山陽道を進んだと思われる西丈は、備前へと入ると山陽道から少し逸れ、牛窓港(瀬戸内市)を訪れている。西丈は「備前丑暦(摩)戸」と当て字で記しているが、正確には牛窓である。
江戸時代の牛窓は、瀬戸内海を往き来する船が風待ち・潮待ちする港町として栄えた。また、幕府役人や参勤交代の大名をはじめ、朝鮮通信使、琉球使節、オランダ商館長などの外交使節を接待するために、岡山藩により御茶屋が設置されており、牛窓が海の玄関口でもあったことが分かる。
西丈の絵を見ると、海岸沿いにたくさんの家屋が描かれており、問屋商人と船大工が集まり牛窓千軒といわれた港町のにぎわいが伝わってくる。海に面して石垣が築かれているが、いくつか突き出ているのは、船から荷物の積みおろしをする船着き場であろう。絵の左に描かれているが、長さ678メートルに及ぶ長大な「一文字波止」で、元禄8(1695)年に築造されている。この波止の完成により、東南の波風を防ぐことができるようになり、牛窓港のにぎわいは増したという。西丈はこの波止を砂浜から突き出ているように描いているが、これはやや不正確で、実際には陸から離れた沖合に築かれている。
町並みの背後の高台には、三重塔などの大きな建物がいくつか見えるが、これは法華宗寺院の本蓮寺である。御茶屋がまだ整備されていない時代には、朝鮮通信使はこの本蓮寺に宿泊していた。
ところで、波止の先に、たくさんの人をのせた船が描かれているのが気になる。調べてみると、金毘羅への参詣客をのせる金毘羅船は、大阪から室津・牛窓を経て、田ノ口か下津井に寄港し、瑜迦山(ゆがさん)に参拝してから丸亀に渡ったというので、西丈は参詣客をたくさんのせた金毘羅船を描いていると理解したらどうだろうか。
※『金毘羅参詣名所図絵』に描かれた牛窓港。西丈より広い範囲を描いており、西丈の絵には見ることができない御茶屋、船番所、燈籠堂が確認できる。一文字波戸の描き方も正確である。