‘資料調査日記’ カテゴリーのアーカイブ

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」30 「災害」・「わざわい」の語源

4月 13日 木曜日

現代では「災害」とは、災害対策基本法(第2条第1項)によると「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。」と定義づけられています。

日本における「災害」の文字の初見は、『日本書紀』崇神天皇7年2月辛卯条であり、「今、朕が世に当りて、数、災害有らむことを。恐るらくは、朝(みかど)に善政無くして、咎を神祇に取らむや」とあり、『同』崇神5年条に「国内多疾疫、民有死亡者」とあるように、ここでの「災害」は疾疫により多くの者が亡くなった状況を意味しています(註1)。「災害」は、『万葉集』巻五にも「朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして世を度(わた)ることを得」(山上憶良)とあるように(註2)、奈良時代以前には既に用いられていた熟語でした。平安時代にも『権記』長徳4(998)年9月1日条に、春から「災害連々」とあったり(註3)、『平家物語』巻一に「霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり」とあるなど(註4)、古典の中でも用例は数多く見られます。

なお、「災」の漢字の成り立ちは、下に火事の「火」と、上に「川」が塞がり、あふれる様子を表した象形文字であり(註5)、もとは洪水といった自然災害や火災を強く意味するものであったようです。

さて、次に「災」の訓である「わざわい」の語源を考えてみたいと思います。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「わざ」とは神のしわざの意であり、「わい」は「さきわい(幸)」などの「わい」と同源とされます。悪い結果をもたらす神の仕業という意味なのです。「天災」、「災難」、「災厄」などと使われるように、必ずしも地震、洪水などの自然災害に限定されるものではなく、身にふりかかる凶事や不幸なども含まれています。平安時代の『宇津保物語』俊蔭に「さいはひあらば、そのさいはひ極めむ時、わざはひ極まる身ならば、そのわざはひかぎりなりて命極まり」とあるように(註6)、「わざわい(災)」の対義語が「さいわい(幸)」とされています。同様の事例は『源平盛衰記』には「災(ワザワイ)は幸(サイハイ)と云事は加様の事にや」などでも見られます(註7)。現代のことわざでは「わざわい転じて福となす」というように「わざわい」の対義語を「福」と見なすこともありますが、室町時代成立とされる『日蓮遺文』経王殿御返事に「経王御前にはわざわひも転じて幸ちなるべし」とあるなど(註8)、古くは「幸」が対義語であったようです。

ちなみに「防災」という言葉は明治時代以前には確認できない比較的新しいものです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったとされる寺田寅彦が命名したともいわれますが、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』の書名になった「防災」は寺田寅彦が命名したのは事実のようです。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行が「防災」を一般名称化したとされています(註9)。

【註記】
1 今津勝紀氏「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(『時空間情報科学を利用した古代災害史の研究』)、日本古典文学大系『日本書紀上』
2 日本古典文学大系『万葉集二』
3 『日本国語大辞典』
4 日本古典文学大系『平家物語上』
5 『大漢和辞典』巻七
6 日本古典文学大系『宇津保物語一』
7 『日本国語大辞典』
8 『日本国語大辞典』
9 小林惟司氏『寺田寅彦と地震予知』(東京図書)

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」29 宝永南海地震・津波と宇和島②―被害の状況―

4月 10日 月曜日

宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震では、前項で紹介したように現在の宇和島市街地、特に枡形町、新町、佐伯町、元結掛などが2m以上の津波に襲われています。津波の到達地点については、宇和島藩伊達家史料『記録書抜』に「汐、数馬屋敷前迄道ヘハ上ル、堀之内御材木蔵前迄上ル」とあり、志後野迫希世氏によると、数馬とは藩の家老職を務めた桜田数馬のことであり、その屋敷は現在の市立宇和島病院付近とのことで、御材木蔵は宇和島城の南西側にあり、現在の宇和島東高校の向かい側付近にありました。つまり宝永南海地震では、市立宇和島病院、宇和島東高校付近まで津波が到達していたのです。逆に、市街地でも城の南東側にあたる掘端町、広小路、本町追手、愛宕町、宇和津町など、市街地でも標高の比較的高い場所には津波は来ていません。

さて、宝永南海地震での宇和島藩領内(南予地方)の被害についても伊達家の史料からわかっています。『記録書抜』には「一、地震ニ付、御城内所々御破損、夫々委記。田五百三町二反一畝歩高ニ〆七千二百七十三石ノ損、家其外数々破損流出、死人八人、半死人廿四人、沖ノ島死人二人、御城下家々破損、死人二人」とあります。死者は城下以外の領内で8名、沖の島(現高知県宿毛市)で2名、宇和島城下で2名の合計12名が犠牲となっています。宇和島藩が『記録書抜』を編纂する際に用いた公用記『大控』(『新収日本地震史料』掲載)にはさらに詳細が記されています。犠牲者は「潰ニ打れ或は高汐ニ溺死」とあり、家屋の倒壊や津波で流されたことが死因となっています。城下での2名の犠牲者は、一人が樺崎の男性、もう一人が町方の女性で、ともに津波に流されて亡くなっています。

『記録書抜』に合計で田503町2反1畝歩、高7,273石の損害とあり、大まかには5平方キロメートル以上の田んぼが被害を受け、宇和島藩10万石のうち、約7%の石高が被害を受けたことになります。

『大控』にはさらに細かく被害が記録されています。津波によって流出したのは、米が約102石、籾(モミ)約262石、大豆約20石、小豆1斗、胡麻3石、粟(アワ)20石、大麦約150石、黍(キビ)約66石、稈(ワラ)約111石、塩1480俵、干鰯500俵などとなっており、また津波で濡れて水損したのが、米約251石、籾76石、大豆約5石、小豆6斗となっています。1石とは容積約180リットルに相当するとして7,273石は約1300立方メートルとなります。これだけの農産物、海産物被害が特に南予海岸部で出ていたのです。
また、建物被害では、『大控』には宇和島藩内で「高汐ニ流」とされる家屋は257軒、小屋が50軒あり、合計で300軒以上が津波で流出しています。また、地震の揺れによる倒壊は家屋が71軒、半壊が506軒、火災による焼失が2軒、小屋が全壊8軒、半壊60軒とあり、合計で650軒近くが全半壊しています。その他にも、「震崩」つまり地震の揺れで崩壊した川の土手や石垣は4,596間(約8km)あり、津波によって破損した新田の土手、石垣は3,219間(約6km)などと記され、南予地方各地の河川や海岸部に開発された新田に大きな被害があったことがわかります。

このように宇和島藩には宝永南海地震に関する史料が充実しています。他の藩では被害が小さかったのではなく、現在に残る史料が少ないため実証できていないのです。宇和島藩の被災記録は、愛媛県内のみならず、豊後水道対岸の大分県、宮崎県においても災害の規模を考える上で一つの指標となるといえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」28 宝永南海地震・津波と宇和島―集中する文教施設―

4月 7日 金曜日

宇和島市における江戸時代の宝永南海地震の歴史については志後野迫希世氏「近世における宇和島の大地震発生後の様子について―宇和島伊達家の宝永と安政の記録から―」(『よど』15号、2014年)で既に詳細が明らかにされています。ここでは志後野迫論文を参考にしながら、宇和島での具体的な被害を紹介します。

宇和島藩伊達家史料である『記録書抜』によると、宝永4(1707)年10月4日に「未之刻大地震、両殿様、早速御立退、鈴木仲右衛門宅江被為入、御隠居様ハ帯刀宅ニ御一宿、地震度々小地震有之」と書かれています。つまり、当時の藩主・伊達宗贇はすぐに城の南東側(海岸とは反対側で、城下でも標高が比較的高い場所)にある家老職の鈴木仲右衛門宅に避難し、御隠居の伊達宗利は同じく家老職の神尾帯刀宅(城の南東側、現在の丸の内和霊神社付近)に避難していたことがわかります。

注目すべきは『記録書抜』のそのあとの記述です。「大震之後高汐ニ而浜御屋敷汐込ニ相成、升形辺、新町、元結木(ママ)ゟ(より)持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上ヘ四五尺、所ニより其余も汐上り」と書かれており、地震の後に「高汐」つまり津波が襲来したことが記録されているのです。「浜御屋敷」(いわゆる浜御殿。城の南側、佐伯町との間に造成された藩主の居館。現在の天赦園、伊達博物館付近)は津波で海水が入り込み、升形辺(枡形町、現在の宇和島東高校北側)あたりや、新町(城の北東側。現在の新町1、2丁目の商店街区域)や、佐伯町、持筒町(城の南側、現在の佐伯町1、2丁目)から元結掛(城下町の南側。神田川の左岸)にかけては、津波による浸水が「夥(おびただしく)」と酷かったようで、具体的に、津波は床の上から4~5尺(約120~150cm)と記され、津波高は約2mと推定することができ、場所によってはそれ以上であったことがこの記録からわかります。

この枡形町、佐伯町、元結掛は古くからの町ですが、それよりも海側は、後の時代に新田開発により土地が造成されるなどして、現在は文教地区となっており、鶴島小学校、明倫小学校、城南中学校、城東中学校、宇和島南中等教育学校、宇和島水産高校、宇和島東高校(7校で児童・生徒計3415名、教職員387名。平成28年度時点)が建っています。これらの学校の位置する場所では、宝永南海地震(南海トラフを震源とするマグニチュード8.6)規模の地震による津波が到達する場合は、2m以上の津波に襲われる可能性は高いといえます(宇和島市発行の防災マップによれば、想定津波高は4m以上となっています)。学校における防災の観点で、この地域が歴史上、津波襲来地だという災害の特徴(災害特性)を充分に理解し、児童、生徒の避難計画の策定や避難訓練を平時から行っておく必要があるといえるでしょう。

『記録書抜』には「尤椛崎辺大破、橋も落、町家中所々山際ニ野宿仕候事」ともあり、参勤交代の際の港のあった樺崎(現在の住吉公園、歴史民俗資料館あたり)は破壊され、地震の揺れもしくは津波の遡上によって川の橋が落ちたと書かれています。そこに近く、海岸や河川に面している住吉小学校、城北中学校についても津波被害の可能性が高いと言えます。このように宇和島市街地では海辺部に学校が集中し、旧市内では九島、三浦、結出、遊子、蒋淵、戸島、日振島小も同様に、南海トラフ巨大地震の際には、一般住民はもちろんのこと、いかに学校の児童、生徒を安全に避難させるのか、大きな課題になってくると言えます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」27 内陸部の地震被害―大洲地方の場合―

4月 4日 火曜日

嘉永7年(安政元年、1854)の安政南海地震では、現在の愛媛県内各地で地震による家屋倒壊、津波襲来など大きな被害が出ていますが、これまで愛媛の地震の歴史は海岸部の被害が大きく取り上げられる傾向があり、内陸部での被害は紹介されることが少ない状況でした。これは単に被害がなかったのが理由ではなく、津波襲来など象徴的な被害が海岸部に多かったことによるもので、内陸部においても地震被害の史料は数多く残されています。

その一例として大洲地方を取り上げてみます。大洲における安政南海地震を詳細に記録した史料に大西藤太『大地震荒増記(おおじしんあらましき)』があります。これは既に東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』に紹介され、『大洲市誌』にも一部引用されているものです。「嘉永七ツとし中冬初めの五日、申の刻とおぼへし頃、一統夕まゝの拵へ、あるいハ食するもありし最中大地震、一統時のこゑをあげたからハいふもさらなり、家蔵もすて置、老たるものの手を引、子供あるいハやもふものをひんだかゑ、ひよろつきながら一文字ニ広き場所へとこゝろざし、前代未聞の事共なり」とあり、夕ご飯の支度をしたり食べていたりしていた時に大きな地震があり、あわてて家から逃げ、老人の手を引き、子どもや病人を引き抱えながら、足元が定まらない様子で広い場所に避難したというのです。「ひんだかゑ(引き抱え)」とか「ひよろつきながら」、「一文字に」という表現は、住民がいかに地震の最中に混乱し、慌てていたかを物語っています。

また、「一御城内御かこい数所痛、一御家中其外屋敷かこい門並に長屋大痛み、一片原町辺大荒、一町内余程大荒、弐丁目横丁ニテ弐軒づれる、一舛形辺大荒、一東御門御やぐら下石垣ぬけ大痛(中略)一鉄砲町辺中いたみ(中略)一中村大荒八九軒余も長屋共ツブレル(中略)一内ノ子辺格別之儀大ゆり」ともあります。つまり、大洲城や家臣の屋敷の囲い塀や門が被害を受け、城門・櫓を支える石垣が崩落したり、町方では、片原町、枡形町、鉄砲町はじめ町内(本町、中町、裏町など)も「大荒」と家屋の被害が大きかったようです。肱川をはさんだ中村では8、9軒が倒壊しており、大洲城下町での被害の大きさがこの史料からわかるのです。

なお、この『荒増記』には「一郡中誠に大荒家数多くづれる少し焼失、死人十人余、(中略)一宇和島大荒津浪打、一吉田大荒人家数多ツフレル津浪」とあり、現在の伊予市や宇和島市において家屋の倒壊が多く死者が出ていることや、南予沿岸部で津波が襲来したことなども記されています。また、『荒増記』以外には『洲城要集』十七(伊予史談会蔵)など大洲における安政南海地震の様子が記された史料があり、特に『洲城要集』には11月4日の前震(東海地震)、5日の本震(南海地震)発生から10日までの余震発生時刻や規模が記録され、翌年3月までは余震活動が活発だったとも記されています。

なお、大洲地方では、安政南海地震の次の昭和21年の昭和南海地震の際には、家屋倒壊が4棟、町の多くの家や塀の壁が落ちたり、煙突が20本、被害を受けたことが『愛媛新聞』昭和21年12月22日付に記載されており、歴代の南海地震の発生時に、家屋倒壊などの被害が出ていることがこれらの史料からわかります。このように、愛媛県内の内陸部においても家屋倒壊など様々な被害が見られるのです。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」26 洪水伝説―流されるご神体・埋められる人柱―

4月 1日 土曜日

愛媛県内各地に残る伝説の中にも、洪水、治水に関わる伝承は数多く見られます。その中でも神社のご神体が流されたり、流れてきた事例や、洪水対策として人柱が埋められたりした事例を紹介します。

松山市八反地(旧北条市)の国津比古命神社では、ご神体が洪水のために、大浜の沖合まで流されて海中に沈んでしまいました。その夜にある者が夢を見ます。「自分は国津の神であるが、今、大浜の沖合に流され、海底に沈んでいる。その海上に瓢箪があって、鵜の鳥が止まっている。明日の朝、沖合に舟をこぎ出して引き上げよ」という内容でした。これはご神託だと思い、翌朝、舟に網を乗せて沖合に出ました。すると夢のとおり瓢箪の上に鵜が止まっていた。網を投げ入れ、引き上げようとするも重くて上がりません。困り果てて近くの釣り船に協力してもらい、何とか引き上げ、神社に戻すことができました。この釣り船に乗っていたのが猪木地区の者であり、この時から子孫代々、祭りの際には神輿のお供をすることになりました。現在でも秋祭「風早火事祭り」では猪木地区の者が神輿のお供として鬼面をつけた「大魔(ダイバ)」として祭りに参加しています。その大浜は御旅所となり、「御神霊上昇の地」と刻まれた石碑も建てられています(註:『祭都風早ガイドブック』65頁)。この北条の立岩川は普段は流水が少ないのですが、豪雨となると暴れ川に豹変します。洪水も頻繁に発生し、また治水対策のため流路の変更工事も行われてきたところです。

また、神社のご神体が河川の洪水によって上流から流されてきたという伝承は、県下では重信川流域に多くみられます。例えば、県内の伝説を紹介した『予陽旧跡俗談』には、松前町西高柳の稲荷神社について「流宮五社大明神(中略)いつの頃にや洪水出て此宮下に流るを、正保四(1647)年本所に勧請してより流れ宮と号す」と記されています。現在でも松前町内では稲荷神社のことを「流れ宮」と呼んでいます。これも重信川の洪水に関わる伝説といえるでしょう。

洪水、治水のために人柱を埋めた伝説も県内各地にあります。有名なのは、大洲城の人柱伝説です。宇都宮氏が大洲に城を築いた際、川に面する高石垣が積んでも何度もすぐに崩れてしまうので、「これは神様の祟りに違いない」と言うようになり、神の怒りを鎮めるため高石垣の下に人柱を立てることになりました。くじ引きで人柱になる者を決めることにしましたが、このくじに当たったのが「おひじ」という娘でした。「おひじ」は「この城下を流れる川に、どうか、私の名をつけてください」と言い残して人柱になりました。そして出来上がった高石垣は二度と崩れることはなくなり、城も完成させることができたといいます。人々は「おひじ」の願いどおり、城名を「比地城」、川に比地川(今の肱川)という名をつけ、彼女の魂を慰めたといわれています。洪水、治水に関わる人柱伝説については他にも、西予市東多田の関地池や、伊予市双海町久保の「ホウトウさん」など県内各地にあります。これらのご神体流れや人柱伝説は、災害の「言い伝え」として今の地域の人々や、後世に警鐘を鳴らすものといえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」25 「文化財」となった砂防堰堤―土砂災害を防ぐ―

3月 30日 木曜日

愛媛県は県土の約70%を森林が占めていますが、特に平野部の都市である四国中央市、新居浜市、西条市、今治市、松山市、宇和島市等、ともに背後には急峻な山地、森林がそびえており、大雨が降ると、平野部の河川に急に大水が流れ込み、山が崩れて土砂災害が起きやすい地形となっています。こうした土砂災害から住民の命や財産を守るための対策の一つとして「砂防」の事業が行われています。

その中でも「砂防堰堤」(さぼうえんてい)は、土砂災害による被害を防ぐために作られる施設であり、県内各地の河川や渓流に数多く見られます。「砂防ダム」とも言われ、一般のダムとは異なり、その機能は土砂災害防止に特化しているものです。砂防堰堤は、山中にあることが多いため、人目に触れることが少なく、一般に注目されにくいものです。ところが、重信川には、国登録文化財となっている全国的にも著名な砂防堰堤があります。

それが東温市山之内大畑乙にある「除ケの堰堤(よけのえんてい)」で、重信川上流域にある石及びコンクリート造の砂防堰堤です。一級河川の重信川は、東三方ケ森(標高1232m)を水源として、東温市から松山市西垣生の河口まで、多くの支流を合わせながら道後平野を流れています。典型的な伏流水河川であるため、普段、表面上は水流が少ないように見えますが、ひとたび大雨となると地下から水があふれ出て流れる「暴れ川」となります。しかも、河川の流量規模の割に、源流から河口までの距離が短いため、勾配が非常にきつく、危険度の高い「急流河川」でもあります。河水の流れが急であるだけではなく、山地から、水と共に土砂も削られながら川に流入しやすく、河川が荒廃しやすい環境といえるのです。
こういった状況の中で作られた「除ケの堰堤」の近くに、砂防堰堤築造記念碑(昭和10年5月25日建立)が建立され、以下のような内容が刻まれています。

「重信川は水源地が荒廃しており、出水の度に被害が大きく、降雨のたびに流れる土砂で河床が高くなり、地元ではこの対策に悩んでいたが、昭和7年、国庫助成を得て山之内字除に砂防堰堤を築造することになった。工事にあたったのは延約15万人で、就労者は北吉井、南吉井、川上、拝志、三内の5ヶ村から一日千人に及んだこともあった。これが完成し、重信川上流の被害を防ぎ、重信川治水工事の根本計画を樹立することができた。」

このように、重信川は上流の荒廃地から土砂が流出し、下流では河床が上昇して、可能な流水量が減少してしまい、昔から氾濫を繰り返してきました。そのため江戸時代以降、河床を掘り下げる「瀬掘り」が行われていたものの、重信川上流、中流も含めた全流域では、面積が広すぎて人的、経済的な理由で実施は困難でした。度重なる洪水、水害、土砂災害のため、流域の住民にとっては砂防事業の着手は悲願だったのです。

そして重信川上流域に「除ケの堰堤」が昭和10年に完成し、堤長115mの主堰堤の下流側に堤長92mの副堰堤が築かれました。瀬戸内海の島石(花崗岩)を1万7千個余り、伝統的な石積工法で施工し、歴史的な土木構造物として高く評価されるとともに、現在の保存状況も良好であることから、将来に引き継ぐべき土木遺産として、平成13年に国文化財に登録されています。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」24 旧松山藩士族と福島県開拓移住地(2)

3月 27日 月曜日

郡山市教育委員会の文化財担当者から郡山市指定文化財となっている旧小山家住宅や県指定文化財の開成館の被災状況と今後の復旧の予定等をうかがうことができました。旧小山家住宅は、愛媛県松山市から郡山市牛庭地区への移住者が明治時代に建てた住宅であり、移住開拓のシンボルとして郡山市中心地の開成館(現在、郡役所の前身である区会所や安積開拓官舎など郡山開拓に関する歴史的建造物を保存公開する施設となっている)の敷地内に移築、保存されている建造物です。この旧小山家住宅については犬伏武彦氏『民家と人間の物語—愛媛・古建築の魅力—』(愛媛新聞社、2003年刊)に詳細に紹介されています。現在、開成館はやはり地震被害のため閉館した状態でした。ただ、旧小山家住宅を含め建築士による診断を行い修繕の計画を既に立てており、平成24年度内には再オープンする予定で修繕費を予算化しているとのことでした。

この開拓移住者の住居であった旧小山家住宅は犬伏氏が言うには「日本一貧しい住宅」であり、実見すると梁が細く構造的に弱い建築のようにも思えましたが、震災の震度6弱の揺れでは倒壊することはありませんでした。

土壁に多くのヒビが入ったり、濡れ縁の土台と柱がずれたり、障子紙が揺れによって破れたりという被害がありましたが、他の建築物に比べると修繕で対応できる小規模被害であったとのことです。旧小山家住宅については平成24年夏に修繕を完了しています。

教育委員会にうかがった後、松山の方々が実際に移住した郡山市南部の牛庭地区に足を運びました。そこでは牛庭区長、副区長に出迎えていただき、いろいろなお話を聞く事ができました。今でも松山からの開拓移住者のご子孫も多く、それには驚かされました。実は災前の平成22年10月27日には全国の中核市サミットが郡山市で行われ、そこに副市長をはじめ松山市職員5名が出席したこともあり、安積公民館牛庭分館において「松山副市長を囲む会」が行われていました。この主催は「牛庭区松山藩入植者子孫」であり、地元に住む入植者家族18名が出席したということです。現在でも松山市との交流が行われていることを現地にうかがって知った次第です。

そして牛庭には松山からの移住者による開拓記念碑なども建てられており、松山との交流の深さを実感しました。明治時代の安積開拓は明治政府による安積疏水事業によって始まりますが、その安積疏水(現在は4月26日から9月10日に水が流れるようになっている)のちょうど真上に松山関係の記念碑が建てられていました(写真参照。奥に向かっているのが安積疏水)。水路の上に記念碑というちょっと珍しい建て方には少し驚かされましたが、それだけ象徴的な記念碑として扱われているのです。そして地元の氏神である三島神社を訪問しました。伊予大三島の大山祇神社と繋がりがあるとのことで、社号の扁額は現在の愛媛大山祇神社の宮司が書いたものでした。この三島神社は、社殿自体の被害はなかったのですが、鳥居がもろくも倒壊していました。倒れたというよりも固定していた基礎を残して折れた状態です。これについては災後十ヶ月を経過しても全く復旧できていませんでした。修理、新調の計画も立っていないということです。そして旧小山家住宅がもともと建っていた場所も教えてもらい、いろいろ牛庭を散策してみました。地区内は被災した住宅、建て直している住宅、いろいろ地震の爪痕が見受けられ、各個々人の生活復旧が進んでいるものの地域共有の神社等の復旧は今後の予定だという状況でした。このように地元の教育委員会、公民館、区長、副区長、そしてゼミの友人にいろいろお世話になりながらの現地確認となりました。

以上、松山と繋がりのある福島県郡山市の史跡の現況はこれまで愛媛県内でも充分に知られていないこともあり、旧小山家住宅、牛庭地区、三島神社等を紹介した次第です。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」23 旧松山藩士族と福島県開拓移住地(1)

3月 26日 日曜日

平成23年3月11日に発生した東日本大震災。被災した東北地方には愛媛県と歴史的、文化的に繋がりのある地域が多くあります。例えば岩手県北上市の聖塚。伊予出身の一遍上人の祖父河野通信の墓所とされている史跡です。そして宮城県仙台市をはじめ東北各地に見られる郷土芸能の鹿踊り。江戸時代初期に仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が宇和島藩に入部した縁により南予地方各地に東北由来の鹿踊が伝播しています。また、同じく伊達家入部の関係で仙台領の名取郷(現在の名取市付近)の軍夫が宇和海の海上警護のために伊方町名取地区に移住したという伝承があります。

そのような歴史的繋がりのある地域の一つに福島県郡山市があります。筆者は東日本大震災後の状況を確認するため、平成24年1月27日に福島県郡山市に足を運んでみました。明治時代に愛媛県松山から安積原野の開拓のため移住、定住した旧松山藩士族の旧跡を見てまわるためでした。福島県安積原野の開拓は明治時代の士族授産事業として行われ、現在の郡山地方の発展の基礎を築いたといわれています。江戸時代には水利の便に乏しかったのですが、明治政府の直営事業として明治15年に安積疏水が完成し、この地の開拓事業に禄を失った士族が全国から入植したのです。鳥取、高知、久留米など西日本からの移住が多く、旧松山藩士族は15戸49名が明治15から17年にかけて移住しています。この経緯については高須賀康生氏「松山藩士族の安積開拓移住について(上)(下)」(『伊予史談』246、247号、1982年)に詳しく紹介されています。

郡山市に隣接する須賀川市には筆者の大学時代のゼミの同級生で日本史教員をしている友人がいるので、彼と久方ぶりに対面しました。車を出してもらって、郡山各地を見学しました。友人からは地震当日のこと、直後の断水やガソリン等の物資不足、自宅の被災状況や県外への避難、そして福島第一原子力発電所事故による放射線の影響や現状などいろいろ話を聞きながら、郡山市内を巡りました。

まずうかがったのが郡山市役所です。本庁舎は地震で甚大な被害のため使用不可となっていました。各課が分庁舎や市内の別の建物に移っての業務を行わなければいけません。人口33万の大都市の本庁舎が使えないという現実を目の当たりにしました。教育委員会の文化財担当者に挨拶するため、教育委員会が移転している音楽文化交流館に行ったのですが、狭い部屋にすし詰め状態で並べられた仮設長机での業務環境でした。職員の皆さんが慌ただしく執務する様子。その部屋の雰囲気に震災から十ヶ月経ってもいまだ深刻な状況である事を改めて実感させられました。また、音楽文化交流館内では市民向けに、放射線の空間線量を計測するサーベイメータ、積算線量計の貸し出しの窓口が設置されていて、幼い子どもをもつ保護者たちが数多く並んでいるのも印象的でした。(続く)

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」22 時代とともに変わる火災の原因

3月 24日 金曜日

人間の生活には「火」は不可欠ですが、動物の中でも「火」を扱う技術を習得しているのは人間だけです。サルは「火」を意図的につけたり消したりすることはできません。ヒトは「火」への怖れを抱きつつ、それを制御し、使用する技を身につけたことで、サルから進化を遂げたといえるかもしれません。それでも人間は完全には「火」を制御できてはいません。人類史上、変わることなく火災は発生し、「火の恐怖」を感じ、接してきました。

日本の場合、古くから家屋は木造建築が主であったため、火災リスクとは常に隣り合わせでした。平安時代中期の平安京を始めとする都市部では、貴族や庶民の間で穢(けがれ)意識が高まりますが、死の穢、血の穢などの他に「失火穢」というものもありました。日本の文化の中で社会秩序を乱し、破壊させるものとして「失火」は忌み嫌われていたのです。

「火」は怖れられるだけの存在ではありません。人間は「火」から光と熱という大きな恩恵を得てきました。行灯、提灯、ランプなど灯下具や、火鉢、こたつなどの暖房具を使い、明るさと暖かさを得る事ができたのです。しかし、これらの道具が火災の原因になってきたのも事実です。

愛媛県における火災の原因を見てみると、明治時代には、かまどの火の不始末がトップで、たき火や灰類、灯火、タバコの不始末の順となっています。失火については大正時代には火災原因の88%(年300件程度)を占めていましたが、昭和に入ると年100件程度と減少します。これは電灯の普及、かまどの改良、茅葺き屋根の減少などとともに、国民教育での防火思想や、近代的な防火設備の充実なども要因として挙げられます。

戦後の愛媛では、昭和20年代、火災発生件数は年2〜400件だったのですが、昭和30年代には年5〜600件、40年代、50年代には年7〜800件と増加傾向にありました。昭和53年をピークに徐々に減少し、平成に入ると年4〜500件程度となっています。

火災の原因も昭和20年代まではかまど、漏電が多かったのですが、これらは30年代には姿を消し、たばこと火遊びを原因とする火災が増えました。昭和40年以降でもたばこ、たき火、火遊びが常にワーストスリーとなっています。平成に入っても、こんろ、たばこ、たき火が原因の上位となっています。

このように「火」を扱う技術は人類史上、継承されてきたといいつつも、タバコ、火遊びが主原因になる時代も経て、現在では、例えばオール電化住宅など、そもそも身近な生活では「火」を使う必要のない生活スタイルにも浸透しつつあります。大げさな表現になりますが、火を使わない、火を扱うことができないということは、「サルからヒトへの進化」と逆の現象が起こっているといえなくもありません。人間が人間たりうるには「火」を制御する技術を身体化しておく。これは火災予防の観点からも重要なことだと思われます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」21 宝永南海地震−松山市堀江町の記録−

3月 22日 水曜日

 『松山市史料集』に「元禄・宝永・正徳・享保年代堀江村記録」という史料が所収されおり、宝永4(1707)年の南海地震による松山付近の被害などが記されているので紹介します。
 「十月四日未刻ゟ大地震ゆり出し同申刻迄大地震」とあり、10月4日の未刻(午後2時頃)から申刻(午後4時頃)まで大きな揺れがあったことがわかります。「大地震」が約2時間続いたというのは本震の前後に大きな余震が集中していたことを物語ります。そして史料には発生当日の10月4日から7日までは、一日に8、9回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごし、発生三日後の10月7日から14日までは、一日に3、4回の余震が続き、その後は翌年正月(本震から約2ヶ月後)まで、二、三日に1度は余震があったと書かれています。この史料から、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになります。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村(現松山市)で感じた揺れであり、当然、伊予国(愛媛県)全体でも同様の状況であったと推察できます。

また、堀江村周辺はじめ松山地方の被害状況についても書かれています。まず安城寺村では瓦葺の長屋が倒壊したものの、それ以外は大きな被害はなかったとあり、堀江周辺では建物の倒壊は少なかったようです。しかし、10月4日の本震によって、「道後之湯之泉留リ申候」とあるように道後温泉の湧出が止まったと記され、松山藩主は地震からの復旧を祈願して、藩領内の七つの寺社、つまり道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺、大三嶋明神(大山祇神社)にて祈祷を行わせています。

さて、この史料には津波被害の記述も見られます。ただし松山に襲来した津波ではなく、堀江村から九州方面に出漁していた漁民が経験し、伝聞した情報です。「大地震之時、豊後国佐伯鰯網之日用働ニ堀江村ゟ三拾人余参候処ニ、佐伯ニ而地震止、半刻程過申と常々ゟ汐干申候而其まゝ四海波汐之高サ四拾間余茂みち上リ其引汐ニ佐伯浦之家々沖ヘ不残引取申候、老女子共餘多死申候由、同十四日ニ漸命からがら仕合ニ而当村帰帆仕候」とあり、地震の際、堀江村の漁民30人余が豊後国佐伯領(現在の大分県佐伯市)のイワシ網の日傭稼ぎに出稼中で、佐伯湾外で操業していましたが、地震直後に湾を襲った津波で、佐伯の家々が沖に流され、数多くの死者が出ました。そして堀江村の漁民は地震発生の10日後の14日に、命からがら逃げ帰ったことがわかります。また大坂(現大阪府)では船の被害は815艘に及び、死者は1万2500人余であったと伝わっているとも記され、瀬戸内海各地でも被害が見られ、甘崎城(現今治市上浦町)などが被害を受けたほか、家屋倒壊による死者もいました。史料には、今後は家屋の被害があっても速やかに高所に避難することが教訓として書かれています。

以上、この「堀江村記録」は、宝永南海地震当日の様子のみならず、余震の状況、道後温泉の湧出が止まったこと、大坂、瀬戸内海各地、豊後水道特に佐伯地方での津波被害を伝える貴重な地震史料といえます。

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