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南予の中世城跡探訪16 城川東部、北之川氏の本拠 ―甲ケ森城跡・三瀧城跡―

2008年7月26日

 西予市城川町、総合支所などが所在する下相(おりあい)地区からさらに東へ尾根を一つ越えた所に、土居・窪野地区があります。三滝川に沿った細長い谷筋で、川の上流はもはや高知県との境の山脈、まさに予土国境地域といえます。やや下流の少し開けた所が土居、上流の谷が狭まった所が窪野で、土居に甲ケ森(かぶとがもり)城跡、窪野に三瀧城跡があります。
 両城ともに、中世にこの地域を支配した北之川氏の城とされています。甲ケ森城は土居の集落を西から見下ろす小高い甲ケ森山頂を利用した城、一方の三瀧城は奥まった谷に面した比高約250mもの険しい三滝山山頂を利用した城です。


  甲ケ森城跡


  三瀧城跡

 北之川氏については、当時の信頼できる資料が皆無に等しく、その詳しい確かな動向はほとんどつかめないのが実情です。伝わるところでは、北之川氏は当初は土居に本拠を据えていましたが、戦国末期に天然の要害ともいえる三瀧城に本拠を移したともいわれています。しかしながら、「土居」の地名が館跡などを示す言葉でもあり、土居の方が土地が開け、また下流域にも出やすく地域支配には適した場所であること、一方の三瀧城は谷の奥深くに位置し、険しい山の山頂という立地であることなどから考慮して、もしかすると本来は地域支配の安定・拡大を図ってより開けた土居地域を本拠としながらも、三瀧城を予土国境の峠を睨む重要拠点として、また或いは土居を攻められた時の詰めの城として、同時並行的に重視したと理解する方が自然なのではないかと思いますが、残念ながら実際のところは定かではありません。
 これも伝承ながら、北之川氏は戦国末期(年代は諸説あり)に、土佐長宗我部氏に攻められて没落したといいます。その時に、甲ケ森城も落城したといいますが、それに直接関係するかどうかは分からないものの、甲ケ森城跡からは古銭が熱で溶けて固まった状態のものが発見されています。
 この溶けた古銭ほか、旧城川町域の歴史や文化を物語る資料は、下相地区の城川総合支所の裏にある、西予市城川歴史民俗資料館に展示されていますので、足を運んでみてはいかがでしょう。