2008 年 3 月 のアーカイブ

南予の中世城跡探訪5 大野直之の本拠 ―菅田城跡―

3月 28日 金曜日

 大洲盆地の東部、神南山の西麓の尾根に菅田城は位置しています。尾根を横堀で切ったところへ、尾根の傾斜を利用して曲輪を幾重にも重ね、一部に土塁も築くなど、規模の大きな城跡です。


  菅田城跡

 大野直之は、浮穴郡久万(久万高原町)を本拠とする国人領主大野氏の一族で、戦国末期の当主大野直昌(なおしげ)の弟といわれています。伝承では、大津(大洲市)を拠点に喜多郡に広く影響を及ぼした国人領主宇都宮豊綱から支配権を奪い、天正年間には土佐の長宗我部氏と結んで河野・毛利勢力に対抗したといわれています。
 しかしながら、実際の彼の活動を物語る確実な資料はほとんど残っていないというのが実情で、現在語られている彼の活動の多くは「大洲旧記」をはじめ後世に編纂された記録類に基づくものになってしまっています。伊予では著名な戦国の国人領主ですが、実際はとても謎の多い領主です。
 菅田城の南麓には菅田地域が開け、東を見ると肱川上流域、西を見ると大洲盆地、そして北を見ると伊予灘へ抜ける肱川下流域と、大洲盆地を支配する上で恰好の場所に位置する菅田城は、その構造の規模から見ても、戦国末期に喜多郡に名を馳せた国人領主の本城にふさわしいといえるでしょう。

南予の中世城跡探訪4 肱川下流の岩山 ―瀧ノ城跡―

3月 22日 土曜日

 肱川は、大洲盆地を抜けると、左右を山に挟まれた谷間をまっすぐ長浜へ向けて北流します。そこは大洲と伊予灘を結ぶ動脈で、現在でもJR予讃本線や県道が狭い谷間に通っています。そのちょうど中ほどに、かつて旧大洲市と旧長浜町の境がありましたが、そこには米津地区があり、右岸の山を見上げると険しい岩肌をあらわにする岩山が見えます。それが瀧ノ城跡です。「タキ」「タケ」などの語が、岩がちな山・岩の露出した崖の意味として使われる場合もあるため、「瀧ノ城」の名前はその容貌にちなむのかもしれません。


  瀧ノ城跡

 山頂に広い主郭を設け、周辺に大小の曲輪が配され、尾根を切る横堀の他に縦堀も確認されます。そして、西側の肱川に面する斜面は険しい断崖となっており、堅牢な城郭であった様子がうかがえます。
 瀧ノ城は、大津(大洲市)の宇都宮氏に従って下野(栃木県)から移ってきたといわれる津々喜谷氏が本拠としました。同氏については、南北朝時代にはすでに当地で活動したことが古文書から確認できます。戦国時代に入ると、当地を含む肱川下流域では、毛利氏の支援を受けた河野氏の勢力伸張や、喜多郡内での領主間抗争などにより、騒乱が続きました。当地は、その地理的性格から喜多郡進出・防御の要衝だったはずです。その渦中で、津々喜谷氏や瀧ノ城が史料上に顔を出します。この頃には、どうやら毛利・河野勢力に属していた模様です。
 この城は、四国平定後に豊臣政権下で行われた城郭整理の状況もうかがえるという興味深い城の一つです。伊予を拝領した小早川隆景は、家臣乃美宗勝に宛てて伊予の支配に関すること、城郭整理に関することなど事細かに指示を出していますが、その中で「祖母谷(うばがい)、瀧之城、下須戒、これも一所にまとめたい」と言っています。この3城はすべて大洲盆地から長浜に抜ける肱川沿いに所在する城で、それぞれに河川交通を押さえる拠点となっていたと推察でき、統一政権下ではその役割を1つの城に担わせようとしたようです。
 少し山手に入った手成地区には、津々喜谷氏の菩提寺である西禅寺が所在し、津々喜谷氏や宇都宮氏にゆかりのある古文書「西禅寺文書」(県指定有形文化財)が伝来しています。この資料は、現在当館で保管しています。


  西禅寺文書(西禅寺蔵・当館保管)

展示室のひみつ「くるっと回して・・・」

3月 13日 木曜日

 歴史展示室4の昭和の街かどを再現したコーナーでは、3月9日閉館後、展示替え作業を行いました。
 平成17年度にリニューアルしたこの展示コーナーには、展示替えのためにちょっとした仕掛けが組み込んであるので、その作業風景をご紹介します。

ここは、「昭和初期の台所」だった横幅2mほどのコーナー。
手前に置いてあった展示台を動かして後ろの壁はずすために作業中です。

作業中

はずした壁をくるっと回して裏返すとこんな絵が描かれています。

うらがえし

壁が変わったら、つづいて、板間を表現していた展示台に畳をはめ込みます。
すると、窓のある板間の部屋が、あっという間に襖のある和室の部屋に変身!

展示完了!

 前回、和室の設定ではちゃぶ台を置いた茶の間の風景だったのですが、今回はオルガンや文机、女の子たちに人気のあった着せかえ、流行したリカちゃんをはじめとするファッションドールを展示し、昭和30年~40年代の「女の子の部屋」を紹介しています。この他にも「学校生活」や「スター図鑑」と題して、昭和30年代以降の資料を中心に展示替えしました。詳細は展示室でお楽しみください。

テーマ展閉幕と考古展示室展示替え「えひめ考古学の名品」

3月 12日 水曜日

考古展示室0703

 昨年9月15日から開催していましたテーマ展「古墳に納められた品々~愛媛の古墳文化を探る~」は2月24日に好評(?)のうちに閉幕し、先日借用資料の返却も無事終了しました。このテーマ展の終了に伴い、3月8日から考古展示室では展示更新を行いました。
 今回のテーマは、「学芸員が選ぶ えひめ考古学の名品」というものです。今回の展示替えでは、博物館が保管する大量の考古資料の中から担当学芸員が資料を厳選し、19件の資料・テーマを設定しました。19のテーマは次の通りです。

四国最古の石器群/約二万年使われた赤い石/愛媛県最古の土器/縄文時代の漆技術/国内でも数少ない木製のよろい/弥生人はどんな顔?/県内最大の前方後円墳/破片になった卑弥呼の鏡/渡来人が持って来た土器/古墳時代の飾り馬/1300年前の役所の文房具/古代の高級なやきもの/大量に埋められた中世の銭貨/中世の甕棺のお墓/中世の山城発掘/「与州松山」のやきもの/江戸時代のミニチュア製品/型紙で絵付けされたやきもの/龍の細工の得意な陶工

 また、展示室中央には県内最古の土器をモデルにした土器パズルもあり、子どもから大人までが見て、楽しめる展示となっています。
 展示方法もこれまでとは少し違う工夫をしていますので、この機会に是非ご覧ください。
 展示は9月下旬までの予定です。

南予の中世城跡探訪3 出石山東麓、上須戒の中世城跡 ―向居城跡・桜ケ森城跡―

3月 7日 金曜日

 肱川下流の八多喜(はたき)地区から西へ谷を上ると、のどかな山間の集落が現れます。上須戒(かみすがい)地区です。こじんまりした盆地に南面する山並みから迫り出した尾根先に、向居(むかい)城はあります。
 戦国時代、この地域を支配した土豪に向居氏がいました。向居氏は、周辺の土豪たちと対立や連携をしながら、一方で大津(大洲市)を中心に喜多郡域に広く影響を及ぼした宇都宮氏とよしみを通じ、宇都宮氏が衰退して後は道後方面から喜多郡へ勢力を伸ばしてきた河野・毛利勢力に属し、天正13(1585)年の四国平定以降も、伊予(南予)を支配した小早川氏や戸田氏に従い、そして近世には上須戒村の庄屋として家名を保ちます。この向居氏の本城といわれているのが向居城です。


  向居城跡

 この向居城とほぼ向い合うような北面の山並みの尾根先に、桜ケ森城があります。こちらは、遺構の大きさや石積みの存在などから、向居城より新しいもののようです。城主については、向居氏のもう一つの城だとも、向居氏と対立した城戸(きど)氏とも伝えられ、はっきりと確定はできません。


  桜ケ森城跡

 両城とも尾根の先端を利用した連郭式の城で、最も高い主郭から先端に向けて曲輪(くるわ)が連なっていき、逆に主郭の背後(山側)には空堀が設けられています。大まかな構造に共通する性格が見られる一方で、桜ケ森城には各曲輪の周辺に石積み、主郭に土塁が見られ、規模も大きいという違いが確認できます。
 上須戒の集落には、向居氏の菩提寺である宝蔵寺も所在しています。