令和7年10月23日(木)~令和8年1月22日(木)、常設展示室4において、戦後から昭和後期にかけて、フェリー・パイロット(航空機空輸業操縦士)の先駆けとして航空業界で活躍した清水千波(せんぱ)について紹介します。フェリー・パイロットとは、飛行機を操縦して取引先まで運ぶ仕事です。
資料の内容は、清水千波の活動に関する写真10点(内パネル1点)と清水千波が描いた色鉛筆画(陸軍戦闘機「疾風(はやて)」他)4点、ホノルルビーチプレス記事(パネル)1点、飛行経路図(内パネル1点)2点、合計17点です。
清水千波は明治41(1908)年に宇和町卯之町(現西予市)で酒造業を営む清水伴三郎の長男として生まれました。同志社大学経済学部を卒業後、いったん大阪鉄道局に勤務しましたが、昭和12(1937)年に陸軍飛行兵に志願し、岐阜県各務原(かがみはら)の飛行第2戦隊に入隊します。翌年、陸軍飛行第98戦隊に転属し、爆撃機の操縦士として中国から東南アジアにかけて転戦しました。大戦末期にはインド独立運動家チャンドラ・ボーズ等のVIPの輸送や特操(大学生を中心に短期間で操縦士を養成する特別操縦士見習官)の教官を務めた後、東南アジアで終戦を迎えます。
終戦後、軽飛行機の国内外の空輸に携わり、昭和36年には、同僚の小野貞三郎と2人で東京からストックホルム(スウェーデン)までの空輸を行って日本人初の北大西洋横断飛行を成功させました。また、千波の所属する大和(だいわ)航空株式会社(後に、伊藤忠航空輸送株式会社と改称)が全日本空輸株式会社から委託を受けて操縦士の教育を行った際には、訓練部長を勤めています。
そして、昭和46年、63歳でフェリー・パイロットとして独立し、太平洋や大西洋間で軽飛行機の空輸を引退までに約40回行いました。昭和49年には、現役最年長のパイロットとして日本航空機操縦士協会から表彰されましたが、それ以降も75歳まで世界中を飛び続けます。その様子は、テレビや新聞、小説等に紹介され、昭和62年、79歳で病没しました。飛行機をこよなく愛し、大空を飛び続けた清水千波の情熱を感じ取っていただけたら幸いです。

写真① 九七式重爆撃機を操縦する清水千波(昭和16年 当館蔵)

写真➁ 教育隊長として学生を指導する清水千波(昭和19年 当館蔵)

写真③ 清水千波画「疾風」(昭和21年 当館蔵)

写真④ ストックホルムへ向けて準備をする清水千波と小野貞三郎(昭和36年 当館蔵)

写真⑥ 最年長パイロットの清水千波(昭和51年 当館蔵)

写真⑦ 最年長パイロットの清水千波(昭和51年 当館蔵)





























