前回に続き、四国八十八箇所霊場第10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)周辺で発行された四国遍路道中図を取り上げます。
漫画家で随筆家の宮尾しげを(1902~1982年)は、昭和18年(1943)に遍路記『画と文 四国遍路』(鶴書房)を刊行しています。そこには、切幡寺周辺の巡拝用品・土産物店の実態と四国遍路道中図との関係性をうかがい知る上でとても興味深い記載があります。
以下、切幡寺に向かう宮尾の道中における出来事を三段階(ア切幡寺道、イ切幡寺手前、ウ切幡寺下)に分けて紹介します。「 」内は同書からの引用です。
ア 宮尾は切幡寺に向かう途中、ある女性の巡礼者から一枚の紙を渡されます。その紙には三割半引きと記した広告入りで、様々な品名が記されていました。女性は弘法大師の御影が入った掛軸を販売しているお奨めの掛地屋(掛軸などを取り扱う店)を紹介します。
「切幡寺下の掛地屋といふのは、宿屋も兼業でしてネ、掛地を売り附けるのですよ、まア通るとき見てごらんなさい」
切幡寺周辺の掛地屋は遍路宿も営み、その営業活動として、切幡寺に向かう遍路道で直接、遍路に対して店の宣伝広告入りのチラシを渡していたことがわかります。
イ 切幡寺へ近づくと、次のような出来事が起きます。
「段々寺へ近づいてゆくと、後から『お遍路さんョ接待ぢや』と云ひながら、一老婆が走つて来て、遍路地図を一枚くれた。『有難う』と云はうとするより、早く『あんた方、もうお泊りなら大きな口では云へぬが、十番の下の三十間ま口の掛地屋〇〇が一番よいぞエ』と小さい声で教へてくれる。地図には宿の広告が付いている、広告の接待は恐れ入る(後略)」
ここにいう遍路地図とはすなわち四国遍路道中図を指していると考えられます。店舗名などの広告入りの遍路地図を手渡した年老いた女性がその販売店の者かは定かではありませんが、接待と称して、土産物店や宿屋などの宣伝広告が入った四国遍路道中図を無料で遍路などに配り、誘客のために活用していたことが読み取れます。これに対し宮尾は、接待と称しながら、接待する側の利益を見込んでいることにやや興ざめしています。
ウ 宮尾は切幡寺の麓下に到着します。そこには実際に遍路宿を兼ねていた掛地屋が多くあり、巡拝中の遍路に競って呼び掛けを行っています。
「寺の下へ来た、両側は成程、掛地屋が軒を並べている。『泊つておくれやす』『泊りぢやございませんか』『お風呂も沸いてます、まだ一人も休みがないのや』『エゝ大師さまの御一代記の掛地が、タツタ六銭ヤ』『ナー、もう此処らで足を延ばしてお泊り、あすは焼山寺があるぞエ』(後略)」
この場面は挿絵にも掲載されています(本書11頁)。掛地屋の軒下には多くの掛軸があり、それらを広げて遍路に見せて売り込み中の店主や、遍路宿に呼び込もうとする女性などがコミカルに描かれています。宮尾にとって切幡寺周辺の掛地屋の賑わいぶりは、四国遍路で強く印象に残った情景だったと推察されます。
このように、宮尾しげをの遍路記『画と文 四国遍路』からは、切幡寺周辺の巡拝用品・土産物店の様子や、そこで発行された四国遍路道中図を接待品として配布するなど、巡拝中の遍路への周到な営業活動などがよくわかります。そこには四国遍路の巡拝者を主に対象とした商人たちの商魂の逞しさ、同業者の営業合戦ともいえる遍路獲得への競争心が読み取れます。
ちなみに、宮尾が巡拝した頃の戦前の切幡寺の境内の様子は、昭和9年(1934)刊行の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵、写真①)に近郊の観光名所であった土柱とともに写真で紹介されています。また、弘法大師信仰の広がりを背景に、遍路を対象に土産物店などで販売されていた掛軸類は、弘法大師の御影(写真②)、大師の事績を描いた弘法大師行状曼荼羅(写真③)、四国八十八箇所霊場の本尊御影(切幡寺発行、写真④)などであったと考えられます。






















































