Archive for the ‘資料調査日記’ Category

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉓―四国遍路の楽しみ・道後温泉―

2024年3月15日

 日本三古湯の一つといわれる道後温泉は、四国を代表する人気スポットとして知られています。四国霊場を巡拝する遍路にとっても、道中の休息や観光のため、道後温泉に入湯することは大きな楽しみでした。

 今回は道後温泉について、「四国遍路道中図」と案内記、そして絵葉書から紹介します。

 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真①)には、地図中に「道後で滞在してゆるゆる入湯するがよろしい」と記載されています(写真②)。昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)には、第51番石手寺と第52番太山寺を結ぶ遍路道(順拝指道)上にひと際目立つように「道後温泉」と記され、温泉のマーク♨入りとなっています(写真③)。

写真① 大正6年(1917)「四国遍路道中図」(駸々堂版)当館蔵
写真② 道後温泉周辺(部分拡大)
写真③ 道後温泉周辺(部分拡大) 昭和13年(1938) 「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵 

 ちなみに昭和15年(1940)の「四国遍路道中図」(徳島県坂東町小林商店版)など、昭和時代に四国各地で発行された「四国遍路道中図」には、道後温泉は他所の名所と同じように表記され、温泉マークはなく、地図上で強調されていません。渡部高太郎版で道後温泉が目立つように記載されているのは、広告主の渡部高太郎と発行・印刷所の関印刷所がともに愛媛にゆかりがあるため、郷土の宣伝を意図しているものと推察されます。

 次に、近代の四国遍路案内記で道後温泉がどのように紹介されているのか、見てみましょう。

 昭和6年(1931)の安田寛明著『四国遍路のすすめ』には、「四国の道中でも、最も楽しみとするのは道後の温泉です。ゆるゆる入湯して今までの長い旅の疲れを休めなさるよう、(中略)道後温泉に秤量台(計り台)があります。一度試しに体重を計って御覧なさい。亦出立前に縮んでおった度胸と道後温泉場まで来た度胸もついでに計って見るもよかろう。モウ道後まで来た度胸というものは、少しも心配なんか思わない大磐石となって居る筈です」と記されています。

 安田は道後温泉への入湯は四国路の最大の楽しみであるとしています。とてもユニークなのは、道後温泉の秤量台を例にして、遍路の度胸を測ることをすすめています。四国遍路で徳島の一番札所から順番に巡拝した場合、道後温泉に到着する頃には、すでに半分以上の札所をめぐってきたことになるため、四国遍路にも慣れて、しっかりと度胸がついていると述べています。

 また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、道後温泉の歴史を紹介した上、「三階建の振鷺閣の中には霊の湯、神の湯、養生湯があり、入浴料は神の湯を除き階下十銭、二階二十銭、三階四十銭、神の湯は階下四銭、二階十五銭です。階上には湯女を置き茶菓を供して居ります。外に入浴料三銭の鷺の湯や、又町の西部西湯の建物には砂湯入浴料十銭、西湯同二銭と別に松湯という無料の浴室もあります。泉質は何れもアルカリ性単純泉で、温度摂氏四六―四七度共同浴制で割引回数券を発行しております」と詳しく紹介されています。

 現在の道後温泉本館は木造三層楼で、明治27年(1894)に建立されました。現役の公衆浴場として平成6年(1994)、全国で初めて重要文化財に指定されています。

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』(昭和59年)によると、道後温泉は、昭和31年までは外湯としての特徴をもち、明治40年(1907)頃の温泉浴室は、霊の湯男女、神の湯一・二・三室、養生湯五・六室、松の湯男女と又新殿を合わせて10室でした。大正11年(1922)には、市街の西に西湯および砂湯(現在の椿の湯の敷地)が増設され、その後、大正13年(1924)に養生湯の改築、昭和2年(1927)に鷺の湯の開業、昭和10年(1935)に神の湯改築などを経て、霊の湯男女、養生湯男女、西湯男女、鷺の湯男女と又新殿を合わせて13室あったことがわかります。

 当時、道後温泉の土産として販売されていた絵葉書には、道後温泉の景観や湯治客で賑わう様子が見て取れます(写真④~⑩、個人蔵)。

写真④ 絵葉書「道後温泉霊之湯」
写真⑤ 絵葉書「伊予道後温泉場 神之湯」
写真⑥ 絵葉書「浴客の荷賑ふ養生湯の壮麗」
写真⑦ 絵葉書「伊予道後温泉男入浴場」
写真⑧ 絵葉書「霊湯に浸たる浴客、霊の湯の湯槽」
写真⑨ 絵葉書「伊予道後温泉楼上休憩所」
写真⑩ 絵葉書「伊予道後温泉砂湯」

 現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」では、江戸時代の道後温泉に関する絵図類、近代の紀行文、絵葉書、パンフレット、道後土産なども展示紹介しています。この機会にご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉒―乗合自動車―

2024年3月8日

 前回、明石寺道を事例に、徒歩遍路と自動車遍路について紹介しました。今回は自動車遍路の先駆けとして利用された乗合自動車について見てみましょう。

 乗合自動車とは、複数人の乗客を乗せて走行する大型の車両のことをいいます。一定の運賃で不特定の旅客を乗せ、定まった路線を運行します。

 乗合自動車の歴史を調べると、明治36年(1903)に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、梅田駅から会場の天王寺公園までの間で蒸気自動車による乗合自動車の運行が行われました。一般には、同年春に広島県の可部~横川間を結んだ乗合自動車の運行が日本で最初といわれています。また、同年9月20日、京都の堀川中立売~七条~祇園の区間で、二井商会による乗合自動車の運行が開始され、この日が日本のバス事業の始まりと言われ、現在の「バスの日」となっています。最初のバスは蒸気自動車を改造した6人乗りでした。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」の凡例には、二本線で道路を示す記号が表示されています(写真①②)。この道路とは徒歩道(赤い線の順拝指道)ではなく、自動車が通行可能な巡拝道を示しています。地図上には、松山、高松、徳島などの都市部は鉄道の普及などによって交通環境も良く、数多くの道路が通っており、道路表記はされていません。阿波(徳島県)南部から土佐(高知県)の室戸岬周辺や、土佐から伊予(愛媛県)南予地方など、札所近くに鉄道の路線がない地域には、札所と札所を結ぶ道路が記されています。

写真① 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵
写真② 凡例に示す道路表記と室戸周辺(部分拡大)

 具体的に見てみましょう。戦前に四国遍路を行った漫画家の宮尾しげをは、乗合自動車を大いに利用している近代的な遍路でした。昭和18年(1943)の宮尾しげを著『画と文 四国遍路』によると、徳島県最後の札所となる第23番薬王寺(徳島県美波町)参拝後、「乗合自動車で、次の最御崎寺まで、二十一里二十一町といふ長丁場を乗る。寺から寺への長さでは三十七番岩本寺から三十八番の金剛副寺への道と共に長丁場だと、運転手が云ふ。」とあります。

 同乗者に県庁の獣医がいて、途中で自動車を止めて窓越に農家の馬を診察したり、車内には郵便物を載せており、各町の郵便局に配達しながら運行したりしているので、時間がかかる。県境の甲浦の港町に到着すると、土佐側で待機する乗合自動車に乗換えていることなど、乗合自動車の様子が記されていて興味深い。

 さらに「野根から佐喜浜の間は『飛石跳石ゴロゴロ石』といふ難所がある、荒波が岸を洗ふとき、石が干潮でゴロゴロと音を立てるのでその名がある、飛石跳石は潮の干いた間に石を飛び跳ねて、次の大石へと行くのでさう謂はれている。今は国道が出来ているので、その難は無くなった。」と語っています。

 室戸岬に向かう途中の飛石・跳石は四国遍路の中でも難所中の難所として知られ、江戸時代後期にもその独特な景観が描かれています(写真➂)。また、昭和9年(1934)に自動車による四国巡拝を行った時の写真集『四国霊蹟写真大観』からは、室戸周辺の道路(昭和38年に国道 55号線となる)が写され、まだ舗装されていない土道であることがわかります(写真④)。

写真➂ 飛石・跳石(「中四国名所旧跡」江戸時代後期、当館蔵)
写真④ 室戸周辺の道路(昭和9年(1934)『四国霊蹟写真大観』当館蔵より) 

 昭和9年の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、四国霊場の各札所にアクセスするための乗合自動車の路線とその運賃が記載されています。ちなみに徳島・高知県境の甲浦~室戸岬の区間は運賃1円70銭、所有時間約1時間50分と記載されています。

 本書を見れば、当時、道路が未開通の山間部の札所や、札所間の距離が近過ぎて徒歩で巡拝する札所を除いて、多くの札所では乗合自動車の路線が運行されていることがわかります。これらのことから、乗合自動車の普及によって、徒歩中心の四国遍路から、次第に乗り物を利用した遍路も増加し、さらに戦後の団体バスによる遍路、マイカー遍路へと発展していく過程が推察されます。

 昭和時代の代表的な四国遍路ガイドマップの「四国遍路道中図」には、乗合バス路線の情報までは記載されていませんが、実際には各地で四国霊場を結ぶ乗合バス路線が整備され、便数は少ないながらも運行され、今日と異なった四国遍路の巡拝方法や巡拝ルートが存在しました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉑―明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路―

2024年3月1日

 明石寺道は、第42番札所佛木寺(宇和島市三間町)から歯長峠を経由して第43番札所明石寺(西予市宇和町)に至る約10.6㎞の道のりです。急な山道が続き、古道の景観をとどめ、このうち宇和島市側の約0.58㎞が令和6年2月21日付けの官報告示によりに国史跡「伊予遍路道」に追加されました。

 今回は「四国遍路道中図」と案内記の記述をもとに、佛木寺から明石寺までの巡拝方法について紹介します。

 まずは、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で明石寺道を確認してみましょう(写真①)。

写真① 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵

 佛木寺から明石寺までは下宇和を経由して「三リ廿丁」と記されています。途中の難所「歯長峠」は本図には表記されていませんが、近隣の宇和島から吉田、立間を経由して卯之町に至る別ルート上には「法華津峠」と記されています(写真②)。

写真② 明石寺道と法華津峠(部分拡大)

 昭和9年(1934)の安達忠一による四国遍路ガイドブック『同行二人 四国遍路たより』には、徒歩による歯長峠経由の明石寺道の様子が詳しく紹介されています。

 「次(明石寺)へ二里二十四町。交通機関を利用する人は一端宇和島迄帰らねばなりません。前方長く松の頂きを揃えた峯が見えますが、それに続いて左の端の高い山が高森山で、右手の丸い岩山は昔城のあったところ、その峯に続いたところがこれから越えていく標高五一〇米歯長峠であります。寺から峠までは二十六町。仁王門を出て右へ七町行き左へ橋を渡って池の端まで一町、峠まで十八町の登りです。(中略)峠には大師御自作の見送り大師を安置する送迎庵があります。こゝから四十三番まで一里三十四町。十六町下って左へ九町にて右へ宇和川の土橋を渡ると下川で、道引く大師堂があります。四十三番まで一里九町。左手を見ますと歯長峠、高森山、法華津峠と三つの順を揃えています。皆田、稲生を経て三十町にて卯之町の入口岩瀬川を渡り、一町行って立石を右へ小径に入り、十町行くと右手に四十三番奥の院があります。白王権現が御祀りしてあり、その盤石は龍女が此処まで運んだ時夜が明けましたので、その儘置き去ったという明石寺の名の出たところであります。一町行って左へ石段を上って三町行くと四十三番であります」と記されています。

 実際に徒歩で明石寺道の歯長峠に向かう場合、佛木寺仁王門前からは北側に高森山と歯長峠を見渡すことができます(写真➂)。峠の上り口に「(手印)へんろみち」と刻まれた明治36年(1903)の遍路道標石(写真④)があり、歯長峠山頂(写真⑤)には送迎庵、下り道には地元の皆田村の和平冶らが願主となって寛政7年(1795)に建てた、「(大師像)明石寺 是ヨリ二里」と刻まれた遍路道標石(写真⑥)などがあり、江戸時代からの遍路道の面影が残っています。

写真➂ 佛木寺から歯長峠を臨む
写真④ 歯長峠上り口
写真⑤ 歯長峠の山頂
写真⑥ 寛政7年(1795)の遍路道標石

 一方、近代に入ると、宇和島鉄道(後の省線宇和島線)の開通、道路の整備と自動車の普及などによって、佛木寺参拝後に歯長峠を通らずに明石寺を巡拝するコースが利用されました。その場合、鉄道や自動車などを利用して、再び宇和島に戻り、法華津峠越えで卯之町を経由して明石寺を参拝するルートとなります。なお、宇和島鉄道(省線宇和島線)の利用については、当ブログ(昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑦―鉄道・宇和島鉄道―https://www.i-rekihaku.jp/gakublo/kanzou/8552)をご参照ください。 

 特に自動車を活用した四国霊場巡拝は急速に進みました。前述の『同行二人 四国遍路たより』には各札所にアクセスするための乗合自動車の路線と運賃が記載されています。明石寺の場合、歯長峠を下った地点に位置する下川集落から卯之町までが三十銭、宇和島~卯之町間が一円四十銭であったことがわかります。

 昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四国遍路』には、「宇和島から吉田を経、法華津峠を越して車は卯之町の入口でとまる。法華津峠は標高四三六米、眼下に見る法華津の漁村や法華津湾が美しい(中略)私は、四国の旅で面白いのは何だと聞かれたら、躊躇なくその一つとして、自動車で峠を越す時の快味を挙げよう。自動車は―それは勿論乗合のガタ自動車ではあるが―忽ちにして峠のてつぺんから下界へ向けて、殆んど舞ひ下るやうに私達の身体を運んでくれるのだ」と紹介しています。島は乗合自動車を利用して、法華津峠経由で明石寺に向かっているが、その途中の宇和海の絶景を称え、四国の旅の醍醐味は自動車で峠越えすることにあると説いています。

 また、弘法大師御入定1100年記念にあたる昭和9年(1934)に自動車による四国巡拝を行った時の写真集『四国霊蹟写真大観』には、自家用車で佛木寺を巡拝した写真が収められています(写真⑦)。

写真⑦ 自家用車で佛木寺巡拝。 (『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 戦後、道路開発や自動車の普及にともない、札所の参拝道や駐車場などが整備され、マイカー遍路や巡拝バスによる団体遍路が飛躍的に増加します。

 「四国遍路道中図」と案内記から、昭和時代(戦前)の明石寺への巡拝方法を紹介しました。伝統的な徒歩遍路に加えて、自動車遍路が増えていく様子がわかり、今日の四国遍路におけるモータリゼーションの先駆けを見ることができます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑳―通夜堂―

2024年2月16日

 長い道中を巡拝する四国遍路において、宿泊情報はとても重要です。大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版、写真①)には、愛媛の札所における通夜堂(つやどう)の情報が記載されています。

写真① 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版) 当館蔵

 ・第42番佛木寺「当寺は新に通夜堂を建築して普く巡拝者ニ通夜を得させらる」(写真②)

写真② 第42番佛木寺

 ・第45番岩屋寺「当寺ハ清潔な二階建の通夜堂有」(写真③)

写真③ 第45番岩屋寺

 ・第60番横峰寺「当地ハ山深けれバ宿なく寺内ニ通夜堂あり」(写真➃)

写真➃ 第60番横峰寺

 通夜堂とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994)によると、「札所寺院で宿泊することを通夜といい、かつては札所に「通夜堂」があった。原則として素泊まり、無料で、煮炊きができるいろりなどがあった。そのため、四国では、弘法大師などが祀られている。通夜堂に、職業遍路が住みつくようになって、一般の遍路からは敬遠される存在になった。今日では札所に設備が整った宿坊が完備され、通夜堂は姿を消している。このような札所の宿坊に宿泊することも、通夜と呼ばれる」とあります。

 岩屋寺や横峰寺などの山間部の札所寺院の近辺には宿屋がなく、札所自らが遍路をはじめとする巡拝者の無料宿泊所として通夜堂を設けていたことがわかります。

 次に、同時代の四国遍路の案内記を確認すると、大正2年(1913)の三好廣太『四国遍路 同行二人 増補第二版』(此村欽英堂)では、佛木寺は「当寺は新に通夜堂を建築して、普く巡拝者に通夜を得させらる」、岩屋寺は「当寺は清潔な、二階造りの通夜堂あり」、横峰寺は「当地は山間なれば、寺に通夜堂があります」と記載され、四国遍路道中図と同じ内容が紹介されています。そのため、四国遍路道中図は『四国遍路 同行二人』などの案内記の内容を参考にして作成されたものと考えられます。

 もう少し古い明治期の案内記を見てみましょう。明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』(黒崎精二発行)の「佛木寺」解説では、「当寺は通夜堂もあり近くに宿屋もあります(中略)次ぎ(明石寺)へ三里、五六丁行きて歯長峠にかゝる二十五丁登り、峠に見送り大師堂(送迎庵と云ふ)大師御自作の尊像を安置す霊験新なり、少数の連れなれば通夜することが出来ます」と記され、札所寺院のみならず、明石寺道の歯長峠にある見送り大師堂(送迎庵、宇和島市吉田町立間)(写真⑤)も通夜堂として遍路に利用されていたことがわかります。

写真⑤ 現在の歯長峠にある送迎庵見送大師

 ところが、昭和時代の「四国遍路道中図」では、昭和12年(1937)の駸々堂版では横峰寺の通夜堂が注記されていますが、昭和4年(1929)の浅野本店版 、昭和10年(1930)の渡部商店版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版、昭和15年(1940)の小林商店版と金山商会版、昭和16年(1941)のイナリヤ総本店版などには、通夜堂についての記載が地図上からなくなっています。

 一方、戦前の四国遍路案内記を見ると、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、佛木寺、岩屋寺、横峰寺の通夜堂について言及されていませんが、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、大正期の同書とほぼ同文が掲載されているため、通夜堂そのものは当時も存在していたと推察されます。

 昭和時代に入ると、四国遍路道中図や案内記において、通夜堂の情報は少なくなっています。こうした背景には、札所寺院周辺の旅館や木賃宿などの宿屋の利用、札所における通夜堂の維持管理が困難となっての閉鎖や有料宿泊所である宿坊の整備などによって、次第に遍路による通夜堂の利用が減ったものと考えられます。

 今日札所寺院において通夜堂はほぼ見られなくなっていますが、遍路道沿いなどには善意による無料宿泊所が存在し、歩き遍路や外国人遍路などに利用されています。

文化人シリーズ切手

2024年1月11日

今回は現在開催中のテーマ展「日本の切手と葉書」から、文化人シリーズを紹介します。

切手の中には一つのテーマにもとづいて数年間にわたり発行されたシリーズものがあります。今回紹介する文化人切手は、昭和49(1974)年から同52年にかけて、18人の文化人の肖像が切手として発行されました。

 文化人の中には、文学者、教育者、歌舞伎役者、俳人だけでなく、科学者、医学者、宗教者、天文学者なども含まれています。みなさん、次の切手の人物が誰かわかりますか? (※答えは一番下に記載しています)


1862~1922 現島根県津和野町出身。 医学博士。文学博士。 『舞姫』、『阿部一族』、『高瀬舟』の作者 。
1872~1896 現東京都千代田区出身。『うつせみ』、『十三夜』、『たけくらべ』の作者 。
1867~1902 現愛媛県松山市出身。『歌よみに与ふる書』を新聞「日本」に連載し、短歌の革新にのりだす。長い病床生活の中で多くの俳句を遺す。

1859~1935 現岐阜県美濃加茂市出身。写実主義である『小説神髄』の作者。 シェイクスピアの全作品を翻訳刊行。

【答え】上から順に森鴎外、樋口一葉、正岡子規、坪内逍遥

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑲―大寶寺道と里程―

2023年11月10日

 大寶寺道は、第43番札所明石寺(西予市宇和町)から第44番札所大寶(宝)寺(上浮穴郡久万高原町)に至る約67.2㎞の道のりです。愛媛の遍路道では札所間の距離が最も長い区間となります。
 令和5年10月、大寶寺道の西予市宇和町久保~大洲市野佐来に至る「鳥坂峠越」(写真①)の区間(大洲市側約2.3km、西予市側約1.5km)が古道としての状態を比較的良好にとどめているため、新たに国史跡「伊予遍路道」に追加される見込みとなりました。鳥坂峠(標高約466m)は宇和島藩と大洲藩とを結ぶ主要街道にあり、江戸時代の四国遍路案内記や遍路絵図に紹介され、峠には茶店や接待所があり、賑わいを見せました。

写真① 大寶寺道・鳥坂峠(当館撮影)


 国史跡「伊予遍路道」として大寶寺道が最初に指定されたのは平成31年(2019)で、大寶寺道のスタート地点となる「明石寺境内」と、明石寺から卯之町までの区間755mが指定されています(写真➁)。

写真② 大寶寺道・明石寺~卯之町(当館撮影)


 それでは昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で大寶寺道を確認してみましょう(写真③)。

写真③ 「四国遍路道中図」部分 大寶寺道(明石寺~大寶寺)、当館蔵


  明石寺から大洲までは「十二リ」、明石寺から番外十夜橋までは、卯之町、下松葉、上松葉、田苗、真土、大江、久保、(鳥坂峠)、大洲へ進み「四十三番ヨリ六里七丁」、十夜橋から大寶寺までは、内子、五百木、掛木、成弥、中田渡、上田渡、白株、下サカバ、上サカバ、二名、檜皮峠、久万へ進み、「十夜橋ヨリ内子ヲ経テ大宝寺ヘ十一里七丁」と記されています。本図で大寶寺道の距離を合計すると十八里四丁となります。
 ある場所から他の場所までの道の長さを里程(りてい)といいますが、本図では距離の単位は現在の「メートル」でなく「里丁(町)」で記載されています。昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人(第32版)』(此村欽英堂発行)は、四国遍路の正しい里程を実測して記載した案内記ですが、大寶寺道は「次ぎ(大寶寺)へ十七里十四丁餘(旧二十一里)」とあります。本図と若干里数が異なりますが、注目したいのは「旧二十一里」の方です。これは江戸時代の里程を示しています。
 貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』では、「是(明石寺)より菅生山(大寶寺)迄廿一里」と記載され、江戸期の四国遍路絵図や案内記では大寶寺道は21里と紹介されています。実際、大寶寺道のスタート地点となる明石寺境内に建つ武田徳右衛門の遍路道標石(文化年間建立)には、「(梵字)(大師像)これより菅生山迄二拾壹里/願主 越智郡朝倉上村 徳兵ヱ門施主 備中國窪庭郡倉浦村 朝屋清兵ヱ」と刻まれ、二十一里と合致しています(写真④)。

写真④ 明石寺境内の大寶寺道入口に建てられた武田徳右衛門の遍路道標石(当館撮影)


 江戸時代は尺貫法が用いられ、国や街道によって1里の定義が異なり、
阿波国は「四十八町一里」、土佐国は「五十町一里」、伊予・讃岐国は「三十六町一里」と定められていましたが、明治9年(1876)に1里=36町=3.9273㎞。1町=109.09091mに全国統一されます。
 18世紀末のフランスで世界共通の単位制度としてメートル法が提唱され、明治8年(1875)にメートル条約が締結、同18年(1885)に日本が加盟、同24年(1891)に度量衡法(どりょうこうほう)公布によりメートル導入されますが普及せず、大正10年(1921)に度量衡法の改訂によって、尺貫法からメートル法へ単位の統一が図られました。その後、昭和26年(1951)に度量衡法を全面的に見直した計量法が公布され、昭和34年(1959)1月からメートル法が完全に実施されました。このように日本におけるメートル化には度量衡をめぐる歴史的な背景がありました。そのため、本図に限らず戦前・戦後しばらくは四国遍路絵図や案内記の距離の表記は旧来の里丁が用いられています。 
 四国遍路の絵地図や案内記、道標石などの里程の単位や距離は、札所の所在地や遍路道のルート、新道の開通など、四国霊場と遍路道の時代的な推移を考える指標となります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑱―弘法水―

2023年11月3日

 あらゆる分野に偉業を残した弘法大師空海にまつわる伝説は日本各地にあります。その中でも特に多いのが弘法大師の奇瑞(きずい)によって沸いたと伝えられる弘法水伝説です。四国にも数多くの弘法水があります。

 今回は昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)をもとに愛媛の主要な弘法水を紹介します。本図には3つの弘法水が地図上に記載されています(写真①)。ただし正確な地図でないため、それらの位置はあくまでイメージです。

写真① 弘法水(「四国遍路道中図」渡部高太郎版)

 ・「杖ノ淵(じょうのふち)」は松山市南高井にあります(写真②③)。ここは四国霊場48番西林寺の奥之院となっています。その由来は、四国巡礼中の空海がこの地を通りかかった際に、住民が干ばつに苦しんでいた。これを見た空海は杖を突き立てると清水が湧き出て淵となった、と伝えられています。現在、杖ノ淵は公園化され、日本庭園として整備されて名水百選に選ばれています。

写真② 杖ノ淵 (「四国遍路道中図」渡部高太郎版)
写真③ 杖ノ淵 (松山市南高井) 当館撮影

 ・「清水来向ノ井戸(しみずらいごうのいど)」は西条市三芳にあり、「臼井御来迎(うすいごらいごう)」と呼ばれています(写真④⑤)。第59番国分寺から第60番横峰寺へ向かう遍路道沿いに位置します。伝説によると、弘法大師は水不足に苦しむ楠河地区の人々を哀れみ、岸井、臼井、曽良田井の3つの霊泉を発見しました。寛政8年(1796)には、臼井の霊泉の中に五色の気がたなびき、三世の諸仏が来迎するという奇瑞があったと伝えられています。当館所蔵の江戸時代後期の「中四国名所旧跡」(写真⑥)にも臼井御来迎の様子が描かれています。詳しくは当館学芸員ブログ「中四国名所旧跡61 臼井御来迎」(https://www.i-rekihaku.jp/gakublo/kanzou/7870)をご参照ください。

写真④ 清水来向ノ井戸(臼井御来迎)(「四国遍路道中図」渡部高太郎版)
写真⑤ 臼井御来迎 (西条市三芳)当館撮影
写真⑥ 臼井水「中四国名所旧跡」当館蔵

 ・「柴井(しばい)」(柴井の泉)は西条市氷見乙の第64番吉祥寺近くにあります(写真⑦⑧)。弘法大師が錫杖で加持を行ったところ、水が湧き出したと伝えられます。現地案内板によると、この湧水は古くから水洗い場として整備され、野菜を洗ったり、選択をしたり、井戸端会議の場所として利用され、地元では「水大師さん」「お加持水」「長寿水」などと親しみを込めて呼ばれている、と紹介されています。

写真⑦ 柴井 (「四国遍路道中図」渡部高太郎版)
写真⑧ 柴井 (西条市氷見乙)当館撮影

 本図にはこれらの他に、弘法水に関連するものとして、柳水庵(徳島県名西郡神山町)、月(夜)御水庵(徳島県阿南市)などが記載されています。弘法水の多くは、弘法大師信仰のもとで大師の霊水、薬水としても注目され、周辺地域の住人や、四国遍路の道中で多くの遍路が訪れました。

 今日弘法水として伝わっている場所は、長い歴史の中で水に苦労してきた地域と考えられ、貴重な水資源が弘法大師信仰と結びついた事例といえます。いうまでもなく水はライフラインの1つで、生活、農業、工業などに必要不可欠です。各地に残る弘法水を訪ねると、改めて水の大切さを考えさせられます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑰―川を渡る―

2023年10月27日

 本ブログ⑭で「海の遍路道」を紹介しましたが、今回は「川の遍路道」と川を渡る方法について見てみましょう。

遍路道を歩くと数えきれないほどの大小さまざまな川を渡ることになります。四国霊場の巡拝者(遍路)にとって、大雨などで通行上の障害となる河川の情報は必須です。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には、凡例に河川の記載はありませんが、地図中には水色で大きな河川が描かれています。阿波(徳島県)の吉野川、那賀川、土佐(高知県)の四万十川、伊予(愛媛県)の肱川がそれにあたります。

 これらの大川を渡る遍路道の区間は、吉野川(写真①)が第10番切幡寺(徳島県阿波市)から第11番藤井寺(同県吉野川市)、那賀川(写真②)は第20番鶴林寺(同県勝浦郡勝浦町)から第21番太龍寺(同県阿南市)、四万十川(写真③)は第37番岩本寺(高知県高岡郡四万十町)から第38番金剛福寺(同県土佐清水市)、肱川(写真④)は第43番明石寺(愛媛県西予市)から第44番大寶寺(同県上浮穴郡久万高原町)となります。

写真①吉野川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)
写真②那賀川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)
写真③四万十川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)
写真④肱川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 これらの大川は昭和39年(1964)に制定された河川法における一級河川に指定されていますが、同じ一級河川でも四国遍路道中図には物部川、仁淀川(高知県)、重信川(愛媛県)、土器川(香川県)は記載されていません。

 その理由は定かでありませんが、一つには本図が正確な地形図をもとに作成された地図でなく、分かりやすさを主眼に作成された絵図のため、札所等の集中する都市部周辺の記載情報が多く、レイアウト上、視覚的に煩雑にならないように、取り上げる河川を取捨選択したものと推察されます。

 今日では川を渡るには橋を利用するのが一般的ですが、橋がない時分は渡し舟を利用しました。寛政12年(1800)の「四国遍禮(へんろ)名所図会」には「吉野川 船渡し三文宛」「那賀川 船渡し十五文宛」「四万十川 竹じまよりさね崎船渡し廿もん宛」「川(肱川) 船渡し壱文宛」と渡し銭が記載されています。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』では「吉野川 粟島渡し」「那賀川の渡し」「土佐随一の大河四万十川を渡り…」と紹介され、吉野川、那賀川、四万十川では当時も渡船が活用されていたことがわかります。

 一方、肱川においては、明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』に「肱川の船橋(三厘)を渡り…」とあり、対岸まで船を繋いで船橋が架けられていたこと、『同行二人 四国遍路たより』では「肱川橋」と記され、架橋されたことがわかり、遍路はその橋を渡って肱川を越えました。ちなみに、肱川橋(写真⑤)は明治44年に着工され、難工事でしたが大正2年(1913)に竣工しました。

写真⑤ 肱川橋(個人蔵)

 四国遍路道中図には記載されていませんが、愛媛の遍路道で川を渡る事例として注目したいのは、重信川と蒼社川です。

 第47番八坂寺(愛媛県松山市)から48番西林寺(同市)に至る遍路道で重信川を渡りますが、『四国霊場案内記』には「重信川の磧(かはら)を横切り行く(大水の時は二十丁川下に迂回して鉄橋を渡る)」、『同行二人 四国遍路たより』には「小村から重信川の川原を渡って…」と記載されています。つまり、大雨で増水しない限り、通常は下流に架けられた橋を通らずに、西林寺への最短ルートとなるように、重信川の河原の浅瀬を横断していたことがわかります。

 また、第56番泰山寺(愛媛県今治市)から第57番栄福寺(同市)に至る遍路道で蒼社川を渡りますが、こちらも近くの橋を利用せずに、『四国霊場案内記』によると、「蒼社川と云ふ大川があり、常には徒歩で行けますが、出水の時は川上へ十七八丁行きて熊橋と云ふを渡ります」とあります。昭和11年(1936)に愛媛大学の地理学者・村上節太郎が撮影した古写真「蒼社川のへんろ」(写真⑥)には、蒼社川の浅瀬にかけられた薄い板を遍路が渡っている貴重な光景が記録されています。

写真⑥ 村上節太郎撮影「蒼社川のへんろ」(当館蔵)

 重信川や蒼社川など、川をはさんだ両岸や遍路道沿いにはかつて遍路道であったことを示す遍路道標石や、行き倒れた遍路を祀る遍路墓などが残されています。

 現在では歩き遍路において、橋を利用せずに、川中や河原を横断して川を渡ることはほとんど見られませんが、昭和時代(戦前)までは、四国各地に不便で危険をともなう川渡りの遍路道がありました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑯―弘法大師の御影―

2023年10月13日

 令和5年(2023)は日本に密教を広めた弘法大師空海(774~835年)の生誕1250年にあたります。

 そこで今回は、四国遍路道中図に掲載されている弘法大師の御影(みえい・みえ・おみえ)について紹介します。

 御影とは札所本尊の尊像などの姿を写して描いたものをいいます。以前、本ブログ③で四国八十八箇所霊場の愛媛の札所の本尊御影について紹介しましたが、一枚物の四国遍路道中図には、折りたたんだ際に表紙となる部分の中央に、地図の名称「四国八十八ヶ所遍路道中図」と版元・広告主の名前が記載され、その上部に大きく弘法大師の御影が配置され、大師宝号の「南無大師遍照金剛」が記載されています。

 弘法大師空海の姿を写した御影は、真如様(しんにょよう)、八祖様(はっそよう)、善通寺様(ぜんつうじよう)などが知られています。その中でも今日最も多く見られるのが真如様です(写真①)。弘法大師は牀座(しょうざ)と呼ばれる椅子式の台座に座り、右手に密教法具の五鈷杵(ごこしょ)、左手に念珠(ねんじゅ)を持ち、足元には木履(ぼくり)、水瓶(すいびょう)が置かれています。真如様は空海が高野山奥之院で入定される前に弟子の真如親王がその姿を描いたものと伝えられています。

写真① 弘法大師像
(明治8年、個人蔵)

 さまざまな版がある四国遍路道中図に掲載する弘法大師の御影は真如様が採用されています。とても興味深いのは大師の肖像や姿が微妙に異なります。いくつか見てみましょう。

 刊行年不明の昭和時代(戦前)の頃のものと見られる徳島撫養港の「江口商店版」では、大師は前頭部が広く、口をつむいでいる姿(写真②)。昭和4年(1929)の徳島「浅野本店版」では、ふっくらとした大師の姿(写真③)、同6年(1931)の大阪「駸々堂版」では、眼光を開き、歯が見え、話しかけているような姿(写真④)。同13年(1938)の愛媛「渡部高太郎版」では、おちょぼ口でキュートな大師の姿です(写真⑤)。同じ真如様ですが、弘法大師の姿・表情は実に様々です。

写真② 徳島撫養港の「江口商店版」(当館蔵)
写真③ 徳島「浅野本店版」昭和4年、個人蔵
写真④ 大阪「駸々堂版」昭和6年、個人蔵
写真⑤ 愛媛「渡部高太郎版」昭和13年、当館蔵

 少し古い四国遍路道中図ではどうでしょうか。

 大正6年(1917)の大阪「駸々堂版」では、顔の眉毛が長い特徴のある大師の姿で、台座には背がありません。また、版元・広告主の名前の箇所は「同行二人」、「南無大師遍照金剛」のほかに「大金剛輪陀羅尼」が記載されています(写真⑥)。大金剛輪陀羅尼(だいこんごうりんだらに)は罪障(ざいしょう)を取り除く祈願を行う際に密教で唱えられる呪文です。

写真⑥ 大阪「駸々堂版」(大正6年、当館蔵)

 四国遍路道中図の表紙部分に弘法大師の御影が配置されているのは、四国八十八箇所霊場が弘法大師によって開創されたとする由来に基づくものと考えられます。江戸時代のほとんどの四国遍路絵図にも弘法大師の御影が掲載され、こうした四国遍路絵図の伝統を四国遍路道中図も受け継いでいることがわかります。

 今回はごく一部の四国遍路道中図の弘法大師御影を見てきましたが、版の種類に応じて他にも様々なタイプがあります。弘法大師信仰の広がりとともに、弘法大師の御影は無限に作成されています。長い年月を通じて写されて描かれてきた大師像は、弘法大師信仰がいかに庶民に浸透していたのかを如実に物語っています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑮―旅の心得―

2023年10月6日

 今日、四国遍路を始めようとする初心者を対象にしたガイドブック(案内書)やハウツー本は数多く出版されています。現代の遍路入門書は、四国遍路の歴史、遍路の参拝作法、用意する巡拝品、八十八箇所の札所情報、交通アクセス、詳細な地図、宿泊・観光情報などについて、写真やイラストなどを多用して、現代の遍路の多様なニーズに対応した内容となっています。

 大正から昭和時代(戦前)に発行され、多くの四国巡拝者に用いられた「四国遍路道中図」は文字通り、四国遍路の道中案内図です。本図はカラー両面印刷による一枚物の地図ですが、精密な地図でなく、四国の形は大きくデフォルメされています(写真①)。しかし、四国八十八箇所霊場や番外霊場、遍路道、各札所などの情報が一見してわかるように工夫されて作成され、また、最新の交通情報なども盛り込まれ、四国霊場の巡礼地図として人気を博しました。

写真① 「四国遍路道中図」( 江口商店版、 当館蔵 )

 当時は、基本的に四国遍路のガイドブックとガイドマップ(案内地図)が一体化した詳細なものはなく、別々に発行されています。もちろん地図入りの案内記はたくさん作られていますが、その地図は小さくて見にくく、内容的にも情報が乏しい略図的なものでした。そのため、四国遍路についてより詳しい情報を得たい巡拝者(遍路)は、案内記と案内地図の両方を買い求め、それらを補完しながら、四国遍路の準備や実際の道中で利用しました。そうしたなかで、折り畳み式の一枚ものの地図で詳細な最新の情報を掲載し、視覚的に優れた「四国遍路道中図」は、多くの遍路に買い求められたことが容易に想像できます。

 「四国遍路道中図」の性格を考えるにあたり、興味深い点があります。それは「四国遍路道中図」(徳島県撫養港の江口商店版など)の地図面の裏には、巡拝者のための「旅の心得」が書き加えられていることです(写真➁)。

写真➁ 旅の心得(「四国遍路道中図」江口商店版、当館蔵)

 その内容について見てみましょう。なお、原文をわかりやすくするために、箇条書きにして、句読点をつけました。

 ①「初めて旅立順拜の道は、昔日は峻坂が多くありましたが、汽車馬車人力車などの乗りものもありますが、霊場巡拜は徒歩で廻るの習せゆえ、旅立の日は別て静に踏立、二三日は所々に休み、同行ある時は其中の弱き人の足に合ふ様にすべし」。

 ➁「道中所持すべき物はなるだけ事少くすべし、品数多ければ失念物有てかへって煩はしきものなり」。

 ③「旅舎に到着すれば、第一に其地の方位宿の家造、便所、表裏の出入口等見覚へおくこと、近火盗難喧嘩等ある時の心得なり」

 ④「早く立ち早く泊るは災難無きなり、又時間を急げばとて川越山ごえ、船の乗り降りは慎んでなすこと」。

 要約すると、①四国遍路は徒歩で巡拝するのが習いで、静かにまわり、弱者に配慮すること。➁所持品は可能な限り少なくすること。③緊急時の備えた宿屋での点検。④旅の早立ち・早泊りが無難である。当時の四国遍路の最も基本的な心構えが示されています。

 この「旅の心得」の内容は、明治期から昭和(戦前)に発行されていた四国遍路の案内記類にも紹介されています。旅の心得や札所の本尊名や御詠歌などの情報は、先行する案内記類を参考にして本図が作成されていることを示しています。また、本図が四国遍路の中でも主に歩き遍路を対象に作成されていることがわかります。

 四国遍路の絵地図の中で旅の心得書きが記されているのは珍しく、大正6年(1917)と昭和6年(1931)に大阪の駸々堂から発行された「四国遍路道中図」には「旅の心得」は記載されていません。一方、四国内の上陸港や札所周辺の商店や仏具店などで販売された「四国遍路道中図」には「旅の心得」が掲載されているものが多いように見受けられます。「四国遍路道中図」の発行年代、発行・販売地、発行関係者(作成者・編集・発行者、広告主等)によって、「四国遍路道中図」の内容の差異が認められます。

 主に歩き遍路を対象に四国内で発行された「四国遍路道中図」(江口版等)は、所持品を可能な限り少なくせよという旅の心得の観点からすると、携帯に便利な一枚物のガイドマップとして大変有効な道中必需品です。荷物になりやすい冊子形態の詳細なガイドブックは敬遠され、視覚的に一目瞭然で、必要最小限の基本的な案内情報と最新情報が掲載されている「四国遍路道中図」が一般の遍路のニーズにかなったことが推察されます。ガイドブックを凌駕したガイドマップ。こうした点も「四国遍路道中図」の特色といえます。