2007 年 7 月 のアーカイブ

開催中!「異界・妖怪大博覧会」3―生首の旗―

7月 20日 金曜日


※生首の旗指物(宇和島市立伊達博物館蔵)

これは高さ2メートルもある大きな旗です。この大きな生首の旗は何に使ったのでしょうか。生首は恐ろしいのですが、実はこれは家のシンボルといえるものなのです。

戦国時代から江戸時代にかけて、合戦の際には、自軍の勢いをしめしたり、大将の居場所を教えたりるために、大きな旗を使っていました。これを旗指物(はたさしもの)といいます。

この大きな旗も旗指物のひとつで、江戸時代に宇和島藩の家老をつとめた松根家に代々伝わったものです。この旗には次のような言い伝えがあります。

昔、松根家の先祖(出羽最上藩・今の山形県)が深夜に城下を歩いている(または、旅に出ていた時だという伝承もあります)と、ある家の回りを幽霊が飛び回っているのに出会います。その幽霊は、松根に向かって、「この家の主人に恨みがある。このような幽霊の姿になったうえ、この家に魔除けの札が張ってあり、家の中に入って仇討(あだう)ちを果たすことができない。この御札(おふだ)をはがしていただきたい。」というので、松根は御札をはがしてやりました。

御札がはがれた途端、幽霊はこの家に飛び込み、家の中で悲鳴が聞こえた後、幽霊は主人の生首を持って、松根の前に現れました。そして「自分はこれで成仏することができるが、この生首をあなたに差し上げ、葬っていただきたいが受けてもらえるか。」というので松根はこれを受け取ります。そして竹林に埋めて手厚く葬りました。

松根はこの生首を、合戦のときに、戦場の旗指物に描き、以後この物語と旗指物は「松根の生首」として有名になり、松根家は宇和島藩の家臣として出世し、家のシンボルとして代々伝わったのです。

なお、松根家の子孫で俳人として有名な松根東洋城(1878-1964)も、この生首の旗について「朧夜(おぼろよ)や 旌旗(せいき)生首 家の蔵」と詠んでいます。

中国四国名所旧跡図7 舞子の浜

7月 19日 木曜日

 舞子の浜は、播磨の明石海峡の海浜にある美しい松並木で知られる名勝で、風により傾いて生える磯馴松(いそなれまつ)の姿が、舞子(舞妓)の華麗に舞う姿に似ていたことからその名が付けられた。
中国四国名所旧跡図7
 舞子の浜を描いた絵としては、画面から飛び出るぐらいに松を全面に描いた初代歌川広重の『六十余州名所図絵』の一枚が有名であるが、西丈の絵は手前の海岸線に、広重よりも小さくであるが、踊るような松の姿が描かれている。画面中央には淡路島が据えられ、それをとりまきたくさんの廻船が航海している。舞子の浜から淡路島や明石海峡への眺めは、多くの江戸時代の人々を楽しませていたが、西丈はそのことを十分に意識して舞子の浜を描いているように思える。

 舞子の浜の松は、戦前には樹齢を重ねた見事な枝ぶりのものもあったが、残念ながら松くい虫により全滅し、現在はほとんど戦後に植林されたものとなっている。さらに、西丈が描いたアングルには明石海峡大橋が架かり、その景観も大きく様変わりしている。この大きな変化を見て、西丈はどのような感想を洩らすのか、少し聞いてみたい気もしてくる。最期にいつもように、西丈が絵に添えた一首を紹介する。
「浪うてハしほの引てに風謡ふいつもの舞子の濱の松はら」

※下は二代歌川広重が『諸国名所百景』で描いた「播州舞子の浜」。初代広重のように松を大きく描いているが、西丈のように淡路や明石の眺めも描いていることから、両者を折衷した絵ともいえそうである。画面手前の人物が、背中の籠に入れているのは松葉であろうか。
諸国名所百景 舞子の浜

開催中!「異界・妖怪大博覧会」2―鍾馗―

7月 18日 水曜日


※河鍋暁斎画「鍾馗図」(今治市河野美術館蔵)

この図は、幕末から明治時代にかけて活躍した絵師の河鍋暁斎(かわなべきょうさい)が明治19年に描いた鍾馗(しょうき)です。上から官人姿で口ひげを生やした鍾馗がにらみつけ、大鬼が小鬼を抱きかかえて退散しようとしています。

鍾馗は、妖怪・お化けというよりは中国における神とでもいうべきものです。疫病(えきびょう)を追い払い、邪を除くとも信じられ、鬼を追い払う様子の図がよく描かれています。

もともとは、中国の玄宗皇帝の夢に出てきて、病気をなおしたという故事があり、その話が日本にも伝わりました。その説話は次のとおりです。

中国の唐の時代、玄宗皇帝が熱病に患った時、大鬼が小鬼を捕らえる夢を見た。皇帝が大鬼に正体を聞くと、自分は「鍾馗」で、役人の試験(科挙)に落第して自殺したが、当時の皇帝が手厚く葬ってくれたので感謝していると言った。すると玄宗皇帝は夢から覚めると病気が治っていた。そして鍾馗には邪を祓う力があるとして世間に知れわたった。

日本でも、平安時代末期に描かれたとされる「地獄草紙」(益田家本乙巻)にも、鍾馗が、病気をひきおこす鬼を捕らえて、退治する様子が描かれています。詞書にも「目をくじり、躰をやぶりて、これをすつ」つまり、鬼の目玉をくりぬいて、体を引き裂いて棄てるというのです。また「地獄草紙」には、お正月に鍾馗の絵を家の玄関にはると魔除けとなるとも記されています。現在でも、5月端午の節句や、夏の暑気払いに鍾馗を描いたお札をはる習慣が各所で残っています。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(5)埴輪の整理成果

7月 16日 月曜日

円筒埴輪
円筒埴輪

 今回、再整理した結果、埴輪片は約4200点を数え、これまで知られていた円筒埴輪・壺形埴輪の他に朝顔形埴輪があることがわかりました。(資料目録には、その中の88点を収録しています。)
 それぞれの埴輪の特徴としては、(1)円筒埴輪には鋸歯文(きょしもん)・竹管文(ちっかんもん)といった紋様が加えられていること。(2)壺形埴輪では「東四国系壺形埴輪」という製作技法に類似していること。(3)朝顔形埴輪では、奈良県東殿塚古墳や大阪府玉手山古墳群に類例を確認でき、その原形は大和をはじめとする畿内にあることが明らかとなりました。

壺形埴輪
壺形埴輪

 また、出土地毎にみた破片の数からは、後円部墳頂には壺形埴輪、くびれ部には朝顔形埴輪、前方部には円筒埴輪が多い傾向がわかり、埴輪の配列に規則性がある可能性が出てきました。

朝顔形埴輪の一部
朝顔形埴輪の一部

 このように、円筒埴輪、壺形埴輪、朝顔形埴輪を墳丘に配置する前期古墳は、県内には無く、四国内でも比較する古墳が少ないのが現状です。その技術系譜は円筒埴輪・朝顔形埴輪は畿内に、壺形埴輪は東四国(讃岐・阿波)に求めることができ、この古墳の築造された背景を探る上で重要な事柄です。これらの埴輪の年代観は、古墳時代前期中葉(4世紀中葉)と想定されています。
 大量に発見された埴輪の再整理から古墳の築造された背景や地域関係などが少しずつ明らかになってきました。

※この埴輪の整理成果は(財)愛媛県埋蔵文化財調査センター山内英樹氏によるものです。資料目録には「相の谷1号墳出土埴輪についての諸問題」が掲載されています。合わせてご参照ください。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

おばけ紙芝居のはじまり、はじまり。

7月 15日 日曜日

14日は、「異界・妖怪大博覧会」の関連イベントとして、おばけ紙芝居を上演しました。この日演じた紙芝居は「あめかいゆうれい」や「かっぱの手紙」、「たのきゅう」など11種類です。
台風の近づくあいにくのお天気でしたが、窓の外の風の音も雰囲気を盛り上げます。
ボランティアさんの熱演に、こどもたちも真剣に見入って、楽しんでくれた様子でした。

「あめかいゆうれい」は企画展でも「子育て幽霊」の掛軸が展示されていますし、「かっぱのてがみ」に関しては、かっぱの絵や狛犬を展示室で見ることができます。
おばけの紙芝居に合せて、展示もぜひ見ていただきたいところです。

今回の「おばけ紙芝居」のために準備した紙芝居はなんと31種類!
おばけの紙芝居はまだまだあります。
おばけ紙芝居は、7月15日(日)16日(月)、そして8月25日(土)26日(日)のいずれも 14:00から15:30の間に体験学習室で行います。
ご気軽にご参加ください。お待ちしています

開催中!「異界・妖怪大博覧会」1―河童―

7月 14日 土曜日


※河童・川太郎図(国立歴史民俗博物館蔵)

企画展「異界・妖怪大博覧会」開幕から6日目です。毎日、展示を観覧された方々からご質問やご意見をいただきますが、特に多いのが河童に関することです。展示では「河童・川太郎図」(国立歴史民俗博物館蔵)や「河童考」(香川大学図書館蔵・神原文庫)などを紹介していますが、地域によって河童の姿や名称がどのように違っているのかというご質問をいただきました。

この点については、石川純一郎氏『河童の世界』(時事通信社)に詳しく紹介されています。その大要ですが、関東地方ではカワワラワ・カワッパ・カッパといい、漢字の「河童」から来た呼称が多く、これは人身つまり人間の子供を想定しているといいます。また、九州地方でも、ガワッパ、ガラッパ、ガッパなどと呼び、関東地方に類しています。そして、東北地方ではメドチ、ミズチと呼び、これは水蛇から来た呼び方です。北陸地方ではガメ、ドチといい、スッポンから来ていて、中国・四国地方ではエンコ・エンコーと呼び、これは猿侯つまり猿から来た呼び方となっています。また、津軽ではスイコ、越後地方ではシイジン、熊本でセコなど「水神」から来た呼び方もあります。

河童の名称や姿(イメージ)の変遷については『怪異の民俗学3 河童』(河出書房新社)所収の「河童解説」(小松和彦氏執筆)にもまとめられています。多くの妖怪絵巻や怪異小説が作られた中世後期には「河童」は全く登場せず、「河童」が文献に頻繁に登場するのは近世になってからだといいます。もともと名称や姿(イメージ)は地方によって異なっていた河童を、江戸時代に本草学者が実在する動物らしいと考え、記述・記録し、「河童」のイメージが完成したといいます。

さて、愛媛では河童をエンコと呼びます。『愛媛県史』民俗編上に愛媛の河童伝承については端的に紹介されていますが、カワウソの生息地にエンコ伝承が多いとされ、関前村(現今治市)ではエンコとカワウソを同体異名ととらえたりしています。宇和海沿岸でも河童(エンコ)の正体はカワウソではないかともいわれます。(なお、これと同様の説は、今から550年前の辞書「下学集」にも「カワウソが老いて河童になる」と書かれています。)エンコの正体を猿とする伝承は愛媛では数多くありませんが、三間町(現宇和島市)でエンコは手の長い猿の一種と伝えられています。

「河童」はもともと関東地方の方言で、これが江戸時代に本草学者らの手によって一般呼称化したものであり、地域と時代によって河童の呼称・姿(イメージ)は異なり、多様であるといえます。

中国四国名所旧跡図6 敦盛塚

 西丈は、当時の旅人と同様に兵庫から須磨にかけての名所を訪ね歩いたものと思われる。須磨寺や一の谷の古戦場などがあるこのエリアで西丈が描いたのが、平敦盛(あつもり)を供養するために建てられたという敦盛塚であった。西丈は敦盛塚を「一ノ谷敦盛石塔」と記している。
中国四国名所旧跡図6

 平敦盛は清盛の弟である経盛(つねもり)の子で、一の谷の合戦当時16歳であったが、源氏の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれ命を落とす。海の平家の軍船に馬を進めながらも、熊谷直実に呼び止められ引き返して討ち取られる「敦盛の最期」は、「平家物語」の中でも最も有名な場面である。

 敦盛塚は花崗岩製の総高395センチの巨大な五輪塔で、中世の五輪塔としては石清水八幡宮の五輪塔(京都府八幡市)に次いで、全国で第2位の規模を誇る。江戸時代の旅人にもその大きさは印象的だったらしく、一丈余りあるいは一丈二尺ともその高さを書き残している。五輪塔には西丈の絵にあるように梵字が大きく彫り込まれており、紀年銘はないが形式から室町時代後期から安土桃山時代の製作と考えられている。敦盛塚自体は現存しているので、西丈の絵に目新しいところはないが、江戸時代後期の敦盛塚の周辺環境がうかがえる点が興味深い。敦盛塚は松林の中に立地し、その前に旅人が休む茶屋のような施設があったことがうかがえる。塚を取り囲む石垣は現在も同じようにあるが、塚の周りや石垣の上に小さな石を積んだものがたくさん見える。この状況は、往来の旅人が追善として石を積み、塔を建てて弔っていると『摂津名所図絵』に記されていることに符合する。西丈が残した一首。
「たひ人のはうハ播磨のはますくひ熊谷茶屋のそハのあつもり」 

中国四国名所旧跡図5 兵庫津

7月 13日 金曜日

中国四国名所旧跡図5
 長くつづく海岸線。海岸線にはたくさんの家屋がびっしりとはりついている。そして、その沖合には帆を休める廻船の姿が見える。

 西丈はその絵に「津の国兵庫築嶋」と記しているが、これは兵庫津のことである。兵庫津は古くは「大輪田の泊(とまり)」といわれ、海中に突き出た和田岬により南西の風波がさえぎられ、また六甲山系により北西の風がさえぎられる天然の良港であった。平清盛の時代には人口島である経ケ島(きょうがしま)を築く大修築工事が行われ、その島陰に港がつくられ日宋貿易の基地として栄えた。室町時代には勘合貿易、江戸時代には瀬戸内海航路、西廻り航路などの重要な港でありつづけ、朝鮮通信使やオランダ商館長の江戸参府時の寄港地でもあった。

 そのような兵庫津の歴史を理解した上で西丈の絵を見ると、海岸にあまり人手が加わっていないのどかな港町を思わせ、当時の兵庫津の姿とは懸け離れているようにも思える。しかしラフな描き方ながらも、兵庫津のにぎわいだけは見るものにしっかりと伝わってくる。

 画面左に大きく突き出た和田岬には建物が一軒描かれているが、これは西丈が「番所」と記すとおり、兵庫津への船の往来を監視する船見番所である。兵庫津の入口に位置する重要な拠点で、ここには外国船から港を守るために、元治元年(1864)に勝海舟の設計により円形の石造りの砲台が築かれ、今もその姿をとどめている。

今治市相の谷1号墳の出土遺物(4)埴輪の再発見

7月 12日 木曜日

 相の谷1号墳の墳丘部分からは大量の埴輪が出土しています。調査時に作成された報告書には「無数のハニワ片の修復や復元はなかなか緒につくことすら期しがたいほどである。」と記されており、調査当時においても大量の埴輪をどう整理するかが課題であったことがわかります。この大量の埴輪の一部については、調査参加者によって整理・報告されていましたが、2003年に大量の未整理の埴輪片を確認したのが、埴輪の再整理の発端でした。
 埴輪は調査時に取り上げられたままの状態で、ビニール袋約100袋で保管されていました。ビニール袋の中には出土した場所と取り上げた日時が記されたカードが一緒に入れられていました。約40年前に発掘現場でビニール袋に納められ、そのまま、倉庫に眠っていたこの資料群を見た時には、まるでタイムカプセルを開けたような気分でした。
 さて、この資料群を目にしたからには、整理・公開することが必要であると考え、資料を博物館に移動し、約2週間を費やして現状を記録し、埴輪の洗浄作業を行いました。この洗浄作業中には、今まで報告されていない線刻のある資料やスタンプ紋がある資料、接合できそうな大型の破片資料などがあり、新しい発見が多くありました。その後、注記作業(出土場所や取り上げ日時を記入する作業)を経て、漸く整理の第一段階が終了し、外部の研究者が閲覧できる状態になりました。
洗浄途中の埴輪
洗浄途中の埴輪

 何人かの研究者に資料を見てもらった結果、これまで報告されている資料よりこの古墳の実態を明らかにする上で重要な資料が多くあることがわかり、外部の埴輪研究者の協力を得て、これらの埴輪を整理・報告することとなりました。

(資料目録第16集『今治市相の谷1号墳』は当館友の会が増刷して販売しています。入手方法は友の会のページをご覧ください。)

異界・妖怪大博覧会関連イベントその1

7月 11日 水曜日

7月10日に始まりました「異界・妖怪大博覧会」展に関連して、
楽しいイベントがたくさん予定されています。その一部を紹介します。

(1)おばけ図書室はじめました。

おばけや妖怪、鬼や天狗の絵本を集めて、「おばけ図書室」をはじめました。
おばけはいませんが、おばけの絵本を気軽に読んでいただくスペースを
体験学習室前に作りました。「ゆきおんな」や「てんぐのはうちわ」、
「じごくのそうべえ」など、おかしなおばけやちょっぴり怖い妖怪の絵本が
たくさんあります。期間中いつでもご利用いただけます。

(2)「異界・妖怪大博覧会ぬりえ」やってます。

「百鬼夜行絵巻」(当館蔵)に描かれた妖怪から、いくつかの妖怪が
ぬりえになりました。鬼や天狗、道具の妖怪のぬりえです。
妖怪や鬼の色って何色でしょうか?
企画展示室で見ることのできる鬼や妖怪と比べてみるのも面白いですね。
体験学習室内にで期間中いつでもご利用いただけます。参加費は無料です。

(3)おばけ紙芝居の上演

体験学習室において、鬼やおばけの出てくる民話やお話の紙芝居を上演します。

日時:7/14(土)15(日)16(月)8/25(土)26(日) 14:00から15:30まで

この週末は「れきはく」でおばけ三昧を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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