明治11年4月10日~5月29日まで、松山城で物産博覧会が開かれました。松山城は、明治6年に廃城とされましたが、愛媛県の請願により、翌年に公園とすることを認められました。博覧会の様子を当時の新聞記事から紹介しましょう。
富国強兵、殖産興業をスロ-ガンとする明治政府は、明治10年に東京上野で内国博覧会を開催しました。その後も地方での博覧会開催に力を入れました。松山で開催された物産博覧会は、出品点数約4,200点。4月25日には、西南戦争で政府軍として熊本城を死守した陸軍少将谷干城も立ち寄っています。その後も追加品が加わりました。その一つが名古屋城の金鯱(きんしゃち)です。大分県での博覧会後、愛媛県での展示となったため、開幕には間に合わなかったのです。5月4日に三津浜より金鯱が松山公園に引き揚げられました。松山博覧会社と書かれた幟を先頭に、大きな車に金鯱をのせて牛三頭に引かせました。賑やかな行列だったようです。人出も4月25日980人、26日960人、28日1,310人、5月5日1,753人、6日1,567人、21日2,398人、22日3,138人と、後半の集客が目立ちます。
こうした博覧会の光の部分とは対照的に、陰の部分もありました。それは「蝦夷人種の生き人形」です。生身のアイヌ人たちを見せ物にしたのです。まさに人間展示です。こうした背景には、植民地主義や人種差別といった様々な問題意識が存在しています。万国博覧会でも1889年のパリ万博から人間展示が始まっています。近年、博覧会をテ-マにした研究が多いのも、博覧会に内包された歴史的課題の存在にあります。
最後に、明治10年、つまり松山公園物産博覧会の前年に撮影された松山城本丸の写真を紹介しましょう。本資料には裏書きに「明治十年松山ノ写真師桂城思風君撮影セリ 小林守門 印」とあります。イギリスのケンブリッジ大学に、明治16年に松山城本丸を撮影した写真が存在しますが、それをさらに遡る最古級の松山城本丸写真と言えます。開園当初の公園の様子、博覧会前年の公園の様子を知ることができ、近代における松山城の変遷を知る上で、大変貴重な資料です。なお、本資料は現在常設展示しています。

「伊予勝山城」(当館蔵)