日本三古湯の一つといわれる道後温泉は、四国を代表する人気スポットとして知られています。四国霊場を巡拝する遍路にとっても、道中の休息や観光のため、道後温泉に入湯することは大きな楽しみでした。
今回は道後温泉について、「四国遍路道中図」と案内記、そして絵葉書から紹介します。
大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真①)には、地図中に「道後で滞在してゆるゆる入湯するがよろしい」と記載されています(写真②)。昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)には、第51番石手寺と第52番太山寺を結ぶ遍路道(順拝指道)上にひと際目立つように「道後温泉」と記され、温泉のマーク♨入りとなっています(写真③)。



ちなみに昭和15年(1940)の「四国遍路道中図」(徳島県坂東町小林商店版)など、昭和時代に四国各地で発行された「四国遍路道中図」には、道後温泉は他所の名所と同じように表記され、温泉マークはなく、地図上で強調されていません。渡部高太郎版で道後温泉が目立つように記載されているのは、広告主の渡部高太郎と発行・印刷所の関印刷所がともに愛媛にゆかりがあるため、郷土の宣伝を意図しているものと推察されます。
次に、近代の四国遍路案内記で道後温泉がどのように紹介されているのか、見てみましょう。
昭和6年(1931)の安田寛明著『四国遍路のすすめ』には、「四国の道中でも、最も楽しみとするのは道後の温泉です。ゆるゆる入湯して今までの長い旅の疲れを休めなさるよう、(中略)道後温泉に秤量台(計り台)があります。一度試しに体重を計って御覧なさい。亦出立前に縮んでおった度胸と道後温泉場まで来た度胸もついでに計って見るもよかろう。モウ道後まで来た度胸というものは、少しも心配なんか思わない大磐石となって居る筈です」と記されています。
安田は道後温泉への入湯は四国路の最大の楽しみであるとしています。とてもユニークなのは、道後温泉の秤量台を例にして、遍路の度胸を測ることをすすめています。四国遍路で徳島の一番札所から順番に巡拝した場合、道後温泉に到着する頃には、すでに半分以上の札所をめぐってきたことになるため、四国遍路にも慣れて、しっかりと度胸がついていると述べています。
また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、道後温泉の歴史を紹介した上、「三階建の振鷺閣の中には霊の湯、神の湯、養生湯があり、入浴料は神の湯を除き階下十銭、二階二十銭、三階四十銭、神の湯は階下四銭、二階十五銭です。階上には湯女を置き茶菓を供して居ります。外に入浴料三銭の鷺の湯や、又町の西部西湯の建物には砂湯入浴料十銭、西湯同二銭と別に松湯という無料の浴室もあります。泉質は何れもアルカリ性単純泉で、温度摂氏四六―四七度共同浴制で割引回数券を発行しております」と詳しく紹介されています。
現在の道後温泉本館は木造三層楼で、明治27年(1894)に建立されました。現役の公衆浴場として平成6年(1994)、全国で初めて重要文化財に指定されています。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』(昭和59年)によると、道後温泉は、昭和31年までは外湯としての特徴をもち、明治40年(1907)頃の温泉浴室は、霊の湯男女、神の湯一・二・三室、養生湯五・六室、松の湯男女と又新殿を合わせて10室でした。大正11年(1922)には、市街の西に西湯および砂湯(現在の椿の湯の敷地)が増設され、その後、大正13年(1924)に養生湯の改築、昭和2年(1927)に鷺の湯の開業、昭和10年(1935)に神の湯改築などを経て、霊の湯男女、養生湯男女、西湯男女、鷺の湯男女と又新殿を合わせて13室あったことがわかります。
当時、道後温泉の土産として販売されていた絵葉書には、道後温泉の景観や湯治客で賑わう様子が見て取れます(写真④~⑩、個人蔵)。







現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」では、江戸時代の道後温泉に関する絵図類、近代の紀行文、絵葉書、パンフレット、道後土産なども展示紹介しています。この機会にご覧ください。


















































