2007 年 6 月 8 日 のアーカイブ

南予の中世城跡探訪1 ―曽根城周辺―

6月 8日 金曜日

 曽根城は、内子町の町並みの北、「城廻」(しろまわり)という場所にあります。地名がまさしく城の存在を示していておもしろいですよね。国道56号線、大洲方面からだと田中橋の信号を過ぎ、両側の建物がちょうどなくなった辺りで道は左へカーブし、すぐに「岡町口」のバス停が見えてきます。右に中山川、左に山の斜面という景色に変わりますが、まさに左側の山の尾根に曽根城はあります。といっても高い石垣や天守閣を備えた城ではなく、土塁や堀切を主体とする中世の山城です。

 大きく分けて3段の曲輪(くるわ)を備え、なかでも最も南(尾根の先端)に位置する曲輪は南北約140m、東西約90mの広さを誇ります。それらの周りにもいくつもの帯曲輪が配され、守りを固めています。また、それら曲輪部分の弱点は、背後に延びる尾根ですが、そこにも堀切を設けて、尾根のつながりを遮断しており、様々な防御遺構を見ることができます。

 この城の城主は、曽祢氏という領主でした。「祢」?と思われるかもしれませんが、当時の資料にはちゃんと「曽祢」と記されています。伝えるところでは、曽祢高昌なる武将がこの地に住み着き、内子曽祢氏の祖となったといわれます。戦国時代の喜多郡では紛争が絶えず、特に河野氏、毛利氏、一条氏、長宗我部氏、大友氏などといった周辺の諸大名からの干渉を受けながら、まさに境目地帯として混乱が続きました。曽祢氏も渦中にありながら、巧みに乱世を生き延びていきました。しかし、秀吉の権力が伊予へも及ぶようになると、曽根城は小早川隆景によって廃城とされ、曽祢氏も伊予を離れ毛利氏を頼り、近世には萩藩の家臣へと変貌することとなります。

 周辺にはゆかりの史跡が点在します。そのひとつ、西方へ麓川を越えた所には高昌神社が静かな佇まいを見せています。狭い境内の奥には、祖とされる曽祢高昌の墓碑が立ち、その手前には高昌妻女と、次代宣高夫妻の墓碑が並びます。といっても全て後世に建てられたもののようです。ただ、高昌墓碑の左にひっそりと立つ被葬者の分からない小さな五輪塔が2つ。案外古そうです。小さな方が傾いているのが、おそらく自然のいたずらでしょうが、なんとも睦まじい愛らしさを醸し出しています。

 足を町並みの方角へ戻すと、町並み駐車場に隣接して高昌寺があります。名前のとおり高昌を弔う寺であり、曽祢氏の菩提寺でもあります。駐車場からは、八日市・護国の町並みへ歩くよりも近いお寺です。町並み散策の際は足を運んでみてもよいでしょう。