2007 年 9 月 のアーカイブ

展示予告「戦国南予風雲録」―よみがえった戦国南予の甲冑―

9月 24日 月曜日


紋柄威五枚胴具足/銀箔押帽子形兜(個人蔵・当館保管)

 伊予灘を臨む滝山城(大洲市長浜町)の城主久保氏の子孫で、新谷(にいや)藩領喜多郡今坊(こんぼう)村庄屋のもとに伝わった甲冑である。数年前に発見されたものであるが、当初は汚損や破損が著しい状態であった。それを、今回の展示に合わせ、県内在住の日本甲冑武具研究保存会評議員の方のご指導・ご協力を得るなどしながら調査を進めた結果、以下のような貴重な資料であることが判明し、また清掃や修理を施すことで上記写真のように往時の姿をうかがうことができる程の形によみがえらせることができた。そしてこのたび初めて一般に公開するにいたった。
 鎧は、浅葱糸毛引威を主として、前は紅糸威、後は白糸威で吉祥紋で知られる州浜(すはま)紋をあしらった紋柄威(もんがらおどし)である。一見すると二枚胴のようでもあるが、実は内側に付けられた蝶番(ちょうつがい)の位置から、前・後・左・右2枚の胴を合わせた五枚胴であることが判明する。また、前後立挙一段目に三つ巴紋入りの小さな鋲が打たれているのも特徴的である。兜は銀箔を施し、僧侶のかぶる頭巾の一種である帽子(もうす)をかたどった帽子形兜である。この甲冑は、近世初頭にかけて発達していく当世具足の様式を備えている一方で、中世末に見られた様式も併せ持っており、まさに移行期の甲冑の様式の変化を見る上でも興味深い資料の一つである。本企画展の図録にはより詳しく解説した資料紹介の論考を掲載する。
 この甲冑は、文化年間に作成された鎧櫃に納められていた。鎧櫃に施された墨書によると、戦国末期の当主久保行春の所用とする。また、「大洲旧記」の今坊村の部分にも、庄屋家に鎧と旗が伝存する旨が記されている。鎧は、「城主の時より伝来、紋すはま、甲は別の品といふ」とあり、まさしく州浜紋をあしらったこの鎧のことであろう。そしてそれは滝山城主の立場にあった戦国期から、代々伝来したものと伝えられていたことも分かる。また、この鎧と組み合わされたものではない兜が伝存していたともあるが、おそらくはこの帽子形兜のことであろう。
 ちなみに、久保氏に関係する武具類は他にも数点伝わっており、それらも戦国期に遡る貴重な地域資料であり、今回合わせて初公開するが、その記事も後日掲載の予定。

展示予告「戦国南予風雲録」―有名な秀吉の顔「豊臣秀吉画像」(国重文)―」

9月 20日 木曜日


「豊臣秀吉像」国指定重要文化財((財)宇和島伊達文化保存会蔵)

 豊臣秀吉の顔というと、皆さんはどんな顔を思い浮かべるでしょう。今回紹介する画像、見覚えはないでしょうか。秀吉の画像は多数描かれておりますが、これは最も有名なものの一つで、秀吉が亡くなったのが慶長3(1598)年8月18日ですが、翌年の慶長4(1599)年2月18日の賛が入っており、没後まもなく描かれた画像の一つです。秀吉の側近であった伊勢国(三重県)安濃津城主の富田左近少監(一白)が描かせたことが上部の賛から分かります。賛は相国寺92世住持で秀吉の側近でもあった西笑承兌(せいしょうじょうたい)が記したもの。富田一白の嫡男信高が板島(宇和島)城主として入封した際、父の菩提を弔うため正眼院(大隆寺)を建立し、この画像もこの寺に伝来していました。その後、弘化4(1847)年に宇和島藩主伊達家に献上され、現在にいたっています。寸法は1300mm×1040mm。とかなり大きいものです。
 秀吉画像は、没後すぐにいくつも作られ始めることとなります。というのも、秀吉は遺言により没後「豊国大明神」という神号とともに神格化され、豊国社に祀られることとなりました。もちろん全国に分霊が勧請され、豊国大明神が祀られるようになり、その神影として画像や木像が作られました。
 しかし、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康は秀吉の神号を剥奪し、豊国社および全国に散らばっていた分祠も破却しました。したがって、没後間もなく作成された画像は日の目を見なくなっていきました。ところが時代が下るにつれ、大衆文化が花開いてくると、出版物や演劇などで秀吉人気が高まり、再び秀吉が描かれるようになります。しかし、この時には物語・演劇のイメージから描き出されたものであったため、唐冠をかぶり、桐紋入りの装束という、象徴的な絵柄で秀吉を表現するのが典型で、容貌も没後すぐのものと比べるとかなり豪傑風に描かれていました。
 秀吉画像のうち、この画像と同系統の古いものでよく知られた画像に、妻高台院(おね)と秀吉の廟所がある京都高台寺に所蔵されているものがあります。こちらは秀吉が亡くなった慶長3年8月18日の賛を有し、秀吉恩顧の武将田中吉政が作らせたもの。双方ともに、直衣(のうし)・布袴(ほうこ)着用、唐冠をかぶるというスタイルで、そして背景の描き方も似ています。教科書などの出版物や、各種展示、各種メディアで皆さんがよく目にする秀吉の顔はこの系統のものが多いのではないでしょうか。
 今回、展示期間は、[原本]が10月6日~10月21日、[模本]が10月23日~12月2日。ぜひ足を運んで有名な秀吉の顔に会いに来てみてください。

ロビー展「南予の中世城跡」展示しました

9月 16日 日曜日

 秋の企画展「戦国南予風雲録」に関連して、ロビー展を実施します。先日その設営作業を実施しました。
タイトルは「南予の中世城跡」で、その名のとおり南予に点在する中世の城跡の内いくつか主要なものについて、写真パネルを設置して紹介した展示です。その構造を描いた縄張図と呼ばれる図や、近辺の関連史跡の写真を合わせて設置した城跡もあります。


設営風景


展示完了風景

 中世城跡は、一般的に連想される天守閣・高石垣・水堀を要する近世城郭とは異なり、主に山上に尾根を削平(さくへい)したり、空堀(からぼり)を掘ったり、土塁(どるい)を盛ったりした土の城で、現在その往時の姿を一目で分かるような城はほとんどありません。まず森に包まれ、斜面は開発や崩壊が進み、一見ただの山にしか見えないものがほとんどです。
 しかし、そうした中世の城跡は南予にも数多く存在しており、身近な所にも沢山あります。そのことをもっと来館者の皆様に知っていただき、身近なところにも中世の歴史を物語る史跡がいくつも残っていることを再認識していただけたらと思っています。
 ロビー展ですので、博物館エントランスという無料ゾーンに設置しています。是非一度足を運んでみてください。

テーマ展「古墳に納められた品々」開催中!!

9月 15日 土曜日

川上神社古墳出土杏葉
川上神社古墳出土鐘形杏葉(かねがたぎょうよう)[川上神社蔵]

 本日より考古展示室にて「古墳に納められた品々~副葬品から見た愛媛の古墳文化~」を開催しております。この展示は、当館の保管資料を中心にした古墳副葬遺物を基に愛媛の古墳文化を紹介するものです。特に数回このページで紹介しました今治市相の谷1号墳出土遺物にスポットを当て、当館の資料保存及び整理の成果を公開しています。
 また、県指定文化財(考古資料)である新居浜市金子山古墳出土遺物(昭和63年4月指定)及び東温市川上神社古墳出土遺物(平成19年2月指定)を借用・展示し、県民の宝である県指定文化財を広く公開するものです。

 展示構成は次の通りです。
1.古墳とは?副葬品とは?
2.相の谷1号墳と前期の古墳
3.樹之本古墳と中期の古墳
4.経ヶ岡古墳と後期の古墳
5.塩塚古墳と終末期の古墳
6.川上神社古墳と出土遺物
・トピック展示 飾られた土器-装飾須恵器/古墳には何人埋葬されたの?/陶質土器-海を渡ったやきもの

 他に県内の古墳から出土した馬具を基に復原した「飾り馬」模型を展示し、古墳の副葬品についての理解を深めていただけます。

 この展示の目玉資料の一つは、東温市川上神社古墳出土遺物(県指定文化財)です。金メッキを施した馬具のセットは、奈良県藤ノ木古墳出土資料に類似し、中央政権と関連が深い被葬者像が想定されます。県文化財に指定後、馬具をまとまって展示公開するのは今回が初めての機会です。

 関連事業として展示解説と考古講座を実施予定です。
■展示解説
10月14日(日)・12月16日(日)・2月17日(日)15:00~
解説:当館学芸員
■考古講座
平成19年9月29日(土)13:30~15:00
「副葬品から見た愛媛の古墳時代」冨田尚夫(当館学芸員)
平成20年2月9日(土)13:30~15:00
「埴輪から見た愛媛の古墳時代」山内英樹氏((財)愛媛県埋蔵文化財調査センター)

 展示は来年の2月24日(日)までです。この機会に是非ご覧ください。展示資料については、数回にわたり紹介したいと考えています。

中国四国名所旧跡図12 下村より見る図

 金毘羅往来を進む西丈は、当然瑜迦山(ゆがさん)を参詣したものと思われる。なぜなら瑜迦山と金毘羅山を参ることは両参りといわれ、御利益が沢山あると信じられていたからである。しかし、西丈はどういう訳か、瑜迦山の絵を描き遺していない。

 瑜迦山を参詣した後に、金毘羅山に向かうためには金毘羅船に乗らなければならないが、備前からは三つの港から船が出ていた。下津井、下村、田の口である。このうち、西丈は下村から金毘羅船に乗ったようで、下村からみた瀬戸内海を描いている。

 下村については、弘化4(1847)年に、浪花の代表的な人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が著した『金毘羅名所図絵』に詳しい記述がある。それによると、下村は通船に便利な港で、瑜迦山のふもとなので着岸すると参詣する旅客が多い。丸亀までは海上およそ6里(約24キロ)で、船は毎晩のように金毘羅詣、四国遍路の旅人、商人、農民などで乗せて出帆していた。夕方に乗船する者あり、朝に到着する者ありで、大変なにぎわいだったという。

中国四国名所旧跡図12

 西丈の絵では手前の下村は砂浜だけのそっけなく描かれているが、そこからみた眺望は丹念に描き込まれている。瀬戸内海には手前から立場嶋(竪場島)、釜嶋などが浮かび、右奥にはシハク七島(塩飽諸島)をのぞむ。左手前には小嶋(児島)シヲハマとして塩田が描かれいるが、先の『金毘羅名所図絵』にも下村の磯辺はすべて塩浜で数丁(数百メートル)にわたって、塩屋の煙が立ちのぼっていると記されている。右手前からは、児島半島の先端にあたるクスミノハナ(久須美鼻)が突き出ている。画面の一番奥に一際高く聳えるのは讃岐富士こと飯野山で、これから金毘羅船が目指す方向である。このエリアは現在瀬戸大橋でつながれているが、当時から交通の大動脈だったらしく、西丈の絵にはたくさんの船の白帆が描き込まれている。

 下村の浜には人が乗った船が二艘描かれているが、これが西丈も乗った金毘羅船であろう。岡山藩が領内の船数調査を行った天保12(1841)年の記録によると、下村には10反帆2艘、9反帆1艘、8反帆1艘、7反帆1艘、5反帆7艘、4反帆26艘、3反帆10艘、2反帆2艘の合計50艘の船があったと記されている。もちろんこのすべてが金毘羅船というわけでもなかろうが、十分な船数を備えていたことは確かである。

 この翌年の天保13年に、西丈と同じように下村から丸亀へと渡った人物がいる。遠く駿河国大御神(おおみか)村から西国と四国の社寺参詣に出た天野文左衛門である。この天野の道中記録には、下村のあぶらや藤右衛門方より船に乗り、船賃1人前80文、御旅籠80文、ふとん下32文と記されている。3月18日に瑜迦山を参詣した天野一行は、そのまま油屋藤右衛門方で休んだものと思われる。そして、夕方の船に乗り込み出発したものと見えて、朝五ツ時(午前8時)には丸亀に上陸している。

金毘羅船
※『金毘羅名所図絵』に描かれた金毘羅船。風を白帆に受けて、瀬戸内海の島々を縫って進む。

中国四国名所旧跡図11 藤戸図

9月 14日 金曜日

 牛窓を後にした西丈は岡山に出て、茶屋町・天城・藤戸・林を経て下津井に通じる金毘羅往来を進んだものと思われる。文化文政期には、全国から集まる金毘羅参詣の人々がこの道を通ったといわれ、街道沿いには金毘羅道と記された道標も多く残っている。西丈は金毘羅往来の途中、藤戸(倉敷市藤戸)で絵を描いている。

 藤戸は源平合戦のうち、元暦元(1184)年12月に藤戸合戦が行われた地として有名である。現在の藤戸の周辺は干拓により陸地となっているが、合戦当時は小さな島が点在する海であった。源氏方の武将佐々木盛綱は、藤戸の浅瀬の300m余りを馬で対岸に渡り先陣の功をあげたが、この合戦により平家は屋島へと退き、最後は壇ノ浦で滅ぼされることになる。

中国四国名所旧跡図11
 西丈は手前に藤戸寺を描いているが、この寺は佐々木盛綱が合戦で亡くなった人を弔うために修復したもの。本堂の北側には、源平藤戸合戦の戦没者の供養に建てられたと伝えられる寛元元(1243)年の銘がある五輪塔婆(ごりんとうば)があり、岡山県指定の重要文化財になっている。

 藤戸の対岸天城村へは渡しが往来したが、正保4(1647)年に大橋と小橋が架けられた。西丈が描いているのは藤戸大橋であろう。西丈が旅した江戸時代後期、大橋周辺は倉敷川の川湊として、繰綿(くりわた)や干鰯(ほしか)の集散地として、対岸の天城とともににぎわったという。

 画面右に突き出ている岩は、藤戸の浮洲岩(うきすのいわ)を描いたものと思われる。浮洲岩は潮の満ち引きにかかわらず、かつて藤戸海峡の中央にぽっかりと出ていた大きな岩のことである。後に京都・醍醐寺三宝院の庭園に移されており、当時藤戸にはなかったが、西丈はその話しを知っていて書き加えたものであろうか。

博物館実習

9月 3日 月曜日

博物館実習
8月21日(火)~26日(日)までの6日間、博物館実習が行われました。博物館実習は、博物館法において、学芸員資格を取得するために必要な単位として、定められています。今年度の実習では9名の大学生が参加しました。博物館実習では、普段来館者が目にすることのない収蔵庫や展示室の裏側を見学するとともに、歴史・民俗・考古資料の実習として、古文書の取り扱いや解読、民俗資料の展示替え、遺物の保存処理などを行いました。特に、最後の2日間は体験講座「ガラス玉をつくろう」「おばけかるたとりに挑戦!妖怪カルタ」の補助をしました。小学生を対象に、声のかけ方、目線の位置、補助の程度など、実習生も苦労していたようですが、最後は子どもの笑みに慰められていたようです。現在、博物館は予算削減や指定管理者の導入など、大きな問題に直面しています。また、案内員の削減もあり、職員全体で、接客業務にあたっています。ですから、学芸員と言えども、実習生が思っているものとは異なり、調査研究にさける時間はほとんどない状況です。その中で、展示、特別利用、寄贈・寄託などに対応し、事務処理を行っています。実習生の皆さんには、現在の学芸員、そして今後求められる学芸員の姿について、考える機会にもなったのではないでしょうか。残暑厳しい中、一週間の博物館実習お疲れさまでした。是非学芸員資格を取得し、今後どのような道に進むにしても、実習で経験したことが、何らかの役に立てば幸いです。

「異界・妖怪大博覧会」閉幕しました。

9月 2日 日曜日

 7月10日(火)に開幕した企画展「異界・妖怪大博覧会」は、本日9月2日(日)をもって閉幕しました。

 期間中の来館者は、当館の想定を越える1万5千人強で、盛況のうちに終了しました。

 ただ、展示図録に関しては、会期終盤に売り切れとなってしまい、ここ数日の来館者の皆様にはご迷惑をおかけしました。

 展示をご覧になった方々から、お電話や電子メール、アンケートなどで、さまざまなご意見・ご感想をいただきました。ありがとうございました。今後の展示に反映させるべく、検討していきたいと思います。

開催中!「異界・妖怪大博覧会」20(完)―往生要集―

9月 1日 土曜日


※『往生要集』(明治時代版・当館寄託資料)

 『往生要集』は平安時代の寛和元(985)年に、恵心僧都源信が多くの仏教の経典等から、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書である。本書は日本に浄土思想が浸透する基礎を築いた。江戸時代には、絵入りの版本として庶民にも普及し、明治時代に入っても版を重ね刊行された。

 『往生要集』の構成は、次のとおりである。(巻上)大文第一「厭離穢土」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道解説) 、大文第二「欣求浄土」(極楽浄土に生れる十楽解説) 、大文第三「極楽証拠」(極楽往生の証拠) 、大文第四「正修念仏」(浄土往生の道)、(巻中)大文第五「助念方法」(念仏修行の方法)、大文第六「別時念仏」(臨終の念仏) 、(巻下)大文第七「念仏利益」(念仏の功徳)、大文第八「念仏証拠」(念仏による善業)、大文第九「往生諸行」(念仏の包容性)、大文第十「問答料簡」(念仏の優位性)

 これらは、『正法念処経』(6世紀初頭)・『観仏三昧海経』(5世紀)・『大毘婆沙論』(玄奘訳)などの経典類を引用しながら解説されている、

 このうち、大文第一「厭離穢土」での六道解説は、後の地獄思想に大きな影響を与えた。地獄については、八大地獄(八熱地獄)を紹介し、八寒地獄は省略している。地獄図といえば、熱地獄が描かれる事が多く、寒地獄が描かれることは稀である。「地獄」イコール「熱い世界」というイメージを定着させたのも『往生要集』の影響といえるだろう。

 なお、室町時代以降の地獄図には「血の池地獄」が描かれることがあるが、『往生要集』には「血の池地獄」の記載はない。また、三途の川や奪衣婆、地蔵菩薩による救済といった場面も後世の地獄図には描かれるが、その詳細な記述も見られない。

 「血の池地獄」は、室町時代以降に普及した「血盆経」を典拠としており、また、三途の川や奪衣婆、地蔵菩薩による救済は「佛説地蔵菩薩発心因縁十王経」に拠るところが大きく、『往生要集』以降に定着したものである。

 このように、日本人の地獄観念は時代によって変容しているが、『往生要集』が六道や地獄思想の基礎を築いた上での変容であることは間違いない。

※企画展「異界・妖怪大博覧会」の会期は、明日、9月2日(日)までです。