2007 年 8 月 のアーカイブ

開催中!「異界・妖怪大博覧会」19―九尾の狐―

8月 25日 土曜日

これは『怪物画本』(香川大学図書館蔵)に描かれた平安時代の女官「玉藻前(たまものまえ)」で、正体は九尾の狐(尻尾が九本に分かれている狐)とされる。県内でも伊予稲荷神社に、明治時代初期に奉納された九尾の狐の尻尾と伝えられる資料が伝存している。

もともと、九尾の狐は古代中国で、后に化けたが処刑されて体が飛散し、日本には奈良時代に遣唐使の吉備真備を惑わして来日したという。

平安時代、玉藻前という女性に化けて、宮中で仕えて上皇に寵愛されるが、陰陽師が正体をあばき、宮中から逃亡する。数年後、那須(栃木県)に現れたが討伐され、九尾の狐は巨大な毒石(殺生石)に姿を変える。その石は後に各地に飛散し、九尾の狐伝説は全国各地に広まったとされる。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」18―がわら塚―

8月 24日 金曜日

四国中央市土居町入野で「がわら」(河童の異称「川太郎」の略)を埋めたといわれる塚が、天保13(1842)年成立の地誌『西条誌』巻十七(県歴史文化博物館蔵)に描かれている。

『西條誌』のよると、この「がわら塚」の言われは、昔、庄屋が入野の原に馬をつないで青草を食べさせていた。そこより少し南の本川口というところに淵があり、そこから「がわら」が出てきて、馬を川にひきこもうとしたが馬の綱にからまって、捕まってしまった。

「がわら」は五・六歳の子供のようで、頭には皿があった。人を食べるとされた「がわら」だったので、殺されてしまい、土に埋められた。その跡が「がわら塚」である。このように紹介されている。

なお、「がわら塚」という地名は現在も入野に残っており、江戸時代の伝説が口伝えで今に伝わっている。

中国四国名所旧跡図10 牛窓港

8月 23日 木曜日

 山陽道を進んだと思われる西丈は、備前へと入ると山陽道から少し逸れ、牛窓港(瀬戸内市)を訪れている。西丈は「備前丑暦(摩)戸」と当て字で記しているが、正確には牛窓である。

 江戸時代の牛窓は、瀬戸内海を往き来する船が風待ち・潮待ちする港町として栄えた。また、幕府役人や参勤交代の大名をはじめ、朝鮮通信使、琉球使節、オランダ商館長などの外交使節を接待するために、岡山藩により御茶屋が設置されており、牛窓が海の玄関口でもあったことが分かる。

中国四国名所旧跡図10
 西丈の絵を見ると、海岸沿いにたくさんの家屋が描かれており、問屋商人と船大工が集まり牛窓千軒といわれた港町のにぎわいが伝わってくる。海に面して石垣が築かれているが、いくつか突き出ているのは、船から荷物の積みおろしをする船着き場であろう。絵の左に描かれているが、長さ678メートルに及ぶ長大な「一文字波止」で、元禄8(1695)年に築造されている。この波止の完成により、東南の波風を防ぐことができるようになり、牛窓港のにぎわいは増したという。西丈はこの波止を砂浜から突き出ているように描いているが、これはやや不正確で、実際には陸から離れた沖合に築かれている。
 町並みの背後の高台には、三重塔などの大きな建物がいくつか見えるが、これは法華宗寺院の本蓮寺である。御茶屋がまだ整備されていない時代には、朝鮮通信使はこの本蓮寺に宿泊していた。
 ところで、波止の先に、たくさんの人をのせた船が描かれているのが気になる。調べてみると、金毘羅への参詣客をのせる金毘羅船は、大阪から室津・牛窓を経て、田ノ口か下津井に寄港し、瑜迦山(ゆがさん)に参拝してから丸亀に渡ったというので、西丈は参詣客をたくさんのせた金毘羅船を描いていると理解したらどうだろうか。

金毘羅名所
※『金毘羅参詣名所図絵』に描かれた牛窓港。西丈より広い範囲を描いており、西丈の絵には見ることができない御茶屋、船番所、燈籠堂が確認できる。一文字波戸の描き方も正確である。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」17―河童伝授の道具―

8月 22日 水曜日

西条市小松町の個人宅にエンコ(河童)に関する道具が伝えられている。
昔、馬を水中に引きずり込もうとしたエンコが人間に捕まるが、命ごいをして、その家の先祖に助けてもらう。そのお礼にと、のどに魚の小骨が刺さった際に抜く秘法道具が与えた。梵字まじりの呪文を記した紙片と小刀が二十センチ程の行李に納められ、現在にまでその家に伝えられている。

実際に戦後間もなくまで、近隣の人々その家を訪れて、小骨抜きの依頼をしていた。のどの小骨を取るには、口を大きく開けて、中へ小刀を入れて呪文を唱えていたという。

捕まった河童が命ごいをしてお礼をする伝説は県内各地に残るが、道具の伝授は珍しく、県内の伝説資料として貴重である。

中国四国名所旧跡図9 石宝殿

8月 21日 火曜日

 西丈の旅はさらに西へと進む。そして、兵庫県高砂市にある生石(おおしこ)神社を訪れ、御神体として祀られている石宝殿(いしのほうでん)を描いている。石宝殿は古くから、宮崎県高千穂峰の天逆鉾(あまのさかほこ)、宮城県塩釜神社の塩釜とともに日本三奇の一つとして有名で、播磨国の名所を記す際には必ず紹介されている。

中国四国名所旧跡図9

 西丈は東の正面をはじめ四方向からスケッチを描いているが、大きさを記していないため、一見すると石の植木鉢に植えられた盆栽のようである。しかし、実際には横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mで、推定重量500tの巨大な石造物で、西丈のスケッチのとおり水面に浮かんでいるように見えることから、「浮石」とも呼ばれた。周囲の岩山を彫って人工的に造り出していることは明らかであるが、これが何のために造られたのかは謎とされている。

 石宝殿の巨大で不思議な景観は多くの旅人を惹きつけたが、身近なところでは、文政9(1826)年にオランダ商館長に随行し、江戸参府の旅行中であったシーボルトも生石神社を訪れ、石宝殿の姿をスケッチに遺している。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」16―大森彦七伝説―

8月 19日 日曜日

この錦絵は明治時代の絵師・豊原国周(くにちか)が描いた役者絵「善悪三十二鏡 大森彦七」(県歴史文化博物館蔵)である。大森彦七は南北朝時代の武将で、砥部(現伊予郡砥部町)の領主とされる。楠木正成を切腹させた人物として有名であり、『太平記』にも怪異話の中心人物として記されている。

『太平記』によると彦七は楠木正成の霊に悩まされるが、その怪異伝説は江戸時代に歌舞伎でも舞台化され、このような錦絵が描かれるほど広く知られていた。

彦七が金蓮寺(伊予郡松前町)に猿楽を見に行く途中、鬼女に出くわしたが、その鬼女の正体が楠木正成だったという内容で、鬼女が出たという砥部町八倉には地蔵堂が建っており、その怪異の際に使用したとされる経典も砥部町の光明寺(旧広田村)に伝わり、現在、県歴史文化博物館に保管されている。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」15―地獄図―

8月 18日 土曜日


※王宮絵(福高寺蔵)

八幡浜市穴井の福高寺には、「王宮絵」・「浄土絵」という2本の仏画が伝えられています。制作された年代は享和2(1802)年。今から200年近く前の絵画です。「王宮絵」の「王宮」とは地獄の王である閻魔王宮のことを指しています。この絵では、左上に死者の生前の罪に判断を下す閻魔王を描き、その右側に様々な地獄世界を表現しています。


※王宮絵に描かれた閻魔王


※王宮絵に描かれた地獄

 地獄には8種類あるとされ、一般には、[1]等活(とうかつ)地獄 、[2]黒縄(こくじょう)地獄 、[3]衆合(しゅごう)地獄、[4]叫喚(きょうかん)地獄・[5]大叫喚地獄、[6]焦熱(しょうねつ)地獄・[7]大焦熱地獄、[8]阿鼻(あび)地獄<無間(むげん)地獄ともいいます> を指しています。この地獄世界に、生前に殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見の罪を犯した者がおちると信じられたのです。

 「王宮絵」には、この8種類の地獄のほかに、血の池地獄や両婦地獄(生前に浮気をした男性がおちる地獄)も描かれており、江戸時代の人々の地獄観を知ることができます。


※浄土絵(福高寺蔵)

「王宮絵」とともに伝わる仏画「浄土絵」には、中央に釈迦如来が配置され、その脇に白象に乗る普賢菩薩、獅子に乗る文殊菩薩、釈迦の弟子で仏法を永く守ることを誓った16人である十六羅漢が描かれます。福高寺には江戸時代の十六羅漢石仏(八幡浜市指定文化財)も伝わっており、羅漢信仰が根強かったことを物語っています。

終戦翌日の新聞

8月 17日 金曜日

終戦翌日の新聞

 本資料は、終戦の翌日、昭和20年8月16日付の愛媛新聞です。まず、「大東亜戦争終結の聖断下る」の見出しに始まり、14日付の終戦詔書が掲載されています。15日正午にラジオから流された「玉音放送」(約4分)の文章です。「玉音放送」と言えば、「(朕ハ時運ノ趨ク所)堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の一文が有名です。しかし、その主語は誰で、その目的は何のためだったのでしょうか?

 この季節、メディアは終戦の象徴として、この一文をよく流します。そのため、「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」とは、兵士が戦陣に赴き生死の狭間で堪え忍び、銃後が物資が不足する中で空襲に堪え忍んだ、ことを意味していると思われている方も多いのではないでしょうか。実はこの前後の文脈が肝心です。「今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラズ、爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル、然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所」、「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」、「以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」とあります。つまり、昭和天皇は、ポツダム宣言受諾後、日本が受ける苦難を堪え忍び、新たな時代を開く決意をした、と読みとることができます。但し、「太平」とは、あくまでも「国体」の「護持」(天皇制の存続)が前提となっています。「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の背景に、それまでの日本人が堪え忍んだ苦しさがあることは、言うまでもありません。しかし、この一文に限って、本来の意味を読み解くならば、上述したように、今後日本が受ける苦難に対してのものだと思われるのです。

 この他、本紙には、阿南惟幾陸軍大臣の自決が取り上げられています。阿南大将は、ポツダム宣言の受諾をめぐって、断固抗戦を主張する強硬派に突き上げられ苦悩しました。御前会議では、本土決戦を主張しましたが、最終的に終戦の聖断が下ると、承詔必謹を唱えました。8月14日終戦詔書に署名すると、その夜割腹自決をとげ、無血終戦を実現しました。「一死以て大罪を謝し奉る」と遺書を残しています。また、本紙には、鈴木貫太郎内閣が総辞職したことも取り上げています。鈴木大将は4月に組閣し、終戦内閣として東郷外務大臣や米内海軍大臣らと尽力しました。一説には阿南陸軍大臣の御前会議における本土決戦の主張も、強硬派を押さえる腹芸だったと言われています。
 
 本紙からは、終戦直後の緊迫感が伝わってきます。これを機会に、戦中の多大な犠牲と戦後復興の努力を忘れず、戦争と平和について考えたいものです。

妖怪になった道具たち-その3-

「異界・妖怪大博覧会」で展示している「百鬼夜行絵巻」には、長い年月を経て、変化をした道具の妖怪が多く描かれています。仏具や楽器、台所道具など、人間の役に立ってきた道具が粗末な扱いを受け、妖怪になったと考えられています。展示している絵巻の中には、一見何の道具が妖怪になったのかわかりにくい妖怪もいます。

○この高下駄をはいた妖怪は、何の道具の妖怪でしょうか。

鼻の高い天狗のような妖怪が頭にかぶっているのは手桶(ておけ)です。木製の部品を組み合わせて作る円筒形の容器を桶と呼びます。現在でも「風呂桶」という名前は使われています。水を汲んだり、家畜の餌をいれたり、洗浄用、運搬用、貯蔵用、調理用と様々な用途に用いられました。とくに水を入れて運ぶ桶を手桶、手提桶(てさげおけ)と呼びます。手桶の妖怪自身が、棒にぶらさげているのも桶のように見えます。

手桶 

手桶の実物は、当館の常設展示室、民俗展示室2「愛媛のくらし」の山のいえのまわりで見ることができます。

○仲良く顔を見合わせているような妖怪は、何の妖怪でしょうか。

右側の妖怪は傘の妖怪です。破れた番傘がばらばらにならないように紐でしばっていますが、その隙間からぎょろりと目が覗いています。
展示室でこの妖怪を見た子供さんが、「これは焼き魚の妖怪だ」と学芸員に話してくれました。なるほど、軽快でカラフルな現代の傘というよりは、色や形は焼き魚に似ているかもしれません。

番傘

番傘は、竹の骨に紙を張って油をひいたものであり、骨太なので、おりたたむとかさばります。また、現在と違って傘の先を上にして収納したのですが、これは雨が傘に染み込むのを防ぐためです。

番傘は、民俗展示室2「愛媛のくらし」の海のいえの中で見ることができます。

破れ傘の妖怪の歩みを心配するかのように振り返るのは、草鞋(わらじ)の妖怪です。藁(わら)の甲冑に身を包み、馬にまたがっています。

草鞋(わらじ)

草鞋は、藁でできた履物(はきもの)で、親指と人差し指の間に挟んで履きます。草鞋は、旅や労働などよく使われることから、大変身近な存在でした。

妖怪になった道具たち-その2-

8月 16日 木曜日

「異界・妖怪大博覧会」で展示している「百鬼夜行絵巻」には、もともと道具であった妖怪が多く登場します。道具が長い年月を経て変化したものを「付喪神」(つくもがみ)と呼びます。当館民俗展示室2(愛媛のくらし)にある台所道具のいくつかも、妖怪として描かれていますのでご紹介します。企画展と合わせてご覧下さい。

○五徳の妖怪

五徳は、囲炉裏や火鉢において、釜や鉄瓶をかけるための道具です。鉄ややきものでできた丸い輪に3本または4本の脚がついています。「百鬼夜行絵巻」では、この五徳を頭にかぶり、火吹竹を吹きながら軽快に歩く妖怪が登場します。火吹竹とは、竃(かまど)の火をおこすときに、火種に風を吹き込んで火を大きくする道具です。

火鉢の中の五徳 里のいえにあります

火吹竹は、竹の節を抜いた筒であり、片方は小さな穴を空けています。吹き込んだ息の勢いをつける工夫です。

火吹竹

○鍋の妖怪

五徳の妖怪の前を行くのは、鍋の妖怪です。

頭に鍋をかぶり、天秤棒に五徳やすりこぎ、杓子などをくくりつけて、歩いています。前はきちんと見えているのでしょうか?

鍋と杓子 これを頭にかぶります

すりこぎとすりばち

○釜の妖怪

お湯を沸かしたりご飯を炊いたりする釜を、頭にかぶった妖怪。釜の周囲にわっかのように出ている部分は鍔(つば)といい、竃(かまど)の口や五徳の輪にかけて安定させる為にあります。

釜

写真は、常設展示室の復元家屋にある飯炊釜です。飯炊釜は、吹きこぼれを防ぐ為に、鍔の上部が大きく作られています。また、炊き上がったご飯を蒸らす為に分厚い木の蓋がのせられています。この釜をさかさまにかぶって歩いているのが先ほどの釜の妖怪です。

描かれている台所道具がいずれも火を使う道具のせいか、妖怪も炎と一緒に描かれています。

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