2008 年 4 月 のアーカイブ

『愛媛歴史民俗100モノ語り』が刊行されました

4月 25日 金曜日

 愛媛県歴史文化博物館監修の『愛媛歴史民俗100モノ語り』が愛媛新聞社から刊行されました。当館の学芸員が中心となって、100の資料に込められたモノ語りを分かりやすく解説しています。

 取り上げた資料の多くは博物館の収蔵資料で、日頃の調査研究活動の中で気づいたことを、それぞれの学芸員が紹介しています。これまで、愛媛の歴史や民俗を概説した本はいろいろな種類が出版されていますが、モノ(資料)にこだわりながら歴史や民俗を解説した本はこれまでありませんでした。博物館の学芸員ならではの本になっていると思います。

 定価は1800円。県内の主要書店にゴールデンウィーク前には並びます。また、博物館でも受付で友の会より販売を開始しました。友の会会員は博物館で購入すると、1500円とお得です。ぜひ手に取ってご覧下さい。

100モノ語り

 なお、現在常設展示の考古展示室では、本の発売にあわせて「学芸員が選ぶえひめ考古学の名品」展が開催中です。本に登場する考古資料の多くが展示されています。こちらもお見逃しなく。

企画展「写真でみる昭和の暮らし」が開幕しました。

4月 22日 火曜日

写真でみる昭和の暮らし

企画展「写真でみる昭和の暮らし」は、本日開幕しました。
観覧料は以下のとおりです。
■企画展
大人  200円(150円)
小・中学生  100円(50円)
■常設・企画展共通
大人  600円(550円)
※(  )内は20名以上の団体料金になります。
※65歳以上の方は常設・企画展ともに無料です。
※小・中学生は常設展は無料です。

職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

南予の中世城跡探訪7 大洲盆地西端の要衝 ―高森城跡―

4月 11日 金曜日

 大洲市街地から西へ久米川に沿って進むと、JR伊予平野駅の辺りから支流沼田川に沿ってさらに西へと谷が入っていきます。そこは大洲市の西端、平野町平地地区で、谷を見下ろす山頂に高森城があります。ここは、ほんの数キロ西へ進んで峠を越えると宇和海に面した八幡浜に出られる場所で、大洲盆地と八幡浜(宇和海)を結ぶ交通の要衝にあたります。
 広い主郭の周囲にいくつかの小さな曲輪を配し、縦堀も何本か確認できます。背後の尾根にも広めの曲輪や横堀の遺構を見ることができます。


  高森城跡

 高森城は、戦国時代の在地領主梶谷氏の居城でした。梶谷氏は「大洲旧記」などに記す伝承によれば、大津(大洲市)の宇都宮清綱が萩森城(八幡浜市)に隠居する際にこれに随ったとされています。伝承の真偽は不明ですが、高森城の地理的性格を顧みた時、大津と八幡浜を結ぶ中間の恰好の場所に梶谷氏が位置していたことは確かです。
 実際の築城年代や経緯などははっきりしませんが、戦国末期の元亀~天正年間には、確かに梶谷氏が高森城を廻って攻防を繰り広げている様子が古文書に見えます。元亀4(1573)年には、高森城を築いた(修築した?)恩賞として城周辺の土地を河野氏から与えられ、その後年代は不明ですが高森城を敵から忍び取ったり、敵の攻撃から守ったりしたことをやはり河野氏から賞されるといった古文書が残っています。この時期には、喜多郡に勢力を伸ばしてきた河野氏の勢力下に梶谷氏が入っていたことがよく分かります。


  梶谷氏が高森城を築いた恩賞として、平地の土地などを河野氏からもらった文書。
  1行目に「今度高森取拵」と書かれています。
       「柁谷文書」(当館蔵)

 梶谷氏は、近世になるとそのまま平地村に居住する家や、宇和島藩伊達家に出仕する家に分かれながら、代々続いていきます。

南予の中世城跡探訪6 忽那通著討ち死にの地 ―花瀬城跡―

4月 4日 金曜日

 大洲盆地の南、国道56号大洲道路の大洲北只ICを下りた西側、ちょうど国立大洲青少年交流の家の東北に花瀬城は所在します。
 国立大洲青少年交流の家の裏山の山頂にも鴇ケ森(ときがもり)城という城跡があり、ここは戦国時代の領主大野直之の拠点の城だったとも伝えられ、遺構の規模も大きく堅固な構造を見ることができます。一方のこの花瀬城も、広い主郭の回りに帯曲輪がいくつか配され、縦・横の空堀も確認できますが、鴇ケ森城よりはやや地味な造りになっています。


  花瀬城跡

 戦国時代に肱川下流域では、毛利氏の支援を受けた河野氏の勢力伸張や、喜多郡内での領主間抗争などにより、争乱が続きました。天正7(1579)年には、河野氏が軍勢を派遣しこの地域で戦闘が生じたようです。そこには、忽那水軍の末裔忽那通著の姿もありました。しかし、この花瀬城での合戦において通著は討ち死にしてしまいます。そのことは、当時の確実な文書に見ることができます。同年4月20日付けで河野通直(牛福)は、通著の息子亀寿に宛て、親父式部少輔(通著)の討ち死にの忠義を讃え、ねぎらう旨の感状を出しています。(注:当ブログの昨年4/26記事参照)
 実は、この天正7(1579)年という年には、喜多・宇和郡域に対して、河野氏以外にも、長宗我部氏や大友氏ら周辺の勢力からの干渉が頻発しました。土居清良ら西園寺配下の軍勢が長宗我部勢の侵攻を阻止した岡本城(宇和島市三間町)の合戦、日振島(宇和島市)への大友配下の水軍の侵攻などが相次ぎました。南予各地で生じた戦乱の、ひとつの舞台となった城跡です。