Archive for the ‘資料保存日記’ Category

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情66―失われた番外霊場「龍の岩屋」②―

2025年4月1日

 ブログ64で四国霊場第21番太龍寺(徳島県阿南市)の近くにあった「龍の岩屋・窟(いわや)」について紹介しましたが、今回はその続編です。

 江戸時代以来、遍路をはじめ多くの旅人が訪れてきた龍の岩屋。歴史的に見て、阿波(徳島)の名所旧跡や番外霊場として位置づけられますが、大正時代から昭和時代(戦前)にかけて発行された四国遍路道中図には記載されていません(写真①)。もちろん四国には数多の名所旧跡や弘法大師ゆかりの霊場があるため、それらすべてを一枚の絵地図に網羅することは到底できません。しかし、四国遍路道中図は浅野本店版、光栄堂版、江口商店版など、徳島県内の仏具・巡拝用品店等が広告主兼発行者となっているものが多いにもかかわらず、郷土の霊場・龍の岩屋がまったく紹介されていないのは疑問が残ります。

写真① 太龍寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 なぜ四国遍路道中図の諸版に龍の岩屋が記載されていないのか。この点について詳細はわかりませんが、想像をたくましくすると、四国遍路道中図作成・発行にあたり、①編集紙面のレイアウト上の制約で割愛した、②先行する道中図の内容を踏襲した、③四国巡拝のルートから逸脱し往来に時間を要するため、④四国巡拝のルートに「灌頂の滝」を組み入れているため、⑤山道や洞内の崩落などで参拝が困難、⑥龍の岩屋の管理所有者との利権問題、等々の事情を思い浮かべます。

 反対に、龍の岩屋が記載されている四国遍路絵図類はどのようなものがあるのでしょうか。

 ブログ64で戦前の四国遍路ガイドブックである昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「番外二十一番奥の院 太龍窟」と紹介され、本書挿入の小さな略図「四国八十八箇所霊場行程図」にも記載されていることを指摘しましたが、筆者は新たに大正3年(1914)頃に発行されたと見られる一枚刷りの四国遍路絵図(縦55.0㎝×横39.4㎝)に龍の岩屋の記載を確認しました(写真②)。

写真② 四国遍路絵図(大正3年、個人蔵)

 本図は中央部に弘法大師御影を配して四国八十八箇所の由来を記し、四国の形は大きくデフォルメされ、上部(西・伊予)、下部(東・阿波)、左部(南・土佐)、右部(北・讃岐)となる構図で、四国八十八箇所霊場の札所間の距離(里丁)などが示されています。一見すると、江戸時代の一枚刷りの四国徧禮(へんろ)絵図と類似する内容となっていますが、近代の名所、市街地、鉄道、航路など新しい情報も簡略ながら記載されています。絵図周縁部には「四国かけくじ商 合同販売」「大正三年四月改正」「松山大街道谷口支店□印」「定価金七銭」と記されています。本図の発行と四国かけくじ商による合同販売との関係は不明です。

 注目したいのは、龍の岩屋への参詣が推奨され、四国遍路の巡拝コースに組み込まれている点です。絵図を詳しく見ると、「廿一太竜寺」(第21番太龍寺)と「廿二びょふ等寺」(第22番平等寺)との間に丸印で「龍ノ岩や」と大きく表示し、「必ズ岩やへ行ベシ」と注記があります(写真③)。そして、太龍寺と龍の岩屋を結ぶ「く」の字状の線は「いわや道」、「カモ谷」は加茂谷、「一宿あん」(一宿寺)と太龍寺道を結ぶ線は「かも道」と推察されます。 

写真③ 龍の岩屋周辺(四国遍路絵図、大正3年、個人蔵)

 ちなみに太龍寺周辺の遍路道(鶴林寺道・かも道・太龍寺道・いわや道・平等寺道)及び境内(鶴林寺・太龍寺・平等寺)は国史跡「阿波遍路道」に指定されています。

 龍の岩屋へ巡拝することを推奨する大正期の四国遍路絵図の存在は、龍の岩屋が必見の価値ある名所旧跡・霊場であったことを証明しています。このように近代の四国遍路絵図類において、龍の岩屋の記載の有無が確認できます。作成者の主眼や編集方針にもとづくものと解されます。

 龍の岩屋は江戸時代以来、四国遍路で知る人ぞ知る隠れた霊窟でしたが、近代の案内記に「番外二十一番奥の院 太龍窟」として紹介されて一般に広まっていく矢先、戦後に石灰岩の採掘のため消滅したという数奇な運命をたどります。近代における四国八十八箇所の番外霊場や奥の院の形成過程と四国巡拝のルートを考える上で、龍の岩屋の事例は注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情59―宇和海と四国遍路② 遍路が利用した宇和海の航路―

2025年2月28日

 現在、愛媛県歴史文化博物館では宇和海の歴史・民俗とその魅力を紹介する特別展「宇和海のくらしと景観」を開催中です(4月6日迄)。

 今回は四国遍路と宇和海について、遍路が利用した海上交通に注目して紹介します。

 まずは昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で宇和海を確認しましょう(写真①)。

写真① 宇和海周辺(昭和13年の四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 地図上の左端の中央部に、九州からの上陸港となる八幡浜があります。上陸地を示す碇のマークが標示され、「八幡浜 豊後日向以南は八幡浜上陸便利ナリ」とあります。宇和海は愛媛県西部、佐田岬半島の南、愛媛県と大分県の間にある豊後水道の愛媛県側を「宇和海」と呼んでいます。佐田岬半島の先端部は地図上で省略されていますが、八幡浜から南の宇和島や高知県の宿毛湾、蹉跎(足摺)岬にかけて、狭い湾が複雑に入り組んだリアス海岸が描かれています。

 陸上交通が整備されている現在とは異なり、この入り組んだ湾に面している宇和海沿岸では、昭和30年代頃まで、港から港を伝っていく航路が地域の主要な交通手段となっていました。このため、お遍路さんも、このエリアの札所を巡る場合は航路を使うことも多かったのです。

 四国遍路の巡拝ルートで宇和海の航路が利用されたのは、第39番延光寺(高知県宿毛市)から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)の区間(観自在寺道)です。高知県宿毛市の宿毛港・片島港~愛媛県愛南町の深浦港・貝塚港を利用します。もう一つは第40番観自在寺から第41番龍光寺(宇和島市三間町)の区間(龍光寺道)です。深浦港・貝塚港~宇和島港を利用します。

 四国遍路道中図にはそれらの航路は地図上に記載されていませんが、陸路の場合、前者は、予土予土国境の急峻な松尾坂(松尾峠)、後者は柏坂を越えるルートとなります(写真①)。海路を利用すると難所の峠越えをカットできるという利点がありました。

 実際の遍路記から当時の様子を確認してみましょう。

 高群逸枝が大正7年(1918)に逆打ちで四国遍路を行った際の遍路記『娘巡礼記』によると、観自在寺の通夜堂で一泊した後、午前10時に伊予の深浦から「大和丸」という汽船に乗って土佐の宿毛に上陸しています。

 「室内のムサ苦しい事、ほとほと耐まらない。それに小さな蒸気であるから部屋は上と下との二段しかない。しかも乗客ははみ出す位、つまっている」と記され、宇和海を航行した小さな蒸気船「大和丸」のぎゅうぎゅう詰めとなるほどの盛況ぶりがうかがわれます。

 次に昭和18年(1943)の宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』を確認すると、順打ちの宮尾の場合は、土佐の片島から伊予の深浦まで航路を利用しています。

 「海路の運賃は『普通は五十銭だが、御遍路だから四十銭に割引です』と札売が云うて、桃色の札をよこす『御遍路殿二割引四十銭、上陸地深浦港、乗船地宿毛湾、月日、大和丸』と印刷してある。」船へ入ると、船員が『お遍路さん晩に乗りませんかナ、宇和島へ行きますヨ』といふ。こちらは晩までには宇和島へ入る予定である(後略)」

 高群と同じく宮尾も「大和丸」に乗船しています。船員に夕方の宇和島行きが奨められています。船賃が遍路の場合は2割引です。今日でも宿泊代の割引など遍路に対してさまざまなお接待が施されていますが、当時は船賃も対象になっています。

 戦前の四国遍路ガイドブックである、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(此村欽英堂)には、観自在寺の案内文に続いて宇和島に行く方法について「汽船は深浦と貝塚の二ケ所より出船がある、時間は寺に問い合わされよ。毎年二月より九月までは四国巡拝者に限り割引して呉る」と記載されています。札所(観自在寺)で宇和島行の船の運行時間を案内していたことや、遍路の乗船運賃の割引は期間限定であったことがわかります。

 ここで宇和島を中心とした戦前の宇和海を舞台にした航路の状況について見てみましょう。

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』(昭和60年)によると、明治29年(1896)に御荘町平山港を根拠地に営業を始めた南予運輸会社の御荘丸を皮切りに、同39年(1906)に大阪商船の義州丸が深浦に入港、同40年(1907)に宇和島運輸の宇和島丸が大阪~宿毛間を就航、大正時代に入ると、大型蒸気汽船が沿岸主要港に寄港する阪神方面への内海航路を開設したのに刺激され、福山磯太郎が経営した大和丸、間口七太郎・藤七の大栄丸などの小型船による沿岸貨客便の就航も始まります。昭和時代になると、青木運輸の繁久丸、盛運汽船の天長丸・天光丸なども就航し、宇和海で多くの船が運航し激烈な競争を繰り広げていました。

 その中でも遍路記に登場する「大和丸」は大正3年(1914)頃に福山磯太郎が深浦港を始発に湾内の各港を巡航し、新造船をあいついで就航させ、寄港回数を増加するなど優位に立っていましたが、昭和8年(1933)に第三大和丸による由良半島沖の遭難事故や経営者の交代などがあり、第二次大戦中に関西汽船に併合されました。

 昭和9年(1934)に刊行された四国霊場の写真集『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)には、汽船入港で賑わう深浦港の写真「土佐片島港より伊予深浦港へ渡船の実況」(写真②)が掲載されています(本ブログ2「四国の上陸港」、14「海の遍路道」参照)。車を港に降ろしている左側の大きい汽船は宇和島丸ですが、右側の小さい汽船の名前はわかりませんが、「大和丸」のようなこうした小型船が宇和海沿岸を巡航したと見られます。

写真② 入港で賑わう深浦港「土佐片島港より伊予深浦港へ渡船の実況」(昭和9年『四国霊蹟写真大観』、当館蔵)

 宇和海の航路は、遍路に接待の一種として乗船割引があったように四国遍路の巡拝はもちろんのこと、地域の人々のくらしを支え、戦後に陸上交通が発達するまで必要不可欠な海上交通でした。

 特別展「宇和海のくらしと景観」では宇和海を描いた絵図やそこに暮らす人々の生業を詳しく紹介しています。この機会に是非ご覧ください。

大型器台安定台の完成

2020年12月18日
北井門遺跡出土大型器台

 7月に、松山市北井門遺跡2次調査出土大型器台(県指定有形文化財)2点の安定台製作のための型取り作業が当館で行われましたが、先日、完成、納品されましたので、ご報告します。

 この資料は県指定有形文化財になってから当館にて保管することになりました。今後、より良い状態で保管・展示するために、今回安定台(展示台)を製作することにしました。 関西地方の某社の工場にて製作された安定台はこのようなものです。

完成した安定台

 器台を載せると、このようになります。

安定台に載せた大型器台

 まだ、この安定台を使用して当館で公開する予定は立っていませんが、県外で初公開されることになるかもしれません。それまでしばらくお待ちください。

大型器台安定台の製作

2020年7月24日

先日、数日間をかけて、松山市北井門遺跡2次調査出土大型器台(県指定有形文化財)2点の安定台製作のための型取り作業が当館で行われましたので、その過程をご紹介します。

大型器台
北井門遺跡出土大型器台

この資料は県指定有形文化財になってから当館にて保管することになりました。今後、より良い状態で保管・展示するために、今回安定台(展示台)を製作することにしました。

作業風景-1
作業風景-1

まず、上下を逆にすることから始め、慎重に大型器台を上下、逆さにして、木枠に固定しました。(実際、大型器台が逆にしても自立するとは思っていませんでしたが、無事に逆立ち状態になりました。)この状態で、型取り作業のために、金属の箔を丁寧に貼り付けられました。この作業は、土器の表面の安全に保つために行われるものです。

作業風景-2
作業風景-2

翌日は、この面にシリコン樹脂を入れるためのコーティング作業が行われました。樹脂がこぼれないようにしっかりとコーティングがされていきます。そして、シリコン樹脂の塗布作業が行われました。

作業風景-4
作業風景-4
作業風景-5
作業風景-5
作業風景-6
作業風景-6

数日後の作業は、シリコン樹脂の上に石膏を流し込み、型を取る作業です。シリコン樹脂に金属製の箔をまた、貼り付ける細かい作業から始まりです。そして、その上に石膏がこぼれないように粘土で枠が作られました。さて、これからが今回のメインの作業で石膏の流し込みです。特別な方法で石膏の強度を維持しながら、石膏が入れられていきます。

そして、石膏を外す瞬間が来ました。この職人さんのお話によると、石膏を外す瞬間が最もハラハラし、前の晩は眠れないこともあるとのことでした。そして、無事、石膏の型が外れ、シリコン樹脂に付いた金属製箔も丁寧に除去されます。そして、シリコン樹脂も外され、型取り作業は無事終了しました。

作業風景-7
作業風景-7
作業風景-8
作業風景-8

しかし、ここから同僚学芸員と私の緊張の作業が始まりました。逆さまになった大型器台を元の状態に戻す作業です。緊張した空気が流れる中、作業は順調に進み、大型器台は収蔵庫内の元の場所に収蔵することができました。また、型取りされたシリコン樹脂と石膏は、工場に運ばれていきました。

作業風景-9
倒立した大型器台
作業風景-10
元の状態の大型器台
作業風景-11
完成した型

さて、この型取りを行った安定台は工場での作業の後、年内には完成予定です。どんな形の安定台が出来上がってくるでしょうか?乞うご期待!

水損資料レスキューの手引き-被災した古文書・冊子・写真等の取り扱い-

2020年7月10日

いまからちょうど2年前。愛媛県歴史文化博物館では、平成30年7月の西日本豪雨の発生直後から、洪水によって水損した歴史資料等の保全、対処方法に関するご相談、お問い合わせが数多く寄せられました。そして愛媛資料ネット(2001年芸予地震を機に県内の歴史資料等の保全のため結成されたネットワーク)、県、市町教育委員会、博物館等と協力しながら資料保全の活動を進め、その作業は現在も継続しています。

この西日本豪雨後の愛媛県歴史文化博物館の活動については、甲斐未希子学芸員が「平成30年7月豪雨における水損資料レスキュー-愛媛県歴史文化博物館での活動について-」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第24号、平成31年3月発行)を執筆、紹介しています。

この『研究紀要』での報告の中に「水損資料レスキューの手引き」が掲載されています(48~61頁)。古文書、冊子、アルバム、写真など資料が被災した場合の初動対応や、使用する道具、その後の処置方法などがまとめられていますので、ここに再掲します。(jpegファイル・14点)

※この「水損資料レスキューの手引き」に関するお問い合わせ先は次のとおりです。

愛媛県歴史文化博物館 学芸課(担当:大本)0894-62-6222

水損資料レスキューワークショップ

2018年6月27日

6月24日の体験講座「災害にあった文化財―水損資料―を救う」で
水損資料レスキューのワークショップを行いました。

災害にあった文化財について話したあと、
資料の水洗いと乾燥の方法を体験していただきました。
今回使用した資料は、襖の裏貼り文書、写真、冊子です。

資料の水洗いは「フローティング・ボード法」という方法で行います。
これは、水に浮かべた発泡スチロールの板に不織布で挟んだ資料を乗せて洗う方法です。
一枚物の紙資料なら効率よく洗うことができます。

乾燥は「エア・ストリーム法」を用いました。
この方法は、段ボールと吸水紙で資料の水分を抜き、扇風機の風で乾燥させる方法です。
フラットな状態でプレスしながら乾燥させるので、資料に変な乾燥シワができるのを防ぎ、一度に大量の資料を処理できるのが特徴です。

参加者方に好評だったのが、写真の洗浄でした。
写真は古文書などよりも、参加者の方に身近な資料だったので、レスキューの実感があったようです。
今回は学芸員が仕込んだ、水損風の汚れた写真を洗っていただきました。

写真はほとんどの方が所有しており、大切な思い出の品です。
被災地で写真をレスキューするということは、被災された方の心の支えにも繋がることだと思います。

水洗いするとどうしても多少の色落ちはありますが、きれいになります。
泥だらけになってしまっても、救えるものがたくさんある!
ということを、多くの方に知っていただければと思います。

西予市三瓶の野鍛冶資料

2013年6月28日

先日、れきはくボランティア・スタッフの方とともに、館蔵資料の西予市三瓶の野鍛冶資料の整理を行いました。

野鍛冶とは、農具、漁具、包丁などの地域生活に密接な鉄製道具を手がける鍛冶屋のことをいいます。かつて「村の鍛冶屋」として、地域生活を支えていた野鍛冶でしたが、農耕具の機械化、大手メーカーによる大量生産時代の到来によって、鍬(くわ)、鋤(すき)などの農具の生産・修理の需要が急減し、全国的に各地の野鍛冶は相次いで廃業していきました。

今回、整理した西予市三瓶の野鍛冶資料は、旧三瓶町朝立で平成10年頃まで操業されていた石本鍛造で作られた、愛媛県内外の鍬先の雛形(見本)です。

愛媛県内外の鍬先の雛形

石本鍛造の創業は明治期とされ、昔は大八車や馬車の車輪(鉄輪)を専門に作る車鍛冶でした。戦後、車の修理や新造の注文が減ったため、鍬、鋤などの農具を手がける野鍛冶に転身。昭和42年頃、甘藷、麦の栽培が主であった畑作が蜜柑栽培へと移行するにつれ、鍬の新調や修理の仕事が減り、昭和45年頃から、今治の金物問屋の依頼で、愛媛県内外の鍬先を専門に作りました。

鍬先とは、鍬の頭部に取り付ける鉄製の部分のことです。鍬先は地域によって形や呼称が千差万別です。それは土壌、作物の品種、使用者などの違いから、様々な種類の鍬先が作られました。形態を大別すると、三つ鍬、四つ鍬などの鍬先が又状に分かれている「又もの」と、鍬先が平べったい「平もの」があります。

今回、整理した資料は、実際に各地の鍬先を製作する際の見本(雛形)として作られ、大切に保管されてきたものです。

愛媛県内で使用されていたものとして、地元(三瓶)窓鍬、温泉郡四ツ鍬、周桑郡三ツ鍬、周桑平鍬、周桑ビワ鍬、周桑トギリ鍬、越智ごぼう掘り、越智型窓付き草削り、南予型おたふく鍬、柿木皮はぎ、玉ねぎ植がんぎ切り、八本レーキ、ナタ鍬などがありました。さらに、県外の鍬先には、香川県高松三ツ鍬、徳島県鳴門四ツ鍬、島根県平鍬、島根型化肩上げ四ツ鍬、広島島型三ツ鍬、広島ホソ口虫掘り、山口県山口型三ツ鍬、新潟県ヒツ大三ツ鍬などがありました。県内のみならず、四国地方や中国地方、遠い新潟県の鍬先までもが、かつて西予市三瓶町で作られていた事実には驚愕します。

越智型窓付き草削り(左)と南予型おたふく鍬(右)

新潟県ヒツ大三ツ鍬

実際、資料整理にあたっては、鍬先の使用痕跡や現状を損なわないように注意しながら、鍬先の表面についた埃や錆を布やブラシで軽く払い落とし、クリーニングが終わったものから、資料名称を記した整理用のラベルを括り付けました。鍬先の中には、商品銘や鍛造所名が刻まれているものもありました。

クリーニング作業

クリーニング、ラベリングが終わった資料

整理にあたった参加者はみんな、鍬先の種類の多さ、形状や呼称の違いに驚き、その意味や使い方などについていろいろ想像しながら、楽しく作業を終えました。西予市三瓶町の石本鍛造で作られた鍬先の製作見本(雛形)は、なくなりつつある野鍛冶資料として、また、農具研究資料としても貴重といえます。

駕籠に乗ってみませんか?

2009年8月28日

 駕籠の修復についてはこれが最終回。
 それでは駕籠の全貌をご紹介しましょう。
駕籠全体

駕籠の内部はこんな感じ。(前方部分)

 

手前の板を持ち上げると・・・。

  
 
折りたたみ式の机が出現します。

 

そして、後方には背もたれと肘当てを完備。
 背もたれと肘当て
 駕籠の大きさは、高さ90cm、奥行110cm、幅68cmほど。駕籠の内寸となると、高さ81cm、奥行95cmほどとなり、現代の大人では体格が良すぎてとっても窮屈です。
 この駕籠は、側面に茣蓙(ござ)が使用されているところから、茣蓙巻駕籠(ござまきかご)と呼ばれるタイプのもので、庄屋や医者など村の中で比較的裕福な人たちが使用したものと考えられます。庶民の旅のアイテムではありませんが、江戸時代の乗り物「駕籠」の大きさを手軽に実感していただく資料として活用していきたいと思います。9月15日からはじまる特別展「広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展」にて初公開しますので、ぜひ、歴博で駕籠の大きさを体感してみてくださいね!

駕籠の修復(その2)

2009年8月23日

 駕籠の修復について紹介していますが、作業はどんな感じだったのか気になるところですね。作業の様子は、ちゃんと業者さんが写真を撮っておいていただいたので、その写真を交えながらご紹介します。
 屋根の剥がれている部分は、部分的な補修を考えていましたが、上手くいかないとの連絡を受け、相談の上、思い切って裏貼りを剥がして全面的に張り直しました。

屋根部分

 剥がされた屋根の部分。

 屋根の裏貼りに使われていた文書はちゃんと取っておいてもらいます。
裏貼りの文書

 黒い屋根は、紙に漆を塗っていたようです。もちろん、元通りに修復することが望ましいのですが、今回はあくまで体験用の駕籠にする目的での修復だったので、経費を抑えるため黒いマット紙を貼って再現することにしました。

 残っている引き戸を参考にして、紛失していた引き戸を新たに製作。
製作した引き戸 

 外側についていた御簾や油紙の日よけは、材料調達が難しいので当初から製作を断念しましたが、持って帰っていただいていた木の桟と思われる木片をパズルのように組み合わせると、窓の部分に取り付ける雪見障子だったことが判明。予定に入っていなかったのに、足りない桟を製作してすべての窓に取り付けていただきました。
20090823_603453 

 破れていた油紙の日よけは、裏から補強してます。
20090823_603454

  このほか、人が乗り込むことを想定しているので弱っている床板を補強し、内装も貼り直しを行いました。
 
 修復後の駕籠の全貌は、次回、大公開します!!

駕籠の修復(その1)

2009年8月20日

 以前、ブログで紹介していた駕籠ですが、ボランティアさんによる清掃の後どうなったのか気になっている方もいらっしゃるかも!?(知らないよとおっしゃる方は3月24日と5月20日の記事をご参照くださいね)

 開幕までのカウントダウンがはじまっている特別展「広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展」(9月15日~11月3日)に展示するため、密かに破損箇所の修復を行っていました。

 今回の修復の目的は、ズバリ「人が乗り込める体験用の駕籠」にすること!!
 まず、残っている部品などから推測できる部分の復元補修を行うこと個所を業者さんと打ち合わせしました。
 おおまかな補修箇所は、紛失している引き戸の製作、剥がれて裏貼りがむきだしになっている屋根や吊り棒を取り付ける金具、剥がれた内装部分などの補修になります。

屋根の部分

駕籠の内部

清掃作業の時に除けておいた駕籠の中に散らばっていた木の桟(さん)と思われる木片は、補修の際に何かに使えるかもしれないので業者さんにお渡ししました。
清掃前の駕籠の内部

この駕籠の修復作業の様子は、次回へつづきます・・・。