Archive for the ‘資料調査日記’ Category

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑩―「四国遍路道中図」の種類―

2023年8月18日

 「四国遍路道中図」は、主に四国八十八箇所の札所周辺や遍路道沿いで巡拝用具や土産物などを取り扱う商店などで販売・配布され、遍路の道中の手引きとして用いられました。四国遍路道中図には発行者や販売店などの名前や宣伝広告が記載され、印刷・発行年の記載があるものと不明のものがあります。

 今回は「四国遍路道中図」の種類について見てみましょう。

 当館所蔵資料の中には、本ブログで取り上げた昭和13年(1938)発行の心臓薬本舗渡部高太郎版、同9年(1934)の第10番切幡寺麓の仏具卸金山商会版、同12年(1937)の切幡寺麓の製本店光栄堂版、無刊記の徳島県撫養港の江口商店版、さらに「四国遍路道中図」の古版と考えられる、大正6年(1917)に発行された大阪の駸々堂版などがあります。

 江口商店版(写真①)は撫養港(徳島県鳴門市)で四国巡拝道具一式を扱っていた江口商店が発行したもので、主に近畿地方以東から航路で四国に上陸する遍路を対象に作成されたものと考えられます。これまで紹介した渡部高太郎版は自身が経営する心臓薬本舗の広告を大きく掲載した特異な存在でしたが、江口商店版には「はしがき」「旅の心得」「郵便為替音信」「四国八十八ヶ所御詠歌」が記載され、典型的な四国遍路道中図の構成となっています。

写真① 四国遍路道中図(江口商店版、当館蔵)

 駸々堂版(写真②)は大正時代に大阪の駸々堂から旅行案内図として発行されたものです。駸々堂はかつて京都・大阪で書店や出版業を営んでいた大手の出版社です。駸々堂版は四国遍路道中図の古版として位置付けられ、それらをもとに昭和時代の四国遍路道中図へと展開したと推察されます。

写真② 四国遍路道中図(駸々堂版、大正6年、当館蔵)

 館蔵品以外で筆者が確認できた四国遍路道中図は、第1番霊山寺前の浅野商店版、徳島県板野郡坂東駅前の藤井商店版、徳島県坂東町の小林商店版、徳島県阿波郡八幡町切幡の浅野本店版、イナリヤ総本店、徳島市佐古町の渡部商会版などがあります。四国遍路道中図は内容を最新の情報に改訂しながら、各地で様々なものが作成されたと考えられます。

 既存の四国遍路道中図の発行・販売地の傾向としては、四国遍路のスタート地点となる徳島県内の撫養港、坂東駅、霊山寺や第88番大窪寺から合流する地点にある切幡寺周辺で発行されているものが多いといえます。現存数も多い「四国遍路道中図」は、近代の四国遍路の代表的なガイドマップとして広く用いられたことがわかります。

 なお、今回紹介した大正時代の四国遍路道中図については、愛媛新聞掲載の「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から」の「№100 大正時代の四国遍路地図」で紹介しました。詳しくは当館ホームページ(https://www.i-rekihaku.jp/research/monogatari/article/100.html)をご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情➈―坂・峠 ―

2023年8月4日

 四国遍路でよく用いられる言葉に「遍路ころがし」があります。それは、遍路道があまりにも急なために歩くのが困難で転倒しそうになるぐらいの坂道がある難所を指します。例えば、標高の高い山中に立地する第12番焼山寺(標高約707m)、第20番鶴林寺(標高約500m)、第21番太龍寺(標高約507m)、第27番神峰寺(標高約431m)、第60番横峰寺(標高約743m)、第66番雲辺寺(標高約898m)などに至る急峻な遍路道が挙げられます。

 遍路ころがしと言わないまでも、自然豊かな四国の遍路道には坂や峠が数多く存在します。現存する最古の四国遍路絵図として知られる細田周英「四国徧礼(へんろ)絵図」には、遍路道のルート上にある坂や峠の情報が詳細に記載されています。坂は傾斜地(勾配のある道)の途中、峠は山と山とが連なる鞍部を意味しますが、厳密には峠と坂の区別は曖昧なようです。

 今回は、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)において、峠と坂について、どのように紹介されているのかを見てみましょう。

 本図の凡例によると、赤の実線が「順拝指道」を示し、四国遍路の道筋を表しています。また、次の到着地までの距離が注記されていますが、遍路ころがし、坂、峠などの遍路道の細かな情報はほとんど記載されていません。

 しかし伊予(愛媛県)に限っていえば、松尾坂、柏坂、檜皮峠(鴇田峠・ひわだとうげ)、三坂峠の記載が確認できます。注目したいのは、松尾坂、柏坂、三坂峠は凡例に示す「名所古跡」(〇印)として紹介されている点です(写真①➁)。

写真① 松尾坂と柏坂(「四国遍路道中図」部分)
写真② 檜皮峠(鴇田峠)と三坂峠(「四国遍路道中図」部分)

 松尾坂(現在の松尾峠。愛媛県南宇和郡愛南町小山と高知県宿毛市大深浦の県境にある峠。標高約300m)は予土国境を通る遍路道です。江戸時代には土佐国側には深浦番所、伊予国側には小山番所が設置され通行人の取り締まりが行われました。探検家の松浦武四郎は「西は柏しま、沖ノ島、姫島等燦然と見え、また雲間ニ九州を望ミ、其眺望筆紙ニつくしがたし」と、松尾峠から見た宿毛湾の絶景(写真③)を称えています。ちなみに、順打ちで第40番札所観自在寺へ至る道は「観自在寺道」と呼ばれて、県境の松尾峠から愛媛県側の一部は平成30年に国史跡「伊予遍路道」に追加指定されました。  

写真③ 松尾坂(松尾峠)からの眺望(当館撮影)

 柏坂(愛南町柏と宇和島市津島町の境にある峠。標高約460m)は、第40番観自在寺から宇和島に至る遍路道の途中にあり、峠越えの難所として知られています。柏坂には柳水大師、清水大師、接待松、茶堂の大師堂などの番外霊場があり、とくに峠からの展望は素晴らしく、眼下に宇和海や由良半島を見渡すことができ(写真④)、見どころが多い峠越えの道です。

写真➃ 柏坂からの眺望(当館撮影)

 三坂峠(松山市と上浮穴郡久万高原の市町境にある峠。標高約720m)は「遍路ころがし」といわれ、沿道には行き倒れたと思われる遍路墓が見られます。貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』には、三坂峠からの素晴らしい景観を愛でている遍路の姿が挿絵として掲載されています。徒歩による遍路は宇和島から第45番岩屋寺まで長らく山中を歩きます。そして三坂峠でついに視界が開けて、松山城下や瀬戸内海を眼下にすることができました(写真⑤)。寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』にも三坂峠からの眺望の風景が図版入れで紹介されています。

写真⑤ 三坂峠からの眺望(当館撮影)

 松尾坂、柏坂、三坂峠から眺める風景は古くから絶景として知られ、難所とされた場所でしたが四国遍路における人気スポット・名所でした。こうしたことから「四国遍路道中図」に名所として紹介されたものと考えられます。

 なお、檜皮峠(鴇田峠、標高約800m)は久万高原町二名地区と久万地区を結ぶ街道で、第44番札所に至る大寶寺道に位置します。

 峠越えの山道は徒歩利用の遍路にとつて最も体力や時間を費やす過酷な道中となります。そのため、汽船、鉄道、乗合自動車など近代以降に発展した新交通を積極的に利用して、峠道をなるべく歩かずに四国遍路を行う巡礼者が増加します。昭和9年の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、例えば、松尾坂を通らない方法として、高知県宿毛から深浦まで宇和島運輸汽船(1時間、50銭)を利用する。柏坂についても観自在寺参拝後に平城から宇和島まで汽船(4時間半、90銭)を利用。三坂峠の場合は久万から松山方面へ乗合自動車を利用するなどして、険しい峠越えの山道を歩くことを回避できました。  

 四国遍路は移動手段によって巡拝ルートや日程などが大きく左右されます。徒歩による遍路はあらゆる面で大変ですが、本図で名所として紹介する松尾坂、柏坂、三坂峠からの絶景を眺めることができる貴重な機会を得ることができます。歩き遍路の醍醐味の一つともいえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑧―鉄道・伊予鉄道―

2023年7月29日

 四国遍路と鉄道について、今回は愛媛県松山地方の伊予鉄道の事例を紹介します。

 伊予鉄道会社は明治20年 (1887) 、実業家の小林信近によって創立された鉄道会社で民間軽便鉄道としては日本初のものでした。翌21年に四国初の鉄道として松山(翌年外側、明治35年松山、昭和2年松山市に駅名改称)~三津間の営業が開始されました。その後、伊予鉄道は同25年に三津~高浜、同26年に外側~平井河原(現平井)、同29年に立花~森松(森松線は昭和40年廃止)、同32年に平井河原~横河原、同33年(1900)に道後鉄道(古町~道後~一番町)と南予鉄道(藤原~郡中)を合併、大正10年(1921)に松山電気軌道を合併、昭和2年(1927)に萱町~江ノ口間(旧松山電気軌道線)を廃止、同14年に郡中~郡中港を開業するなど、順次路線を拡大していきました。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で、伊予鉄道を確認してみましょう(写真①)。

写真① 松山地方と伊予鉄道(「四国遍路道中図」部分)

 本図には香川県で開業した高松電気鉄道(現在の高松琴平電気鉄道長尾線)と東讃電気鉄道(同志度線)などが記載されていますが、愛媛で発行されたためか、伊予鉄道の会社名や路線名は記載されていません。そのため松山周辺における国鉄予讃線(予讃本線)と伊予鉄道の路線の区別がわかりにくくなっています。伊予鉄道の駅名として確認できるのは、松山~古町~一番町~道後温泉、松山~余戸~岡田~松前~地蔵町~郡中(現在の郡中線)、立花~石井~森松(旧森松線)、立花~久米~平井~田窪~横河原(現在の横河原線)。ただし、伊予鉄道の最古路線となる松山~高浜間(現在の高浜線)は詳しく記されていません。沿線に位置する四国霊場第52番太山寺と第53番圓明寺は線路上に記載されています。

 松山地方には四国八十八箇所霊場のうち、第46番浄瑠璃寺から第53番圓明寺まで八箇寺があり、四国霊場の全体から見ると札所が集中しています。そしてそれらの巡拝ルート上に、古代から有名な道後温泉が位置します。

 本図は言うまでもなく正確な地図ではなく、タイトルに「四国遍路道中図」とあるように、その本質は道中絵図です。札所が多く、都市部で鉄道などの開発が進んだ松山地方の詳細な情報の記載は難しかったと推察されますが、絵図だからこそ一目瞭然で視覚的に四国巡拝道がわかりやすくイメージとして捉えることができるという利点もあります。昭和14年(1939)に郡中~郡中港間が延伸されますが、昭和13年発行の本図の郡中線の終着駅はまだ郡中駅となっています。四国遍路道中図には発行年の最新の鉄道情報が反映されていることに変わりありません。

 本図では伊予鉄道を利用した松山地方の札所の巡拝については詳しく記されていませんが、伊予鉄道が大正10年 (1921) ~昭和2年(1927)頃に発行したと見られる案内パンフレット「イヨテツ 七ヶ寺詣り御案内」(写真②、個人蔵)によると、伊予鉄道で三津駅か高浜駅で下車し、52番太山寺を最初に参詣し、再び高浜駅から森松駅まで行き、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺、49浄土寺、50番繁多寺と順に進み、51番石手寺を参詣後に道後温泉で休息するのが良い道順であるとしています。これは四国八十八箇所巡拝でなく松山地方の小規模巡礼といえる「七ヶ寺詣り」を行う際の伊予鉄道を利用した推奨ルートであるため、四国遍路とは少し性格が異なりますが、実際に松山地方に住む人が四国遍路を行う際には、太山寺から巡拝を始めて石手寺で結願して、最後に道後温泉で旅の疲れを洗い流して故郷に戻るという四国巡拝のルートが多く利用されました。

写真② 案内パンフレット「イヨテツ 七ヶ寺詣り御案内」

 伊予鉄道の路線の発展は、沿線に最寄り駅がある西林寺(旧森松駅)、浄土寺(久米駅)、石手寺(道後温泉駅)、太山寺(三津駅か高浜駅)などの松山地方の札所を起点とした鉄道利用による変則的な四国霊場巡拝を可能としました。  また、伊予鉄道は昭和28年(1953)に四国霊場八十八箇所巡拝バスをいち早く運行するなど、今日の団体バスツアーによる四国遍路の草分け的存在となり、四国遍路の巡拝方法に大きな影響を与えました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑦―鉄道・宇和島鉄道―

2023年7月28日

 四国遍路と鉄道について、前回とりあげた予讃線に続いて、今回は予土線の前身となった宇和島鉄道の事例を紹介します。

 明治政府は近代化のために富国強兵や殖産興業の一環として、鉄道網を全国に拡大させることが急務でした。そのため、明治25年(1892)の鉄道敷設法、同39年(1906)の鉄道国有法、同43年(1910)の軽便鉄道法などを公布し、全国各地で官営や民営による鉄道の建設が促進され、愛媛でも宇和島鉄道や愛媛鉄道などが誕生しました。

 宇和島鉄道は、宇和海に臨む宇和島と広見川(四万十川上流)域を結ぶ軽便鉄道(軌間762㎜)でした。山間部の産物を宇和島の市場に送り、船便で各地に輸送する目的から、明治27年(1894)に今西幹一郎、玉井安蔵ら地元有志によって建設が計画されました。同44年(1911)に鉄道開設の免許が下付されて宇和島軽便鉄道株式会社(翌年宇和島鉄道と改称)が設立され、大正3年(1914)に宇和島~近永(北宇和郡鬼北町)間が開通、同12年(1923)には近永~吉野(現在の吉野生駅、北宇和郡松野町)間まで延長しました。その後、国鉄予讃本線が南予に延長するのに伴い、昭和8年(1933)に国有化され省線宇和島線となりました。同16年(1941)には全線を改軌(軌間を1067㎜に変更)、北宇和島駅~務田駅間の新線が開業され、北宇和島駅が起点となりました。予土線となるのは、昭和49年(1974)で、江川崎駅(四万十市)~若井駅間(高岡郡四万十町)が開業してからのことです。

 それでは、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)で宇和島鉄道を確認してみましょう(写真①)。当時は国有化され省線宇和島線と改称されています。

写真① 省線宇和島線・旧宇和島鉄道(「四国遍路道中図」部分)

 宇和島には四国八十八箇所の本札所はありませんが、本図には番外霊場の龍光院と和霊神社が記載されています。順打ちの場合、宇和島から次の札所となる成妙村戸雁(現在の宇和島市三間町戸雁)の第41番龍光寺までの距離は「二リ十丁」(約9㎞)とあります。宇和島から線路が伸びているのが省線宇和島線(旧宇和島鉄道)です。宮ノ下(現在の伊予宮野下駅)、近永、吉野まで鉄道が開通していることがわかります。当時、宇和島~近永区間には務田駅、二名駅、大内駅、深田駅、近永~吉野区間では出目駅(北宇和郡鬼北町)、松丸駅(北宇和郡松野町)が開業していますが、本図ではそれらの駅名が省略されています。宮ノ下駅の近くに第41番札所稲荷山龍光寺が位置しています。ちなみに宮野下の地名は天平10年(738)に大三島から三島神社が勧請され、その門前町が形成されたのが起源とされています。

 四国霊場第41番札所は神仏習合の江戸時代までは「稲荷」「稲荷宮」と呼ばれ、稲荷社が札所でしたが、明治期の神仏分離により、近代以降はその別当寺を務めた龍光寺が41番札所となった歴史的経緯があります。そのため、龍光寺参道の入口には元禄5年(1692)建立の石鳥居、龍光寺境内に隣接する上段に稲荷神社が鎮座し、現在でも江戸時代の札所であった稲荷社の面影が色濃くのこっています(写真②)。

写真② 第41番札所龍光寺の参道にある元禄5年(1692)建立の石鳥居(当館撮影)

 大正時代に宇和島鉄道が開通したことにより、宇和島駅から乗車して務田駅もしくは宮ノ下駅で下車すると、龍光寺へのアクセスが便利になりました。昭和5年(1930)の島浪男(飯島実)『札所と名所 四國遍路』には、宇和島鉄道を利用した感想が綴られています。

 「首の長い煙突を鵞鳥(がちょう)のやうに誇らしく押し立てた古くて小型の機関車が、それに相応した四五両の客車を牽いてごとごとと走る様は、たしかに田園風景をユーモラスなものにするのであるが、交通機関を利用して四十一番龍光寺に詣るとなると、今のところ宇和島から、かうした汽車の宇和島鉄道で己れまづその景中の人となって務田まで行かなければならない(中略)宇和島駅~務田駅間は五哩(マイル)、所有時間40分、汽車賃25銭、務田駅から寺まで一八町(約2㎞)、車馬なし」と記されています。古い小型の機関車は、ドイツのコッペル社から購入したものと推察されます。

 また、同9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「汽車を利用する人は省線宇和島線で務田駅下車」とあり、汽車賃は13銭と記されています。国有化されたことにより、汽車賃が宇和島鉄道時代よりも安くなっているようです。同25年(1950)の橋本徹馬『四国遍路記』には、「宇和島駅を十一時過ぎに発する吉野口行きの汽車に乗って、務田駅にて降り(実は宮野下駅の方が寺に近い)第四十一番龍光寺に向ふた」とあり、移動する汽車の中で効率よく昼食(弁当)をとっています。

 本図には龍光寺の最寄り駅となる務田駅の記載がなく、積極的な利用を推奨していませんが、これらの四国遍路ガイドブックの記載から、省線宇和島線(旧宇和島鉄道)を利用して、宇和島市内から龍光寺を巡拝する多くの遍路がいたことが容易に想像されます。

 ところで、務田駅近く(現在のJR務田駅北西踏切付近)には、大正15年(1926)に「(手印)四十壱番札所道/巡拝記念 本郷竹葉家未歳女/大正十五年□□建立」と刻まれた遍路道標石(写真③)が立てられています。この道標石設置の背景には、明治24年(1891)に宇和島と宮野下を結ぶ県道の開通、大正3年に宇和島鉄道と務田駅開業など、近代の交通環境の発展にともない、江戸時代以来の遍路道であった窓峠(まどのとう)を歩かず、鉄道を利用して務田から龍光寺に向かう遍路が増加したため、新しい道案内標示が必要となって建てられたことが推察されます。

写真③ 務田駅近くに大正15年(1926)に建てられた遍路道標石(当館撮影)

 このように大正3年の宇和島鉄道の開通は、四国遍路において南予地方における巡拝のあり方に大きく影響を与えました。

 なお、宇和島鉄道の宇和島駅舎や近永駅舎などを撮影した貴重な古写真がこのたび当館に寄贈されました。詳しくは、平井誠(当館専門学芸員)執筆「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から145」(令和5年7月20日愛媛新聞掲載)をご参照ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑥―鉄道・予讃線―

2023年7月21日

 今回は昭和13年(1938)発行の四国遍路道中図(当館蔵)から、四国遍路における鉄道利用について、伊予(愛媛県)の事例を紹介します。

 本図の凡例には「鉄道及停車場」「電鉄及軌道」「未成線」などの記号があり(写真①)、戦前の四国の鉄道網がわかります。愛媛県内では、鉄道省による省線(旧日本国有鉄道)と伊予鉄道の横河原線、森松線、郡中線などの路線が確認できます。

写真① 凡例(「四国遍路道中図」部分)

 その中でも四国の鉄道で最長路線となる予讃線(当時の路線名称は「予讃本線」)は、高松駅(香川県高松市)から松山駅(愛媛県松山市)を経て、宇和島駅(同県宇和島市)に至ります。予讃線の歴史は明治以降に讃岐鉄道、山陽鉄道、愛媛鉄道などの各地域における民間会社による鉄道(私鉄)の開通、その後の買収、路線の編入、国有化などを経て、順次、路線が延伸されました。全線が開通したのは終戦間近の昭和20年(1945)6月20日で、最後の不通区間であった八幡浜駅(八幡浜市)~卯之町駅(西予市)の開業によって達成されました。

 本図で予讃線(予讃本線)を確認してみましょう。本図発行の昭和13年頃は全線開通以前のため、高松駅から新居浜駅、今治駅、松山駅、長浜駅、大洲駅を経て平野駅(伊予平野駅、大洲市)までの区間が開通していることがわかります(写真②③)。

写真② 予讃線(高松駅~松山駅「四国遍路道中図」部分)
写真③ 予讃線(松山駅~平野駅「四国遍路道中図」部分)

 本図に示す予讃線の愛媛県内の駅を東予→中予→南予の順に列記しました。参考のため( )内に現在の駅名、所在地、開業年、最寄りの主な四国霊場などをあげます。※印は予讃線関連の古い絵葉書(当館蔵)を紹介します。

 ・川之江駅(四国中央市、大正5年開業。第65番三角寺)

 ・イヨ三島駅(伊予三島駅、四国中央市、大正6年開業)

 ・イヨ土居駅(伊予土居駅、四国中央市、大正8年開業。番外霊場延命寺)

 ・タキ浜駅(多喜浜駅、新居浜市、大正10年開業)

 ・新居浜駅(新居浜市、大正10年開業)

 ・中萩駅(新居浜市、大正10年開業)

 ・西條駅(伊予西条駅、西条市、大正10年開業)

 ・石鎚駅(石鎚山駅、西条市、昭和4年開業。第64番前神寺)

 ・小松駅(伊予小松駅、西条市、大正12年開業。第60番横峰寺、61番香園寺・62番宝寿寺・63番吉祥寺)

 ・壬生川駅(西条市、大正12年開業)

 ・三芳駅(伊予三芳駅 西条市、大正12年開業)

 ・櫻井駅(伊予桜井駅 今治市、大正12年開業。第59番国分寺)

 ・富田駅(伊予富田駅、今治市、大正13年開業)

 ・今治駅(今治市、大正13年開業。第55番南光坊)

 ・波止浜駅(今治市、大正13年開業)

 ・大井駅(大西駅、今治市、大正13年開業。第54番延命寺)

 ・菊間駅(今治市、大正14年開業。番外霊場遍照院)

 ・北條駅(伊予北条駅、松山市、大正15年開業)

 ・三津駅(三津浜駅、松山市、昭和2年開業、第52番太山寺)

 ・松山駅(松山市、昭和2年開業) ※(写真④)

写真➃ 絵葉書「松山国鉄停車場」(当館蔵・灘口コレクション)

 ・北伊豫駅(北伊予駅、伊予郡松前町、昭和5年開業)

 ・南郡中駅(伊予市駅、伊予市、昭和5年開業)

 ・上灘駅(伊予上灘駅、伊予市、昭和7年開業) 

 ・下灘駅(伊予市、昭和10年開業)

 ・長濱駅(伊予長浜駅 大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)

 ・上老松駅(伊予出石駅、大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業。番外霊場出石寺)

 ・加屋駅(伊予白滝駅、大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)※(写真⑤)

写真⑤ 絵葉書「伊予国喜多郡白瀧村 大越隧道東口愛媛鉄道大洲行列車 左ハ相生川岸」(当館蔵・灘口コレクション)

 ・八多喜駅(大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)

 ・五郎駅(大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業。番外霊場十夜ヶ橋)

 ・大洲駅(伊予大洲駅、大洲市、愛媛鉄道が大正7年に開業)

 ・平野駅(伊予平野駅、大洲市、昭和11年開業)

 こうしてみると、予讃線は東予地方から次第に中予地方へ、そして南予地方では愛媛鉄道を買収して路線に組み入れるなどして延伸していく過程がわかります。また、大正9年(1920)に愛媛鉄道の内子線の駅として開業して、昭和8年(1933) に国有化された内子駅も確認できます。また、平野駅~八幡浜駅(八幡浜市)、八幡浜駅~宇和島駅までの区間は未成線として記載されています(写真⑥)。

写真⑥ 予讃線(平野駅~宇和島駅「四国遍路道中図」部分)

 これらからわかることは、本図は予讃線全線開通前の四国の鉄道網の様子が見て取れます。厳密にはすべての駅を記載していませんが、注目したいのは、こうした最新の鉄道情報が四国遍路道中図の内容に随時、反映されている点です。遍路に限らず交通インフラの整備は今も昔も四国にとって最大の重要な関心事であるといえますが、従来の伝統的な歩き遍路による巡拝のほかに、鉄道などの新交通手段を積極的に活用した遍路が増加する時代背景が読み取れます。

 昭和9年(1934)の四国遍路のガイドフック・安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、次に参拝する札所ごとに、予讃線を利用した順路と運賃が記載されています。

 ・番外出石寺(大洲駅~長浜駅、25銭)

 ・第52番太山寺(松山駅~三津浜駅、7銭)

 ・第53番圓明寺(松山駅~和気駅、13銭)

 ・番外遍照院(和気駅~菊間駅、35銭)

 ・第54番延命寺(菊間駅~大井駅、16銭)

 ・第55番南光坊(菊間駅~今治駅、33銭)  

 ・第60番横峰寺(桜井駅~小松駅、27銭)

 ・番外延命寺(石鎚山駅~土居駅、47銭)

 ・第65番三角寺(土居駅~三島駅、18銭)

 予讃線の場合、愛媛ではとくに中予・東予地方の札所へのアクセスに利用されています。

 四国遍路において鉄道利用は、巡拝のルート変更、巡拝先や巡拝順序、宿泊先の変更、所要時間の削減などいろんな点で影響を与え、四国遍路の旅の様相が変わりました。時間的且つ体力的に余裕が生じた遍路は、起点となる駅周辺の名所旧跡などを見学コースに採り込んだ観光を主とした新四国遍路プランの登場、一日の本数が少ない鉄道の時刻に制約されて、本来参拝していた番外霊場などを割愛する現象も生じました。いずれにせよ、近代以降の鉄道の発展・普及によって、四国遍路の大衆化や観光化が一層促進されたと考えられます。  

 なお、松山地方の伊予鉄道、南予地方における宇和島鉄道と四国遍路については別途紹介したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情⑤―郵便局―   

2023年7月15日

 今回は四国巡拝中の遍路とその家族との連絡方法について見てみましょう。

 現代社会では通信技術の進化や携帯電話、インターネットの普及により、巡礼者と家族等との連絡は瞬時に行うことができます。実際に四国巡礼をしながらにその様子をリアルタイムでSNSに情報発信している人も多く見受けられます。四国遍路においても高度通信化によるグローバルな時代となりました。

 では、戦前までの遍路の場合はどうだったのでしょうか。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)には、図中に四県別に「札所ニテ郵便局所在地」の文字情報が記載されています(写真①~④)。それを以下にまとめました。参考のため( )内に最寄りの四国八十八箇所霊場の札所を表記しました。

【阿波・徳島県】

 板野郡坂東町の坂東郵便局(第1番霊山寺、2番極楽寺)、同郡板西町の板西郵便局(第3番金泉寺)、名東郡上八万村の一宮郵便局(第13番大日寺)、同郡国府町の国府郵便局(第14番常楽寺・15番国分寺・16番観音寺)、那賀郡立江町の立江郵便局(第19番立江寺)、同郡新野町の新野郵便局(第22番平等寺)、海部郡日和佐町の日和佐郵便局(第23番薬王寺)  

写真① 阿波の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

【土佐・高知県】

 安芸郡室戸村の室戸郵便局(第24番最御崎寺、第25番津照寺)、吾川郡長浜村の長浜郵便局(第33番雪渓寺)、高岡郡高岡町の高岡郵便局(第35番清滝寺)、同郡窪川町の窪川郵便局(第37番岩本寺)

写真② 土佐の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

【伊予・愛媛県】

 南宇和郡御荘町の平城郵便局(第40番観自在寺)、周桑郡小松町の小松郵便局(第61番香園寺)

写真③ 伊予の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

【讃岐・香川県】 

 三豊郡観音寺町の観音寺郵便局(第68番神恵院・第69番観音寺)、同郡桑山村の本山郵便局(第70番本山村)、仲多度郡善通寺町の善通寺郵便局(第75番善通寺)、同郡国分町の国分郵便局(第80番国分寺)、大川郡志度町の志度郵便局(第86番志度寺)、同郡長尾町の長尾郵便局(第87番長尾寺)

写真④ 讃岐の郵便局所在地
(「四国遍路道中図」部分)

 こうして見ると、市中心部でなく郡部や僻地などに立地する八十八箇所霊場の札所寺院近くの郵便局が列記されていることがわかります。

 本図は発行元の広告が紙面を割いているため、四国遍路における具体的な郵便局の活用については言及されていませんが、江口商店発行などの他の「四国遍路道中図」には、上記の「札所ニテ郵便局所在地」とともに「郵便為替音信」について次のように紹介されています。

 「旅行中成べく音信を多くし又故郷の安否郵便為替の通達を知るは心の力となり故に予め郵便局の所在地日数を謀り目的の郵便局留置きに送達せば便利なり」

 遍路とその家族との安否連絡や郵便為替の送付のために、あらかじめ札所近くの郵便局に到着する日程を遍路自らが計算して、その郵便局宛に郵便物等を送ってもらうことが便利であると記されています。今日の郵便局における「郵便局留・郵便私書箱」のサービスと同様です。

 四国遍路のガイドブックを確認すると、明治44年(1911)発行の三好廣太『四国霊場案内記』に「郵便の心得」が詳しく記されています。

 「郵便は旅中互ひに、無事有事を知らせますに最も必要ですが、旅行者より家族に通信するは、いつでも出来ますが、家族より毎日の巡拜に居所定めぬ旅行者に宛る通信、特に為替など差出す時には発信者に於て最も注意をせねばなりません、(中略)若し為替書留等を要する場合には、予め往復の日数と毎日自己の進行する里数とを測りて、為替請取場所を定めて家族に知らせますと、迂回又は後戻り等に日子(日数の意味)を費す不幸も見ません」とあります。

 長い道中を旅する遍路にとって大金を所持するのは危険です。そのため、必要に応じて、家族から巡礼中の遍路に確実に送金する簡易な手段として郵便為替が推奨されました。遍路は郵便局で金銭を受け取ることになるため、受け取りを行う郵便局は、自分自身の巡礼の進み具合を計算して決める必要がありました。実際に郵便局を間違えて、迂回や後戻りした遍路もあったようです。

 四国遍路において、全国津々浦々にある郵便局は遍路と家族との音信や郵便為替などで大いに利用されました。また、当時は札所寺院においても巡礼者宛の郵便物や荷物等を預かり、遍路とその家族の情報連絡の中継場所として機能していました。  

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情④―番外霊場―

2023年7月14日

 「番外」とは「札所番付にある札所以外で、巡礼中に参拝する聖地(霊地)。番付以外という意味と思われる。開創者にゆかりがある地や、札所の近くか巡礼道沿いの霊所が番外になる。番外札所を打つか打たないかは、巡礼者自身が決める(下略)」(白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』朱鷺書房、1994)とあります。

 今回は昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(当館蔵)に掲載されている番外霊場について紹介します。

  本図の凡例によると、赤い網掛けの印が番外霊場を示しています。戦前に発行された四国遍路ガイドマップにおいて、八十八箇所以外に遍路がどんなところを巡拝したのかを知る手掛かりとなります。

 本図に記載された徳島→高知→愛媛→香川の巡拝道に沿って番外霊場(元札所や名所古跡を含む)を抽出して下記にまとめました。本図で番外霊場の印あるいは「番外」と表記があるものは◎を付け、霊場の名称は本図記載の名称をそのまま記して、( )で現在の名称、所在地等を補足しました。

 【阿波・徳島県の番外霊場】

 第一番奥院種蒔大師(種蒔大師東林院、鳴門市)、五百らかん(第5番地蔵寺五百羅漢堂、板野郡板野町)、柳水庵(名西郡神山町)、衛門三郎墓地杖杉庵(名西郡神山町)、◎灌頂の滝(灌頂ヶ滝、勝浦郡上勝町)、月御水庵(月夜御水大師、阿南市)  

 【土佐・高知県の番外霊場】

 元三十番一ノ宮善楽寺(高知市、善楽寺は現在の四国霊場第30番札所)、◎番外高野寺(高野寺、高知市)、◎番外高野山大善寺(大善寺、須崎市)、真念庵(土佐清水市)

 【伊予・愛媛県の番外霊場】

 御笹(篠山神社、南宇和郡愛南町)、◎番外佛眼院(南宇和郡愛南町、高野山出張所)、◎番外龍光院(第40番奥之院、宇和島市)、和霊神社(宇和島市)、出石寺(大洲市)、◎番外十夜橋(十夜ヶ橋永徳寺、大洲市)、◎四国遍路巡拝根本道場文殊院徳盛寺(松山市)、衛門三郎古蹟同八塚(松山市)、小村大師(松山市)、杖ノ淵(松山市)、大井八幡宮(今治市)、◎菊間町番外遍照院(今治市)、◎番外高野山別院(高野山今治別院、今治市)、清水来向ノ井戸(臼井御来迎、西条市)、◎番外日切大師(弘福寺、西条市)、◎番外生木地蔵(正善寺、西条市)、◎西山興隆寺、六十番前札清楽寺(西条市)、◎イザリ松千枚通本坊延命寺(四国中央市)、◎六十五番奥ノ院金光山仙竜寺(仙龍寺、四国中央市、四国總奥之院)、椿堂(常福寺、四国中央市)

 【讃岐・香川県の番外霊場】※第66番雲辺寺など一部に徳島県所在の霊場を含みます。

 箸蔵山(箸蔵寺、徳島県三好市)、象頭山琴平社(金刀比羅宮、仲多度郡琴平町)、◎番外高野山別院(高野山讃岐別院、高松市)、◎番外與田寺(東かがわ市、四国八十八箇所総奥之院)

 こうして見てみると、本図では愛媛県に番外霊場の記載が多いように思いますが、四国内で有名な番外霊場の鯖大師(徳島県海部郡海陽町)、屏風ヶ浦海岸寺(香川県仲多度郡多度津町)などは紹介されていません。また、こんにち遍路が訪れる名所古跡なども番外霊場として表記されてなく、本図にいう番外霊場の基準が不明であり、掲載する番外霊場の選択は恣意的な印象を受けます。その背景には、おそらく時代別の番外霊場の人気や変遷あるいは本図の作成者や広告主などの意向も反映されていると考えられます。本図は最初に紹介したとおり(昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情①)、愛媛の出版社と広告主によって発行されており、愛媛県内の番外霊場が多く掲載されているのもそうした理由によるものと推察されます。

 本図に記載する番外霊場の特徴として興味深い点は、弘法大師ゆかりの古跡や庵、生木地蔵などの大師作とされる霊仏(写真①)、遍路の元祖とされる衛門三郎ゆかりの地(杖杉庵、文殊院、八塚、小村大師)(写真②)、第40番観自在寺奥之院の龍光院(写真③)や第65番三角寺奥之院の仙龍寺などの八十八箇所の奥之院、四国四県の高野山別院(写真②④)などが番外霊場に選定されています。高野山別院は明治以降に高野山総本山より宗祖弘法大師像を勧請して高野山出張所として開創され、近代以降の新しい霊場といえます。

写真①番外霊場 生木地蔵と西山興隆寺(「四国遍路道中図」部分)
写真②番外霊場 佛眼院と龍光院(「四国遍路道中図」部分)
写真③番外霊場 衛門三郎ゆかりの文殊院、八塚、小村大師(「四国遍路道中図」部分)
写真④番外霊場 高野山別院(「四国遍路道中図」部分)

 また、特異な事象として、一時期、高知の第30番札所が2箇所(善楽寺と安楽寺)存在したことがあります(写真⑤)。平幡良雄『四国八十八カ所(上) 阿波・土佐編』(1988)によると、江戸時代では土佐一ノ宮の別当寺であった善楽寺が第30番札所でしたが、明治期の廃仏毀釈により廃寺となり、本尊、大師像などが29番国分寺へ預けられ、明治9年(1876)に本尊が安楽寺に移されて仮に30番札所を復活、その後、昭和4年(1929)に善楽寺が復興して、30番札所が2寺存在した経緯が記されています。現在は善楽寺が四国霊場第30番札所ですが、昭和13年発行の本図では、安楽寺が第30番札所、善楽寺は「元三十番一ノ宮善楽寺」と表記されているのは、こうした理由によるためです。

写真⑤ 第30番安楽寺と「元三十番一ノ宮善楽寺」(「四国遍路道中図」部分)

 四国遍路の歴史を探る上で、八十八箇所の成立の過程は最大の謎です。そうしたなか、札所として選定された霊場とそうならなかった数多くの霊地・番外霊場との関係性や、時代とともに札所や番外霊場がどのように変遷したかについて考察することはとても重要です。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情③―札所の本尊御影―

2023年7月7日

 今回は昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」から、札所の本尊御影について紹介します。

 札所の本尊の尊像の姿を描いたものを御影(みえ・おみえ・みえい)といいます。今日の四国遍路では、巡拝者は札所で参拝したのちに納経料を奉納すると、納経帳に納経朱印を受け、薄い紙に印刷された御影が授与されます。御影が誕生した背景には、多くの場合、札所の本尊が秘仏などで拝観することができないために、その代わりとして御影が作成されたと考えられています。古いものは江戸時代の木版刷りによる札所本尊の御影が残っています。また、真念『四国徧禮道指南(へんろみちしるべ)』や『四国徧禮道指南増補大成』などの江戸時代の代表的な四国遍路案内記にも八十八箇所の本尊御影が掲載されています。

 「四国遍路道中図」の凡例によると、薄い水色に塗られた二重丸のマークは四国八十八箇所霊場の札所を表しています。そのマークの中に御影が記載されています。それでは、本図に記載された愛媛の全26箇寺(第40番観自在寺~第65番三角寺の本尊御影を見てみましょう(写真①~⑤)。

写真①「四国遍路道中図」本尊御影
(第40番観自在寺~第45番岩屋寺)
写真②「四国遍路道中図」本尊御影
(第46番浄瑠璃寺~第51番石手寺)
写真③「四国遍路道中図」本尊御影
(第52番太山寺~第57番栄福寺)
写真④「四国遍路道中図」本尊御影
(第58番仙遊寺~第63番吉祥寺)
写真⑤「四国遍路道中図」本尊御影
(第64番前神寺~第65番三角寺)

 外円部は各札所の番号、山号と寺院名、内円部の中心には各札所の本尊仏が漫画チックに描かれた御影が記載さています。それはまるで子どもの遊びで使われる丸メンコのようにも見えて、親しみ易い印象を与えています。本尊仏の種類によって描写の類型化・簡略化が行われていますが、全く同一のものはありません。

 ちなみに四国八十八ヶ所霊場会発行『先達経典』(平成18年)によると、四国八十八箇所本尊の種類別の数については、薬師如来(24)、千手観音菩薩(11)、十一面観音菩薩(11)、十一面千手観音菩薩(2)、阿弥陀如来(10)、大日如来(6)、地蔵菩薩(6)、聖観音菩薩(5)、釈迦如来(5)、不動明王(4)、虚空蔵菩薩(3)、毘沙門天、大通智勝如来、馬頭観音、弥勒菩薩、文殊菩薩(各1)とあります。病気を治して衣食住を満たすという薬師如来が最も多く、次いで、人々の苦しみを除いたりお願いごとを聞いたりしてくれる慈悲深い観音菩薩が多いことがわかります。

 それでは伊予(愛媛県)の場合はどうでしょうか。26札所の本尊の内訳は、薬師如来(5)、千手観音菩薩(2)、十一面観音菩薩(6)、十一面千手観音菩薩(0)、阿弥陀如来(4)、大日如来(3)、地蔵菩薩(1)、聖観音菩薩(0)、釈迦如来(1)、不動明王(2)、虚空蔵菩薩(0)、毘沙門天(1)、大通智勝如来(1)、馬頭観音、弥勒菩薩(0)、文殊菩薩(0)となります。

 四国の中で札所の数が最多となる愛媛の場合も薬師如来と観音菩薩が比較的多い傾向にあります。また、十一面観音菩薩と大日如来がやや多く、第55番南光坊の大通智勝如来と第63番吉祥寺の毘沙聞天は、八十八箇所の本尊として唯一となります。

 次に、仏尊別に愛媛の札所10箇寺の本尊御影について、江戸時代後期の代表的な四国遍路案内記『四国徧禮道指南増補大成』(当館蔵)と本図とを対比しました(写真⑥⑦)。上段の御影は『四国徧禮道指南増補大成』、下段が「四国遍路道中図」です。

写真⑥本尊御影の対比(上段『四国徧禮道指南増補大成』と下段「四国遍路道中図」、第42・43・44・45・49番)
写真⑦本尊御影の対比(上段『四国徧禮道指南増補大成』と下段「四国遍路道中図」、第51・55・56・63・64番)

 札所番号順に列記すると、第42番仏木寺(大日如来)、第43番明石寺(千手観音菩薩)、第44番大寶寺(十一面観音菩薩)、第45番岩屋寺(不動明王)、第49番浄土寺(釈迦如来)、第51番石手寺(薬師如来)、第55番南光坊(大通智勝如来)、第56番泰山寺(地蔵菩薩)、第63番吉祥寺(毘沙聞天)、第64番前神寺(阿弥陀如来)となります。

 『四国徧禮道指南増補大成』掲載の御影と比べると、「四国遍路道中図」では、全体的に描写がかなり簡略化されていますが、仏尊の特徴を捉え、全身像でなく、仏顔を主とした大胆なデザインによって描かれていることがわかります。タッチが柔らかく、微笑ましい仏尊の姿が表現されています。本図の本尊御影を描いた作者は不明ですが、四国八十八箇所の漫画チックな本尊御影として注目されます。

 ところで本図の裏面には八十八箇所で唱える各札所の御詠歌(本尊の功徳、霊験、札所の風景などを歌った和歌)が紹介されていますが、本尊の名称は特に記されていません。徳島県撫養港の江口商店発行の「四国遍路道中図」においても同様です。おそらく本図が携帯に便利な一枚物のカラフルな案内図として編集・作成するにあたり、掲載する四国遍路の情報の取捨選択が行われ、絵図として視覚的に見て分かり易くするために、専門的な仏尊名は割愛されたものと推察されます。

 近代に多くの遍路に用いられた本図をはじめとする「四国遍路道中図」の人気の秘密は、こうしたデザイン性と実用性を兼ね備えた点にあったともいえます。実用性については別途紹介したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情② -四国の上陸港-

2023年6月23日

 今回は昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(愛媛県歴史文化博物館蔵)から、四国の玄関口について紹介します。日本は四方八方を海に囲まれた島国です。その中の四国は「島国の中の島国」です。旅行者や遍路が四国を訪れるには、戦後に飛行機による移動が可能になるまでは、海路による船舶利用が必須でした。そのため、本州や九州などから四国の主要な港を結ぶさまざまな定期航路が就航しました。

 本図には、四国の主要な海の玄関口として、6つの上陸地(港)が紹介されています。阿波(徳島県)から時計回りに見ていきましょう。

 参考のため、四国の旅客空港の開港年、本州四国連絡橋の開通年を併記し、愛媛県内の上陸地については、古い絵葉書からその景観を紹介します。

【阿波・徳島県】 

 ◎岡崎・撫養港(徳島県鳴門市)「近畿以東ハムヤ岡崎ニ上陸シ一番ヨリ札ヲ始メルガ順デ此ニ上陸スレバ鳴門ノ潮時ヲ見ルベシ」(写真①)

写真① 岡崎・撫養(「四国遍路道中図」部分)

 ※徳島空港は昭和37年(1962)開港。本州四国連絡橋明石海峡大橋(神戸淡路鳴門自動車道)は平成10年(1998)全線開通。

【土佐・高知県】

 ◎上陸港の記載なし

 ※高知空港は昭和29年(1954)開港。

【伊予・愛媛県】 

 ◎八幡浜港(愛媛県八幡浜市)「豊後日向以南ハ八幡浜上陸便利ナリ」(写真②③)

写真② 八幡浜(「四国遍路道中図」部分)

写真③ 絵葉書「八幡浜港桟橋」(個人蔵)

 ◎高浜港、三津浜港(愛媛県松山市)「山口県九州北地方ハ五十二番太山寺ヨリ始ムルがヨシ」(写真④⑤⑥)

写真④ 三津浜、高浜(「四国遍路道中図」部分)
写真⑤ 絵葉書「明治四十二年三津浜港現景」(当館蔵・灘口コレクション) 
写真⑥ 絵葉書「定期船高浜桟橋に繋留」(当館蔵・灘口コレクション)

 ◎今治港(愛媛県今治市)「中国路ハ五十五番ノ南光坊ヨリ始ムルガヨシ」(写真⑦⑧)

写真⑦ 今治(「四国遍路道中図」部分)

 

写真⑧ 絵葉書「今治市築港入口」(当館蔵・灘口コレクション)

※松山空港は昭和31年(1956)開港。本州四国連絡橋瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)は平成18年(2006)に全線開通。

【讃岐・香川県】 

 ◎丸亀港、多度津港(香川県丸亀市、同県仲多度郡多度津町)「山陰山陽ハ多度津ヘ上陸カ下津井ヨリ丸亀ヘ渡リ七十八番ヨリ始ムルカ便ナリ」(写真⑨)

写真⑨ 丸亀、多度津(「四国遍路道中図」部分)

 ◎高松港(香川県高松市)「岡山地方は宇野ヨリ連絡ニテ高松ヘ渡リ番外別院ヨリ始ムルガ便ナリ」(写真⑩)

写真⑩ 高松(「四国遍路道中図」部分)

 ※旧高松空港は昭和30年(1955)開港。本州四国連絡橋瀬戸大橋は昭和63年(1988)全線開通。

 本図から昭和13年当時の四国の主要な上陸港と、そこを起点とした四国遍路の開始となる打ち始めの札所がわかります。概して、遍路の出身地・出発地となるエリアごとに四国における上陸港と四国遍路を開始する札所の関係を整理すると、次のようになります。

 〇近畿地方、東日本

  近畿以東→岡崎・撫養港→第1番霊山寺~

 〇中国地方

  岡山(宇野港)→高松港→番外高野山別院(高野山讃岐別院)~

  山陰山陽(下津井港)→丸亀港、多度津港→第78番郷照寺~

  中国路→今治港→第55番南光坊~

  山口→高浜港、三津浜港→第52番太山寺~

 〇九州地方

  九州北→高浜港、三津浜港→第52番太山寺~

  豊後日向以南→八幡浜港→第43番明石寺もしくは番外十夜ヶ橋、第44番大寶寺~※本図に推奨する巡拝順序は記載されていない。

 この他にも四国への上陸港は多数あります。近代に入り、四国の沿岸航路も整備され、四国は海上交通網が発展しました。また、日本各地に定期航路をもち、瀬戸内(阪神~別府)航路で日本屈指の観光航路として成長した大阪商船の蒸気船も四国各地に寄港し、多くの遍路に利用されました。高浜港の絵葉書(写真⑥)に見える船舶は大阪商船の蒸気船と見られます。 

 戦後、四国の交通環境が次第に整備され、旅行・観光業の発展や遍路ブームなどの背景のもとで、現在の四国遍路では第1番霊山寺から札所番号順に八十八箇所霊場を巡拝する遍路が多いように見受けられますが、本図からわかるように、昔は遍路の出身地・出発地から最寄りの四国航路を利用して、上陸港近くの札所から四国遍路を打ち始めるのが通例でした。

 そのため、遍路の上陸港や打ち始めや結願となる札所の周辺には、遍路を対象とした四国巡拝用品店や土産品店などがたくさん営まれました。本図をはじめとする四国遍路道中図もそうした店舗で販売もしくはお接待として無料配布されたものです。

 このように、上陸港から四国遍路を眺めてみると、瀬戸内海を中心とした四国の海上交通と四国遍路の歴史が密接に関係していることが考えられます。また、日本で人口が多い近畿地方や東日本(中部、関東地方)から四国遍路を行う場合は、徳島の岡崎(撫養)港に上陸すれば、第1番霊山寺から札所番号順にまわることができ、日本の著名な名勝地「鳴門の渦潮」の見学もあわせてできることが本図でうたわれています。四国八十八箇所霊場の札所の番次や遍路道、巡拝ルート形成の背景を考える上で興味深い点といえます。

 また、愛媛県の場合、九州や広島・山口方面から来た遍路にとっては打ち始めと結願となる重要な四国霊場の舞台でした。高浜港や三津浜港に上陸した遍路は、第52番太山寺を1番札所として参詣し、順打ちの場合、八十八箇所最後の札所として第51番石手寺で結願し、日本最古の湯として名高い「道後温泉」で休息後、故郷に戻るという巡拝ルートが多くとられています。今後、遍路の日記や納経帳の分析などをもとに、上陸地別の四国遍路の実態やその特色について考えることが必要です。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情①―愛媛で発行された心臓薬本舗渡部髙太郎版―

2023年6月16日

 昭和時代(戦前)の四国遍路絵図を紹介します。本図の表面には、四国を阿波・土佐・伊豫・讃岐の旧国名で記して色分けされています。凡例によると、地図上には八十八箇所霊場札所、順拝指道(巡拝道筋)、番外霊場、上陸地、名所古跡、鉄道及停車場、電鉄及軌道、道路、都市、名邑(町村)、宿駅、未成線を表記していることがわかります。また、各札所の本尊を描いたイラスト風の御影、札所間の距離、札所近くの郵便局、上陸港と打ち始め・打ち納めの情報なども詳しく記載されています。

「四国遍路道中図」(昭和13年、当館蔵)表面

 江戸時代の遍路絵図が四国を本州から眺めたような形であったのに対し、本図は四国の形がデフォルメされていますが、北を上にした方位記号があり、現在の地図と同様になっています。

「四国遍路道中図」裏面

 四国遍路道中図は、近畿地方からの遍路の上陸港として栄えた徳島県憮養港(徳島県鳴門市)にあった四国巡拝道具を取り扱う江口商店発行のものが知られていますが、広告主や発行所などが異なるさまざまな種類が作成されています。

 本図は愛媛県内で作成されたもので、刊記によると、昭和13年(1938)4月に松山市萱町の關(関)印刷所(現在のセキ株式会社)が印刷・発行、折り畳むと表紙にあたる裏面の箇所には広告主として「愛媛県周桑郡徳田村(愛媛県西条市)心臓薬本舗渡部髙太郎」が大きく記載されています。裏面には各札所の御詠歌とともに「家伝心臓薬の由来と効能」などの宣伝文が掲載されています。

 地図上を子細に確認すると、四国八十八箇所霊場第59番国分寺から第60番横峰寺に至る遍路道(横峰寺道)の付近の徳田村に、大きく目立つように商標(鷲のマーク)と「家伝秘方 心臓薬本舗」と表記されています。さらに、地図下部に「謹告 古より霊場四国の地に伝わる家伝秘方の心臓薬は薬効霊験甚大にして古より幾十万かの難病患者を救ひ(中略)此の霊場を巡拝されるお方にて未だ此の貴重な名薬を知らず治療に悩まれている不幸な患者に御巡会の節は何卒此の薬のあることを御知らせして下さい(後略)」と宣伝文を紹介している。

心臓薬本舗(部分拡大)

 このように本図は四国霊場に伝わる家伝秘方の妙薬が宣伝され、広告を大きく採り入れた四国遍路絵図といえます。昭和時代に作成された四国遍路道中図の多くは、札所近くのお土産・巡拝用品店の名前が広告として掲載されており、発行にあたりスポンサーとなる広告主の意向が反映されています。

 弘法大師が開創したとされる四国霊場には、古くから病気快癒を祈願する者、不治の病に苦しむ多くの患者がその治癒を願い、遍路となって四国を巡礼した歴史があります。本図はそうした背景を彷彿させる四国遍路絵図といえます。