‘特別展おすすめ情報’ カテゴリーのアーカイブ

テーマ展資料紹介(6)段畑の道具 

1月 27日 日曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし」の資料紹介。
今回は段畑で使われた道具に関する資料を紹介します。

山の頂上まで耕された段畑では、耕作だけでなく、道具、肥料、収穫物などの運搬も人力で行われていました。
大変な重労働の際に使われた道具類です。


菅畚(すげふご)
宇和島市城山郷土館 蔵
運搬具。方言で岩菅(いわすげ)又はいわすぎともいいます。菅は、昔は漁師達が夏にこれを取って前掛(腰蓑)を編み、又は小縄をなって、畚や簀(すのこ)を編み、縦縄としました。藁(わら)と異なって濡れても乾きやすく、強いといわれます。


ショイコ
宇和島市立宇和海中学校 蔵
運搬具。『宇和地帯の民俗』(昭和36年)には、「背負子式の運搬具は全く普及していない」とありますが、昭和20年代の宇和海沿岸部の写真には、ショイコを背負う人々が写っているものが見受けられます。(下の写真は個人撮影のものです)


タナカゴと箆(へら)
宇和島市城山郷土館 蔵
段畑の除草道具。紐(ひも)を腰に括(くく)り、籠は腰の斜め後ろにし、ごく小さい雑草の根を箆でほぐして取り、籠に入れます。主に、麦を作っていたころに用いました。

農道やモノレールが出来た今でも、除草は手作業で行われます。また、収穫した馬鈴薯を畑からモノレールまで運ぶときも、畚(ふご)(ホゴロと呼ぶ地域もあります)が使われています。

テーマ展資料紹介(5)切干作りの様子  ~こんなに沢山サツマイモ!~

1月 25日 金曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし-海と「そら」の恵み-」の資料紹介です。
前回ご紹介したのは、切干作りの道具「千貫切り」。
今回は、切干作りの様子を写真でご紹介します。(写真は、いずれも個人撮影のものです)

千貫切りを使う
この写真は、千貫切りを使っているところです。サツマイモの量にびっくりしますね。
このように中腰で行い、ハンドルを持つ手には芋の重さがかかるので、力のいる仕事であったといいます。
子供の頃、この切干し作りの手伝いをした人も多かったようです。


こちらは、切干を干しているところです。
イリコを干すイリコ棚が最適でした。天日で4,5日乾燥させます。芋の種類にもよりますが、概ね乾燥前の3割の重量になったといいます。

イリコ棚にびっしりと並んだ大量の切干・・・。これらの写真を見ると、まず芋の量に驚いてしまいます。しかし、その大量の切干作りにあたっては、後には千貫切りには動力付きも登場するものの、ほとんど手作業で行われていました。どれだけ大変な作業だったことか・・・、想像するだけでも気が遠くなりそうです。

切干の棚と段畑

テーマ展資料紹介(4)切干作りの道具 ~芋かんなと千貫切り~

1月 24日 木曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし」の資料紹介。
今回はサツマイモに関する資料を紹介します。

切干作り
昭和10年代以降、段畑で盛んに作られたのはサツマイモでした。戦争が激化し、食糧増産の国策でサツマイモ作りが奨励されたためです。
戦後も、食料難のためサツマイモが増産され、生のままか、切干(きりぼし)で出荷しました。切干は、デンプンと酒用アルコールの原料となりました。芋や麦は供出制度があり、供出割当以上に増産すると、3倍の価格で買い上げられました。切干がこれに当てはまると、米と同じ値段となります。米と芋とが同じ値段、という「切干景気」に、人々はサツマイモ作りに励みました。段畑の面積を増やし、収穫量をあげるために、石垣化も進められました。

芋かんな
芋かんな/愛南町内海郷土資料館蔵 
芋かんなは、大工道具のかんなのような形をしています。かんなと同じ使い方で、1日に約200貫(750kg)の芋を切りました。

千貫切り
千貫切り/愛南町内海郷土資料館蔵
芋切りの効率を挙げるために考えられたのが千貫切りです。千貫切りとは、1日に約1000貫(3750kg)もの芋が切れる、という意味です。芋を置きハンドルをまわすと、刃が回転して輪切りされた芋が出てきます。後には動力で動くタイプも登場しました。

この千貫切りには「宇和島市/愛媛農工株式会社/日の本式芋切り機」という銘があります。愛南町の他に、宇和島市、西予市、伊方町にも同銘の千貫切りが現存しており、宇和海沿岸で広く流通していたことがうかがえます。

切干作り2
すごも/愛南町内海郷土資料館蔵
展示室には、切干作りの道具とともに、切干の模型も展示しています。この模型の製作は、今年度の当館博物館実習生、宇和高等学校職場体験の高校生、そして当館ボランティアの方々に協力していただきました。

テーマ展資料紹介(3)養蚕道具  ~大事な「お蚕さん」~

1月 23日 水曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし-海と「そら」の恵み-」の資料紹介。
今回は養蚕の道具を紹介します。

養蚕道具全体
明治10年代末頃からのマイワシの不漁により、宇和海沿岸部では次第に農業の比重が重くなり、養蚕が盛んになりました。大正元年には「養蚕を行うものはほとんどいな」(『遊子村誌』)かったのですが、第一次世界大戦による空前の好景気で、瞬(またた)く間に農漁村に広まりました。農家にとっては、現金収入を得る貴重な仕事でした。

遊子も養蚕景気に支えられて耕地の半分が桑畑となりました。桑は良い畑が必要なので、この頃から段畑の石垣化が始まったといわれます。

 蚕(かいこ)はデリケートな生き物で、新鮮な桑を好むため、一日に何度も桑の葉を摘みました。風通しのよい部屋で飼う為、家の二階を蚕室としました。温湿度にも気を遣い、寒い時は部屋を暖めました。桑を摘み、蚕に桑をやり、蚕盆の掃除をする・・・。養蚕は重労働でしたが、人々は蚕を「お蚕さん」と呼び、大切に育てました。

桑籠

桑籠の銘
桑籠
宇和島市立宇和海中学校 蔵
墨書きから、下波柿之浦の人のものとわかります。

桑切り鎌など
桑切り鎌・桑切包丁・桑切台
愛南町内海郷土資料館 蔵
蚕に与える桑の葉は、桑切り鎌で刈り、包丁と俎板(まないた)で刻みます。蚕が幼い時は細かく切り、大きくなると、大量の桑の葉を、粗く切ります。

蚕盆
蚕盆・蚕網
西予市明浜歴史民俗資料館 蔵
蚕を飼う盆と、桑をやったり、盆の掃除をするときに使う蚕網。蚕が幼い時は目の細かい網、大きくなったら目の粗い網を使いました。

まぶし折り機
簇(まぶし)織り機
西予市明浜歴史民俗資料館 蔵
蚕が繭を作る簇を織る機械。上部に藁を広げてはさみ、ハンドルを交互に交差して藁を折り曲げる。この型は、明治末期に発明され、普及しました。

しかし、昭和4年の世界恐慌のあおりを受け、生糸は大暴落し、養蚕農家は大きな打撃を受けることになります。

テーマ展資料紹介(2) 鰯漁の道具

1月 12日 土曜日

テーマ展資料紹介(2) 鰯漁の道具 

テーマ展「宇和海と段畑のくらし―海と「そら」の恵み―」に展示中の資料の紹介です。

「西国一の鰯漁場」といわれた宇和海。
今回は、宇和海の鰯漁で使われた道具を紹介します。


ザイ 西予市明浜歴史民俗資料館蔵
海岸の高い所や船上から、村君(むらぎみ)が魚の群れの動きや泳ぐ方向を知らせる道具です。
75cmの泉貨紙を折り結んであり、2本1組で、1本ずつ両手に持って使います。
「漁業旧慣(きゅうかん)調」の「鰯網曳(ひき)之図」にも、陸と船上の双方で、村君がザイを持って指図する様子が描かれています。テーマ展資料紹介(1)に掲載していますので、あわせてご覧下さい。


綿の鰯刺網(写真中央の白い網) 西予市明浜歴史民俗資料館蔵
昔は、綿でできた網を使っていました。写真の網はまだ染めていない状態ですが、使う時は、柿渋で染め、アバ(浮き)や、イワ(おもし)など部品をつけて仕上げました。
綿の網は、使った後は天日に干さないといけないので、漁から帰ってきてもその仕事がありました。

テーマ展資料紹介(1)描かれた鰯漁(いわしりょう)

1月 9日 水曜日

現在開催中の「宇和海と段畑のくらし―海と「そら」の恵み―」(~2/4)。もう、ご覧いただけましたか?
ここでは、展示中の資料をシリーズで紹介します。
とても身近だけどあまり知らなかった「宇和海」と「段畑」。資料からは、「宇和海」と「段畑」に生きてきた人々の日々や、その移り変わり、仕事に懸ける想いなどがうかがえます。


『漁業旧慣調』/明治初期/愛媛県立図書館 蔵
『漁業旧慣調』は、明治初期に編纂されました。当時の網代(あじろ)図や漁法、漁具などが描かれ、説明が添えられた貴重な資料です。
ここでは、鰯漁の様子が描かれています。宇和海は「西国一の鰯漁場」といわれており、砂浜が少ないため、沖合いで操業する船曳(ひ)き網で鰯を捕りました。江戸時代から、このような方法で漁が行われていたと思われます。
 「漁業旧慣調」に記録された鰯船曳き漁の様子を見てみましょう。

 夏が好季節。船6艘で行う。


海のよく見はらせる山の上にムラギミ(村君)が登り、魚の群れを発見したら海上の手船方に合図する。

手船
手船方ではムラギミの合図を受けて網使いを指揮する。

真網
真網

逆網
網船はマアミ(真網)*船、サカアミ(逆網)*船の2艘で長さは7尋(10.5m)。網船2艘が網を入れながら魚群を取り囲み、海岸へひきつける。船を海岸に固定し、徐々に網を引き寄せる。

前狩
このとき、マエガリ(前狩)2艘が、網船の間から魚が逃げようとするのを、割木(わりき)に苧縄(おなわ)をつけたものを何回も海中に投げて驚かし、逃げないようにする。


網底が潮に流されないように、小船が1艘底網のほうに漕ぎ出し、錨(いかり)を入れて流れないようにする。

一帖(一つの船団)に、何艘もの大きさの違う船があり、それぞれに役割を持って漁をしていたことがわかります。
船曳き網で獲った鰯は、干鰯(ほしか)にして、船で大坂などへ運ばれ、畑の肥料として使われました。宇和島藩・吉田藩の重要な物産品でした。
このような鰯漁に従事する人々が宇和海沿岸に住み、自給自足のために開墾していったのが段畑と考えられています。

*真網(まあみ)・・・網を左舷につけ魚群に対し反時計回りに廻って囲う船。
*逆網(さかあみ)・・・網を右舷につけ魚群に対し時計回りに廻って囲う船。

戦国展資料紹介 中世の甕棺墓

12月 1日 土曜日

 甕棺墓(かめかんぼ)は、北部九州の弥生時代の甕棺墓がよく知られていますが、実は中世にも甕棺墓あります。現在、戦国展では、八幡浜市日土から偶然見つかった中世の甕棺墓を紹介しています。
 平成6年に道路建設の際に偶然、標高約20mを測る丘陵斜面から大甕が二基発見されました。中から人骨が出土したことから、お墓ということがわかりました。大甕はともに現在の岡山県備前市で生産されたものでした。

ウラショウジ1
 棺おけに使われた備前焼(八幡浜市教育委員会蔵・当館保管)

 上の写真は1号墓で、高さ約80cmを測る大甕で、口縁部には凹線、肩部にはヘラ記号がみられます。製作年代は16世紀前葉から中葉のものと考えられます。甕の中には熟年男性の人骨と脇差が埋葬されていました。脇差の銅鐔には、丸刀のような工具で両面に唐草と菊花文様が刻まれています。

ウラショウジ2
 棺おけに使われた備前焼(八幡浜市教育委員会蔵・当館保管)
 2号墓は1号墓から東へ0.5mほど離れた場所から発見されました。写真は2号墓の大甕で、高さは約70cmを測り、口縁部は長めの玉縁をもちます。製作年代は、15世紀末から16世紀初頭のものと考えられます。甕の中には女性の人骨と短刀一振、土師質土器皿二枚が埋葬されていました。死者のゆかりの品々が副葬されたのかもしれません。
 備前焼の年代から2号墓が先に埋葬されたことが考えられます。水や穀物を貯蔵する大甕を棺桶として用いた、16世紀代の夫婦の墓として貴重な事例といえます。
 ぜひ展示室で甕の大きさを実感してみてください。

戦国展資料紹介 出土した武器・武具

11月 28日 水曜日

 戦国時代にはどんな武器や武具が使われていたのでしょうか?
 今回は、出土品からみてみましょう。本来使われていた革や木製品は腐ってなくなってしまっています。遺跡からは、鉄や銅などの金属でできたものが見つかっています。金属製品はリサイクルが可能なため、多くは回収されたものと考えられます。残されている遺物はほんの一部なのです。

湯築城跡
 湯築城跡出土鉄鏃(愛媛県教育委員会蔵)

 たくさんの種類が見つかっているのは松山市湯築城跡です。武器では鏃、薙刀の部品、小刀、小柄、笄、刀の装飾品などがあります。武具には鎧を構成する小札や金具が見つかっています。本小札と上端部が特徴の伊予札が見られます。今治市見近島城跡からも多数の鉄鏃や小札が出土しています。

見近島城跡
         見近島城跡出土小札(今治市教育委員会蔵)

 松野町河後森城跡や大洲市大洲城跡では、新しい武器である鉛製の鉄砲玉が出土しています。等妙寺旧境内跡では慶長期以前とされる鉄砲の部品も見つかっています。

旧等妙寺跡
 等妙寺旧境内跡出土鉄砲部品(鬼北町教育委員会蔵)

 また、松山市道後町遺跡では、赤漆で固められた鎧の小札や、鞐も見つかっています。今治市姫内城出土の小札は、建物の南東隅の柱穴内に3枚が布に包まれて埋められていた様子がわかりました。建物は来島海峡を見下ろすことのできる場所に所在します。中世の人々がなんらかの意図を込めて、辰巳の方角に埋納したのでしょうか?

 戦国展では、愛媛県内の中世の遺跡から出土した鉄製品の武器、武具を展示しています。今は錆びて茶色や緑色になっていますが、かつては金属光を放った現役の道具だったことに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

戦国展資料紹介 食事の風景(3)

11月 24日 土曜日

酒飯論絵巻酒飯論絵巻(当館蔵)
 では酒飯論絵巻の最後の場面を紹介しましょう。これは、飯も酒も両方とも好き(中戸)という人の食事場面です。
 畳敷きの間で食事と酒が出されています。白木の3つの折敷にのせて、漆塗りの器に酒と料理が盛られています。床の間には花台の上に中国青磁の花瓶一対が置かれ、その後ろには、掛軸が一対掛けられています。左側には、屏風が置かれているようです。当時の武家の食事風景と考えられます。

酒飯論絵2
 中戸の台所の様子です。上戸、下戸の場面ではみられなかった、肉や魚など、生臭い食材がみられます。魚や貝、海老、鳥などたくさんの食材が描かれています。
 板敷きの台所に座って調理しています。足付の俎板の上で庖丁と長い箸を用いて魚や鳥を調理している姿がみられます。これは食材に手を触れない当時の料理作法にのっとって行われています。囲炉裏では、五徳の上に鍋を載せて、鍋料理が作られています。貝の柄杓で椀に取り分けているようすがみられます。縁側では、鳥の内臓を取り出している姿がみられ、下準備が行われている様子がうかがえます。
 このように絵巻に描かれている道具などを見ていくと、当時の道具の使い方をうかがい知ることができます。
 これまで、三つの食事風景をみてきましたが、あなたはどの食事スタイルがお好みですか?現在、今回紹介した中戸の場面を公開しています。戦国展も残りあと一週間あまりになりました。ぜひ会場で酒飯論絵巻の世界をお楽しみください。

祝!等妙寺旧境内が国指定の史跡へ

11月 17日 土曜日

旧等妙寺跡
  等妙寺旧境内出土褐釉龍文壺(かつゆうりゅうもんこ) 鬼北町教育委員会提供

 このたび、鬼北町奈良に所在する等妙寺旧境内が、国の史跡として指定されることが答申されました。決定すれば、宇和島城や河後森城跡や湯築城跡などとともに、十一番目の国指定史跡になります。
 等妙寺旧境内は、鬼ヶ城山系に連なる郭公岳(標高1010m)の尾根筋に位置する中世の山岳寺院で、鎌倉期の戒律復興運動のなかで遠国四箇の戒場として定められた天台律宗系寺院です。鬼北町教育委員会により1994年から発掘調査が実施され、14世紀から16世紀末まで機能していたことが明らかになっています。
 現在、当館で開催されている「戦国南予風雲録」展にて、等妙寺旧境内出土の遺物を展示しています。寺院での生活や儀式に使用されたと考えられる中国から輸入された青磁や白磁、青花などの貿易陶磁器が数多く出土しています。なかでも褐釉龍文壺は、中国南部で生産されたと考えられるやきもので、胴部に龍が巻きつき、肩部では耳を形成する六耳壺で、全国でも数少ない出土品として注目されます。ほかに備前焼の水指や天目茶碗などの茶道具、金色に輝く仏具などもあります。
 等妙寺旧境内のさまざまな資料を、愛媛県歴史文化博物館で見ることのできる絶好の機会ですので、ぜひご来場ください。