‘資料調査日記’ カテゴリーのアーカイブ

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 3終

6月 11日 金曜日

 (3)歯長峠から明石寺を経て歴史文化博物館へ

 歯長峠の頂にある「送迎庵見送大師」を発ち、ここからは峠の下り道です。仏木寺周辺からはるか遠くに見えていた四国電力送電鉄塔が今は眼前にあります。空にそびえています。付近には倒れた2基の遍路道標がありました。ひたすら山道を下ります。途中、車が入れるほどの林道と交わります。歩き遍路道をさらに下っていくと、雨水による路面浸食による流失で、とても足場の悪い山道が続きます。山中の立ち枯れた松の巨木のもとに寛政7(1795)年に皆田村(現西予市宇和町)の有志が建てた立派な遍路道標がありました。

倒れた遍路道標

江戸時代(寛政7年)の遍路道標

 ずっと急坂を下っていきます。やがて工事中の四国横断自動車道のトンネルが間近に見えてきました。麓まで下りたようです。石橋で小川を渡ると県道に合流し、バス停がある歯長峠口に到着。そこには地蔵堂がありました。堂内には弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などの石仏が祀られており、隣には文化・文政年間の遍路墓がありました。

 休憩所で少し休んだ後、宇和川を渡り、43番明石寺に向かいます。ここからは基本的に舗装道を歩くことになります。これまで、軟らかい土の道を歩くことに慣れてきた両足が、疲れもあってか、時おり足裏が少し痛みを感じてきました。小雨も降って来ました。下川(ひとうがわ)の集落は、歯長峠から下って来たお遍路さんが休息をとる場所とされ、お接待が行われ、遍路宿もあって往時は賑やかだったそうです。そのなごりを示すように、「道引大師」と呼ばれるお堂があります。小さな堂内には中央に道引大師像、左に弘法大師像、右に不動明王像が祀られています。驚いたのは、一人用の布団が常備され、ここで寝泊まりができるようになっていました。これは現代のお接待(善根宿)といえます。堂前には、中務茂兵衛が明治39年に209度目供養として建てた道標がありました。

歯長峠口の地蔵堂と遍路墓

中務茂兵衛の遍路道標と道引大師

 県道宇和野村線を歩き、旧道に入り、皆田小学校の前を進みます。新しく祀られた道中安全見守大師を過ぎ、歴史文化博物館が近くに見えてきます。歩き遍路さん用の矢印に従って進むと、明石寺奥之院に着きます。結界がはられた敷地には祠が安置されていました。付近に明治期の小さな道標があります。明石寺の参道の鳥居付近には、中務茂兵衛が大正3年に256度目供養として建てた道標がありました。この道標の上には、小石が積み上げられていました。歯長峠道で確認した石積みとの関係が気になりました。やがて明石寺へ到着。境内には、次の札所の菅生山(44番大宝寺)まで21里(約84㎞)と記された道標がありました。最後は、宇和文化の里へ通じる遍路道を歩きます。途中、宇和新四国の道に入り、遊歩道を通って愛媛県歴史文化博物館へ無事帰館することができました。

 今回のコースの経過時間は以下のとおり。龍光寺発10時半、仏木寺着11時45分着、歯長峠の送迎庵見送大師着13時50分、歯長峠口着14時40分、道引大師着15時、明石寺着16時15分、歴史文化博物館帰着17時。距離にして約13.6㎞。徒歩所要時間6時間半、万歩計で23,210歩でした(思ったより歩数が少なかった…)。

 遍路道を歩き終えての感想は、モータリゼーションが普及する以前の四国遍路の一端に触れたような心地がしました。自ら歩く視線で遍路道をたどると、そこには江戸時代から現在に至るまで、時代とともに変容されながらも四国遍路の盛行を支えた一要因である、札所と札所を結ぶ遍路道の役割の大きさを認識しました。道中で出合った数多くの遍路道標、それを発願、浄財、寄進、施工した人々のたくさんの名前。弘法大師信仰の地域拠点とされる大師堂、行き倒れて亡くなったお遍路さんを葬った遍路墓などを、目の当たりにすると、お遍路を支えてきた沿道の地域の村々や人々のこころ、接待という善根を積む行為などを通して四国遍路が育まれてきたことを感じました。余談ですが、現代のアスファルト道と違って、自然の中で土の道を歩くことの心地よさを知ったことは大きな収穫でした。

 最後に、今回の遍路道の踏破で一度も迷子にならなかったのは、「へんろみち保存協力会」による遍路道の整備のおかげであり、長時間一緒に同行してくれた同僚のJBOY氏に感謝いたします。

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 2

6月 10日 木曜日

 (2)仏木寺から歯長峠へ

 牛馬の守り本尊として知られる四国八十八ケ所霊場第42番札所の仏木寺。その山門近くには、中務茂兵衛が明治21(1888)年に、100度目の遍路記念に建てた道標があります。この道標は別の場所から移転されたもので手印が削られています。ただし、現在は道標に看板等をくくりつけているため文字が読みづらい。長年、門前で美味しい手作りアイスクリーン作りをされているおじさんに、これまで印象にのこったお遍路についての思い出を聞かせていただきました。実際に「リヤカーで自分の棺桶を運びながら四国遍路をしているお遍路さん」や、「馬に乗って札所を廻っているお遍路さん」もいたそうです。歯長峠道への順路も丁寧に教えていただきました。

 仏木寺を出て、これから越える歯長峠の山なみを見ながら、県道宇和三間線を北進します。へんろみち保存協力会作成による赤い矢印にそって左折、西谷吉田線に入ります。道端には「お遍路道につき徐行ご協力お願いします」と書かれた大きな真新しい看板がありました。近年の歩き遍路ブームを反映しているようにも思いました。しばし道なりに進むと歯長峠の山道入り口に到着。明治36(1903)年に兵庫磯の町(現神戸市)の人が建てた道標がたっています。

仏木寺前から歯長峠を臨む

歯長峠の登り口(三間町側)

 ここからどんどん山道を登っていきます。途中、石畳の山道となります。木立の間からは遠くに宇和海が見えます。やがて県道に合流。ここからはしばし車道を歩くと、右手に標識「四国の道休憩所・歯長峠遍路道 きついのは最初だけ 峠まで20分」があります。階段をのぼると四国の道休憩所があります。ここで昼食をとりました。適度に腹ごしらえして、いよいよ歯長峠を目指して出発。「これより200メートル急登坂」の標識があり、その先はまさしく鎖が張られた急坂の連続。掛け声を入れながら頑張って登りきりました。

 その後は緩やかな尾根道が続きます。付近は岩石が露出し、小石がたくさん散乱しています。道中には、お遍路さん?などの通行人が積み上げたものなのか、謎の石積み塔が数箇所ありました。緑の樹木に覆われたうす暗い山中の道をずっと歩いて行くと、やがて急に視界が開け、広場に出ます。ここが歯長峠の頂です。コンクリート壁のお堂「送迎庵見送大師」がありました。堂内には「文化五(1808年)戊辰 三月廿一日 四国八十八ケ所納経塚 立間村」と刻まれた弘法大師石仏像など石仏群が安置されています。

鎖がはられた歯長峠の急登坂

歯長峠の頂にある送迎庵見送大師

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 1 

6月 9日 水曜日

 愛媛の遍路道を実際に歩いてみました。

 今回のコースは、四国八十八ケ所霊場第41番札所龍光寺(宇和島市三間町)をスタートし、42番仏木寺(同町)を経て、歯長峠(標高約500m)を越えて、43番明石寺(西予市宇和町)を経由して歴史文化博物館に帰館するまでのルートです。徒歩による完全踏破を目標にしました。健脚向きです。

 このルートは、龍光寺から仏木寺までの山越えの道、仏木寺からの歯長峠道など、徒歩によるお遍路さんが通る旧遍路道がのこっており、ゆっくりと歩きながら、沿道にある大師堂、遍路道標、遍路墓などを調査しました。道中は「へんろみち保存協力会」が整備した現代の歩きお遍路さん用の道標(赤い文字やマークによる看板、シール等の標識)が要所要所に設置され、基本的に途中で迷子になることはありませんでした。

 (1)龍光寺から仏木寺へ

 出発地点の龍光寺。江戸時代までは41番札所は稲荷社とされていましたが明治の神仏分離によって龍光寺となりました。地元の人たちには「おいなりさん」と呼ばれています。神仏習合の面影をのこす龍光寺の鳥居をくぐると、周防国(現山口県)出身の中務茂兵衛(なかつかさもへい)が大正5(1916)年に263度目の遍路供養として建てた遍路道標が出迎えてくれました。施主は大阪の人の名前が刻まれています。手の指で方向を示す矢印は「(手印)四十一番い奈り (手印)四十番奥の院」と刻まれ、現在でも道標の機能を果たしています。また、参道の石段には、越智郡出身の徳右衛門が建てた文化5(1808)年の道標があります。こちらは、地元の宮野下に住む夫婦が寄進したことが刻まれています。

参道入り口の中務茂兵衛の遍路道標

参道石段前の徳右衛門の遍路道標

 歩き遍路道は、龍光寺の墓所を過ぎて 山越えの道となります。入り口付近に、文化5年の淡州(淡路島)のお遍路さんとおぼしき遍路墓がありました。山道をしばらく進むと県道宇和三間線に合流。ここからは県道を北上します。県道のガードレールの外側には、明治11(1878)年に、地元の人たちが建てた道標があります。肉厚な浮き彫りの手印とともに「へんろみち 佛木寺へ廿丁 施主邑中」「へんろみち宇和成家村 いなり山へ五丁」と刻まれています。現在、県道に平行して四国横断自動車道が建設中で、遍路道周辺の風景も時代とともに大きく変わろうとしています。

龍光寺から仏木寺への山越えの道

肉厚な浮き彫りの手印

 

松山物産博覧会と松山城古写真

4月 11日 土曜日

 明治11年4月10日~5月29日まで、松山城で物産博覧会が開かれました。松山城は、明治6年に廃城とされましたが、愛媛県の請願により、翌年に公園とすることを認められました。博覧会の様子を当時の新聞記事から紹介しましょう。
 富国強兵、殖産興業をスロ-ガンとする明治政府は、明治10年に東京上野で内国博覧会を開催しました。その後も地方での博覧会開催に力を入れました。松山で開催された物産博覧会は、出品点数約4,200点。4月25日には、西南戦争で政府軍として熊本城を死守した陸軍少将谷干城も立ち寄っています。その後も追加品が加わりました。その一つが名古屋城の金鯱(きんしゃち)です。大分県での博覧会後、愛媛県での展示となったため、開幕には間に合わなかったのです。5月4日に三津浜より金鯱が松山公園に引き揚げられました。松山博覧会社と書かれた幟を先頭に、大きな車に金鯱をのせて牛三頭に引かせました。賑やかな行列だったようです。人出も4月25日980人、26日960人、28日1,310人、5月5日1,753人、6日1,567人、21日2,398人、22日3,138人と、後半の集客が目立ちます。

 こうした博覧会の光の部分とは対照的に、陰の部分もありました。それは「蝦夷人種の生き人形」です。生身のアイヌ人たちを見せ物にしたのです。まさに人間展示です。こうした背景には、植民地主義や人種差別といった様々な問題意識が存在しています。万国博覧会でも1889年のパリ万博から人間展示が始まっています。近年、博覧会をテ-マにした研究が多いのも、博覧会に内包された歴史的課題の存在にあります。


 最後に、明治10年、つまり松山公園物産博覧会の前年に撮影された松山城本丸の写真を紹介しましょう。本資料には裏書きに「明治十年松山ノ写真師桂城思風君撮影セリ 小林守門 印」とあります。イギリスのケンブリッジ大学に、明治16年に松山城本丸を撮影した写真が存在しますが、それをさらに遡る最古級の松山城本丸写真と言えます。開園当初の公園の様子、博覧会前年の公園の様子を知ることができ、近代における松山城の変遷を知る上で、大変貴重な資料です。なお、本資料は現在常設展示しています。

「伊予勝山城」(当館蔵)

「伊予勝山城」(当館蔵)


能島城跡に渡ってきました!

4月 8日 水曜日

 先日、休日を利用して、知り合いの歴史愛好家たちと能島城跡へ上陸を果たしました。


 
  能島城跡


 能島城は、言わずと知れた瀬戸内水軍の雄、能島村上氏の本拠で、今治市沖の大島の東岸宮窪の沖に位置する小島です。しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の伯方・大島大橋からも遠望できる、国史跡の指定を受けた城跡です。
 能島とその南の鯛崎島から構成され、階段状に郭を配した島の周囲を断崖が囲み、島全体が要塞化されています。また、船の係留地となる岩礁には柱穴や犬走りなどの遺構も残っています。


 能島は無人島のため、普段は渡ることができませんが、春のお花見の季節には宮窪港から渡船が出ます。実は、能島は桜の名所としても知られ、毎年大勢の花見客で賑わいます。
 折角の機会、休日の行楽がてら上陸を果たし、花見兼現状確認を行ったというわけです。


 
  主郭部分 


 ちょうど桜も満開の見頃を迎え、天気もよく絶好の花見日和で、大勢の人出がありました。この日は渡船の発着場で水軍太鼓の実演もあり、賑わいをさらに盛り上げていました。
 また、能島の周囲を船でクルージングすることもでき、芸予諸島の潮流の激しさを間近に感じる貴重な体験もできました。
 
 
  潮の流れを目にできる


 能島城跡・能島村上氏に関する資料は、大島本土の宮窪にある村上水軍博物館に展示されており、博物館前からは潮流体験の船も出ています。村上水軍の世界を堪能した一日でした。
 

日本の文様―文様になった生きもの達―(30)兎(うさぎ)

9月 9日 火曜日

(30)兎(うさぎ) -月で餅つき- 

 長らくご紹介してきました、「日本の文様―文様になった生きもの達―」も今回が最終回となります。最後に少し珍しい型紙をご紹介します。

染型紙 兎に菊 個人蔵(砥部町)・当館保管

染型紙 兎に菊 個人蔵(砥部町)・当館保管

 今までの型紙と比べて形が違うことにお気づきでしょうか。
 この型紙は、布を染める型紙ではなく、やきものに絵付けするための型紙です。この型紙を、お椀やお皿などやきものの上にあてて、顔料を刷毛などで塗って色づけます。やきものは立体的なものが多いため、湾曲している型紙もあります。同じ柄のやきものを大量生産するために、型紙などを用いて絵付けしたものを「印判手」(いんばんて)と呼びます。白地に青い色が美しいやきものです。
 月に兎が住んでいるという伝説は中国が発祥の地です。不老不死の霊薬を臼でついている兎が、日本に伝わって餅をつく姿となりました。
 菊などの秋の草花と取り合わせた文様は、月からの連想によるものです。

日本の文様―文様になった生きもの達―(29)牡丹(ぼたん)

9月 7日 日曜日

(29)牡丹 -百花の王-

染型紙 唐獅子牡丹 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

染型紙 唐獅子牡丹 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

 牡丹は中国を原産とし、その花弁が豪華なことから「百花の王」と称されます。日本では、花の栽培が進んだ江戸時代から人気の文様となり、愛されました。「百獣の王」である獅子と組み合わされ、富貴の象徴とされることも多く見られます。

 この型紙では、豪奢な花びらを誇る牡丹に対して、円形にデフォルメされた獅子の姿は勇壮というよりも、愛らしさを感じさせます。

 唐獅子牡丹の背景は、「紗綾」といいます。卍文様を崩したこの文様は、地文様としてよく使われています。

日本の文様―文様になった生きもの達―(28)獅子(しし)

9月 6日 土曜日

(28)獅子-百獣の王-

染型紙 獅子 個人蔵 (西宇和郡伊方町)

染型紙 獅子 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 ライオンは、その勇壮さから世界各地で聖獣とされ、太陽の象徴ともされます。中国を経て日本へ伝えられたライオンの姿は、次第に空想化され極端にデザイン化を経ます。ライオンを知らない日本人は、架空の聖獣「獅子」として文様に取り入れました。

 百獣の王である獅子は、百花の王である牡丹が好物であるとも言われ、力と美の豪華な組み合わせとして大変好まれています。

日本の文様―文様になった生きもの達―(27)雀

8月 28日 木曜日

(27)雀(すずめ) -豊作の願い- 

染型紙 雀 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 雀 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 雀は群れる様子から一族繁栄、その繁殖力から穀物の豊作の意味を表わします。また中国では「雀」と「爵」が同じ発音であるところから、多くの雀が群生する様子を爵位のある人(高級官吏)が集う様子を連想させ好まれました。
 型紙では、竹の輪をくぐり抜けるかのように、飛び回る雀が愛らしい文様となっています。

日本の文様―文様になった生きもの達―(26)鯉

8月 27日 水曜日

(26)鯉(こい) -滝をのぼって龍へ-

鯉

 中国において、鯉は急流を昇りやがて龍になるという伝説があり、日本でも「鯉の滝昇り」は吉祥文様とされています。

染型紙 鯉 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 鯉 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 この型紙では、流れに逆らって泳ぐ勇壮な出世魚を、ダイナミックな水の流れと共にデザイン化した、躍動感あふれる文様となっています。

 こちらの型紙には糸入れの技法が見られます。

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