2007 年 9 月 20 日 のアーカイブ

展示予告「戦国南予風雲録」―有名な秀吉の顔「豊臣秀吉画像」(国重文)―」

9月 20日 木曜日


「豊臣秀吉像」国指定重要文化財((財)宇和島伊達文化保存会蔵)

 豊臣秀吉の顔というと、皆さんはどんな顔を思い浮かべるでしょう。今回紹介する画像、見覚えはないでしょうか。秀吉の画像は多数描かれておりますが、これは最も有名なものの一つで、秀吉が亡くなったのが慶長3(1598)年8月18日ですが、翌年の慶長4(1599)年2月18日の賛が入っており、没後まもなく描かれた画像の一つです。秀吉の側近であった伊勢国(三重県)安濃津城主の富田左近少監(一白)が描かせたことが上部の賛から分かります。賛は相国寺92世住持で秀吉の側近でもあった西笑承兌(せいしょうじょうたい)が記したもの。富田一白の嫡男信高が板島(宇和島)城主として入封した際、父の菩提を弔うため正眼院(大隆寺)を建立し、この画像もこの寺に伝来していました。その後、弘化4(1847)年に宇和島藩主伊達家に献上され、現在にいたっています。寸法は1300mm×1040mm。とかなり大きいものです。
 秀吉画像は、没後すぐにいくつも作られ始めることとなります。というのも、秀吉は遺言により没後「豊国大明神」という神号とともに神格化され、豊国社に祀られることとなりました。もちろん全国に分霊が勧請され、豊国大明神が祀られるようになり、その神影として画像や木像が作られました。
 しかし、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康は秀吉の神号を剥奪し、豊国社および全国に散らばっていた分祠も破却しました。したがって、没後間もなく作成された画像は日の目を見なくなっていきました。ところが時代が下るにつれ、大衆文化が花開いてくると、出版物や演劇などで秀吉人気が高まり、再び秀吉が描かれるようになります。しかし、この時には物語・演劇のイメージから描き出されたものであったため、唐冠をかぶり、桐紋入りの装束という、象徴的な絵柄で秀吉を表現するのが典型で、容貌も没後すぐのものと比べるとかなり豪傑風に描かれていました。
 秀吉画像のうち、この画像と同系統の古いものでよく知られた画像に、妻高台院(おね)と秀吉の廟所がある京都高台寺に所蔵されているものがあります。こちらは秀吉が亡くなった慶長3年8月18日の賛を有し、秀吉恩顧の武将田中吉政が作らせたもの。双方ともに、直衣(のうし)・布袴(ほうこ)着用、唐冠をかぶるというスタイルで、そして背景の描き方も似ています。教科書などの出版物や、各種展示、各種メディアで皆さんがよく目にする秀吉の顔はこの系統のものが多いのではないでしょうか。
 今回、展示期間は、[原本]が10月6日~10月21日、[模本]が10月23日~12月2日。ぜひ足を運んで有名な秀吉の顔に会いに来てみてください。