2008 年 6 月 のアーカイブ

南予の中世城跡探訪12 宇和盆地北部の領主多田宇都宮氏 ―下木城跡周辺―

6月 14日 土曜日

 中世に宇和盆地(西予市宇和町)の中枢部には西園寺氏がいて、周辺の在地領主たちがそれに従ったことはよく知られています。その宇和盆地の北端、多田地区には当時多田宇都宮氏という領主がいました。この多田宇都宮氏が本拠とした城が下木(しもき)城です。国道56号線の東多田交差点の辺りから西を見て、すぐ目の前に見える小高い丘がそうです。ほぼ独立丘陵といってもよい丘の山頂に、3段に連なった曲輪を中心として、周囲に帯曲輪を廻らせています。


  下木城跡

 多田宇都宮氏は西園寺氏と本拠が近いものの、西園寺氏と敵対するといった姿を見せる場合もあり、もしかするとある程度の独自性を持っていたのかもしれません。けれども、多田宇都宮氏に関する同時代の確実な資料はほとんど残っておらず、謎の多い領主です。
 多田地区には、西方の山際に大安楽寺という寺院があります。多田宇都宮氏の始祖とされる宇都宮永綱が創建したと伝えられ、同氏の菩提寺となっています。江戸時代には、門脇のお堂に戦国末期の当主宣綱が奉納した永綱像が安置されていたといいます。それとはおそらく別物と思われますが、現在も永綱座像が本堂内に祀られています。また、約2m50cmもの絹地を使って、紅柄(べんがら)で着色した中に月星の文様を大胆なデザインで抜いた、宣綱所用と伝わる大旗も伝来しています。
 大安楽寺の門前を少し下ると蛇骨堂(じゃこつどう)という祠があり、毎年11月下旬に「蛇骨祭」が催されます。これも永綱に関わるもので、彼が当地に移り住んだ時に、淵に住み害をなす蛇を退治したところ、蛇の霊が依然万民に害をなし、さらに風雨不順を引き起こしたため、淵を開削して池を設け、蛇を祀る祠を造ったのが大安楽寺の始まりだという伝承があり、その蛇の骨を祀る建物が蛇骨堂だといわれています。実際に蛇を退治したとは思い難いですが、蛇は古くから神の化身とされてきました。そして、古来からの土地(自然)の神である蛇と、新たな開墾者である人間との軋轢(あつれき)を題材とした伝説も昔から語られています。また、大安楽寺の裏山の沢筋はどうも土砂崩れが起こるらしく、現在ではコンクリートの防壁による治山工事がされています。このような沢筋の土石流を、中部地方の一部地域では「蛇抜け(じゃぬけ)」と呼ぶことがあります。特に水を司る蛇(竜)がもたらす災害に対し、その蛇を鎮め、ゆかりの地・物への信仰によって村の平穏などを祈る、といった伝説も各地に伝えられているようです。こうした自然開発・制御の伝承の一つとして、初代永綱に結び付けられ語られてきた蛇退治伝説を、この多田の地の「蛇骨堂」にも見ることができます。


  蛇骨祭の様子

 寺から少し東へ出ると、宣綱廟と呼ばれるお堂があり、多田宇都宮氏一族に関係する五輪塔が何基か立っています。ほとんどが近世のものと思われますが、一部古そうに見受けられるものもあります。お堂の外にも何基か石塔があり、興味深いのは宣綱の愛馬の墓と伝えられる墓石があることです。墓石自体は近世のもののようですが、まるで死後もずっと主のそばに寄り添うようで、何ともほほえましく思えてしまいます。


  宣綱廟の内部


  宣綱の愛馬の墓と伝わる墓石
  右の墓石に、「馬墓」と見えます。

愛媛の祭り17 四国中央市の太鼓台

6月 13日 金曜日

※東予地方 四国中央市(旧川之江市)

川之江では10月13~15日に各所で太鼓台が登場します。刺繍で装飾された掛け布団が特徴です。江戸時代には新居浜太鼓台にも掛け布団はあったが、次第に垂直に立てるようになり高欄幕と呼ばれるようになりました。

四国中央市の太鼓台は新居浜型とは異なり、屋根布団が七枚(新居浜型は八枚から十枚)であり、高欄の前後に掛け布団を付けるという特徴を持っています。これは香川県西部の「ちょうさ」と共通しており、県境を挟んで香川県との交流が盛んだったことを物語っています。

現在、太鼓台として最も有名なのは、新居浜市の「新居浜太鼓まつり」ですが、歴史をひもとくと、江戸時代中期に、新居浜市よりも四国中央市の方が約3~40年早く太鼓台を祭りに取り入れています。

写真でみる昭和の暮らし10 駅の貨物

6月 11日 水曜日

 民俗学者の宮本常一が、十五歳で生まれ故郷の周防大島を離れる際に、父親からはなむけに送られた十カ条の人生訓があります。その一カ条目には、汽車に乗った時のものの見方が記されています。駅の荷物置き場にはどのような荷物が置かれているのか。それを見ることで、富んでいるのか貧しいのかなど、その土地のことが理解できると説いています。村上節太郎もそれと同じような発想があったようで、繰り返し駅の貨物を撮影しています。

夏柑の積み込み(昭和32年)

 上の写真は昭和32年に、八幡浜駅での夏柑の積み込みを撮影したもの。三崎(伊方町)の夏柑は広島県の糸崎港までが海路で、それから汽車に積み替えられて東京まで運ばれていましたが、八幡浜の夏柑は八幡浜駅で直接汽車積みされて運ばれていました。写真は竹製の十貫籠を貨物車に運び込もうとしているところ。10貫は37.5キロになるので、かなりの重労働といえます。

内子駅の木炭(昭和39年)

 もう一枚の写真は、昭和39年に内子駅で撮影されたもの。炭俵をたくさん積み上げたトラックが到着し、これから貨物車に積み込もうとしています。昭和30年代、「燃料革命」により木炭や薪に代わって、電気・ガス・石油が家庭燃料の主体となったことがいわれていますが、 写真からは昭和30年代終わり頃でも、内子周辺の山村では依然としてかなりの量の木炭が生産されていたことが分かります。駅の貨物に着目することで、昭和30年代にそれぞれの土地で多彩な生業が広がっていたことに気づかされます。

愛媛の祭り16 北条のダンジリ

6月 10日 火曜日

※中予地方 松山市(旧北条市)

旧北条市国津比古命神社の秋祭り、通称「風早火事祭り」に登場します。中に鐘を吊していて、それを強く、カン・カン・カンと叩き、火事の警鐘と似ているため、そのように呼ばれます。

東予や南予地方では、ダンジリ、牛鬼といった山車が見られますが、中予地方では少ないのです。ところが、中予でも北条地方にはダンジリがあり、民俗的に今治市との共通性も見られ、中予と東予の中間地域と見ることができます。

北条ダンジリに似ているものは、今治市菊間町や今治市大浜の秋祭りに見られます。北条地域は松山市に合併しましたが、文化的にも地理的にも松山と今治の中間地点といえます。

写真でみる昭和の暮らし9 松山駅の駅弁

6月 8日 日曜日

松山駅の駅弁屋さん(昭和36年)

 現在よりものんびりとしていた鉄道の旅。その楽しみの一つに駅弁を食べることがありました。上の写真は昭和36年に鈴木弁当店を撮影したもの。松山駅で駅弁を販売する鈴木弁当店はもとは「寿々喜」の屋号の料亭でしたが、昭和13年の予讃線の松山・八幡浜の開通にともない駅弁に進出。松山駅でも販売員が箱に入れて、「べんとー、おべんとぉー」とホームを流す立ち売りが始まりました。

 松山駅における駅弁の販売から間もなく、次第に戦争が激しくなります。食材の確保も難しくなるなか、鈴木弁当店は、戦争に勝つことと松山城のある勝山とをかけあわせた「勝山蒸」を販売して乗り切りました。これは蒸かしたサツマイモだったそうで、その包紙には「代用食 勝山蒸」の名前、「金二十五銭」の値段とともに、「出征兵士を見送る歌」が印刷されていました。

 統制経済で米が自由に入手できない終戦直後にはアイスキャンディーや蒸しパンを売り、ようやく昭和30年代に入ると様々な統制もなくなり、松山駅でも様々な駅弁が販売されるようになりました。

昭和30年代駅弁屋さん

 展示室には昭和30年代の松山駅の駅弁屋さんを再現しています。ちょうどこの頃から観光旅行が盛んになり、国鉄から全国の駅弁業者に対し、郷土食の販売が要望されました。そこで祭りやお祝いごとの時に大きな竈(かまど)で炊いていた郷土食の炊き込みご飯をアレンジした「醤油飯」が昭和35年に発売され、松山駅人気の駅弁になりました。濃口醤油で炊き込み、鶏肉や松山揚げ(干し油揚げ)、コンニャク、ニンジン、ゴボウ、タケノコ、山菜などの具がたっぷりのっています。

 写真のような駅弁の立ち売りの全盛期は昭和30年代で、昭和40年代に入るとスピード化とともに駅での停車時間が短くなり、窓が開閉できない車両も登場して、昔ながらの立ち売りはついに姿を消します。現在、松山駅の駅弁は売店販売のみとなっています。

南予の中世城跡探訪11 戦国伊予有数の大合戦、鳥坂合戦の舞台 ―鳥坂城周辺―

6月 7日 土曜日

 永禄10(1567)年から翌11年にかけて、喜多郡と宇和郡の境を舞台に、河野・毛利の軍勢と、宇都宮・一条の軍勢が対峙します。いわゆる鳥坂(とさか)合戦とその前後の争乱です。河野氏と宇都宮氏の対立を発端として、10年頃から河野・毛利勢力は喜多郡に、一条氏は宇和郡に、本格的に軍勢を投入し始め、翌11年の正月頃に鳥坂峠の東方の高島、2月に鳥坂(いずれも大洲市・西予市の境界域)にて直接衝突がありました。合戦後も両軍は引き揚げることなく、毛利氏からは主力の投入、一条氏は高島陣所など拠点の依然とした確保など、緊張状態が長く継続されました。
 河野・毛利勢力からは、来島村上氏や平岡氏ら河野氏家臣をはじめ、後から援軍として小早川隆景・吉川元春・宍戸隆家・福原貞俊といった毛利氏の錚々たる重臣層らも出陣することになりました。一方、宇都宮・一条勢力も、一条氏自身の出陣、そして伊予の中でも土佐に近い河原淵(かわらぶち)氏配下の勢力や三間衆たちの加勢が見られました。
 伊予を舞台に他国の大名たちまでもがその主力を集結して対峙した、伊予でも有数の大合戦だったといえます。


  鳥坂城跡
  画面右下、山麓に大洲藩鳥坂番所跡があり、そこから鳥坂峰への峠道が始まります。

 現在、鳥坂峠には国道56号線のトンネルが抜けていますが、宇和側出口のすぐ西に小高い丘が見えます。それが鳥坂城です。この城の麓から峠道が始まり、近世には藩境として麓に番所が置かれ、今でもその名残をとどめます。峠の頂上部にさしかかると近くには陣ケ森城があります。ここもやはり、峠の押さえとされた城でしょうし、まさに合戦の時には舞台となったはずです。この郡境となる峠の尾根(鳥坂峰)は東西に横たわっていますが、そこから東方に進むと、一条氏が陣取り鳥坂合戦の少し前に起こった高島合戦の舞台となった高島山があります。逆に西方に行くと、河野方として活躍した来島村上氏系の村上吉継が在番した正月森があります。このように、この一帯には鳥坂合戦にまつわる史跡がいくつも存在し、今はその多くが森に囲まれながらひっそりとたたずんでいます。


  陣ケ森城跡
  鳥坂峰の尾根上にあり、近くを峠道が通ります。

写真でみる昭和の暮らし8 準急いよ

6月 6日 金曜日

準急いよ(昭和34年)

 「いよ」は昭和31年の改正で、高松桟橋-宇和島間に不定期準急として設定されたのが始まりで、その翌年に定期列車となりました。写真が撮影されたのは昭和34年で、当時はまだ客車を牽いていました。

 昭和33年の時刻表によると、午前5時55分高松桟橋を出発した列車は、午前9時54分に松山到着。最終駅の宇和島到着は、高松桟橋を出発して約7時間後の午後12時40分になります。昭和30年代の鉄道の旅が、今よりも随分のんびりしたものだったことが分かります。

なお、時刻表には愛媛県内の各駅の名産として、以下のものが記されています。
新居浜駅 別子饅頭(110円)、鉱石羊かん(100円)
伊予西条駅 柚子羊かん(80円)、ゆべし(30円)
壬生川駅 狸饅頭(100円)
今治駅 光饅頭(80円)、鶏卵饅頭(100円)、笠松饅頭(80円)
松山駅 五色素麺(50円)、薄墨ようかん(90円)、タルト(250円)、山里柿(200)円、唐饅頭(100円)、子規ようかん(100円)、白さぎ(100円)、姫だるま(110円)
八幡浜駅 かまぼこ(25円)
宇和島駅 唐饅頭(150円)、和霊せんべい(150円)

愛媛の祭り15 太鼓台の原型「四ツ太鼓」

6月 5日 木曜日

※南予地方 伊方町

屋根は赤紐で布団を締めています。東予の太鼓台では刺繍(ししゅう)装飾を施し、豪華な布団締めに発達させています。台に乗る子供の背中に三角布団が見えますが、太鼓台では刺繍装飾の掛け布団として発達しています。

屋根に布団を乗せた山車(だし)である布団太鼓は、江戸時代に上方で発生したもので、18世紀後半から文化、文政期頃に、現在にように布団を積み重ねた形の太鼓台が、海上交通の発達と相まって西日本各地に伝播(でんぱ)しました。

新居浜市や四国中央市の太鼓台は非常に豪華なものですが、その素朴な形の太鼓台(布団太鼓)が、瀬戸内海の島々や南予地方各地に伝わっています。

愛媛の祭り14 東北の鹿踊(ししおどり)

6月 4日 水曜日

※南予地方関連 岩手県江刺市久田

この衣装の背には「南無阿弥陀仏」と記されており、東北では供養踊りの側面があります。南予では江戸初期に宇和津彦神社の祭に鹿踊りが登場した後、各神社祭に広がったため、供養の要素は見られません。

鹿踊は約400年前に東北地方から南予地方に伝わった民俗芸能です。東北地方の鹿踊は、お盆の時期に踊ったり、お墓や位牌の前で踊ったりと、先祖供養・死者供養の役割があります。これは南予地方の鹿踊には見られない特徴です。

東北地方の鹿踊は、死者供養のためか恐ろしい顔をしています。南予の鹿踊は祝福のために踊るので、優美でやさしい顔をしていますね。

写真でみる昭和の暮らし7 肱川橋

6月 2日 月曜日

 『増補改訂大洲市誌』(大洲市誌編纂委員会・1996年)には、昭和3年と昭和31年の肱川橋付近の1日当たりの交通量が比較されています。昭和3年のデータには、歩行者1,287名、自動車81台、オートバイ6台、自転車1,312台、人力車5台、荷馬車23台、リヤカー91台とあります。それが昭和31年には、歩行者2,498名、自動車547台、オートバイ635台、自転車4,235台、荷馬車29台、リヤカー139台となります。現在ほとんど姿を消した荷馬車やリヤカーが、昭和31年に肱川橋を普通に通っていたことは驚きですが、自動車、オートバイ、自転車などの交通量が大幅に増大していることも分かります。

肱川橋(昭和28年)

 上の写真は昭和28年に撮影された肱川橋。肱川橋は大正2年に三年をかけて肱川初の近代的橋梁として完成しますが、写真を見ても幅がかなり狭かったことが分かります。橋の上部に「交通安全 人は右 車は左」の看板にも、橋が交通量の増大に対応できなくなってきていることがうかがえます。

肱川橋を走るバス(昭和36年)

 写真はさらに8年後の昭和36年に撮影されたもの。町の人々は昭和32年に肱川橋の改築促進を建設大臣に要望、翌年から県の事業として二車線の幅員への拡張工事が行われました。写真ではまさに拡張工事中の肱川橋を卯之町行きの宇和島バスが走っています。村上節太郎の写真は、時代に合わせて変化する橋の姿を見事に捉えています。