2008 年 5 月 のアーカイブ

愛媛の祭り13 清水の五ツ鹿踊(いつしかおどり)

5月 31日 土曜日

※南予地方 鬼北町清水(せいずい)

県無形民俗文化財に指定されている鹿踊りです。嘉永6(1853)年に製作された鹿頭が保存されており、音階やリズムも古い形を残す芸能であるといわれています。

南予地方の鹿踊は、今から400年前の江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、宮城県・山形県周辺の鹿踊と共通する点が多く見られます。

鹿踊の布幕は、横のシマ模様になっています。一般的に白・黒・赤・青・黄の五色のシマ模様になっています。これは古代中国から伝わった「五行説」の考え方が取り入れられたものです。

南予の中世城跡探訪10 豊後大友勢の侵攻 ―飯森城跡―

5月 30日 金曜日

 佐田岬半島の根幹部には現在瞽女(ごぜ)トンネルが抜け、伊予灘側と宇和海側を容易に結んでいます。このトンネルの上を通る旧道は瞽女峠を越える峠道で、古くから細長い半島の両側をつなぐ交通路でした。そして、峠道を南側(宇和海側)に下りた場所、現在ではトンネルの南側出口、その西の山の尾根上に飯森城跡はあります。細い半島の付け根に通る峠道に臨むこの城は、2つの海の沿岸地域をつなぐ要衝に位置するといえます。
 尾根の先端の高みに主郭を設け、尾根伝いに曲輪や横堀を配しています。一部に土塁も残っており、曲輪の数も少なくはありませんが、さほど重厚な造りでないように見えます。


  飯森城跡

 元亀3(1572)年7月、豊後大友氏配下の若林・鶴原・佐伯氏らが豊後水道を渡って伊予へ侵攻してきます。その時、この飯森城で伊予勢と交戦したことが、大友氏側の古文書に残っています。迎え撃った伊予勢が具体的に誰であったかは現在のところはっきりしていません。大友勢の出兵目的も明確な断定はなかなか難しいところです。
 従来では後世の記録類を基にして、姻戚関係にある土佐一条氏と対立する西園寺氏を背後から討つためとの、いわば局地的紛争としての理解が通説的に流布していました。しかし、同時代の古文書などから見直してみると、実は大友氏と毛利氏という西瀬戸一帯に大きな影響を及ぼす戦国大名同士の抗争の一環と捉えることもできます。同時期に芸予諸島や備前で生じていた能島村上氏や備前浦上氏などの反毛利的行動も含めつつ、大友勢力による毛利勢力への広域的な撹乱の一つとして、西南方面からの効果をねらった行動と理解することもできるのです。
 この飯森城の合戦の後、大友勢は深く進軍することなく帰国しますが、そのこともやはり南予自体に対決すべき主体がなかったことを示しているように思います。

写真でみる昭和の暮らし6 ボンネットバス

5月 29日 木曜日

ボンネットバス(昭和44年)

 ある時は町内を巡回する生活の足、またある時は遠方へ旅するための手段としてバスは古くから親しまれてきました。なかでも舗装されていない道を砂煙をたてて走るボンネットバスを、なつかしいと思う人も多いかもしれません。自動車を運転しなかった村上節太郎は、よく調査にバスを利用したようで、写真にはバスがたくさん写っています。

三坂峠のボンネットバス(昭和33年)

 上の写真は、昭和33年に撮影された三坂峠のボンネットバス。車体には国鉄バスのシンボル「つばめマーク」が描かれています。昔の土佐街道を改修した三坂峠への道は、ヘアピンカーブの連続する坂道が続きます。完全舗装されたのは昭和42年度なので、写真当時は未舗装の区間も多いなか、ガタゴトと走っていました。

愛媛の祭り12 宇和島市の八ツ鹿踊(やつしかおどり)

5月 28日 水曜日

※南予地方 宇和島市

宇和島の鹿踊は、江戸時代初期に宇和島藩主伊達家の関係で、東北仙台からもたらされた芸能です。慶安2(1649)年に宇和島の裡町から出されるようになり、現在に到っています。

鹿踊は一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に太鼓を抱え、布幕で体を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭りに登場します。一人立ちの鹿踊は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では愛媛県南予地方周辺のみで見られます。

鹿踊の歌詞「回れ回れ水車~」は、室町時代に流行した歌ともいわれています。400年前に南予に伝わった芸能なので、それ以前の歌謡が取り込まれているのです。

写真でみる昭和の暮らし5 映画館

5月 27日 火曜日

 昭和30年代の娯楽といえば映画。ちょっとした街には必ず映画館がありました。昭和33年のデータによると、国民1人当たり1年間に12~13回映画館に足を運んだ計算になります。映画の黄金時代、大人は時代劇、西部劇や石原裕次郎の青春もの、子どもはゴジラやモスラなどを競って観に行きました。

大洲銀映(昭和37年)

 上の写真は昭和37年に、大洲市末広町にあった大洲銀映を撮影したもの。映画看板から、石原裕次郎、浅丘ルリ子、吉永小百合の三大スター共演で話題となった、石坂洋二郎原作の『若い人』が上映されていることが分かります。

北条の映画館(昭和38年)

 もう一枚は昭和38年に旧北条市の映画館を撮影したもの。当時北条市には文化会館(本町)、北条東映(辻町)、宝館(辻町)の3館の映画館があったようなので、そのいずれかと思われます。一般家庭に冷房がほとんど普及していなった時代なので、映画館の「とても涼しい、完全冷房中」の看板にも宣伝効果がありました。

愛媛の祭り11 南予の唐獅子(からじし)

5月 25日 日曜日

※南予地方 八幡浜市川名津

南予地方の獅子舞は、宇和海沿岸部に多く、唐獅子・荒獅子と呼ばれます。南予の祭りに登場する鹿踊り(ししおどり・しかおどり)と区別するために、獅子舞はこのように呼ばれます。

獅子舞は県下全域に見られますが、東中南予それぞれに特徴があります。南予型の特徴は、名称がカラジシ、もしくはアラジシと呼ばれ、獅子の中に青年二人が入って、華麗な衣装を身につけた少年の打つ太鼓によって舞われるものです。

南予地方では、獅子舞は、特に八幡浜市、西宇和郡に多く伝承され、八幡浜市では「唐獅子競演大会」も行われます。また愛南町の海岸部にも見られます。山間部には比較的少ないようです。

写真でみる昭和の暮らし4 東京オリンピック

5月 24日 土曜日

 昭和39年8月21日、ギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡で採火された聖火は、世界の11の中継地をまわった後、9月7日に当時アメリカの占領下にあった沖縄に上陸します。聖火はその後4つのコースに分かれて日本中をまわりますが、愛媛にも9月12日についに到着します。高浜桟橋に上陸した聖火はリレー隊23名の手により、三津浜-六軒家-国鉄松山駅-札の辻-平和通り-祝谷-道後駅前-上一万-一番町-市駅とまわり、最後に県庁に入りました。

聖火ランナー(昭和39年)

 上の写真は、村上節太郎が聖火リレーを自宅付近で撮影したもの。新聞には多いところで100mの間に1000人近くの大混雑で、全体で12万人の群衆と記されています。写真からはそこまでの混雑はないものの、熱烈な歓迎ぶりがうかがえます。

テレビ中継される聖火(昭和39年)

 村上節太郎はこの一大イベントをカラー写真でも撮影しています。写真にはNHK放送局の中継車も見えます。オリンピックを契機に、テレビの販売数が伸びたという話しがうなづける一枚です。

 確かにこの時期の新聞を見ると、たくさんの家電メーカーが、テレビの広告を打っています。あまりに高価なので、どのメーカーも月賦による購入を勧めています。あるメーカーの売り文句は人工頭脳テレビ。途中で電波や電圧が変わっても大丈夫。調整しなくても鮮明な画像でオリンピックが楽しめるとあります。オリンピック開幕まで、あと一ヶ月。何としてもオリンピックをテレビで見たいという人の駆け込み需要があったのでしょう。

南予の中世城跡探訪9 名族摂津氏一族の城 ―元城跡(八幡浜)―

5月 23日 金曜日

 八幡浜の平野の南端、五反田の神山小学校の正面には、かつて小高い尾根が伸びていて、そこには元城という中世の城がありました。


  かつて元城跡があった辺り

 現八幡浜市の南部に基盤を築いた国人領主摂津氏の本拠です。鎌倉・室町両幕府で要職を担った摂津氏という名族の所領が矢野保(八幡浜市)にあったことに由来して、その一族がこの地で領主化しました。しかし、伊予で領主化した摂津氏に関する当時の確実な資料はごくわずかなため、その動向はほとんどつかめないのが残念です。伝承では、戦国期には千丈川を挟んで北に勢力を接する萩森氏とは抗争が絶えなかったともいわれます。
 両側が切り立った斜面になった状態で細長く伸びる尾根の先端に、約200mにわたって築かれた城で、細い尾根上に複数の曲輪が連なっていました。名族摂津氏の一族が地域の支配の拠点とした城ですが、今は造成されてその名をとった元城団地という団地ができ、地名にその名残をとどめるのみとなりました。

愛媛の祭り10 松山市の獅子舞(ししまい)

5月 22日 木曜日

※中予地方 松山市鷹子町

松山地方の秋祭の主役は神輿と獅子舞です。獅子舞では「今神楽」「とんとこ」「山さがし」など様々な演目があり、狩人や猿・狐が登場し、ストーリー性あふれるのが特徴です。

中予地方の獅子舞は、南予と同じく二人立ちですが、緩急激しく頭を振り、太鼓のリズムも南予に比べて早いのが特徴です。獅子舞を舞う若者は地域の中でヒーロー扱いされ、獅子頭を持って舞う役を任されるまでには約10年間、修業しないといけないといわれる地域もあります。

地域によって獅子頭の形も異なっています。この松山の獅子頭は一本角ですが、角のない獅子頭も多く、東予地方や南予地方では、顔の色は緑ではなく赤色が主流となっています。

写真でみる昭和の暮らし3 テレビの登場

5月 21日 水曜日

テレビを見る子ども(昭和36年)

 昭和36年に村上節太郎が、松山南町の自宅で撮影した写真です。応接セットでブドウを食べながらテレビを見る子ども。子どもにとって至福の一時ともいえます。当時のテレビは、写真のように四本脚が特徴で、見ないときには専用の布をかぶせたりしました。

 昭和31年10月2日付の『愛媛新聞』には、当時の家電製品を紹介する記事が掲載されていますが、テレビは73,000円で、冷蔵庫の89,000円に次いで高額になっています。昭和33年の大卒平均初任給が13,000円程度ですから、テレビはこの時代、高嶺(たかね)の花だったことが分かります。

 また、『伸びゆく松山』(松山市政要覧1962年版)には、村上家でテレビの写真が撮影された昭和36年のデータとして、松山の世帯数61,851人に対してテレビ14,763台、普及率23.9パーセントと掲載されています。村上家にテレビが来たのはかなり早い方だったことが分かります。

伊予三島駅の荷物(昭和38年)

 こちらの写真は、昭和38年に伊予三島駅構内で撮影されたもの。伊予三島特産の紙製品に交じり、一番手前には、新品のテレビが梱包されて置かれています。東京オリンピックを翌年に控え、テレビの販売台数が伸びた時期と一致します。

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