2007 年 7 月 14 日 のアーカイブ

開催中!「異界・妖怪大博覧会」1―河童―

7月 14日 土曜日


※河童・川太郎図(国立歴史民俗博物館蔵)

企画展「異界・妖怪大博覧会」開幕から6日目です。毎日、展示を観覧された方々からご質問やご意見をいただきますが、特に多いのが河童に関することです。展示では「河童・川太郎図」(国立歴史民俗博物館蔵)や「河童考」(香川大学図書館蔵・神原文庫)などを紹介していますが、地域によって河童の姿や名称がどのように違っているのかというご質問をいただきました。

この点については、石川純一郎氏『河童の世界』(時事通信社)に詳しく紹介されています。その大要ですが、関東地方ではカワワラワ・カワッパ・カッパといい、漢字の「河童」から来た呼称が多く、これは人身つまり人間の子供を想定しているといいます。また、九州地方でも、ガワッパ、ガラッパ、ガッパなどと呼び、関東地方に類しています。そして、東北地方ではメドチ、ミズチと呼び、これは水蛇から来た呼び方です。北陸地方ではガメ、ドチといい、スッポンから来ていて、中国・四国地方ではエンコ・エンコーと呼び、これは猿侯つまり猿から来た呼び方となっています。また、津軽ではスイコ、越後地方ではシイジン、熊本でセコなど「水神」から来た呼び方もあります。

河童の名称や姿(イメージ)の変遷については『怪異の民俗学3 河童』(河出書房新社)所収の「河童解説」(小松和彦氏執筆)にもまとめられています。多くの妖怪絵巻や怪異小説が作られた中世後期には「河童」は全く登場せず、「河童」が文献に頻繁に登場するのは近世になってからだといいます。もともと名称や姿(イメージ)は地方によって異なっていた河童を、江戸時代に本草学者が実在する動物らしいと考え、記述・記録し、「河童」のイメージが完成したといいます。

さて、愛媛では河童をエンコと呼びます。『愛媛県史』民俗編上に愛媛の河童伝承については端的に紹介されていますが、カワウソの生息地にエンコ伝承が多いとされ、関前村(現今治市)ではエンコとカワウソを同体異名ととらえたりしています。宇和海沿岸でも河童(エンコ)の正体はカワウソではないかともいわれます。(なお、これと同様の説は、今から550年前の辞書「下学集」にも「カワウソが老いて河童になる」と書かれています。)エンコの正体を猿とする伝承は愛媛では数多くありませんが、三間町(現宇和島市)でエンコは手の長い猿の一種と伝えられています。

「河童」はもともと関東地方の方言で、これが江戸時代に本草学者らの手によって一般呼称化したものであり、地域と時代によって河童の呼称・姿(イメージ)は異なり、多様であるといえます。

中国四国名所旧跡図6 敦盛塚

 西丈は、当時の旅人と同様に兵庫から須磨にかけての名所を訪ね歩いたものと思われる。須磨寺や一の谷の古戦場などがあるこのエリアで西丈が描いたのが、平敦盛(あつもり)を供養するために建てられたという敦盛塚であった。西丈は敦盛塚を「一ノ谷敦盛石塔」と記している。
中国四国名所旧跡図6

 平敦盛は清盛の弟である経盛(つねもり)の子で、一の谷の合戦当時16歳であったが、源氏の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれ命を落とす。海の平家の軍船に馬を進めながらも、熊谷直実に呼び止められ引き返して討ち取られる「敦盛の最期」は、「平家物語」の中でも最も有名な場面である。

 敦盛塚は花崗岩製の総高395センチの巨大な五輪塔で、中世の五輪塔としては石清水八幡宮の五輪塔(京都府八幡市)に次いで、全国で第2位の規模を誇る。江戸時代の旅人にもその大きさは印象的だったらしく、一丈余りあるいは一丈二尺ともその高さを書き残している。五輪塔には西丈の絵にあるように梵字が大きく彫り込まれており、紀年銘はないが形式から室町時代後期から安土桃山時代の製作と考えられている。敦盛塚自体は現存しているので、西丈の絵に目新しいところはないが、江戸時代後期の敦盛塚の周辺環境がうかがえる点が興味深い。敦盛塚は松林の中に立地し、その前に旅人が休む茶屋のような施設があったことがうかがえる。塚を取り囲む石垣は現在も同じようにあるが、塚の周りや石垣の上に小さな石を積んだものがたくさん見える。この状況は、往来の旅人が追善として石を積み、塔を建てて弔っていると『摂津名所図絵』に記されていることに符合する。西丈が残した一首。
「たひ人のはうハ播磨のはますくひ熊谷茶屋のそハのあつもり」