‘南予の史跡紹介’ カテゴリーのアーカイブ

鬼北町延川 天満宮とその棟札

6月 6日 水曜日

 鬼北町の三島校区といえば、小松の善光寺薬師堂が国の重要文化財指定を受けており有名ですが、今回はそこから広見川を渡って南へ約500メートル、延川の小高い丘の上の白王神社に合祀されている天満宮のお話です。

 ここには、永禄13(1570)年に天満宮を再興した際の棟札の実物が今に伝わっています。縦約108センチ×上部幅約16センチのもので、大檀那は河原淵教忠、本願主は小川定吉・西川政輔・小松新次郎たちです。河原淵教忠は、松野町の河後森城を本拠としたことでよく知られています。また、小川らはその教忠の家臣とみられます。文面からは、永禄11年に喜多・宇和郡堺の高島に、一条氏に従う土佐衆・三間衆らが在番していた時、教忠が再興を発願したところ、その願力により敵対勢力(河野・毛利勢力)を撃退することができたことが読み取れます。つまり、一条氏と河野・毛利氏が激突した高島合戦・鳥坂合戦に関わる重要な記載が残されている貴重な史料です。また、数少ない河原淵氏関係の史料としても貴重です。(*秋季企画展「戦国南予風雲録」で展示する予定です。)

 現在、天満宮は白王神社に合祀されていますが、元は単独で社を有する神社でした。現在白王神社の宮司を兼帯する三島神社の宮司さんからの聞き取りによると、場所は白王神社から西へ丘を下りた辺りということです。圃場整備がされた現状では、往時の地形をうかがうことはできませんが、谷間を南から広見川に向けて流れ下る川も今とは流路が違っており、その川沿いに天満宮は鎮座していたそうで、ある時大洪水が発生した際に社殿が倒壊したそうです。(*写真中央の田圃あたりにあったらしい)

 その後、天満宮は高台の白王神社に合祀され、棟札も移されることになりました。
 現在社殿がないことを教忠が知ったら、世の無常を感じるのでしょうか。

 白王神社は延川村の氏神様として今も地域の人々により信仰されています。神社正面の参道には藤棚も設けられ、花の季節には訪れた人の心を和ますことでしょう。鳥居脇からは愛嬌たっぷりの狛犬も出迎えてくれますよ。

平城貝塚と展示室のリニューアル

5月 23日 水曜日

愛南町御荘平城(ひらじょう)に所在する平城貝塚(県指定史跡)は、明治24(1891)年に高知県の地域史研究者・寺石正路氏によって発見された、県内でも早くから知られた縄文時代後期(約3500年前)の貝塚です。その後、昭和初年にかけては愛媛県内の研究者や中央の考古学者が平城貝塚を訪れ、発掘を行っています。本格的な調査は、昭和29(1954)年以降、平成8(1996)年まで5回に亘り、行われています。

出土遺物の多くは現地の平城公民館にて展示されていましたが、平城交流センターの新築に伴い、新たに展示室が設けられました。今回は、愛南町教育委員会の依頼で、この展示室の展示資料や展示方法についてアドバイスをするため、新しい展示室を訪ねました。

新設された平城交流センター

従来は公民館の廊下に設置されていた展示ケースにひっそりと展示されていた資料ですが、この展示室では、貴重な資料がゆっくり見学できます。当面は、これまで展示されていた資料を展示されるようですが、今年の夏頃には、よりわかり易い展示に変更することを予定されているようです。

展示準備中の展示室

この貝塚は、縄文時代後期の磨消(すりけし)縄文という手法で製作された平城式土器の標識遺跡として著名です。この土器は対岸の東九州の小池原(こいけばる)式土器と類似しており、豊後水道を介した人々の交流がうかがえます。また、貝製の笛や貝製の腕輪、獣骨で作られた漁具、当時の人々が食べた貝殻など、約3500年前にこの地域に暮らした人々が目の前に広がる海と深く関わっていたことがわかる資料がたくさんあります。
展示室は5月末にオープンする予定とのことですが、今後は、当館が保管する写真資料などをパネル展示することで、考古学の専門家でない一般の見学者も貴重な資料を理解できる展示室にしたいという担当者の意向をうかがいました。微力ですが、貴重な地域の宝を地域の方に理解していただけるよう協力したいと考えています。

南予の闘牛を知る5―観光闘牛への発展―

5月 21日 月曜日


※写真は、昭和24年、宇和島和霊土俵、村上節太郎撮影(当館蔵)

愛媛県では昭和4年には、闘牛は解禁され、宇和島周辺の牛主を中心に「南予牛角力協会」が設立された。「闘牛」ではスペインの闘牛のように殺伐なイメージを与えかねないとして「牛角力」と称した。

昭和23年にはGHQに禁止され、一時途絶えたが、昭和20年代後半には各地で闘牛が復活するものの、娯楽の多様化や農耕の機械化によって農作業に使役する牛が減少し、闘牛は自然衰微しかかった。

そこで、宇和島地方では、昭和34年に「南予闘牛振興会」を、南宇和地方では昭和36年に「南宇和郡闘牛組合」が相次いで結成され、定期的な闘牛大会が開催されるようになった。

宇和島では市や県からの助成金も交付され、農村の娯楽の「突きあい」から「観光闘牛」へと性格は変容していった。

昭和47年に南宇和郡でもサンパール土俵が完成し、観光闘牛が始まり、宇和島では昭和50年には宇和島市営闘牛場が落成し、現在にいたるまで闘牛大会が定期的に行われている。

南予の闘牛を知る4―突きあいの歴史―

5月 20日 日曜日


※写真は、南宇和郡城辺町(現愛南町)の「突きあい牛」

 日本における闘牛に関する初見は、平安時代末期から鎌倉時代初期に成立したとされる『鳥獣戯画』ともいわれている。しかしこれは、牛同士を人間が故意に突きあせしているのではなく、不意に牛が角突きを始めた場面の描写であり、現在の日本各地の闘牛とは直接関係しない。(牛は自然に角を突きあわせる行動をとるので、この自然行為をもって「闘牛」文化ということはできない。)

 日本各地の闘牛は主に江戸時代中期以降の史料に散見できるのみである。南予地方の「突きあい」は安政3(1856)年に野村組の庄屋文書に見えるのが初見であり、明治時代に入ると愛媛県の行政文書に数多く闘牛関係史料が現れる。これらは闘牛を禁止する旨を伝えたものが多い。

 民衆側は闘牛解禁の嘆願を行政側に度々申し入れ、明治23年頃には愛媛県当局から解禁され、「突きあい」は祭礼の余興として、また農閑期の娯楽として人々の生活に密着するようになった。

 ただし、大正~昭和初期にかけては、「突きあい」で賭博や喧嘩が問題化し、再び禁止されたが、その功罪をめぐる論争は県政界をも揺るがし、結局は闘牛興行が正式許可された。
 
参考文献:『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』(愛媛県教育委員会発行、当館友の会販売)

南予の闘牛を知る3―日本の闘牛―

5月 16日 水曜日


※写真は、闘牛取組表(宇和島丸穂土俵、当館蔵)

 日本の闘牛は、スペインのような「人対牛」の形式ではなく、牛と牛が闘う格闘技である。現在、日本では沖縄県・鹿児島県徳之島・愛媛県宇和島・島根県隠岐島・そして新潟県小千谷市および長岡市の旧山古志村などで行われている。

 日本の闘牛の特徴は、相撲文化の影響を強く受けていることである。横綱・大関などの番付や、闘牛場を「土俵」と呼ぶことなど、日本の闘牛は相撲に見立てることが一般的である。韓国の闘牛の場合、トーナメント方式で行っているように、世界的に見ても、相撲の模擬形式で行うのは日本闘牛の特徴と言える。

 また、闘牛の盛んな地域は、実際に相撲の盛んな場所であることも指摘することができる。南予地方は大相撲の出身者は他地域に比べ多く、また、祭礼の際に相撲練りが登場するのも南予地方だけである。

 写真の取組表を見ても、横綱・大関などの番付がなされている。しかも「闘牛大会」ではなく、「牛角力(うしずもう)」と表記しているところが興味深い。「闘牛」といえばどうしても「人対牛」形式をイメージするので、動物虐待と見なされかねないということもあり、宇和島では「牛角力」と呼んでいた時期もあったのである。

南予の闘牛を知る2―闘牛の起源(世界の闘牛)―

5月 12日 土曜日


※写真は当館所蔵の闘牛大会取組表(昭和初期・宇和島和霊土俵)

闘牛には「牛対人」と「牛対牛」の2種類の形式があるが、南予地方をはじめ日本で「闘牛」という場合、すべて「牛対牛」形式の闘牛をいう。日本各地に様々な闘牛起源説が流布されているが、闘牛(という文化)は、結局、人間が勝手に日時と場所、さらには闘う相手を決めて行う牛の順位闘争であり、種内闘争のルールに則って行われる催し物と定義することができる。

それゆえに、闘牛の起源は、どこかで誰かが始めて広まったのではなく、自然発生説をとるのが最も無理がないとされる。しかし、牛を家畜とする飼育が行われていたのは、当然、現在闘牛が行われている地域ばかりではない。したがって、白然発生説は最も有力な説には違いないが、これだけでは説明しきれない部分が残る。

「牛対牛」形式の闘牛は古代のエジプトにも知られていたが、現在の分布状況を見ると、むしろ、インド、東南アジア、東アジアにまとまった分布を持つという特徴がある。こうした分布から、闘牛の2つの形式(「牛対人」、「牛対牛」)の違いは、より基本的には、アジア・ヨーロッパにおける生業(稲作・麦作)文化に関係があるのではないかという考え方がある。

つまり、「牛対人」の形式は、スペインなどヨーロッパ・地中海の麦作文化において発達し、そして「牛対牛」の形式は、日本をはじめ、アジアの水稲耕作文化において発達したというのである。

このように、「牛対牛」形式の闘牛文化の起源については、「牛の飼育」・「稲作」というキーワードも考えるヒントになりうる。南予の闘牛の習俗を追及することは、アジアの稲作文化の中での日本、そして愛媛・南予の位置付けにもつながるといえる。

参考文献:『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』(愛媛県教育委員会発行・当館友の会販売)

南予の闘牛を知る1―闘牛は文化財―

5月 11日 金曜日

 南予地方には、牛と牛を闘わせる闘牛文化が広く定着し、地元では闘牛のことを「突きあい」と称しています。この「南予地方の牛の突きあい習俗」は、平成7年に文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択され、平成11~12年度にかけて、県教育委員会が調査を実施し、成果報告書が12年度末に刊行されました。(その報告書『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』は、愛媛県歴史文化博物館友の会で販売しています。)

 当博物館では、南予の闘牛習俗に関する民俗資料を収集していますが、平成14年度には「南予地方の闘牛」展を開催し、全国でも数カ所しか現存していない闘牛について、南予地方の「突きあい(闘牛)」の歴史、変遷、現状に関する資料、および県外の闘牛に関する資料を展示し、県民に南予の民俗文化の特徴を理解してもらうことを意図し、企画・開催しました。

 これまで、闘牛といえば、観光資源として注目されてきた側面が強く、民俗文化財としての視点では見られてはきませんでした。闘牛は、南予地方の牛飼育の歴史・民俗が基礎となって花開いた文化であり、今後、文化財としての視点でも闘牛が注目されるようになり、博物館としても、展示や資料収集を通して、後世へと伝承させる機会を設けることが重要と考えています。

※写真は昭和40年、大森土俵(現愛南町)の様子。

八幡浜市真穴の座敷雛

4月 18日 水曜日


 「真穴(まあな)の座敷雛」は、毎年4月2~3日にかけて、八幡浜市真穴地区で行なわれる長女のための雛節供行事である。座敷いっぱいに飾りを豪勢に施し、人々の眼を惹きつける。毎年数万人の観光客も訪れ、南予地方を代表する観光行事ともなっている。

 平成14年には八幡浜市の無形民俗文化財に指定されているが、雛祭りを月遅れで実施するようになったのは、戦後間もなくからであり、それまでは、旧暦3月3日に行なっていたという。

 真穴地区は、八幡浜市真網代(まあじろ)・穴井(あない)などを総称する地名である。八幡浜市南部に位置し、宇和海に面している。半農半漁の集落だが、真網代は段々畑が広がり、柑橘類の生産が盛んである。穴井は、真網代に比べると蜜柑農家はやや少ないが、古くから商売で栄えていた地区である。現在は過疎化が進むが、年配の方々に聞くと、かつて、穴井は裕福な所であり、穴井に嫁ぐことは他地区の親から羨ましがられたという。

 「座敷雛」の習俗は、もともと穴井地区に限られていたものであった。しかし、少子化の影響により、定期的な継続が困難となり、対象を広げて真網代も含め、真穴小学校区全体に拡大した。それでも少子化の波は収まらず、現在では、都会などの他所に出ている真穴出身者に長女が誕生した場合にも行うようにして、毎年の実施軒数を確保している状態である。

※写真は、今年(平成19年)の穴井地区の座敷雛。

宇和の「わらぐろ」作り方マニュアル その弐

4月 16日 月曜日


作業(4) 藁束を集める。
 田んぼで乾燥させていた稲束を、わらぐろを作る場所の周囲に輪状に寄せ集めます。わらぐろの製作は、基本的には2人で行います。夫婦の共同作業でもあり、夫婦仲が悪いと、形の良いわらぐろもできないといわれます。


作業(5) 藁を積み上げる。
 藁のもと(根側)が外側・穂先が中央になるように反時計回りに藁を積んでいきます。積む際には、もとが下りになるように、藁を足で踏み固めながら調整します。(もとが下りになれば、風雨がしみ込みません。)


作業(6) 屋根を作る。
 藁を積み上げたら、次に庇(ひさし)を作ります。庇に使う藁は、穂先を外側・もとを中央にして、今度は時計回りに積んでいきます。庇が出来たら、再び、もとが外側・穂先が中央になるように藁を積み上げ、屋根を完成させます。積み上げたわらぐろの先端部を、藁縄で強く縛れば完成です。

※この「作り方マニュアル」製作には、宇和わらぐろの会のご協力をいただきました。

宇和の「わらぐろ」作り方マニュアル その壱

4月 15日 日曜日


作業(1) 藁を準備する。
 稲刈りした後の稲を脱穀します。その後、乾燥させるために、藁を4本の束で1組にして、田んぼに2週間程置きます。


作業(2) 杭を立てる。
 わらぐろの背骨になる杭(約5mのヒノキ)を立てます。杭は約50cmの深さまで埋め込みます。


作業(3) 土起こし
 立てた杭の周り半径約1mの土を鍬で起こします。これは完成後、わらぐろの下から水が染み込まないようにするためです。

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