Archive for the ‘資料調査日記’ Category

空襲体験の聞き取り~昭和20年5月の宇和島初空襲~

2019年8月12日

74年前長崎に原爆が投下された今月の9日、金田八重子さん(昭和9年生、87才、元市立宇和島病院総婦長、宇和島市在住)に昭和20年5月10日の宇和島初空襲についてお聞きする機会を得たので紹介します。

金田さんは当時住吉国民小学校の6年生。父親は出征しており、母親、3年生の弟、3才の妹の4人で朝日町三丁目(現在の二丁目)に暮らしていた。昭和20年5月10日、警戒警報に続いて空襲警報がでていたが、防空壕には入らず戸外で母親とB29を見ていた。B29はそれまでも宇和島上空を通過していたが、まだ戦災にあったことがなかったためのんびりとしていた。その日は快晴。3機のB29が青空に銀翼を輝かせながら、鬼ヶ城に向けて飛んでいった。そして、母親と家に入るや否や「ドカン!」とものすごく大きな音がした。
鬼ヶ城に向けて飛んだ3機の内、1機が引き返して爆弾を投下したのだ。爆弾は金田さんの隣、鈴木マオラン工場(繊維植物のマオランから紐を作る)を直撃した。そこには金田さんが本来避難すべき防空壕があった。何が起こったのか?恐怖を感じながら窓をのぞくと、防空壕に入っていた人たちが外に吹き飛ばされ亡くなっていた。すぐに家族の安否を気遣う人たちが、爆風で膨れあがった遺体を探していた。仰向けの遺体は顔を見て、うつ向けの遺体は起こしながら確認していたが、そのとき流れた鼻血の赤色が今も脳裏に焼き付いている。
金田さんは2階にいた弟と妹の無事を確認した。幸いにもその防空壕に入っていなかったために、家族4人が助かった。一息して口の中に砂っぽさを感じたため唾を吐くと、黒くすすけたものが混じっていた。金田さん宅は倒壊を免れたものの、大きな石が屋根を突き破って押入れに落ちていたり、壁土などは崩壊していたりしており、住むことができる状態ではなかった。金田さん宅がある一区画の左端の家々は倒壊していた。その中には、友達の家に遊びに行っていて助かった3年生の男の子もいて、「家族と一緒に死にたかった」と泣いていた。
金田さん一家は須賀川に架かる芝橋を渡り、藤江の防空壕に避難した。夕方、空襲を聞きつけたのか、大浦に住む母方の実家がリヤカーを引いて来てくれた。この日の空襲は焼夷弾ではなく、爆弾であったため、火災はおこらず大事なものは取り出すことができた。以後、金田さんは大浦から住吉小学校へ通学したが、当初は空襲で亡くなっていた事になっていた。

この空襲の死者は119人。その後の空襲と比較しても一番多い死者数です。金田さんは宇和島空襲を記録する会の一員として、現在もお元気に講演されています。重いテーマにもかかわらず、温和なお人柄が聞く者を優しく包み込みます。戦争の悲惨さと平和の大切さを考える1日となりました。


              図1 昭和20年5月10日の空襲範囲(赤)(黒枠は図2)
                 (『宇和島の空襲』第4集所収の地図に筆者が加工)


              図2 金田さん宅付近と避難経路
                 (聞き取り調査から筆者作成)


              金田八重子さん

模擬原爆パンプキンと愛媛県

2019年8月9日

昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。6日の広島に続く2度目の投下でした。広島型原子爆弾はウランを原料とし、「リトルボーイ」(長さ3m、直径0.7m、重さ4t)と称されましたが、長崎型原子爆弾はプルトニウムを原料とし、「ファットマン」(長さ3.25m、直径1.52m、重さ4.5t)と称されました。
実は、アメリカは広島・長崎に原爆を投下する以前に、訓練として長崎型原爆と同形・同重量の模擬原爆(通称パンプキン)を投下していました。原爆を投下した際、投下したB29も150度急旋回をして危険空域から離脱する必要があったからです。7月20日~8月14日にかけて30都市にパンプキン49発が投下され、1,600人以上の死傷者が出ました。  
その中には愛媛の3都市が含まれています。7月24日に投下された新居浜市(2発)・西条市(1発)と8月8日に投下された宇和島市(1発)です。新居浜市の住友化学工場・同軽金属工場、西条市のクラレ西条(資料上は住友軽金属工場)、宇和島市の海軍航空隊(資料上は宇和島組立工場)に投下されました。
原子爆弾は広島・長崎だけの問題ではありません。愛媛県ともパンプキンを通じて深い関係があるのです。核兵器のことを身近な問題として考えてみましょう。

焦土と化した宇和島と海軍航空隊(昭和20年8月8日撮影) 加工データ当館蔵(黄字は加筆)/原資料アメリカ公文書館所蔵

「我今より突撃に転ず」~特攻隊員の兄を想う~

2019年8月3日

戦後75年を前にして、当館では戦時資料の収集だけでなく、戦争体験者や遺族からの聞き取り調査を重視しています。今回は当館のボランティア真島和男さん(昭和16年生)からお聞きしたお話を紹介します。
和男さんの兄、真島豊さん(昭和20年没、享年20歳)は予科練を卒業して各地を転戦後、国分基地(鹿児島県霧島市)に配属されました。国分基地は陸軍の知覧基地(同県南九州市)や海軍の鹿屋基地(同県鹿屋市)などと並ぶ特攻基地でした。昭和20年4月17日午前7時、豊さんは艦上爆撃機「彗星」に乗り、他の5機とともに敵機動艦隊に向け国分基地を飛び立ちました。そして、午前9時38分、奄美大島の東、喜界島の南南東約130㎞で「我今より突撃に転ず」と発信、二度と基地に戻ることはありませんでした。豊さんが特攻隊を選んだ理由については、台湾から日本へ向かう船に乗っていたとき、敵の攻撃を受けて多くの仲間が亡くなったにもかかわらず、豊さんは生き残ったことが関係しているのではないか、と伝えられているそうです。
国分基地では427名の特攻隊員が戦死しました。現在、霧島市では国分基地特攻隊員戦没者慰霊祭が行われていますが、豊さんの面影を知らない和男さんは、これまで慰霊祭に参加せず、別の兄が参加していたそうです。しかし、その兄も高齢となったため、一昨年から和男さんも一緒に参加するようになりました。和男さんは、「地元の人々に感謝している。慰霊祭に小中学生も参加して、平和の誓いの場となっていることがうれしい」と述べられます。
豊さんはどのような思いで「我今より突撃に転ず」と発信し、操縦桿を敵艦隊に向けたのでしょうか。また、遺族はどのような思いでこれまで過ごしてきたのでしょうか。いろいろなことを考えさせられました。今回お話いただいた和男さんに感謝するとともに、戦争体験者や遺族がご健在な今のうちにこそ、いろいろなお話を聞いておかなければならないと再認識しました。

真島豊さん


江田島での豊さん(左)と同僚


慰霊祭での和男さん(右)


※ 写真は真島和男さん提供

ふすまはがし!

2018年4月20日

今月のボランティア資料整理は「ふすまがはし」をおこないました。
「ふすまはがし」とは、古いふすまの下張りに使用されている古文書を剥ぐ作業をいいます。
今回使用したふすまは、旧川舞村(八幡浜市五反田)の郡役所支所跡地から回収したものの1枚です。すでに表層の一部がはがれ、下張りの古文書が確認できる状態でした。

ふすまに水を吸い込ませ、糊をふやかしながら1枚1枚はがしていきます。
下張りは何層にもなっていて、途中の層からは山水画や墨書なども現れました。

どうにかすべての裏貼り文書をはがすことができました。
今回はがした裏貼り文書は、
6月24日の体験講座「災害にあった文化財―水損紙資料―を救う」において
水損資料レスキューワークショップの水洗いと乾燥で使用いたします。
興味関心のあるかたはぜひご応募ください!詳細は歴博HPをご覧ください。

「八幡浜市若山の俵札」愛媛大学法文学部日本史研究室との合同調査4

2018年3月2日

2月22日・23日の2日間

当館所蔵の四国遍路関係史料(八幡浜市若山の「俵札」)の整理を

愛媛大学法文学部日本史研究室と共同で行いました。

 

この「俵札」調査は平成27年度から始まり

今年は4年目の調査となります。

今回も胡光先生をはじめとする16人の方が参加されました。

昨年度に引き続き、

俵から取り出した納め札1枚1枚の

内容や大きさなどを調査しました。

この納め札からは、四国内だけでなく、

九州・中国地方や関西、遠い所では仙台・茨城・長野など

多方面から多くの人が愛媛へ赴いていたことなど、

当時の巡礼者の様子をうかがうことができます。

 

「俵札」調査の一部成果は、現在開催中の

特別展「研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場」

でも紹介しております。

 

また、今回調査を行ってくださった

愛媛大学の胡光先生の講座「四国遍路と伊予の霊場」は、

3月10日(土)13:30~15:00です。

ぜひお越しください。

中国四国名所旧跡図32 阿州長尾城村チル瀧

2017年9月7日

大きな崖を勢いよく落下する滝。落ちた先でも急流となり、画面右から左へ流れ下っていく。その川縁に藁屋が2棟。対岸に渡すように真ん中が高くなった木の橋が架けられている。対岸には道が続いているようだ。

左上には「阿州長尾城村チル瀧」という文字が記されている。これを手がかりに、19番の立江寺から灌頂ヶ滝の間で探してみたが、長尾城村に該当する地名が見つからない。音でいうと「ナガオジョウ」。もしかすると那賀川下流北岸の中之庄村(阿南市)ではないかと考えてみたが、ほとんどが低地の穀倉地帯ので、西丈が描く景観と大きく異なる。

ルート上の滝といえば、立江寺の奧の院星谷寺に、岩窟のようになってところで、滝を裏側から見ることができる裏見の滝がある。文字情報と一致しないが、あるいは裏見の滝を描いたものであろうか。西丈の場合、旅日記が残されておらず、絵だけで読み解かないといけないので、特定できない絵が何枚かある。

(2017年9月7日初稿)

2020年4月、新型コロナ感染拡大防止により博物館が臨時休館したことにともない、「おうちで歴博」という企画で、これまでの中国四国名所旧跡図について書いた原稿について、同僚学芸員がリライトして当館インスタグラムに掲載してくれることになった。その同僚からもしかしてということで、「チル瀧」ではなく、「ナル瀧」と読むのではないかという指摘を受けた。そこで一緒に「ナル瀧」で調べていると、徳島市飯谷町の勝浦支流に鳴滝があることがわかった。滝の落差は25mで、一年中枯れることなく落ちているとのこと。その近くには、洞友庵とも呼ばれた1700年代初頭の建った大師堂もある。場所としては、18番恩山寺、19番立江寺からも近いので、西丈が立ち寄った可能性が高い。といっても、これまで集めた江戸時代の道中日記をめくってみても、この鳴滝に立ち寄ったという遍路は1人も見当たらない。もしかすると、西丈は地元の人に教えてもらいながら絵になりそうなところを訪ね歩いていたのかもしれない。西丈のリサーチ力、恐るべし。

最後に、ナル滝の前に記された長尾城村という地名の問題が残る。これについてはよくわからないが、ただ鳴滝がある飯谷には、長柱(なごしろ)という地名があるようだ。地元の人にその地名を耳で聞いて、書きつけた村名の可能性はある。「中国四国名所旧跡図」には、このように調べる楽しみが満載だ。

 (2020年5月15日追記)

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」30 「災害」・「わざわい」の語源

2017年4月13日

現代では「災害」とは、災害対策基本法(第2条第1項)によると「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。」と定義づけられています。

日本における「災害」の文字の初見は、『日本書紀』崇神天皇7年2月辛卯条であり、「今、朕が世に当りて、数、災害有らむことを。恐るらくは、朝(みかど)に善政無くして、咎を神祇に取らむや」とあり、『同』崇神5年条に「国内多疾疫、民有死亡者」とあるように、ここでの「災害」は疾疫により多くの者が亡くなった状況を意味しています(註1)。「災害」は、『万葉集』巻五にも「朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして世を度(わた)ることを得」(山上憶良)とあるように(註2)、奈良時代以前には既に用いられていた熟語でした。平安時代にも『権記』長徳4(998)年9月1日条に、春から「災害連々」とあったり(註3)、『平家物語』巻一に「霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり」とあるなど(註4)、古典の中でも用例は数多く見られます。

なお、「災」の漢字の成り立ちは、下に火事の「火」と、上に「川」が塞がり、あふれる様子を表した象形文字であり(註5)、もとは洪水といった自然災害や火災を強く意味するものであったようです。

さて、次に「災」の訓である「わざわい」の語源を考えてみたいと思います。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「わざ」とは神のしわざの意であり、「わい」は「さきわい(幸)」などの「わい」と同源とされます。悪い結果をもたらす神の仕業という意味なのです。「天災」、「災難」、「災厄」などと使われるように、必ずしも地震、洪水などの自然災害に限定されるものではなく、身にふりかかる凶事や不幸なども含まれています。平安時代の『宇津保物語』俊蔭に「さいはひあらば、そのさいはひ極めむ時、わざはひ極まる身ならば、そのわざはひかぎりなりて命極まり」とあるように(註6)、「わざわい(災)」の対義語が「さいわい(幸)」とされています。同様の事例は『源平盛衰記』には「災(ワザワイ)は幸(サイハイ)と云事は加様の事にや」などでも見られます(註7)。現代のことわざでは「わざわい転じて福となす」というように「わざわい」の対義語を「福」と見なすこともありますが、室町時代成立とされる『日蓮遺文』経王殿御返事に「経王御前にはわざわひも転じて幸ちなるべし」とあるなど(註8)、古くは「幸」が対義語であったようです。

ちなみに「防災」という言葉は明治時代以前には確認できない比較的新しいものです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったとされる寺田寅彦が命名したともいわれますが、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』の書名になった「防災」は寺田寅彦が命名したのは事実のようです。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行が「防災」を一般名称化したとされています(註9)。

【註記】
1 今津勝紀氏「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(『時空間情報科学を利用した古代災害史の研究』)、日本古典文学大系『日本書紀上』
2 日本古典文学大系『万葉集二』
3 『日本国語大辞典』
4 日本古典文学大系『平家物語上』
5 『大漢和辞典』巻七
6 日本古典文学大系『宇津保物語一』
7 『日本国語大辞典』
8 『日本国語大辞典』
9 小林惟司氏『寺田寅彦と地震予知』(東京図書)

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」29 宝永南海地震・津波と宇和島②―被害の状況―

2017年4月10日

宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震では、前項で紹介したように現在の宇和島市街地、特に枡形町、新町、佐伯町、元結掛などが2m以上の津波に襲われています。津波の到達地点については、宇和島藩伊達家史料『記録書抜』に「汐、数馬屋敷前迄道ヘハ上ル、堀之内御材木蔵前迄上ル」とあり、志後野迫希世氏によると、数馬とは藩の家老職を務めた桜田数馬のことであり、その屋敷は現在の市立宇和島病院付近とのことで、御材木蔵は宇和島城の南西側にあり、現在の宇和島東高校の向かい側付近にありました。つまり宝永南海地震では、市立宇和島病院、宇和島東高校付近まで津波が到達していたのです。逆に、市街地でも城の南東側にあたる掘端町、広小路、本町追手、愛宕町、宇和津町など、市街地でも標高の比較的高い場所には津波は来ていません。

さて、宝永南海地震での宇和島藩領内(南予地方)の被害についても伊達家の史料からわかっています。『記録書抜』には「一、地震ニ付、御城内所々御破損、夫々委記。田五百三町二反一畝歩高ニ〆七千二百七十三石ノ損、家其外数々破損流出、死人八人、半死人廿四人、沖ノ島死人二人、御城下家々破損、死人二人」とあります。死者は城下以外の領内で8名、沖の島(現高知県宿毛市)で2名、宇和島城下で2名の合計12名が犠牲となっています。宇和島藩が『記録書抜』を編纂する際に用いた公用記『大控』(『新収日本地震史料』掲載)にはさらに詳細が記されています。犠牲者は「潰ニ打れ或は高汐ニ溺死」とあり、家屋の倒壊や津波で流されたことが死因となっています。城下での2名の犠牲者は、一人が樺崎の男性、もう一人が町方の女性で、ともに津波に流されて亡くなっています。

『記録書抜』に合計で田503町2反1畝歩、高7,273石の損害とあり、大まかには5平方キロメートル以上の田んぼが被害を受け、宇和島藩10万石のうち、約7%の石高が被害を受けたことになります。

『大控』にはさらに細かく被害が記録されています。津波によって流出したのは、米が約102石、籾(モミ)約262石、大豆約20石、小豆1斗、胡麻3石、粟(アワ)20石、大麦約150石、黍(キビ)約66石、稈(ワラ)約111石、塩1480俵、干鰯500俵などとなっており、また津波で濡れて水損したのが、米約251石、籾76石、大豆約5石、小豆6斗となっています。1石とは容積約180リットルに相当するとして7,273石は約1300立方メートルとなります。これだけの農産物、海産物被害が特に南予海岸部で出ていたのです。
また、建物被害では、『大控』には宇和島藩内で「高汐ニ流」とされる家屋は257軒、小屋が50軒あり、合計で300軒以上が津波で流出しています。また、地震の揺れによる倒壊は家屋が71軒、半壊が506軒、火災による焼失が2軒、小屋が全壊8軒、半壊60軒とあり、合計で650軒近くが全半壊しています。その他にも、「震崩」つまり地震の揺れで崩壊した川の土手や石垣は4,596間(約8km)あり、津波によって破損した新田の土手、石垣は3,219間(約6km)などと記され、南予地方各地の河川や海岸部に開発された新田に大きな被害があったことがわかります。

このように宇和島藩には宝永南海地震に関する史料が充実しています。他の藩では被害が小さかったのではなく、現在に残る史料が少ないため実証できていないのです。宇和島藩の被災記録は、愛媛県内のみならず、豊後水道対岸の大分県、宮崎県においても災害の規模を考える上で一つの指標となるといえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」28 宝永南海地震・津波と宇和島―集中する文教施設―

2017年4月7日

宇和島市における江戸時代の宝永南海地震の歴史については志後野迫希世氏「近世における宇和島の大地震発生後の様子について―宇和島伊達家の宝永と安政の記録から―」(『よど』15号、2014年)で既に詳細が明らかにされています。ここでは志後野迫論文を参考にしながら、宇和島での具体的な被害を紹介します。

宇和島藩伊達家史料である『記録書抜』によると、宝永4(1707)年10月4日に「未之刻大地震、両殿様、早速御立退、鈴木仲右衛門宅江被為入、御隠居様ハ帯刀宅ニ御一宿、地震度々小地震有之」と書かれています。つまり、当時の藩主・伊達宗贇はすぐに城の南東側(海岸とは反対側で、城下でも標高が比較的高い場所)にある家老職の鈴木仲右衛門宅に避難し、御隠居の伊達宗利は同じく家老職の神尾帯刀宅(城の南東側、現在の丸の内和霊神社付近)に避難していたことがわかります。

注目すべきは『記録書抜』のそのあとの記述です。「大震之後高汐ニ而浜御屋敷汐込ニ相成、升形辺、新町、元結木(ママ)ゟ(より)持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上ヘ四五尺、所ニより其余も汐上り」と書かれており、地震の後に「高汐」つまり津波が襲来したことが記録されているのです。「浜御屋敷」(いわゆる浜御殿。城の南側、佐伯町との間に造成された藩主の居館。現在の天赦園、伊達博物館付近)は津波で海水が入り込み、升形辺(枡形町、現在の宇和島東高校北側)あたりや、新町(城の北東側。現在の新町1、2丁目の商店街区域)や、佐伯町、持筒町(城の南側、現在の佐伯町1、2丁目)から元結掛(城下町の南側。神田川の左岸)にかけては、津波による浸水が「夥(おびただしく)」と酷かったようで、具体的に、津波は床の上から4~5尺(約120~150cm)と記され、津波高は約2mと推定することができ、場所によってはそれ以上であったことがこの記録からわかります。

この枡形町、佐伯町、元結掛は古くからの町ですが、それよりも海側は、後の時代に新田開発により土地が造成されるなどして、現在は文教地区となっており、鶴島小学校、明倫小学校、城南中学校、城東中学校、宇和島南中等教育学校、宇和島水産高校、宇和島東高校(7校で児童・生徒計3415名、教職員387名。平成28年度時点)が建っています。これらの学校の位置する場所では、宝永南海地震(南海トラフを震源とするマグニチュード8.6)規模の地震による津波が到達する場合は、2m以上の津波に襲われる可能性は高いといえます(宇和島市発行の防災マップによれば、想定津波高は4m以上となっています)。学校における防災の観点で、この地域が歴史上、津波襲来地だという災害の特徴(災害特性)を充分に理解し、児童、生徒の避難計画の策定や避難訓練を平時から行っておく必要があるといえるでしょう。

『記録書抜』には「尤椛崎辺大破、橋も落、町家中所々山際ニ野宿仕候事」ともあり、参勤交代の際の港のあった樺崎(現在の住吉公園、歴史民俗資料館あたり)は破壊され、地震の揺れもしくは津波の遡上によって川の橋が落ちたと書かれています。そこに近く、海岸や河川に面している住吉小学校、城北中学校についても津波被害の可能性が高いと言えます。このように宇和島市街地では海辺部に学校が集中し、旧市内では九島、三浦、結出、遊子、蒋淵、戸島、日振島小も同様に、南海トラフ巨大地震の際には、一般住民はもちろんのこと、いかに学校の児童、生徒を安全に避難させるのか、大きな課題になってくると言えます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」27 内陸部の地震被害―大洲地方の場合―

2017年4月4日

嘉永7年(安政元年、1854)の安政南海地震では、現在の愛媛県内各地で地震による家屋倒壊、津波襲来など大きな被害が出ていますが、これまで愛媛の地震の歴史は海岸部の被害が大きく取り上げられる傾向があり、内陸部での被害は紹介されることが少ない状況でした。これは単に被害がなかったのが理由ではなく、津波襲来など象徴的な被害が海岸部に多かったことによるもので、内陸部においても地震被害の史料は数多く残されています。

その一例として大洲地方を取り上げてみます。大洲における安政南海地震を詳細に記録した史料に大西藤太『大地震荒増記(おおじしんあらましき)』があります。これは既に東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』に紹介され、『大洲市誌』にも一部引用されているものです。「嘉永七ツとし中冬初めの五日、申の刻とおぼへし頃、一統夕まゝの拵へ、あるいハ食するもありし最中大地震、一統時のこゑをあげたからハいふもさらなり、家蔵もすて置、老たるものの手を引、子供あるいハやもふものをひんだかゑ、ひよろつきながら一文字ニ広き場所へとこゝろざし、前代未聞の事共なり」とあり、夕ご飯の支度をしたり食べていたりしていた時に大きな地震があり、あわてて家から逃げ、老人の手を引き、子どもや病人を引き抱えながら、足元が定まらない様子で広い場所に避難したというのです。「ひんだかゑ(引き抱え)」とか「ひよろつきながら」、「一文字に」という表現は、住民がいかに地震の最中に混乱し、慌てていたかを物語っています。

また、「一御城内御かこい数所痛、一御家中其外屋敷かこい門並に長屋大痛み、一片原町辺大荒、一町内余程大荒、弐丁目横丁ニテ弐軒づれる、一舛形辺大荒、一東御門御やぐら下石垣ぬけ大痛(中略)一鉄砲町辺中いたみ(中略)一中村大荒八九軒余も長屋共ツブレル(中略)一内ノ子辺格別之儀大ゆり」ともあります。つまり、大洲城や家臣の屋敷の囲い塀や門が被害を受け、城門・櫓を支える石垣が崩落したり、町方では、片原町、枡形町、鉄砲町はじめ町内(本町、中町、裏町など)も「大荒」と家屋の被害が大きかったようです。肱川をはさんだ中村では8、9軒が倒壊しており、大洲城下町での被害の大きさがこの史料からわかるのです。

なお、この『荒増記』には「一郡中誠に大荒家数多くづれる少し焼失、死人十人余、(中略)一宇和島大荒津浪打、一吉田大荒人家数多ツフレル津浪」とあり、現在の伊予市や宇和島市において家屋の倒壊が多く死者が出ていることや、南予沿岸部で津波が襲来したことなども記されています。また、『荒増記』以外には『洲城要集』十七(伊予史談会蔵)など大洲における安政南海地震の様子が記された史料があり、特に『洲城要集』には11月4日の前震(東海地震)、5日の本震(南海地震)発生から10日までの余震発生時刻や規模が記録され、翌年3月までは余震活動が活発だったとも記されています。

なお、大洲地方では、安政南海地震の次の昭和21年の昭和南海地震の際には、家屋倒壊が4棟、町の多くの家や塀の壁が落ちたり、煙突が20本、被害を受けたことが『愛媛新聞』昭和21年12月22日付に記載されており、歴代の南海地震の発生時に、家屋倒壊などの被害が出ていることがこれらの史料からわかります。このように、愛媛県内の内陸部においても家屋倒壊など様々な被害が見られるのです。