肱川は、大洲盆地を抜けると、左右を山に挟まれた谷間をまっすぐ長浜へ向けて北流します。そこは大洲と伊予灘を結ぶ動脈で、現在でもJR予讃本線や県道が狭い谷間に通っています。そのちょうど中ほどに、かつて旧大洲市と旧長浜町の境がありましたが、そこには米津地区があり、右岸の山を見上げると険しい岩肌をあらわにする岩山が見えます。それが瀧ノ城跡です。「タキ」「タケ」などの語が、岩がちな山・岩の露出した崖の意味として使われる場合もあるため、「瀧ノ城」の名前はその容貌にちなむのかもしれません。
瀧ノ城跡
山頂に広い主郭を設け、周辺に大小の曲輪が配され、尾根を切る横堀の他に縦堀も確認されます。そして、西側の肱川に面する斜面は険しい断崖となっており、堅牢な城郭であった様子がうかがえます。
瀧ノ城は、大津(大洲市)の宇都宮氏に従って下野(栃木県)から移ってきたといわれる津々喜谷氏が本拠としました。同氏については、南北朝時代にはすでに当地で活動したことが古文書から確認できます。戦国時代に入ると、当地を含む肱川下流域では、毛利氏の支援を受けた河野氏の勢力伸張や、喜多郡内での領主間抗争などにより、騒乱が続きました。当地は、その地理的性格から喜多郡進出・防御の要衝だったはずです。その渦中で、津々喜谷氏や瀧ノ城が史料上に顔を出します。この頃には、どうやら毛利・河野勢力に属していた模様です。
この城は、四国平定後に豊臣政権下で行われた城郭整理の状況もうかがえるという興味深い城の一つです。伊予を拝領した小早川隆景は、家臣乃美宗勝に宛てて伊予の支配に関すること、城郭整理に関することなど事細かに指示を出していますが、その中で「祖母谷(うばがい)、瀧之城、下須戒、これも一所にまとめたい」と言っています。この3城はすべて大洲盆地から長浜に抜ける肱川沿いに所在する城で、それぞれに河川交通を押さえる拠点となっていたと推察でき、統一政権下ではその役割を1つの城に担わせようとしたようです。
少し山手に入った手成地区には、津々喜谷氏の菩提寺である西禅寺が所在し、津々喜谷氏や宇都宮氏にゆかりのある古文書「西禅寺文書」(県指定有形文化財)が伝来しています。この資料は、現在当館で保管しています。
西禅寺文書(西禅寺蔵・当館保管)