永禄10(1567)年から翌11年にかけて、喜多郡と宇和郡の境を舞台に、河野・毛利の軍勢と、宇都宮・一条の軍勢が対峙します。いわゆる鳥坂(とさか)合戦とその前後の争乱です。河野氏と宇都宮氏の対立を発端として、10年頃から河野・毛利勢力は喜多郡に、一条氏は宇和郡に、本格的に軍勢を投入し始め、翌11年の正月頃に鳥坂峠の東方の高島、2月に鳥坂(いずれも大洲市・西予市の境界域)にて直接衝突がありました。合戦後も両軍は引き揚げることなく、毛利氏からは主力の投入、一条氏は高島陣所など拠点の依然とした確保など、緊張状態が長く継続されました。
河野・毛利勢力からは、来島村上氏や平岡氏ら河野氏家臣をはじめ、後から援軍として小早川隆景・吉川元春・宍戸隆家・福原貞俊といった毛利氏の錚々たる重臣層らも出陣することになりました。一方、宇都宮・一条勢力も、一条氏自身の出陣、そして伊予の中でも土佐に近い河原淵(かわらぶち)氏配下の勢力や三間衆たちの加勢が見られました。
伊予を舞台に他国の大名たちまでもがその主力を集結して対峙した、伊予でも有数の大合戦だったといえます。
鳥坂城跡
画面右下、山麓に大洲藩鳥坂番所跡があり、そこから鳥坂峰への峠道が始まります。
現在、鳥坂峠には国道56号線のトンネルが抜けていますが、宇和側出口のすぐ西に小高い丘が見えます。それが鳥坂城です。この城の麓から峠道が始まり、近世には藩境として麓に番所が置かれ、今でもその名残をとどめます。峠の頂上部にさしかかると近くには陣ケ森城があります。ここもやはり、峠の押さえとされた城でしょうし、まさに合戦の時には舞台となったはずです。この郡境となる峠の尾根(鳥坂峰)は東西に横たわっていますが、そこから東方に進むと、一条氏が陣取り鳥坂合戦の少し前に起こった高島合戦の舞台となった高島山があります。逆に西方に行くと、河野方として活躍した来島村上氏系の村上吉継が在番した正月森があります。このように、この一帯には鳥坂合戦にまつわる史跡がいくつも存在し、今はその多くが森に囲まれながらひっそりとたたずんでいます。
陣ケ森城跡
鳥坂峰の尾根上にあり、近くを峠道が通ります。