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佳姫の婚礼12-淑女と記された佳姫-

4月 5日 火曜日

 佳姫(よしひめ)は、婚礼後しばらくは江戸で暮らし、安政5(1858)年に伊達宗徳(むねえ)が家督相続、宇和島藩9代藩主となると、「御前様」と呼ばれるようになります。文久2(1862)年閏8月、文久の改革により参勤交代の制度が緩和されると、江戸から国許へと移り住むことになり、その翌年4月26日に宇和島に到着しています。宇和島藩の記録を見ると、佳姫の宇和島での様子としては、慶応元(1865)年4月30日に猶姫(宗城の正室)と一緒に家老神尾帯刀(たてわき)の別荘を訪れてタケノコ掘りをしたこと、9月9日に一宮神社の祭礼見物に外出したことなどがわかります。

 慶応2年にはイギリスの駐日公使パークスが乗船したイギリス軍艦が宇和島に来訪し、その時の様子を通訳官のアーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』に次のように記しています。

 隠居(伊達宗城)が立ち去ってから、この二人の君侯(宗城と宗徳)の妻子たちが艦にやってきた。彼女らは少しも私たちを恐れる気色がなく、ヨーロッパの淑女と同じくらいの心安さで、気持ちよく話をした。

 サトウが記した君侯の妻子たちの中に、佳姫もいたものと思われます。様々な教養を身につけている大名家の婦人は、西洋人サトウの眼にもレディそのものに映ったことでしょう。

佳姫の婚礼11-数々の嫁入道具-

4月 3日 日曜日

 宇和島藩9代藩主伊達宗徳(むねえ)と佳姫(よしひめ)との婚礼について追ってきましたが、秋田藩の記録からは、佳姫が宇和島藩に嫁入道具として持ち込んだ品の一端もうかがえます。安政3(1856)年7月よりとされる「佳姫様伊達様へ御入輿(にゅうよ)御召京都御注文申立控」を見ると、「御香御用」として銀葉や極上伽羅(きゃら)などの香木をはじめ、縮緬(ちりめん)の大夜着、綸子(りんず)や縮緬の振袖地などの多数の衣装が書き上げられています。香木や衣装などの多くが、伝統文化を体現する都市、京都に発注されていたことがわかります。その費用は金にして804両余り。1両5万円で換算すると、4000万円余りになります。

 また、この他にも、秋田藩の奥手代役が作成した安政3年10月の「佳姫様御引越御用立申立」という記録が遺されています。この記録には、様々な種類の笄(こうがい).かんざしなどの髪道具をはじめ、琴、義太夫三味線などの楽器類、袂入(たもといれ)や巾着(きんちゃく)、袱紗(ふくさ)などの小物類、眉(まゆ)はけ、眉白粉(まゆおしろい)、紅筆などの化粧道具などが記されています。こちらの費用は金で305両余り。現在の感覚でいうと1500万円余り。これらはおそらく以前記した5000両の支度金の中で準備されたものと考えられます。

 しかし、秋田藩の記録には、三棚をはじめとする婚礼調度をつくる経費を見出すことができません。佳姫が宇和島藩に持って入った婚礼調度は、花菱と幸菱を組み合わせた幾何学模様で埋め尽くし、要所に秋田藩の家紋月丸扇紋を散らした大変豪華なもので、この調度の製作により秋田藩の財政が傾いたという言い伝えもあります。このことについて、藤川裕子氏は縁組より以前に既にこれらの調度が準備されていたと推測していますが、先に記した婚礼時の秋田藩の経済状況を見ると、私もその理解でいいのではないかと思います。つまり、佳姫の婚礼調度は以前に準備されていたものが転用された可能性もあり、そのため財政状況の悪化した幕末の大名家の婚礼調度としては異例の豪華さであったとも考えることができます。佳姫の婚礼調度は、大名家の質量ともに最も充実した大名家の婚礼調度として、(財)宇和島伊達文化保存会に現在も伝わっています。

佳姫の婚礼10-盛大な婚礼-

3月 31日 木曜日

 佳姫(よしひめ)の駕籠は宇和島藩上屋敷の表御門から入り、次に御奥御門に進み、若年寄は作法通りに貝桶を渡す儀式を行い、その後両家家老により佳姫が乗る御輿の引き渡しの儀式が行われます。駕籠はそのまま祝いの間に入り、見えないように屏風をひきまわします。その後新郎である伊達宗徳(むねえ)が祝いの間に入り、駕籠に手をかけ佳姫(よしひめ)がはじめて姿を現します。

 付き添いの老女が佳姫を休息の間に案内し、佳姫は上の間に着します。続いて宗徳が入り佳姫のお守りを老女が宗徳方の老女に渡すと、宗徳はこれに会釈し、お守りを床に掛けて式が行われます。佳姫持参の宗徳の衣装が披露され、盃事が行われます。宗徳の方から贈られた佳姫のお色直しの衣装も披露され、佳姫は休息の間でお色直しをすると、お互い贈られた衣装で揃って祝いの間に入り、再び盃事を行います。そして、寅刻(午後4時)過ぎに式が終わり、宗徳と佳姫は奥に下がっています。

 五半時(午後8時)になり、伊達宗城(だてむねなり)が御表に出座、老若はじめたくさんの藩士が召され、盛大な酒宴が始まります。巳刻(午後10時)になり、新奥の用意ができたとの知らせで、宗徳が新奥に渡り御床盃の儀式が行われています。それからさに、九時(午前0時)に、宗城の御奥にて奥老をはじめとする奥女中、その他の御側の衆にお酒を賜り、謡に踊りにと宴会は続きます。大名家の婚礼がいかに大変であったのかが伝わってきます。

 御輿入れあとにも、12月21日の皆子餅を配ったり、翌年の婿と舅のそれぞれの訪問、幕府への婚姻届けの提出などがありますが、以下は細かい話しになるので省略します。

佳姫の婚礼9-華麗な婚礼行列-

3月 30日 水曜日

 いよいよ佳姫(よしひめ)が宇和島藩上屋敷に移る日、安政3(1856)年12月16日がやってきます。この日は貝桶を渡す儀礼をはじめいろいろな儀礼がありますが、宇和島藩8代藩主伊達宗城(むねなり)の記録、「稿本藍山公記」から大まかな流れだけを整理しておきます。

 まず、佳姫は五つ(午前8時)に浅草の秋田藩江戸屋敷を出発、四つ(午前10時)過ぎには、宇和島藩の方にも佳姫が秋田藩江戸屋敷を出発したとの知らせが入ります。九つ時(正午)になり、ようやく佳姫が到着しています。佳姫の婚礼の行列ですが、最初は御当日御道具として、当日持ち込む婚礼調度の行列が続きます。この御当日御行列の最初の方、「御召替乗物」と記された駕籠の中に、天児(あまがつ)とあります。この天児は子どもの形をした人形で、大名家では子どもが生まれると、その子が災難にあわないように子どもの身代わりとしてつくられました。男の子は犬張り子とともに15才で産土神の神社に奉納されますが、女子の場合はこのように嫁入りの時にも輿にのせていったそうです。婚礼の際には天児にも膳を捧げたりもしました。

 天児の後には貝桶なども続いています。この貝桶は大名の婚礼にあたり貝桶渡しという儀礼に使われる重要な道具として当日持って入りました。その後にかなり長い佳姫の婚礼行列が続きます。最初に護衛の武士が続き、しばらくすると老女綾瀬の駕籠があります。この老女が佳姫様付き奥女中の中で一番格上の奥女中になります。それからしばらく護衛の武士が続き、佳姫の駕籠がようやく現れます。佳姫の駕籠は、他の駕籠と違って御日傘を差しかける人までも付いて歩いています。さらに護衛の武士が続き、挟箱、茶道の師匠、茶弁当と続き、御付の奥女中の駕籠が続きます。騎馬の行列、藩医の駕籠などが続き、行列の最後に婚礼を差配した秋田藩家老の中安内蔵(くら)の駕籠があります。多くの人間が付き従った華やかな婚礼の行列であったことがわかります。

 婚礼行列が歩いたルートは、先に記した婚礼調度のルートと一緒と考えると、次のようになります。行列は下谷八軒町の秋田藩上屋敷を出発していますが、これは現在の台東区台東三丁目のエリアになります。それから津藩藤堂家の中屋敷前を通り、神田佐久間町、神田橋御門のあたりを通り、日比谷御門方面へ。そして日比谷堀、外桜田の長州藩毛利家の上屋敷の前に行き当たります。この毛利家の屋敷は、現在の日比谷公園に当たります。さらに新橋を抜けると、新橋外愛宕下通の丸亀藩京極家の上屋敷があります。現在の虎ノ門駅付近になります。葵坂、霊南坂と通り、佐賀藩鍋島家の中屋敷がありますが、これが虎の門二丁目の大蔵省の印刷局があるあたり。麻布市兵衛町、六本木通りを通って麻布龍土の宇和島藩上屋敷に到着しています。東の浅草から3~4㎞くらいでしょうか。大人数の行列が午前中、時間をかけながら麻布まで移動しています。正午に宇和島藩上屋敷に到着。その様子を宗城はのぞき見したようで、「佳姫様御到着ニ付廊下へ御出テ御覧遊ハサル、御行装立派ナリ」と「稿本藍山公記」にあります。

佳姫の婚礼8-続々と届く婚礼調度-

3月 29日 火曜日

 安政3(1856)年12月4日には、伊達家より佐竹家へ結納が届けられていますが、宇和島藩の使者を松根内蔵(くら)が勤めています。12月7日からは、佳姫(よしひめ)の婚礼調度が宇和島藩の麻布龍土の上屋敷に届きはじめます。12月7日は婚礼調度の初度送りとして、御厨子棚 御黒棚 御書棚のいわゆる三棚をはじめ 小袖箪笥、長持などが届きます。御使者物頭は大越頼母(たのも)で、そのお供の足軽や荷物をかせぐ人なども含めて、250人くらいの行列がそれらの道具を担いで江戸の町を歩きます。12月9日は婚礼調度二度目送り。この時にも御長刀1振 御長柄10筋 それから遊戯具の御碁盤1箱 御将棋盤1箱 御双六盤1箱などがやはり200人を越える行列を組んで届きます。ちなみに、これらの遊戯具はテーマ展「宇和島藩の姫君と奥女中」に展示しています。さらに、三度目の婚礼調度が12月12日に届きます。これでいよいよ4日後の婚礼当日を待つのみです。

佳姫の婚礼7-奥女中の居住空間-

3月 27日 日曜日

 安政3(1856)年8月14日からは、宇和島藩留守居と秋田藩留守居が幕府に提出する御縁組願書の草稿について協議しています。8月19日には両家が表立使者を交換、8月25日に両家から幕府に縁組願書を提出しています。この願書については、秋田藩は取次の御先手山田佐渡守、宇和島藩は取次の御先手本多大膳を通じて、老中堀田正睦(まさよし)に提出されています。8月晦日には、以前も出ていた佳姫(よしひめ)の付人について協議が行われ、秋田藩が頭役1人、書役1人を3~4カ月、医師1人を当分置くとこれまで通りの主張を繰り返すのに対して、宇和島藩は付人は断り、通勤で対応して欲しいとの返答があり、最終的には奥付役人、医師とも交代で通勤することに決定しています。婚礼の準備もだんだん本格化していき、9月10日に佳姫の婚礼に着る御召服が決定し、10月中に江戸に届くように京都へ服が発注されています。

 9月22日に幕府より縁組願書のとおり許可、10月1日に縁組成立、宇和島藩は以後公文書で佳姫様と呼び、御縁女様と記載するようになります。10月21日には秋田藩の佳姫が輿入れする際の御供、使者が決定しています。11月5日には、佳姫の宇和島藩邸への引越の願いが幕府に提出されています。これは秋田藩の取次である御先手山田佐渡守を通じて御用番内藤紀伊守に提出されています。佳姫付きの奥女中についても調整が進み、11月6日には佳姫の奥女中のうち御次1名を増員して、合計18名にすることを秋田藩から宇和島藩へ通知されます。

 11月8日に幕府から引越願を許可、11月10日に佳姫付奥女中が正式に決定、11月21日に奥女中が住む女中部屋に備え付ける道具の照会が宇和島藩からあります。この資料は奥女中の居住空間にどのようなものが置かれていたのかが分かる面白い資料ですが、手水鉢に始まり、かけ竿、てぬぐい掛け、炬燵(こたつ)、すり鉢、すりこぎ、しゃくし、まな板、包丁、貝しゃくし、銅のやかんなどの炊事道具から、しゅろのほうきやはたきなどの掃除道具なども見えます。それから風呂桶が三つとありますが、これは部屋ごとではなく、すべての奥女中で使う分とあります。それから鉄醤壷というものも見えますが、これはいわゆるお歯黒の道具ですので、ここから奥女中がお歯黒をする姿が想像されます。

佳姫の婚礼6-佳姫の奥女中-

3月 26日 土曜日

 安政3(1856)年8月10日にも、宇和島藩から秋田藩の留守居に対して連絡があります。その内容は佳姫が秋田藩から連れて来る奥女中の人数を17人以内にして欲しいということです。そして、もし17人以下なら、宇和島藩側で足りない人数を補充するとも答えています。それに対して、秋田藩の返答では、老女1人、若年寄1人、中老4人、御小姓1人、表使1人、御次4人、御中居2人、御末3人の合計17人が佳姫付きとして宇和島藩に入ることが記されています。お姫様が結婚する場合、お姫様だけが婚家に移ってくるわけではなく、実家の藩の奥女中組織がそのまま移ってくることがこの資料からわかります。

 以前、NHKの大河ドラマの「篤姫」で、松坂慶子さん演じる幾島という女性が篤姫と一緒に入っていましたが、幾島は「篤姫君付つぼね」という位置で、幕府でいう老女に相当する役職として大奥に入っています。篤姫の場合もそれなりの人数薩摩藩の奥から幕府へ入っていたのではないかと思います。そして、幕府の奥女中と薩摩藩の奥女中との間にはかなりの手紙のやりとりがなされ、篤姫の好みである薩摩の味噌が、薩摩の奥向から幕府の大奥へと送られてたりしたようです。佳姫の場合も一人で宇和島藩に入るわけではなく、老女を頂点とする佳姫付きの奥女中組織そのものが宇和島藩に移ってきたということになります。

佳姫の婚礼5-佳姫の生活費の減額交渉-

3月 25日 金曜日

 安政3(1856)年8月3日になると、宇和島藩から「年中奥向衣服定」が届いています。これは奥方・老女・側小姓・小姓・表使・次の人々の衣装について記されたもので、藩によって奥向きの衣装に規定があったことが分かります。さらに8月5日には、秋田藩から宇和島藩留守居に必要な御道具について問い合わせがされ、御隠居様(宗紀)、遠江守様(宗城)、大膳大夫様(宗徳)、大奥方様(観姫)、奥方様(猶姫)、御客前について秋田藩の方からリストが提示され、必要の有無が宇和島藩との間で協議されています。

 また、この時に厳しい倹約を行っている最中なので、秋田藩から渡す毎年1300両の御賄方御手元金を1000両に減額するように宇和島藩側から申し入れがされ、秋田藩側も了解しています。宇和島藩側が1300両を1000両という少ない金額にして欲しいというのは、少し不思議な感じがします。もらえるものなら少しでももらった方がいいのではないかと普通思ってしまいます。ただし、この1300両は佳姫に使途が限定されるお金になります。例えば、宇和島藩が奥向きの費用を倹約のために減らしていたとしたら、佳姫だけ多額の費用をもって宇和島藩に入るということは、奥向きの秩序として問題があったのではないかと思います。おそらく宇和島藩の奥向きの秩序を考えて減らす話しがあり、財政に厳しい秋田藩も喜んでそれに応じたというところでしょうか。

佳姫の婚礼4-婚礼費用の捻出-

3月 24日 木曜日

 安政3(1856)年7月9日から16日にかけては、佳姫(よしひめ)の婚礼と宇和島藩への引越御用を勤める担当者が決められています。そして、7月20日、秋田藩家老、中安内蔵が御縁談御用人の石井宮作と御縁談御膳番金大之進に対して、今回の婚礼に当たっての秋田藩の基本方針を指示しています。この部分を口語訳してみると、次のように記されています。

 御姫様がお嫁入り際に、お持ち込みになる御道具、御召服をはじめとする諸費用は十分に手厚く準備すべきところ、海防や蝦夷地警備の費用がかさんだ上、当春には江戸の上屋敷が類焼してしまったが、これもまた猶予できない。これまでに例がない大変な出費ばかりが重なったことで難渋が迫ってきており、国家(藩)の維持にも関わるような容易ならざる事態である。
 これにより、持参金3000両に別紙の悉皆金5000両を合わせて8000両の費用で済ませることになったので、時節柄を考え一同心を合わせ、倹約をもって佳姫様の御引越御用を行うことが大事である。
 幕府の御達の次第もあり、諸家様とも倹約に取り組んでいる折り、しかも向方様(宇和島藩)から格段に質素の御家風をいってこられている以上、この時節なので質素を心がけるように清心院にも袖岡にも相談した。ご持参の御道具は質素に対して不都合なため、以前に仰せのあったものをお持ち込みすることにした。

 このように秋田藩では財政的にかなり窮乏していたようで、外圧の影響でで蝦夷地の警備を引き受けるようになったこと、春に浅草の下谷(したや)七軒町にあった上屋敷が火事で焼けてそれを再建しなければならないことが、財政をさらに圧迫するようになったことが記されています。そのため、秋田藩では佳姫の婚礼の費用として、持参金3000両に悉皆金5000両の8000両で済ますという方針が打ち出されています。1両5万円として現在のお金になおすと、持参金が1億5千万、婚礼の支度のための費用が2億5千万円になります。

 一般的には幕末は藩の財政窮乏から、大名家においても婚礼の費用を削減するようになったといわれています。その中で2億5千万円の支度金というわけですから、江戸の初期や中期に如何に大名家が結婚にお金をかけていたかということが偲ばれます。口語訳した後には、さらに5000両の支度金の使途が記されていて、婚礼道具、佳姫が着る服・夜具、御付の男女手当、引越儀礼費用、婚礼御用を勤めた人々への手当・祝儀を5000両で賄う計画だったことがわかります。いずれもお金がかかりそうなことばかりなので、婚礼御用担当は、お金の遣り繰りにさぞかし苦慮したことと思われます。

佳姫の婚礼3-結婚をめぐる藩の交渉-

3月 19日 土曜日

 安政3(1856)年6月18日にこの御縁組が正式に決定すると、秋田藩側の御縁組御用懸が決まります。これ以降、宇和島藩と秋田藩との間で、縁組をめぐる交渉がつづきます。結婚の準備から結婚式まで、瑣末なことも含めて間違いがないように、交渉に交渉を重ねます。結婚はたくさんの儀礼の積み重ねであり、それをすべて記録していくと、分厚い冊子で数冊にも及ぶこともあります。

 例えば、宇和島藩方からの問い合わせに対して、7月5日に秋田藩から返答した資料をみると、まず最初に宇和島藩側から持参金の問い合わせに対して、持参金については相談の上で書面で答えると秋田藩側は例のごとく付札で返答を記しています。次に「御付人御断之事」とありますが、佳姫(よしひめ)に奥女中以外に人を付けないで欲しいという宇和島藩側の要望が記されています。それに対して秋田藩側は付札で、頭役の者一人、書役を一人3,4カ月間置かせて欲しいということ、また医者を一人付けたいと記しています。そして、三つ目に、宇和島藩側は御輿入れの日を11月で想定しているの対して、秋田藩側は12月中旬を主張しています。このように婚礼に向けてお互いの考えが書面で交わされて、それらのすべてが記録として残されていくわけです。