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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉕―高浜港と瀬戸内海航路―

2024年4月5日

 前回に引き続き、近代以降に愛媛・松山の海の玄関口として発展した高浜港と瀬戸内海航路について紹介します。

 明治20年代に開港された高浜港は、瀬戸内海沿岸の航路の重要な寄港地として発展しました。特に四国遍路では、近隣の島しょ部や広島・山口方面、北九州、阪神方面からの遍路の上陸港としても利用されました。

 実際に高浜港を発着する瀬戸内海航路がどのくらいあったのか、見てみましょう。

 日本交通公社が昭和25年(1950)に発行した『旅』の付録「瀬戸内海」(写真①、個人蔵)には、高浜港を寄港する以下の定期航路路線があったことがわかります。

写真① 昭和25年(1950) 日本交通公社『旅』付録「瀬戸内海」 個人蔵

 〇瀬戸内海汽船航路

・宇品―三津浜(芸予線)。1日2便。約4時間半。寄港地(宇品、吉浦、鍋、音戸、高浜、三津浜)

・呉―三津浜(呉三津線)。隔日1便。約7時間40分。寄港地(呉、鍋、音戸、津和地、元怒和、二神、吉木、宇和間、神浦、小浜、大浦、高浜、三津浜)

・津和地―三津浜(西中島線)。1日1便。約4時間。寄港地(津和地、元怒和、二神、上怒和、饒、吉木、宇和間、神浦、高浜、三津浜)

・大浦―三津浜(東中島線)。1日1便。約2時間半。寄港地(粟井、大浦、小浜、高浜、三津浜)

 〇石崎汽船

・三津浜―高浜―尾道線。隔日1便。約6時間。寄港地(尾道、宮浦、木之江、御手洗、高浜、三津浜)

 〇太陽運輸航路

・柳井―三津浜線。隔日1便。約6時間20分。寄港地(柳井、安下庄、外入、沖家尾、油宇、高浜、三津浜)

 〇関西汽船

・大坂―別府線。1日1便。寄港地(大阪、神戸、高松、今治、高浜、大分、別府)

 〇日本郵船航路

・阪神―高浜線。隔日1便。約16時間。寄港地(大阪、神戸、今治、高浜)

 〇東京船舶航路

・阪神―今治―高浜線。隔日1便。約16時間。寄港地(大阪、神戸、今治、高浜)

 中予地方では高浜港や三津浜港の他に北条港(阿賀―北条)、東予地方では今治港、波止浜港、三島港、新居浜港、西条港なども、四国に上陸する瀬戸内海航路の玄関口として利用されています。島々を結ぶ架橋が進展していない当時は、瀬戸内海の津々浦々に海上交通網がはりめぐらされていました。

 次に、瀬戸内海航路の人気コースの一つであった広島―松山間の船旅に関する資料を紹介します。

 現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」では、中島華鳳が大正3年(1914)に作成した「伊予国松山日記 厳島宝物日記 写生帳」(当館蔵)を紹介しています。作者の中島華鳳(1866~没年不詳)は円山派の画家で、富岡鉄斎に書を学び、特に花鳥・山水画を得意としました。その写生帳には日本三景の一つとして知られる厳島(安芸の宮島)、呉軍港、音戸の瀬戸など、瀬戸内海上から見た景色や、高浜港近くの景勝地四十島などが描かれています。

 華鳳が描いた「呉軍港」の風景画(写真②)は見開き3ページにわたって描かれたパノラマ図で、「呉軍港/十一月廿日朝□/此日曇天/但シ浪静/南ヨリ北ヲ望ム」と記されています。構図は呉港の入口に位置する小さな島である大麗女島(おおうるめじま)もしくは小麗女島(こうるめじま)の沖合(南)から呉湾(北)と、呉湾から吉浦、広島方面(西北)を臨んでいます。呉の中心部には「此所/呉市/ナルベシ/遠望」と記されています。呉湾には煙を上げる軍艦と見られる船舶などが描かれ、軍港の様子が伝わってきます。

写真② 大正3年(1914) 中島華鳳が描いた呉軍港(「伊予国松山日記 厳島宝物日記 写生帳」当館蔵)

 呉は明治22年(1889)に第二海軍区鎮守府が設置され、同36年(1903)年に呉海軍工廠が設立され、東洋一の軍港として発達しました。大麗女島には大正11年(1922)に海軍の地下燃料庫が建設され、太平洋戦争末期には兵器を製造する大麗女島工場がありました。小麗女島は大麗女島の隣に位置します。

 また、華鳳が描いた「音戸の瀬戸」(写真③)も見開き3ページにわたって描かれています。画中に「音戸ト云ふ所ヲ通テ/来松山/中央ニ/一本燈籠/有石作ル」「音戸ト云所/平清盛墳/猟師屋多し」「山上ニ畑有/畠見ヘタリ」とコメントがあります。両岸の間が狭い海峡の中央部には石燈籠が設置され、石垣で築かれた平清盛塚、海岸沿いに密集する漁師の家や漁船などが描かれ、大正期の音戸の瀬戸の様子がよくわかります。

写真③ 大正3年(1914) 中島華鳳が描いた音戸の瀬戸(「伊予国松山日記 厳島宝物日記 写生帳」当館蔵) 

 音戸の瀬戸は古くからの交通の要所で、永万元年(1165)に平清盛が日宋貿易の航路として、沈む夕日を扇で招いて1日で開削したという日招き伝説や、清盛が人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈め、難工事を完成した功績を称え、供養のために建立された清盛塚が残っています。昭和36年(1961)にループ状の音戸大橋、平成25年(2013)年に第二音戸大橋が架けられ、風光明媚な景勝地として瀬戸内の人気スポットです。

 大正期に華鳳が実際に利用した航路の詳細は不明ですが、おそらく広島(宇品港)を出港し、吉浦港を経由し、呉湾の小麗女島付近から、呉軍港や呉市街を遠望し、音戸の瀬戸を通り、高浜港から四国に上陸したものと推察されます。

 現在、広島―呉―松山を結ぶ旅客航路が瀬戸内海汽船と石崎汽船によって運行されています。先日実際にフェリーの船上から、華鳳が描いた呉軍港と音戸の瀬戸を眺めてみました(写真④⑤⑥)。音戸の瀬戸の景観は昔の面影を残しながらも大きく変貌していることがわかります。

写真④ 現在の呉港遠景 当館撮影
写真⑤ 現在の音戸の瀬戸 当館撮影
写真⑥ 現在の清盛塚 当館撮影

 当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」(4月7日迄)では、江戸時代から近代にかけての瀬戸内海に関する絵図類、紀行文、航路図、名所案内パンフレット、絵画など多数の貴重な資料を展示紹介しています。この機会にご覧ください。お見逃しなく。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉓―四国遍路の楽しみ・道後温泉―

2024年3月15日

 日本三古湯の一つといわれる道後温泉は、四国を代表する人気スポットとして知られています。四国霊場を巡拝する遍路にとっても、道中の休息や観光のため、道後温泉に入湯することは大きな楽しみでした。

 今回は道後温泉について、「四国遍路道中図」と案内記、そして絵葉書から紹介します。

 大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真①)には、地図中に「道後で滞在してゆるゆる入湯するがよろしい」と記載されています(写真②)。昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)には、第51番石手寺と第52番太山寺を結ぶ遍路道(順拝指道)上にひと際目立つように「道後温泉」と記され、温泉のマーク♨入りとなっています(写真③)。

写真① 大正6年(1917)「四国遍路道中図」(駸々堂版)当館蔵
写真② 道後温泉周辺(部分拡大)
写真③ 道後温泉周辺(部分拡大) 昭和13年(1938) 「四国遍路道中図」(渡部高太郎版) 当館蔵 

 ちなみに昭和15年(1940)の「四国遍路道中図」(徳島県坂東町小林商店版)など、昭和時代に四国各地で発行された「四国遍路道中図」には、道後温泉は他所の名所と同じように表記され、温泉マークはなく、地図上で強調されていません。渡部高太郎版で道後温泉が目立つように記載されているのは、広告主の渡部高太郎と発行・印刷所の関印刷所がともに愛媛にゆかりがあるため、郷土の宣伝を意図しているものと推察されます。

 次に、近代の四国遍路案内記で道後温泉がどのように紹介されているのか、見てみましょう。

 昭和6年(1931)の安田寛明著『四国遍路のすすめ』には、「四国の道中でも、最も楽しみとするのは道後の温泉です。ゆるゆる入湯して今までの長い旅の疲れを休めなさるよう、(中略)道後温泉に秤量台(計り台)があります。一度試しに体重を計って御覧なさい。亦出立前に縮んでおった度胸と道後温泉場まで来た度胸もついでに計って見るもよかろう。モウ道後まで来た度胸というものは、少しも心配なんか思わない大磐石となって居る筈です」と記されています。

 安田は道後温泉への入湯は四国路の最大の楽しみであるとしています。とてもユニークなのは、道後温泉の秤量台を例にして、遍路の度胸を測ることをすすめています。四国遍路で徳島の一番札所から順番に巡拝した場合、道後温泉に到着する頃には、すでに半分以上の札所をめぐってきたことになるため、四国遍路にも慣れて、しっかりと度胸がついていると述べています。

 また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、道後温泉の歴史を紹介した上、「三階建の振鷺閣の中には霊の湯、神の湯、養生湯があり、入浴料は神の湯を除き階下十銭、二階二十銭、三階四十銭、神の湯は階下四銭、二階十五銭です。階上には湯女を置き茶菓を供して居ります。外に入浴料三銭の鷺の湯や、又町の西部西湯の建物には砂湯入浴料十銭、西湯同二銭と別に松湯という無料の浴室もあります。泉質は何れもアルカリ性単純泉で、温度摂氏四六―四七度共同浴制で割引回数券を発行しております」と詳しく紹介されています。

 現在の道後温泉本館は木造三層楼で、明治27年(1894)に建立されました。現役の公衆浴場として平成6年(1994)、全国で初めて重要文化財に指定されています。

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』(昭和59年)によると、道後温泉は、昭和31年までは外湯としての特徴をもち、明治40年(1907)頃の温泉浴室は、霊の湯男女、神の湯一・二・三室、養生湯五・六室、松の湯男女と又新殿を合わせて10室でした。大正11年(1922)には、市街の西に西湯および砂湯(現在の椿の湯の敷地)が増設され、その後、大正13年(1924)に養生湯の改築、昭和2年(1927)に鷺の湯の開業、昭和10年(1935)に神の湯改築などを経て、霊の湯男女、養生湯男女、西湯男女、鷺の湯男女と又新殿を合わせて13室あったことがわかります。

 当時、道後温泉の土産として販売されていた絵葉書には、道後温泉の景観や湯治客で賑わう様子が見て取れます(写真④~⑩、個人蔵)。

写真④ 絵葉書「道後温泉霊之湯」
写真⑤ 絵葉書「伊予道後温泉場 神之湯」
写真⑥ 絵葉書「浴客の荷賑ふ養生湯の壮麗」
写真⑦ 絵葉書「伊予道後温泉男入浴場」
写真⑧ 絵葉書「霊湯に浸たる浴客、霊の湯の湯槽」
写真⑨ 絵葉書「伊予道後温泉楼上休憩所」
写真⑩ 絵葉書「伊予道後温泉砂湯」

 現在、当館で開催中の特別展「瀬戸内海国立公園指定90周年記念 瀬戸内海ツーリズム」では、江戸時代の道後温泉に関する絵図類、近代の紀行文、絵葉書、パンフレット、道後土産なども展示紹介しています。この機会にご覧ください。

共催展「空海と四国遍路」(~3月21日)

2023年2月17日

2月18日(土)から西条市の小松温芳図書館郷土資料室にて、「空海と四国遍路」展を開催します。

愛媛県歴史文化博物館では、新常設展として「和紙彫塑による弘法大師空海の世界 密●空と海―内海清美展」を展示しており、空海や四国遍路に関する特別展や講座など様々な活動を展開してきました。

また、四国4県で進められている四国遍路世界遺産登録への取り組みにも協力しており、四国遍路の魅力を発信し、一層の機運醸成を図るため、今回、西条市の小松温芳図書館・郷土資料室との共催で、「空海と四国遍路」展を開催することとなりました。

今回の展示では、弘法大師空海の生涯や、四国遍路の歴史や文化について、愛媛県歴史文化博物館が所蔵する資料で振り返るとともに、弘法大師空海の生涯を人形群で表現し高い芸術性で国際的評価を得ている和紙彫塑家・内海清美(うちうみきよはる)氏の作品「密●空と海」の映像で紹介するなど、多様な視点から空海と四国遍路の豊かな魅力を紹介します。


会期は、3月21日(祝)までとなっています。

【開催情報】

会名  共催展「空海と四国遍路」

会期  令和5年2月18日(土)~3月21日(祝)10:00~18:00

    ※休館日 2月20日、27日、28日、3月6日、13日、21日

会場  小松温芳図書館郷土資料室 西条市小松町新屋敷甲3007-1

主催  愛媛県歴史文化博物館  小松温芳図書館・郷土資料室

観覧料 無料

特別展「浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場」                             まもなく開幕!

2022年9月15日

資料を確認しながら展示する学芸員
異なるパネルの中心をあわせて展示

 特別展「浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場」の準備も佳境を迎えました。展示室では担当学芸員の指示のもと、各時代の資料を調査してきた学芸員が展示の真っ最中です。図録原稿を片手に、資料を並べる順番や開けるページなどを確認しながら慎重に並べていきます。資料には解説ラベルもあるため、資料とラベルが間違ってないか、一点一点慎重に作業を進めます。展示には専門業者の方にもお手伝いいただいています。学芸員が指示した高さにパネルの中心が一直線に並ぶよう、 水平器レーザーを用いながら効率的に作業を行っています。また、地震などに備えて資料が倒れないように紐で結ぶなど細かい作業もあります。

 本展では四国八十八箇所霊場第46番札所の浄瑠璃寺と、49番札所の浄土寺のご協力を得て、 絵画、工芸、古文書、古記録などの文化財を特別に公開します。さらに、各地に作られた写し霊場(地四国・新四国・島四国)を特集し、遍路文化の広がりを概観します。9月17日(土)にオープンです。ご来館の際は展示における工夫や危険防止にもご注目下さい。

 

特別展「浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場」に乞うご期待

2022年7月14日

当館では9月17日(土)から、特別展「浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場」を開催(11月27日迄)するため、その準備をおこなっています。

今回は一足先に特別展の見どころをちょっぴり紹介します。

みなさんは松山市にある浄土寺と浄瑠璃寺を知ってますか?  訪れたことがありますか?

どちらも四国八十八箇所霊場の寺院で、浄瑠璃寺は第46番、浄土寺は第49番の札所です。

浄土寺は伊予鉄久米駅近く、久米北部エリア(鷹子町)にあります。諸国を遊行した空也上人が逗留したと伝えられ、空也上人像(重要文化財)が安置され、空也上人ゆかりの寺として知られています。

一方、浄瑠璃寺は松山市と久万高原町との境にある三坂峠を下った坂本エリア(浄瑠璃町)にあります。四国遍路で松山地方における最初の札所です。緑に包まれ、弁天池の蓮の花も人気のスポットとして知られています。


実は、近年、四国へんろ世界文化遺産推進事業として、愛媛県教育委員会によって、浄土寺と浄瑠璃寺の詳細な文化財調査が行われ、令和3年に両寺の調査報告書が刊行されました。

博物館では、浄土寺、浄瑠璃寺の最新の調査成果を、実物資料を展示してわかりやすく紹介します。浄土寺、浄瑠璃寺様のご協力により、秘蔵されている絵画、工芸、古文書・古記録など特別に公開します。ほとんどの資料が今回初公開となる大変貴重な展覧会です。

☆☆☆おもな見どころ☆☆☆

【浄土寺】

●中近世の巡礼者による本堂厨子(室町時代)への落書を赤外線撮影して再確認。何が記されているのか確認します!

●空也上人が描かれた室町時代の絵画「松尾明神空也上人対面図」。諸国を行脚した空也上人の肖像は必見です!

●四国遍路関係資料(へんろ絵図、案内記、古写真など)が充実!

【浄瑠璃寺】

●発掘調査によって、江戸時代の浄瑠璃寺の境域を示す土塀基礎が発見!

●浄瑠璃寺の縁起を記した江戸時代前期の薬師堂再興の棟札は必見!

●石手川に立花橋をかけた第11代住職尭音が使用したと伝えられる鉄鉢

その他、四国遍路が盛んとなると、地方で八十八箇所霊場をまねて作られた写し霊場についても特集します。本展は「えひめ南予きずな博」の関連イベントでもあり、南予地方の写し霊場も紹介します。

見どころいっぱいの次回の特別展「浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場」。乞うご期待。語呂合わせにあやかり、札所番号「46」「49」で、「よ・ろ・し・く」お願いします。

『えひめにいてほしい!コビト』第三弾 結果発表

2022年6月4日

『えひめにいてほしい!コビト』大募集!ですが、こびと研究家・なばたとしたかさんと歴博こびと研究室が選定した第三弾の優秀作品が発表されました。下記からご確認ください。

結果発表

3弾までの合計で1374作品の応募がありました。個性的なコビトの数々。どれも見応えがありました。

また、作品を送っていただいたお母様の手紙に、お絵かきが苦手で描きたがらなかった子どもが、こびとづかん展を観覧してから、こびとを描くことにすっかりハマリましたとありました。うれしいお手紙、ありがとうございました。担当者冥利に尽きます。

こびとづかん展は、6月5日(日)で閉幕しますが、 『えひめにいてほしい!コビト』 にご応募いただいた作品は、優秀作品とともに、博物館のエントランスホールに 6月30日(木)まで展示しています。ぜひご覧ください。

なお、6月21日(火)から23日(木)はくん蒸作業のため、臨時休館しますので、御来館の際には休館日にお気をつけください。

『えひめにいてほしい!コビト』第二弾 結果発表

2022年5月27日

『えひめにいてほしい!コビト』大募集!ですが、こびと研究家・なばたとしたかさんと歴博こびと研究室が選定した第二弾の優秀作品が発表されました。下記からご確認ください。

結果発表

愛媛に生息するユニークなコビトが続々発見されています。第三弾の募集は今日まで。優秀作品の発表まで今しばらくお待ちください。

『えひめにいてほしい!コビト』第一弾 結果発表

2022年5月22日

特別展「なばたとしたか こびとづかんの世界展」の関連企画として行われている『えひめにいてほしい!コビト』大募集!ですが、こびと研究家・なばたとしたかさんと歴博こびと研究室が選定した第一弾の優秀作品が発表されました。下記からご確認ください。

結果発表

第二弾は現在、審査中。第三弾は 5月27日(金)必着 でまだ募集しています。まだ間に合います。皆様のユニークな作品、お待ちしております。

特別展「古代文学と伊予国」 軽太子と軽大郎女の悲恋

2022年2月13日
『古事記』下巻(愛媛県立図書館蔵)
左から三行目に軽太子が「伊余湯」に流されたと記される。

現在、開催中の特別展「古代文学と伊予国」では、県名「愛媛」の「愛」にちなんで、古代文学に見る様々な愛のカタチを紹介するコーナーを設けています。

愛媛県(伊予国)に関する「愛」のストーリーといえば、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)の悲恋がよく知られていますので、展示室の導入部分に、関連資料を展示しています。

展示しているのは『古事記』下巻。允恭(いんぎょう)天皇条に、同じ母の兄妹で愛し合った皇子・軽太子と皇女・軽大郎女が、皇位継承の争いもあり、軽太子が「伊余湯」に流され、後を追ってきた軽大郎女とともに亡くなったことが記されています。

この軽太子と、同母妹の軽大郎女との許されない恋愛は、古代でも有名な悲恋物語でした。『古事記』では12首もの歌謡が記されています。

『古事記』の意訳をすると以下のようになります。

父の允恭天皇が崩御し、皇位継承が決まっていた皇太子の軽太子が、妹の軽大郎女に恋をして、密通し、歌を詠んだ。

  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下どひに   

  わがとぶ妹を 下泣きに わが泣く妻を こぞこそは 安く肌触れ

 【意味】山田を作ると、山が高いので地中に配水管を走らせる。

    そのようにこっそりと妻問いをし、ひそかに私が恋い泣く妻を、

    今夜こそ安心して肌に触れたことよ。

当時、異母兄妹の恋愛は問題とされなかったが、同母の兄妹の恋愛はタブーとされていた。二人の恋愛を知った者たちは、弟の穴穂皇子(後の安康天皇)側に集まり、軽太子は大臣の家に逃げ込むも、捕えられる。そして「伊余湯」(伊予国の温泉)に流罪となった。

そして、妹の軽大郎女は兄・軽太子を慕ってあとを追って歌った。

  君がゆき 日長くなりぬ やまたづの 迎へを行かむ 

  待つには待たじ

  【意味】あなたが旅立って日がたちました。私は迎えに行きます。

    これ以上待つことはできません。

こうして伊予国(愛媛県)で再び一緒になった二人は、死出の旅を選んだのであった。

なお、この軽太子・軽大郎女の悲恋については、2月23日(祝)13:30~15:00

に開催予定の歴史文化講座「古代文学と伊予国」でも取り上げる予定です。

本日開幕しました。特別展「古代文学と伊予国」

2022年2月11日

特別展「古代文学と伊予国」開幕しました。資料総点数212点、古典籍約120点を4月7日まで公開します。

最初の展示資料は『古事記』上巻。イザナギノミコトとイザナミノミコトによる国生み神話です。伊予之二名嶋(四国のこと)を生み、この島は、身(からだ)は一つであるが、面(顔)は四つあると記されています。そして伊予国を愛比売、讃岐国を飯依比古、粟(阿波)国を大宜都比売、土佐国を建依別と呼ぶと書かれています。現在の愛媛県の県名の由来となった記事です。この愛媛の「愛」を出発点に、今回の特別展では、恋愛、家族愛などの様々な愛のカタチを紹介しています。

また、 特別展「古代文学と伊予国」の関連書籍として、本日より、伊井春樹(当館名誉館長)著・愛媛県歴史文化博物館編『愛媛の文学資料』(四六版、320頁)を販売しています。愛媛県に継承された『古今和歌集』、『伊勢物語』、『源氏物語』などの古典籍を約120項目にわけて、解説しています。価格は1500円(税込)。販売は博物館ミュージアムショップにて。もしくは博物館0894-62-6222までお問合せください。1冊送料310円となっています。