跡探訪2 肱川河口を押さえる城 ―大陰城―

2月 29日 金曜日

 肱川河口から約2km上流、JR伊予出石駅の正面には肱川に渡された大和橋、その先には支流大和川沿いに下須戒(しもすがい)の谷筋が伸びます。肱川河口を間近に望むこの川の合流地点の尾根先に、中世に造られたのが大陰(おおかげ)城(下須戒城)です。


  大陰城跡麓から肱川河口を望む

 戦国末期には矢野氏が城主であったと伝えられますが、この地域の領主に関する当時の確実な資料はほとんどないため、残念ながらはっきりしたことは分かりません。
 しかし、大陰城を含む下須戒という地域は、当時の古文書の中にちらほらその名を現します。戦国時代も終盤に近づいた永禄の頃から、道後の河野氏やそれを支援する安芸毛利氏は、喜多郡方面への進出を図ります。その際、喜多郡の中心をなす大洲盆地への主要な進出経路としては、やはり伊予灘沿岸を南下し、肱川をまっすぐ南へさかのぼる方法でしょう。当然、進出する側も守る側も、その通路の入口となる肱川河口は重要な戦略拠点となるわけです。海上交通から河川交通に切り替える場所としても重要であったでしょう。
 河野・毛利勢力は進出の足がかりとして下須戒の確保を目指し、また中継拠点として重視していた様子がうかがえます。しかし、安定的確保は難しかったようで、しばしば攻防戦の舞台ともなっています。そうした肱川河口の要衝である下須戒を睨む軍事拠点が大陰城になります。結局、下須戒を含む肱川下流域では、天正13(1585)年の四国平定の時まで河野・毛利勢力を交えた騒乱が続くことになりますが、おそらくその中で下須戒は常に重要拠点とされ、幾多の攻防が繰り返されたと推察されます。
 四国平定の後、豊臣政権下に入った伊予では、小早川隆景のもとで城郭の整理が行われますが、実は大陰城はその時の状況がうかがえるという興味深い城の一つです。小早川隆景から家臣乃美宗勝への指示によると、「祖母谷(うばがい)、瀧之城、下須戒、これも一所にまとめたい」としています。この3城はすべて大洲盆地から長浜に抜ける肱川沿いに所在する城で、それぞれに河川交通を押さえる拠点となっていたと推察でき、統一政権下ではその役割を1つの城に担わせようとしたようです。

戦国展関連講座 現地学習会河後森城跡のようす

11月 14日 水曜日

 河後森城跡1

 去る11月10日土曜日、秋晴れのさわやかな天候に恵まれ、戦国展関連講座「河後森城跡を歩こう」を開催しました。松野町教育委員会の高山剛先生のわかりやすいご案内で、河後森城跡を満喫することができました。
 中世のお城である河後森城跡は、土を削ったり、盛り上げたりして作られた土作りの城です。伊予国と土佐国の国境に位置し、県下最大の山城跡です。四万十川の支流に囲まれた独立丘陵で、本城・古城・新城の曲輪(くるわ)配置が馬蹄形に連なります。平成3年から継続的に発掘調査が実施され、平成9年には国の史跡指定を受けました。調査研究に基づいて史跡の整備復元が行われています。

 河後森城跡2

 当時は水の確保に苦労したようです。馬蹄形状の曲輪の内側にある大井戸を見学したあと、西第十曲輪に登りました。ここでは門や建物跡、土塁の復元がされています。

河後森城跡3
河後森城跡4

 さらに尾根伝いに山を登り、本郭に登りました。標高は最も高く約172mです。今年度平面復元された主殿跡を見学しました。ここでは、酒宴なども行われたのでしょうか?
現在は樹木で覆われて見晴らしはききませんが、将来的には眼下に四万十川の上流である広見川を望むことができるようになるそうです。

河後森城跡5

 今後も徐々に明らかになっていく河後森城跡の調査が期待されます。
 参加者の皆さんは、自然地形を利用した河後森城跡を実際に歩いてみて、当時のくらしぶりに思いをはせることができ、勇壮な姿を実感できたことに感動していました。
高山先生ありがとうございました。

南予の中世城跡探訪1 ―曽根城周辺―

6月 8日 金曜日

 曽根城は、内子町の町並みの北、「城廻」(しろまわり)という場所にあります。地名がまさしく城の存在を示していておもしろいですよね。国道56号線、大洲方面からだと田中橋の信号を過ぎ、両側の建物がちょうどなくなった辺りで道は左へカーブし、すぐに「岡町口」のバス停が見えてきます。右に中山川、左に山の斜面という景色に変わりますが、まさに左側の山の尾根に曽根城はあります。といっても高い石垣や天守閣を備えた城ではなく、土塁や堀切を主体とする中世の山城です。

 大きく分けて3段の曲輪(くるわ)を備え、なかでも最も南(尾根の先端)に位置する曲輪は南北約140m、東西約90mの広さを誇ります。それらの周りにもいくつもの帯曲輪が配され、守りを固めています。また、それら曲輪部分の弱点は、背後に延びる尾根ですが、そこにも堀切を設けて、尾根のつながりを遮断しており、様々な防御遺構を見ることができます。

 この城の城主は、曽祢氏という領主でした。「祢」?と思われるかもしれませんが、当時の資料にはちゃんと「曽祢」と記されています。伝えるところでは、曽祢高昌なる武将がこの地に住み着き、内子曽祢氏の祖となったといわれます。戦国時代の喜多郡では紛争が絶えず、特に河野氏、毛利氏、一条氏、長宗我部氏、大友氏などといった周辺の諸大名からの干渉を受けながら、まさに境目地帯として混乱が続きました。曽祢氏も渦中にありながら、巧みに乱世を生き延びていきました。しかし、秀吉の権力が伊予へも及ぶようになると、曽根城は小早川隆景によって廃城とされ、曽祢氏も伊予を離れ毛利氏を頼り、近世には萩藩の家臣へと変貌することとなります。

 周辺にはゆかりの史跡が点在します。そのひとつ、西方へ麓川を越えた所には高昌神社が静かな佇まいを見せています。狭い境内の奥には、祖とされる曽祢高昌の墓碑が立ち、その手前には高昌妻女と、次代宣高夫妻の墓碑が並びます。といっても全て後世に建てられたもののようです。ただ、高昌墓碑の左にひっそりと立つ被葬者の分からない小さな五輪塔が2つ。案外古そうです。小さな方が傾いているのが、おそらく自然のいたずらでしょうが、なんとも睦まじい愛らしさを醸し出しています。

 足を町並みの方角へ戻すと、町並み駐車場に隣接して高昌寺があります。名前のとおり高昌を弔う寺であり、曽祢氏の菩提寺でもあります。駐車場からは、八日市・護国の町並みへ歩くよりも近いお寺です。町並み散策の際は足を運んでみてもよいでしょう。

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