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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉗―横峰寺への巡拝―

2024年4月26日

 前回、四国霊場第60番横峰寺の前札所(前札・まえふだ)についてとりあげましたが、今回は横峰寺への巡拝について紹介します。

 西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)の中腹に位置する横峰寺(本堂は標高約743m)は、古来より山岳信仰の霊地、修験道の道場であり、四国八十八箇所霊場の中で3番目の高地にあります。横峰寺に至る遍路道(横峰寺道)の一部は険しい登山道であり、「遍路ころがし」の最難所として知られています。

 横峰寺道は古道の保存状態も良く、横峰寺までの距離を示す丁石も残されており(写真①)、平成28・29年(2016・17)に横峰寺道の一部(二十丁の位置にある湯浪休憩所付近から五丁石付近までの区間、翌年には五丁石付近から山門までの区間の総延長約2.1㎞)と横峰寺境内が国史跡「伊予遍路道」に指定されました。

写真① 横峰寺道の丁石(当館撮影) 

 改めて、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)を確認すると、徒歩による横峰寺道は本図では、五十九番国分寺⇒桜井⇒三芳⇒丹原⇒番外生木山正善寺(生木地蔵)⇒大頭⇒大卿(馬返)⇒千足(夕浪)⇒大門⇒六十番横峰寺の順路となっています(写真②)。

写真② 昭和13年(1938) 「四国遍路道中図」横峰寺道部分(渡部高太郎版、当館蔵)

 ところで、横峰寺巡拝の実態を示す興味深い資料があります。それは札所寺院の横峰寺自らが作成したと見られる一枚刷りの案内チラシ(写真③、個人蔵)です。そこには次のように記されています。

写真③ 横峰寺発行の案内チラシ(個人蔵) 

 「次ぎは六十番横峯(峰)寺です 桜井駅より汽車に乗ると上り小松駅下車直ぐに登り下さい 御通夜もできます、風呂もわいて居ります。石槌山の権現様も御開帳ができます、弘法大師様の御教えを守り八十八ケ所の霊場を御順拜下さい。四国第六十番横峰寺」。発行年は不明ですが、戦前頃のものと推察されます。

 横峰寺へ巡拝するには第59番国分寺参拝後、桜井駅から鉄道(予讃線)を利用して小松駅で下車し、途中の三芳、丹原の区間をショートカットして、小松から徒歩で大頭、大郷、千束を経由して横峰寺へと進む短縮ルートを紹介しています。また、無料で宿泊できる通夜堂とお風呂が利用できることや、蔵王権現の御開帳も可能である点などが宣伝されています。文面からは、山岳霊場で容易に参拝することが難しい横峰寺において、安全且つ安心に遍路が巡拝できるようにと、遍路を誘っている札所側の姿勢が見て取れます。

 ちなみに、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 へんろたより』によると、省線桜井駅から小松駅までの運賃は27銭でした。四国遍路における鉄道、通夜堂については、本ブログ「昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情」⑥鉄道・予讃線、⑳通夜堂をご参照ください。

 また、戦前の四国遍路案内記である昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(第32版、此村欽英堂)の番外霊場・生木山正善寺の記事中に「(前略)六十番の前札所当寺の住職は巡拝者の労を慰めんとて人夫の実費にて確実に六十一番まで荷物を届けて呉る(後略)」と紹介されています。これによると、険しい横峰寺の上り下りの山道で、遍路の荷物が軽減できるようにと、第60番の前札所(清楽寺か)の住職の配慮によって、次の第61番香園寺へ荷物を配送するという良心的なサービスが実施されていたことがわかります。

 このように、人里離れた山岳に位置する横峰寺は、天候、交通手段、巡拝ルート、宿泊環境など様々な要因から、巡拝することが困難でしたが、交通環境の進展、遍路を受け入れる札所と巡拝道の整備、道中で遍路を支えた接待などを通じて、今日の四国遍路における横峰寺巡拝は行われてきたことがわかります。

 今日、横峰寺が冬期を除いて、車で参拝できるようになるのは、昭和59年(1984)に林道が完成してからとなります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉖―前札所 ―

2024年4月12日

 今回は前札所(前札・まえふだ)について紹介します。

 白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)によると、前札所とは「札所が山中や山上などの参拝に困難な場所にあったり、あるいは冬期には積雪のため参拝不可能になる場合に、参拝が容易なところに位置する寺院や堂宇が、代理の札所として前札所と呼ばれることがある。前札所を打つことによって、本来の札所を打ったのと同じ功徳があるとされている。四国第六十番横峰寺に対する妙雲寺、四国第八十五番八栗寺に対する洲崎寺、(中略)などが前札所である。」と紹介されています。

 それでは「四国遍路道中図」で前札所について確認してみましょう。

 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版、当館蔵)によると、愛媛県東予地方に「佛生山清楽寺」があり、「六十番前札」と注記され、赤い線で示した順拝指道(巡拝ルート・横峰寺道)上に位置しています(写真①)。「六十番」は横峰寺であり、その前札所として清楽寺が紹介されていることがわかります。

写真① 大正6年(1917)「四国遍路道中図」清楽寺部分(駸々堂版、当館蔵)

 本図に示す横峰寺道のルートは、五十九番国分寺⇒桜井⇒長沢⇒六軒屋⇒三芳⇒六十番前札佛生山清楽寺⇒番外生木山正善寺⇒大頭⇒大卿(馬返)⇒千足⇒大門⇒六十番横峰寺の順路となっています(写真②)。図中には「五十九番国分寺番外生木山正善寺間 四リ五丁」「番外生木山正善寺ヨリ六十番横峰寺ヘ二リ廿七丁」と主要な札所間の距離が記されています。本図では横峰寺とその前札所・清楽寺、双方を巡拝できるルートが設定されています。

写真② 大正6年(1917)「四国遍路道中図」横峰寺道部分(駸々堂版、当館蔵)

 続いて、昭和4年(1929)の「四国遍路道中図」(浅野本店版、個人蔵)では、地図上に「六十番前札清楽寺」と大きく表示され、大正6年版同様に巡拝ルートに清楽寺が入っています(写真③)。本図に示す横峰寺道は、五十九番国分寺⇒桜井⇒三芳⇒六十番前札清楽寺⇒番外生木山正善寺⇒大頭⇒大卿(馬返)⇒千足⇒大門⇒六十番横峰寺の順路となっており(写真④)、基本的には大正6年版と変わりません。

写真③ 昭和4年(1929)「四国遍路道中図」清楽寺部分(浅野本店版、個人蔵)
写真④ 昭和4年(1929)「四国遍路道中図」横峰寺道部分(浅野本店版、個人蔵)

 ところが、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)になると、「六十番前札」として清楽寺が地図上に記載されていますが、昭和4年版に比べると小さく目立たない表示となり、巡拝ルートから外れています(写真⑤)。横峰寺道は本図では、五十九番国分寺⇒桜井⇒三芳⇒丹原⇒番外生木山正善寺(生木地蔵)⇒大頭⇒大卿(馬返)⇒千足⇒大門⇒六十番横峰寺の順路となっており(写真⑥)、この頃になると、清楽寺へ巡拝する遍路は少なくなったものと推察されます。

写真⑤ 昭和13年(1938)「四国遍路道中図」清楽寺部分(渡部高太郎版、当館蔵)
写真⑥ 昭和13年(1938)「四国遍路道中図」横峰寺道部分(渡部高太郎版、当館蔵)

 ちなみにこれらの「四国遍路道中図」では、前札所として紹介されているのは四国中で清楽寺のみです。冒頭で紹介した『巡礼・参拝用語辞典』に記す妙雲寺、洲崎寺などは記載されていません。

 次に、第六十番横峰寺と前札所の関係について、近代の四国遍路の案内記から確認してみましょう。

 明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』には、第60番は「横峯山大峯寺」(よこみねさん・だいほうじ)とあり、札所の名称が横峰寺から大峯寺へと変更されています。そして前札所は周桑郡小松村(愛媛県西条市小松町新屋敷新宮)の「六十番前札 佛生山清楽寺」(ぶっしょうざん・せいらくじ) が記載され、「ここより六十一番に直ぐ行けば四丁程です。されど折角の巡拝なれば六十番を前札で済さず、三芳村より本札所の横峯山へ詣る(後略)」と紹介されています。 

 大正2年(1913)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、第60番は石鉄山横峰寺と記載され、前札所として佛生山清楽寺が紹介されていますが、『四国霊場案内記』と同様に本札所の横峰寺参拝が推奨されています。

 以上の明治・大正期の四国遍路案内記の二書には第60番前札所は清楽寺となっており、妙雲寺は記載されていません。

 ところが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には清楽寺の記載はなくなり、周桑郡石根村大字妙口(愛媛県西条市小松町妙口)にある番外霊場「六十番前札旧跡仏法山妙雲寺」が紹介され、「当寺は天平五年石仙道人の開創で、横峰寺及石鎚山と其所縁を同じくし、(中略)横峰寺の前札と定められた由緒ある霊刹です。明治の初め一時廃寺となり次で火災に罹り(後略)」と記載されています。

 昭和37年(1962)の荒木戒空『四国八十八ヶ所霊場巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店)によると、横峰寺は「石鎚山の別当であった関係上、明治維新の改革に石鎚神社西遥拝所となり廃寺となった。其の時一応納経印を小松清楽寺にあずけた関係で前札と云う事になった。明治四十二年石鎚神社西遥拝所を廃して旧観の横峰寺に復した」とあります。

 このように、明治維新の神仏分離による横峰寺の廃寺と復興に至る紆余曲折した歴史の中で、石鎚山の麓にある清楽寺と妙雲寺が前札所として、遍路を受け入れていたことがわかります。

 最後に、第60番札所の参拝にあたり、遍路が実際にどのような巡拝を行ったのか、納経帳から見てみましょう。

 明治6年(1873)の「四国八十八箇所納経帳」(写真⑦)では、第59番国分寺納経の次頁に、「六十番」「四国六十番霊刹 本尊阿弥陀如来 佛生山清楽寺」と木版による納経印が押されています。次頁は第61番香園寺であるため、四国八十八箇所霊場の第60番札所横峰寺には参拝せず(できず)、その代わりに清楽寺で納経を行っていることがわかります。また、明治6年~昭和3年(1928)にかけて四国遍路を複数回巡拝した遍路の納経帳(写真⑧)には、同頁に清楽寺と横峰寺両方の納経印が押印(重ね印)されています。その御朱印には「六十番」「四国六十番前札」「六十番前札旧跡」などが確認でき、横峰寺と前札所の関係が見て取れます。

写真⑦ 明治6年(1873) 「四国八十八箇所納経帳」 清楽寺部分(左頁、当館蔵)
写真⑧ 明治6年(1873)~昭和3年(1928) 「四国八十八箇所納経帳」 清楽寺部分(左頁、当館蔵)

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉕―高浜港と瀬戸内海航路―

2024年4月5日

 前回に引き続き、近代以降に愛媛・松山の海の玄関口として発展した高浜港と瀬戸内海航路について紹介します。

 明治20年代に開港された高浜港は、瀬戸内海沿岸の航路の重要な寄港地として発展しました。特に四国遍路では、近隣の島しょ部や広島・山口方面、北九州、阪神方面からの遍路の上陸港としても利用されました。

 実際に高浜港を発着する瀬戸内海航路がどのくらいあったのか、見てみましょう。

 日本交通公社が昭和25年(1950)に発行した『旅』の付録「瀬戸内海」(写真①、個人蔵)には、高浜港を寄港する以下の定期航路路線があったことがわかります。

写真① 昭和25年(1950) 日本交通公社『旅』付録「瀬戸内海」 個人蔵

 〇瀬戸内海汽船航路

・宇品―三津浜(芸予線)。1日2便。約4時間半。寄港地(宇品、吉浦、鍋、音戸、高浜、三津浜)

・呉―三津浜(呉三津線)。隔日1便。約7時間40分。寄港地(呉、鍋、音戸、津和地、元怒和、二神、吉木、宇和間、神浦、小浜、大浦、高浜、三津浜)

・津和地―三津浜(西中島線)。1日1便。約4時間。寄港地(津和地、元怒和、二神、上怒和、饒、吉木、宇和間、神浦、高浜、三津浜)

・大浦―三津浜(東中島線)。1日1便。約2時間半。寄港地(粟井、大浦、小浜、高浜、三津浜)

 〇石崎汽船

・三津浜―高浜―尾道線。隔日1便。約6時間。寄港地(尾道、宮浦、木之江、御手洗、高浜、三津浜)

 〇太陽運輸航路

・柳井―三津浜線。隔日1便。約6時間20分。寄港地(柳井、安下庄、外入、沖家尾、油宇、高浜、三津浜)

 〇関西汽船

・大坂―別府線。1日1便。寄港地(大阪、神戸、高松、今治、高浜、大分、別府)

 〇日本郵船航路

・阪神―高浜線。隔日1便。約16時間。寄港地(大阪、神戸、今治、高浜)

 〇東京船舶航路

・阪神―今治―高浜線。隔日1便。約16時間。寄港地(大阪、神戸、今治、高浜)

 中予地方では高浜港や三津浜港の他に北条港(阿賀―北条)、東予地方では今治港、波止浜港、三島港、新居浜港、西条港なども、四国に上陸する瀬戸内海航路の玄関口として利用されています。島々を結ぶ架橋が進展していない当時は、瀬戸内海の津々浦々に海上交通網がはりめぐらされていました。

 次に、瀬戸内海航路の人気コースの一つであった広島―松山間の船旅に関する資料を紹介します。

 現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」では、中島華鳳が大正3年(1914)に作成した「伊予国松山日記 厳島宝物日記 写生帳」(当館蔵)を紹介しています。作者の中島華鳳(1866~没年不詳)は円山派の画家で、富岡鉄斎に書を学び、特に花鳥・山水画を得意としました。その写生帳には日本三景の一つとして知られる厳島(安芸の宮島)、呉軍港、音戸の瀬戸など、瀬戸内海上から見た景色や、高浜港近くの景勝地四十島などが描かれています。

 華鳳が描いた「呉軍港」の風景画(写真②)は見開き3ページにわたって描かれたパノラマ図で、「呉軍港/十一月廿日朝□/此日曇天/但シ浪静/南ヨリ北ヲ望ム」と記されています。構図は呉港の入口に位置する小さな島である大麗女島(おおうるめじま)もしくは小麗女島(こうるめじま)の沖合(南)から呉湾(北)と、呉湾から吉浦、広島方面(西北)を臨んでいます。呉の中心部には「此所/呉市/ナルベシ/遠望」と記されています。呉湾には煙を上げる軍艦と見られる船舶などが描かれ、軍港の様子が伝わってきます。

写真② 大正3年(1914) 中島華鳳が描いた呉軍港(「伊予国松山日記 厳島宝物日記 写生帳」当館蔵)

 呉は明治22年(1889)に第二海軍区鎮守府が設置され、同36年(1903)年に呉海軍工廠が設立され、東洋一の軍港として発達しました。大麗女島には大正11年(1922)に海軍の地下燃料庫が建設され、太平洋戦争末期には兵器を製造する大麗女島工場がありました。小麗女島は大麗女島の隣に位置します。

 また、華鳳が描いた「音戸の瀬戸」(写真③)も見開き3ページにわたって描かれています。画中に「音戸ト云ふ所ヲ通テ/来松山/中央ニ/一本燈籠/有石作ル」「音戸ト云所/平清盛墳/猟師屋多し」「山上ニ畑有/畠見ヘタリ」とコメントがあります。両岸の間が狭い海峡の中央部には石燈籠が設置され、石垣で築かれた平清盛塚、海岸沿いに密集する漁師の家や漁船などが描かれ、大正期の音戸の瀬戸の様子がよくわかります。

写真③ 大正3年(1914) 中島華鳳が描いた音戸の瀬戸(「伊予国松山日記 厳島宝物日記 写生帳」当館蔵) 

 音戸の瀬戸は古くからの交通の要所で、永万元年(1165)に平清盛が日宋貿易の航路として、沈む夕日を扇で招いて1日で開削したという日招き伝説や、清盛が人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈め、難工事を完成した功績を称え、供養のために建立された清盛塚が残っています。昭和36年(1961)にループ状の音戸大橋、平成25年(2013)年に第二音戸大橋が架けられ、風光明媚な景勝地として瀬戸内の人気スポットです。

 大正期に華鳳が実際に利用した航路の詳細は不明ですが、おそらく広島(宇品港)を出港し、吉浦港を経由し、呉湾の小麗女島付近から、呉軍港や呉市街を遠望し、音戸の瀬戸を通り、高浜港から四国に上陸したものと推察されます。

 現在、広島―呉―松山を結ぶ旅客航路が瀬戸内海汽船と石崎汽船によって運行されています。先日実際にフェリーの船上から、華鳳が描いた呉軍港と音戸の瀬戸を眺めてみました(写真④⑤⑥)。音戸の瀬戸の景観は昔の面影を残しながらも大きく変貌していることがわかります。

写真④ 現在の呉港遠景 当館撮影
写真⑤ 現在の音戸の瀬戸 当館撮影
写真⑥ 現在の清盛塚 当館撮影

 当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」(4月7日迄)では、江戸時代から近代にかけての瀬戸内海に関する絵図類、紀行文、航路図、名所案内パンフレット、絵画など多数の貴重な資料を展示紹介しています。この機会にご覧ください。お見逃しなく。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉔―高浜港と太山寺―

2024年3月29日

 以前、本ブログ「昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情②-四国の上陸港-」で、「四国遍路道中図」に記載する四国の主要な海の玄関口として6つの上陸地(港)を紹介しました。

 今回は近代以降に愛媛・松山の海の玄関口として発展した高浜港と近隣に所在する四国八十八箇所霊場第52番太山寺(松山市太山寺町)との関係についてクローズアップします。

 高浜港の発展の様子は「四国遍路道中図」からも見て取れます。大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)には、「三津ケ浜上陸 九州北地方は五十二番の太山寺より始むるがよし」とありますが(写真①)、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)では、「高浜港三津浜上陸 山口県九州北地方ハ五十二番太山寺ヨリ始ムルがヨシ」と記載され(写真②)、昭和時代初期には三津浜港よりも高浜港の方が松山地方の海の玄関口として、多くの遍路に利用されたことを示しています。また、渡部高太郎版では高浜港と第52番太山寺が道路で結ばれ、高浜上陸後に近距離にある太山寺に参拝するのが便利であることが地図上からわかります。

写真① 高浜港周辺 大正6年(1917)「四国遍路道中図」(駸々堂版)当館蔵 
写真② 高浜港周辺 昭和13年(1938)「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵 

 北九州や山口方面からの上陸港としてた三津浜港と高浜港を利用した遍路は、札所番号順にまわる順打ちの場合、近隣に所在する第52番太山寺を四国八十八箇所の最初の札所として巡拝し(打ち始め)、最後に第51番石手寺を結願の札所として参拝する巡拝コースをとりました。そして  結願後、日本三古湯の一つである道後温泉で長旅の疲れをとり、三津浜港や高浜港から再び海路で、郷里に戻りました。

 高浜港は明治20年代に開港され、同25年(1892)には伊予鉄道の高浜駅が開業しています。同36年(1903)に高浜港に南桟橋が架設されると、日本有数の海運会社で瀬戸内海沿岸を主な航路としていた大阪商船は、寄港地を三津浜から高浜に移しました。「伊予高浜港全景」(写真③)、「松山名勝 高浜港ノ景観」(写真④)、「大阪商船株式会社 高浜船客御待合所」(写真⑤)などの古い絵葉書(個人蔵)からは、当時、松山地方の海の玄関口として賑わった高浜港の様子をうかがい知ることができます。

写真③ 絵葉書「伊予高浜港全景」
写真④ 絵葉書「松山名勝 高浜港ノ景観」
写真⑤ 絵葉書「大阪商船株式会社 高浜船客御待合所」 

 また、明治30年(1897)に発行された「四国霊場豫州太山寺全図」(当館蔵、写真⑥)には、太山寺の広い境内の背後には瀬戸内海の興居島や汽船が停泊している高浜港、高浜から太山寺に至る山越えの遍路道(高浜越)が描かれています。その峠には大正11年(1922)に建てられた「左 たいさんじ/右 しんかりやたかはま/左 たかはまえき近道」と刻まれた遍路道標石(写真⑦)が残っており、遍路などの通行が多かったことが偲ばれます。

写真⑥ 明治30年(1897) 四国霊場豫州太山寺全図(当館蔵)
写真⑦ 大正11年(1922)設置の遍路道標石

 太山寺で打ち始め、石手寺で結願、最後に道後温泉に入浴して四国遍路を終えるという四国巡拝の人気ルートは、松山地方の遍路がよく用いる巡拝ルートでもありました。

 一例を紹介すると、伊予郡垣生村(現松山市西垣生)出身の俳人・実業家の村上霽月は、幼少期の明治10年(1877)に祖父に連れられて四国遍路を行っています。霽月は太山寺参道の茶屋で遍路支度をして、太山寺から四国遍路を始めて、石手寺で結願。道後温泉入浴後に母が新調した伊予絣の着物に着替えて、郷里の垣生に帰っています(今村賢司「村上霽月の四国遍路」『愛媛県歴史文化博物館 研究紀要』第22号、2017年参照)。

 今日の松山の海の主要な玄関口は松山観光港です。その観光港フェリーターミナルには、「太山寺高浜道の由来碑」(写真⑧)が平成17年(2005)に設置されています。本碑には高浜から太山寺に至る道は高浜の住民の生活道として、古くは太山寺を開基したと伝えられる豊後の真野長者が本堂の用材を運搬した道として紹介されています。

写真⑧ 平成17年(2005)設置の「太山寺高浜道の由来碑」

 現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」(4月7日迄)では、江戸時代から近代にかけての瀬戸内海に関する絵図類、紀行文、航路図、名所案内パンフレット、絵画など多数の貴重な資料を展示紹介しています。この機会にご覧ください。お見逃しなく。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉓―四国遍路の楽しみ・道後温泉―

2024年3月15日

 日本三古湯の一つといわれる道後温泉は、四国を代表する人気スポットとして知られています。四国霊場を巡拝する遍路にとっても、道中の休息や観光のため、道後温泉に入湯することは大きな楽しみでした。

 今回は道後温泉について、「四国遍路道中図」と案内記、そして絵葉書から紹介します。

 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真①)には、地図中に「道後で滞在してゆるゆる入湯するがよろしい」と記載されています(写真②)。昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)には、第51番石手寺と第52番太山寺を結ぶ遍路道(順拝指道)上にひと際目立つように「道後温泉」と記され、温泉のマーク♨入りとなっています(写真③)。

写真① 大正6年(1917)「四国遍路道中図」(駸々堂版)当館蔵
写真② 道後温泉周辺(部分拡大)
写真③ 道後温泉周辺(部分拡大) 昭和13年(1938) 「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵 

 ちなみに昭和15年(1940)の「四国遍路道中図」(徳島県坂東町小林商店版)など、昭和時代に四国各地で発行された「四国遍路道中図」には、道後温泉は他所の名所と同じように表記され、温泉マークはなく、地図上で強調されていません。渡部高太郎版で道後温泉が目立つように記載されているのは、広告主の渡部高太郎と発行・印刷所の関印刷所がともに愛媛にゆかりがあるため、郷土の宣伝を意図しているものと推察されます。

 次に、近代の四国遍路案内記で道後温泉がどのように紹介されているのか、見てみましょう。

 昭和6年(1931)の安田寛明著『四国遍路のすすめ』には、「四国の道中でも、最も楽しみとするのは道後の温泉です。ゆるゆる入湯して今までの長い旅の疲れを休めなさるよう、(中略)道後温泉に秤量台(計り台)があります。一度試しに体重を計って御覧なさい。亦出立前に縮んでおった度胸と道後温泉場まで来た度胸もついでに計って見るもよかろう。モウ道後まで来た度胸というものは、少しも心配なんか思わない大磐石となって居る筈です」と記されています。

 安田は道後温泉への入湯は四国路の最大の楽しみであるとしています。とてもユニークなのは、道後温泉の秤量台を例にして、遍路の度胸を測ることをすすめています。四国遍路で徳島の一番札所から順番に巡拝した場合、道後温泉に到着する頃には、すでに半分以上の札所をめぐってきたことになるため、四国遍路にも慣れて、しっかりと度胸がついていると述べています。

 また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、道後温泉の歴史を紹介した上、「三階建の振鷺閣の中には霊の湯、神の湯、養生湯があり、入浴料は神の湯を除き階下十銭、二階二十銭、三階四十銭、神の湯は階下四銭、二階十五銭です。階上には湯女を置き茶菓を供して居ります。外に入浴料三銭の鷺の湯や、又町の西部西湯の建物には砂湯入浴料十銭、西湯同二銭と別に松湯という無料の浴室もあります。泉質は何れもアルカリ性単純泉で、温度摂氏四六―四七度共同浴制で割引回数券を発行しております」と詳しく紹介されています。

 現在の道後温泉本館は木造三層楼で、明治27年(1894)に建立されました。現役の公衆浴場として平成6年(1994)、全国で初めて重要文化財に指定されています。

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』(昭和59年)によると、道後温泉は、昭和31年までは外湯としての特徴をもち、明治40年(1907)頃の温泉浴室は、霊の湯男女、神の湯一・二・三室、養生湯五・六室、松の湯男女と又新殿を合わせて10室でした。大正11年(1922)には、市街の西に西湯および砂湯(現在の椿の湯の敷地)が増設され、その後、大正13年(1924)に養生湯の改築、昭和2年(1927)に鷺の湯の開業、昭和10年(1935)に神の湯改築などを経て、霊の湯男女、養生湯男女、西湯男女、鷺の湯男女と又新殿を合わせて13室あったことがわかります。

 当時、道後温泉の土産として販売されていた絵葉書には、道後温泉の景観や湯治客で賑わう様子が見て取れます(写真④~⑩、個人蔵)。

写真④ 絵葉書「道後温泉霊之湯」
写真⑤ 絵葉書「伊予道後温泉場 神之湯」
写真⑥ 絵葉書「浴客の荷賑ふ養生湯の壮麗」
写真⑦ 絵葉書「伊予道後温泉男入浴場」
写真⑧ 絵葉書「霊湯に浸たる浴客、霊の湯の湯槽」
写真⑨ 絵葉書「伊予道後温泉楼上休憩所」
写真⑩ 絵葉書「伊予道後温泉砂湯」

 現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」では、江戸時代の道後温泉に関する絵図類、近代の紀行文、絵葉書、パンフレット、道後土産なども展示紹介しています。この機会にご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉒―乗合自動車―

2024年3月8日

 前回、明石寺道を事例に、徒歩遍路と自動車遍路について紹介しました。今回は自動車遍路の先駆けとして利用された乗合自動車について見てみましょう。

 乗合自動車とは、複数人の乗客を乗せて走行する大型の車両のことをいいます。一定の運賃で不特定の旅客を乗せ、定まった路線を運行します。

 乗合自動車の歴史を調べると、明治36年(1903)に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、梅田駅から会場の天王寺公園までの間で蒸気自動車による乗合自動車の運行が行われました。一般には、同年春に広島県の可部~横川間を結んだ乗合自動車の運行が日本で最初といわれています。また、同年9月20日、京都の堀川中立売~七条~祇園の区間で、二井商会による乗合自動車の運行が開始され、この日が日本のバス事業の始まりと言われ、現在の「バスの日」となっています。最初のバスは蒸気自動車を改造した6人乗りでした。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」の凡例には、二本線で道路を示す記号が表示されています(写真①②)。この道路とは徒歩道(赤い線の順拝指道)ではなく、自動車が通行可能な巡拝道を示しています。地図上には、松山、高松、徳島などの都市部は鉄道の普及などによって交通環境も良く、数多くの道路が通っており、道路表記はされていません。阿波(徳島県)南部から土佐(高知県)の室戸岬周辺や、土佐から伊予(愛媛県)南予地方など、札所近くに鉄道の路線がない地域には、札所と札所を結ぶ道路が記されています。

写真① 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵
写真② 凡例に示す道路表記と室戸周辺(部分拡大)

 具体的に見てみましょう。戦前に四国遍路を行った漫画家の宮尾しげをは、乗合自動車を大いに利用している近代的な遍路でした。昭和18年(1943)の宮尾しげを著『画と文 四国遍路』によると、徳島県最後の札所となる第23番薬王寺(徳島県美波町)参拝後、「乗合自動車で、次の最御崎寺まで、二十一里二十一町といふ長丁場を乗る。寺から寺への長さでは三十七番岩本寺から三十八番の金剛副寺への道と共に長丁場だと、運転手が云ふ。」とあります。

 同乗者に県庁の獣医がいて、途中で自動車を止めて窓越に農家の馬を診察したり、車内には郵便物を載せており、各町の郵便局に配達しながら運行したりしているので、時間がかかる。県境の甲浦の港町に到着すると、土佐側で待機する乗合自動車に乗換えていることなど、乗合自動車の様子が記されていて興味深い。

 さらに「野根から佐喜浜の間は『飛石跳石ゴロゴロ石』といふ難所がある、荒波が岸を洗ふとき、石が干潮でゴロゴロと音を立てるのでその名がある、飛石跳石は潮の干いた間に石を飛び跳ねて、次の大石へと行くのでさう謂はれている。今は国道が出来ているので、その難は無くなった。」と語っています。

 室戸岬に向かう途中の飛石・跳石は四国遍路の中でも難所中の難所として知られ、江戸時代後期にもその独特な景観が描かれています(写真➂)。また、昭和9年(1934)に自動車による四国巡拝を行った時の写真集『四国霊蹟写真大観』からは、室戸周辺の道路(昭和38年に国道 55号線となる)が写され、まだ舗装されていない土道であることがわかります(写真④)。

写真➂ 飛石・跳石(「中四国名所旧跡」江戸時代後期、当館蔵)
写真④ 室戸周辺の道路(昭和9年(1934)『四国霊蹟写真大観』当館蔵より) 

 昭和9年の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、四国霊場の各札所にアクセスするための乗合自動車の路線とその運賃が記載されています。ちなみに徳島・高知県境の甲浦~室戸岬の区間は運賃1円70銭、所有時間約1時間50分と記載されています。

 本書を見れば、当時、道路が未開通の山間部の札所や、札所間の距離が近過ぎて徒歩で巡拝する札所を除いて、多くの札所では乗合自動車の路線が運行されていることがわかります。これらのことから、乗合自動車の普及によって、徒歩中心の四国遍路から、次第に乗り物を利用した遍路も増加し、さらに戦後の団体バスによる遍路、マイカー遍路へと発展していく過程が推察されます。

 昭和時代の代表的な四国遍路ガイドマップの「四国遍路道中図」には、乗合バス路線の情報までは記載されていませんが、実際には各地で四国霊場を結ぶ乗合バス路線が整備され、便数は少ないながらも運行され、今日と異なった四国遍路の巡拝方法や巡拝ルートが存在しました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉑―明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路―

2024年3月1日

 明石寺道は、第42番札所佛木寺(宇和島市三間町)から歯長峠を経由して第43番札所明石寺(西予市宇和町)に至る約10.6㎞の道のりです。急な山道が続き、古道の景観をとどめ、このうち宇和島市側の約0.58㎞が令和6年2月21日付けの官報告示によりに国史跡「伊予遍路道」に追加されました。

 今回は「四国遍路道中図」と案内記の記述をもとに、佛木寺から明石寺までの巡拝方法について紹介します。

 まずは、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で明石寺道を確認してみましょう(写真①)。

写真① 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵

 佛木寺から明石寺までは下宇和を経由して「三リ廿丁」と記されています。途中の難所「歯長峠」は本図には表記されていませんが、近隣の宇和島から吉田、立間を経由して卯之町に至る別ルート上には「法華津峠」と記されています(写真②)。

写真② 明石寺道と法華津峠(部分拡大)

 昭和9年(1934)の安達忠一による四国遍路ガイドブック『同行二人 四国遍路たより』には、徒歩による歯長峠経由の明石寺道の様子が詳しく紹介されています。

 「次(明石寺)へ二里二十四町。交通機関を利用する人は一端宇和島迄帰らねばなりません。前方長く松の頂きを揃えた峯が見えますが、それに続いて左の端の高い山が高森山で、右手の丸い岩山は昔城のあったところ、その峯に続いたところがこれから越えていく標高五一〇米歯長峠であります。寺から峠までは二十六町。仁王門を出て右へ七町行き左へ橋を渡って池の端まで一町、峠まで十八町の登りです。(中略)峠には大師御自作の見送り大師を安置する送迎庵があります。こゝから四十三番まで一里三十四町。十六町下って左へ九町にて右へ宇和川の土橋を渡ると下川で、道引く大師堂があります。四十三番まで一里九町。左手を見ますと歯長峠、高森山、法華津峠と三つの順を揃えています。皆田、稲生を経て三十町にて卯之町の入口岩瀬川を渡り、一町行って立石を右へ小径に入り、十町行くと右手に四十三番奥の院があります。白王権現が御祀りしてあり、その盤石は龍女が此処まで運んだ時夜が明けましたので、その儘置き去ったという明石寺の名の出たところであります。一町行って左へ石段を上って三町行くと四十三番であります」と記されています。

 実際に徒歩で明石寺道の歯長峠に向かう場合、佛木寺仁王門前からは北側に高森山と歯長峠を見渡すことができます(写真➂)。峠の上り口に「(手印)へんろみち」と刻まれた明治36年(1903)の遍路道標石(写真④)があり、歯長峠山頂(写真⑤)には送迎庵、下り道には地元の皆田村の和平冶らが願主となって寛政7年(1795)に建てた、「(大師像)明石寺 是ヨリ二里」と刻まれた遍路道標石(写真⑥)などがあり、江戸時代からの遍路道の面影が残っています。

写真➂ 佛木寺から歯長峠を臨む
写真④ 歯長峠上り口
写真⑤ 歯長峠の山頂
写真⑥ 寛政7年(1795)の遍路道標石

 一方、近代に入ると、宇和島鉄道(後の省線宇和島線)の開通、道路の整備と自動車の普及などによって、佛木寺参拝後に歯長峠を通らずに明石寺を巡拝するコースが利用されました。その場合、鉄道や自動車などを利用して、再び宇和島に戻り、法華津峠越えで卯之町を経由して明石寺を参拝するルートとなります。なお、宇和島鉄道(省線宇和島線)の利用については、当ブログ(昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑦―鉄道・宇和島鉄道―https://www.i-rekihaku.jp/gakublo/kanzou/8552)をご参照ください。 

 特に自動車を活用した四国霊場巡拝は急速に進みました。前述の『同行二人 四国遍路たより』には各札所にアクセスするための乗合自動車の路線と運賃が記載されています。明石寺の場合、歯長峠を下った地点に位置する下川集落から卯之町までが三十銭、宇和島~卯之町間が一円四十銭であったことがわかります。

 昭和5年(1930)の島浪男『札所と名所 四国遍路』には、「宇和島から吉田を経、法華津峠を越して車は卯之町の入口でとまる。法華津峠は標高四三六米、眼下に見る法華津の漁村や法華津湾が美しい(中略)私は、四国の旅で面白いのは何だと聞かれたら、躊躇なくその一つとして、自動車で峠を越す時の快味を挙げよう。自動車は―それは勿論乗合のガタ自動車ではあるが―忽ちにして峠のてつぺんから下界へ向けて、殆んど舞ひ下るやうに私達の身体を運んでくれるのだ」と紹介しています。島は乗合自動車を利用して、法華津峠経由で明石寺に向かっているが、その途中の宇和海の絶景を称え、四国の旅の醍醐味は自動車で峠越えすることにあると説いています。

 また、弘法大師御入定1100年記念にあたる昭和9年(1934)に自動車による四国巡拝を行った時の写真集『四国霊蹟写真大観』には、自家用車で佛木寺を巡拝した写真が収められています(写真⑦)。

写真⑦ 自家用車で佛木寺巡拝。 (『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 戦後、道路開発や自動車の普及にともない、札所の参拝道や駐車場などが整備され、マイカー遍路や巡拝バスによる団体遍路が飛躍的に増加します。

 「四国遍路道中図」と案内記から、昭和時代(戦前)の明石寺への巡拝方法を紹介しました。伝統的な徒歩遍路に加えて、自動車遍路が増えていく様子がわかり、今日の四国遍路におけるモータリゼーションの先駆けを見ることができます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑳―通夜堂―

2024年2月16日

 長い道中を巡拝する四国遍路において、宿泊情報はとても重要です。大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版、写真①)には、愛媛の札所における通夜堂(つやどう)の情報が記載されています。

写真① 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版) 当館蔵

 ・第42番佛木寺「当寺は新に通夜堂を建築して普く巡拝者ニ通夜を得させらる」(写真②)

写真② 第42番佛木寺

 ・第45番岩屋寺「当寺ハ清潔な二階建の通夜堂有」(写真③)

写真③ 第45番岩屋寺

 ・第60番横峰寺「当地ハ山深けれバ宿なく寺内ニ通夜堂あり」(写真➃)

写真➃ 第60番横峰寺

 通夜堂とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994)によると、「札所寺院で宿泊することを通夜といい、かつては札所に「通夜堂」があった。原則として素泊まり、無料で、煮炊きができるいろりなどがあった。そのため、四国では、弘法大師などが祀られている。通夜堂に、職業遍路が住みつくようになって、一般の遍路からは敬遠される存在になった。今日では札所に設備が整った宿坊が完備され、通夜堂は姿を消している。このような札所の宿坊に宿泊することも、通夜と呼ばれる」とあります。

 岩屋寺や横峰寺などの山間部の札所寺院の近辺には宿屋がなく、札所自らが遍路をはじめとする巡拝者の無料宿泊所として通夜堂を設けていたことがわかります。

 次に、同時代の四国遍路の案内記を確認すると、大正2年(1913)の三好廣太『四国遍路 同行二人 増補第二版』(此村欽英堂)では、佛木寺は「当寺は新に通夜堂を建築して、普く巡拝者に通夜を得させらる」、岩屋寺は「当寺は清潔な、二階造りの通夜堂あり」、横峰寺は「当地は山間なれば、寺に通夜堂があります」と記載され、四国遍路道中図と同じ内容が紹介されています。そのため、四国遍路道中図は『四国遍路 同行二人』などの案内記の内容を参考にして作成されたものと考えられます。

 もう少し古い明治期の案内記を見てみましょう。明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』(黒崎精二発行)の「佛木寺」解説では、「当寺は通夜堂もあり近くに宿屋もあります(中略)次ぎ(明石寺)へ三里、五六丁行きて歯長峠にかゝる二十五丁登り、峠に見送り大師堂(送迎庵と云ふ)大師御自作の尊像を安置す霊験新なり、少数の連れなれば通夜することが出来ます」と記され、札所寺院のみならず、明石寺道の歯長峠にある見送り大師堂(送迎庵、宇和島市吉田町立間)(写真⑤)も通夜堂として遍路に利用されていたことがわかります。

写真⑤ 現在の歯長峠にある送迎庵見送大師

 ところが、昭和時代の「四国遍路道中図」では、昭和12年(1937)の駸々堂版では横峰寺の通夜堂が注記されていますが、昭和4年(1929)の浅野本店版 、昭和10年(1930)の渡部商店版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版、昭和15年(1940)の小林商店版と金山商会版、昭和16年(1941)のイナリヤ総本店版などには、通夜堂についての記載が地図上からなくなっています。

 一方、戦前の四国遍路案内記を見ると、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、佛木寺、岩屋寺、横峰寺の通夜堂について言及されていませんが、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、大正期の同書とほぼ同文が掲載されているため、通夜堂そのものは当時も存在していたと推察されます。

 昭和時代に入ると、四国遍路道中図や案内記において、通夜堂の情報は少なくなっています。こうした背景には、札所寺院周辺の旅館や木賃宿などの宿屋の利用、札所における通夜堂の維持管理が困難となっての閉鎖や有料宿泊所である宿坊の整備などによって、次第に遍路による通夜堂の利用が減ったものと考えられます。

 今日札所寺院において通夜堂はほぼ見られなくなっていますが、遍路道沿いなどには善意による無料宿泊所が存在し、歩き遍路や外国人遍路などに利用されています。

文化人シリーズ切手

2024年1月11日

今回は現在開催中のテーマ展「日本の切手と葉書」から、文化人シリーズを紹介します。

切手の中には一つのテーマにもとづいて数年間にわたり発行されたシリーズものがあります。今回紹介する文化人切手は、昭和49(1974)年から同52年にかけて、18人の文化人の肖像が切手として発行されました。

 文化人の中には、文学者、教育者、歌舞伎役者、俳人だけでなく、科学者、医学者、宗教者、天文学者なども含まれています。みなさん、次の切手の人物が誰かわかりますか? (※答えは一番下に記載しています)


1862~1922 現島根県津和野町出身。 医学博士。文学博士。 『舞姫』、『阿部一族』、『高瀬舟』の作者 。
1872~1896 現東京都千代田区出身。『うつせみ』、『十三夜』、『たけくらべ』の作者 。
1867~1902 現愛媛県松山市出身。『歌よみに与ふる書』を新聞「日本」に連載し、短歌の革新にのりだす。長い病床生活の中で多くの俳句を遺す。

1859~1935 現岐阜県美濃加茂市出身。写実主義である『小説神髄』の作者。 シェイクスピアの全作品を翻訳刊行。

【答え】上から順に森鴎外、樋口一葉、正岡子規、坪内逍遥

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑲―大寶寺道と里程―

2023年11月10日

 大寶寺道は、第43番札所明石寺(西予市宇和町)から第44番札所大寶(宝)寺(上浮穴郡久万高原町)に至る約67.2㎞の道のりです。愛媛の遍路道では札所間の距離が最も長い区間となります。
 令和5年10月、大寶寺道の西予市宇和町久保~大洲市野佐来に至る「鳥坂峠越」(写真①)の区間(大洲市側約2.3km、西予市側約1.5km)が古道としての状態を比較的良好にとどめているため、新たに国史跡「伊予遍路道」に追加される見込みとなりました。鳥坂峠(標高約466m)は宇和島藩と大洲藩とを結ぶ主要街道にあり、江戸時代の四国遍路案内記や遍路絵図に紹介され、峠には茶店や接待所があり、賑わいを見せました。

写真① 大寶寺道・鳥坂峠(当館撮影)


 国史跡「伊予遍路道」として大寶寺道が最初に指定されたのは平成31年(2019)で、大寶寺道のスタート地点となる「明石寺境内」と、明石寺から卯之町までの区間755mが指定されています(写真➁)。

写真② 大寶寺道・明石寺~卯之町(当館撮影)


 それでは昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で大寶寺道を確認してみましょう(写真③)。

写真③ 「四国遍路道中図」部分 大寶寺道(明石寺~大寶寺)、当館蔵


  明石寺から大洲までは「十二リ」、明石寺から番外十夜橋までは、卯之町、下松葉、上松葉、田苗、真土、大江、久保、(鳥坂峠)、大洲へ進み「四十三番ヨリ六里七丁」、十夜橋から大寶寺までは、内子、五百木、掛木、成弥、中田渡、上田渡、白株、下サカバ、上サカバ、二名、檜皮峠、久万へ進み、「十夜橋ヨリ内子ヲ経テ大宝寺ヘ十一里七丁」と記されています。本図で大寶寺道の距離を合計すると十八里四丁となります。
 ある場所から他の場所までの道の長さを里程(りてい)といいますが、本図では距離の単位は現在の「メートル」でなく「里丁(町)」で記載されています。昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人(第32版)』(此村欽英堂発行)は、四国遍路の正しい里程を実測して記載した案内記ですが、大寶寺道は「次ぎ(大寶寺)へ十七里十四丁餘(旧二十一里)」とあります。本図と若干里数が異なりますが、注目したいのは「旧二十一里」の方です。これは江戸時代の里程を示しています。
 貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』では、「是(明石寺)より菅生山(大寶寺)迄廿一里」と記載され、江戸期の四国遍路絵図や案内記では大寶寺道は21里と紹介されています。実際、大寶寺道のスタート地点となる明石寺境内に建つ武田徳右衛門の遍路道標石(文化年間建立)には、「(梵字)(大師像)これより菅生山迄二拾壹里/願主 越智郡朝倉上村 徳兵ヱ門施主 備中國窪庭郡倉浦村 朝屋清兵ヱ」と刻まれ、二十一里と合致しています(写真④)。

写真④ 明石寺境内の大寶寺道入口に建てられた武田徳右衛門の遍路道標石(当館撮影)


 江戸時代は尺貫法が用いられ、国や街道によって1里の定義が異なり、
阿波国は「四十八町一里」、土佐国は「五十町一里」、伊予・讃岐国は「三十六町一里」と定められていましたが、明治9年(1876)に1里=36町=3.9273㎞。1町=109.09091mに全国統一されます。
 18世紀末のフランスで世界共通の単位制度としてメートル法が提唱され、明治8年(1875)にメートル条約が締結、同18年(1885)に日本が加盟、同24年(1891)に度量衡法(どりょうこうほう)公布によりメートル導入されますが普及せず、大正10年(1921)に度量衡法の改訂によって、尺貫法からメートル法へ単位の統一が図られました。その後、昭和26年(1951)に度量衡法を全面的に見直した計量法が公布され、昭和34年(1959)1月からメートル法が完全に実施されました。このように日本におけるメートル化には度量衡をめぐる歴史的な背景がありました。そのため、本図に限らず戦前・戦後しばらくは四国遍路絵図や案内記の距離の表記は旧来の里丁が用いられています。 
 四国遍路の絵地図や案内記、道標石などの里程の単位や距離は、札所の所在地や遍路道のルート、新道の開通など、四国霊場と遍路道の時代的な推移を考える指標となります。