宇和海に浮かぶ日振島は、平安時代の藤原純友のゆかりの地として知られ、伝承地も残されています。島内には、城砦(じょうさい)の跡と伝わる場所もいくつかあり、明海(あこ)の港を見下ろすように「城ケ森」があり、現在は「純友公園」となって石碑も建っています。さらに奥には、「エジガモリ」と呼ばれる純友時代に見張場だったと言われる場所もあります。喜路(きろ)の港のそばには「寺山」と呼ばれる場所があり、これも見張場だったと言われます。これらが本当に純友時代からの城砦跡かどうかははっきりしませんが、日振島は純友以降も長い歴史を積み重ねたことは言うまでもなく、戦国時代になってもその立地から重要視されたと考えられ、城砦についてもおそらく様々に利用され続け、役割を担い続けたものと推察されます。
城ケ森(現在、純友公園)
エジガモリ
日振島は、伊予とはいいながら宇和海の中心に位置し、伊予と豊後の中間にあります。また、西南四国から瀬戸内海へ抜ける佐多岬豊後水道へ向かう経路上にあり、土佐西南部と豊後中心部(府内周辺)とを結ぶ中間にも位置しており、宇和海上で九四間を往来する際、要の場所と言えます。
九州(大分)が遠望できる
天正4(1576)年には、四国本土の法華津湾を本拠とする法華津氏が、日振島の者達へ海上交通・流通などに関する掟を出しますが、これは宇和海の水運を担う領主が日振島を影響下に置き、宇和海の交通・流通に関与していたことを示します。また、豊後からの襲撃を受けることもあり、天正7(1579)年には豊後大友氏の水軍若林氏が来襲しました。天正14(1586)年の九州平定では、戸次川合戦で島津勢に敗れた長宗我部元親がひとまず退却したのが日振島だと言われ、隣の戸島は長宗我部氏に土佐を追われ豊後大友氏を頼った一条兼定が晩年滞在し、亡くなった島と言われています。
こうした、宇和海交通の交差点ともいえる日振島、そこでは海上交通・流通の統制拠点、あるいは係争時の防衛拠点として城砦が必要とされたはずです。それこそが、港を見下ろすように存在し、今では純友伝承地とされている城砦たちだったに違いないでしょう。