2009 年 2 月 27 日 のアーカイブ

南予の中世城跡探訪26 ―延尾城跡―

2月 27日 金曜日

 肱川下流の中ほどにある大洲市八多喜(はたき)町は、支流清永川の谷間の入口に位置し、江戸時代は肱川河岸の在郷町として賑わったといいます。そこから谷の奥へ向かうこと1kmと満たない尾根上に延尾城(のぶのおじょう、信尾城とも書く)があります。以前に紹介した祖母井城と八多喜町の谷を挟んで向い合うように位置します。中世の史料に延尾氏の存在が見えるので、ここを本拠とした領主と思われます。


  延尾城跡

 この城も、眼前にある肱川の水上交通を視野に入れた立地と推察されますが、何よりこの城が歴史上脚光を浴びるのは、城下で起こった合戦によってとなります。天正12(1584)年、土佐長宗我部氏は周辺政治情勢の変化に伴い、南予方面への軍事侵攻を開始し、破竹の勢いで一気に宇和郡を征圧し、喜多郡も北部沿岸部を残してほぼ征圧達成目前にまでいたりました。

 それに対し、迎え撃ったのは河野氏・毛利氏の連合勢力で、毛利氏から桂広信・広繁らが加勢として派遣され、反撃を開始します。しかし、肱川下流域の城が次々と長宗我部勢によって落城する中で、十一月初頭頃に延尾城も陥落することとなります。増援が必要と判断した毛利氏は、翌13(1585)年になってさらに平賀元相・木梨元恒らを派遣します。

 そして2月4日、延尾城の長宗我部氏勢力のために大津衆が来援したことで、平賀氏との間で城下において合戦が起こりました。毛利氏側は、防戦に勝利したと認識しているので、来援を返り討ちにしたのは確かでしょうが、延尾城を奪還できたかどうかははっきりしません。いずれにしても、延尾城はこの頃しばらく長宗我部氏の最前線拠点とされ、河野・毛利勢力との間で攻防が展開されるという、軍事的境界に位置する城でした。