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八幡浜市立双岩小学校へ出前授業(平和学習)に行ってきました!

2025年9月11日

 先生との事前の打ち合わせで、戦争の経緯、戦時下の苦しい生活、愛媛の空襲と原爆の関係、身近に残る戦争遺跡についてご要望があったため、その点に重点をおいたスライドと実物資料を用意しました。米穀の配給制度に関しては、愛媛県の平均配給量(1日約240g)を持参し、全国平均(1日約350g)よりも下回っていたこと、現在の給食と比較して栄養不足だったことを伝えました。衣料の切符制度に関しては、昭和19年の衣料切符(30歳未満50点)を例に、上着(15点)、ズボン・スカート(各7点)、靴下(3点)を買ってみる体験を行いました。

 続いて、八幡浜市に県下で初めて爆弾が投下されて以降、松山・今治・宇和島では焼夷弾による大規模な空襲で多くの死者や被害がでたことを写真パネルで説明しました。持参した焼夷弾の殻を持ってもらい、重さ、形、臭いなど五感を通して空襲を想像してもらいました。次に、長崎型の模擬原爆である「パンプキン」が、新居浜・西条・宇和島に合計4発投下されたことを紹介しました。特に宇和島への投下は長崎の前日である8月8日だったことを伝えました。

 また、戦争末期には宇和盆地に陸軍の飛行場が作られ、戦後の航空写真からも水田の区画からそれが分かることを示しながら、身近なところに軍事施設があったこと、現在も残っている場合があることを伝えました。児童の中には太平洋戦争前に作られた「八幡浜第一防空壕」を知っている児童もいて、今後の調べ学習につながればと思いました。最後に防空頭巾やモンペなどの着付け体験を行い、物資不足の中でこれらにも様々な形態のものがあることを紹介しました。

 今回の出前授業が戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となり、戦争体験者と同じ時間を過ごす最後の世代として、戦争体験者から直接当時のことを聞き取り、次世代につなげる役割を担ってもらえれば幸いです。6年生の皆さん、修学旅行では大いに学びを深めてください!当館ではご要望に応じた出前授業(平和学習)を行っています。ぜひお気軽にお問い合わせください。

ヘイタイ人形を動かす児童
衣料切符を使う児童
休み時間に持参した資料に興味をもつ児童
愛媛とパンプキンの関係に関心を示す児童
鉄兜や防空頭巾をかぶる児童

実習生のみなさん、お疲れ様でした!

2025年8月24日

 今月19日(火)から始まった博物館実習もいよいよ後半戦に入り、22日(金)の午前中は四国中央市の中学校から寄贈された考古資料の整理を行い、全国各地の遺跡で収集された多種多様な遺物を採寸して記録しました。午後からは豪雨などにより歴史資料が被災を受けることが多いなかで、水損資料のレスキューを学びました。

 23日(土)の午前中は民俗展示室で展示替えに挑戦し、「弁当箱」や「わっぱ」などを資料の特徴に応じて工夫しながら展示しました。午後からは特別展「渡辺おさむスイーツアート」のワークショップ「ビスケットデコレーションをつくろう」の補助を行いました。最終日の24日(日)は午前中に考古資料の整理を行い、土器や貝殻などを洗浄して土やほこりを取り除きました。午後からは昨日に続きワークショップの補助を行いました。参加者目線での対応や声掛けもできるようになりました。

 実習生の3名の皆さん、6日間にわたる博物館実習お疲れさまでした。歴史・民俗・考古資料の整理、学校との連携、ワークショップなど様々な実習を経験してもらいました。学芸員の採用は決して多いとは言えませんが、今回の実習を通じて博物館の応援団となってもらえれば幸いです。それぞれの夢に向かって頑張って下さい!

水損資料レスキューの実習
民俗展示室の展示替え
考古資料の実習
ワークショップの補助

博物館実習、頑張ってます!

2025年8月21日

 現在、博物館では3名の大学生が博物館実習を行っています。19日(火)は施設の概要説明が中心でしたが、20日(水)から本格的な資料整理実習が始まりました。午前中は歴史資料の取り扱い方について学びました。教科書にも掲載されている「蒙古襲来絵詞」(複製)などを使い、巻物や軸物について史料の開き方、掛け方、閉じ方に挑戦しました。大学の講義では学んだものの実際に資料を扱った経験はない学生もいて、学芸員らしい経験ができたと感想を述べてくれました。午後からは博物館ボランティアの方たちと民俗資料の整理を行いました。着物などの古着を採寸して記録したり、焼き物の破片に注記して撮影したり、資料の性格に沿った整理を学びました。

 21日(木)は「教員のための博物館の日」が開催されました。午前は配布資料をまとめたり、学校への貸し出しキットである「れきハコ」を会場に並べたりしました。午後からは受付係や記録係を担当するとともに、一緒に博物館と学校の連携について学びました。博物館法においても、学習指導要領においても相互の連携がうたわれており、博物館の教育普及活動は今後益々重要になるものと思われます。学校が博物館に何を期待しているのか、博物館は学校に何ができるのか、先生方との交流を通じて職員も実習生もあらためて考える機会になりました。博物館実習もいよいよ明日から後半戦です。実習生の皆さん、頑張って下さい!

歴史資料実習
民俗資料実習
「教員のための博物館の日」準備

博物館実習が始まりました!

2025年8月19日

 8月19日(火)~24日(日)の日程で今年度の博物館実習が始まりました。今年は3名の大学生から申し込みがありました。19日から6日間にわたり、歴史・民俗・考古の資料整理実習、博物館と学校の連携、ワークショップなど、博物館の現場で実習や体験を行います。

 学芸員資格を取得するためには、文化庁が行う認定試験もありますが、大学で博物館法施行規則が定める博物館に関する科目の単位を取得するのが一般的です。具体的には、生涯学習概論、博物館概論、博物館経営論、博物館資料論、博物館資料保存論、博物館展示論、博物館教育論、博物館情報・メディア論を各2単位、博物館実習を3単位、合計19単位です。博物館にとって将来の学芸員を養成することも大切な使命であり、当館では例年この時期に博物館実習を実施しています。

 初日は博物館の概要説明、展示室・収蔵庫ゾーンの施設見学、指定管理者による事業説明、土・日に行うワークショップの事前研修を行いました。午前中は実習生も緊張気味でしたが、午後からは少しずつ馴染んできたようです。施設の概要説明では質問が出るなど、積極性も感じられました。明日からは資料を使った本格的な実習が始まります。残暑の厳しい折柄、体調に気を付けて、学芸員としての基礎を学んでいただければと思います。

考古収蔵庫で学芸員から説明をうける実習生
保存処理室で学芸員から説明をうける実習生

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介④

2025年8月15日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、アメリカ軍が撮影した宇和島市の空襲前後の写真を紹介します。昭和19(1944)年7~8月にサイパン・グアム・テニアン島が陥落すると、B29の基地としてサイパン島に73航空団、テニアン島に58・314航空団、グアム島に313・314航空団が置かれ、日本を空襲しました。宇和島市も翌年5月10日、7月12日、7月29日に大きな空襲を受けました。

 宇和島市における最初の空襲は昭和20年5月10日でした。岩国陸軍燃料廠と興亜石油麻里布(岩国)製油所を第1目標とした314航空団の132機の1機が、午前9時に臨機目標とした宇和島市に250㎏爆弾を5t投下しました。これによって朝日町などが被害をうけ、119名が亡くなりました。写真①は7月2日にアメリカ軍が撮影した写真です。5月10日の被害が一直線上に確認できます。しかし、まだ宇和島城を中心とする市街地の多くは被害をうけずに残っていることがわかります。

 7月12日、宇和島を第1目標とした314航空団の124機が、午後11時13分~午前1時26分にかけて50㎏焼夷弾を393t、250㎏収束焼夷弾を479t投下しました。この空襲で36名が亡くなりました。続いて、7月29日、またも宇和島を第1目標とした314航空団の29機が、午前0時16分~同1時25分にかけて50㎏焼夷弾を90t、250㎏収束焼夷弾を115t投下しました。この空襲で86名が亡くなりました。

 写真②は8月8日にアメリカ軍が撮影した写真です。7月12、29日の空襲によって市街地の南部を除く多くが焼失したことが分かります。アメリカ軍は6月17~18日にかけて鹿児島・大牟田・浜松・四日市の4都市を空襲し、以後8月15日まで20回にわたり57の中小都市を空襲しましたが、宇和島のように2回も空襲をうけたのは大牟田、一ノ宮、宇和島の3都市に過ぎません。写真①と②は僅か1ケ月の間に空襲によって宇和島の街が焦土と化した状況を表しています。

 今回4回にわたってテーマ展の資料を紹介しましたが、戦後80年にあたり戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となれば幸いです。テーマ展は今月末まで開催しています。ぜひ、ご来館ください。

写真① 昭和20年7月2日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)
写真② 昭和20年8月8日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介③

2025年8月14日

 1枚目の写真は出征する兵士の家の前の様子を写したものです。軒近くには多くの日章旗が飾られ、多くの幟が立っています。幟には日章旗や旭日旗のデザインに「祝 出征 (個人名)君」と書かれています。拡大して見ると、旭日旗の中央に桜花や金鵄勲章(武功をたてた者に与えられる勲章)をデザインした幟もあったようです。「入営」(陸軍として軍隊に入ること)、「入団」(海軍として軍隊に入ること)、「出征」(召集されて戦地におもむくこと)は「祝い事」であり、地域をあげて兵士を送り出しました。

 2枚目の写真は三津浜駅(松山市)で汽車に乗り込んだ兵士を写したものです。よく見ると兵士の軍服には下士官の肩章が付いています。昭和12年に日中戦争が起こったため、予備役にも臨時召集令状が届いたのでしょう。11師団の善通寺へ向けて出発する際の写真ですが、見送る人々の表情に笑顔は見らません。「バンザイ」を唱えて見送る写真はよく残されていますが、この写真は出発間際に別れを惜しむ人々の様子をとらえたものとして貴重です。

 3枚目の写真は兵士を乗せた汽車が三津浜駅を出発後も、日章旗や幟をもって見送り続ける人々の様子を写したものです。汽車は写真右下の隅に見えます。出発した汽車は勢いよく煙をはきながら駅から遠ざかっていきますが、ホームには見送りの人々がまだ残っています。恐らく汽車が見えなくなるまで見送ったのでしょう。これらの3枚の写真からは、出征風景を知るだけでなく、見送る側と見送られる側の気持ちが伝わってきます。このような光景が二度と繰り返されないように、歴史の教訓を学ぶ80年となれば幸いです。

1枚目 出征兵士の家
2枚目 三津浜駅での惜別
3枚目 見送り続ける人々

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介②

2025年8月4日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、陶器製のおろし・ボタン・剣山を紹介します。

 16年度には戦時物資活用協会が、17年度には金属回収統制株式会社が中心となり、一般家庭からの金属回収が実施されました。一般家庭に比較して企業からの回収実績は少なく、翌18年4月16日に東条英機内閣は「昭和18年度金属類非常回収実施要綱」を閣議決定し、8月12日に「金属類回収令」を改正して82業種から40設備を、23施設から鉄62品目、銅72品目、鉛14品目を供出可能としました。これには企業の「未動遊休設備」、「不要不急設備」、「仕掛品」を回収しようとするねらいがありました。

 このように一般回収から特別回収へ、特別回収から非常回収へと、回収の種類や品目が拡大するなかで、世の中には代用品が多く出回るようになりました。金属に代えて陶器や紙といった別材料を用いた代替物です。今回の陶器製のおろし・ボタン・剣山もその一例です。このような陶器製の代用品には、多くの場合統制価格で販売されることを示す生産者別標示記号が記されています。本資料の剣山にも三重県四日市市を中心とする万古焼であることを示す「万025」の刻印があります。

 陶器製のおろしを見ていると、このようなものまでも……と当時の苦しい生活が想起されます。その一方で陶器の地肌を細かく跳ね返して、おろしの刃が精緻に作られており、伝統技術が皮肉な形で活かされていることにも驚かされます。科学技術が使いようによっては平和にも戦争にも利用されるように、伝統技術も平和と戦争に無関係でないことが分かります。本資料は統制陶器が単なる代用品ではないことを伝えています。

         上段左が剣山、右がおろし、下段がボタン(個人藏)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介①

2025年8月3日

 現在、当館ではテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」(8月31日まで)を開催しています。本展は、①戦時下の子どもたち、②戦時下のくらし、③出征と銃後、④愛媛の空襲、以上4章から構成しています。これから4回にわたり、各コーナーの代表的な資料を紹介します。

 当時、政府は官公庁から工場、工場から一般家庭に金属回収を広げようとしており、同年4月1日~5月20日に愛媛県と県内の5市が金属回収を実施しました。続いて8月30日~9月30日に愛媛県と県内の市町村が金属回収を行っており、この際に松山高等女学校の校門も回収されたものと思われます。学校の顔とも言える校門が回収され、木の扉となったことに、4年半通い続けてきた少女の複雑な心境が表れています。

 また、昭和16年12月8日には、「午前十一時四十分、米国英国に対する宣戦の大詔が渙発せられ、試験中だったけれどスピーカーで放送された。その時早や我が空軍はハワイやフィリッピンを空襲していた。東條首相の放送も聞いたが、試験の事なんか忘れて失ふほど感激しそうだった。」と記されています。

 これは当時の女学生が太平洋戦争の開戦をどのように知ったかを記した貴重な日記です。試験中にもかかわらず、学校の放送を通して宣戦の大詔が流れ、歓喜する少女の姿が想像できます。当時、学校で開戦を知らせる放送が流れたことはほかにも証言があり、戦時下における学校の様子がよくわかります。

 日記は誰かに見せることを想定せずに書かれているため、当時の素直な感情や世の中の動きを知ることができます。戦争がどのように始まり、人々はどのように受け止めたのか、それは最終的に日本が敗戦を迎えるに至る起点として、おさえておく必要があります。今回紹介した日記は、女学生の視点から戦争へ突き進んだ時代について、多くのことを私たちに伝えくれています。

               昭和16年9月26日の日記(当館蔵)      

               昭和16年12月8日の日記(当館蔵)

歴史講座「親子で体験!学ぼう戦時下のくらし」を開催しました!

2025年8月2日

 最初は日清戦争から太平洋戦争に至る歴史を概観した上で、「遊び」・「学校」・「生活」をテーマに、小学校1~4年生には戦時中のおもちゃや通知表を現在と比較したり、金属回収によって普及した代用品(紙製洗面器や防衛食器)が何でできているかを考えてもらったりしました。また、小学校5~6年生には衣料切符を紹介して、上着・ズボン・スカート・くつ下を買う体験をしてもらいました。また、夏休みの自由研究として平和学習に取り組む際のワンポイントアドバイスも紹介。最後に防空頭巾、もんぺ、ゲートル、千人針、陶器製湯たんぽなどに触れてもらったり、身に着けてもらったりしました。

 戦争体験者が少なくなるなか、親子で戦争や平和について考える機会は少ないのではないでしょうか。戦時下のくらしを知り、現在と比較することで、平和の大切さを考えるきっかけとなれば幸いです。当館では実物資料を学校に持参する出前授業も行っています。ぜひ、お気軽にお問い合わせください。

全体風景
全体風景
防空頭巾を体験
防空頭巾を体験
ゲートルを体験
ゲートルを体験

「伊予かすり 機の音サミット」開催!

2025年5月30日

 5月26日(月)、松山市立子規記念博物館において、「伊予かすり 機の音プロジェクト実行委員会」主催による「日本三大絣 伊予かすり 機の音サミット~鍵谷カナ没後160周年記念」が行われました。

 久留米絣、備後絣とともに日本三大絣の1つに数えられた伊予絣は現在の製造業者は1社、職人も数名で伊予絣の伝統を守り続けています。そうしたなか、本年2月に伊予絣は愛媛県無形文化財(工芸技術)に指定され、技術保持者として白方宣年氏と村上君子氏の2名が認定されました。

 このイベントは、伊予絣の創始者鍵谷カナ没後160周年を記念して、愛媛が誇る伝統工芸品・伝統技術である伊予絣の魅力を見つめ直すとともに、伊予絣を次世代に繋いでいくための方法を考えるためのものです。

 最初に実行委員会の白方基進氏による開催宣言が行われ、基調講演Ⅰでは、当館専門学芸員・今村賢司が「温故知新の伊予かすり―未来へつなぐために―」と題して、伊予絣の歴史を振り返り、その特色や魅力、今後の展望・未来像について紹介しました(写真①)。

基調講演Ⅰ 今村賢司「温故知新の伊予かすり―未来へつなぐために―」(写真①)

 活動発表では、伊予絣を用いて作品づくりをしている伊予農業高等学校生活科学科被服班の高校生6名による報告「伊予かすりで日常生活に彩りを~サスティナブルな伝統工芸の普及を目指して」がありました。高校生による持続可能な伊予絣を考える研究活動は、伝統工芸と距離のある現代において、実際に日常生活の中に伊予絣を採りこむ事例として意義深く、伊予絣の魅力を身近に感じるアイデアとしてとても参考になりました。

 伊予絣の基調講演Ⅱでは鹿児島県奄美大島の大島紬の伝統工芸士・元允謙氏が大島紬を事例に、進化していく伝統工芸という考え方や異業種、他分野とのコラボ事例、商品開発のノウハウなどが紹介され、今後の伊予絣の継承や活用にあたり多くの示唆をいただきました。

 パネルトークでは、愛媛大学地域協働推進機構特定准教授・大本敬久氏、あいテレビアナウンサー・滝香織氏の司会によって進行。パネリストは伊予絣作家・川西利美氏、垣生公民館長・中田浩一氏、元允謙氏、今村の4名で、伊予絣を継承するには?今後活用するには?について意見交換が行われました。

 サミットの会場では、高機による伊予絣の制作実演(写真②)や、白方興業株式会社所蔵の伊予絣の古布「白方コレクション」の絵絣、垣生公民館所蔵の垣生で製造された伊予絣の生地・着物などが展示され、参加者が身近に伊予絣の魅力を感じることができました(写真③)。

高機による伊予絣の制作実演(写真②)
伊予絣資料の展示(写真③)

 今回は第1回目のサミットでしたが、伊予絣関係者、染織作家、大学、博物館等の研究者、経済界、地元の高校生、大学生、行政など様々な立場の方が参加され、伊予絣の魅力について再確認して、今後の在り方についてともに考えることができ、伊予絣の新時代の一歩となるとても有意義なサミットでした。