長い道中を巡拝する四国遍路において、宿泊情報はとても重要です。大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版、写真①)には、愛媛の札所における通夜堂(つやどう)の情報が記載されています。

・第42番佛木寺「当寺は新に通夜堂を建築して普く巡拝者ニ通夜を得させらる」(写真②)

・第45番岩屋寺「当寺ハ清潔な二階建の通夜堂有」(写真③)

・第60番横峰寺「当地ハ山深けれバ宿なく寺内ニ通夜堂あり」(写真➃)

通夜堂とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994)によると、「札所寺院で宿泊することを通夜といい、かつては札所に「通夜堂」があった。原則として素泊まり、無料で、煮炊きができるいろりなどがあった。そのため、四国では、弘法大師などが祀られている。通夜堂に、職業遍路が住みつくようになって、一般の遍路からは敬遠される存在になった。今日では札所に設備が整った宿坊が完備され、通夜堂は姿を消している。このような札所の宿坊に宿泊することも、通夜と呼ばれる」とあります。
岩屋寺や横峰寺などの山間部の札所寺院の近辺には宿屋がなく、札所自らが遍路をはじめとする巡拝者の無料宿泊所として通夜堂を設けていたことがわかります。
次に、同時代の四国遍路の案内記を確認すると、大正2年(1913)の三好廣太『四国遍路 同行二人 増補第二版』(此村欽英堂)では、佛木寺は「当寺は新に通夜堂を建築して、普く巡拝者に通夜を得させらる」、岩屋寺は「当寺は清潔な、二階造りの通夜堂あり」、横峰寺は「当地は山間なれば、寺に通夜堂があります」と記載され、四国遍路道中図と同じ内容が紹介されています。そのため、四国遍路道中図は『四国遍路 同行二人』などの案内記の内容を参考にして作成されたものと考えられます。
もう少し古い明治期の案内記を見てみましょう。明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』(黒崎精二発行)の「佛木寺」解説では、「当寺は通夜堂もあり近くに宿屋もあります(中略)次ぎ(明石寺)へ三里、五六丁行きて歯長峠にかゝる二十五丁登り、峠に見送り大師堂(送迎庵と云ふ)大師御自作の尊像を安置す霊験新なり、少数の連れなれば通夜することが出来ます」と記され、札所寺院のみならず、明石寺道の歯長峠にある見送り大師堂(送迎庵、宇和島市吉田町立間)(写真⑤)も通夜堂として遍路に利用されていたことがわかります。

ところが、昭和時代の「四国遍路道中図」では、昭和12年(1937)の駸々堂版では横峰寺の通夜堂が注記されていますが、昭和4年(1929)の浅野本店版 、昭和10年(1930)の渡部商店版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版、昭和15年(1940)の小林商店版と金山商会版、昭和16年(1941)のイナリヤ総本店版などには、通夜堂についての記載が地図上からなくなっています。
一方、戦前の四国遍路案内記を見ると、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、佛木寺、岩屋寺、横峰寺の通夜堂について言及されていませんが、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、大正期の同書とほぼ同文が掲載されているため、通夜堂そのものは当時も存在していたと推察されます。
昭和時代に入ると、四国遍路道中図や案内記において、通夜堂の情報は少なくなっています。こうした背景には、札所寺院周辺の旅館や木賃宿などの宿屋の利用、札所における通夜堂の維持管理が困難となっての閉鎖や有料宿泊所である宿坊の整備などによって、次第に遍路による通夜堂の利用が減ったものと考えられます。
今日札所寺院において通夜堂はほぼ見られなくなっていますが、遍路道沿いなどには善意による無料宿泊所が存在し、歩き遍路や外国人遍路などに利用されています。














































