‘特別展おすすめ情報’ カテゴリーのアーカイブ

ガリバー気分

4月 22日 金曜日

 泣いても笑っても「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展開催まであと2日です。

 というかあと一晩眠ったら始まります!

 展示室の雰囲気も段々盛り上がってきました。

 香川先生の迷路シリーズを読んで

「こんな迷路、実際に歩いてみたいなあ~」

と思っていたそこのアナタ!

 その夢、展示室で叶えます!!

 一人で黙々と歩くのもよし、お友達やご家族でわいわい言いながらたどるのも楽しいですよ。

 自分がガリバーになった気分も味わうことができます。

 そして、展示を見たり、迷路を歩いた後、

「やっぱり、原点に戻って本を読みたくなったな~」

と思っても大丈夫です!

 展示室内には読書コーナーもございます。

 本への愛情と手作り感あふれるコーナーになっております。

 「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展開催まであと2日!

 もうしばらくお待ち下さい!

本物の持つ迫力

4月 21日 木曜日

  4月23日から愛媛県歴史文化博物館で始まります「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展、せっせと準備しております。

20日には、香川さん直筆の原画を展示しました。

 

 お借りした原画を額におさめていきます。

 一点ずつ額におさめていくのですが、香川さんの原画が放つ精緻な美しさ、圧倒的な迫力に作業の手も思わず止まります。

 

次は、額に入れた作品を展示していきます。

展示するにあたって、床からの高さをどれくらいにするか、作品と作品の間隔をどれくらいあけるか、など展示担当者が現場で指示をします。

作品の魅力をどう伝えるか、作品の保護は万全か、来館者の方が見やすいか、様々な視点を考慮しています。

香川さんの著作を手にとってその魅力にファンになった方がたくさんいらっしゃると思いますが、今回の展示で原画の持つ迫力もぜひ体感していただきたいと思います。

「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展

開催まであと3日です!

謎が謎を呼ぶ、時の迷路展

4月 19日 火曜日

 4月23日から始まります「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展、段々と全貌が明らかになりつつあります。

 先日お伝えした展示室内の林立する壁。

 展示室の壁は展示の内容によって様々に変化します。

 展示のイメージカラー、資料や作品を引き立てるための色や風合い・・・

 そして今回はなんと・・・!

 壁が迷路に変身?!

  

 これは先日のブログとほぼ同じ位置から撮影した写真です。

 どこが変わったかおわかりでしょうか?

  そして展示室内で発見したこの謎の石!

 もうご存知ですね。「時の迷路」で大切な役割を果たすトケイ石です。

  迷路の中をすすむと見えてくる矢印・・・

 この矢印は一体、私達をどこへ連れて行くのでしょうか!?

 やはり謎が謎を呼ぶ「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展。

 開催まであと4日です!

迷路?迷路!

4月 18日 月曜日

4月23日から始まります「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展、着々と準備が進んでおります。
16日、土曜日から、会場となります企画展示室の設営がはじまりました。
壁が林立する様子はまるで迷路のようです。

そして突然目の前に広がる「B」の文字は一体?!

迷路に謎はつきものということで、まだまだ謎めいたレポートですが、これから展示の様子が徐々に明らかになっていくかも?!
「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展開催まであと5日です!

特別展「時の迷路」開幕まであと10日!

4月 13日 水曜日

あと10日で開幕です。「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展!

愛媛県歴史文化博物館にて4月23日(土)からです。

展示の概要はこちらに詳しく紹介しています。

http://www.i-rekihaku.jp/exhibition/index.html

 今回の展示は、愛媛出身の迷路絵本作家・香川元太郎さんの作品をもとに、

歴史に興味を持つきっかけとして、

遊んで学ぶことのできる迷路とかくし絵の世界を体感できます。

 

佳姫の婚礼15(完)-遺された三枚の写真-

4月 10日 日曜日

 連載の締めくくりとして、最後に宇和島藩伊達家に伝わったと3枚の写真を掲載します。

 最初の1枚は9代藩主の伊達宗徳(だてむねえ)。アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』には、宗徳が小舟をイギリス軍艦へと漕ぎ寄せ、オペラグラスで覗く人物として登場します。艦上に案内された宗徳について、サトウは「彼は三十二歳、やや中背で、少しかぎ鼻の貴族的な顔をしており、全体的に立派な容姿をしていた」とその印象を記しています。写真を見ても、サトウが的確に宗徳の雰囲気をとらえていることがわかります。

 2枚目はこの連載で取り上げてきた佳姫(よしひめ)。体を真っ正面にむけて着座しています。顔は斜めに向け、お歯黒に置き眉という化粧がされ、いかにも大名夫人というお顔をしています。目は大きく見開き、きりりとしまった口には意志の強さもあらわれているように思います。大変めずらしい大名夫人の写真になります。

 最後の3枚目は佳姫が秋田藩佐竹家から嫁入りして、宇和島で亡くなるまでずっと世話を続けてきた老女綾瀬の写真。綾瀬は佳姫付きの奥女中を束ねる存在で、宇和島藩の奥女中のトップにふさわしい堂々とした姿に見受けられます。先の宗城の書簡にも綾瀬を思い遣る内容が記されていたので、宗城の信頼も厚かったのかもしれません。

 この三枚の写真をよく見ると、背景にいずれも紅葉を描いた屏風が使われているので、同じ時期に撮影したものと思われます。いつどのような経緯で、このような貴重な写真が撮影されたのか、興味がつきません。(完)

佳姫の婚礼14-佳姫の最後と老女綾瀬-

4月 7日 木曜日

  イギリス軍艦が宇和島を訪れたわずか2年後の明治元(1868)年、佳姫(よしひめ)は体調をくずし、閏4月中旬には「御疲労増し不安堵の御容体」となっています。宇和島藩医が作成した「御前様御容体書」には、「血色御薄く成られ小敷御動悸短息の御気味合」とあります。また、閏4月5日に佳姫を診察した藩医渡邊玄泰は、生まれつき体が弱く、産後なので一層弱っていると記しています。佳姫は慶応3(1867)年8月と12月に流産を繰り返しており、そのことが命を縮めることになりました。佳姫の容態は一進一退が続きますが、ついに5月晦日の午後2時頃に意識を失って昏睡状態となり、6月1日に日付が変わった丑上刻(午前2時頃)に亡くなりました。わずか32年の生涯でした。

 テーマ展「宇和島藩の姫君と奥女中」には、佳姫が亡くなったという知らせを受けた伊達宗城(だてむねなり)が、母親である観姫(みよひめ、宗紀の正室)に宛てた書簡を展示しています。その内容を紹介すると次のとおりです。
 
そのち当月朔日二日両度の別便参り候処、およしこと先月より少々不快の処、晦日よりにわかに不出来ニ付御心配いろいろ御世話も被成候間、遠江様いし(医師)とも手をつくし候得とも、その甲斐もなく朔日夜半には大切ニなり候よし、まことにおもひもよらぬ事にて何とも何ともいたいたしさおなし御心に残念にて、此ち(地)にてハねみゝ(寝耳)に水とや可申候にゆめ(夢)のこゝち(心地)のみ御座候、まつまつ深き御障も不被為存此上の御こと遠江にも強きハとふ(動)しもいたさぬよし安心仕候、此地にてハ日々御用にてとりこみ候、しらすしらす日なみもすき申候、綾せ様もさそさそと心の中おしはかり申候、遠江休息もひでハあの通の人にてあといかなるやらいろいろあん(案)じ居候、かしく
   (明治元年)六月十一日
    〆
     御母上様                            いよの守

 佳姫が先月より体調を崩し、5月晦日から重体となり、藩医もいろいろ手をつくしたが、6月1日夜半に亡くなったとの報を受けて、書簡には「おもひもよらぬ事」で残念と記し、宗徳(むねえ)は激しい動揺はしていないので、安心するようにと伝えています。また、佳姫付の老女である綾瀬の心中を思いやり、今後の宗徳の奥向きのことを案じています。

佳姫の婚礼13-奥女中が見たイギリス軍艦-

4月 6日 水曜日

 慶応2(1866)年のイギリス軍艦の宇和島来訪時のことを語っている人物として、シーボルトの孫娘高子がいます。高子はシーボルトの門人二宮敬作の甥で、自身もシーボルトが再来日した際に最後の門人となった三瀬諸淵と同年に結婚しています。高子は結婚前には宇和島藩の奥女中をとつとめていました。奥女中として体験したイギリス軍艦見学の模様を後に回想して語っています。

 この時の破天荒のことは、殿様の思召で、私共大奥の女中三十名が総勢挙って、黒船見物と申すのですから、大変であります。各々懐剣を用意して、マサカの場合には只では死なぬと、悲壮な覚悟を極めて参ったのでございます。…(中略)…参ってみれば、士官方の丁重な親切な接待ぶりで、皆アツケに取られました、私以外の女中方が驚いたのは、甲板上で襦袢を洗濯する水兵があり、襦袢をもつ毎に指の先から大変小さい泡を出して居る、シヤボンと云うものを知らぬ女中方の驚きは、非常なものでした。(長井石峰「シーボルトの孫高子逝く」(『伊予史談』97号、1938年)

 晩年の回想なので、どこまで正確かはわかりませんが、初めて目撃したイギリス軍艦の様子を生き生きと証言しています。もしかすると高子が語っているのは、佳姫(よしひめ)たちがイギリス軍艦を訪れた際に、奥女中たちも一緒になって見学した際の光景かもしれません。西洋人と日本の奥女中、鎖国時代なら相まみえることはありませんが、遠く隔たっていた二つの文化が触れあった瞬間を高子は語っているともいえそうです

佳姫の婚礼12-淑女と記された佳姫-

4月 5日 火曜日

 佳姫(よしひめ)は、婚礼後しばらくは江戸で暮らし、安政5(1858)年に伊達宗徳(むねえ)が家督相続、宇和島藩9代藩主となると、「御前様」と呼ばれるようになります。文久2(1862)年閏8月、文久の改革により参勤交代の制度が緩和されると、江戸から国許へと移り住むことになり、その翌年4月26日に宇和島に到着しています。宇和島藩の記録を見ると、佳姫の宇和島での様子としては、慶応元(1865)年4月30日に猶姫(宗城の正室)と一緒に家老神尾帯刀(たてわき)の別荘を訪れてタケノコ掘りをしたこと、9月9日に一宮神社の祭礼見物に外出したことなどがわかります。

 慶応2年にはイギリスの駐日公使パークスが乗船したイギリス軍艦が宇和島に来訪し、その時の様子を通訳官のアーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』に次のように記しています。

 隠居(伊達宗城)が立ち去ってから、この二人の君侯(宗城と宗徳)の妻子たちが艦にやってきた。彼女らは少しも私たちを恐れる気色がなく、ヨーロッパの淑女と同じくらいの心安さで、気持ちよく話をした。

 サトウが記した君侯の妻子たちの中に、佳姫もいたものと思われます。様々な教養を身につけている大名家の婦人は、西洋人サトウの眼にもレディそのものに映ったことでしょう。

佳姫の婚礼11-数々の嫁入道具-

4月 3日 日曜日

 宇和島藩9代藩主伊達宗徳(むねえ)と佳姫(よしひめ)との婚礼について追ってきましたが、秋田藩の記録からは、佳姫が宇和島藩に嫁入道具として持ち込んだ品の一端もうかがえます。安政3(1856)年7月よりとされる「佳姫様伊達様へ御入輿(にゅうよ)御召京都御注文申立控」を見ると、「御香御用」として銀葉や極上伽羅(きゃら)などの香木をはじめ、縮緬(ちりめん)の大夜着、綸子(りんず)や縮緬の振袖地などの多数の衣装が書き上げられています。香木や衣装などの多くが、伝統文化を体現する都市、京都に発注されていたことがわかります。その費用は金にして804両余り。1両5万円で換算すると、4000万円余りになります。

 また、この他にも、秋田藩の奥手代役が作成した安政3年10月の「佳姫様御引越御用立申立」という記録が遺されています。この記録には、様々な種類の笄(こうがい).かんざしなどの髪道具をはじめ、琴、義太夫三味線などの楽器類、袂入(たもといれ)や巾着(きんちゃく)、袱紗(ふくさ)などの小物類、眉(まゆ)はけ、眉白粉(まゆおしろい)、紅筆などの化粧道具などが記されています。こちらの費用は金で305両余り。現在の感覚でいうと1500万円余り。これらはおそらく以前記した5000両の支度金の中で準備されたものと考えられます。

 しかし、秋田藩の記録には、三棚をはじめとする婚礼調度をつくる経費を見出すことができません。佳姫が宇和島藩に持って入った婚礼調度は、花菱と幸菱を組み合わせた幾何学模様で埋め尽くし、要所に秋田藩の家紋月丸扇紋を散らした大変豪華なもので、この調度の製作により秋田藩の財政が傾いたという言い伝えもあります。このことについて、藤川裕子氏は縁組より以前に既にこれらの調度が準備されていたと推測していますが、先に記した婚礼時の秋田藩の経済状況を見ると、私もその理解でいいのではないかと思います。つまり、佳姫の婚礼調度は以前に準備されていたものが転用された可能性もあり、そのため財政状況の悪化した幕末の大名家の婚礼調度としては異例の豪華さであったとも考えることができます。佳姫の婚礼調度は、大名家の質量ともに最も充実した大名家の婚礼調度として、(財)宇和島伊達文化保存会に現在も伝わっています。

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