本ブログ「昭和時代の四国遍路道中図から見た遍路事情」②で四国への上陸港を紹介しましたが、今回は四国に渡る汽船と巡拝方法について紹介します。
四国遍路では第1番札所霊山寺から札所番号順にまわる巡拝方法を「順打ち」といいます。順打ちを行うにあたり、四国上陸の玄関口として最も推奨されたのが岡崎・撫養港(徳島県鳴門市)でした。昭和13年(1938)の四国遍路道中図には「近畿以東ハムヤ岡崎ニ上陸シ一番ヨリ札ヲ始メルガ順デ此ニ上陸スレバ鳴門ノ潮時ヲ見ルベシ」(写真①)と記され、撫養港は主に近畿地方や東日本の人に利用されました。
写真① 阿波の四国霊場。東側(右上)に撫養がある。(「四国遍路道中図(渡部版)」部分、当館蔵)
昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』の「御四国順拝の道順に就いて」によると、「東京より出立する人は、先ず以て東京駅より西行きの汽車発車時刻を能く取り調べ置かねばなりませぬ。然し総ては大阪の築港より御四国地へ向かう汽船の出発する時刻に基づくものであって、現今、大阪の築港から出る汽船は各会社から幾らも出るのでありますが、定時出航の汽船は、大阪商船株式会社の汽船で夜出る汽船と朝出る汽船があります」と記されています。
大阪港は四国へ渡る出発地の一大拠点であり、各地と結ぶ定期航路をもつ汽船会社が数多く存在し、その中でも大阪商船の「夜出る汽船」と「朝出る汽船」が四国遍路を行う者に推奨されていたことがわかります。
また、同書には「夜出る汽船は船が小さくて夜の三時乃至四時頃に御四国地(むや)に着き、第一番札所へ向かうのです」「朝出る汽船は船が大きくて其の日の午後四時頃に、御四国小松島港へ着き、下船してから(中略)徳島市の二軒屋町駅まで汽車に乗り(中略)、下車したら宿屋を求め置き、重い荷物は宿屋に預け必要な物のみ持って翌日第一番札所へ向かうのです。一番から二番三番と次々へ納経礼拝して十七番札所を礼拝したら、其の札所から七八丁歩いて汽車に乗り二軒屋駅まで乗って宿へ戻るのです(此の間の日数四・五日間を要す)」とあり、二通りの汽船の乗り方と巡拝方法が紹介されています。
多くの遍路が上陸する徳島の撫養港以外に、小松島港(徳島県小松島市)を活用した四国遍路の巡拝が注目されます。
そのあたりを四国遍路道中図で確認します(写真②)。
写真② 小松島周辺(「四国遍路道中図」部分)
本図には小松島港の記載はありませんが、徳島市の南側(徳島県の東側)に国鉄(旧阿南鉄道)の中田駅から分岐する小松島駅(旧小松島線。昭和60年廃止)が記載されています。前述した『四国遍路のすすめ』によると、小松島港上陸後、小松島駅から汽車に乗り、二軒屋駅(徳島県徳島市)で下車し、近くの宿屋で重い荷物を預けて、第1番霊山寺から順に第17番井戸寺(妙照寺)までまわり、その後、再び二軒屋駅近くの宿屋に戻り、数日間預けた荷物を受け取って、次の第18番恩山寺(徳島県小松島市)へ進む巡拝方法が示されています。
小松島港経由の四国巡拝は、重い荷物を事前に宿屋に預けて、第12番焼山寺の山越えの道の難所などで身軽に巡礼できることや、徳島市内の観光を行うことができるなどの利点があります。ちなみに第17番札所の古い寺名は「妙照寺」でしたが、弘法大師の清水伝説にちなみ、現在の名称は「井戸寺」となっています。本図には「十七・瑠璃山・妙照寺」と記載されています。
四国に渡る汽船と定期航路便の増加は、各地の上陸港を起点とした四国巡拝の便利な方法や、汽車、乗合い自動車などの近代交通を活用した新たな巡拝ルートプランが、遍路の先達や関係する海運・鉄道会社、旅行会社などによって生み出され、多様な四国遍路の巡り方を可能としました。
ところで、四方を海で囲まれた四国にとって、海上交通の整備・発展は、経済、文化、生活を支える基盤です。かつて瀬戸内海には本州と四国を結ぶ数多くの航路がありました。
次に、昭和25年(1950)の『旅』7月号附録「瀬戸内海」(日本交通公社)に掲載する主な瀬戸内海航路を見てみましょう。
【関西方面から四国へ】
・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀―観音寺線(加藤海運汽船航路、一日一往復)
・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀線(日本近海汽船航路、一日一往復)
・大阪―神戸―高松―坂出―丸亀―多度津線(尼崎汽船航路、一日一往復)
・大阪―神戸―坂出―高松―多度津線(関西汽船路、一日二往復)
・大阪―神戸―観音寺―三島―新居浜―西条線(関西汽船路、一日一往復)
・大阪―神戸―今治―高浜線(日本郵船航路、週三往復)
・大阪―神戸―今治―高浜線(東京船舶航路、週三往復)
・大阪―神戸―高松―今治―高浜―別府線(関西汽船航路、一日一往復)
・大阪―神戸―高松―今治―高浜―八幡浜―宇和島―宿毛線(関西汽船航路、一日一往復)
【岡山方面から四国へ】
・岡山―土庄―高松線(南備海運航路、一日一往復)
・宇野―日比―坂出線(一日一往復)
・田ノ口―下津井―丸亀線(一日三往復)
【広島方面から四国へ】
・尾道―宮浦―高浜―三津浜線(石崎汽船航路、一日一往復)
・尾道―瀬戸田―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日三往復)
・竹原―宮浦―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日二往復)
・呉―鍋―二神―三津浜線(瀬戸内海汽船航路、一日一往復)
・阿賀―安居島―北条線(瀬戸内海汽船航路、一日一往復)
・宇品―鍋―御手洗―今治線(瀬戸内海汽船航路、一日二往復)
【山口方面から四国へ】
・柳井―高浜―三津浜線(太陽運輸航路、一日一往復)
このように、昭和25年当時、関西地方では大阪・神戸を起点に香川と愛媛の主要港を結ぶ定期航路があり、中国地方では瀬戸内海をはさんで対岸となる岡山と香川、広島と愛媛、山口と愛媛の間で観光航路や生活航路など、瀬戸内海を縦横につなぐ網目のようにさまざまな定期航路が運航されていたことがわかります。
こうした海上交通の発展によって、四国遍路は第1番札所から巡らなくても上陸地近くの任意の札所から開始でき、区切りうちの場合も、巡拝を再開する札所近郊の港に到着する汽船が利用されました。
本四架橋、高速道路、高速バスなど、四国の陸上交通が発達する以前において、遍路を始める者は全国各地から様々な汽船によって海を越えて四国に渡り、各港を起点とした四国巡拝が行われ、多様な四国遍路が展開されたものと考えらます。その巡拝内容や汽船を利用した遍路の実態についても今後、調査できればと思います。