(22)葡萄(ぶどう) -実りの秋-

染型紙 葡萄 個人蔵(西宇和郡伊方町)
葡萄は豊穣の象徴として西方より伝わり、正倉院の宝物にもその文様が見られます。
ぐんぐんと伸びる蔓(つる)とたわわに実る房が繁栄の象徴であるとともに、秋の季節を象徴する文様です。

型紙の葡萄は、じゃっかん粒がまばらなようにも見えます。
(22)葡萄(ぶどう) -実りの秋-

染型紙 葡萄 個人蔵(西宇和郡伊方町)
葡萄は豊穣の象徴として西方より伝わり、正倉院の宝物にもその文様が見られます。
ぐんぐんと伸びる蔓(つる)とたわわに実る房が繁栄の象徴であるとともに、秋の季節を象徴する文様です。

型紙の葡萄は、じゃっかん粒がまばらなようにも見えます。
(21)鉄線(てっせん)-固い結びつき-

染型紙 鉄線 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)
鉄線はクレマチスの洋名で知られており、六弁の花びら(本当はガクの部分)を風車のように広げた、気品ある夏の花です。
かたい蔓(つる)に結びつきを託して、婚礼衣装にも多く取り入れられています。

(20)梅 -けなげな生命-

松、竹、とくれば次は梅です。梅は、冬の寒さに耐えて花を咲かせる姿から生命力の象徴とされます。愛らしい花の姿や可憐な色合い、味わいのある枝ぶりや寒中に漂う薫りもあいまって古来より親しまれてきました。

染型紙 氷梅 個人蔵(西宇和郡伊方町)
氷の割れ目の間に梅花を配したこの文様を「氷梅(こおりうめ)」といい、早春を表わしています。

(19)竹 -すくすく育つ-

竹は、冬の雪にも屈せず、しなやかにまっすぐ育ち、中が空で隠すものがありません。気高いその姿が人々の心をひきつけました。

染型紙 竹 光岡染工場蔵(松山市中島町)
型紙では、画面を大胆に横切る竹の間を、雀が羽ばたく写実的な文様で表現されています。

このような躍動感あふれる絵柄は「突彫」という技法で彫られています。刀を突き刺し、少しずつ動かしながら掘り進めていく技法です。彫りぬかれた部分が多いため、「糸入れ」もされています。

※体験講座で製作したカラス型飛行器
昨日8月3日(日)に愛媛県歴史文化博物館では、体験講座「二宮忠八に挑戦!模型飛行機を作ってとばそう」を実施しました。
歴史博物館で飛行機づくり?と不思議に思われるかもしれませんが、愛媛には「飛行機の歴史」を語る上で欠くことのできない先人がいたのです。
世界で最初に、飛行機で空を飛んだ人物はアメリカのライト兄弟。1903年のことです。そのライト兄弟よりも12年早く、模型飛行器を作っていた日本人がいました。愛媛県八幡浜市出身の二宮忠八(1866年生-1936年没)です。
1891(明治24)年に二宮忠八が作った模型飛行器の名前を「カラス型飛行器」といいます。今回の体験講座では、この模型飛行器をみんなでつくりました。
なお、二宮忠八の業績は、明治時代には評価されていませんでしたが、1919(大正8)年に忠八の業績に注目した人物がいます。それは白川義則。愛媛出身の軍人で、のちの陸軍大臣です。彼が評価した後、昭和10年代には忠八は国定教科書でも取り上げられるまでになりました。(白川義則については、現在、当館で開催中の特別展「愛媛と戦争」にて紹介しています。)
※二宮忠八に関する資料(凧や模型飛行器など)は、八幡浜市民図書館2Fの「郷土資料室」に展示されています。また八幡浜市内には忠八関連の史跡も各所にあります。夏休みの自由研究で飛行機や二宮忠八をテーマとするのにおすすめです。
(愛媛県歴史文化博物館では、常設展示室にて「愛媛の民話」を紹介するビデオコーナーを設けています。このブログでは、常設展示で紹介している民話(昔話・伝説)以外にも、愛媛に伝わる昔話・伝説などの口頭伝承を紹介したいと思います。)

※笠置峠から見た宇和の風景
まだ自動車道路がない頃の話。
前は宇和海、後ろを山に囲まれた港町・八幡浜の親子が、山側の米どころ宇和盆地にある山田薬師・花祭りに行こうとして、笠置峠を登った。
花祭りでは甘酒も振舞われて、近郷近在、多くの参詣者が歩いて集まってくる。
父親は何度か行ったことがあるが、息子は花祭りが初めてで、甘茶が飲めると聞いて、とても楽しみにしていた。
峠の頂に着いた瞬間、宇和盆地の景色が目の前一面に広がった。
平地の少ない八幡浜で育った息子は「とっと、宇和はがいに広いなあ。たまげた、たまげた。」と素直に驚く。
そこで父親は真面目に答える。「坊よ。たまげたらいけん。宇和もこんだけ広いけど、日本はなあ、この三倍も大きいがやけん、よう覚えとけよ。」
息子ばかりか父親も「井の中の蛙、大海を知らず」。ただ、息子は父親の言葉を真に受けて、少しは「世間」というものを知って、ひとつ大人に近づいたような気持ちになったとさ。
※文章は、当館が平成9年に八幡浜市向灘(むかいなだ)地区で聞き取りした話をもとに再構成しています。
8月に入り、特別展「愛媛と戦争」もいよいよ中盤。今日は兵士の生活を知るための体験イベントを開催しました。名付けて「体験! 兵士の衣食住」。戦争に召集された兵士は、どんな服を着て、どんな生活をしたのか?そんな素朴な疑問に答えようというものです。
今回は14人の参加者にさまざまな体験をしていただきました。まず、当時の兵士たちが足に巻いたゲートルを巻いてみます。歩いても緩まないようにゲートルを巻くには、ちょっとしたこつがいります。ボランティアさんの手助けもあり、みんな上手にゲートルが巻けました。

次は1メートル50センチ四方の布を使って、体を休める一人用のテントを組み立てます。どうすれば小さな布で大人一人が寝るテントがたつのか、いろいろやってみます。こんな狭い空間で寝ていたなんて、ちょっと驚きます。

最後はテントに入って、非常食だった固パンを試食します。この固パンは日露戦争時、第11師団に納めていた菓子店が現在もつくっているもので、味付けは現代風になっていますが、当時の兵士が食べたものに近いものといえます。歯が折れるくらいの堅さを味わってもらいましたが、素朴な味付けで子どもたちにも好評でした。

「体験! 兵士の衣食住」は今後、8月23日(土)と8月30日(土)の午後2時から実施します。夏休みの思い出のため、夏休みの自由研究に、ぜひご参加ください。
西予市城川町の西部に魚成(うおなし)という地区があります。東西に伸びる谷に魚成川が東流し、南岸にはなだらかな段丘上に田園風景が広がります。一方、北岸は急斜面の山脈が横たわり、険しい様相を見せています。その北の山脈を越えると同市野村町の阿下(あげ)地区に入りますが、その旧町境の尾根上、南に魚成、北に阿下を望む高みに中世の山城、龍ケ森城跡があります。
龍ケ森城跡
龍ケ森城は、中世にこの魚成地域を支配した魚成氏の城です。一見すると、魚成の谷筋の北辺に位置する龍ケ森城は、支配の面で不自然な感じを受けるかもしれません。しかし、近世の地誌「宇和旧記」の記述では、魚成氏は魚成地域のほかに阿下地域の前石・釜川を知行したと伝え、さらに野村盆地を越えて西へ進んだ四郎谷の三嶋神社には、魚成氏が文明3(1471)年に大檀那になって社殿を再建した際の棟札が残っています。龍ケ森城の周辺には、魚成と阿下を結ぶ峠道も何本か通っており、南の魚成だけでなく、北から西にかけて広がる野村盆地も見据えた城であった様子がうかがえます。
龍ケ森城のほぼ真南の方角には深い谷が南へ切れ込んでおり、その奥には古刹龍澤寺があります。現在は周囲が龍澤寺緑地公園とされ、「森林浴の森日本百選」に選ばれるなどして親しまれていますが、実は鎌倉末期に開創と伝わる曹洞宗総持寺派の中本山の名刹です。開創時は、現在地よりさらに南へ山を登った頂上付近の御開山(おかいさん)に建立され、龍天寺と称していました。室町時代に現在地に移り、寺号も龍澤寺に変わりました。ここにはかつて、中世の魚成氏や魚成地域の様子を伝える「龍澤寺文書」が伝来していましたが、現在では残念ながら所在不明となっています。

龍澤寺
また、龍澤寺からから少し北へ出た段丘上の高台、谷越しで北方の尾根に龍ケ森城がよく望める場所には顕手院があります。ここは、寺伝によれば享徳元(1452)年のこと、魚成氏が龍澤寺から星文和尚を開山として招き開創した魚成氏の菩提寺です。ここには、魚成氏の活動を今に伝える貴重な資料「顕手院文書」(県指定有形文化財)が伝存しています。
顕手院