Archive for 7月, 2007

今治市相の谷1号墳の出土遺物(7)破鏡(9号墓)

2007年7月31日

破鏡
破鏡(相の谷9号墓出土)

 相の谷9号墓は、相の谷1号墳と同一丘陵上に立地し、1号墳の南側約30mに位置します。1号墳の1次調査後の1966年7月に発見され、墳丘測量の結果、長さ13m、幅6.7mの方形台状墓と判断されました。発掘調査は1966年12月~翌年1月と3月に実施されています。発掘調査の結果、3基の埋葬主体が確認され、1号主体の箱式石棺から今回紹介する破鏡2点が出土しています。
 破鏡とは、銅鏡を意図的に分割した破片で、割れた面を磨いたり、穴を開けたりするものもあります。弥生時代後期末から古墳時代前期にかけて、北部九州を中心に分布し、愛媛県内では約10例が確認されています。多くが中国鏡を分割しており、北部九州を介して入手されたものと考えられています。
 この資料は、鏡の外側を中心としたもので、復元径17.0㎝の約1/6の破片2点です。それぞれの資料には径0.3㎝の穴が開けられていますが、その位置は異なります。紋様構成が一致することから同一の鏡の破片であると考えられます。中央部分の紋様がほとんど残存していないため、分割される前の鏡の種類を決めるのは困難ですが、外側の紋様構成の類例から細線式獣帯鏡(さいせんしきじゅうたいきょう)という中国鏡である可能性が高いと考えられます。
 さて、この9号墓がいつ作られたが問題となりますが、破鏡の他に勾玉・管玉・ガラス小玉が出土しており、これらには前代の弥生時代的な要素は見られません。近年、発掘調査された今治市高橋仏師Ⅰ遺跡(前方後円形墳墓)でも破鏡と土師器壺・高坏、鉄鏃、ガラス小玉、管玉が出土しています。この墳墓は出土した土器から古墳時代前期初頭に位置付けられており、9号墓の年代も古墳時代前期初頭に位置付けられると考えています。
 このように考えると、9号墓は相の谷1号墳を造営する集団が前方後円墳築造の数世代前に、北部九州勢力を界して入手した破鏡を副葬した墳墓であると位置付けることができます。10数mの墳墓を造営した集団が、数10年後には80m規模の前方後円墳を築くことになった背景にはどのような事情があったのでしょうか。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」8―武太夫物語―

2007年7月29日


これは武太夫物語(ぶだゆうものがたり)、別名、稲生物怪録絵巻(いのうもののけろくえまき)と呼ばれる絵巻物で、江戸時代に起こった怪異を描いたものです。(国立歴史民俗博物館所蔵)

安芸国(広島県)の稲生武太夫が友人と、百物語(怪談会)をしたところ、7月1日から7月30日まで毎日、毎晩、様々な妖怪が現れるようになります。ところが武太夫は怖じ恐れることなく1ヶ月間淡々と対応したので、最後に妖怪の魔王とされる山本五郎左衛門が現れて、妖怪ともども一同に退散してしまうという内容です。

この1ヶ月、さまざまな出来事が起こっていることが記されていますが、その一部を紹介しておきます。

1 稲生武太夫(平太郎)が、百物語をしたために、7月1日から30日間、様々な怪異に出会う。7月1日には、ヒゲを生やした一つ目の大男が、平太郎に襲いかかる。

2 一緒に百物語をした権八の家にも一つ目の童子が出現した。


3 7月3日、女性の生首が、さかさまで、髪をつきたてて、歩いてきた。

4 7月3日の夜、天井から、ひょうたんが、突然さがってきた。

5 7月5日、カニに似ていて、足のたくさんある石が現れた。

6 7月6日、庭に出て、たきぎ小屋を見ると、大きな老婆の顔が戸口をふさいでいた。

7 7月10日、貞八という知り合いに化けた妖怪が来る。頭の中から子供がでてきた。

8 7月12日、大きなカエルが出る。赤いヒモで結ばれていたので、ヒモを持って寝ると、朝、カエルはつづらになっていた。

9 7月14日、目ざめてみると、老婆の顔があって、舌をのばして舐められてしまう。

10 7月17日、家に女性が訪れた。すると勝手に盥(たらい)が転がっていった。

11 7月17日の夜、目は丸くて、串刺しになった首が数多く飛びはねた。

12 7月21日、夜、あんどんの明かりをつけると、人影があらわれた。

13 7月22日、朝起きると、ほうきが勝手に掃除をしていた。

14 7月23日、家の天井に、見たこともない大きなハチの巣が現れた。

15 7月24日の昼に、大きなチョウが家に飛び込んで、ぶつかって粉々になると無数の小さなチョウになった。

16 7月24日の夜、あんどんに火をともすと石塔になって、激しく燃えだした。

17 7月25日、縁側から庭におりようとすると、大入道が横たわっていた。

18 7月28日、虚無僧が大きな音で尺八を吹きながら入るが、武太夫は平気で寝る。

19 7月30日、左には妖怪の「魔王」である山本五郎左衛門、右には武太夫の守護神(冠装束姿)が現れる。

20 妖怪の「魔王」山本五郎左衛門は、手下の妖怪が担ぐカゴに乗って、去っていく。それ以降、武太夫に怪異は起こらなくなった。

※現在、この絵巻は、七月九日までの怪異場面を展示しています。後期展示(8月8日~)では、七月二十日過ぎから、三十日までの怪異場面を展示する予定です。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」7―昔の暦―

2007年7月28日

異界・妖怪大博覧会では、まじない・占い・吉凶に関するコーナーも設けています。その中から、昔の暦(カレンダー)も展示しています。暦には縁起のよい方角などさまざま吉凶に関する記述があります。

ところが、その暦をよく観ると「昔の人は大安・仏滅を信じていなかった?」と思わせるふしが・・・。大安や仏滅、友引といった、今のカレンダーに頻繁に載っている吉凶記述が見当たらないのです。

現代の人は、結婚式は「大安」の日をえらんで、お葬式は「友引」の日をさけることが多いですね。これが昔からの「当たり前」だと思ったら、実は違っていたようです。


※明治時代初期の改暦以前の暦(個人蔵・当館保管)

ほかの江戸時代の暦(カレンダー)を見わたしても、「大安」や「仏滅」、「友引」など(これを六曜といいます。)は出てきません。百科事典のような何事にも詳しい書物には、以下のように出てきますが、一般庶民は気にしていなかったようです。

 事林広記(中国の宋時代)
   大安・留連・速喜・赤口・小吉・空亡
 和漢三才図会(江戸時代中期)
   大安・留連・速喜・赤口・小吉・空亡
 天保大雑書万暦大成(江戸後期)
   先勝・友引・先負・物滅・泰安・赤口
 現在のカレンダー
   先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口

これを見ると、次のようなことに気づきます。
・六曜は日常生活に密着するものではなく、当時の「百科事典」に出てくるような特別な知識でした。
・大安は、江戸時代後期には「泰安」とも書いています。
・仏滅は、江戸後期には「物滅」と出てきますが、「物が滅する」意味で、江戸中期以前には「空亡」と呼ばれていました。「仏が滅する」ので縁起が悪いとされるようになったのは、最近のことのようです。
・友引は「ゆういん」とも呼びますが、これは江戸中期の「留連(りゅうれん)」が訛ったもののようです。

実は、「六曜」が流行するきっかけは、明治初期に改暦による暦注(吉凶の記述)の廃止(それまではさまざまな吉凶・占いの記述が暦には記されていた)であり、それまで一般的でなかった「六曜」を人々が日々の吉凶判断に使い始め、戦後になって定着しまたのです。ちなみに、皇室の結婚式で大安を選ぶようになったのも、戦後の昭和34年からです。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」6―幽霊図―

2007年7月27日


これは、円山応挙が描いたと伝えられる幽霊図(複製・国立歴史民俗博物館所蔵・原資料は全生庵所蔵)。円山応挙は1795年に没しているので、200年以上前の幽霊図といえます。

さて、一般に「幽霊」には足がありません。足のない幽霊を最初に描いたのは、この江戸時代の絵師・円山応挙(1733年生~1795年没)といわれています。この説は、既に江戸時代後期の随筆「松の落葉」にも見られます。ところが、応挙が生まれる前の1673年には、浄瑠璃本「花山院きさきあらそひ」に足のない幽霊が描かれていることが指摘されています。

ただし、版本以外の肉筆画では、応挙より古い足のない幽霊図は確認されていないようです。なお、幽霊に足がないのは応挙の幽霊画が「反魂香之図」という題名をつけられているように、お香の煙の中に死者が現れることで、足が煙で覆われていて見えないという説が有力です。つまり、足がないのではなく、足が見えなくなっているというのです。


ちなみに、同時展示している「怪物画本」(香川大学図書館蔵・神原文庫)にも幽霊が描かれています。これは1802年に描き集められた画集なので、江戸時代後期には、足のない幽霊のイメージは定着していたようです。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」5―十界図―

2007年7月26日

仏教では、迷える者・悟れる者すべて含めて、この世界を10の領域に分けており、これを「十界(じっかい)」といいます。その10の世界とは次のとおりです。

1 地獄界・・・・閻魔(えんま)にさばかれて様々な責め苦を受ける。
2 餓鬼界・・・・飢えに苦しみ、食べ物を手に取ると火に変わってしまう。
3 畜生界・・・・悪い行いをした者が生まれ変わる動物世界。
4 修羅界・・・・いつも戦いばかりして、平和のない殺伐とした世界。
5 人界・・・・・人間の住んでいる平凡な世界。
6 天界・・・・・天上の世界。ここまでを「六道」(ろくどう・りくどう)という。
7 声聞界・・・・仏の教えを聞くことができる世界。(声を聞いて悟る)
8 縁覚界・・・・様々なことを感じとることができる世界。(縁によって悟る)
9 菩薩界・・・・悟りをひらいて仏になろうと修行にはげむ世界。
10 仏界・・・・・悟り(迷いを断ち切り真理を知る事)をひらいた仏の世界。

そして、地獄界の中でもさまざまな地獄があり「八大地獄」などと呼ばれます。「八大地獄」は次のとおりです。

1 等活(とうかつ)地獄
 殺生の罪を犯した者がおちるとされる。常に殺し合いをする地獄。
2 黒縄(こくじょう)地獄
 殺生・盗みの罪を犯した者がおちるとされる。台地は熱く焼けた鉄で、斧や鋸で体を切りきざまれるとされる。
3 衆合(しゅごう)地獄
 殺生・盗み・邪淫の罪を犯した者がおちるとされる。鉄の山がくずれ落ちてきて、つぶされるという。
4 叫喚(きょうかん)地獄・5大叫喚地獄
 殺生・盗み・邪淫・飲酒の罪を犯した者がおちるとされる。 熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、泣き叫ぶという。
6 焦熱(しょうねつ)地獄・7大焦熱地獄
 殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見の罪を犯したものは、たえがたい火熱の苦しみを受けるという。
8 阿鼻(あび)地獄<無間(むげん)地獄ともいう>
 両親や出家僧を殺害するなどの大悪を犯した者などが死後におち、罪のつぐないとして焼かれ続けるという。地獄中では最も苦しい地獄。

その他にも、寒地獄や血の池地獄、両婦地獄などもあります。


※十界図(三幅のうち左幅)

さて、この図は愛媛県内の寺院に所蔵されているもので、毎年1月16日と8月16日に、その寺院にてご開帳される十界図です。仏・菩薩・人・地獄などさまざまな世界が描かれています。製作年代は江戸時代末期の文久元(1861)年で、地元の者が寄進したものです。3幅あり、この(左)の掛軸には上部は阿弥陀如来(仏)が来迎して救済する場面、中段以下は、さまざまな地獄世界が表現されています。


※十界図(三幅のうち中央)

この(中央)の掛軸には、上部に、恐ろしい形相をした閻魔王が描かれ、死者を裁いています。中段以下には、さまざまな地獄世界に加え、修羅(人が戦ばかりする世界)、餓鬼(食物が火に変わって飢えてしまう世界)も描かれています。


※十界図(三幅のうち右幅)

この(右)の掛軸では、上部には賽の河原(三途の川)が描かれていますが、地蔵菩薩が特に強調されており、地獄世界からの救済者として信仰を集めていたことがわかります。中段には、墓地の様子、下段にはさまざまな地獄世界が描かれています。このような掛軸は、年中行事として定期的に公開されることで、庶民にも「あの世」の姿が教え導かれたのです。

※なお、このような地獄世界などを描いた十界図や、愛媛県内の「あの世」(墓・お盆行事)などについては、7月28日(土)13:30~当館研修室にて学芸員による関連講座が行われます。タイトルは「あの世と地獄―日本人の死生観―」。定員80名ですが、まだ若干、空きがありますので、興味のある方はお申込・ご参加ください。

妖怪展がテレビ取材を受けました。

2007年7月25日

毎週木曜日の夜、21:54から22:00に放送されている「愛媛なんでも県聞録」というテレビ番組をご存知ですか?愛媛県の県政広報番組なのですが、この番組で「異界・妖怪大博覧会」が紹介されます。
24日に、当館の展示室にて収録が行われました。放映時間は数分と短いのですが、収録とその準備としての打ち合わせは念入りに行われました。
企画展の担当者が、スタッフの方に企画展について丁寧に解説をしていきます。その過程で、展示のどの部分をどれくらい紹介するかを話し合います。

収録では、担当者が「妖怪(に詳しい)学芸員」として、「牛鬼」や「百鬼夜行図」、「幽霊画」についてリポーターの方との軽妙なトークを繰り広げました。資料の説明や、会期中のイベントなどを、限られた時間の中でわかりやすく伝えるために、何度も撮り直しをする様子が印象的でした。
ライトのちょっとした角度や、小さな物音にも細心の注意を払って撮影されるスタッフの方の仕事ぶりにもびっくりです。
結局撮影は午後まるまるかかって行われました。

放映は、8月2日(木)の夜、テレビ愛媛のチャンネルにて21:54から22:00です。妖怪展をまだご覧になっていない皆様、この時間には、テレビの前に集合です!

マイバックできたよ!!

2007年7月24日

「夏休みは歴博に行ってみる!?」と題して夏休みイベントがはじまりました。
7月22日(日)は「クレヨン染めでマイバックづくり」でした。午後1時の受付前から多くのお客さまにお集まりいただき、約1時間ほどで定員になりました。
クレヨン染めは、『暮しの手帖』第4号(昭和24年)に「コドモでも出来るクレオン染め」と題して紹介されました。クレヨンの原料に着目したこの染色方法は、身近な文房具を使って手軽に毎日の暮らしにいろどりをそえてくれます。

今回のマイバックづくりでは、まず最初に紙に下絵を描いてもらいました。そして、その紙を無地のバックの中に入れると図案が透けてみえます。いよいよクレヨンの出番。図案を元にクレヨンで色を塗っていきます。

最後にクレヨンでぬった絵の上に紙をあてて、アイロンをかけます。ロウがにじみ出てこなくなるまで、紙を替えながら2~3回アイロンをかけると、染めあがりです。もちろん、下絵なしに直接クレヨンで絵を描いてもかまいませんよ。

参加者のみなさん、思い思いに絵をバックいっぱいに描いていきます。世界に1つだけのバックの完成です。

今回ご用意した布バックは薄手のマチのあるタイプなので、小さく折り畳んでエコバックとしても利用しやすいと思います。ちょっと昔の雑誌が紹介してくれた新しい暮らしへの提案は、現代の私たちの暮らしにも活用できますね。

次週7月28日(土)・29日(日)午後1時から開催するイベントは、「分銅型土製品をつくろう」(各日先着20名)です。おたのしみに!!

開催中!「異界・妖怪大博覧会」4―大洲妖怪録―


※大洲妖怪録(愛媛県立図書館蔵)

この資料は、江戸時代、大洲藩内での奇怪な出来事をまとめたものです。幽霊・天狗・鬼女の怪異談が多く紹介されています。もともとの書名は「洲藩奇怪録」で、明治39年に愛媛を代表する郷土史家の西園寺源透が書写した際に「大洲妖怪録」と名付けられました。本資料は大正3年の写しです。(原本は、大洲市の法華寺にあったとされています。)

なお、本資料については、『近畿大学日本語・日本文学』第8号(平成18年発行)に、星川裕氏が「大洲妖怪録(翻刻)」として、翻刻・資料紹介を既に発表し、活字化されています。

この大洲妖怪録には、様々な怪異談が紹介されていますが、ごく一部ですが概要を紹介しておきます。

1 城中妖怪之事
  大洲城に「大入道」が出たが、古狸を捕まえると、その後は出なくなった。
2 魔栖ヶ窪化物之事
  楠木正成を討った大森彦七が猿楽を見に行く途中、鬼女に出会う。
3 舟幽霊之事
  長浜という港で毎年7月15日に、沖で大船が近寄るかと思えば遠ざかる舟幽霊が出る。
4 大人(オオヒト)の足跡を見し事
  享保年間、平野の聖宮社の前に、仁王のような大きな足跡があったという話。
5 百物語催せし事
  享保年間に、若者が百物語(怪談話)をしていると、熊のような手が塀から出てきた。
6 夜行の神に逢し事
  上須戒と高山の境に古城があって毎月27日に頭の無い馬が通る。これを夜行の神という。
7 耳ふさぎし事
  同じ年の者が亡くなると、それを聞くのを忌んで、餅で耳をふさぐという慣習がある。

この大洲妖怪録のように、江戸時代に地元の怪異談だけを集めた資料は、伊予国の中では他には確認されていません。怪異資料として特異なものであるとともに、江戸時代の伊予国の怪異伝承を記録した貴重な資料といえます。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(6)中世土器

2007年7月22日

羽釜
羽釜

 今回の再整理の成果として、中世土器を新たに確認し資料化したことがあります。中世の土器は数十点が墳丘や竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)内から出土していることがわかりました。発掘調査時に作成された報告書にも出土状況の写真が掲載されていますが、どのような土器であるかはわかりませんでした。

土師質土器の出土状況
土師質土器の出土状況

 1985年に作成された報告文には、「(墳丘)第2段目の両側のくびれ部には幅25cmの溝があり、土師器の杯、鉢、三脚付鍋などを出土した。時期は平安時代後期~鎌倉時代のものである。この時期に祭祀が行われたものであろう」と記され、土師(はじ)質土器皿や杯(つき)、羽釜(はがま)が部分的に並んだ状態の図が掲載されています。また、出土状況の写真の中にも、羽釜の側に土師質土器杯が出土しているものがあり、墳丘上で土師質土器羽釜と土師質土器皿杯を用いた、何らかの祭祀を行っていたことが推測されます。
 今回の整理の結果、これらの土師質土器は今治平野で製作されたものではなく、松山平野でも特に、松山市湯築城跡出土資料と類似していることがわかりました。更に、湯築城跡出土土器に関する研究成果からこれらの土器は16世紀中頃の資料であることがわかり、中世伊予の守護河野氏と関連が想定できます。
 また、竪穴式石槨内から出土した陶磁器は16世紀代の青花碗の破片であることがわかり、主体部が撹乱(かくらん)された時期が16世紀以降であることもわかりました。
 相の谷1号墳は来島海峡を望む位置に立地しています。今回整理した中世土器から、この地が古墳築造後千数百年を経た戦国時代にも、何らかの形で利用されていた可能性が高くなりました。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

中国四国名所旧跡図8 手枕の松

2007年7月21日

中国四国名所旧跡図8-1
 舞子の浜を描いた西丈はさらに山陽道を進み、次に別府(加古川市)の海辺の景色を描いている。瀬戸内海には左に淡路島、右に「江島」と記された家島が浮かぶ。手前の砂浜には人影が見えるが、潮干狩りの情景であろう。西丈が描いた海辺も、現在は臨海部が埋め立てられ神戸製鋼が進出して大きく変化しており、潮干狩りも失われた情景になってしまった。別府の海辺を名所とする記述をあまり見ないだけに、西丈が舞子の浜とそれほど違わない別府をなぜ描いたのか疑問が残るが、やはり瀬戸内海の海辺の情景は、旅を始めたばかりの西丈にとって、どこを見ても魅力的だったのかもしれない。

 海辺以上に広く知られる別府の名所というと、次に西丈が描いている住吉神社の手枕の松があげられる。手枕の松は、人が手枕をして寝ているような姿をしていることから、その名が付けられたといわれる。一抱えばかりの太さで、地面から1間ばかり上に出て、横には長さ10間ばかり広がり、枝葉は繁茂して年々青く緑が栄えていると、この松について『播磨鑑』は書き記している。また、横に伸びる幹にはそれを支えるつか柱をして、松の廻りは石の垣根を築いて隔てているともある。
中国四国名所旧跡図8-2
 西丈の絵を見ると、『播磨鑑』の情報そのままに手枕の松が描かれていることが分かる。舞子の浜では小さく描かれていた松もここでは堂々と主役となり、見事な枝ぶりを見せている。西丈もこの松の旺盛な生命力を描き切って十分に満足したらしく、絵の脇に「門二つ、地取六各、かき(垣)九百六十三本、西国一の松也」と記している。

 初代の手枕の松は、残念ながら大正時代に枯れて、現在は三代目にあたるそうである。それでも高さ約5m、枝ぶり約18mと堂々とした姿をしている。時がたつにしたがい、初代の松の勇姿に近づきつつある。