2009 年 3 月 のアーカイブ

南予の中世城跡探訪30 ―八幡城跡―

3月 28日 土曜日

 大津城(大洲城)跡から北西を眺めると、肱川と久米川の合流点を挟んで約500mの対岸に小高い丘が見えます。ここには、八幡城という城がありました。

 永禄11(1568)年、宇都宮氏と河野氏の対立を発端に、それぞれに同盟関係にある土佐一条氏や毛利氏も巻き込んだ鳥坂合戦が起こりました。鳥坂峰での本戦で一条氏が敗退した後、宇都宮氏は徐々に河野・毛利勢に押されていきます。小早川隆景は家臣乃美宗勝へ、自らの渡海前に「両城への攻撃は我らが着陣の上で大勢で一度にすべきだ」と伝え、帰国後には「宇都宮両城を初めとして残す所なく思い通りにして帰国した」と述べています。「両城」とは、乃美宗勝が争乱のほぼ収束した頃に宇都宮勢力に宛てた文書に記す争乱の経緯の中に、「大津・八幡両城を切り崩すための支度」を様々にしたことが見え、「両城の足弱・地下人などを私財・雑具もろとも下須戒に送り出す」よう命じています。戦国末期には、大津城とともに八幡城を合わせた両城が宇都宮氏の拠点とされていたようです。
 大津城・八幡城は、ともに久米川が肱川へ注ぐ流入口の左右に並存しており、双方が河川交通をはじめとして地域支配の上で重視され、互いに補完し合う存在だったのかもしれません。


 八幡城跡(右側の丘)と大津城跡(左側)
  両城の間に久米川が流入する

 八幡城には、その名の通り旧県社の八幡神社が鎮座しています。江戸時代には、大洲城(旧大津城)を居城とした歴代藩主から、大洲領総鎮守として篤い崇敬を受けました。


 八幡神社

 また、肱川沿いに約1.5km下流へ下ると、宇都宮神社が鎮座しています。宇都宮氏が本貫地下野国(栃木県)の二荒山神社を勧請したと伝わり、そのため神社にはその由緒を描いた絵巻『日光山並当社縁起』が伝わっています。


 宇都宮神社

南予の中世城跡探訪29 ―大津城跡―

3月 25日 水曜日

 現在、大洲市の中心部には、平成16(2004)年に復元された4層天守を持つ大洲城がそびえます。大洲藩6万石加藤家13代の居城として、江戸時代には藩政の中心にありました。
 一般には江戸時代のお城として知られる大洲城ですが、実は中世から城郭が設けられていました。それが大津城で、別名地蔵嶽(じぞうがたけ)城とも称され、喜多郡一帯を支配した宇都宮氏の本拠となっていました。「大洲」は藩主加藤家入部後に改称された江戸時代以降の地名で、それ以前は「大津」の字が用いられていました。城の麓を肱川が流れ、迫り出す岩場の下に淵を作っていますが、そこには地蔵淵の名が残ります。
 肱川と久米川の合流点に位置し、周囲を河川や氾濫原に囲まれた独立丘陵で、防御性に富むとともに河川交通の統制に有利な立地で、なおかつ大洲盆地を広く見渡せるという絶好の要衝にあると言えます。


 大津城跡
  江戸時代の石垣や復元された天守がそびえます

 宇都宮氏は、下野(しもつけ、栃木県)宇都宮氏の分流で、鎌倉時代には伊予守護職や喜多郡地頭職を獲得し、室町時代に入っても幕府の要職を担うこともありました。
 戦国末期、最後の当主を豊綱といいますが、彼の時代には守護河野氏と対立し、土佐一条氏を味方に付け、大洲盆地から宇和郡境一帯にかけて大きな争乱が起こりました。永禄10~11(1567~68)年の、鳥坂合戦前後の争乱です。この時、大津城周辺は河野軍勢をはじめ、毛利氏から送られた援軍に攻め寄せられ、最終的には陥落することとなります。

 四国平定後、伊予を支配した小早川隆景は、国内の城郭の整理を始めます。その中で、とりあえず残したいと考える主要な10か所の城を示していますが、そこに大津城も含まれています。10城の内、喜多郡内の城は大津城のみなので、喜多郡支配の中心と考えていたのでしょう。大津を中心とした喜多郡の支配は、養子の秀包が担っていたようです。

 その後南予を支配する大名たちも、大津城を居城・拠点としました。戸田勝隆は居城とし、藤堂高虎も板島城(宇和島市)・河後森城(松野町)・大津城の3城を南予支配の重要拠点とし、脇坂安治も居城としました。これらの大名たちによって、大津城は近世城郭へと変貌を遂げていきました。そして、元和3(1617)年、加藤家の入部となります。

 現在も、復元天守の他に近世以来の建造物が残り、天守に連結した台所櫓や高欄櫓などは国の重要文化財に指定されています。また、周辺の旧城下町を散策すると、各所にさりげなくその名残を見つけることができます。

駕籠の運搬

3月 24日 火曜日

 新居浜市の旧家から駕籠を寄贈したいとのお話しがありました。そこで先日、早速受け取りにうかがいました。駕籠は周囲に畳表を張り巡らしたもので、土蔵の梁に吊られていました。

駕籠をおろす

 まずは、足場を組んで綱をゆるめて、駕籠を少しずつおろしていきます。ようやくおろすと、狭い土蔵の中でうまく回転させながら、ぎりぎりで外に出すことができました。

駕籠の運搬

 トラックまでは昔みたいに駕籠をかいていきます。軽い素材でつくられているので、人が乗っていないと二人でも軽々と運べます。トラックに積み込む前に点検したところ、屋根が一部破れていたり、片方の引き戸が失われたりしていますが、全体を掃除すると中に座れるようになりそうです。駕籠は今年秋の展覧会で展示する予定。どのようによみがえるかはお楽しみに。

民俗展示室2がリニューアルします。乞う!ご期待。

3月 19日 木曜日

 海のいえなど原寸大の復元家屋のある民俗展示室がこのたび一部リニューアルすることになりました。具体的には、壁面のパネルがガラッと変わります。
 詳細はリニューアル後にご報告いたしますが、今回のリニューアルで写真パネルを展示するコーナーを新設します当館所蔵の写真資料のなかでも、特に村上節太郎撮影の写真パネルは、図録だけでなく様々な企画展示やこのブログでも紹介していることもあって、お客様の人気も高く、特別利用の申し込みも多く頂いています。ですが今まで常設展示で紹介するコーナーがありませんでした。
 今回のリニューアルにより、いつご来館いただいても目にしていただけるようになります。現在その準備をしていますが、限られた展示スペースの中、資料の選定に、頭を悩ませています。なにせ、 1000枚以上ある写真パネルの中から選ぶのは十数点。しかも、一枚の写真でも「子ども」、「夏」、「宇和島」、「漁業」など、季節や地域などテーマによって見方が様々に変わるのです。例えばこの写真は昭和31年に宇和島市津島町で撮影されたもので「椋名から来る魚売り」とタイトルがついています。

椋名から来る魚売り


 この写真を展示することで「夏」の「子ども」の服装や昔の「商売」の様子、そしてなにより「津島町」の紹介となるでしょう。しかし今回、注目して頂きたいのは中央の女性が持っている棒はかりです。今のように値段シールのついた包装済みの魚をスーパーで買うのではなく、重さあたりいくらといって魚を買っていた時代、必需品なのが、このような「はかる道具」です。
 博物館でも棒はかりは収蔵していますが、実物に加えてこのような使用風景を紹介することで、より理解が深まり、身近に感じていただけるのではないかと思います。このように、見る視点によって新たな発見のある写真資料ですが、それだけ、奥が深いということで、選定作業もなかなか進みません。どんどん増えていく展示候補写真パネルは、今後展示替えをすることで紹介していけたらと思っております。 3月31日には新しい民俗展示室2をご覧いただける予定です。「おひなさま」展とあわせてぜひ愛媛県歴史文化博物館へいらしてください。

南予の中世城跡探訪28 ―日振島―

3月 13日 金曜日

 宇和海に浮かぶ日振島は、平安時代の藤原純友のゆかりの地として知られ、伝承地も残されています。島内には、城砦(じょうさい)の跡と伝わる場所もいくつかあり、明海(あこ)の港を見下ろすように「城ケ森」があり、現在は「純友公園」となって石碑も建っています。さらに奥には、「エジガモリ」と呼ばれる純友時代に見張場だったと言われる場所もあります。喜路(きろ)の港のそばには「寺山」と呼ばれる場所があり、これも見張場だったと言われます。これらが本当に純友時代からの城砦跡かどうかははっきりしませんが、日振島は純友以降も長い歴史を積み重ねたことは言うまでもなく、戦国時代になってもその立地から重要視されたと考えられ、城砦についてもおそらく様々に利用され続け、役割を担い続けたものと推察されます。 


  城ケ森(現在、純友公園)


  エジガモリ

 日振島は、伊予とはいいながら宇和海の中心に位置し、伊予と豊後の中間にあります。また、西南四国から瀬戸内海へ抜ける佐多岬豊後水道へ向かう経路上にあり、土佐西南部と豊後中心部(府内周辺)とを結ぶ中間にも位置しており、宇和海上で九四間を往来する際、要の場所と言えます。


  九州(大分)が遠望できる

 天正4(1576)年には、四国本土の法華津湾を本拠とする法華津氏が、日振島の者達へ海上交通・流通などに関する掟を出しますが、これは宇和海の水運を担う領主が日振島を影響下に置き、宇和海の交通・流通に関与していたことを示します。また、豊後からの襲撃を受けることもあり、天正7(1579)年には豊後大友氏の水軍若林氏が来襲しました。天正14(1586)年の九州平定では、戸次川合戦で島津勢に敗れた長宗我部元親がひとまず退却したのが日振島だと言われ、隣の戸島は長宗我部氏に土佐を追われ豊後大友氏を頼った一条兼定が晩年滞在し、亡くなった島と言われています。
 こうした、宇和海交通の交差点ともいえる日振島、そこでは海上交通・流通の統制拠点、あるいは係争時の防衛拠点として城砦が必要とされたはずです。それこそが、港を見下ろすように存在し、今では純友伝承地とされている城砦たちだったに違いないでしょう。

早変わり

3月 11日 水曜日

昭和初期の台所

 先日の休館日、常設展示の保守点検が行われました。大きな点検は毎年2回行われ、オープンになっている模型の清掃や破損物の取り替え、映像機器の調整、高所ライトの玉切れ交換などが行われています。

 また、昭和の展示コーナーでは、女の子の部屋から昭和初期の台所へ早変わり。休館日を利用して、少しずつ展示も変わっています。

南予の中世城跡探訪27 ―水上城跡―

3月 6日 金曜日

 道後平野から伊予灘沿いに伸びる夕焼け小焼けライン(国道378号)は、広がる海を眺めながら走れる道路として、また美しい夕焼けの見られるスポットとして休日には多くのドライバーやライダーで賑わいます。佐田岬半島の付け根に当たる瞽女峠にトンネルが抜けて以来、メロディーラインに直結するようになったため、さらに便利になっています。

 上灘・下灘・長浜を抜けてさらにしばらく行くと、点在する小さな入り江の集落の一つに出海(いずみ)地区が現れます。その西端で海に突き出るように伸びた尾根先に、水上城跡はあります。この地域は、出海氏(本名兵藤)が支配する所で、その本拠がこの水上城でした。


  水上城跡 左側の麓が出海地区

 南予は平野の少ない山がちな地形のため、今でこそ道路や鉄道で便利になっていますが、近代以前は陸路より海路が主要な交通手段であったはずです。道後平野から喜多郡や宇和郡へ向かうには、まず伊予灘沿岸を下っていくことになり、途中で点在する集落に寄港することになります。そして、佐田岬の先には九州もあります。

 戦国時代末期、宇和の西園寺氏の一族で、現在の宇和島市中心地域を支配した来村西園寺宣久は、伊勢神宮参拝の帰り道、この出海を経由しています。芸予諸島を過ぎた一行は、堀江(松山市)などを経由しながら出海に着津し、宇和西園寺氏のもとに立ち寄り、帰還しています。ここが一行の上陸地点であったと推察できます。

 伊予灘沿岸の海上交通や、麓の寄港地を管理する役割を担った城の一つといえるでしょう。