2008 年 1 月 のアーカイブ

テーマ展資料紹介(6)段畑の道具 

1月 27日 日曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし」の資料紹介。
今回は段畑で使われた道具に関する資料を紹介します。

山の頂上まで耕された段畑では、耕作だけでなく、道具、肥料、収穫物などの運搬も人力で行われていました。
大変な重労働の際に使われた道具類です。


菅畚(すげふご)
宇和島市城山郷土館 蔵
運搬具。方言で岩菅(いわすげ)又はいわすぎともいいます。菅は、昔は漁師達が夏にこれを取って前掛(腰蓑)を編み、又は小縄をなって、畚や簀(すのこ)を編み、縦縄としました。藁(わら)と異なって濡れても乾きやすく、強いといわれます。


ショイコ
宇和島市立宇和海中学校 蔵
運搬具。『宇和地帯の民俗』(昭和36年)には、「背負子式の運搬具は全く普及していない」とありますが、昭和20年代の宇和海沿岸部の写真には、ショイコを背負う人々が写っているものが見受けられます。(下の写真は個人撮影のものです)


タナカゴと箆(へら)
宇和島市城山郷土館 蔵
段畑の除草道具。紐(ひも)を腰に括(くく)り、籠は腰の斜め後ろにし、ごく小さい雑草の根を箆でほぐして取り、籠に入れます。主に、麦を作っていたころに用いました。

農道やモノレールが出来た今でも、除草は手作業で行われます。また、収穫した馬鈴薯を畑からモノレールまで運ぶときも、畚(ふご)(ホゴロと呼ぶ地域もあります)が使われています。

テーマ展資料紹介(5)切干作りの様子  ~こんなに沢山サツマイモ!~

1月 25日 金曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし-海と「そら」の恵み-」の資料紹介です。
前回ご紹介したのは、切干作りの道具「千貫切り」。
今回は、切干作りの様子を写真でご紹介します。(写真は、いずれも個人撮影のものです)

千貫切りを使う
この写真は、千貫切りを使っているところです。サツマイモの量にびっくりしますね。
このように中腰で行い、ハンドルを持つ手には芋の重さがかかるので、力のいる仕事であったといいます。
子供の頃、この切干し作りの手伝いをした人も多かったようです。


こちらは、切干を干しているところです。
イリコを干すイリコ棚が最適でした。天日で4,5日乾燥させます。芋の種類にもよりますが、概ね乾燥前の3割の重量になったといいます。

イリコ棚にびっしりと並んだ大量の切干・・・。これらの写真を見ると、まず芋の量に驚いてしまいます。しかし、その大量の切干作りにあたっては、後には千貫切りには動力付きも登場するものの、ほとんど手作業で行われていました。どれだけ大変な作業だったことか・・・、想像するだけでも気が遠くなりそうです。

切干の棚と段畑

テーマ展資料紹介(4)切干作りの道具 ~芋かんなと千貫切り~

1月 24日 木曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし」の資料紹介。
今回はサツマイモに関する資料を紹介します。

切干作り
昭和10年代以降、段畑で盛んに作られたのはサツマイモでした。戦争が激化し、食糧増産の国策でサツマイモ作りが奨励されたためです。
戦後も、食料難のためサツマイモが増産され、生のままか、切干(きりぼし)で出荷しました。切干は、デンプンと酒用アルコールの原料となりました。芋や麦は供出制度があり、供出割当以上に増産すると、3倍の価格で買い上げられました。切干がこれに当てはまると、米と同じ値段となります。米と芋とが同じ値段、という「切干景気」に、人々はサツマイモ作りに励みました。段畑の面積を増やし、収穫量をあげるために、石垣化も進められました。

芋かんな
芋かんな/愛南町内海郷土資料館蔵 
芋かんなは、大工道具のかんなのような形をしています。かんなと同じ使い方で、1日に約200貫(750kg)の芋を切りました。

千貫切り
千貫切り/愛南町内海郷土資料館蔵
芋切りの効率を挙げるために考えられたのが千貫切りです。千貫切りとは、1日に約1000貫(3750kg)もの芋が切れる、という意味です。芋を置きハンドルをまわすと、刃が回転して輪切りされた芋が出てきます。後には動力で動くタイプも登場しました。

この千貫切りには「宇和島市/愛媛農工株式会社/日の本式芋切り機」という銘があります。愛南町の他に、宇和島市、西予市、伊方町にも同銘の千貫切りが現存しており、宇和海沿岸で広く流通していたことがうかがえます。

切干作り2
すごも/愛南町内海郷土資料館蔵
展示室には、切干作りの道具とともに、切干の模型も展示しています。この模型の製作は、今年度の当館博物館実習生、宇和高等学校職場体験の高校生、そして当館ボランティアの方々に協力していただきました。

テーマ展資料紹介(3)養蚕道具  ~大事な「お蚕さん」~

1月 23日 水曜日

テーマ展「宇和海と段畑のくらし-海と「そら」の恵み-」の資料紹介。
今回は養蚕の道具を紹介します。

養蚕道具全体
明治10年代末頃からのマイワシの不漁により、宇和海沿岸部では次第に農業の比重が重くなり、養蚕が盛んになりました。大正元年には「養蚕を行うものはほとんどいな」(『遊子村誌』)かったのですが、第一次世界大戦による空前の好景気で、瞬(またた)く間に農漁村に広まりました。農家にとっては、現金収入を得る貴重な仕事でした。

遊子も養蚕景気に支えられて耕地の半分が桑畑となりました。桑は良い畑が必要なので、この頃から段畑の石垣化が始まったといわれます。

 蚕(かいこ)はデリケートな生き物で、新鮮な桑を好むため、一日に何度も桑の葉を摘みました。風通しのよい部屋で飼う為、家の二階を蚕室としました。温湿度にも気を遣い、寒い時は部屋を暖めました。桑を摘み、蚕に桑をやり、蚕盆の掃除をする・・・。養蚕は重労働でしたが、人々は蚕を「お蚕さん」と呼び、大切に育てました。

桑籠

桑籠の銘
桑籠
宇和島市立宇和海中学校 蔵
墨書きから、下波柿之浦の人のものとわかります。

桑切り鎌など
桑切り鎌・桑切包丁・桑切台
愛南町内海郷土資料館 蔵
蚕に与える桑の葉は、桑切り鎌で刈り、包丁と俎板(まないた)で刻みます。蚕が幼い時は細かく切り、大きくなると、大量の桑の葉を、粗く切ります。

蚕盆
蚕盆・蚕網
西予市明浜歴史民俗資料館 蔵
蚕を飼う盆と、桑をやったり、盆の掃除をするときに使う蚕網。蚕が幼い時は目の細かい網、大きくなったら目の粗い網を使いました。

まぶし折り機
簇(まぶし)織り機
西予市明浜歴史民俗資料館 蔵
蚕が繭を作る簇を織る機械。上部に藁を広げてはさみ、ハンドルを交互に交差して藁を折り曲げる。この型は、明治末期に発明され、普及しました。

しかし、昭和4年の世界恐慌のあおりを受け、生糸は大暴落し、養蚕農家は大きな打撃を受けることになります。

テーマ展資料紹介(2) 鰯漁の道具

1月 12日 土曜日

テーマ展資料紹介(2) 鰯漁の道具 

テーマ展「宇和海と段畑のくらし―海と「そら」の恵み―」に展示中の資料の紹介です。

「西国一の鰯漁場」といわれた宇和海。
今回は、宇和海の鰯漁で使われた道具を紹介します。


ザイ 西予市明浜歴史民俗資料館蔵
海岸の高い所や船上から、村君(むらぎみ)が魚の群れの動きや泳ぐ方向を知らせる道具です。
75cmの泉貨紙を折り結んであり、2本1組で、1本ずつ両手に持って使います。
「漁業旧慣(きゅうかん)調」の「鰯網曳(ひき)之図」にも、陸と船上の双方で、村君がザイを持って指図する様子が描かれています。テーマ展資料紹介(1)に掲載していますので、あわせてご覧下さい。


綿の鰯刺網(写真中央の白い網) 西予市明浜歴史民俗資料館蔵
昔は、綿でできた網を使っていました。写真の網はまだ染めていない状態ですが、使う時は、柿渋で染め、アバ(浮き)や、イワ(おもし)など部品をつけて仕上げました。
綿の網は、使った後は天日に干さないといけないので、漁から帰ってきてもその仕事がありました。

テーマ展資料紹介(1)描かれた鰯漁(いわしりょう)

1月 9日 水曜日

現在開催中の「宇和海と段畑のくらし―海と「そら」の恵み―」(~2/4)。もう、ご覧いただけましたか?
ここでは、展示中の資料をシリーズで紹介します。
とても身近だけどあまり知らなかった「宇和海」と「段畑」。資料からは、「宇和海」と「段畑」に生きてきた人々の日々や、その移り変わり、仕事に懸ける想いなどがうかがえます。


『漁業旧慣調』/明治初期/愛媛県立図書館 蔵
『漁業旧慣調』は、明治初期に編纂されました。当時の網代(あじろ)図や漁法、漁具などが描かれ、説明が添えられた貴重な資料です。
ここでは、鰯漁の様子が描かれています。宇和海は「西国一の鰯漁場」といわれており、砂浜が少ないため、沖合いで操業する船曳(ひ)き網で鰯を捕りました。江戸時代から、このような方法で漁が行われていたと思われます。
 「漁業旧慣調」に記録された鰯船曳き漁の様子を見てみましょう。

 夏が好季節。船6艘で行う。


海のよく見はらせる山の上にムラギミ(村君)が登り、魚の群れを発見したら海上の手船方に合図する。

手船
手船方ではムラギミの合図を受けて網使いを指揮する。

真網
真網

逆網
網船はマアミ(真網)*船、サカアミ(逆網)*船の2艘で長さは7尋(10.5m)。網船2艘が網を入れながら魚群を取り囲み、海岸へひきつける。船を海岸に固定し、徐々に網を引き寄せる。

前狩
このとき、マエガリ(前狩)2艘が、網船の間から魚が逃げようとするのを、割木(わりき)に苧縄(おなわ)をつけたものを何回も海中に投げて驚かし、逃げないようにする。


網底が潮に流されないように、小船が1艘底網のほうに漕ぎ出し、錨(いかり)を入れて流れないようにする。

一帖(一つの船団)に、何艘もの大きさの違う船があり、それぞれに役割を持って漁をしていたことがわかります。
船曳き網で獲った鰯は、干鰯(ほしか)にして、船で大坂などへ運ばれ、畑の肥料として使われました。宇和島藩・吉田藩の重要な物産品でした。
このような鰯漁に従事する人々が宇和海沿岸に住み、自給自足のために開墾していったのが段畑と考えられています。

*真網(まあみ)・・・網を左舷につけ魚群に対し反時計回りに廻って囲う船。
*逆網(さかあみ)・・・網を右舷につけ魚群に対し時計回りに廻って囲う船。