Archive for 11月, 2007

戦国展資料紹介 出土した武器・武具

2007年11月28日

 戦国時代にはどんな武器や武具が使われていたのでしょうか?
 今回は、出土品からみてみましょう。本来使われていた革や木製品は腐ってなくなってしまっています。遺跡からは、鉄や銅などの金属でできたものが見つかっています。金属製品はリサイクルが可能なため、多くは回収されたものと考えられます。残されている遺物はほんの一部なのです。

湯築城跡
 湯築城跡出土鉄鏃(愛媛県教育委員会蔵)

 たくさんの種類が見つかっているのは松山市湯築城跡です。武器では鏃、薙刀の部品、小刀、小柄、笄、刀の装飾品などがあります。武具には鎧を構成する小札や金具が見つかっています。本小札と上端部が特徴の伊予札が見られます。今治市見近島城跡からも多数の鉄鏃や小札が出土しています。

見近島城跡
         見近島城跡出土小札(今治市教育委員会蔵)

 松野町河後森城跡や大洲市大洲城跡では、新しい武器である鉛製の鉄砲玉が出土しています。等妙寺旧境内跡では慶長期以前とされる鉄砲の部品も見つかっています。

旧等妙寺跡
 等妙寺旧境内跡出土鉄砲部品(鬼北町教育委員会蔵)

 また、松山市道後町遺跡では、赤漆で固められた鎧の小札や、鞐も見つかっています。今治市姫内城出土の小札は、建物の南東隅の柱穴内に3枚が布に包まれて埋められていた様子がわかりました。建物は来島海峡を見下ろすことのできる場所に所在します。中世の人々がなんらかの意図を込めて、辰巳の方角に埋納したのでしょうか?

 戦国展では、愛媛県内の中世の遺跡から出土した鉄製品の武器、武具を展示しています。今は錆びて茶色や緑色になっていますが、かつては金属光を放った現役の道具だったことに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

「愛媛ゆかり日本デザインの先駆者たち」展について

2007年11月25日

 松山市道後にあるセキ美術館では、開館10周年を記念して4回にわたり「愛媛・感動の美術家たち」をテーマに展示が行われていますが、現在はその第三期展として、「愛媛ゆかり日本デザインの先駆者たち」展が開催されています。会場には、日本のデザインの基礎を築いた愛媛出身の4人、杉浦非水、高畠華宵、柳瀬正夢、真鍋博が制作したポスター、挿絵、表紙絵、装丁図書などが一堂に展示されています。この4人の作家がいずれも愛媛県出身ということは案外知らなかったという方も多いのかもしれませんが、今回の展示では4人のデザインがまとめて楽しめるものとなっています。

 また、4人以外にも、戦前戦後の愛媛の地域で活躍したデザイナーとして、7人の人物が3階展示室に取り上げられています。その中の永井刀専について、当館から資料を出品しています。刀専はハンコ屋さんでありながら、デザイナーでもあったちょっと変わり種の人物で、愛媛の新聞草創期に『海南新聞』『愛媛新報』に題字や商品広告のデサインなどを提供しています。刀専のデザイナーとしての仕事のうち、展示では昭和初期の松山の風情ある情景を絵葉書サイズの木版画に仕上げた刀専版画、企業やお店がつくった記念スタンプのデザインが紹介されています。とりわけ、最も多く制作された道後温泉の刀専版画が、地元で展示されることには感慨深いものがあります。なお、セキ美術館発行の展示図録には、井上淳「職人デザイナー 永井刀専」を掲載しています。あわせてご覧いただけたら幸いです。

 展示は12月2日まで。月、火曜日は休館。入館料大人500円、大、高校生400円、小中学生300円。
詳しいお問い合わせ:
セキ美術館
電話089-946-5678

※下の写真は刀専版画のうち、道後温泉シリーズの一枚。刀専にとって道後温泉はホームグランドで、毎日のように通い、たくさんのスケッチを残しています。そうしたスケッチをもとに、道後温泉の一瞬の空気までも切り取った版画作品がつくられていきました。
刀専版画 道後温泉

戦国展資料紹介 食事の風景(3)

2007年11月24日

酒飯論絵巻酒飯論絵巻(当館蔵)
 では酒飯論絵巻の最後の場面を紹介しましょう。これは、飯も酒も両方とも好き(中戸)という人の食事場面です。
 畳敷きの間で食事と酒が出されています。白木の3つの折敷にのせて、漆塗りの器に酒と料理が盛られています。床の間には花台の上に中国青磁の花瓶一対が置かれ、その後ろには、掛軸が一対掛けられています。左側には、屏風が置かれているようです。当時の武家の食事風景と考えられます。

酒飯論絵2
 中戸の台所の様子です。上戸、下戸の場面ではみられなかった、肉や魚など、生臭い食材がみられます。魚や貝、海老、鳥などたくさんの食材が描かれています。
 板敷きの台所に座って調理しています。足付の俎板の上で庖丁と長い箸を用いて魚や鳥を調理している姿がみられます。これは食材に手を触れない当時の料理作法にのっとって行われています。囲炉裏では、五徳の上に鍋を載せて、鍋料理が作られています。貝の柄杓で椀に取り分けているようすがみられます。縁側では、鳥の内臓を取り出している姿がみられ、下準備が行われている様子がうかがえます。
 このように絵巻に描かれている道具などを見ていくと、当時の道具の使い方をうかがい知ることができます。
 これまで、三つの食事風景をみてきましたが、あなたはどの食事スタイルがお好みですか?現在、今回紹介した中戸の場面を公開しています。戦国展も残りあと一週間あまりになりました。ぜひ会場で酒飯論絵巻の世界をお楽しみください。

戦国展情報 歴博に野間馬がやってきた!

2007年11月18日

野間馬1

 本日11月18日日曜日、約100km離れた今治から、野間馬たち3頭がはるばる歴史文化博物館にやってきてくれました。開館記念及び戦国展イベントとして、「野間馬に乗ってみよう」を実施いたしました。馬に乗って、陣羽織や烏帽子をかぶって戦国武将を体験してみようという企画です。玄関前のロータリーが特設馬場になりました。
 野間馬は日本古来の馬の種類である在来馬ですが、肩までの大きさが110cm~130cmという在来馬の中でも小柄な種類です。小さいけれど丈夫で力持ちで小回りが利くので、かつては山の仕事で活躍していました。きっと戦国期でも山間部の多い南予で活躍していた馬は、小柄で丈夫な馬たちが活躍していたことでしょう。
野間馬2
         騎馬武者いざ出陣!
 
天候は時折小雨が降るという大変寒い中でしたが、お昼すぎには太陽も出てきました。
野間馬のあいちゃん、えひめちゃん、みやびちゃんの3頭は大変愛くるしく、とことこと小さなひづめで力強くみんなを乗せてくれました。最初は怖がっていた子も、馬から下りたときには笑顔になっていました。大変好評で、なかには何度も乗馬する子もいました。愛くるしい瞳の野間馬はみんなの心を癒してくれました。

野間馬3
野間馬のえひめちゃん

 野間馬のあいちゃん、えひめちゃん、みやびちゃん、そして野間馬ハイランドのスタッフの皆様、楽しい時間を過ごさせてくださってありがとうございました。

祝!等妙寺旧境内が国指定の史跡へ

2007年11月17日

旧等妙寺跡
  等妙寺旧境内出土褐釉龍文壺(かつゆうりゅうもんこ) 鬼北町教育委員会提供

 このたび、鬼北町奈良に所在する等妙寺旧境内が、国の史跡として指定されることが答申されました。決定すれば、宇和島城や河後森城跡や湯築城跡などとともに、十一番目の国指定史跡になります。
 等妙寺旧境内は、鬼ヶ城山系に連なる郭公岳(標高1010m)の尾根筋に位置する中世の山岳寺院で、鎌倉期の戒律復興運動のなかで遠国四箇の戒場として定められた天台律宗系寺院です。鬼北町教育委員会により1994年から発掘調査が実施され、14世紀から16世紀末まで機能していたことが明らかになっています。
 現在、当館で開催されている「戦国南予風雲録」展にて、等妙寺旧境内出土の遺物を展示しています。寺院での生活や儀式に使用されたと考えられる中国から輸入された青磁や白磁、青花などの貿易陶磁器が数多く出土しています。なかでも褐釉龍文壺は、中国南部で生産されたと考えられるやきもので、胴部に龍が巻きつき、肩部では耳を形成する六耳壺で、全国でも数少ない出土品として注目されます。ほかに備前焼の水指や天目茶碗などの茶道具、金色に輝く仏具などもあります。
 等妙寺旧境内のさまざまな資料を、愛媛県歴史文化博物館で見ることのできる絶好の機会ですので、ぜひご来場ください。

戦国展関連講座 現地学習会河後森城跡のようす

2007年11月14日

 河後森城跡1

 去る11月10日土曜日、秋晴れのさわやかな天候に恵まれ、戦国展関連講座「河後森城跡を歩こう」を開催しました。松野町教育委員会の高山剛先生のわかりやすいご案内で、河後森城跡を満喫することができました。
 中世のお城である河後森城跡は、土を削ったり、盛り上げたりして作られた土作りの城です。伊予国と土佐国の国境に位置し、県下最大の山城跡です。四万十川の支流に囲まれた独立丘陵で、本城・古城・新城の曲輪(くるわ)配置が馬蹄形に連なります。平成3年から継続的に発掘調査が実施され、平成9年には国の史跡指定を受けました。調査研究に基づいて史跡の整備復元が行われています。

 河後森城跡2

 当時は水の確保に苦労したようです。馬蹄形状の曲輪の内側にある大井戸を見学したあと、西第十曲輪に登りました。ここでは門や建物跡、土塁の復元がされています。

河後森城跡3
河後森城跡4

 さらに尾根伝いに山を登り、本郭に登りました。標高は最も高く約172mです。今年度平面復元された主殿跡を見学しました。ここでは、酒宴なども行われたのでしょうか?
現在は樹木で覆われて見晴らしはききませんが、将来的には眼下に四万十川の上流である広見川を望むことができるようになるそうです。

河後森城跡5

 今後も徐々に明らかになっていく河後森城跡の調査が期待されます。
 参加者の皆さんは、自然地形を利用した河後森城跡を実際に歩いてみて、当時のくらしぶりに思いをはせることができ、勇壮な姿を実感できたことに感動していました。
高山先生ありがとうございました。

戦国展資料紹介 銭の入った備前焼壺

2007年11月13日

壺と銭
備前焼壺と銭貨(個人蔵・当館保管)

 これは、昭和24年ころ、東温市松瀬川の山中から出土した備前焼壺で、中に一万枚あまりの銅銭が入っていました。そのうち3000枚が調査され、もっとも古い銅銭は中国の唐代の開元通宝(初鋳621年)で、もっとも新しいものは明代の永楽通宝(1408年)でした。現在は2000枚あまりが現存しており、近年の調査では、唐、北宋、明など8王朝、55種類の銭貨と無文銭や模鋳銭が含まれていることがわかりました。そのうちもっとも多かった銭種は永楽通宝でした。中世には、中国から輸入した銅銭が使用されていましたが、近年では日本でも模鋳銭が作られていることが明らかになってきています。
 壺は岡山県備前市で焼成された備前焼で、室町時代の15世紀後半のものと考えられます。丈夫な備前焼を銭の埋蔵容器として活用していたことがわかります。中世の備前焼は、壺・甕・すり鉢が生産され、伊予にも大量にも流通していることが明らかになっています。このような大量出土銭を詳細に検討することにより、銭や備前焼の流通をうかがい知ることができます。
 地中から大量の銭貨を埋蔵した事例が全国的にみられます。その理由として、中世の人々が、戦禍や天災を避けるために地中に備蓄したことや、神仏に捧げるために地中に埋納したことなどが考えられていますが、検証材料が少なく、断定するにはいたっていません。
 中世の松瀬川の人々も、備前焼の壺を容器として、中に大量の唐~明代の銅銭を入れて、なんらかの意図を込めて埋蔵したのでしょう。どんな想いだったのでしょうか?
 第二会場に展示していますので、ぜひご覧ください。

戦国展資料紹介 食事の風景(2) 酒飯論絵巻

2007年11月1日

下戸
 酒飯論絵巻(当館蔵)

 次に紹介するのは、下戸(げこ)の食事風景です。
僧侶と稚児が畳敷きの間で食事しています。前回紹介した、上戸(じょうこ)の酒宴のにぎやかな様子に比べて、静かな風景です。
 白木の三方に載せられている赤い食器は、漆塗りでしょうか。ご飯がてんこもりに盛られています。食材に生臭いものはなく、精進料理が描かれています。中央には、鉢に食後に出される瓜が用意されています。床の間には、赤い卓の上に三足具(花瓶と燭台、香炉)が描かれています。

下戸

 下戸の台所風景を描いています。
板敷きに座り込んで、調理しています。食材に肉や魚はみあたりません。楕円形の大きな曲げ物には白いご飯が見られます。俎板は、現在では見られない足がついています。その上には豆腐が置かれています。食材の盛りつけには、足のついた中国製の青磁盤や漆塗りの鉢も使われているのがわかります。
 土間では、擂鉢を足で抱えて擂り粉木で何か擂っている人がいます。和え物料理が作られているようです。竃では、鉄製品と思われる鍋を沸かしている様子がうかがえます。
 このように絵巻から当時の道具の使い方などをうかがいしることができます。