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文化人シリーズ切手

2024年1月11日

今回は現在開催中のテーマ展「日本の切手と葉書」から、文化人シリーズを紹介します。

切手の中には一つのテーマにもとづいて数年間にわたり発行されたシリーズものがあります。今回紹介する文化人切手は、昭和49(1974)年から同52年にかけて、18人の文化人の肖像が切手として発行されました。

 文化人の中には、文学者、教育者、歌舞伎役者、俳人だけでなく、科学者、医学者、宗教者、天文学者なども含まれています。みなさん、次の切手の人物が誰かわかりますか? (※答えは一番下に記載しています)


1862~1922 現島根県津和野町出身。 医学博士。文学博士。 『舞姫』、『阿部一族』、『高瀬舟』の作者 。
1872~1896 現東京都千代田区出身。『うつせみ』、『十三夜』、『たけくらべ』の作者 。
1867~1902 現愛媛県松山市出身。『歌よみに与ふる書』を新聞「日本」に連載し、短歌の革新にのりだす。長い病床生活の中で多くの俳句を遺す。

1859~1935 現岐阜県美濃加茂市出身。写実主義である『小説神髄』の作者。 シェイクスピアの全作品を翻訳刊行。

【答え】上から順に森鴎外、樋口一葉、正岡子規、坪内逍遥

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑲―大寶寺道と里程―

2023年11月10日

 大寶寺道は、第43番札所明石寺(西予市宇和町)から第44番札所大寶(宝)寺(上浮穴郡久万高原町)に至る約67.2㎞の道のりです。愛媛の遍路道では札所間の距離が最も長い区間となります。
 令和5年10月、大寶寺道の西予市宇和町久保~大洲市野佐来に至る「鳥坂峠越」(写真①)の区間(大洲市側約2.3km、西予市側約1.5km)が古道としての状態を比較的良好にとどめているため、新たに国史跡「伊予遍路道」に追加される見込みとなりました。鳥坂峠(標高約466m)は宇和島藩と大洲藩とを結ぶ主要街道にあり、江戸時代の四国遍路案内記や遍路絵図に紹介され、峠には茶店や接待所があり、賑わいを見せました。

写真① 大寶寺道・鳥坂峠(当館撮影)


 国史跡「伊予遍路道」として大寶寺道が最初に指定されたのは平成31年(2019)で、大寶寺道のスタート地点となる「明石寺境内」と、明石寺から卯之町までの区間755mが指定されています(写真➁)。

写真② 大寶寺道・明石寺~卯之町(当館撮影)


 それでは昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で大寶寺道を確認してみましょう(写真③)。

写真③ 「四国遍路道中図」部分 大寶寺道(明石寺~大寶寺)、当館蔵


  明石寺から大洲までは「十二リ」、明石寺から番外十夜橋までは、卯之町、下松葉、上松葉、田苗、真土、大江、久保、(鳥坂峠)、大洲へ進み「四十三番ヨリ六里七丁」、十夜橋から大寶寺までは、内子、五百木、掛木、成弥、中田渡、上田渡、白株、下サカバ、上サカバ、二名、檜皮峠、久万へ進み、「十夜橋ヨリ内子ヲ経テ大宝寺ヘ十一里七丁」と記されています。本図で大寶寺道の距離を合計すると十八里四丁となります。
 ある場所から他の場所までの道の長さを里程(りてい)といいますが、本図では距離の単位は現在の「メートル」でなく「里丁(町)」で記載されています。昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人(第32版)』(此村欽英堂発行)は、四国遍路の正しい里程を実測して記載した案内記ですが、大寶寺道は「次ぎ(大寶寺)へ十七里十四丁餘(旧二十一里)」とあります。本図と若干里数が異なりますが、注目したいのは「旧二十一里」の方です。これは江戸時代の里程を示しています。
 貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』では、「是(明石寺)より菅生山(大寶寺)迄廿一里」と記載され、江戸期の四国遍路絵図や案内記では大寶寺道は21里と紹介されています。実際、大寶寺道のスタート地点となる明石寺境内に建つ武田徳右衛門の遍路道標石(文化年間建立)には、「(梵字)(大師像)これより菅生山迄二拾壹里/願主 越智郡朝倉上村 徳兵ヱ門施主 備中國窪庭郡倉浦村 朝屋清兵ヱ」と刻まれ、二十一里と合致しています(写真④)。

写真④ 明石寺境内の大寶寺道入口に建てられた武田徳右衛門の遍路道標石(当館撮影)


 江戸時代は尺貫法が用いられ、国や街道によって1里の定義が異なり、
阿波国は「四十八町一里」、土佐国は「五十町一里」、伊予・讃岐国は「三十六町一里」と定められていましたが、明治9年(1876)に1里=36町=3.9273㎞。1町=109.09091mに全国統一されます。
 18世紀末のフランスで世界共通の単位制度としてメートル法が提唱され、明治8年(1875)にメートル条約が締結、同18年(1885)に日本が加盟、同24年(1891)に度量衡法(どりょうこうほう)公布によりメートル導入されますが普及せず、大正10年(1921)に度量衡法の改訂によって、尺貫法からメートル法へ単位の統一が図られました。その後、昭和26年(1951)に度量衡法を全面的に見直した計量法が公布され、昭和34年(1959)1月からメートル法が完全に実施されました。このように日本におけるメートル化には度量衡をめぐる歴史的な背景がありました。そのため、本図に限らず戦前・戦後しばらくは四国遍路絵図や案内記の距離の表記は旧来の里丁が用いられています。 
 四国遍路の絵地図や案内記、道標石などの里程の単位や距離は、札所の所在地や遍路道のルート、新道の開通など、四国霊場と遍路道の時代的な推移を考える指標となります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑱―弘法水―

2023年11月3日

 あらゆる分野に偉業を残した弘法大師空海にまつわる伝説は日本各地にあります。その中でも特に多いのが弘法大師の奇瑞(きずい)によって沸いたと伝えられる弘法水伝説です。四国にも数多くの弘法水があります。

 今回は昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)をもとに愛媛の主要な弘法水を紹介します。本図には3つの弘法水が地図上に記載されています(写真①)。ただし正確な地図でないため、それらの位置はあくまでイメージです。

写真① 弘法水(「四国遍路道中図」渡部高太郎版)

 ・「杖ノ淵(じょうのふち)」は松山市南高井にあります(写真②③)。ここは四国霊場48番西林寺の奥之院となっています。その由来は、四国巡礼中の空海がこの地を通りかかった際に、住民が干ばつに苦しんでいた。これを見た空海は杖を突き立てると清水が湧き出て淵となった、と伝えられています。現在、杖ノ淵は公園化され、日本庭園として整備されて名水百選に選ばれています。

写真② 杖ノ淵 (「四国遍路道中図」渡部高太郎版)
写真③ 杖ノ淵 (松山市南高井) 当館撮影

 ・「清水来向ノ井戸(しみずらいごうのいど)」は西条市三芳にあり、「臼井御来迎(うすいごらいごう)」と呼ばれています(写真④⑤)。第59番国分寺から第60番横峰寺へ向かう遍路道沿いに位置します。伝説によると、弘法大師は水不足に苦しむ楠河地区の人々を哀れみ、岸井、臼井、曽良田井の3つの霊泉を発見しました。寛政8年(1796)には、臼井の霊泉の中に五色の気がたなびき、三世の諸仏が来迎するという奇瑞があったと伝えられています。当館所蔵の江戸時代後期の「中四国名所旧跡」(写真⑥)にも臼井御来迎の様子が描かれています。詳しくは当館学芸員ブログ「中四国名所旧跡61 臼井御来迎」(https://www.i-rekihaku.jp/gakublo/kanzou/7870)をご参照ください。

写真④ 清水来向ノ井戸(臼井御来迎)(「四国遍路道中図」渡部高太郎版)
写真⑤ 臼井御来迎 (西条市三芳)当館撮影
写真⑥ 臼井水「中四国名所旧跡」当館蔵

 ・「柴井(しばい)」(柴井の泉)は西条市氷見乙の第64番吉祥寺近くにあります(写真⑦⑧)。弘法大師が錫杖で加持を行ったところ、水が湧き出したと伝えられます。現地案内板によると、この湧水は古くから水洗い場として整備され、野菜を洗ったり、選択をしたり、井戸端会議の場所として利用され、地元では「水大師さん」「お加持水」「長寿水」などと親しみを込めて呼ばれている、と紹介されています。

写真⑦ 柴井 (「四国遍路道中図」渡部高太郎版)
写真⑧ 柴井 (西条市氷見乙)当館撮影

 本図にはこれらの他に、弘法水に関連するものとして、柳水庵(徳島県名西郡神山町)、月(夜)御水庵(徳島県阿南市)などが記載されています。弘法水の多くは、弘法大師信仰のもとで大師の霊水、薬水としても注目され、周辺地域の住人や、四国遍路の道中で多くの遍路が訪れました。

 今日弘法水として伝わっている場所は、長い歴史の中で水に苦労してきた地域と考えられ、貴重な水資源が弘法大師信仰と結びついた事例といえます。いうまでもなく水はライフラインの1つで、生活、農業、工業などに必要不可欠です。各地に残る弘法水を訪ねると、改めて水の大切さを考えさせられます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑰―川を渡る―

2023年10月27日

 本ブログ⑭で「海の遍路道」を紹介しましたが、今回は「川の遍路道」と川を渡る方法について見てみましょう。

遍路道を歩くと数えきれないほどの大小さまざまな川を渡ることになります。四国霊場の巡拝者(遍路)にとって、大雨などで通行上の障害となる河川の情報は必須です。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には、凡例に河川の記載はありませんが、地図中には水色で大きな河川が描かれています。阿波(徳島県)の吉野川、那賀川、土佐(高知県)の四万十川、伊予(愛媛県)の肱川がそれにあたります。

 これらの大川を渡る遍路道の区間は、吉野川(写真①)が第10番切幡寺(徳島県阿波市)から第11番藤井寺(同県吉野川市)、那賀川(写真②)は第20番鶴林寺(同県勝浦郡勝浦町)から第21番太龍寺(同県阿南市)、四万十川(写真③)は第37番岩本寺(高知県高岡郡四万十町)から第38番金剛福寺(同県土佐清水市)、肱川(写真④)は第43番明石寺(愛媛県西予市)から第44番大寶寺(同県上浮穴郡久万高原町)となります。

写真①吉野川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)
写真②那賀川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)
写真③四万十川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)
写真④肱川(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 これらの大川は昭和39年(1964)に制定された河川法における一級河川に指定されていますが、同じ一級河川でも四国遍路道中図には物部川、仁淀川(高知県)、重信川(愛媛県)、土器川(香川県)は記載されていません。

 その理由は定かでありませんが、一つには本図が正確な地形図をもとに作成された地図でなく、分かりやすさを主眼に作成された絵図のため、札所等の集中する都市部周辺の記載情報が多く、レイアウト上、視覚的に煩雑にならないように、取り上げる河川を取捨選択したものと推察されます。

 今日では川を渡るには橋を利用するのが一般的ですが、橋がない時分は渡し舟を利用しました。寛政12年(1800)の「四国遍禮(へんろ)名所図会」には「吉野川 船渡し三文宛」「那賀川 船渡し十五文宛」「四万十川 竹じまよりさね崎船渡し廿もん宛」「川(肱川) 船渡し壱文宛」と渡し銭が記載されています。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』では「吉野川 粟島渡し」「那賀川の渡し」「土佐随一の大河四万十川を渡り…」と紹介され、吉野川、那賀川、四万十川では当時も渡船が活用されていたことがわかります。

 一方、肱川においては、明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』に「肱川の船橋(三厘)を渡り…」とあり、対岸まで船を繋いで船橋が架けられていたこと、『同行二人 四国遍路たより』では「肱川橋」と記され、架橋されたことがわかり、遍路はその橋を渡って肱川を越えました。ちなみに、肱川橋(写真⑤)は明治44年に着工され、難工事でしたが大正2年(1913)に竣工しました。

写真⑤ 肱川橋(個人蔵)

 四国遍路道中図には記載されていませんが、愛媛の遍路道で川を渡る事例として注目したいのは、重信川と蒼社川です。

 第47番八坂寺(愛媛県松山市)から48番西林寺(同市)に至る遍路道で重信川を渡りますが、『四国霊場案内記』には「重信川の磧(かはら)を横切り行く(大水の時は二十丁川下に迂回して鉄橋を渡る)」、『同行二人 四国遍路たより』には「小村から重信川の川原を渡って…」と記載されています。つまり、大雨で増水しない限り、通常は下流に架けられた橋を通らずに、西林寺への最短ルートとなるように、重信川の河原の浅瀬を横断していたことがわかります。

 また、第56番泰山寺(愛媛県今治市)から第57番栄福寺(同市)に至る遍路道で蒼社川を渡りますが、こちらも近くの橋を利用せずに、『四国霊場案内記』によると、「蒼社川と云ふ大川があり、常には徒歩で行けますが、出水の時は川上へ十七八丁行きて熊橋と云ふを渡ります」とあります。昭和11年(1936)に愛媛大学の地理学者・村上節太郎が撮影した古写真「蒼社川のへんろ」(写真⑥)には、蒼社川の浅瀬にかけられた薄い板を遍路が渡っている貴重な光景が記録されています。

写真⑥ 村上節太郎撮影「蒼社川のへんろ」(当館蔵)

 重信川や蒼社川など、川をはさんだ両岸や遍路道沿いにはかつて遍路道であったことを示す遍路道標石や、行き倒れた遍路を祀る遍路墓などが残されています。

 現在では歩き遍路において、橋を利用せずに、川中や河原を横断して川を渡ることはほとんど見られませんが、昭和時代(戦前)までは、四国各地に不便で危険をともなう川渡りの遍路道がありました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑯―弘法大師の御影―

2023年10月13日

 令和5年(2023)は日本に密教を広めた弘法大師空海(774~835年)の生誕1250年にあたります。

 そこで今回は、四国遍路道中図に掲載されている弘法大師の御影(みえい・みえ・おみえ)について紹介します。

 御影とは札所本尊の尊像などの姿を写して描いたものをいいます。以前、本ブログ③で四国八十八箇所霊場の愛媛の札所の本尊御影について紹介しましたが、一枚物の四国遍路道中図には、折りたたんだ際に表紙となる部分の中央に、地図の名称「四国八十八ヶ所遍路道中図」と版元・広告主の名前が記載され、その上部に大きく弘法大師の御影が配置され、大師宝号の「南無大師遍照金剛」が記載されています。

 弘法大師空海の姿を写した御影は、真如様(しんにょよう)、八祖様(はっそよう)、善通寺様(ぜんつうじよう)などが知られています。その中でも今日最も多く見られるのが真如様です(写真①)。弘法大師は牀座(しょうざ)と呼ばれる椅子式の台座に座り、右手に密教法具の五鈷杵(ごこしょ)、左手に念珠(ねんじゅ)を持ち、足元には木履(ぼくり)、水瓶(すいびょう)が置かれています。真如様は空海が高野山奥之院で入定される前に弟子の真如親王がその姿を描いたものと伝えられています。

写真① 弘法大師像
(明治8年、個人蔵)

 さまざまな版がある四国遍路道中図に掲載する弘法大師の御影は真如様が採用されています。とても興味深いのは大師の肖像や姿が微妙に異なります。いくつか見てみましょう。

 刊行年不明の昭和時代(戦前)の頃のものと見られる徳島撫養港の「江口商店版」では、大師は前頭部が広く、口をつむいでいる姿(写真②)。昭和4年(1929)の徳島「浅野本店版」では、ふっくらとした大師の姿(写真③)、同6年(1931)の大阪「駸々堂版」では、眼光を開き、歯が見え、話しかけているような姿(写真④)。同13年(1938)の愛媛「渡部高太郎版」では、おちょぼ口でキュートな大師の姿です(写真⑤)。同じ真如様ですが、弘法大師の姿・表情は実に様々です。

写真② 徳島撫養港の「江口商店版」(当館蔵)
写真③ 徳島「浅野本店版」昭和4年、個人蔵
写真④ 大阪「駸々堂版」昭和6年、個人蔵
写真⑤ 愛媛「渡部高太郎版」昭和13年、当館蔵

 少し古い四国遍路道中図ではどうでしょうか。

 大正6年(1917)の大阪「駸々堂版」では、顔の眉毛が長い特徴のある大師の姿で、台座には背がありません。また、版元・広告主の名前の箇所は「同行二人」、「南無大師遍照金剛」のほかに「大金剛輪陀羅尼」が記載されています(写真⑥)。大金剛輪陀羅尼(だいこんごうりんだらに)は罪障(ざいしょう)を取り除く祈願を行う際に密教で唱えられる呪文です。

写真⑥ 大阪「駸々堂版」(大正6年、当館蔵)

 四国遍路道中図の表紙部分に弘法大師の御影が配置されているのは、四国八十八箇所霊場が弘法大師によって開創されたとする由来に基づくものと考えられます。江戸時代のほとんどの四国遍路絵図にも弘法大師の御影が掲載され、こうした四国遍路絵図の伝統を四国遍路道中図も受け継いでいることがわかります。

 今回はごく一部の四国遍路道中図の弘法大師御影を見てきましたが、版の種類に応じて他にも様々なタイプがあります。弘法大師信仰の広がりとともに、弘法大師の御影は無限に作成されています。長い年月を通じて写されて描かれてきた大師像は、弘法大師信仰がいかに庶民に浸透していたのかを如実に物語っています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑮―旅の心得―

2023年10月6日

 今日、四国遍路を始めようとする初心者を対象にしたガイドブック(案内書)やハウツー本は数多く出版されています。現代の遍路入門書は、四国遍路の歴史、遍路の参拝作法、用意する巡拝品、八十八箇所の札所情報、交通アクセス、詳細な地図、宿泊・観光情報などについて、写真やイラストなどを多用して、現代の遍路の多様なニーズに対応した内容となっています。

 大正から昭和時代(戦前)に発行され、多くの四国巡拝者に用いられた「四国遍路道中図」は文字通り、四国遍路の道中案内図です。本図はカラー両面印刷による一枚物の地図ですが、精密な地図でなく、四国の形は大きくデフォルメされています(写真①)。しかし、四国八十八箇所霊場や番外霊場、遍路道、各札所などの情報が一見してわかるように工夫されて作成され、また、最新の交通情報なども盛り込まれ、四国霊場の巡礼地図として人気を博しました。

写真① 「四国遍路道中図」( 江口商店版、 当館蔵 )

 当時は、基本的に四国遍路のガイドブックとガイドマップ(案内地図)が一体化した詳細なものはなく、別々に発行されています。もちろん地図入りの案内記はたくさん作られていますが、その地図は小さくて見にくく、内容的にも情報が乏しい略図的なものでした。そのため、四国遍路についてより詳しい情報を得たい巡拝者(遍路)は、案内記と案内地図の両方を買い求め、それらを補完しながら、四国遍路の準備や実際の道中で利用しました。そうしたなかで、折り畳み式の一枚ものの地図で詳細な最新の情報を掲載し、視覚的に優れた「四国遍路道中図」は、多くの遍路に買い求められたことが容易に想像できます。

 「四国遍路道中図」の性格を考えるにあたり、興味深い点があります。それは「四国遍路道中図」(徳島県撫養港の江口商店版など)の地図面の裏には、巡拝者のための「旅の心得」が書き加えられていることです(写真➁)。

写真➁ 旅の心得(「四国遍路道中図」江口商店版、当館蔵)

 その内容について見てみましょう。なお、原文をわかりやすくするために、箇条書きにして、句読点をつけました。

 ①「初めて旅立順拜の道は、昔日は峻坂が多くありましたが、汽車馬車人力車などの乗りものもありますが、霊場巡拜は徒歩で廻るの習せゆえ、旅立の日は別て静に踏立、二三日は所々に休み、同行ある時は其中の弱き人の足に合ふ様にすべし」。

 ➁「道中所持すべき物はなるだけ事少くすべし、品数多ければ失念物有てかへって煩はしきものなり」。

 ③「旅舎に到着すれば、第一に其地の方位宿の家造、便所、表裏の出入口等見覚へおくこと、近火盗難喧嘩等ある時の心得なり」

 ④「早く立ち早く泊るは災難無きなり、又時間を急げばとて川越山ごえ、船の乗り降りは慎んでなすこと」。

 要約すると、①四国遍路は徒歩で巡拝するのが習いで、静かにまわり、弱者に配慮すること。➁所持品は可能な限り少なくすること。③緊急時の備えた宿屋での点検。④旅の早立ち・早泊りが無難である。当時の四国遍路の最も基本的な心構えが示されています。

 この「旅の心得」の内容は、明治期から昭和(戦前)に発行されていた四国遍路の案内記類にも紹介されています。旅の心得や札所の本尊名や御詠歌などの情報は、先行する案内記類を参考にして本図が作成されていることを示しています。また、本図が四国遍路の中でも主に歩き遍路を対象に作成されていることがわかります。

 四国遍路の絵地図の中で旅の心得書きが記されているのは珍しく、大正6年(1917)と昭和6年(1931)に大阪の駸々堂から発行された「四国遍路道中図」には「旅の心得」は記載されていません。一方、四国内の上陸港や札所周辺の商店や仏具店などで販売された「四国遍路道中図」には「旅の心得」が掲載されているものが多いように見受けられます。「四国遍路道中図」の発行年代、発行・販売地、発行関係者(作成者・編集・発行者、広告主等)によって、「四国遍路道中図」の内容の差異が認められます。

 主に歩き遍路を対象に四国内で発行された「四国遍路道中図」(江口版等)は、所持品を可能な限り少なくせよという旅の心得の観点からすると、携帯に便利な一枚物のガイドマップとして大変有効な道中必需品です。荷物になりやすい冊子形態の詳細なガイドブックは敬遠され、視覚的に一目瞭然で、必要最小限の基本的な案内情報と最新情報が掲載されている「四国遍路道中図」が一般の遍路のニーズにかなったことが推察されます。ガイドブックを凌駕したガイドマップ。こうした点も「四国遍路道中図」の特色といえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑭―海の遍路道―

2023年9月30日

 今回は「四国遍路道中図」(当館蔵)から「海の遍路道」について紹介します。昭和13年(1938)の四国遍路道中図 (渡部版)を見ると、土佐(高知県)の霊場の第32番禅師峰寺(高知県南国市)と第33番雪蹊寺(高知市)を結ぶ遍路道(赤い線)が浦戸湾の海の中を通っています(写真①)。少し古い大正 6 年 (1917) の駸々堂版では「わたし」(渡し)と記載されています(写真②)。つまり、この区間は海を渡る遍路道、いわゆる「海の遍路道」となっています。

写真① 浦戸湾を渡る海の遍路道(「四国遍路道中図」渡部版部分、当館蔵)
写真② 浦戸湾を渡る海の遍路道(「四国遍路道中図」駸々堂版部分、当館蔵)

 現在は高知県営渡船が種崎渡船場(東・禅師峰寺方)と長浜渡船場(西・雪蹊寺方面)を結び、住民や歩き遍路たちに利用されています(写真③)。 この他、渡部版の地図上には、土佐(高知県)の巡拝道で海路利用を推奨する区間が文章で紹介されています。

写真③  高知県営渡船で浦戸湾を渡る(出港地の種崎渡船場を臨む)。当館撮影。

 1つは第36番青龍寺(同県土佐市)と第37番岩本寺(同県高岡郡四万十町)の区間で、「青竜寺ノ納経ヲ受ケ福島(土佐市)マデ打戻リ船デ須崎(須崎市)ヘ行ケバ八坂八浜ノ難所ヲ通ラズ楽ナリ」(写真④)とあります。もう1つは、第37番岩本寺と第38番金剛福寺(同県土佐清水市)の区間です。「佐賀(幡多郡黒潮町)ヨリ舟ノ便アリ三十八番ヘ二里十一丁ナリ窪津(土佐清水市)ヘ上陸セバ楽ナリ」(写真⑤)と記されています。どちらも地図上に赤の破線で船路が記入されています。

写真④ 福島~須崎(「四国遍路道中図」渡部版部分、当館蔵)
写真⑤ 佐賀~窪津(「四国遍路道中図」渡部版部分、当館蔵)

 一方、伊予(愛媛県)では、具体的に海の遍路道の記載はありません。しかし、大正7 年 (1918)に四国遍路を逆打ちで行った高群逸枝の『娘巡礼記』によると、第40番観自在寺を参拝後、深浦(愛媛県南宇和郡愛南町)から片島(高知県宿毛市)まで大和丸という汽船を利用したことが記されています。昭和9(1934)年に発刊された『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)には、汽船入港で賑わう深浦港の様子が写真で掲載されています(写真⑥)。 

写真⑥ 深浦港(『四国霊蹟写真大観』、当館蔵)

 愛媛の遍路道において海路がよく利用された区間は、第40番観自在寺から41番龍光寺に至る遍路道(龍光寺道)と考えられます。観自在寺から宇和島までは10里10丁(約40.4㎞)ある長丁場で、途中に柏坂(かしわざか)という急勾配の峠道の難所があります。そのため、観自在寺参拝後に航路を利用して宇和島に上陸する遍路が多かったようです。

 昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によると、「次四十一番の御札所へは、道程十二里ばかり、此の町外れの海岸より宇和島行きの汽船あり、乗船すれば十里余の道を僅かに四時間で達せられる。亦時刻の都合で深浦へ(三十丁打戻り)深浦よりは毎朝汽船の便がある。陸行主義の方は柏坂峠の険しい処を越え宇和島に出るのです」とあり、宇和島へは汽船の利用が推奨されています。

 また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「海路によると平城から半道西の長崎から乗船五時間で宇和島に上陸します。寺(観自在寺)を出て宇和島街道に打戻り右へ八町行くと貝塚で、汽船の出る長崎はここから左へ九町参ります」と紹介され、汽船は平城~宇和島間で90銭(四時間半)と記載されています。

 こうした遍路による汽船利用の背景を物語るものとして、汽船乗り場の港を案内する遍路道標石が建てられています。観自在寺のある平城地区には、明治19年(1886)に中務茂兵衛が四国遍路88度目巡拝を記念して建てた道標石があり、それには「船場」の案内標示があります(写真⑦)。同じく茂兵衛が柏坂の入り口の柏地区に建てた、明治34年(1901)に184度目の道標石に「左 舟のりば」と刻まれています(写真⑧)。

写真⑦ 「船場」を案内する中務茂兵衛の遍路道標石
写真⑧ 「舟のりば」を案内する中務茂兵衛の遍路道標石

 海岸沿いの遍路道の場合、定期航路の船便を利用することで、遍路は陸路の難所である峠道を通らなくてよく、旅の日程を短縮可能とし、体力を温存できるなどの多くの利点がありました。特に土佐~南予地方の沿岸部では陸上交通の発展が遅れたため、人々の往来や物流は沿岸の港間を結ぶ定期航路によって支えられ、歩き遍路の重要な移動手段となっていたことがわかります。

 汽船による海上交通の発達は、四国内に海の遍路道をつくり、徒歩中心であった遍路の移動方法や巡拝ルート、旅の日数の削減など、四国遍路に大きな影響を与えました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑬―四国に渡る汽船と巡拝方法―

2023年9月8日

 本ブログ「昭和時代の四国遍路道中図から見た遍路事情」②で四国への上陸港を紹介しましたが、今回は四国に渡る汽船と巡拝方法について紹介します。

 四国遍路では第1番札所霊山寺から札所番号順にまわる巡拝方法を「順打ち」といいます。順打ちを行うにあたり、四国上陸の玄関口として最も推奨されたのが岡崎・撫養港(徳島県鳴門市)でした。昭和13年(1938)の四国遍路道中図には「近畿以東ハムヤ岡崎ニ上陸シ一番ヨリ札ヲ始メルガ順デ此ニ上陸スレバ鳴門ノ潮時ヲ見ルベシ」(写真①)と記され、撫養港は主に近畿地方や東日本の人に利用されました。

写真① 阿波の四国霊場。東側(右上)に撫養がある。(「四国遍路道中図(渡部版)」部分、当館蔵)

 昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』の「御四国順拝の道順に就いて」によると、「東京より出立する人は、先ず以て東京駅より西行きの汽車発車時刻を能く取り調べ置かねばなりませぬ。然し総ては大阪の築港より御四国地へ向かう汽船の出発する時刻に基づくものであって、現今、大阪の築港から出る汽船は各会社から幾らも出るのでありますが、定時出航の汽船は、大阪商船株式会社の汽船で夜出る汽船と朝出る汽船があります」と記されています。

 大阪港は四国へ渡る出発地の一大拠点であり、各地と結ぶ定期航路をもつ汽船会社が数多く存在し、その中でも大阪商船の「夜出る汽船」と「朝出る汽船」が四国遍路を行う者に推奨されていたことがわかります。

 また、同書には「夜出る汽船は船が小さくて夜の三時乃至四時頃に御四国地(むや)に着き、第一番札所へ向かうのです」「朝出る汽船は船が大きくて其の日の午後四時頃に、御四国小松島港へ着き、下船してから(中略)徳島市の二軒屋町駅まで汽車に乗り(中略)、下車したら宿屋を求め置き、重い荷物は宿屋に預け必要な物のみ持って翌日第一番札所へ向かうのです。一番から二番三番と次々へ納経礼拝して十七番札所を礼拝したら、其の札所から七八丁歩いて汽車に乗り二軒屋駅まで乗って宿へ戻るのです(此の間の日数四・五日間を要す)」とあり、二通りの汽船の乗り方と巡拝方法が紹介されています。

 多くの遍路が上陸する徳島の撫養港以外に、小松島港(徳島県小松島市)を活用した四国遍路の巡拝が注目されます。

 そのあたりを四国遍路道中図で確認します(写真②)。

写真② 小松島周辺(「四国遍路道中図」部分)

 本図には小松島港の記載はありませんが、徳島市の南側(徳島県の東側)に国鉄(旧阿南鉄道)の中田駅から分岐する小松島駅(旧小松島線。昭和60年廃止)が記載されています。前述した『四国遍路のすすめ』によると、小松島港上陸後、小松島駅から汽車に乗り、二軒屋駅(徳島県徳島市)で下車し、近くの宿屋で重い荷物を預けて、第1番霊山寺から順に第17番井戸寺(妙照寺)までまわり、その後、再び二軒屋駅近くの宿屋に戻り、数日間預けた荷物を受け取って、次の第18番恩山寺(徳島県小松島市)へ進む巡拝方法が示されています。

 小松島港経由の四国巡拝は、重い荷物を事前に宿屋に預けて、第12番焼山寺の山越えの道の難所などで身軽に巡礼できることや、徳島市内の観光を行うことができるなどの利点があります。ちなみに第17番札所の古い寺名は「妙照寺」でしたが、弘法大師の清水伝説にちなみ、現在の名称は「井戸寺」となっています。本図には「十七・瑠璃山・妙照寺」と記載されています。

 四国に渡る汽船と定期航路便の増加は、各地の上陸港を起点とした四国巡拝の便利な方法や、汽車、乗合い自動車などの近代交通を活用した新たな巡拝ルートプランが、遍路の先達や関係する海運・鉄道会社、旅行会社などによって生み出され、多様な四国遍路の巡り方を可能としました。

 ところで、四方を海で囲まれた四国にとって、海上交通の整備・発展は、経済、文化、生活を支える基盤です。かつて瀬戸内海には本州と四国を結ぶ数多くの航路がありました。

 次に、昭和25年(1950)の『旅』7月号附録「瀬戸内海」(日本交通公社)に掲載する主な瀬戸内海航路を見てみましょう。

【関西方面から四国へ】

・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀―観音寺線(加藤海運汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀線(日本近海汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀―多度津線(尼崎汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―坂出―高松―多度津線(関西汽船路、一日二往復)

・大阪―神戸―観音寺―三島―新居浜―西条線(関西汽船路、一日一往復) 

・大阪―神戸―今治―高浜線(日本郵船航路、週三往復)

・大阪―神戸―今治―高浜線(東京船舶航路、週三往復)

・大阪―神戸―高松―今治―高浜―別府線(関西汽船航路、一日一往復)

・大阪―神戸―高松―今治―高浜―八幡浜―宇和島―宿毛線(関西汽船航路、一日一往復)

【岡山方面から四国へ】

・岡山―土庄―高松線(南備海運航路、一日一往復)

・宇野―日比―坂出線(一日一往復)

・田ノ口―下津井―丸亀線(一日三往復)

【広島方面から四国へ】

・尾道―宮浦―高浜―三津浜線(石崎汽船航路、一日一往復) 

・尾道―瀬戸田―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日三往復)

・竹原―宮浦―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日二往復)

・呉―鍋―二神―三津浜線(瀬戸内海汽船航路、一日一往復)

・阿賀―安居島―北条線(瀬戸内海汽船航路、一日一往復)

・宇品―鍋―御手洗―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日二往復)

【山口方面から四国へ】

・柳井―高浜―三津浜線(太陽運輸航路、一日一往復)

 このように、昭和25年当時、関西地方では大阪・神戸を起点に香川と愛媛の主要港を結ぶ定期航路があり、中国地方では瀬戸内海をはさんで対岸となる岡山と香川、広島と愛媛、山口と愛媛の間で観光航路や生活航路など、瀬戸内海を縦横につなぐ網目のようにさまざまな定期航路が運航されていたことがわかります。

 こうした海上交通の発展によって、四国遍路は第1番札所から巡らなくても上陸地近くの任意の札所から開始でき、区切りうちの場合も、巡拝を再開する札所近郊の港に到着する汽船が利用されました。

 本四架橋、高速道路、高速バスなど、四国の陸上交通が発達する以前において、遍路を始める者は全国各地から様々な汽船によって海を越えて四国に渡り、各港を起点とした四国巡拝が行われ、多様な四国遍路が展開されたものと考えらます。その巡拝内容や汽船を利用した遍路の実態についても今後、調査できればと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑫―御詠歌―

2023年9月1日

 「四国遍路道中図」には絵地図面の裏側に四国八十八箇所の御詠歌一覧(写真①②)が紹介されています。

写真① 御詠歌(「四国遍路道中図」江口商店版、当館蔵)
写真② 御詠歌41番~64番(「四国遍路道中図」部分)

 御詠歌(詠歌)とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994)によると、「お勤めの最後に謳う和歌で、経文読誦と同じ功徳があるとされる。または巡礼歌ともいう。詠歌の内容は、札所本尊の功徳や霊験、札所周囲の風景を謳ったものが多い」とある。また、その起源は不明とされ、空也上人が自作の和歌に節や調子をつけて唄ったものが巡礼歌の節のもとになったとする説、その後、時宗の第四世呑海がその節を完成させて「呑海節」を流行させたという話、西国巡礼では巡礼再興者とされる花山法皇が第三番粉河寺で詠んだのが最初であるとする説などが紹介されています。

 一例として、当館の近くに位置する四国八十八箇所霊場第43番明石寺(愛媛県西予市宇和町)の御詠歌「聞くならく千手の誓いふしぎには 大磐石もかろくあげ石」には、明石の地名の由来や本尊千手観音菩薩にまつわる伝説が謳われています。ここでは伝説について詳しく述べませんが、御詠歌の歌詞の意味を調べることは、その札所の歴史や特色を明らかにすることにつながります。

 現代の四国遍路マップやガイドブックには八十八箇所の御詠歌は掲載されていないものが多く、四国遍路の参拝においても、一般の遍路が御詠歌を唱える姿はあまり見かけられません。しかし、本堂などにかつて遍路が奉納した詠歌額(その札所の御詠歌を記した額)が掛けられている事例を多く見ることができます。

 ちなみに、四国八十八ヶ所霊場会の公式ホームページによると、札所参拝時の読経作法(勤行次第)は、合唱礼拝(がっしょうらいはい)、開経偈(かいきょうげ)、懴悔文(さんげのもん)、三帰依文(さんきえもん)、十善戒(じゅうぜんかい)、発菩提心真言(ほつぼだいしんしんごん)、三昧耶戒真言(さんまやかいしんごん)、般若心経(はんにゃしんぎょう)、御本尊真言(ごほんぞんしんごん)、光明真言(こうみょうしんごん)、御宝号(ごほうごう)、回向文(えこうもん)の順に行うことが紹介されています。御詠歌については、その中に含まれていませんが、各札所の理解がより深いものになるため唱えることを推奨しています。

 大正時代~昭和時代(戦前)にかけての「四国遍路道中図」には、「般若心経」をはじめとする上記の勤行次第の記載はありません。ただし、同時期に刊行された四国遍路案内記類は、唱える経典やその順番等の多少の相違はあっても勤行次第と御詠歌は掲載されているものが大半を占めます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に記載する勤行次第には、その札所の御詠歌を3遍唱えることとしています。

 「四国遍路道中図」が御詠歌のみを紹介している理由としては、一枚物という紙面の制約の中で、札所の本尊の略式御影(当ブログ③「札所の本尊御影」参照)を絵図面に掲載する関係と、八十八箇所の札所の歴史や本尊の功徳・霊験などを示した御詠歌を重視したためと推察されます。また、実際に四国遍路道中図が用いられた当時は、札所で御詠歌を唱える遍路も多かったのではないかと思われます。

 四国八十八箇所霊場の案内において、これまで各札所の御詠歌は重要な情報として紹介されてきました。江戸時代の四国遍路案内記の嚆矢ともいえる真念の『四国辺路(へんろ)道指南』やロングセラーとなった『四国徧禮(へんろ)増補大成』などには、札所番号、札所名、本尊名、本尊御影とともに札所の御詠歌は必ず紹介され、八十八箇所の霊場であることを示す証明する和歌(証歌)といえます。

 大正から昭和時代にかけての代表的な四国遍路のガイドマップとして用いられた四国遍路道中図からは、参拝にあたり御詠歌を意識したり唱えたりした当時の四国遍路の状況や、札所ごとの御詠歌が重視されていた江戸時代以来の巡礼の伝統が垣間見えてきます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑪―実際に使用された「四国遍路道中図」―

2023年8月19日

 今回は「四国遍路道中図」が実際に四国巡拝の道中で使用された事例について紹介します。

 当館の収蔵品の中に、昭和11年(1936)に新居郡高津村(新居浜市高津町)出身の女性(当時22歳)とその伯母が2人で四国遍路を行った時の巡礼資料があります。納経帳、遍路日記、巡礼用具(納札、札箱等)、記念写真などの資料群の中に、昭和9年(1934)発行の「四国遍路道中図」が確認できます(写真参照)。

写真 「四国遍路道中図」(昭和9年、金山商会版、当館蔵)

 四国遍路道中図はもともと道中での使用に供するため、携帯に便利な折り畳み式(地図折り)となっています。本図の法量は広げた時の大きさが縦39.2㎝×横53.5㎝。全体的に痛みが目立ち、折り目や端の部分はセロテープによって補強されています。かなりの頻度で本図が使用されたことを物語っています。

 女性二人が実際に四国遍路を行った2年前に発行された本図は、「四国第十番切幡寺麓辻角 仏具卸 金山商会」の広告入りで、「印刷兼発行人 徳島県阿波郡八幡町切幡 □保一郎」と記載されています。四国八十八箇所霊場第10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)付近にある金山商会で販売されたものであることがわかります。

 遍路日記によると、昭和11年3月15日多喜浜駅(新居浜市)を出発。鉄道を利用して観音寺駅(香川県観音寺市)で下車、第68番神恵院(同)から打ち始め、おおむね順打ちでまわり、第88番大窪寺(香川県さぬき市)から第10番切幡寺に進み、第1番霊山寺(徳島県鳴門市)まで逆打ちし、その後、第11番藤井寺(徳島県吉野川市)から順に進み、5月2日に帰省しています。のべ49日間の道中における移動手段は、徒歩の他に鉄道や自動車、船などを積極的に利用しています。本図を直接、現地の金山商会で買い求めたものか、あるいは伯母が事前に所有していたものか、金額はいくらだったのか、などについて日記には記載がありません。

 四国遍路道中図の種類には、これまで本ブログで紹介してきた渡部高太郎版が自身の経営する心臓薬本舗店の広告を大きく掲載し、「旅の心得」などの注意書きを省略した特殊なものもありますが、本図の金山商会版には「はしがき」「旅の心得」「郵便為替音信」「四国八十八ヶ所御詠歌」が記載され、その内容は現存する四国遍路道中図の種類の中で最も多く見受けられることから、金山商会版は典型的な四国遍路道中図といえます。

 「旅の心得」について見てみましょう。

 「初めて旅立順拜の道は、昔日は峻坂が多くありましたが、汽車馬車人力車などの乗りものもありますが、霊場巡拜は徒歩で廻るの習せゆへ、旅立の日は別て静に踏立、二三日は所々休み、同行ある時は其中の弱き人の足に合ふ様にすべし。道中所持すべき物は、なるだけ事少くすべし、品数多ければ失念、物有てかへって煩はしきものなり。旅舎に到着すれば、第一に其地の方位、宿の家造、便所、表裏の出入口等見覚へおくこと、近火、盗難、喧嘩等ある時の心得なり。早く立ち早く泊るは災難無きなり、又時間を急げばとて、川越、山ごえ、船の乗り降りは慎んでなすこと」(句読点は筆者による)。

 汽車、馬車、人力車など近代以降に様々な交通手段が発展しましたが、基本的に四国霊場巡拝は徒歩で行うことが習わしであると主張している点は注目されます。四国遍路道中図は主に徒歩遍路を対象に作成されていることがわかります。したがって、新交通情報の掲載は必要最小限の記載にとどめているものと考えられます。

 ちなみに、本図掲載の鉄道路線図を見ると、2人の四国巡拝の出発点となった予讃線(予讃本線)の多喜浜駅と最初に参拝した神恵院の最寄り駅の観音寺駅はもちろん記載されています。愛媛県内の南郡中~長浜間が未開通区間となっているのも当時の状況に合致しています。そういう意味において、四国遍路道中図には少なくとも鉄道路線の最新の基本的な情報は反映されているようです。

 こんにち四国遍路道中図は比較的多く残されていますが、実際に誰がいつ使用したものか分かるものは少ないように見受けられます。このことは古い遍路資料の残存状況に関係していると思われます。

 民家に伝わる遍路資料の傾向としては、先祖が四国遍路を行った際に作成した納経帳や使用した巡礼用具などが単独で残されている事例が一般的です。今回紹介した女性遍路資料のようにまとまった巡礼資料群として残っている事例は珍しいといえます。

 遍路日記や納経帳などの関連資料と一緒に残された四国遍路道中図は貴重で、それらを総合的に考察することで、巡礼者(お遍路)から見た昭和初期の四国遍路の実態を明らかにすることが可能となります。

 改めて四国遍路の道中で使用された本図を見ると、折り目の補修痕は、長い旅路で苦楽を共にし、何度も何度も本図を頼りにした証であり、遍路を支えた大切な羅針盤のようにも思われます。

 なお、女性二人による四国遍路について、「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から」№119「戦前女性遍路の写真」(令和4年6月5日愛媛新聞掲載)で紹介しています。ご参照ください。