現在、秋に開催予定(10/6~12/2)の企画展「戦国南予風雲録」に向けて様々な資料調査や写真撮影を進めているところです。
そんな中、先日、松山市の佛性寺へ古文書の調査・撮影のためにうかがいました。当寺は、最澄に師事し晩年に延暦寺別当となった地元出身の光定上人が、天長6(829)年に勅により開創したと伝わる天台宗の古刹です。

といっても、調査資料は実は当寺とは内容的に全く関係のない、天正7(1579)年4月20日付、河野通直(牛福)が忽那亀寿に宛てた感状です。

宛先の忽那氏は元々本来忽那諸島(松山市中島)を本拠とした在地領主で、当時はすでに河野氏の配下となっていました。この頃、河野氏は毛利氏の助力を得ながら喜多郡北部肱川下流域で対抗勢力と軍事衝突や調略戦を繰り返していました。その相手は「大洲旧記」や「河野家譜」など後世の編纂物類によると土佐長宗我部氏の支援を得た大野直之の勢力といわれますが定かではありません。4月15日、花瀬城(大洲市北只)において合戦があり、河野方は敗北、そこで忽那式部少輔(通著)が奮戦するも討死したことが内容から分かります。この感状は、その功績を賞する旨を、息子の亀寿に対し伝えた文書です。忽那氏当主の子息に宛てていることから、当然最初は忽那家に所在したはずで、その意味でいえば現在知られている「忽那家文書」や「忽那とら文書」などと元は一連のものであったと考えられます。つまり、もうひとつの忽那文書ともいえるでしょう。
約1年半前に1度簡単な調査にうかがったことがあったのですが、今回あらためて展示に向けた調査にうかがったところ、御住職から思いもかけず寄贈の申出をいただきました。当館には、戦国末期の河野氏と喜多郡の関係を示す資料としてすでに「柁谷家文書」を収蔵していますが、喜多郡の中世を物語る貴重な資料をもうひとつ収蔵できることとなりました。詳しい資料解説についてはまた別の機会に譲りたいと思います。
秋の企画展ではもちろん展示を予定しておりますので乞うご期待!