‘特別展おすすめ情報’ カテゴリーのアーカイブ

開催中!「戦国南予風雲録」-多田宇都宮宣綱所用と伝わる旗

10月 11日 木曜日


絹地月星紋陣旗(伝宇都宮宣綱所用)(大安楽寺蔵)

 この旗、どこかで目にされた方もいらっしゃるでしょうか。今年の初め頃に何度か新聞掲載もされた旗です。宇和盆地の北端の多田地域、下木城の城主宇都宮宣綱の所用として伝えられてきた陣旗です。
 これまで、伝承でのみ語られていましたが、調べてみると実際に戦国末から江戸初期くらいに作成された可能性が高いことが分かってきました。薄い絹地に紅柄を塗布し、反物三幅分の大きな旗の全面に月星の紋様を配するという大胆な意匠。薄く、軽く、大きく、その色合いと大胆さ、また撚りのかけられていない絹糸など、いくつかの要素から戦国末から江戸初期にある程度実用を前提に作られたものではないかと考えられます。月星は武士に好まれた妙見信仰に由来すると考えられます。宇都宮宣綱所用との伝説の真偽は現在定かではありませんが、ちなみに多田宇都宮氏の子孫という地元の庄屋古谷家は月星の家紋を使用しています。また、同寺が祀る多田宇都宮氏の祖・永綱の木像がまとう衣装にも、月星の紋様が描かれています。2470mm×1100mm。

展示予告「戦国南予風雲録」-戦国武将ゆかりの刀剣類-

10月 3日 水曜日

 南予地域にも武将ゆかりの刀剣類がいくつか伝来しており、今回そのうち7点を展示します。しかもそのうちいくつかは、室町・戦国時代という中世後期の作の可能性があることが、このほどの調査で判明しました。ここでは4点を紹介します。


薙刀 銘 守家(伝岩本将監奉納)(西予市城川歴史民俗資料館蔵)

 北之川(西予市城川町)の領主紀氏に仕えた、猿ケ滝城主(大洲市肱川町)岩本将監が、春日神社(西予市城川町)に奉納したと伝わる薙刀。(一説には紀氏自身が奉納したともいう)銘「守家」は、備前の刀工が有名ですが、作風が異なるようで、それとは違うと思われます。反りが少なく先端の膨らみが少ないのは鎌倉~南北朝期によく見られる特徴のようですが、刃文や茎(なかご)の錆色は当時のものではないようにも見えます。これらを考え合わせると、鎌倉~南北朝期に作れらたものを後世に再度鍛え直した可能性もありますが、詳細は不明です。


刀 銘 備州長船祐定 永正十六年吉日(久保家伝来)(個人蔵・当館保管)
             
 滝山城(大洲市長浜町)の城主であった久保氏の子孫のもとに伝わった刀。永正16(1519)年の年記銘が入れられています。銘「祐定」は記録上では多数人存在し、個人銘としてのみでなくある種工房銘のように使用されるようになり、大量生産もされたようです。本資料はどうやら個人銘で作刀した作風というよりは、大量生産的に作り、銘は工房銘として入れたものの部類に属するようです。


短刀 銘 國宗(伝土居清良所用)(宇和島市教育委員会蔵)

 土居清良の子孫のもとに伝来した武具類の一つ。清良所用として伝わる短刀。銘「国宗」は各時代・各流派にその名を見ることができ、備前「国宗」や大和宇多派「国宗」が有名だが、それらとは作風が異なるようです。作風から室町末期(戦国末期)作の可能性があるが詳細は定かではありません。


脇差 銘 正宗(伝大野直之所用)(個人蔵)

 大野直之所用と伝わる脇差で、喜多郡山鳥坂村庄屋家に伝来しました。「大洲旧記」にも本資料と思われる刀を同村庄屋が所持したことを記しています。伝承では、落延びて最期を迎える際に所持していたものを、山鳥坂村庄屋が代々所持し供養したものといわれています。刀身にはもともと梵字と剣が彫り込まれていたようで、その痕跡を残しています。銘「正宗」は、相模や大和に刀工がいたが、その作例とは異なるようです。

伝承もさることながら、中世にまで遡ると推定される刀剣類が、実はまだ南予には残されていたのですね。

展示予告「戦国南予風雲録」-戦国の流旗(ながればた)3枚-

10月 1日 月曜日

 秋の企画展では、戦国期のものと考えられる、類似の様式を示す3枚の流旗を展示する。竿に通す幟旗ではなく、上端の布で柄を巻き竿に吊る流旗と見られるもの。いずれも麻製で手書き、幅は約一尺と小型の旗である。上段には神仏号、中心に大山祇神社を意味するとみられる「三」の文字、続いて各種紋様が入っている。実はこの様式は大山祇神社に伝わる大型の流旗「三島神紋流旗」にも似ており、その様式を縮小して模倣したかのようにも見て取れる。旗は消耗品のため現存しにくものだが、異なる場所に類似事例として3点も現存していたことは非常に興味深いことといえる。


久保家伝来の旗(個人蔵・当館保管)

 滝山城(大洲市長浜町)の城主であった久保氏の子孫のもとに伝わった旗。上段に熊野三所権現・日吉山王・八幡大菩薩・住吉大明神・祇園牛頭天王・天満自在天神の六神仏、中心に「三」、続いて上がり藤の紋、中に「八十」が入る。麻の生地に手書き、幅は約一尺、上部に柄を通したと思われる布の折り返しがある。「大洲旧記」にも今坊村庄屋久保家に伝来していたことが見える。またその記述によると、旗の下半分が変色していることについて、戦国期に城主久保氏の嫡男が討死した際、家臣が首を包んで持ち帰ったために付いた血の跡だと伝えている。670mm×303mm。


重山菊池家伝来の旗(個人蔵)

 鴫山(西予市三瓶町)を拠点とした重山菊池氏に伝わった旗。上段に三嶋大明神・伊勢天照大神宮・八幡大菩薩の三神仏、続いて「三」、二重線の下に藤のような植物で描かれた三つ巴紋が入る。この紋章は菊池家の家紋である。やはり上部に布の折り返しの痕跡がある。麻の生地に手書き、幅は約一尺。730mm×350mm。


皆田宇都宮家伝来の旗(個人蔵・当館保管)

 信田城(西予市宇和町)城主皆田(開田)宇都宮氏の子孫のもとに伝わった旗。上段に摩利支尊天・春日大明神・伊勢天照大神・八幡大菩薩・毘沙門天王の五神仏、続いて角切折敷に「三」、梅に鶯、桐、三つ巴、州浜が入る。折敷に三文字は伊予の一宮大山祇神社(三嶋大明神)の神紋。州浜は吉祥紋。その他は不明だが、家紋などに関係するのであろうか。麻の生地に手書き、幅は約一尺。この旗には文章が記されているが、その内容は判然としない。最後に清家孫六郎の名があり、あるいはこの人物の所用であったのだろうか、定かではない。580mm×310mm。

展示予告「戦国南予風雲録」―よみがえった戦国南予の甲冑―

9月 24日 月曜日


紋柄威五枚胴具足/銀箔押帽子形兜(個人蔵・当館保管)

 伊予灘を臨む滝山城(大洲市長浜町)の城主久保氏の子孫で、新谷(にいや)藩領喜多郡今坊(こんぼう)村庄屋のもとに伝わった甲冑である。数年前に発見されたものであるが、当初は汚損や破損が著しい状態であった。それを、今回の展示に合わせ、県内在住の日本甲冑武具研究保存会評議員の方のご指導・ご協力を得るなどしながら調査を進めた結果、以下のような貴重な資料であることが判明し、また清掃や修理を施すことで上記写真のように往時の姿をうかがうことができる程の形によみがえらせることができた。そしてこのたび初めて一般に公開するにいたった。
 鎧は、浅葱糸毛引威を主として、前は紅糸威、後は白糸威で吉祥紋で知られる州浜(すはま)紋をあしらった紋柄威(もんがらおどし)である。一見すると二枚胴のようでもあるが、実は内側に付けられた蝶番(ちょうつがい)の位置から、前・後・左・右2枚の胴を合わせた五枚胴であることが判明する。また、前後立挙一段目に三つ巴紋入りの小さな鋲が打たれているのも特徴的である。兜は銀箔を施し、僧侶のかぶる頭巾の一種である帽子(もうす)をかたどった帽子形兜である。この甲冑は、近世初頭にかけて発達していく当世具足の様式を備えている一方で、中世末に見られた様式も併せ持っており、まさに移行期の甲冑の様式の変化を見る上でも興味深い資料の一つである。本企画展の図録にはより詳しく解説した資料紹介の論考を掲載する。
 この甲冑は、文化年間に作成された鎧櫃に納められていた。鎧櫃に施された墨書によると、戦国末期の当主久保行春の所用とする。また、「大洲旧記」の今坊村の部分にも、庄屋家に鎧と旗が伝存する旨が記されている。鎧は、「城主の時より伝来、紋すはま、甲は別の品といふ」とあり、まさしく州浜紋をあしらったこの鎧のことであろう。そしてそれは滝山城主の立場にあった戦国期から、代々伝来したものと伝えられていたことも分かる。また、この鎧と組み合わされたものではない兜が伝存していたともあるが、おそらくはこの帽子形兜のことであろう。
 ちなみに、久保氏に関係する武具類は他にも数点伝わっており、それらも戦国期に遡る貴重な地域資料であり、今回合わせて初公開するが、その記事も後日掲載の予定。

展示予告「戦国南予風雲録」―有名な秀吉の顔「豊臣秀吉画像」(国重文)―」

9月 20日 木曜日


「豊臣秀吉像」国指定重要文化財((財)宇和島伊達文化保存会蔵)

 豊臣秀吉の顔というと、皆さんはどんな顔を思い浮かべるでしょう。今回紹介する画像、見覚えはないでしょうか。秀吉の画像は多数描かれておりますが、これは最も有名なものの一つで、秀吉が亡くなったのが慶長3(1598)年8月18日ですが、翌年の慶長4(1599)年2月18日の賛が入っており、没後まもなく描かれた画像の一つです。秀吉の側近であった伊勢国(三重県)安濃津城主の富田左近少監(一白)が描かせたことが上部の賛から分かります。賛は相国寺92世住持で秀吉の側近でもあった西笑承兌(せいしょうじょうたい)が記したもの。富田一白の嫡男信高が板島(宇和島)城主として入封した際、父の菩提を弔うため正眼院(大隆寺)を建立し、この画像もこの寺に伝来していました。その後、弘化4(1847)年に宇和島藩主伊達家に献上され、現在にいたっています。寸法は1300mm×1040mm。とかなり大きいものです。
 秀吉画像は、没後すぐにいくつも作られ始めることとなります。というのも、秀吉は遺言により没後「豊国大明神」という神号とともに神格化され、豊国社に祀られることとなりました。もちろん全国に分霊が勧請され、豊国大明神が祀られるようになり、その神影として画像や木像が作られました。
 しかし、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康は秀吉の神号を剥奪し、豊国社および全国に散らばっていた分祠も破却しました。したがって、没後間もなく作成された画像は日の目を見なくなっていきました。ところが時代が下るにつれ、大衆文化が花開いてくると、出版物や演劇などで秀吉人気が高まり、再び秀吉が描かれるようになります。しかし、この時には物語・演劇のイメージから描き出されたものであったため、唐冠をかぶり、桐紋入りの装束という、象徴的な絵柄で秀吉を表現するのが典型で、容貌も没後すぐのものと比べるとかなり豪傑風に描かれていました。
 秀吉画像のうち、この画像と同系統の古いものでよく知られた画像に、妻高台院(おね)と秀吉の廟所がある京都高台寺に所蔵されているものがあります。こちらは秀吉が亡くなった慶長3年8月18日の賛を有し、秀吉恩顧の武将田中吉政が作らせたもの。双方ともに、直衣(のうし)・布袴(ほうこ)着用、唐冠をかぶるというスタイルで、そして背景の描き方も似ています。教科書などの出版物や、各種展示、各種メディアで皆さんがよく目にする秀吉の顔はこの系統のものが多いのではないでしょうか。
 今回、展示期間は、[原本]が10月6日~10月21日、[模本]が10月23日~12月2日。ぜひ足を運んで有名な秀吉の顔に会いに来てみてください。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」20(完)―往生要集―

9月 1日 土曜日


※『往生要集』(明治時代版・当館寄託資料)

 『往生要集』は平安時代の寛和元(985)年に、恵心僧都源信が多くの仏教の経典等から、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書である。本書は日本に浄土思想が浸透する基礎を築いた。江戸時代には、絵入りの版本として庶民にも普及し、明治時代に入っても版を重ね刊行された。

 『往生要集』の構成は、次のとおりである。(巻上)大文第一「厭離穢土」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道解説) 、大文第二「欣求浄土」(極楽浄土に生れる十楽解説) 、大文第三「極楽証拠」(極楽往生の証拠) 、大文第四「正修念仏」(浄土往生の道)、(巻中)大文第五「助念方法」(念仏修行の方法)、大文第六「別時念仏」(臨終の念仏) 、(巻下)大文第七「念仏利益」(念仏の功徳)、大文第八「念仏証拠」(念仏による善業)、大文第九「往生諸行」(念仏の包容性)、大文第十「問答料簡」(念仏の優位性)

 これらは、『正法念処経』(6世紀初頭)・『観仏三昧海経』(5世紀)・『大毘婆沙論』(玄奘訳)などの経典類を引用しながら解説されている、

 このうち、大文第一「厭離穢土」での六道解説は、後の地獄思想に大きな影響を与えた。地獄については、八大地獄(八熱地獄)を紹介し、八寒地獄は省略している。地獄図といえば、熱地獄が描かれる事が多く、寒地獄が描かれることは稀である。「地獄」イコール「熱い世界」というイメージを定着させたのも『往生要集』の影響といえるだろう。

 なお、室町時代以降の地獄図には「血の池地獄」が描かれることがあるが、『往生要集』には「血の池地獄」の記載はない。また、三途の川や奪衣婆、地蔵菩薩による救済といった場面も後世の地獄図には描かれるが、その詳細な記述も見られない。

 「血の池地獄」は、室町時代以降に普及した「血盆経」を典拠としており、また、三途の川や奪衣婆、地蔵菩薩による救済は「佛説地蔵菩薩発心因縁十王経」に拠るところが大きく、『往生要集』以降に定着したものである。

 このように、日本人の地獄観念は時代によって変容しているが、『往生要集』が六道や地獄思想の基礎を築いた上での変容であることは間違いない。

※企画展「異界・妖怪大博覧会」の会期は、明日、9月2日(日)までです。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」19―九尾の狐―

8月 25日 土曜日

これは『怪物画本』(香川大学図書館蔵)に描かれた平安時代の女官「玉藻前(たまものまえ)」で、正体は九尾の狐(尻尾が九本に分かれている狐)とされる。県内でも伊予稲荷神社に、明治時代初期に奉納された九尾の狐の尻尾と伝えられる資料が伝存している。

もともと、九尾の狐は古代中国で、后に化けたが処刑されて体が飛散し、日本には奈良時代に遣唐使の吉備真備を惑わして来日したという。

平安時代、玉藻前という女性に化けて、宮中で仕えて上皇に寵愛されるが、陰陽師が正体をあばき、宮中から逃亡する。数年後、那須(栃木県)に現れたが討伐され、九尾の狐は巨大な毒石(殺生石)に姿を変える。その石は後に各地に飛散し、九尾の狐伝説は全国各地に広まったとされる。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」18―がわら塚―

8月 24日 金曜日

四国中央市土居町入野で「がわら」(河童の異称「川太郎」の略)を埋めたといわれる塚が、天保13(1842)年成立の地誌『西条誌』巻十七(県歴史文化博物館蔵)に描かれている。

『西條誌』のよると、この「がわら塚」の言われは、昔、庄屋が入野の原に馬をつないで青草を食べさせていた。そこより少し南の本川口というところに淵があり、そこから「がわら」が出てきて、馬を川にひきこもうとしたが馬の綱にからまって、捕まってしまった。

「がわら」は五・六歳の子供のようで、頭には皿があった。人を食べるとされた「がわら」だったので、殺されてしまい、土に埋められた。その跡が「がわら塚」である。このように紹介されている。

なお、「がわら塚」という地名は現在も入野に残っており、江戸時代の伝説が口伝えで今に伝わっている。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」17―河童伝授の道具―

8月 22日 水曜日

西条市小松町の個人宅にエンコ(河童)に関する道具が伝えられている。
昔、馬を水中に引きずり込もうとしたエンコが人間に捕まるが、命ごいをして、その家の先祖に助けてもらう。そのお礼にと、のどに魚の小骨が刺さった際に抜く秘法道具が与えた。梵字まじりの呪文を記した紙片と小刀が二十センチ程の行李に納められ、現在にまでその家に伝えられている。

実際に戦後間もなくまで、近隣の人々その家を訪れて、小骨抜きの依頼をしていた。のどの小骨を取るには、口を大きく開けて、中へ小刀を入れて呪文を唱えていたという。

捕まった河童が命ごいをしてお礼をする伝説は県内各地に残るが、道具の伝授は珍しく、県内の伝説資料として貴重である。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」16―大森彦七伝説―

8月 19日 日曜日

この錦絵は明治時代の絵師・豊原国周(くにちか)が描いた役者絵「善悪三十二鏡 大森彦七」(県歴史文化博物館蔵)である。大森彦七は南北朝時代の武将で、砥部(現伊予郡砥部町)の領主とされる。楠木正成を切腹させた人物として有名であり、『太平記』にも怪異話の中心人物として記されている。

『太平記』によると彦七は楠木正成の霊に悩まされるが、その怪異伝説は江戸時代に歌舞伎でも舞台化され、このような錦絵が描かれるほど広く知られていた。

彦七が金蓮寺(伊予郡松前町)に猿楽を見に行く途中、鬼女に出くわしたが、その鬼女の正体が楠木正成だったという内容で、鬼女が出たという砥部町八倉には地蔵堂が建っており、その怪異の際に使用したとされる経典も砥部町の光明寺(旧広田村)に伝わり、現在、県歴史文化博物館に保管されている。