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南予の中世城跡探訪8 宇和海を望む城跡 ―萩森城跡―

2008年5月15日

 八幡浜市街に張り出す愛宕山、その尾根をたどって奥へ向かうと、みかん畑が広がる山の頂に送電用の鉄塔が立っています。そこが萩森城です。戦国末期に八幡浜北部を支配した萩森宇都宮氏の本拠です。広い主郭の周囲にいくつかの曲輪が配され、一部分ですが堀切や土塁も見えます。


  萩森城跡

 「大洲旧記」などに記す伝承によれば、大津(大洲市)の宇都宮清綱が、本拠を長男の豊綱に譲り、自分は次男・三男らを連れて隠居したといい、その隠居先が萩森城であったとされています。後に、ともに移り住んだ次男房綱が城主になったとも伝えます。しかし、これらには確実な資料がなく、後世の編纂物類の記載や伝承の域を出ません。清綱や房綱の名を記した当時の確実な資料は、現在確認されていないのが実情です。
 その一方で、信頼できる古文書の中に、萩森元教という領主の名が登場します。これも、戦国末期の萩森宇都宮氏とされていますが、そうなると同時期に萩森宇都宮氏には、房綱と元教が存在したことになります。従来はこの両者を別人とみてきました。しかし、最近では両者は同一人物で房綱から元教に改名した可能性が高いという見解が出てきています。
 山頂からの眺望は、南にはあまり開けていない反面、北の大平側に開け、東は大洲との境をなす山々、そして西には宇和海が開けます。大洲中心部から西進し、大洲市平地の高森城を経て峠を越えるとちょうど大平に続く谷に入ります。そしてその先には宇和海。宇都宮氏が萩森城に入った伝承の真偽は不明ですが、こうした地理的性格を見た時、大洲盆地の西方の宇和海への進出をねらい、勢力の伸張という積極的な理由で萩森城という拠点を確保したとの可能性も類推されてくるのではないでしょうか。
 戦国末期にいたると、萩森氏は河野・毛利勢力に属する様子を見せ、さらに四国平定後も、伊予を支配した小早川隆景の下で活動していた形跡を残しています。


  萩森神社

 城跡から北へ少し下ると、萩森氏を祀った萩森神社が鎮座します。現在は小さな社殿が1宇あるのみですが、文化11(1814)年に萩森神社を描いた絵図には、複数の建物や常夜灯などをはじめ、多くの参詣人や物売りの姿も描かれていて、往時の賑わいが偲ばれます。また、萩森氏が用いた銅鑼が、後に鰐口の代用品として奉納されたとの伝承もあり、実際に天正14(1586)年に萩森神社へ寄進した旨の銘が刻まれた銅鑼も伝存しています。