‘資料調査日記’ カテゴリーのアーカイブ

よみがえる街頭紙芝居とその舞台(3)

2月 2日 火曜日

「ゴトリ」という音を立てて動いた上板。
その下の隙間から、何か木組みのようなものが見えました。
上板部分
ドキドキしながらOさんと二人で慎重に板を動かしてみると、上板がゆっくりとスライドしていきます。
上板は実はふたになっていて、ふたを取ると中には何かが折りたたまれて格納されていました。
上板をはずした様子
慎重に立てて広げてみると、なんと紙芝居の舞台が姿を現しました!
立ち上がった紙芝居の舞台
紙芝居が見える面にはガラスがはめ込まれ、ちょっとテレビのような雰囲気です。

こうして、当館の調査により、Oさんのお宅には、当時の紙芝居と、その上演道具がセットで現存していることが判明したのです。
周囲の木枠も大変丁寧な細工で、Oさんは、「手先の器用な父が自作したものだと思う」と感無量のご様子でした。
この折りたたみ式舞台の発見は、平成27年11月22日付愛媛新聞9面でも紹介され、記事の中で、紙芝居の歴史を研究されている京都学院大学の堀田穣教授は「初めてみる工夫。舞台の窓にガラスがはめ込まれているのも珍しく、モダンな印象」と評されました。

というのは、この舞台には、はめ込まれたガラス以外にも、色々な工夫が施されていたのです。
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よみがえる街頭紙芝居とその舞台(2)

2月 1日 月曜日

松山市のOさんの手元に残されていたこの木箱、御父堂様が紙芝居を上演する際、自転車の荷台に固定して使っていたものでした。
側面には引き出しがついており、中には駄菓子を入れて上演のとき子どもたちに販売していたそうです。
木箱
この木箱の上に舞台を載せ、中に紙芝居を入れて上演するわけですが、残念ながら舞台は処分されて残されていない・・とOさんを含め誰しも思われていました。
そのため、平成23年特別展での公開時、木箱の上には、たまたま博物館で保管していた別の紙芝居舞台を載せて展示しました。
木箱展示風景
そんな中、歴史文化博物館では「自転車の歴史と文化」をテーマとした特別展を28年秋に開催することになりました。
自転車の歴史といえば、紙芝居を載せた自転車でやってきた紙芝居屋さんのことを取り上げないわけにはいきません。
ちょうど所蔵者のOさんからご連絡をいただいていたこともあり、昨年27年の10月末、改めてご自宅にお伺いしました。
貴重な街頭紙芝居の数々を改めて拝見した後、Oさんとともに「木箱の上にどのように舞台を載せて固定していたのだろう」と疑問に思いながら、木箱の状態を確認していた時のことです。
木箱の底板や側面と比べ、上板の一辺だけ木組みの様子が違うことを不思議に感じ、上板に指をかけてみました。

すると、上板が「ゴトリ」という音を立てて動いたのです。
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よみがえる街頭紙芝居とその舞台(1)

1月 31日 日曜日

松山市のOさんのご自宅には、1300枚を超える街頭紙芝居が残されています。
これは同市内で紙芝居屋の取りまとめ役をしながら、自身も紙芝居屋として活動されていた御父堂様から受け継がれたもの。
6年前の平成22年に県にお問い合わせいただいたことが契機で、歴史文化博物館の担当がOさんのお宅に何度も通い、全体の目録を作成し、平成23年には特別展「昭和こども図鑑」でその一部を展示させていただきました。
昭和子ども図鑑チラシ
昭和子ども図鑑展示風景
このときは博物館ボランティア等による実演も実施。
大人も子どもも夢中になってお聞きいただきました。
ボランティアによる実演
Oさん宅に残された街頭紙芝居は、血沸き肉踊る時代物からおどろおどろしい怪奇物、薄幸のヒロインが健気な悲哀物や、物語の合間に繰り出すクイズ紙芝居まで、多くのバラエティーに富んでいます。
その多くは昭和30年代、大阪・さだむ社が製作したものです。
裏面には名古屋、大阪、岡山でも上演されたことや、自主規制機関の審査を受けていたことを示す記載もあります。
「父は右足が不自由だったが、左足で自転車をこいで市内を回り、母と二人三脚で自分を育ててくれた」とOさんは紙芝居をみながら懐かしそうにお話くださいました。
紙芝居1
紙芝居2
紙芝居3
街頭紙芝居は、保育や教育用の印刷紙芝居とは違い、東京や大阪の「絵元」と呼ばれる業者が製作する肉筆(一点もの)の紙芝居で、プロの紙芝居屋により、街頭(屋外)で有料で演じられるものです。昭和初期から10年代、および戦後に全国で盛行しましたが、昭和30年代後半の高度成長期にテレビが出現すると次第に衰退していきました。

街頭紙芝居が上演される基本的なプロセスは、以下のようになります。
まず、「絵元」が作家・画家に紙芝居の製作を発注します。
完成した紙芝居は、絵元から全国各地の「支部」(取りまとめ役)に貸与され、支部から地域の紙芝居屋にさらに貸与され上演されます。
上演が終わると紙芝居屋は支部を通じて絵元に紙芝居を返却するとともに、絵元は新たな紙芝居を支部に貸与する、というシステムになります。
このため、紙芝居は地方の紙芝居屋の手元に残ることが少なく、これほど多くの街頭紙芝居が松山市内に残っていることは、愛媛県内はもとより四国を見渡しても管見の限り例がありません。
愛媛の昭和生活史の一コマを物語る上で大変貴重な資料群といえます。
紙芝居屋さん
(伊予市双海町での街頭紙芝居の様子。井上敬一郎氏所蔵)

ところで、実はOさんの手元には、紙芝居の舞台箱も残されていました。
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「八幡浜市若山の俵札」 愛媛大学日本史研究室と当館による合同調査

2月 20日 金曜日

この小さな俵(約46×18×16㎝、当館蔵)の中身は何でしょうか?

この俵は、西予市卯之町と八幡浜市八幡浜を結ぶ卯之町街道沿い近くにあった民家(八幡浜市若山)の軒下に長らく吊り下げられていました。

八幡浜市若山の民家で吊り下げられていた俵

このたび、博物館で俵の中身を取り出したところ、四国遍路や巡礼に関係するたくさんの納め札(おさめふだ)等が丸められて隙間なく詰められていたことがわかりました。

俵から取り出された中身

納め札とは、「のうさつ」、「巡礼札」ともいいます。木製、金属製、紙製などの短冊状の札に、巡礼の名称、願意、氏名、年月日などを記し、巡礼者が参詣した証として札所や社寺などに奉納するもので、西国三十三所巡礼や四国遍路などでも使用されました。また、お接待のお礼として相手に渡したり、巡礼者同士の名刺代わりなどにも用いられたりしました。

古くは、霊場寺院の柱などに釘で木製の納め札を打ち付けたことから、霊場を「札所」、参拝することを「打つ」と呼ばれました。

俵の中に納められていた納め札。右から天保6年、嘉永元年。

納め札には呪力があると信じられ、お接待のお礼としていただいた納め札を集めて、身近にあった俵の袋に入れて、家の御守りとして天井裏などに吊るしました。俵の中に入れられ納め札は俵札(たわらふだ)と呼ばれています。

2月17・18日の二日間、愛媛大学法文学部人文学科教授の胡光先生と日本史研究室のゼミ生(13名)の皆さんと一緒に、納め札等が入ったこの俵の中身について資料調査を行いました。

最初に、当館学芸員による納め札の概要と八幡浜市若山の歴史や納め札の整理方法などについて説明をしました。

当館学芸員による納め札の解説

その後、胡先生の指導のもと、愛大生は班ごとに分かれ、実際に俵札の整理作業を行いました。

愛媛大学日本史研究室の胡ゼミ生による整理作業の様子

愛媛大学日本史研究室の胡ゼミ生による整理作業の様子

まずは、団子のように丸められた俵札等の塊を選びとり、その中の納め札が破れないように一枚一枚丁寧に取り分けました。長年、軒下に置かれていたため、俵の中は塵や埃にまみれ、汚れや劣化が著しいものも多く、整理作業はマスクを着用して、塵や埃を除きながら、資料を抽出していきました。

愛大生による資料の選別作業

丁寧に納め札を取り出す

俵の中には納め札以外にも、巡礼者のお土産と考えられる弘法大師御影や仏絵などのミニ掛軸や護符なども見られました。

俵に入れられていたミニ掛軸

抽出された納め札は、折れやシワをのばし広げて、一枚ごとに透明なシートに収納しました。その後、あらかじめ作成した俵札調査票の項目にならい、納め札に記された文字情報(主文、願意、巡礼者の住所、願主、年月等)についての解読作業に入りました。読めない文字は古文書辞典や地名事典、梵字辞典などを参照し、また、胡先生と当館学芸員が指導助言にあたりました。

愛大生による納め札の解読作業

胡先生による古文書解読の指導

今回の二日間にわたる当館と愛媛大学日本史研究室の胡先生とゼミ生の皆さんの共同調査によって、ごく一部ですが俵の中身が少し見えてきました。納め札は現時点で天保年間~明治期のものが確認されています。納め札の全体の枚数や具体的な内容の分析についてはこれからの課題となります。納め札は巡礼者の生の記録であり、また、巡礼者を迎えた地域にのこる資料でもあり、四国遍路の歴史を探る上で貴重な巡礼研究資料として注目されます。

ミノ作り

12月 1日 土曜日

博物館には昔の道具を多く収蔵・展示していますが、後世に伝えていくため、大切に保存することも大事な役割の一つです。

 しかし、民具は生活の中で使われていた道具でもあり、民具の大切さ、面白さを伝えるために体験の機会も少しずつ増やしていきたいとも考えています。

 そこで、昔の民具を現在でも作ることの出来る方がいれば、お話しを伺いに行くこともあります。

 

 例えば、西条市の大保木公民館では、長年にわたりミノ作りの講座が行われています。先日、ミノ作り講座の講師でもある伊藤幸さんにお話しを伺うことができました。

  

  伊藤さんが作られるミノはワラではなくスゲでできています。刈り取ったスゲを二日間水に浸けたあと、ワラツチで打ち、さらに石で打ち、スゲを編む下準備をします。

 ツクと呼ばれる木製の台とイシを使って編んでいく伊藤さん。

 お話ししながらも手は休むことはなく、みるみるうちにミノが形作られていきます。

 今回は、日よけに使うセミノと雨よけに使うミノについて、作り方や使い方などお話しを聞くことができました。

 セミノは袖の部分がなく、草引きなどの農作業の時に日よけとして使いました。

 

ミノは雨よけとして使い、使い終わったら水を切って日の当たるところに干しておくと長く使えたとのことです。

  ミノは一見しただけでも、手の込んだものだということはわかりますが、伊藤さんのお話しを聞いてあらためて見直すと、製作への苦労や工夫、使った人たちの生活が伺えて、さらに魅力が増しました。

 資料だけでなく、それにまつわるお話を記録し、後世へ伝えることも大切な仕事であるという当たり前のことを再確認した1日でした。

へんろ道を歩く~柏坂越え~

6月 9日 木曜日

へんろ道「柏坂」を歩きました。

柏坂は宇和海に面した柏集落から大師峰(標高502m)を横断し、宇和島市津島町大門までの峠越えの山道です。旧遍路道として、また、戦後まもない頃までは地域の生活道路として利用されました。

スタート地点の柏集落。柏橋のたもとに中務茂兵衛が明治34年に遍路184度目に建てた道標があります(写真(1))。

写真(1)

刻字に「舟のりば」とあるので、柏坂を通らず舟を利用した遍路もいたのかもしれません。ちなみに茂兵衛は江戸末期から大正期にかけて歩き遍路で280度という驚異的な記録をあげた「へんろの達人」です。

柏川を上流に向かって歩くと、「坂上二十一丁 よこ八丁 下三十六丁」と刻まれた自然石の道標(写真(2))があります。

写真(2)

柏坂は上り約2289m、平ら約872m、下り約3924m。最初に柏集落(海抜10m)から峠付近の展望台(標高480m)までの区間を急ピッチで上り、峠付近からは尾根道を進み、ゆるやかに長く下っていく柏坂のコースの特色がよくわかります。

いよいよ柏坂越えの入口(写真(3))に到着。ここから急な山道をどんどん上っていきます。

写真(3)

途中、遍路墓と思われる小さなお墓や炭焼き小屋がありました。また、コース上には昭和12(1937)年に柏に滞在した野口雨情が柏坂の美しい風光や厳しい坂道を詠んだ句碑がいろいろあり、疲れを癒してくれます。息切れしながらようやく柳水大師(標高350m、写真(4))に到着。

写真(4)

弘法大師が柳の杖をつくと水が湧き出た伝説があります。傍らには小さなお堂の中に弘法大師像が安置され、その台座によると、明治25年に中務茂兵衛が発願主となって奉納されたことがわかります。茂兵衛さんは道標以外にもいろんなことで遍路に貢献されています。一息ついた後、さらに上っていくと清水大師(写真(5))に到着。

写真(5)

小さな祠の脇に大師水がありました。ここは結核の病に利くと伝えられています。さらに上っていくとやっとゆるやかな尾根道になりました。道沿いに石垣や、石畳みが築かれている。「ゴメン木戸」(写真(6))いう場所の案内板によると、この付近は昭和20年代まで大草原で、明治期には放牧が行われ、放牧した津島の牛が南宇和郡内に入るのを防ぐために頂上に向けて石畳が築かれたとありました。

写真(6)

山の遍路道で牛の放牧・・・意外でした。

お遍路さんに接待した場所であった接待松(ねぜり松)に到着。現在は松の株と石仏がのこっているが、昔、足の不自由で箱車に乗っていた遍路がここで足の病が治ったという霊験談が伝わっています。その後、ようやく「つわな奥展望台」(標高480m)に到着。展望台というと案外、樹木が生い茂り見晴らしが効かない場所が多いなか、ここの展望台からの景色は素晴らしい。眼下に由良半島が広がり、天気が良ければはるか遠くに九州地方も臨めます(写真(7))。まさに「絶景かな絶景かな」の境地でした。

写真(7)

展望台からゆるやかな下り道となり、途中、イノシシのヌタ場、女兵さん思案石、思案坂、狸の尾曲がり、鼻欠けオウマの墓、馬の背駄馬など、地形的におもしろい所や、地元のトッポ話(民話)などの伝承に因んだスポットがたくさんあります。私が特に気に入ったのは、馬の背中のように両サイドが急な坂となっている馬の背駄馬(写真(8))です。なかなかうまく言い得ていますね。

写真(8)

さらに峠道を下っていくと民家に到着。近くには茶堂大師があります。そこから小祝川に沿って下ります。津島方面からの峠の登り口には下部が埋もれているが武田徳右衛門風の道標(写真(9))がありました。

写真(9)

小祝集落から宇和島市津島町大門に到着。さらに、芳原川沿いを進み、岩松まで歩きました。

今回歩いた柏坂越えの旧へんろ道(地図参照・赤印)は、地元の人たちを中心にとても整備されており、想像していたよりも歩きやすかったです。また、次から次へといろんなスポットがあり変化に冨み、歩きながら地元の歴史や民俗を学ぶことができます。また、内海支所でいただいた内海中学校の生徒さんが作成した遍路道マップ「柏坂越えのみち」はとても分かり易くて大変役立ちました。

※地図は愛媛県生涯学習センター発行『伊予の遍路道』平成14年を参考に加工。

岩屋寺 ―せりわり禅定―

12月 6日 月曜日

 

   岩屋寺は、四国山地の山深く、久万高原町七鳥(ななとり)に所在する四国霊場第45番札所として知られる古刹(こさつ)で、日々多くのお遍路さんが訪れます。あたりは侵食された凝灰岩(ぎょうかいがん)が特異な景観を作り出していることから国の名勝にも指定され、また秋には美しい紅葉の名所としても知られています。岩屋寺を訪れた際、ぜひ立ち寄りたいのが「せりわり禅定」と呼ばれる行場。ここは、時宗の開祖一遍上人も訪れ、「一遍聖絵」にも登場する歴史的には非常に著名な場所。でも、「岩屋寺には行ったがそこは行ってない」という人が結構多いのではないでしょうか。では、実体験をほんの少しだけ報告します。

 本堂・大師堂から少し谷間を登ったところが入口ですが、まずは納経所で鍵を受け取ってから登らないと二度手間になるのでご注意。また、神聖な修行の場であることにも配慮しましょう。

 「せりわり」の名のごとく岩山が真っ二つに裂け、ひと一人がやっと通れるような裂け目を、綱を伝いながらしばらく登ります。これが第一段階。次に第二段階、再び綱か鎖を伝いながらさらに上の岩場へ登ります。足場はほとんどありません。

  

 最終段階として梯子(はしご)を登ると、狭い山頂に白山社の祠(ほこら)が祀られています。足場はないに等しく、気を付けないとお参りも命がけになります。

  

 祠の建物自体は近年の建立ですが、まさに「一遍聖絵」に描かれた、一遍が長い梯子を登って参詣した社がここにあたります。「一遍聖絵」では、この他に2峰、全3峰の独立峰と各峰上の祠が描かれていますが、近年の研究では、実際は同じ峰を登る3段階の節目ごとに祀られた祠だったと考えられています。江戸時代の絵図を見ると、確かに段階ごとに高祖社・別山社・白山社と3つの祠を見ることができます。 

 

  「岩屋寺勝景大略図」(当館蔵)

 絵図には、第一段階の「せりわり禅定」に次いで「鎖禅定」とあり、第二段階の鎖が相当します。峰全体が修行場とみなされていたのでしょう。絵図の別の部分を見ると、本堂の横の峰にも梯子で行く仙人堂、さらに上方には洞中弥陀・洞中塔婆が示されています。現在も本堂脇には梯子で上がる仙人堂跡がありますが、さらに上方にも穴が二つ、これが洞中弥陀・洞中塔婆の場所でしょう。どうやって上がったのでしょうか。

 

 険しい行場を持つ岩屋寺ですが、せりわりに見たような白山信仰や、熊野信仰との関わりも指摘されており、一遍の時代から山岳修験の行場の性格を持っていたのではないかと考えられるようにもなっています。

 45番岩屋寺、今は札所として参拝者が絶えませんが、実は一遍上人や山岳修験ともゆかりの深いお寺なんですね。

参考文献:山内譲「一遍聖絵と伊予国岩屋寺」(上横手雅敬編『中世の寺社と信仰』吉川弘文館・2001年)

東大寺戒壇堂 ―凝然(ぎょうねん)ゆかりの地―

12月 5日 日曜日

 東大寺は、大仏で知られた奈良の代表的寺院です。ちょうど平城遷都1300年ということで、観光客も普段以上に訪れています。でも、一口に東大寺といっても境内は非常に広く、大仏殿や南大門だけが東大寺ではありません。実は、鎌倉時代の伊予の人物と非常に関わりの深い場所があります。

 

 大仏殿から少し西へ行った台地上に戒壇堂(かいだんどう)がありますが、古くはその付近一帯に戒壇院と呼ばれる伽藍(がらん)が広がっていました。天平の時代、唐招提寺の創建で知られる鑑真が受戒制度の整備のため日本へ招かれた翌年の天平勝宝6(754)年、正式な受戒の場として建立されました。

 それから約500年後、鎌倉時代後期にこの戒壇院の院主となったのが、凝然という伊予出身の学僧です。様々な宗派の教学に通じ、仏教の教科書ともいうべき『八宗綱要』を著すなど博学で知られ、国師号を授かっています。東予に拠点を置いた新居氏の一族で、その系譜を記した「与州新居系図」は重要文化財に指定されています。

 戒壇院は幾度もの火災で往時の姿をとどめませんが、復興された戒壇堂・千手院が現存します。戒壇堂を訪れると、天平塑像の傑作とも言われる国宝の四天王像が迎えてくれます。観光客で賑わう大仏殿周辺とはまた違い、落ち着いた雰囲気を味わうことができます。この場所で凝然をはじめ歴史上の名僧たち、そして数えきれないほどの僧侶たちが受戒したことを思い返すと、荘厳な気持ちに包まれます。

 

 奈良東大寺を訪れた際には、伊予とも関わりのある戒壇堂へも足を運んでみてはいかがでしょう。

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 3終

6月 11日 金曜日

 (3)歯長峠から明石寺を経て歴史文化博物館へ

 歯長峠の頂にある「送迎庵見送大師」を発ち、ここからは峠の下り道です。仏木寺周辺からはるか遠くに見えていた四国電力送電鉄塔が今は眼前にあります。空にそびえています。付近には倒れた2基の遍路道標がありました。ひたすら山道を下ります。途中、車が入れるほどの林道と交わります。歩き遍路道をさらに下っていくと、雨水による路面浸食による流失で、とても足場の悪い山道が続きます。山中の立ち枯れた松の巨木のもとに寛政7(1795)年に皆田村(現西予市宇和町)の有志が建てた立派な遍路道標がありました。

倒れた遍路道標

江戸時代(寛政7年)の遍路道標

 ずっと急坂を下っていきます。やがて工事中の四国横断自動車道のトンネルが間近に見えてきました。麓まで下りたようです。石橋で小川を渡ると県道に合流し、バス停がある歯長峠口に到着。そこには地蔵堂がありました。堂内には弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などの石仏が祀られており、隣には文化・文政年間の遍路墓がありました。

 休憩所で少し休んだ後、宇和川を渡り、43番明石寺に向かいます。ここからは基本的に舗装道を歩くことになります。これまで、軟らかい土の道を歩くことに慣れてきた両足が、疲れもあってか、時おり足裏が少し痛みを感じてきました。小雨も降って来ました。下川(ひとうがわ)の集落は、歯長峠から下って来たお遍路さんが休息をとる場所とされ、お接待が行われ、遍路宿もあって往時は賑やかだったそうです。そのなごりを示すように、「道引大師」と呼ばれるお堂があります。小さな堂内には中央に道引大師像、左に弘法大師像、右に不動明王像が祀られています。驚いたのは、一人用の布団が常備され、ここで寝泊まりができるようになっていました。これは現代のお接待(善根宿)といえます。堂前には、中務茂兵衛が明治39年に209度目供養として建てた道標がありました。

歯長峠口の地蔵堂と遍路墓

中務茂兵衛の遍路道標と道引大師

 県道宇和野村線を歩き、旧道に入り、皆田小学校の前を進みます。新しく祀られた道中安全見守大師を過ぎ、歴史文化博物館が近くに見えてきます。歩き遍路さん用の矢印に従って進むと、明石寺奥之院に着きます。結界がはられた敷地には祠が安置されていました。付近に明治期の小さな道標があります。明石寺の参道の鳥居付近には、中務茂兵衛が大正3年に256度目供養として建てた道標がありました。この道標の上には、小石が積み上げられていました。歯長峠道で確認した石積みとの関係が気になりました。やがて明石寺へ到着。境内には、次の札所の菅生山(44番大宝寺)まで21里(約84㎞)と記された道標がありました。最後は、宇和文化の里へ通じる遍路道を歩きます。途中、宇和新四国の道に入り、遊歩道を通って愛媛県歴史文化博物館へ無事帰館することができました。

 今回のコースの経過時間は以下のとおり。龍光寺発10時半、仏木寺着11時45分着、歯長峠の送迎庵見送大師着13時50分、歯長峠口着14時40分、道引大師着15時、明石寺着16時15分、歴史文化博物館帰着17時。距離にして約13.6㎞。徒歩所要時間6時間半、万歩計で23,210歩でした(思ったより歩数が少なかった…)。

 遍路道を歩き終えての感想は、モータリゼーションが普及する以前の四国遍路の一端に触れたような心地がしました。自ら歩く視線で遍路道をたどると、そこには江戸時代から現在に至るまで、時代とともに変容されながらも四国遍路の盛行を支えた一要因である、札所と札所を結ぶ遍路道の役割の大きさを認識しました。道中で出合った数多くの遍路道標、それを発願、浄財、寄進、施工した人々のたくさんの名前。弘法大師信仰の地域拠点とされる大師堂、行き倒れて亡くなったお遍路さんを葬った遍路墓などを、目の当たりにすると、お遍路を支えてきた沿道の地域の村々や人々のこころ、接待という善根を積む行為などを通して四国遍路が育まれてきたことを感じました。余談ですが、現代のアスファルト道と違って、自然の中で土の道を歩くことの心地よさを知ったことは大きな収穫でした。

 最後に、今回の遍路道の踏破で一度も迷子にならなかったのは、「へんろみち保存協力会」による遍路道の整備のおかげであり、長時間一緒に同行してくれた同僚のJBOY氏に感謝いたします。

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 2

6月 10日 木曜日

 (2)仏木寺から歯長峠へ

 牛馬の守り本尊として知られる四国八十八ケ所霊場第42番札所の仏木寺。その山門近くには、中務茂兵衛が明治21(1888)年に、100度目の遍路記念に建てた道標があります。この道標は別の場所から移転されたもので手印が削られています。ただし、現在は道標に看板等をくくりつけているため文字が読みづらい。長年、門前で美味しい手作りアイスクリーン作りをされているおじさんに、これまで印象にのこったお遍路についての思い出を聞かせていただきました。実際に「リヤカーで自分の棺桶を運びながら四国遍路をしているお遍路さん」や、「馬に乗って札所を廻っているお遍路さん」もいたそうです。歯長峠道への順路も丁寧に教えていただきました。

 仏木寺を出て、これから越える歯長峠の山なみを見ながら、県道宇和三間線を北進します。へんろみち保存協力会作成による赤い矢印にそって左折、西谷吉田線に入ります。道端には「お遍路道につき徐行ご協力お願いします」と書かれた大きな真新しい看板がありました。近年の歩き遍路ブームを反映しているようにも思いました。しばし道なりに進むと歯長峠の山道入り口に到着。明治36(1903)年に兵庫磯の町(現神戸市)の人が建てた道標がたっています。

仏木寺前から歯長峠を臨む

歯長峠の登り口(三間町側)

 ここからどんどん山道を登っていきます。途中、石畳の山道となります。木立の間からは遠くに宇和海が見えます。やがて県道に合流。ここからはしばし車道を歩くと、右手に標識「四国の道休憩所・歯長峠遍路道 きついのは最初だけ 峠まで20分」があります。階段をのぼると四国の道休憩所があります。ここで昼食をとりました。適度に腹ごしらえして、いよいよ歯長峠を目指して出発。「これより200メートル急登坂」の標識があり、その先はまさしく鎖が張られた急坂の連続。掛け声を入れながら頑張って登りきりました。

 その後は緩やかな尾根道が続きます。付近は岩石が露出し、小石がたくさん散乱しています。道中には、お遍路さん?などの通行人が積み上げたものなのか、謎の石積み塔が数箇所ありました。緑の樹木に覆われたうす暗い山中の道をずっと歩いて行くと、やがて急に視界が開け、広場に出ます。ここが歯長峠の頂です。コンクリート壁のお堂「送迎庵見送大師」がありました。堂内には「文化五(1808年)戊辰 三月廿一日 四国八十八ケ所納経塚 立間村」と刻まれた弘法大師石仏像など石仏群が安置されています。

鎖がはられた歯長峠の急登坂

歯長峠の頂にある送迎庵見送大師