今回は「四国遍路道中図」(当館蔵)から「海の遍路道」について紹介します。昭和13年(1938)の四国遍路道中図 (渡部版)を見ると、土佐(高知県)の霊場の第32番禅師峰寺(高知県南国市)と第33番雪蹊寺(高知市)を結ぶ遍路道(赤い線)が浦戸湾の海の中を通っています(写真①)。少し古い大正 6 年 (1917) の駸々堂版では「わたし」(渡し)と記載されています(写真②)。つまり、この区間は海を渡る遍路道、いわゆる「海の遍路道」となっています。


現在は高知県営渡船が種崎渡船場(東・禅師峰寺方)と長浜渡船場(西・雪蹊寺方面)を結び、住民や歩き遍路たちに利用されています(写真③)。 この他、渡部版の地図上には、土佐(高知県)の巡拝道で海路利用を推奨する区間が文章で紹介されています。

1つは第36番青龍寺(同県土佐市)と第37番岩本寺(同県高岡郡四万十町)の区間で、「青竜寺ノ納経ヲ受ケ福島(土佐市)マデ打戻リ船デ須崎(須崎市)ヘ行ケバ八坂八浜ノ難所ヲ通ラズ楽ナリ」(写真④)とあります。もう1つは、第37番岩本寺と第38番金剛福寺(同県土佐清水市)の区間です。「佐賀(幡多郡黒潮町)ヨリ舟ノ便アリ三十八番ヘ二里十一丁ナリ窪津(土佐清水市)ヘ上陸セバ楽ナリ」(写真⑤)と記されています。どちらも地図上に赤の破線で船路が記入されています。


一方、伊予(愛媛県)では、具体的に海の遍路道の記載はありません。しかし、大正7 年 (1918)に四国遍路を逆打ちで行った高群逸枝の『娘巡礼記』によると、第40番観自在寺を参拝後、深浦(愛媛県南宇和郡愛南町)から片島(高知県宿毛市)まで大和丸という汽船を利用したことが記されています。昭和9(1934)年に発刊された『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)には、汽船入港で賑わう深浦港の様子が写真で掲載されています(写真⑥)。

愛媛の遍路道において海路がよく利用された区間は、第40番観自在寺から41番龍光寺に至る遍路道(龍光寺道)と考えられます。観自在寺から宇和島までは10里10丁(約40.4㎞)ある長丁場で、途中に柏坂(かしわざか)という急勾配の峠道の難所があります。そのため、観自在寺参拝後に航路を利用して宇和島に上陸する遍路が多かったようです。
昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によると、「次四十一番の御札所へは、道程十二里ばかり、此の町外れの海岸より宇和島行きの汽船あり、乗船すれば十里余の道を僅かに四時間で達せられる。亦時刻の都合で深浦へ(三十丁打戻り)深浦よりは毎朝汽船の便がある。陸行主義の方は柏坂峠の険しい処を越え宇和島に出るのです」とあり、宇和島へは汽船の利用が推奨されています。
また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「海路によると平城から半道西の長崎から乗船五時間で宇和島に上陸します。寺(観自在寺)を出て宇和島街道に打戻り右へ八町行くと貝塚で、汽船の出る長崎はここから左へ九町参ります」と紹介され、汽船は平城~宇和島間で90銭(四時間半)と記載されています。
こうした遍路による汽船利用の背景を物語るものとして、汽船乗り場の港を案内する遍路道標石が建てられています。観自在寺のある平城地区には、明治19年(1886)に中務茂兵衛が四国遍路88度目巡拝を記念して建てた道標石があり、それには「船場」の案内標示があります(写真⑦)。同じく茂兵衛が柏坂の入り口の柏地区に建てた、明治34年(1901)に184度目の道標石に「左 舟のりば」と刻まれています(写真⑧)。


海岸沿いの遍路道の場合、定期航路の船便を利用することで、遍路は陸路の難所である峠道を通らなくてよく、旅の日程を短縮可能とし、体力を温存できるなどの多くの利点がありました。特に土佐~南予地方の沿岸部では陸上交通の発展が遅れたため、人々の往来や物流は沿岸の港間を結ぶ定期航路によって支えられ、歩き遍路の重要な移動手段となっていたことがわかります。
汽船による海上交通の発達は、四国内に海の遍路道をつくり、徒歩中心であった遍路の移動方法や巡拝ルート、旅の日数の削減など、四国遍路に大きな影響を与えました。