現在、大洲市の中心部には、平成16(2004)年に復元された4層天守を持つ大洲城がそびえます。大洲藩6万石加藤家13代の居城として、江戸時代には藩政の中心にありました。
一般には江戸時代のお城として知られる大洲城ですが、実は中世から城郭が設けられていました。それが大津城で、別名地蔵嶽(じぞうがたけ)城とも称され、喜多郡一帯を支配した宇都宮氏の本拠となっていました。「大洲」は藩主加藤家入部後に改称された江戸時代以降の地名で、それ以前は「大津」の字が用いられていました。城の麓を肱川が流れ、迫り出す岩場の下に淵を作っていますが、そこには地蔵淵の名が残ります。
肱川と久米川の合流点に位置し、周囲を河川や氾濫原に囲まれた独立丘陵で、防御性に富むとともに河川交通の統制に有利な立地で、なおかつ大洲盆地を広く見渡せるという絶好の要衝にあると言えます。
大津城跡
江戸時代の石垣や復元された天守がそびえます
宇都宮氏は、下野(しもつけ、栃木県)宇都宮氏の分流で、鎌倉時代には伊予守護職や喜多郡地頭職を獲得し、室町時代に入っても幕府の要職を担うこともありました。
戦国末期、最後の当主を豊綱といいますが、彼の時代には守護河野氏と対立し、土佐一条氏を味方に付け、大洲盆地から宇和郡境一帯にかけて大きな争乱が起こりました。永禄10~11(1567~68)年の、鳥坂合戦前後の争乱です。この時、大津城周辺は河野軍勢をはじめ、毛利氏から送られた援軍に攻め寄せられ、最終的には陥落することとなります。
四国平定後、伊予を支配した小早川隆景は、国内の城郭の整理を始めます。その中で、とりあえず残したいと考える主要な10か所の城を示していますが、そこに大津城も含まれています。10城の内、喜多郡内の城は大津城のみなので、喜多郡支配の中心と考えていたのでしょう。大津を中心とした喜多郡の支配は、養子の秀包が担っていたようです。
その後南予を支配する大名たちも、大津城を居城・拠点としました。戸田勝隆は居城とし、藤堂高虎も板島城(宇和島市)・河後森城(松野町)・大津城の3城を南予支配の重要拠点とし、脇坂安治も居城としました。これらの大名たちによって、大津城は近世城郭へと変貌を遂げていきました。そして、元和3(1617)年、加藤家の入部となります。
現在も、復元天守の他に近世以来の建造物が残り、天守に連結した台所櫓や高欄櫓などは国の重要文化財に指定されています。また、周辺の旧城下町を散策すると、各所にさりげなくその名残を見つけることができます。