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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑭―海の遍路道―

2023年9月30日

 今回は「四国遍路道中図」(当館蔵)から「海の遍路道」について紹介します。昭和13年(1938)の四国遍路道中図 (渡部版)を見ると、土佐(高知県)の霊場の第32番禅師峰寺(高知県南国市)と第33番雪蹊寺(高知市)を結ぶ遍路道(赤い線)が浦戸湾の海の中を通っています(写真①)。少し古い大正 6 年 (1917) の駸々堂版では「わたし」(渡し)と記載されています(写真②)。つまり、この区間は海を渡る遍路道、いわゆる「海の遍路道」となっています。

写真① 浦戸湾を渡る海の遍路道(「四国遍路道中図」渡部版部分、当館蔵)
写真② 浦戸湾を渡る海の遍路道(「四国遍路道中図」駸々堂版部分、当館蔵)

 現在は高知県営渡船が種崎渡船場(東・禅師峰寺方)と長浜渡船場(西・雪蹊寺方面)を結び、住民や歩き遍路たちに利用されています(写真③)。 この他、渡部版の地図上には、土佐(高知県)の巡拝道で海路利用を推奨する区間が文章で紹介されています。

写真③  高知県営渡船で浦戸湾を渡る(出港地の種崎渡船場を臨む)。当館撮影。

 1つは第36番青龍寺(同県土佐市)と第37番岩本寺(同県高岡郡四万十町)の区間で、「青竜寺ノ納経ヲ受ケ福島(土佐市)マデ打戻リ船デ須崎(須崎市)ヘ行ケバ八坂八浜ノ難所ヲ通ラズ楽ナリ」(写真④)とあります。もう1つは、第37番岩本寺と第38番金剛福寺(同県土佐清水市)の区間です。「佐賀(幡多郡黒潮町)ヨリ舟ノ便アリ三十八番ヘ二里十一丁ナリ窪津(土佐清水市)ヘ上陸セバ楽ナリ」(写真⑤)と記されています。どちらも地図上に赤の破線で船路が記入されています。

写真④ 福島~須崎(「四国遍路道中図」渡部版部分、当館蔵)
写真⑤ 佐賀~窪津(「四国遍路道中図」渡部版部分、当館蔵)

 一方、伊予(愛媛県)では、具体的に海の遍路道の記載はありません。しかし、大正7 年 (1918)に四国遍路を逆打ちで行った高群逸枝の『娘巡礼記』によると、第40番観自在寺を参拝後、深浦(愛媛県南宇和郡愛南町)から片島(高知県宿毛市)まで大和丸という汽船を利用したことが記されています。昭和9(1934)年に発刊された『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)には、汽船入港で賑わう深浦港の様子が写真で掲載されています(写真⑥)。 

写真⑥ 深浦港(『四国霊蹟写真大観』、当館蔵)

 愛媛の遍路道において海路がよく利用された区間は、第40番観自在寺から41番龍光寺に至る遍路道(龍光寺道)と考えられます。観自在寺から宇和島までは10里10丁(約40.4㎞)ある長丁場で、途中に柏坂(かしわざか)という急勾配の峠道の難所があります。そのため、観自在寺参拝後に航路を利用して宇和島に上陸する遍路が多かったようです。

 昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によると、「次四十一番の御札所へは、道程十二里ばかり、此の町外れの海岸より宇和島行きの汽船あり、乗船すれば十里余の道を僅かに四時間で達せられる。亦時刻の都合で深浦へ(三十丁打戻り)深浦よりは毎朝汽船の便がある。陸行主義の方は柏坂峠の険しい処を越え宇和島に出るのです」とあり、宇和島へは汽船の利用が推奨されています。

 また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「海路によると平城から半道西の長崎から乗船五時間で宇和島に上陸します。寺(観自在寺)を出て宇和島街道に打戻り右へ八町行くと貝塚で、汽船の出る長崎はここから左へ九町参ります」と紹介され、汽船は平城~宇和島間で90銭(四時間半)と記載されています。

 こうした遍路による汽船利用の背景を物語るものとして、汽船乗り場の港を案内する遍路道標石が建てられています。観自在寺のある平城地区には、明治19年(1886)に中務茂兵衛が四国遍路88度目巡拝を記念して建てた道標石があり、それには「船場」の案内標示があります(写真⑦)。同じく茂兵衛が柏坂の入り口の柏地区に建てた、明治34年(1901)に184度目の道標石に「左 舟のりば」と刻まれています(写真⑧)。

写真⑦ 「船場」を案内する中務茂兵衛の遍路道標石
写真⑧ 「舟のりば」を案内する中務茂兵衛の遍路道標石

 海岸沿いの遍路道の場合、定期航路の船便を利用することで、遍路は陸路の難所である峠道を通らなくてよく、旅の日程を短縮可能とし、体力を温存できるなどの多くの利点がありました。特に土佐~南予地方の沿岸部では陸上交通の発展が遅れたため、人々の往来や物流は沿岸の港間を結ぶ定期航路によって支えられ、歩き遍路の重要な移動手段となっていたことがわかります。

 汽船による海上交通の発達は、四国内に海の遍路道をつくり、徒歩中心であった遍路の移動方法や巡拝ルート、旅の日数の削減など、四国遍路に大きな影響を与えました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑬―四国に渡る汽船と巡拝方法―

2023年9月8日

 本ブログ「昭和時代の四国遍路道中図から見た遍路事情」②で四国への上陸港を紹介しましたが、今回は四国に渡る汽船と巡拝方法について紹介します。

 四国遍路では第1番札所霊山寺から札所番号順にまわる巡拝方法を「順打ち」といいます。順打ちを行うにあたり、四国上陸の玄関口として最も推奨されたのが岡崎・撫養港(徳島県鳴門市)でした。昭和13年(1938)の四国遍路道中図には「近畿以東ハムヤ岡崎ニ上陸シ一番ヨリ札ヲ始メルガ順デ此ニ上陸スレバ鳴門ノ潮時ヲ見ルベシ」(写真①)と記され、撫養港は主に近畿地方や東日本の人に利用されました。

写真① 阿波の四国霊場。東側(右上)に撫養がある。(「四国遍路道中図(渡部版)」部分、当館蔵)

 昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』の「御四国順拝の道順に就いて」によると、「東京より出立する人は、先ず以て東京駅より西行きの汽車発車時刻を能く取り調べ置かねばなりませぬ。然し総ては大阪の築港より御四国地へ向かう汽船の出発する時刻に基づくものであって、現今、大阪の築港から出る汽船は各会社から幾らも出るのでありますが、定時出航の汽船は、大阪商船株式会社の汽船で夜出る汽船と朝出る汽船があります」と記されています。

 大阪港は四国へ渡る出発地の一大拠点であり、各地と結ぶ定期航路をもつ汽船会社が数多く存在し、その中でも大阪商船の「夜出る汽船」と「朝出る汽船」が四国遍路を行う者に推奨されていたことがわかります。

 また、同書には「夜出る汽船は船が小さくて夜の三時乃至四時頃に御四国地(むや)に着き、第一番札所へ向かうのです」「朝出る汽船は船が大きくて其の日の午後四時頃に、御四国小松島港へ着き、下船してから(中略)徳島市の二軒屋町駅まで汽車に乗り(中略)、下車したら宿屋を求め置き、重い荷物は宿屋に預け必要な物のみ持って翌日第一番札所へ向かうのです。一番から二番三番と次々へ納経礼拝して十七番札所を礼拝したら、其の札所から七八丁歩いて汽車に乗り二軒屋駅まで乗って宿へ戻るのです(此の間の日数四・五日間を要す)」とあり、二通りの汽船の乗り方と巡拝方法が紹介されています。

 多くの遍路が上陸する徳島の撫養港以外に、小松島港(徳島県小松島市)を活用した四国遍路の巡拝が注目されます。

 そのあたりを四国遍路道中図で確認します(写真②)。

写真② 小松島周辺(「四国遍路道中図」部分)

 本図には小松島港の記載はありませんが、徳島市の南側(徳島県の東側)に国鉄(旧阿南鉄道)の中田駅から分岐する小松島駅(旧小松島線。昭和60年廃止)が記載されています。前述した『四国遍路のすすめ』によると、小松島港上陸後、小松島駅から汽車に乗り、二軒屋駅(徳島県徳島市)で下車し、近くの宿屋で重い荷物を預けて、第1番霊山寺から順に第17番井戸寺(妙照寺)までまわり、その後、再び二軒屋駅近くの宿屋に戻り、数日間預けた荷物を受け取って、次の第18番恩山寺(徳島県小松島市)へ進む巡拝方法が示されています。

 小松島港経由の四国巡拝は、重い荷物を事前に宿屋に預けて、第12番焼山寺の山越えの道の難所などで身軽に巡礼できることや、徳島市内の観光を行うことができるなどの利点があります。ちなみに第17番札所の古い寺名は「妙照寺」でしたが、弘法大師の清水伝説にちなみ、現在の名称は「井戸寺」となっています。本図には「十七・瑠璃山・妙照寺」と記載されています。

 四国に渡る汽船と定期航路便の増加は、各地の上陸港を起点とした四国巡拝の便利な方法や、汽車、乗合い自動車などの近代交通を活用した新たな巡拝ルートプランが、遍路の先達や関係する海運・鉄道会社、旅行会社などによって生み出され、多様な四国遍路の巡り方を可能としました。

 ところで、四方を海で囲まれた四国にとって、海上交通の整備・発展は、経済、文化、生活を支える基盤です。かつて瀬戸内海には本州と四国を結ぶ数多くの航路がありました。

 次に、昭和25年(1950)の『旅』7月号附録「瀬戸内海」(日本交通公社)に掲載する主な瀬戸内海航路を見てみましょう。

【関西方面から四国へ】

・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀―観音寺線(加藤海運汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀線(日本近海汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀―多度津線(尼崎汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―坂出―高松―多度津線(関西汽船路、一日二往復)

・大阪―神戸―観音寺―三島―新居浜―西条線(関西汽船路、一日一往復) 

・大阪―神戸―今治―高浜線(日本郵船航路、週三往復)

・大阪―神戸―今治―高浜線(東京船舶航路、週三往復)

・大阪―神戸―高松―今治―高浜―別府線(関西汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―高松―今治―高浜―八幡浜―宇和島―宿毛線(関西汽船航路、一日一往復)

【岡山方面から四国へ】

・岡山―土庄―高松線(南備海運航路、一日一往復)

・宇野―日比―坂出線(一日一往復)

・田ノ口―下津井―丸亀線(一日三往復)

【広島方面から四国へ】

・尾道―宮浦―高浜―三津浜線(石崎汽船航路、一日一往復) 

・尾道―瀬戸田―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日三往復)

・竹原―宮浦―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日二往復)

・呉―鍋―二神―三津浜線(瀬戸内海汽船航路、一日一往復)

・阿賀―安居島―北条線(瀬戸内海汽船航路、一日一往復)

・宇品―鍋―御手洗―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日二往復)

【山口方面から四国へ】

・柳井―高浜―三津浜線(太陽運輸航路、一日一往復)

 このように、昭和25年当時、関西地方では大阪・神戸を起点に香川と愛媛の主要港を結ぶ定期航路があり、中国地方では瀬戸内海をはさんで対岸となる岡山と香川、広島と愛媛、山口と愛媛の間で観光航路や生活航路など、瀬戸内海を縦横につなぐ網目のようにさまざまな定期航路が運航されていたことがわかります。

 こうした海上交通の発展によって、四国遍路は第1番札所から巡らなくても上陸地近くの任意の札所から開始でき、区切りうちの場合も、巡拝を再開する札所近郊の港に到着する汽船が利用されました。

 本四架橋、高速道路、高速バスなど、四国の陸上交通が発達する以前において、遍路を始める者は全国各地から様々な汽船によって海を越えて四国に渡り、各港を起点とした四国巡拝が行われ、多様な四国遍路が展開されたものと考えらます。その巡拝内容や汽船を利用した遍路の実態についても今後、調査できればと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑫―御詠歌―

2023年9月1日

 「四国遍路道中図」には絵地図面の裏側に四国八十八箇所の御詠歌一覧(写真①②)が紹介されています。

写真① 御詠歌(「四国遍路道中図」江口商店版、当館蔵)
写真② 御詠歌41番~64番(「四国遍路道中図」部分)

 御詠歌(詠歌)とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994)によると、「お勤めの最後に謳う和歌で、経文読誦と同じ功徳があるとされる。または巡礼歌ともいう。詠歌の内容は、札所本尊の功徳や霊験、札所周囲の風景を謳ったものが多い」とある。また、その起源は不明とされ、空也上人が自作の和歌に節や調子をつけて唄ったものが巡礼歌の節のもとになったとする説、その後、時宗の第四世呑海がその節を完成させて「呑海節」を流行させたという話、西国巡礼では巡礼再興者とされる花山法皇が第三番粉河寺で詠んだのが最初であるとする説などが紹介されています。

 一例として、当館の近くに位置する四国八十八箇所霊場第43番明石寺(愛媛県西予市宇和町)の御詠歌「聞くならく千手の誓いふしぎには 大磐石もかろくあげ石」には、明石の地名の由来や本尊千手観音菩薩にまつわる伝説が謳われています。ここでは伝説について詳しく述べませんが、御詠歌の歌詞の意味を調べることは、その札所の歴史や特色を明らかにすることにつながります。

 現代の四国遍路マップやガイドブックには八十八箇所の御詠歌は掲載されていないものが多く、四国遍路の参拝においても、一般の遍路が御詠歌を唱える姿はあまり見かけられません。しかし、本堂などにかつて遍路が奉納した詠歌額(その札所の御詠歌を記した額)が掛けられている事例を多く見ることができます。

 ちなみに、四国八十八ヶ所霊場会の公式ホームページによると、札所参拝時の読経作法(勤行次第)は、合唱礼拝(がっしょうらいはい)、開経偈(かいきょうげ)、懴悔文(さんげのもん)、三帰依文(さんきえもん)、十善戒(じゅうぜんかい)、発菩提心真言(ほつぼだいしんしんごん)、三昧耶戒真言(さんまやかいしんごん)、般若心経(はんにゃしんぎょう)、御本尊真言(ごほんぞんしんごん)、光明真言(こうみょうしんごん)、御宝号(ごほうごう)、回向文(えこうもん)の順に行うことが紹介されています。御詠歌については、その中に含まれていませんが、各札所の理解がより深いものになるため唱えることを推奨しています。

 大正時代~昭和時代(戦前)にかけての「四国遍路道中図」には、「般若心経」をはじめとする上記の勤行次第の記載はありません。ただし、同時期に刊行された四国遍路案内記類は、唱える経典やその順番等の多少の相違はあっても勤行次第と御詠歌は掲載されているものが大半を占めます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に記載する勤行次第には、その札所の御詠歌を3遍唱えることとしています。

 「四国遍路道中図」が御詠歌のみを紹介している理由としては、一枚物という紙面の制約の中で、札所の本尊の略式御影(当ブログ③「札所の本尊御影」参照)を絵図面に掲載する関係と、八十八箇所の札所の歴史や本尊の功徳・霊験などを示した御詠歌を重視したためと推察されます。また、実際に四国遍路道中図が用いられた当時は、札所で御詠歌を唱える遍路も多かったのではないかと思われます。

 四国八十八箇所霊場の案内において、これまで各札所の御詠歌は重要な情報として紹介されてきました。江戸時代の四国遍路案内記の嚆矢ともいえる真念の『四国辺路(へんろ)道指南』やロングセラーとなった『四国徧禮(へんろ)増補大成』などには、札所番号、札所名、本尊名、本尊御影とともに札所の御詠歌は必ず紹介され、八十八箇所の霊場であることを示す証明する和歌(証歌)といえます。

 大正から昭和時代にかけての代表的な四国遍路のガイドマップとして用いられた四国遍路道中図からは、参拝にあたり御詠歌を意識したり唱えたりした当時の四国遍路の状況や、札所ごとの御詠歌が重視されていた江戸時代以来の巡礼の伝統が垣間見えてきます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑪―実際に使用された「四国遍路道中図」―

2023年8月19日

 今回は「四国遍路道中図」が実際に四国巡拝の道中で使用された事例について紹介します。

 当館の収蔵品の中に、昭和11年(1936)に新居郡高津村(新居浜市高津町)出身の女性(当時22歳)とその伯母が2人で四国遍路を行った時の巡礼資料があります。納経帳、遍路日記、巡礼用具(納札、札箱等)、記念写真などの資料群の中に、昭和9年(1934)発行の「四国遍路道中図」が確認できます(写真参照)。

写真 「四国遍路道中図」(昭和9年、金山商会版、当館蔵)

 四国遍路道中図はもともと道中での使用に供するため、携帯に便利な折り畳み式(地図折り)となっています。本図の法量は広げた時の大きさが縦39.2㎝×横53.5㎝。全体的に痛みが目立ち、折り目や端の部分はセロテープによって補強されています。かなりの頻度で本図が使用されたことを物語っています。

 女性二人が実際に四国遍路を行った2年前に発行された本図は、「四国第十番切幡寺麓辻角 仏具卸 金山商会」の広告入りで、「印刷兼発行人 徳島県阿波郡八幡町切幡 □保一郎」と記載されています。四国八十八箇所霊場第10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)付近にある金山商会で販売されたものであることがわかります。

 遍路日記によると、昭和11年3月15日多喜浜駅(新居浜市)を出発。鉄道を利用して観音寺駅(香川県観音寺市)で下車、第68番神恵院(同)から打ち始め、おおむね順打ちでまわり、第88番大窪寺(香川県さぬき市)から第10番切幡寺に進み、第1番霊山寺(徳島県鳴門市)まで逆打ちし、その後、第11番藤井寺(徳島県吉野川市)から順に進み、5月2日に帰省しています。のべ49日間の道中における移動手段は、徒歩の他に鉄道や自動車、船などを積極的に利用しています。本図を直接、現地の金山商会で買い求めたものか、あるいは伯母が事前に所有していたものか、金額はいくらだったのか、などについて日記には記載がありません。

 四国遍路道中図の種類には、これまで本ブログで紹介してきた渡部高太郎版が自身の経営する心臓薬本舗店の広告を大きく掲載し、「旅の心得」などの注意書きを省略した特殊なものもありますが、本図の金山商会版には「はしがき」「旅の心得」「郵便為替音信」「四国八十八ヶ所御詠歌」が記載され、その内容は現存する四国遍路道中図の種類の中で最も多く見受けられることから、金山商会版は典型的な四国遍路道中図といえます。

 「旅の心得」について見てみましょう。

 「初めて旅立順拜の道は、昔日は峻坂が多くありましたが、汽車馬車人力車などの乗りものもありますが、霊場巡拜は徒歩で廻るの習せゆへ、旅立の日は別て静に踏立、二三日は所々休み、同行ある時は其中の弱き人の足に合ふ様にすべし。道中所持すべき物は、なるだけ事少くすべし、品数多ければ失念、物有てかへって煩はしきものなり。旅舎に到着すれば、第一に其地の方位、宿の家造、便所、表裏の出入口等見覚へおくこと、近火、盗難、喧嘩等ある時の心得なり。早く立ち早く泊るは災難無きなり、又時間を急げばとて、川越、山ごえ、船の乗り降りは慎んでなすこと」(句読点は筆者による)。

 汽車、馬車、人力車など近代以降に様々な交通手段が発展しましたが、基本的に四国霊場巡拝は徒歩で行うことが習わしであると主張している点は注目されます。四国遍路道中図は主に徒歩遍路を対象に作成されていることがわかります。したがって、新交通情報の掲載は必要最小限の記載にとどめているものと考えられます。

 ちなみに、本図掲載の鉄道路線図を見ると、2人の四国巡拝の出発点となった予讃線(予讃本線)の多喜浜駅と最初に参拝した神恵院の最寄り駅の観音寺駅はもちろん記載されています。愛媛県内の南郡中~長浜間が未開通区間となっているのも当時の状況に合致しています。そういう意味において、四国遍路道中図には少なくとも鉄道路線の最新の基本的な情報は反映されているようです。

 こんにち四国遍路道中図は比較的多く残されていますが、実際に誰がいつ使用したものか分かるものは少ないように見受けられます。このことは古い遍路資料の残存状況に関係していると思われます。

 民家に伝わる遍路資料の傾向としては、先祖が四国遍路を行った際に作成した納経帳や使用した巡礼用具などが単独で残されている事例が一般的です。今回紹介した女性遍路資料のようにまとまった巡礼資料群として残っている事例は珍しいといえます。

 遍路日記や納経帳などの関連資料と一緒に残された四国遍路道中図は貴重で、それらを総合的に考察することで、巡礼者(お遍路)から見た昭和初期の四国遍路の実態を明らかにすることが可能となります。

 改めて四国遍路の道中で使用された本図を見ると、折り目の補修痕は、長い旅路で苦楽を共にし、何度も何度も本図を頼りにした証であり、遍路を支えた大切な羅針盤のようにも思われます。

 なお、女性二人による四国遍路について、「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から」№119「戦前女性遍路の写真」(令和4年6月5日愛媛新聞掲載)で紹介しています。ご参照ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑩―「四国遍路道中図」の種類―

2023年8月18日

 「四国遍路道中図」は、主に四国八十八箇所の札所周辺や遍路道沿いで巡拝用具や土産物などを取り扱う商店などで販売・配布され、遍路の道中の手引きとして用いられました。四国遍路道中図には発行者や販売店などの名前や宣伝広告が記載され、印刷・発行年の記載があるものと不明のものがあります。

 今回は「四国遍路道中図」の種類について見てみましょう。

 当館所蔵資料の中には、本ブログで取り上げた昭和13年(1938)発行の心臓薬本舗渡部高太郎版、同9年(1934)の第10番切幡寺麓の仏具卸金山商会版、同12年(1937)の切幡寺麓の製本店光栄堂版、無刊記の徳島県撫養港の江口商店版、さらに「四国遍路道中図」の古版と考えられる、大正6年(1917)に発行された大阪の駸々堂版などがあります。

 江口商店版(写真①)は撫養港(徳島県鳴門市)で四国巡拝道具一式を扱っていた江口商店が発行したもので、主に近畿地方以東から航路で四国に上陸する遍路を対象に作成されたものと考えられます。これまで紹介した渡部高太郎版は自身が経営する心臓薬本舗の広告を大きく掲載した特異な存在でしたが、江口商店版には「はしがき」「旅の心得」「郵便為替音信」「四国八十八ヶ所御詠歌」が記載され、典型的な四国遍路道中図の構成となっています。

写真① 四国遍路道中図(江口商店版、当館蔵)

 駸々堂版(写真②)は大正時代に大阪の駸々堂から旅行案内図として発行されたものです。駸々堂はかつて京都・大阪で書店や出版業を営んでいた大手の出版社です。駸々堂版は四国遍路道中図の古版として位置付けられ、それらをもとに昭和時代の四国遍路道中図へと展開したと推察されます。

写真② 四国遍路道中図(駸々堂版、大正6年、当館蔵)

 館蔵品以外で筆者が確認できた四国遍路道中図は、第1番霊山寺前の浅野商店版、徳島県板野郡坂東駅前の藤井商店版、徳島県坂東町の小林商店版、徳島県阿波郡八幡町切幡の浅野本店版、イナリヤ総本店、徳島市佐古町の渡部商会版などがあります。四国遍路道中図は内容を最新の情報に改訂しながら、各地で様々なものが作成されたと考えられます。

 既存の四国遍路道中図の発行・販売地の傾向としては、四国遍路のスタート地点となる徳島県内の撫養港、坂東駅、霊山寺や第88番大窪寺から合流する地点にある切幡寺周辺で発行されているものが多いといえます。現存数も多い「四国遍路道中図」は、近代の四国遍路の代表的なガイドマップとして広く用いられたことがわかります。

 なお、今回紹介した大正時代の四国遍路道中図については、愛媛新聞掲載の「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から」の「№100 大正時代の四国遍路地図」で紹介しました。詳しくは当館ホームページ(https://www.i-rekihaku.jp/research/monogatari/article/100.html)をご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情➈―坂・峠 ―

2023年8月4日

 四国遍路でよく用いられる言葉に「遍路ころがし」があります。それは、遍路道があまりにも急なために歩くのが困難で転倒しそうになるぐらいの坂道がある難所を指します。例えば、標高の高い山中に立地する第12番焼山寺(標高約707m)、第20番鶴林寺(標高約500m)、第21番太龍寺(標高約507m)、第27番神峰寺(標高約431m)、第60番横峰寺(標高約743m)、第66番雲辺寺(標高約898m)などに至る急峻な遍路道が挙げられます。

 遍路ころがしと言わないまでも、自然豊かな四国の遍路道には坂や峠が数多く存在します。現存する最古の四国遍路絵図として知られる細田周英「四国徧礼(へんろ)絵図」には、遍路道のルート上にある坂や峠の情報が詳細に記載されています。坂は傾斜地(勾配のある道)の途中、峠は山と山とが連なる鞍部を意味しますが、厳密には峠と坂の区別は曖昧なようです。

 今回は、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)において、峠と坂について、どのように紹介されているのかを見てみましょう。

 本図の凡例によると、赤の実線が「順拝指道」を示し、四国遍路の道筋を表しています。また、次の到着地までの距離が注記されていますが、遍路ころがし、坂、峠などの遍路道の細かな情報はほとんど記載されていません。

 しかし伊予(愛媛県)に限っていえば、松尾坂、柏坂、檜皮峠(鴇田峠・ひわだとうげ)、三坂峠の記載が確認できます。注目したいのは、松尾坂、柏坂、三坂峠は凡例に示す「名所古跡」(〇印)として紹介されている点です(写真①➁)。

写真① 松尾坂と柏坂(「四国遍路道中図」部分)
写真② 檜皮峠(鴇田峠)と三坂峠(「四国遍路道中図」部分)

 松尾坂(現在の松尾峠。愛媛県南宇和郡愛南町小山と高知県宿毛市大深浦の県境にある峠。標高約300m)は予土国境を通る遍路道です。江戸時代には土佐国側には深浦番所、伊予国側には小山番所が設置され通行人の取り締まりが行われました。探検家の松浦武四郎は「西は柏しま、沖ノ島、姫島等燦然と見え、また雲間ニ九州を望ミ、其眺望筆紙ニつくしがたし」と、松尾峠から見た宿毛湾の絶景(写真③)を称えています。ちなみに、順打ちで第40番札所観自在寺へ至る道は「観自在寺道」と呼ばれて、県境の松尾峠から愛媛県側の一部は平成30年に国史跡「伊予遍路道」に追加指定されました。  

写真③ 松尾坂(松尾峠)からの眺望(当館撮影)

 柏坂(愛南町柏と宇和島市津島町の境にある峠。標高約460m)は、第40番観自在寺から宇和島に至る遍路道の途中にあり、峠越えの難所として知られています。柏坂には柳水大師、清水大師、接待松、茶堂の大師堂などの番外霊場があり、とくに峠からの展望は素晴らしく、眼下に宇和海や由良半島を見渡すことができ(写真④)、見どころが多い峠越えの道です。

写真➃ 柏坂からの眺望(当館撮影)

 三坂峠(松山市と上浮穴郡久万高原の市町境にある峠。標高約720m)は「遍路ころがし」といわれ、沿道には行き倒れたと思われる遍路墓が見られます。貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』には、三坂峠からの素晴らしい景観を愛でている遍路の姿が挿絵として掲載されています。徒歩による遍路は宇和島から第45番岩屋寺まで長らく山中を歩きます。そして三坂峠でついに視界が開けて、松山城下や瀬戸内海を眼下にすることができました(写真⑤)。寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』にも三坂峠からの眺望の風景が図版入れで紹介されています。

写真⑤ 三坂峠からの眺望(当館撮影)

 松尾坂、柏坂、三坂峠から眺める風景は古くから絶景として知られ、難所とされた場所でしたが四国遍路における人気スポット・名所でした。こうしたことから「四国遍路道中図」に名所として紹介されたものと考えられます。

 なお、檜皮峠(鴇田峠、標高約800m)は久万高原町二名地区と久万地区を結ぶ街道で、第44番札所に至る大寶寺道に位置します。

 峠越えの山道は徒歩利用の遍路にとつて最も体力や時間を費やす過酷な道中となります。そのため、汽船、鉄道、乗合自動車など近代以降に発展した新交通を積極的に利用して、峠道をなるべく歩かずに四国遍路を行う巡礼者が増加します。昭和9年の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、例えば、松尾坂を通らない方法として、高知県宿毛から深浦まで宇和島運輸汽船(1時間、50銭)を利用する。柏坂についても観自在寺参拝後に平城から宇和島まで汽船(4時間半、90銭)を利用。三坂峠の場合は久万から松山方面へ乗合自動車を利用するなどして、険しい峠越えの山道を歩くことを回避できました。  

 四国遍路は移動手段によって巡拝ルートや日程などが大きく左右されます。徒歩による遍路はあらゆる面で大変ですが、本図で名所として紹介する松尾坂、柏坂、三坂峠からの絶景を眺めることができる貴重な機会を得ることができます。歩き遍路の醍醐味の一つともいえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑧―鉄道・伊予鉄道―

2023年7月29日

 四国遍路と鉄道について、今回は愛媛県松山地方の伊予鉄道の事例を紹介します。

 伊予鉄道会社は明治20年 (1887) 、実業家の小林信近によって創立された鉄道会社で民間軽便鉄道としては日本初のものでした。翌21年に四国初の鉄道として松山(翌年外側、明治35年松山、昭和2年松山市に駅名改称)~三津間の営業が開始されました。その後、伊予鉄道は同25年に三津~高浜、同26年に外側~平井河原(現平井)、同29年に立花~森松(森松線は昭和40年廃止)、同32年に平井河原~横河原、同33年(1900)に道後鉄道(古町~道後~一番町)と南予鉄道(藤原~郡中)を合併、大正10年(1921)に松山電気軌道を合併、昭和2年(1927)に萱町~江ノ口間(旧松山電気軌道線)を廃止、同14年に郡中~郡中港を開業するなど、順次路線を拡大していきました。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で、伊予鉄道を確認してみましょう(写真①)。

写真① 松山地方と伊予鉄道(「四国遍路道中図」部分)

 本図には香川県で開業した高松電気鉄道(現在の高松琴平電気鉄道長尾線)と東讃電気鉄道(同志度線)などが記載されていますが、愛媛で発行されたためか、伊予鉄道の会社名や路線名は記載されていません。そのため松山周辺における国鉄予讃線(予讃本線)と伊予鉄道の路線の区別がわかりにくくなっています。伊予鉄道の駅名として確認できるのは、松山~古町~一番町~道後温泉、松山~余戸~岡田~松前~地蔵町~郡中(現在の郡中線)、立花~石井~森松(旧森松線)、立花~久米~平井~田窪~横河原(現在の横河原線)。ただし、伊予鉄道の最古路線となる松山~高浜間(現在の高浜線)は詳しく記されていません。沿線に位置する四国霊場第52番太山寺と第53番圓明寺は線路上に記載されています。

 松山地方には四国八十八箇所霊場のうち、第46番浄瑠璃寺から第53番圓明寺まで八箇寺があり、四国霊場の全体から見ると札所が集中しています。そしてそれらの巡拝ルート上に、古代から有名な道後温泉が位置します。

 本図は言うまでもなく正確な地図ではなく、タイトルに「四国遍路道中図」とあるように、その本質は道中絵図です。札所が多く、都市部で鉄道などの開発が進んだ松山地方の詳細な情報の記載は難しかったと推察されますが、絵図だからこそ一目瞭然で視覚的に四国巡拝道がわかりやすくイメージとして捉えることができるという利点もあります。昭和14年(1939)に郡中~郡中港間が延伸されますが、昭和13年発行の本図の郡中線の終着駅はまだ郡中駅となっています。四国遍路道中図には発行年の最新の鉄道情報が反映されていることに変わりありません。

 本図では伊予鉄道を利用した松山地方の札所の巡拝については詳しく記されていませんが、伊予鉄道が大正10年 (1921) ~昭和2年(1927)頃に発行したと見られる案内パンフレット「イヨテツ 七ヶ寺詣り御案内」(写真②、個人蔵)によると、伊予鉄道で三津駅か高浜駅で下車し、52番太山寺を最初に参詣し、再び高浜駅から森松駅まで行き、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺、49浄土寺、50番繁多寺と順に進み、51番石手寺を参詣後に道後温泉で休息するのが良い道順であるとしています。これは四国八十八箇所巡拝でなく松山地方の小規模巡礼といえる「七ヶ寺詣り」を行う際の伊予鉄道を利用した推奨ルートであるため、四国遍路とは少し性格が異なりますが、実際に松山地方に住む人が四国遍路を行う際には、太山寺から巡拝を始めて石手寺で結願して、最後に道後温泉で旅の疲れを洗い流して故郷に戻るという四国巡拝のルートが多く利用されました。

写真② 案内パンフレット「イヨテツ 七ヶ寺詣り御案内」

 伊予鉄道の路線の発展は、沿線に最寄り駅がある西林寺(旧森松駅)、浄土寺(久米駅)、石手寺(道後温泉駅)、太山寺(三津駅か高浜駅)などの松山地方の札所を起点とした鉄道利用による変則的な四国霊場巡拝を可能としました。  また、伊予鉄道は昭和28年(1953)に四国霊場八十八箇所巡拝バスをいち早く運行するなど、今日の団体バスツアーによる四国遍路の草分け的存在となり、四国遍路の巡拝方法に大きな影響を与えました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑦―鉄道・宇和島鉄道―

2023年7月28日

 四国遍路と鉄道について、前回とりあげた予讃線に続いて、今回は予土線の前身となった宇和島鉄道の事例を紹介します。

 明治政府は近代化のために富国強兵や殖産興業の一環として、鉄道網を全国に拡大させることが急務でした。そのため、明治25年(1892)の鉄道敷設法、同39年(1906)の鉄道国有法、同43年(1910)の軽便鉄道法などを公布し、全国各地で官営や民営による鉄道の建設が促進され、愛媛でも宇和島鉄道や愛媛鉄道などが誕生しました。

 宇和島鉄道は、宇和海に臨む宇和島と広見川(四万十川上流)域を結ぶ軽便鉄道(軌間762㎜)でした。山間部の産物を宇和島の市場に送り、船便で各地に輸送する目的から、明治27年(1894)に今西幹一郎、玉井安蔵ら地元有志によって建設が計画されました。同44年(1911)に鉄道開設の免許が下付されて宇和島軽便鉄道株式会社(翌年宇和島鉄道と改称)が設立され、大正3年(1914)に宇和島~近永(北宇和郡鬼北町)間が開通、同12年(1923)には近永~吉野(現在の吉野生駅、北宇和郡松野町)間まで延長しました。その後、国鉄予讃本線が南予に延長するのに伴い、昭和8年(1933)に国有化され省線宇和島線となりました。同16年(1941)には全線を改軌(軌間を1067㎜に変更)、北宇和島駅~務田駅間の新線が開業され、北宇和島駅が起点となりました。予土線となるのは、昭和49年(1974)で、江川崎駅(四万十市)~若井駅間(高岡郡四万十町)が開業してからのことです。

 それでは、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で宇和島鉄道を確認してみましょう(写真①)。当時は国有化され省線宇和島線と改称されています。

写真① 省線宇和島線・旧宇和島鉄道(「四国遍路道中図」部分)

 宇和島には四国八十八箇所の本札所はありませんが、本図には番外霊場の龍光院と和霊神社が記載されています。順打ちの場合、宇和島から次の札所となる成妙村戸雁(現在の宇和島市三間町戸雁)の第41番龍光寺までの距離は「二リ十丁」(約9㎞)とあります。宇和島から線路が伸びているのが省線宇和島線(旧宇和島鉄道)です。宮ノ下(現在の伊予宮野下駅)、近永、吉野まで鉄道が開通していることがわかります。当時、宇和島~近永区間には務田駅、二名駅、大内駅、深田駅、近永~吉野区間では出目駅(北宇和郡鬼北町)、松丸駅(北宇和郡松野町)が開業していますが、本図ではそれらの駅名が省略されています。宮ノ下駅の近くに第41番札所稲荷山龍光寺が位置しています。ちなみに宮野下の地名は天平10年(738)に大三島から三島神社が勧請され、その門前町が形成されたのが起源とされています。

 四国霊場第41番札所は神仏習合の江戸時代までは「稲荷」「稲荷宮」と呼ばれ、稲荷社が札所でしたが、明治期の神仏分離により、近代以降はその別当寺を務めた龍光寺が41番札所となった歴史的経緯があります。そのため、龍光寺参道の入口には元禄5年(1692)建立の石鳥居、龍光寺境内に隣接する上段に稲荷神社が鎮座し、現在でも江戸時代の札所であった稲荷社の面影が色濃くのこっています(写真②)。

写真② 第41番札所龍光寺の参道にある元禄5年(1692)建立の石鳥居(当館撮影)

 大正時代に宇和島鉄道が開通したことにより、宇和島駅から乗車して務田駅もしくは宮ノ下駅で下車すると、龍光寺へのアクセスが便利になりました。昭和5年(1930)の島浪男(飯島実)『札所と名所 四國遍路』には、宇和島鉄道を利用した感想が綴られています。

 「首の長い煙突を鵞鳥(がちょう)のやうに誇らしく押し立てた古くて小型の機関車が、それに相応した四五両の客車を牽いてごとごとと走る様は、たしかに田園風景をユーモラスなものにするのであるが、交通機関を利用して四十一番龍光寺に詣るとなると、今のところ宇和島から、かうした汽車の宇和島鉄道で己れまづその景中の人となって務田まで行かなければならない(中略)宇和島駅~務田駅間は五哩(マイル)、所有時間40分、汽車賃25銭、務田駅から寺まで一八町(約2㎞)、車馬なし」と記されています。古い小型の機関車は、ドイツのコッペル社から購入したものと推察されます。

 また、同9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「汽車を利用する人は省線宇和島線で務田駅下車」とあり、汽車賃は13銭と記されています。国有化されたことにより、汽車賃が宇和島鉄道時代よりも安くなっているようです。同25年(1950)の橋本徹馬『四国遍路記』には、「宇和島駅を十一時過ぎに発する吉野口行きの汽車に乗って、務田駅にて降り(実は宮野下駅の方が寺に近い)第四十一番龍光寺に向ふた」とあり、移動する汽車の中で効率よく昼食(弁当)をとっています。

 本図には龍光寺の最寄り駅となる務田駅の記載がなく、積極的な利用を推奨していませんが、これらの四国遍路ガイドブックの記載から、省線宇和島線(旧宇和島鉄道)を利用して、宇和島市内から龍光寺を巡拝する多くの遍路がいたことが容易に想像されます。

 ところで、務田駅近く(現在のJR務田駅北西踏切付近)には、大正15年(1926)に「(手印)四十壱番札所道/巡拝記念 本郷竹葉家未歳女/大正十五年□□建立」と刻まれた遍路道標石(写真③)が立てられています。この道標石設置の背景には、明治24年(1891)に宇和島と宮野下を結ぶ県道の開通、大正3年に宇和島鉄道と務田駅開業など、近代の交通環境の発展にともない、江戸時代以来の遍路道であった窓峠(まどのとう)を歩かず、鉄道を利用して務田から龍光寺に向かう遍路が増加したため、新しい道案内標示が必要となって建てられたことが推察されます。

写真③ 務田駅近くに大正15年(1926)に建てられた遍路道標石(当館撮影)

 このように大正3年の宇和島鉄道の開通は、四国遍路において南予地方における巡拝のあり方に大きく影響を与えました。

 なお、宇和島鉄道の宇和島駅舎や近永駅舎などを撮影した貴重な古写真がこのたび当館に寄贈されました。詳しくは、平井誠(当館専門学芸員)執筆「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から145」(令和5年7月20日愛媛新聞掲載)をご参照ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑥―鉄道・予讃線―

2023年7月21日

 今回は昭和13年(1938)発行の四国遍路道中図(当館蔵)から、四国遍路における鉄道利用について、伊予(愛媛県)の事例を紹介します。

 本図の凡例には「鉄道及停車場」「電鉄及軌道」「未成線」などの記号があり(写真①)、戦前の四国の鉄道網がわかります。愛媛県内では、鉄道省による省線(旧日本国有鉄道)と伊予鉄道の横河原線、森松線、郡中線などの路線が確認できます。

写真① 凡例(「四国遍路道中図」部分)

 その中でも四国の鉄道で最長路線となる予讃線(当時の路線名称は「予讃本線」)は、高松駅(香川県高松市)から松山駅(愛媛県松山市)を経て、宇和島駅(同県宇和島市)に至ります。予讃線の歴史は明治以降に讃岐鉄道、山陽鉄道、愛媛鉄道などの各地域における民間会社による鉄道(私鉄)の開通、その後の買収、路線の編入、国有化などを経て、順次、路線が延伸されました。全線が開通したのは終戦間近の昭和20年(1945)6月20日で、最後の不通区間であった八幡浜駅(八幡浜市)~卯之町駅(西予市)の開業によって達成されました。

 本図で予讃線(予讃本線)を確認してみましょう。本図発行の昭和13年頃は全線開通以前のため、高松駅から新居浜駅、今治駅、松山駅、長浜駅、大洲駅を経て平野駅(伊予平野駅、大洲市)までの区間が開通していることがわかります(写真②③)。

写真② 予讃線(高松駅~松山駅「四国遍路道中図」部分)
写真③ 予讃線(松山駅~平野駅「四国遍路道中図」部分)

 本図に示す予讃線の愛媛県内の駅を東予→中予→南予の順に列記しました。参考のため( )内に現在の駅名、所在地、開業年、最寄りの主な四国霊場などをあげます。※印は予讃線関連の古い絵葉書(当館蔵)を紹介します。

 ・川之江駅(四国中央市、大正5年開業。第65番三角寺)

 ・イヨ三島駅(伊予三島駅、四国中央市、大正6年開業)

 ・イヨ土居駅(伊予土居駅、四国中央市、大正8年開業。番外霊場延命寺)

 ・タキ浜駅(多喜浜駅、新居浜市、大正10年開業)

 ・新居浜駅(新居浜市、大正10年開業)

 ・中萩駅(新居浜市、大正10年開業)

 ・西條駅(伊予西条駅、西条市、大正10年開業)

 ・石鎚駅(石鎚山駅、西条市、昭和4年開業。第64番前神寺)

 ・小松駅(伊予小松駅、西条市、大正12年開業。第60番横峰寺、61番香園寺・62番宝寿寺・63番吉祥寺)

 ・壬生川駅(西条市、大正12年開業)

 ・三芳駅(伊予三芳駅 西条市、大正12年開業)

 ・櫻井駅(伊予桜井駅 今治市、大正12年開業。第59番国分寺)

 ・富田駅(伊予富田駅、今治市、大正13年開業)

 ・今治駅(今治市、大正13年開業。第55番南光坊)

 ・波止浜駅(今治市、大正13年開業)

 ・大井駅(大西駅、今治市、大正13年開業。第54番延命寺)

 ・菊間駅(今治市、大正14年開業。番外霊場遍照院)

 ・北條駅(伊予北条駅、松山市、大正15年開業)

 ・三津駅(三津浜駅、松山市、昭和2年開業、第52番太山寺)

 ・松山駅(松山市、昭和2年開業) ※(写真④)

写真➃ 絵葉書「松山国鉄停車場」(当館蔵・灘口コレクション)

 ・北伊豫駅(北伊予駅、伊予郡松前町、昭和5年開業)

 ・南郡中駅(伊予市駅、伊予市、昭和5年開業)

 ・上灘駅(伊予上灘駅、伊予市、昭和7年開業) 

 ・下灘駅(伊予市、昭和10年開業)

 ・長濱駅(伊予長浜駅 大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)

 ・上老松駅(伊予出石駅、大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業。番外霊場出石寺)

 ・加屋駅(伊予白滝駅、大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)※(写真⑤)

写真⑤ 絵葉書「伊予国喜多郡白瀧村 大越隧道東口愛媛鉄道大洲行列車 左ハ相生川岸」(当館蔵・灘口コレクション)

 ・八多喜駅(大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)

 ・五郎駅(大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業。番外霊場十夜ヶ橋)

 ・大洲駅(伊予大洲駅、大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)

 ・平野駅(伊予平野駅、大洲市、昭和11年開業)

 こうしてみると、予讃線は東予地方から次第に中予地方へ、そして南予地方では愛媛鉄道を買収して路線に組み入れるなどして延伸していく過程がわかります。また、大正9年(1920)に愛媛鉄道の内子線の駅として開業して、昭和8年(1933) に国有化された内子駅も確認できます。また、平野駅~八幡浜駅(八幡浜市)、八幡浜駅~宇和島駅までの区間は未成線として記載されています(写真⑥)。

写真⑥ 予讃線(平野駅~宇和島駅「四国遍路道中図」部分)

 これらからわかることは、本図は予讃線全線開通前の四国の鉄道網の様子が見て取れます。厳密にはすべての駅を記載していませんが、注目したいのは、こうした最新の鉄道情報が四国遍路道中図の内容に随時、反映されている点です。遍路に限らず交通インフラの整備は今も昔も四国にとって最大の重要な関心事であるといえますが、従来の伝統的な歩き遍路による巡拝のほかに、鉄道などの新交通手段を積極的に活用した遍路が増加する時代背景が読み取れます。

 昭和9年(1934)の四国遍路のガイドフック・安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、次に参拝する札所ごとに、予讃線を利用した順路と運賃が記載されています。

 ・番外出石寺(大洲駅~長浜駅、25銭)

 ・第52番太山寺(松山駅~三津浜駅、7銭)

 ・第53番圓明寺(松山駅~和気駅、13銭)

 ・番外遍照院(和気駅~菊間駅、35銭)

 ・第54番延命寺(菊間駅~大井駅、16銭)

 ・第55番南光坊(菊間駅~今治駅、33銭)  

 ・第60番横峰寺(桜井駅~小松駅、27銭)

 ・番外延命寺(石鎚山駅~土居駅、47銭)

 ・第65番三角寺(土居駅~三島駅、18銭)

 予讃線の場合、愛媛ではとくに中予・東予地方の札所へのアクセスに利用されています。

 四国遍路において鉄道利用は、巡拝のルート変更、巡拝先や巡拝順序、宿泊先の変更、所要時間の削減などいろんな点で影響を与え、四国遍路の旅の様相が変わりました。時間的且つ体力的に余裕が生じた遍路は、起点となる駅周辺の名所旧跡などを見学コースに採り込んだ観光を主とした新四国遍路プランの登場、一日の本数が少ない鉄道の時刻に制約されて、本来参拝していた番外霊場などを割愛する現象も生じました。いずれにせよ、近代以降の鉄道の発展・普及によって、四国遍路の大衆化や観光化が一層促進されたと考えられます。  

 なお、松山地方の伊予鉄道、南予地方における宇和島鉄道と四国遍路については別途紹介したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑤―郵便局―   

2023年7月15日

 今回は四国巡拝中の遍路とその家族との連絡方法について見てみましょう。

 現代社会では通信技術の進化や携帯電話、インターネットの普及により、巡礼者と家族等との連絡は瞬時に行うことができます。実際に四国巡礼をしながらにその様子をリアルタイムでSNSに情報発信している人も多く見受けられます。四国遍路においても高度通信化によるグローバルな時代となりました。

 では、戦前までの遍路の場合はどうだったのでしょうか。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)には、図中に四県別に「札所ニテ郵便局所在地」の文字情報が記載されています(写真①~④)。それを以下にまとめました。参考のため( )内に最寄りの四国八十八箇所霊場の札所を表記しました。

【阿波・徳島県】

 板野郡坂東町の坂東郵便局(第1番霊山寺、2番極楽寺)、同郡板西町の板西郵便局(第3番金泉寺)、名東郡上八万村の一宮郵便局(第13番大日寺)、同郡国府町の国府郵便局(第14番常楽寺・15番国分寺・16番観音寺)、那賀郡立江町の立江郵便局(第19番立江寺)、同郡新野町の新野郵便局(第22番平等寺)、海部郡日和佐町の日和佐郵便局(第23番薬王寺)  

写真① 阿波の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

【土佐・高知県】

 安芸郡室戸村の室戸郵便局(第24番最御崎寺、第25番津照寺)、吾川郡長浜村の長浜郵便局(第33番雪渓寺)、高岡郡高岡町の高岡郵便局(第35番清滝寺)、同郡窪川町の窪川郵便局(第37番岩本寺)

写真② 土佐の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

【伊予・愛媛県】

 南宇和郡御荘町の平城郵便局(第40番観自在寺)、周桑郡小松町の小松郵便局(第61番香園寺)

写真③ 伊予の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

【讃岐・香川県】 

 三豊郡観音寺町の観音寺郵便局(第68番神恵院・第69番観音寺)、同郡桑山村の本山郵便局(第70番本山村)、仲多度郡善通寺町の善通寺郵便局(第75番善通寺)、同郡国分町の国分郵便局(第80番国分寺)、大川郡志度町の志度郵便局(第86番志度寺)、同郡長尾町の長尾郵便局(第87番長尾寺)

写真④ 讃岐の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

 こうして見ると、市中心部でなく郡部や僻地などに立地する八十八箇所霊場の札所寺院近くの郵便局が列記されていることがわかります。

 本図は発行元の広告が紙面を割いているため、四国遍路における具体的な郵便局の活用については言及されていませんが、江口商店発行などの他の「四国遍路道中図」には、上記の「札所ニテ郵便局所在地」とともに「郵便為替音信」について次のように紹介されています。

 「旅行中成べく音信を多くし又故郷の安否郵便為替の通達を知るは心の力となり故に予め郵便局の所在地日数を謀り目的の郵便局留置きに送達せば便利なり」

 遍路とその家族との安否連絡や郵便為替の送付のために、あらかじめ札所近くの郵便局に到着する日程を遍路自らが計算して、その郵便局宛に郵便物等を送ってもらうことが便利であると記されています。今日の郵便局における「郵便局留・郵便私書箱」のサービスと同様です。

 四国遍路のガイドブックを確認すると、明治44年(1911)発行の三好廣太『四国霊場案内記』に「郵便の心得」が詳しく記されています。

 「郵便は旅中互ひに、無事有事を知らせますに最も必要ですが、旅行者より家族に通信するは、いつでも出来ますが、家族より毎日の巡拜に居所定めぬ旅行者に宛る通信、特に為替など差出す時には発信者に於て最も注意をせねばなりません、(中略)若し為替書留等を要する場合には、予め往復の日数と毎日自己の進行する里数とを測りて、為替請取場所を定めて家族に知らせますと、迂回又は後戻り等に日子(日数の意味)を費す不幸も見ません」とあります。

 長い道中を旅する遍路にとって大金を所持するのは危険です。そのため、必要に応じて、家族から巡礼中の遍路に確実に送金する簡易な手段として郵便為替が推奨されました。遍路は郵便局で金銭を受け取ることになるため、受け取りを行う郵便局は、自分自身の巡礼の進み具合を計算して決める必要がありました。実際に郵便局を間違えて、迂回や後戻りした遍路もあったようです。

 四国遍路において、全国津々浦々にある郵便局は遍路と家族との音信や郵便為替などで大いに利用されました。また、当時は札所寺院においても巡礼者宛の郵便物や荷物等を預かり、遍路とその家族の情報連絡の中継場所として機能していました。